Яoom ИumbeR_55

Яoom ИumbeR_55は「男性→女性への腹パンチ」を主に扱う小説サークルです。未成年の方、現実とフィクションの区別のつかない方は閲覧しないでください。

NOIZ立ち絵2 2

スノウ立ち絵 2

朝比奈のコピー



 スノウが短い悲鳴を上げた。
 ただならぬ気配を感じて、男性戦闘員がお互いの顔を見合わせ、若年の男性戦闘員が気が触れたように叫んだ。縦に裂けた瞳孔の赤い瞳が激しく動揺している。
「落ち着け!」と、年上の方の男性戦闘員が宥めたが、パニックは収まらなかった。頭を掻きむしり、訳のわからないことを言いながら地団駄を踏んでいる。綾が素早くパニックを起こした戦闘員に近づき、「ごめんなさい」と言いながら腹部に強烈な突きを放った。男性戦闘員の体が地面に崩れ落ちる。
「彼ら二人がここに来ると、ノイズ様は事前に私に申されました」と豚が両手を組み、まるで神に祈るような仕草で言った。「この状況で『最も役に立たない人員』だからだそうです。おそらくあなた達はノイズ様がアンチレジストの本部に姿を現し、我々人妖が直接出向いて宣戦布告したので、本部は放棄せざるを得なくなったのでしょう? 新設の本部へ人員やデータの移行も速やかかつ確実に行わなければならない。しかし朝比奈ちゃんは連れ去られた。幸い我々の車に発信機を取り付けることに成功し、居場所は掴んでいる。だが優先度は本部移転の方が高いため、我々の追跡に割ける人員は限られる。ならば一部の精鋭と、失礼ながら戦闘しか出来ることの無い人員を派遣する方法が一番効率が良い……と、ノイズ様はおっしゃられました。ノイズ様がアンチレジストの人員リストを見て、そちらのお二人に白羽の矢を立てたのです。私は事前に部下に命じて、そちらのお二人にウイスキーを一杯ご馳走して差し上げました。喜んで飲まれていましたよ、『蜜』入りのレイズモルトを。これで我々の行いがハッタリではないとご理解いただけたと思います」
「下がっていろ。大丈夫だ」と、美樹が振り返って男性戦闘員に言った。男性戦闘員は頷き、失神している仲間に肩を貸して後ずさる。
「ほら、それですよそれ。あなたがここに来た理由です」と、豚が男性戦闘員を指さした。「その立場で、あなたはなぜ満足しているのです? 十歳以上も歳が離れている娘に命令されて、なぜ何の疑問も抱いていないのです? あなたはノイズ様のお導きによって生まれ変わったのです。人妖の強靭さはよくご存知でしょう。あなたがその気になれば、そちらのセーラー服や巫女装束を着た上級戦闘員の方々を栄養源にすることも可能なのです。栄養源の意味はもちろんお分かりでしょう? いやはや、アンチレジストの上級戦闘員様は美人揃いでうらやましい……。あなた方は仲間です。後ほどこちらから連絡しましょう」
 綾が男性戦闘員の肩にそっと触れながら、「落ち着いて。大丈夫よ」と諭した。男性戦闘員は目を泳がせたまま頷いた。
 美樹が鋭く息を吐き、豚に向かって駆けた。
 駆けながら太腿のバンドに取り付けた樹脂製のトンファーを抜き取り、回転させながら豚のスキンヘッドに向かって打ち落とす。豚はためらうことなく腕でトンファーを受け止めた。人間であれば骨折してもおかしくない衝撃であったが、豚はまだ笑みを浮かべている。豚が美樹を蹴飛ばし、美樹の身体が後方に吹っ飛ぶ。美樹の背後からスノウが飛び上がった。スノウは空中で前転し、豚の頭に踵落としを放つ。豚はスノウの足首を掴むようにして受け止めた。
「なんだスノウちゃんも悪い子だったのかい? 朝比奈ちゃんと同じように教育してあげなきゃいけないねぇ……」
 豚はスノウの身体を引きつけ、腹部に鈍器のような拳をめり込ませた。スノウの身体がくの字に折れる。華奢な腹部は豚の脂肪で膨らんだ拳に全体を潰され、内臓の位置が変わるほどの衝撃がスノウの身体を駆け巡った。
「ゔぶぇぁッ?!」
 おそらく人生で初めて腹を殴られたのだろう。スノウのいつもの自信ありげな表情が崩れ、苦悶に歪む。
「ぐぷッ……!」
 豚の放った拳のダメージは凄まじく、スノウは白目を剥き、唾液が口から弧を描いて吹き出した。スノウは受け身も取れずに地面に落下し、腹を抱くように抑えながら亀のように丸まった。
「わかったかなスノウちゃん。大人に逆らうとどうなるか」
 涙目になり、口から唾液を垂らしながらもスノウは豚を睨んだ。
 綾も豚に向かって駆けた。
「……ババァどもめ」と、豚が誰にも聞こえないような声量でつぶやいた。邪魔をするババア共には興味は無い。腹でも殴って気絶させてから、スノウちゃんだけを連れてアジトに帰ればいい、と考えた。
 突然、豚の視界が激しく揺れた。まるで後頭部を木製バットで思い切り振り抜かれたような衝撃だった。
 視界の隅に、グレーと白の戦闘服が見えた。
「……朝比奈……ちゃん?」
 豚が驚愕の表情を覗かせた。視界の隅で朝比奈と目が合った。朝比奈は豚の後頭部を膝で打ち抜いた姿勢のまま険しい表情で豚を睨んでいる。戦闘服は所々破れ、身体のあちこちに殴られた痕が見えたが、表情には強い意志が見て取れる。はっとして豚が正面を向いた。綾が雄叫びをあげながら、レザーグローブに包まれている拳を繰り出した瞬間だった。
 首が折れるほどの衝撃が豚を襲った。
 スローモーションで見たら豚の顔面は激しく歪んでいただろう。それほどの衝撃で綾の拳は豚の頬を撃ち抜いた。弾き飛ばされた豚は転がるようにしてバルクコンテナに突っ込んで行き、破裂したコンテナから大量のウイスキーが漏れ出した。鼻を突くアルコールの臭いが倉庫内に充満する。
 綾が構えを解き、フッと鋭く息を吐くと、朝比奈の元に駆け寄った。
「朝比奈ちゃん?! 大丈夫なの?」と、綾が朝比奈の肩を抱きながら言った。
「大丈夫です。こう見えても一般戦闘員の中ではランクは上の方なんです……。あの太った男の部下はそこまで強くはなかったので、不意打ちで隙を作って脱出しました。本来であればあの男の部下を制圧しなければならなかったのですが、おそらく皆さんに対して罠を貼っているだろうと思い、ここに戻ってきました」
 朝比奈はダメージがかなり残っている様子だったが、綾に対して気丈にも笑顔を作って敬礼した。綾は小さな朝比奈の身体を抱きしめてやりたい衝動に駆られたが、今は豚に追撃することが優先だ。綾は豚が突っ込んだコンテナのあたりを調べた。豚の姿は見えなかった。どこかに隠れているのだろうか。それとも逃げ出したのか。
 美樹が綾を呼んだ。スノウを背負っている。意識はあるが、ダメージが重く動けないようだ。
「今は撤収しよう。街の様子も気になる」と、美樹が言った。そのまま朝比奈に身長を合わせて「あの状況でよく頑張ったな。偉いぞ」と真剣な顔で言った。朝比奈は歯を見せずに笑い、美樹にも敬礼を返した。
 ふと、男性戦闘員の姿が見えないことに気がついた。
 一人は失神していたはずだ。
 倉庫の外に出ると、男性戦闘員の乗ってきた車も消えていた。「愚かな……」と、美樹が小声でつぶやいた。おそらく戻っては来ないだろう、と残された美樹達は思った。「あなた達は仲間です」という豚の言葉を間に受け、連絡を待つつもりなのかもしれない。
 四人で輸送車に乗り込み、美樹が朝比奈にチャームの解毒薬と回復薬を注射した。スノウが簡易ベッドに横になりながら「あんた……すごいわね……」と朝比奈に言った。自動操縦をアンチレジストの本部に設定する。おそらく鷺沢はまだ残っているはずだ。雨のカーテンの中、車は静かに走り出した。


 三神の視界の先、赤い絨毯が敷かれた部屋の奥の暗がりから、笑みを浮かべたノイズがスポットライトの下に歩いていきた。ぬめるような黒いドレスに深紅のジャケット。所々に赤い毛がまだらに混ざった長い金髪。年齢は若そうだが、誰も逆らえないような雰囲気を纏っている。
「ご苦労様でした」と言って、ノイズは一秒間に一回というゆっくりとしたテンポで手を叩いた。
 黒いレースの手袋をしているので、音は響かない。
「光栄です」と言って、三神が軽く頭を下げた。そして見ないフリをしながら、ノイズの大きく開いたドレスの胸元を盗み見た。
 この人からの融資を受けて半年以上が経つが、実際に顔を合わせたのはつい先日のことだ。そして初対面の時、三神はその若さと美貌に驚いたものだ。
 半年前、レイズ社の口座に突然見たこともないような大金が振り込まれた。そして三神が融資に気がついて困惑したまさにその時、まるで見ているかのようにノイズから電話がかかってきた。
 電話口でノイズは、自分の指示に従うのであれば今後も融資を続ける、断れば融資はこの一回のみで今後連絡はしないと告げた。そして自分の指示に従えばレイズ社と三神自身をすぐにでも世界的なブランドにしてやるとも告げた。
 正直に言って気味が悪かった。
 しかし当時のレイズ社は背に腹は変えられない状況だった。
 レイズ社は粗悪な海外ウイスキーを日本的な名前を付けて主にアジア向けに販売している零細企業に過ぎず、ウイスキー愛好家からはレイズ社にも三神自身にも白い目を向けられている状況だった。ブランド価値など無いに等しく、銀行からの融資もいつ打ち切られてもおかしくない経営状態で、まさに綱渡りの状態だった。ノイズからの融資は喉から手が出るほどの魅力があり、それに加えて功名心の高い三神にとって「世界的なブランド」という言葉の響きは抗い難い効果があった。
 三神はノイズの申し出を了承すると、翌日には豚のような見た目の男(その男は自分のことを「豚」と呼べと言ってきた)が秘書として派遣された。そして豚が抱えてきたアタッシュケースの中身をウイスキーに混ぜろを言ってきたのだ。アタッシュケースの中身は試験管に入った得体の知れない薬液だった。白濁したものと透明なものの二種類があり、いずれも無臭で粘性があった。毒ではないと豚は言ったが、詳細を聞いてもはぐらかされるだけだった。ノイズの融資を受け入れた時点で三神に拒否権は無い。三神は郊外に構えたレイズ社の小さな瓶詰め工場で、自らの手で試験管の薬液をタンクの中に入れ、数千本のウイスキーをボトリングした。豚はプロモーションはお任せくださいと言い、ボトリングしたうちのかなりの数をバーや飲食店に無償で配った。あんな気持ち悪い男が持ってきた悪名高いレイズモルトなど誰も見向きもしまいと三神は心の中で思っていたが、しかし程なくしてサンプルを配った店から捌き切れないほどの注文が舞い込んできた。無償でサンプルを飲んだ客が翌日の開店直後に店に現れて、また飲みたいからすぐにボトルを入れろと言ってきたらしい。中身は従来と同じく粗悪な海外原酒のブレンドなので、明らかに異様な事態だった。アタッシュケースに入っていた薬液の効果であることは三神もすぐに察した。しかし一度勢いがついた人気は止まらず、レイズモルトは噂が噂を呼び、すぐさまボトルの奪い合いやプレミア価格での転売が起きるほどの爆発的人気銘柄となり、三神はたちまちクラフトウイスキーの寵児として祭り上げられた。
 多くの取材依頼が舞い込んだ。いずれも肯定的なものであり、中にはウイスキーとは関係ない三神自身の生活ぶりや人となり、ビジネス成功論やカリスマ性についての取材もあった。
 三神は高揚感に包まれていった。
 もともと容姿には自信がある方だし、思わせぶりな台詞を吐くことにも慣れていた。メディアへの露出も増え、三神自身を特集するテレビ番組や雑誌も日に日に増えた。レイズモルトも薬液を混ぜなくても売れるようになり、有名無名に関わらず苦労して飲んだ連中が「日本の繊細な風土が育んだ、これぞモノづくり大国日本を象徴するジャパニーズクラフトウイスキー」などと的外れな盲目的絶賛をする様子も滑稽で楽しかった。ようやくここまで登り詰めたか、と三神自身感じていた。ノイズからの指示に従っていれば、これからも自分は安泰なのだろう。
 だから今日の中継も、三神は承諾した。
 人妖という生物については当日聞かされ、人妖になる薬というものも先ほど飲んだばかりだ(無味無臭のとろりとした液体だった)。
 この中継で自分の信用はおそらく無くなるかも知れないが、このノイズという女がいれば大丈夫だ。
「あなたのおかげです」と、三神は左胸に手を当てたまま絨毯に片膝をついた。求婚するような仕草だった。
 ノイズは三神の顔を両手で挟み、首を傾げるようにして三神の瞳を覗き込んだ。エメラルドのような瞳に吸い込まれそうだ。ノイズは三神の目を見ると、満足げに口角を吊り上げた。
「ちゃんと変化しています。痛くなかったでしょう?」と、ノイズが蠱惑的な響きのある声で言った。三神は窓際に移動し、ガラスに自分の顔を写した。茶色だった瞳が、鮮血のような色に変化していた。
「おお……これが人妖! 人間を超越した存在!」
 三神の高笑いが響いた。
「これでようやく、あなたに見合う存在になれましたな」と、三神がスーツの襟を直しながら言った。ノイズはわずかに口角を上げたまま、首を傾げた。「あなたのお力添えのおかげで、十分な地位が築けました。もはや私は時代の寵児であり、今や人間という存在すら超越した。これからも良きパートナーとして、二人で歩んで行きましょう」
「……何を言っているんです?」と、ノイズが嘲笑するような口調で言った。「あなたの役目はこれで終わりです。あとは好きにしていただいて構いません。今後二度と会うこともないでしょう」
 三神の顔から表情が消えた。
「な……ちょっと待ってください……。私は十分な地位に上り詰めました。あなたのお力添えで、レイズモルトも私自身も、今や世間の耳目を集めるブランドです。あなたに相応しいパートナーとして、これ以上の男はいませんよ」
「お気持ちは嬉しいのですが、私には心に決めた人がいるので」と、ノイズは笑いながら背を向けた。赤いジャケットが翻り、三神を馬鹿にするように裾がはためいた。そして顔だけをこちらに向けた。緑と赤の混ざった目がやけに光って見えた。「あなたは私の期待に応えてくれました。私の狙い通り、あなたは一般人よりも少しだけ有名になり、あなたの作るウイスキーは人気になった。そして『ちょうど良い範囲に』薬剤をばら撒く良い道具になった。ありがとうございます。お礼として人妖にして差し上げましたので、あとは整形で顔を変えて自由に暮らしてください。おそらく世界中に指名手配されるでしょうから、顔は全く別物にしたほうがよろしいかと思います。たとえばあなたの秘書の豚さんのような顔に」
 クスクスと笑うノイズに、三神が「……おい、ちょっと待てよ」と低い声で言った。眉間にシワが何本も走っている。
「ふざけんなよ! 利用するだけ利用して、後は好きにしろってどう言うことだよ!?」
 三神が椅子を蹴り、撮影用のカメラを蹴飛ばした。
「まぁ、利用したなんて人聞きの悪い。あなたの無為な人生に意味を与えて差し上げたのに。あなたも状況を楽しんでいたでしょう?」と、ノイズが首を傾げて小指を舐めながら、トロリとした口調で言った。「あのまま後ろ指を刺される人生の方が、もしかしてお好みでしたか? 余計なことをして申し訳ありません」
「……人妖ってのは身体能力も人間より数段上なんだよな?」と、三神が地鳴りのようなドスの効いた声で言った。「お高く止まってんじゃねぇぞクソアマ! 下品な身体見せびらかせやがって……ブチ込んで泣き喚かせてやるよ!」
 三神がノイズに飛びかかった。
 それは三神の人生において最も愚かな行為だった。
 ノイズは「くふっ」と笑うと、一瞬で三神の前から消えた。次の瞬間、ノイズは丁寧にセットされている三神の髪の毛を掴み、一ミリの躊躇いも無く三神の顔面が陥没するほどの勢いで膝を打ち込んだ。「ぶぎゃ!」という間抜け悲鳴が響き、ぐちゃっという音と共に三神の高い鼻が埋没した。白いスーツは赤いペンキをぶちまけたように真っ赤になり、三神は絨毯の上でのたうち回った。ノイズは三神の身体を蹴飛ばして仰向けにさせると、口の端を吊り上げながら靴のヒールを三神の右の眼窩に突き刺した。卵が潰れるような音の後に、地獄のような悲鳴が室内を震わせた。
「まぁ、大丈夫ですか? 正当防衛とはいえ、ここまで大袈裟に痛がられると気の毒に感じてしまいます……」
 眼窩に押し込んだヒールをグリグリとねじりながら、ノイズは他人事のように心配そうな声を出した。
 悲鳴を上げ続ける三神の顔面を踏み続けながら、ノイズは好みの音楽を探すようにスマートフォンを弄った。やがてスピーカーから音楽が流れ始めた。先ほど三神が流した音楽とは違うが、やはり機械的なノイズが所々に混ざっている。
 三神の身体が大きく痙攣した。
 腹部や頭部が膨張し、スーツのボタンが弾け飛ぶ。
「整形手術の手間が省けましたねぇ……」と、ノイズがクスクスと笑いながら言った。悲鳴を上げ続ける三神に背を向け、まるで最初からそこにいなかったかのように、音もなく部屋から去った。



[ NOIZ ] 前編は以上になります。次章更新までは今しばらくお待ちください。
次週からは以前ウニコーンさんに依頼いただいて執筆した[ WISH ]の続きを投稿します。

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 雨が降っていた。
 強くはないが、霧のように体にまとわりつく、嫌な雨だった。
 綾と美樹、そしてスノウは戦闘員用の輸送車に乗り込んだ。先に出発した車には男性の一般戦闘員が二人が乗りこんだらしい。アンチレジストの人員の大部分は早急な本部機能の移転のために残らざるを得ず、朝比奈救出は必要最低限の五人で赴くことになった。鷺沢も朝比奈救出には多くの人員を投入したかったが、いつ本部が襲われるかわからないための苦肉の人員配置だ。
 豚の車に取り付けた発信器は、港湾倉庫の一角で止まったまま信号を送り続けていた。輸送車はその信号を追い、自動運転で目的地まで向かう。内部はスポーツ選手の控え室のようになっていて、ストレッチやウォーミングアップをするのに十分は広さがあった。精密機械用のサスペンションが組み込まれていて、車が発進してもほとんど振動を感じない。綾と美樹、そしてスノウは思い思いにウォーミングアップを済ませると、向かい合ってベンチに座った。三人とも無言のまま、綾は麻酔薬を吸引し、美樹は小さな嵌め込み式の窓を見ていた。窓についた水滴が音も無く後方に流れていった。
「お姉様を嫌いにならないで……」と、スノウが飲みかけのペットボトルを見つめながらポツリと言った。綾と美樹は黙って話の続きを待った。
 綾や美樹が知っているシオンこそが、本当のシオンなのだとスノウは言った。シオンにノイズのような存在への変身願望は無く、そもそも自分の中にノイズという人格が存在していることすらシオンは知らないのだ。ロシアを離れて日本に移住したのも、あえて高等教育に飛び級しなかったのも、違う世界で新しい友人を作って見聞を広めた方がいいという家族のアドバイスにシオン自身が納得してのことだった。決して騙していたわけではなかったのだとスノウは言った。
「そんなの今さら言われなくても大丈夫よ」と、綾が背もたれに身体を預けながら言った。「私はこのままシオンさんと二度と会えないなんて絶対に嫌。たとえ任務を受けなくても勝手に動くつもりだったんだから。私も美樹さんも、組織や任務に関係なくシオンさんは大切な友達なの。友達を助けに行くのは当たり前でしょ」
 美樹が頷いた。「全部収まったら、みんなでシオンの家に泊まるか。あいつが料理を作り始める前にケータリングを取ってな」
「それはマストですね」と言って綾が笑った。「もちろんスノウも来なきゃダメだからね。シオンさんが料理作りそうになったらちゃんと止めてよ」
 綾がウインクして、スノウが少しだけ笑って頷いだ。
「しかし、気になるのはノイズの目的だ」と言いながら、美樹が体を屈めて膝の上で手を組んだ。「あの豚野郎の言った言葉が全て本当だとして、それでノイズに何の得があるんだ? 人妖に肩入れする理由がまるでわからない」
「人間を人妖にする方法を確立した……って言ってましたよね」と、綾が言った。「まさか……ノイズ自身が人妖になるつもりなんじゃ」
「それならシオンまで人妖になってしまうな……」
「冗談じゃない」と、スノウが首を振りながら言った。「ただ、私にもノイズの目的がわからないの……。子供の頃にノイズは『私の生まれた理由はシオンの罪を被って、シオンを「良い子」にし続けることだ』って言っていたけれど、人妖とは何の関係も無いし」
「『良い子』と『悪い子』なんて、そう簡単に線引きできるものじゃないんだけどね……」と言って、綾が天井を向いてため息を吐いた。「目的が何にせよ、ノイズを止めるしかないか……」

 輸送車は港湾エリアの奥の小さな倉庫で停まった。
 先に到着した男性戦闘員の二人は入り口に放置された二台の車を調べていた。二十代半ばと、三十代前半の一般戦闘員だ。
「車内に人影はありません。やはり、倉庫の中かと」
 年上の男性戦闘員がスノウたちに駆け寄り、敬礼しながら報告した。
「何かあればすぐに逃げろ。先頭は私が行く」と言って、美樹はタバコに火を付けて鋭く煙を吐いた。綾もグローブを締め直している。
 五人はスノウを真ん中にして倉庫に入った。倉庫内は煌々と照明が点いていて、一メートル四方のポリタンクが山積みになっていた。ポリタンクはケージに入れられ、下部にはコックの付いたキャップがついている。中身は液体のようだ。
「液体輸送用のバルクコンテナだわ」と、スノウが周囲を見回しながら言った。「この匂い……中身は海外から輸入したウイスキーでしょうね。一箱だいたい千リットル。おそらくここは、レイズ社の原酒保管庫でしょうね」
 正解でございます、と言う声がコンテナの奥から聞こえた。
 全員が身構える。
 コンテナの影から、豚がのっそりと姿を表した。
 相変わらず媚びるような笑みを浮かべたまま、両手を胸の前で擦り合わせている。
「おやおや! これはこれは!」
 豚が素っ頓狂な声を上げて、わざとらしく仰け反った。
「いったいどうされたんですかスノウさん! そんな水着みたいな格好をされて。目のやり場に困ってしまいますよ」
「うるさい! この変態!」
 スノウが豚を睨みながら指を差した。「あんたと話すつもりはないのよ。痛い目に遭いたくなかったら、さっさと朝比奈を解放することね。その後にノイズのいる場所に案内してもらうわ」
「残念ながら、どちらも不可能でございます」と、豚が眉をハの字にして言った。「ここに残っているのは私一人だけでございます。朝比奈ちゃんはすでに私の部下が別の場所に移送しておりますし、ノイズ様の居場所は私にもわかりません。あのお方からは的確な時に的確な指示をいただけるのみで、どこにいらっしゃるのか全くわからないのです。我々の前に姿を現されるのはそれが必要な時のみで、ほとんどは電話で一方的に指示をいただくだけでございます。電話番号も毎回変わりますので、こちらから連絡を取ることも出来ません」
「それならなぜ貴様はここに残ったんだ? この人数差だ。抵抗しても勝ち目は無いぞ」
 美樹が冷たい目で豚を睨み、タバコを地面に捨ててブーツの底で踏んだ。
「それはもう本日が特別な日になるからでございます。我々がようやく日の目を見るのです。こうして特等席にアンチレジストの上級戦闘員様をご招待したのに、対応を部下に任せて万が一粗相があってはいけませんので、私が直接ホストを勤めさせていただく所存でございます」と、豚が言った。
 豚がスマートフォンを操作すると、バルクコンテナの間に設置されているプロジェクターが起動して倉庫の壁に映像が映った。NHKのニュースが映り、ライトグレーのスーツを着たキャスターが昼間に首都高で発生した交通事故の原稿を読んでいる。
「何をするつもり?」
 綾が一歩前に出て言ったが、豚は何も答えない。
 突然、NHKのニュース映像にノイズが走って画面が切り替わった。
 レイズ社の社長、三神が映っていた。
 三神は薄暗い部屋の中で一筋のスポットライトを浴びながら、白いスーツを着て椅子に座っている。右足を上にして足を組み、その上に両手を組んで乗せている。まるでシャワーを浴び終えた後にソファーでくつろいでいるようなリラックスした座り方だ。顔には余裕のある微笑が浮かんでいた。豚は何回かチャンネルを変えたが、どのテレビ局も同じ映像を流している。豚は満足げに頷いた。
 綾がスマートフォンのニュースサイトを見た。「速報、日本全国で大規模電波ジャック発生」という見出しが踊っている。三神はその姿勢からたっぷり五分は動かなかった。最初は静止画かと思ったが、三神がまばたきするのが確認できた。この電波ジャックが広がるのを待っているようだ。
 やがて三神は、わずかに顔を上げた。
「皆様、おくつろぎのところを失礼いたします」
 三神は聞き取りやすい低音の声でそう言った後、たっぷりと時間をかけて頭を下げた。
「わたくしは、レイズ社の代表取締役をつとめさせていただいております、三神冷而と申します。ご存知のない方もいらっしゃるかとは思いますが、主にレイズモルトというウイスキーを作り、皆様に提供させていただいております。このたびは高まる需要に供給が追いつかず、市場価格が高騰し、皆様にご迷惑をおかけしていることを深くお詫びいたします」
 三神ふたたび時間をかけて頭を下げた。
「さて、本日は皆様にご報告があり、勝手ながらお時間をお借りしております。皆様は『人妖』という言葉をご存知でしょうか?」
 アンチレジストの面々の背中を、氷の虫が這った。
 なぜ三神の口から人妖という言葉が出る? しかも公共の電波を乗っ取ってまで。 
「人妖の存在は、都市伝説として耳にされたことがある方もいらっしゃるかもしれません。人妖とは我々人間と全く同じ姿をしている別の生物であり、気付かぬうちに人間社会に溶け込んでいるバケモノである。容姿や頭脳や身体能力に優れ、食事や排泄を必要とせず、我々の性行為に似た捕食行動で活動し、なおかつその捕食行動は我々人間にとってこの上無い快楽をもたらす……というものです。結論から申し上げると、人妖の存在は事実です。各国の政府はひた隠しにしておりますが、未解決の行方不明事件の何割かが、人妖の手によるもなのです。事実、私は何名かの人妖と実際に接触を持っております。私は人妖との接触を通じて、人妖とは人間の完全な上位交換であるという結論に至りました。今後人間は、人妖の栄養源としての価値以外は無くなるであろうと考えています」
 綾はSNSのアプリを立ち上げた。話題のトレンドが三神の電波ジャック一色になっている。
「皆様はおそらく、私の頭がおかしくなったと思っているでしょう。ですが、私は事実を話しているだけです。怪しい宗教や陰謀論の話をしているのではありません」と、画面の中の三神が言った。その顔にはいまだに余裕のある微笑が浮かんでいる。「なぜこのような話を私がしているのか……。私のパートナーが、人間を人妖に進化させる薬剤の開発に成功いたしました。そして私はかねてから、私の作ったウイスキーを飲んでいただいた方に何らかのお礼がしたいと考えておりました。私のウイスキーは幸い市場に好意的に受け入れられています。いささか好意的過ぎると言ってもいいかもしれません。私のウイスキーを一杯飲むために、大変な経済的苦労をされた方も多いと聞いております。そのような苦労をされた方に、人妖に進化できるチャンスを進呈することにしました。私は数ヶ月前から発売したウイスキーの一部に、人妖に進化するための薬剤を混ぜております。本当は私のウイスキーを召し上がられた全ての方に人妖に進化していただきたいのですが、残念ながら薬剤には限りがあり、今回は抽選のような形を取らせていただきました。不幸にも今回漏れてしまった方は、次の機会をお待ちください。そして、今回選ばれた幸運な方は、どうぞ素晴らしい人生を──」
 スポットライトが徐々に減光し、三神の姿が闇に溶けるようにゆっくりと消えた。同時に、奇妙なノイズが混ざった音楽が流れ始めた。クラシック音楽のようで、教会の鐘のようなピアノの後に、重厚な旋律が追いかけてくる。決して耳障りの良いものではない。豚だけは目を閉じて、その奇妙なノイズ混じりの聞き苦しい音楽に身を任せていた。
「ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番……お姉様が好きだった曲……」と、スノウが呟いた。
 画面が暗転してから、約三分ほど音楽が流れた後、唐突に画面が元に戻った。インカムに手を添えて混乱した様子のキャスターが映される。
「えー、今、放送が回復しました。ただいま日本で大規模な電波ジャックが発生した模様で、えー、警察は事件に関与していると思われる株式会社レイズの三神冷而氏から事情をうかがうべく──」
 そんなことは今見たから知っている、と誰もが言いたくなるような内容をアナウンサーが喋った。しかし、現場が混乱していることだけは伝わってきた。アナウンサーは同じ内容を繰り返して発言し、その声に被せるようにスタッフと思しき複数の人間が怒号を発している。おそらく他局でも同じような状況なのだろう。
「あんた達いったい何したのよ!」と、綾が叫んだ。
「聞いての通りです。我々が発売したウイスキーのごく一部のボトルに、ノイズ様が造られた神の蜜を混ぜました。全ては滞りなく、ノイズ様のご指示の通りに進んでおられる……」と、豚が両手を広げて言った。まるで最上級のコース料理を堪能し終えたような、うっとりとした口調だった。「そして、そのウイスキーを飲んだ人間にノイズ様の紡がれた特殊な旋律を聞かせると、脳の一部に作用して人妖に進化できるのです。ボトルが誰の手に渡ったのかは我々にもわかりません」
「……なんてことだ」と、美樹が呟くように言った。背後を振り返り、男性戦闘員に指示を出す。「お前たちは本部に戻れ。人妖の存在が知られたとなると──」
 美樹の言葉が途中で止まった。
 男性戦闘員二人の瞳が赤く光っていた。
 人妖の目だった。

DLsiteさんで5/6まで全作品18%〜20%OFFクーポン(回数制限なし)が配布されていますので、興味がある方はこの機会によろしくお願いします。
Яoom ИumbeR_55も全作品が対象となっております。

※下記画像のリンクからDL販売ページに移動可能です。こちら以外の作品も対象です。







また、シオンさんとスノウの組み合わせでイラストを描いていただきました。
コスプレイベントにノリノリで参加しているシオンさんと、無理やり付き合わされているスノウになります。この姉妹は書いていてとても楽しいので、本編を書いている間の息抜きに落書きしていきたいですね。

280793

NOIZ6のコピー
 鷺沢が本部の放棄を決定した。
 人妖に場所が知られた以上、長く留まっているわけにはいかない。当面は郊外に設置している支部を臨時本部とし、データと人員の速やかな移行を指示した。一般戦闘員とオペレーターが慌ただしく走り回る。
 朝比奈の救出には綾と美樹の他、数名の一般戦闘員が指名された。支度が整い次第、エントランスに準備している戦闘員用の護送車で出発する手筈になっている。
 美樹が上級戦闘員用のロッカールームで装備を整えていると、スノウが入ってきて「お姉様のロッカーはどこ?」と聞いた。
「聞いてどうする気だ?」と美樹が言った。折りたたんだ樹脂製のトンファーを、ベルトで太腿に留めている。
「私も戦う。この格好じゃうまく動けないから、あんた達みたいな戦闘服に着替えたいの。お姉様のがあればそれを借りるわ」
「馬鹿を言うな。一般人を巻き込む訳にはいかない」
「さっきは止めなかったじゃない」
「今回は間違いなく戦闘になるんだぞ?」
「だから戦闘服に着替えるのよ」
「そういう問題じゃない」と言いながら、美樹は立ち上がってスノウを見下ろした。「相手は人妖だぞ。確かに会議室での身のこなしは見事だったが、人間相手の護身術が通じる相手ではないんだ。あの豚野郎の言っていた通り、単純な身体能力で言えば人妖の方が格段に上だ。生兵法で飛び込むと、あいつらの餌になりに行くようなものだぞ」
「ここまで来て引き返せるわけないでしょ? あいつはノイズが新しい指導者だって言った。人妖達の背後にはノイズがいて、お姉様だってそこにいる。私はお姉様を取り戻すためにここまで来たのよ。お姉様を取り戻すためには、ノイズを倒すか、お姉様に目を覚ましてもらうしかないわ」
「ノイズを倒すのなら、それこそ私達にまかせておけ」
「倒せると思っているの? あんた達、会議室では一歩も動けなかったじゃない。肉親の私が呼び掛ければ、お姉様は目を覚ますかもしれない。ノイズを倒すよりは確実な方法よ。だから戦闘服を……」
 美樹は黙って首を振った。「いずれにせよ、シオンのロッカーは開けられない。本人の指紋認証でしか開かない仕組みだ。開けたくても開けられないんだ」
 私なら開けられる、と言う声がして、美樹とスノウが入り口を振り返った。
 ドアが開いて、鷺沢がロッカールームに入ってきた。通路では何人もの職員が慌ただしく走っている。鷺沢はあらかた指示を出し終え、様子を見に来たようだ。
「スノウさん……。ノイズの対処について、本当に同行していただけるんですか?」と、鷺沢がスノウを見て聞いた。
 鷺沢さん、と抗議するような口調の美樹を手で制した。
 スノウが力強く頷いた。
「もちろんよ。お姉様に目を覚ましてもらうわ」
 鷺沢が暗い顔をして頷いた。「鷹宮上級戦闘員。やはり如月上級戦闘員との戦闘は極力避けるべきだと思う。今まで多くの戦闘員を見てきたが、如月上級戦闘員は規格外だ……。あの並外れた頭脳と、その頭脳の命令を遂行する身体能力を併せ持っている。今までは如月上級戦闘員の生まれ持った優しい性格で無意識にリミッターをかけていたが、もはやそれも外れている可能性が高い。制御できるうちは便利だが、暴走したら手がつけられなくなる原子炉みたいなものだ。戦闘にならずに抑え込むことができれば、それに越したことはない」
 美樹がため息を吐いて首を振った。
「……もしもの話だ」と言いながら、美樹が誰とも視線を合わせないように床に視線を落とした。「もしも、シオンが消えていたらどうする? ノイズの中に、シオンがもういなかったら……? そういう可能性だって無いとは言えないだろう。その時は、倒せるか倒せないかに関わらず、戦うしか選択肢が無くなるんだぞ」
 スノウが凍えるようにして深く息を吸った。「その時は私も戦う。ノイズに殺されたっていいわ……お姉様のいない世界なんて……」
 「……わかった」と言って美樹が頷き、スノウの肩を数回叩いた。「死ぬ必要は無い。私が守る。それに、私にとってもシオンは友人だ。穏便に済ませられるものなら済ませたい。シオンを叩き起こしてやってくれ」
 スノウが唇を噛んだまま頷いた。うっすらと目に涙が浮かんでいる。
 鷺沢はシオンのロッカーの前に移動して、タッチパネルに親指を当てた。
「私の指紋がマスターキーになっているんです。何か物がなくなったら、真っ先に私が疑われますが」
 短い電子音がして、ロックが外れる。鷺沢がシオンのロッカーを開けた。メイド服を模した新品の戦闘服が三着、ハンガーに掛かっていた。パッキングされた新品のストッキングや下着類、ガーターベルトの他、赤い宝石があしらわれたレースの付け襟も綺麗に並べられている。
「えっ……なにこのエッチな服……?」
 スノウが明らかに引いている。ロッカーの中身を指差しながら、油の切れた機械のようにぎこちなく美樹と鷺沢を見た。
「お姉様、まさかこんな格好で戦っていたの……? 嘘よね?」
「あ、いや、その……それは」と、美樹がどぎまぎしながら言った。
 スノウの眉が吊り上がった。「あんた達、まさかお姉様に無理やりこんなの着せてたの? いくらお姉様のスタイルが良いからって……!」
「上級戦闘員の戦闘服は着用者の身体特性と、なによりデザイン的な嗜好を考慮して特別に製作されています。好みの衣類を着用することによる戦闘員の士気向上も、成果に直結する重要な要素ですから。故にその戦闘服も、如月上級戦闘員の趣味が多分に反映されているデザインです」
 鷺沢が真顔で答え、スノウの視線は二人の顔とロッカーの中を何回も往復した。やがて恐々と戦闘服を手に取り、「うわ……」などと言いながら自分の身体に合わせている。
「そもそもサイズが合わないだろう」と、美樹が言った。特に胸の部分が致命的に合っていなかったが、美樹は黙っていた。スノウもさすがに察したらしく、何よりデザインがスノウにとっては奇抜過ぎたため、黙って戦闘服を元に戻した。代わりにシオンがツインテールにまとめる際に使用していた黒いリボンと、レースの付け襟を手に取った。
「これだけ借りるわ。お姉様、力を貸して……」
 スノウはリボンと付け襟を壊れ物のように胸に抱いて目を閉じた。鷺沢が別のロッカーを開け、白いレオタードのような戦闘服をスノウに渡した。
「こちらなら、サイズが合うと思います。一般戦闘員用ですが、動きやすさと防御性能のバランスが一番良い戦闘服です。また、先ほどのスノウさんの動きを見て、足技が得意と見受けましたので、レオタード型をお勧めします。手袋やソックスもこちらで用意します」
「……これも結構際どいわね」と言いながら、スノウが戦闘服を目の前に広げた。サイズはぴったり合うようだ。スノウは戦闘服を持ってシェードの中に入り、戦闘服に着替えて出てきた。ツーサイドアップの髪はシオンの黒いリボンで留め直し、元の赤いリボンのうちの一本は左の太腿に結んでいる。もうひとつは形見のようにシオンのロッカーにしまった。そういえば、あの赤いリボンはシオンからの初めてのプレゼントだったなと美樹は思った。スノウは首に巻いたシオンの付け襟を愛おしそうに撫でている。
「似合うじゃないか」と、美樹は言った。
「うん。ものすごく軽いし、確かに動きやすいわ」と、スノウはその場で軽くジャンプしながら言った。

 豚を乗せたセンチュリーと後続のクラウンは、市街地を抜けて、人気の無い港湾倉庫のひとつに入った。
 倉庫の中はドラム缶が山積みになっている。センチュリーの運転手が降り、豚が乗っている後部座席のドアを開けた。豚が難儀そうに車から降りる瞬間、朝比奈が豚の腕を振り解いて飛び出した。朝比奈は距離を取って、表情を強張らせたまま身構えた。
「おっと、まだそんなに動けたとは」と、豚が笑いながら言った。
 豚は顎に手を添え、朝比奈の身体を品定めするように見ている。
 朝比奈は豚の視線から隠すように、体の向きを変えた。どうやら豚は自分のような年齢の若い女性が好きなようだ。いわゆる、ロリコンというものだろう。身体の底から嫌悪感が湧き上がってくると同時に、どのようにこの場を切り抜けるか頭を回転させた。
「うんうん、スノウちゃんも可愛いが、君も負けじと劣らず可愛いねぇ」
 豚は手をすり合わせながら、満面の笑みを浮かべた。「やはり君くらいの年齢が一番だ。下手に歳を取ると身体のあちこちに老廃物が溜まってくる。さっきの女達も、スノウちゃん以外は見た目は綺麗でも中身はドロドロのはずだ。早く君の綺麗な養分を吸わせておくれ」
 朝比奈の背中にゾワッとした寒気が駆け上がった。賎妖は能力も容姿も人妖に劣るが、ここまで気持ちの悪い賎妖も珍しい。友人もこんな奴に手籠にとられたかもしれないと思うと、怒りと悲しみがふつふつと湧き上がってきた。
「近寄るな! 変態!」
 殴られた腹がまだ痛むのか、片手で腹を押さえながら朝比奈が叫んだ。豚の背後では車から降りた人妖達が遠巻きしている。
「変態とはまた手厳しい」と、豚が大袈裟に驚いたように両手をあげた。「可愛い子が好きなことが変態なものか。人の好きなものを否定してはいけないよ?」
 朝比奈は豚を無視し、素早く周囲を見回した。ドラム缶が山のように積まれ、窓は天井付近にしかなく、唯一の出入り口は車が塞いでいる。逃げられそうもない。だが、相手は賎妖だ。人妖に比べて戦闘能力は劣る。朝比奈はチームを組めば人妖ですら倒した実績があり、賎妖であれば一対一でも倒してきた。ここは戦うしかない。
 朝比奈が前後に足を開き、拳を上げて構えた。
「やめたほうがいい。悪いことは言わない」
 豚が両手を突き出し、わざとらしく心配そうな顔をして言った。
 朝比奈がふっと鋭く息を吐いて、豚との距離を詰めた。先ほどを頭に血が上って不覚をとったが、今回は自分の体格を生かして、相手の身体に潜り込むいつもの戦術を駆使すれば勝てるはずだ。なんといっても、相手は人妖に劣る賎妖なのだ。
 朝比奈は身体を左右に振りながら、豚の死角に入って拳を繰り出した。捕まえられずに攻撃を当て続ければ、いずれはダメージが蓄積する。豚の腹を何発も殴った。脂肪が厚い。豚は涼しい顔をしている。朝比奈は一旦距離を取り、再び殴った。豚の身体に潜り込み、膝や背中にも攻撃を加えるが、豚はダメージを感じるどころか怯む様子すらない。
「な……んで……?」
 朝比奈が戸惑いながら後ずさった。身体能力が段違いに高い人妖ならともかく、相手は賎妖だ。身体能力は人間とそう変わらないはずだ。いくら肥満体とは言え、ここまでダメージが通らないのはおかしい。
「まったく、朝比奈ちゃんは本当にしつけがなっていないみたいだねぇ……」
 豚が拳を鳴らしながら朝比奈に近づく。朝比奈の小さい身体が、豚の影にすっぽりと覆われた。
 ふん、と豚が気合を入れ、朝比奈の腹に拳を突き込んだ。拳が全く見えない速さの攻撃だった。朝比奈は棒立ちのまま動けず、ぼぢゅん、と音を立てて岩のような拳が朝比奈の細い腹部にめり込んだ。
「ゔぶぇッ?!」
 朝比奈の身体が浮いた。
 車に跳ね飛ばされたような衝撃で朝比奈は人形のように弾き飛ばされ、倉庫の壁に強かに背中を打ち付けた。そのまま膝から崩れ落ち、前のめりに倒れこむ。次の攻撃に備えるために必死に立ち上がろうとするが、足に全く力が入らず、尻を浮かせたままの無様な格好で苦しそうに喘いだ。遠巻きに見ていた人妖達が静かに笑う声が聞こえる。
「ぐ……が……ッ……?! ゔっ……ごぇッ……!」
 まともに呼吸ができずに悶絶している朝比奈に、豚がゆっくりと近づいた。
「また殴られちゃったねぇ。女の子の大事なトコロ。あまり聞き分けがないと、朝比奈ちゃんと私との赤ちゃんができなくなってしまうよ?」
 豚は朝比奈の戦闘服を掴み、強引に引っ張り上げた。朝比奈の足が地面から浮く。朝比奈は涙と唾液で顔をぐちゃぐちゃにしながら、短い呼吸を繰り返していた。
「私が賎妖だと思って油断したんだろう? 人を見かけで判断するなと、学校やご両親から習わなかったのかい? 朝比奈ちゃんは子供だからわからないだろうけれど、大人の世界では下手に格好をつけているよりも、相手にナメられているくらいの方が、なにかと便利なことが多いんだ。たとえば豚のように醜い身体にしわくちゃな服を着て、やけに慇懃な喋り方をする奴を見ると、たいていの相手は『こいつは大したことないな』と思って油断する。他の使役系の人妖みたいにお高く止まっていると、君たちに真っ先に狙われたり、仲間から足元を掬われたりすることが多い。この見た目は整形手術と定期的な脂肪注入の手間はかかるが、得るものの方が多いんだよ。たとえば朝比奈ちゃんみたいな何も知らない可愛い子が、こいつなら勝てそうだと勘違いして自らレイプされに飛び込んでくるとかね」
 ずぷん……と音を立てて、朝比奈の細い腹部が再び陥没した。
「ぎゅぶぇッ?!」と、朝比奈が目を見開いて悲鳴を上げる。豚はすぐさま拳を抜き、サンドバッグのように朝比奈の鳩尾や腹を何回も殴った。殴られるたびに、豚に片手で吊り下げられた朝比奈の身体はおもちゃのように揺れた。豚は執拗に朝比奈の腹だけを殴り、意識の大部分が途切れたところでようやく朝比奈を開放した。全身の力が抜けたように、朝比奈は地面に崩れ落ちる。
「おい、ここに着いてから何分経った?」
 豚が運転手に言った。二十二分ですと運転手は答えた。
「なら、まだ時間はあるな」
 豚はおもむろにスラックスのジッパーを下ろし、臨戦態勢になった男根をずるりと解放した。極太のそれは豚の出っ張った腹に先端が触れるほど反り返っている。豚は意識の途切れかけた朝比奈の髪の毛を掴んで引き起こすと、頭を掴んでその小さな口に男根をねじ込んだ。
「ごぼっ?! むぐぅッ!?」
 突然ねじ込まれた異物に、朝比奈は一気に覚醒して目を見開く。
「おほぉっ! 予想以上に小さい口だ。たまらんな」
 豚は朝比奈の頭を両手で掴み、乱暴に前後に揺すった。喉奥を無理やり抉られ、朝比奈は内臓を吐き出すような嗚咽をあげた。
「ごぇッ!? ゔ……うぐえぉぉぉ! ごえぇぇぇッ!!」
「ほぉっ! ほおぉッ! 喉がよく締まって……気持ちいいよ朝比奈ちゃん……」
 朝比奈の味わっている地獄など意に介さず、豚は虚空を見上げながら恍惚の声をあげた。朝比奈の鼻が豚の腹に何回も当たり、細い喉は豚の男根の形をくっきりと浮かび上がらた。朝比奈はもはや悲鳴すら上げることが出来ず、ただ白目を剥いて頭を揺すられるに任せた。
「ああぁ……出るよ……出るよ出るよ、出るよ朝比奈ちゃん!」
 豚は胃まで到達するほどの勢いで、一層深く男根を朝比奈の喉にねじ込んだ。同時に、とんでもない量の粘液が朝比奈の喉奥に放たれた。朝比奈の意識はすでに飛んでおり、白目を剥いたまま無抵抗に粘液を流し込まれるに任せた。
※こちらの文章はラフ書きになります。製本時には大きく内容が変わる可能性があります。

名称未設定-5のコピー


「いやぁこれはこれは、お騒がせして申し訳ございません」
 豚は満面の笑みを浮かべ、のっそりと歩み寄ってきた。見た目に反してよく通る聞き心地の良い声だった。「我々は、皆様に危害を加えるつもりはございません。少々手荒なノックをさせていただきましたが、本日は皆様にごお申し入れあり、こうして出向いた次第でございます。もちろん扉の修理代もお支払いさせていただきます」
 綾が眉根を寄せたまま、豚から視線を逸らさずにスノウの方に頭を傾けた。
「知ってるの? あいつのこと」
 スノウが頷いた。
「レイズ社の社長秘書の男。私も昨日一回会っただけ。なんであいつがここに……」
 豚がスノウを見つけると、ますます口元が綻んだ。向こうもスノウがここにいることに対して驚いているようだ。
「おやおやこれはこれは! スノウ・ラスプーチナ様ではありませんか。まさかこんな所でお会いできるとは何たる偶然。もうお会いできないかと思い、胸が締め付けられる思いでした。なんと言ってもスノウ様は、私の理想の女性でございますから」
 豚の言葉にスノウの全身に鳥肌が立ち、呻きながら自分の身体を抱きすくめた。綾が気の毒そうな視線をスノウに送った。
「おっと、これは大変失礼をいたしました。まだ皆様に自己紹介をしておりませんでした。と言っても名乗るほどの者ではございませんので、私のことはこの見た目通り『豚』と呼んでいただければ幸いでございます」
「申し入れとは何だ?」と、鷺沢が鋭い声で言った。
 豚は相変わらず笑みを浮かべながら、ポケットからハンカチを出して自分のスキンヘッドを拭いた。気温は低いが体感温度が高いのか、汗をかいているようだ。豚は鷺沢の質問など無かったかのように、ゆっくりとした動作で頭と首を拭き、ハンカチを丁寧に畳んでポケットに仕舞った。たっぷり三十秒は沈黙の時間が続いた。
「──和解の申し入れでございます」と、豚が上目遣いで言った。
「和解?」と、鷺沢が聞き返した。
「ええ、我々人妖と、あなた方人間との和解です」
 豚は胸の前で両手を揉みながら話を続けた。
「我々と人間は姿形が変わらないのに、我々が人間を栄養源にするというただ一点のみで、長い間争ってまいりました。しかしもともとは、過去の人間の『完璧な人間を造る』という身勝手な思いつきによって、我々が生み出されたことに端を発しております。まぁ完璧な人間と言いながらも、目的は兵器や労働力として使用するためでした。機械のように自由に使える便利な奴隷が欲しかったのです。過酷な環境にも耐えられるように身体能力を高められました。兵器や機械に食事や排泄は邪魔な機能なので削除されました。食料が無くても生きられるように人間との粘膜接触で養分を摂取可能にされました。人間と見た目が変わらないのなら夜の世話もさせたいと、容姿が優れるように遺伝子操作をされました──まぁ時々私のように容姿が醜い者も存在しますが、それはさておき、そのような過去の人間の思惑があって我々がここに存在しているのでございます。やがて、研究者の誰かが我々を恐れ始めました。身体能力が高く、知能も人間と変わらない。食事も必要ない。いわば我々は人間の上位交換です。奴隷にするどころか、反逆されたら勝ち目はない……と考えたのです。恐怖というものは、今も昔も素早く伝播します。研究者の中で人妖を残らず処分すべきという案が多数派になってきました。兵器や労働力として期待する研究者はもちろん反対しました。やがて世界中で内乱が起き、研究所が破壊され、混乱の中で多くの人妖が人間社会に逃げ込みました。それ以来、我々と皆様の泥沼の争いが続いているのです。我々は、なにも外宇宙から侵略しに来たエイリアンではございません。もちろんそちら側にも言い分はおありでしょうが、我々としましても勝手に生み出され、勝手に迫害や排除の対象にされるというのは、いささかそちら側に都合が良すぎるのではないかと思っております。しかしその議論は不毛です。我々は十分争った。そして疲弊した。それでいいじゃありませんか。過去のことは水に流し、和解して共存共栄の道を歩んだ方が建設的だとは思いませんか?」
「共存共栄の道だと?」と言いながら、鷺沢が怪訝そうな顔になった。鷺沢の隣では、朝比奈が今にも飛びかかりそうな勢いで豚を睨んでいる。
 ええ、と言いながら豚は両手を揉んだ。「そうです、共存共栄です。幸い、我々と皆様は姿形が同じです。言葉も通じます。姿形が違って言葉も通じない犬や猫と共存している皆様なら、我々と共存することなど容易いでしょう。ではどのように共存するのか? 皆様が犬猫と共存出来るのは、上下関係を明確にしているからです。犬猫に住処や餌の供給をすることによって生殺与奪を掌握しているからこそ、問題なく共存できているのです。では我々と皆様の上下関係はどうでしょうか? どちらが生物として優れているのかと言えば、失礼ながら我々と言わざるを得ません。これは我々から見た贔屓目ではなく、生物としての能力が明らかに我々の方が優れているからです。なぜなら先ほども申し上げた通り、皆様よりも優れた存在になるようにと、皆様がそう造られたからです。アンチレジストの皆様が必死に厳しい訓練を行い、最新技術を駆使した武器や戦闘服を身につけても、そこにおられる五人のように一部の才能のある方がようやく丸腰の我々に敵うかどうかという状況は、皆様もご理解いただける事実だと思います。しかし、では犬猫のように我々が皆様を扱えばいいのかといえば、そんな愚かで残酷なことはいたしません。あくまでも共存、そして共栄が目的です。簡単なことです。皆様も人妖になればよろしい」
 豚が満面の笑みで、胸の前で両手を叩いた。
「お互い立場が違うから憎しみ合うのです。ならば同じ立場になってしまえば、争う必要はありません。皆様はより優れた存在に進化できる。人間は一部を補給用として養殖すれば問題ありません。そのうち餌の人間は牛肉のように、容姿によってランク付けがされるかもしれませんな。はははは」
「ふざけるな!」
 全員が叫んだ主に顔を向けた。朝比奈が両方の拳をぐっと握りしめて、わなわなと震えている。
「黙って聞いていれば勝手なことを……。人妖と共存、ましてや私たちに人妖になれだと? ふざけるな! 私は友達を人妖に拐(さら)われたんだ! アンチレジストに入ったのも友人を見つけるためだ。人妖と共存なんかできるか!」
「おお、それはお気の毒に……」と、豚が眉をハの字にして言った。「ですが、そのご友人は果たして不幸だったのでしょうか? 我々人妖の補給は、人間にとってはこの上無い快楽のようです。我々の体液には、それこそ麻薬のような作用がある。人間達が自らの快楽を高めるために、我々をそのように造ったのです。あなたが厳しい訓練や戦闘をしている間に、ご友人はベッドの中で我々の男根でもしゃぶっているのかもしれませんよ?」
 朝比奈が飛び出した。
「待て朝比奈! 挑発だ!」
 鷺沢が止める一瞬早く朝比奈は駆けていた。綾と美樹、スノウも朝比奈を追う。
「ああああああああッ!」
 朝比奈が怒りに叫びながら跳んだ。朝比奈の身長は同世代よりも低いが、その跳躍は豚の頭の高さを軽く超えた。
 豚はまだニヤけた顔で朝比奈を見ている。
「まずい……」と美樹が言った。
 小柄な体を活かして豚の下半身を狙えば、勝機はあったのかもしれない。
 確実に勝てる状態でなければ、相手の正面に飛び込むなど絶対にしてはならない。
 ふん! という豚の気合と共に、ボグン……という重い音が響いた。
 殴りかかろうと振りかぶっていた朝比奈の小さい身体が、一瞬でくの字に折れる。
「ゔッ!?」
 普段のしゃんとした朝比奈からは想像できないほど濁った悲鳴。
 豚は飛び込んできた朝比奈の腹に、丸太のような拳を容赦無く打ち込んだ。その巨体からは想像できないほどの鋭く凶悪な攻撃だった。
「がぶッ……!?」
 豚の拳に腹部を陥没させられたまま、朝比奈は大口を開けて空気を求めるように天を仰いだ。身体にぴったりとしたスーツが痛々しくめり込み、ミシミシと音を立てている。
「ダメダメ。子供が大人に殴りかかるなんて」
 豚は笑みを浮かべながら、意識が途切れかけた朝比奈の腹から拳を抜き取ると、背後から抱き抱えるようにして朝比奈の首に腕を回した。
「大人に逆らったらどんな目に遭うのか、みんなに見てもらおうね?」
 朝比奈の背中にも腕を当て、首を絞めあげるようにして強引に朝比奈の身体を反らせる。
 グキッ……という嫌な音と共に、朝比奈の背が弓なりに反らされる。
 絞首刑と海老反りを合わせたような拷問のような責めに、朝比奈の窄めた口から「ぐぷっ」水っぽい音が漏れた。
「おっと、それ以上近づくと、この子の背骨がポッキリと折れてしまいますよ?」
 豚が走り込んでくる鷺沢達に言った。豚がわずかに力を強め、朝比奈の背骨から嫌な音が聞こえる。綾が「くっ」と悔しそうな声を出して静止した。
 豚は朝比奈を抱き抱えたまま後ずさる。
 手下の賎妖が後部座席のドアを開けて控えていた。豚が朝比奈を抱きすくめたまま、難儀そうに乗り込む。
「そうそう、肝心なことを言い忘れておりました」と、豚が言った。抱えられている朝比奈は、豚との体格差もあって人形のように見えた。「我々は夢物語をしているのではありません。我々は皆様人間を、簡単かつ安全に人妖に造り替える方法を確立いたしました。志半ばにこの世を去った同志、篠崎冷子が成し得なかった研究を、我々の新たな指導者ノイズ・ラスプーチナ様がその天才的頭脳を用いて、いとも簡単に成し遂げられたのです」
 スノウの顔色が、魂が抜けたように真っ青になった。
 豚はその表情の変化を楽しむようにスノウと視線を合わせ、喋り続けた。
「我々は返事を待つつもりはございません。あなた方が我々の提案を受け入れようが拒否しようが、プロセスは着実に実行いたします。そのための準備も進んでおります。皆様の意思とは関係なく、皆様は人妖になるのです。しかし、ここの皆さんはとても美しい。願わくば皆さんは人妖にならず、人間牧場で我々の栄養源になってほしいものですな。はははは」
 賎妖達の車は朝比奈を乗せたまま急発進し、見えなくなった。
 鷺沢が悔しそうに舌打ちをすると、踵をかえして本部に向かった。出迎えるようにシャッターが開いた。
「朝比奈戦闘員が連れ去れれた。すぐに追うぞ。輸送車の準備をしろ」
 鷺沢が素早く指示を飛ばした。背後を振り返り、綾たちを見回す。
「すぐに出動だ。朝比奈戦闘員を無事に連れ戻してほしい。すまないが、私はここに残って全体の指揮を執る」
「ええ、必ず探し出して保護します」
 綾の言葉に、鷺沢は首を振った。
「探し出す必要はない。シャッターを出る瞬間に車に向けて発信器を飛ばしておいた。反応を追えば奴らの居場所がわかるはずだ。あいつら……和解どころか宣戦布告してくるとはな」

「車に発信器が付けられているでしょうから、予定地点で車を放置してください」
 豚が耳に当てている携帯電話の向こうで、ノイズがまるでゲームを楽しむような声色で言った。
「発信器ですか? いつの間に」と、豚が眉を上げた。
「その程度はやってくれないと困ります」と、ノイズは静かに笑った。手短に用件を伝え、その都度豚が丁重に返事をしながら頭を下げた。
「なるほど……えぇ、仰せの通りにさせていただきます」
 豚が電話の向こうのノイズに対して、限界まで頭を下げる。背後から抱き竦められたままの朝比奈の身体が折れ、苦しそうな声を出した。豚は電話を終えると、さて、と言いながら破顔して朝比奈の顔を覗き込んだ。
「朝比奈ちゃんと言ったかな? まったく、とんだ土産をもらったものだ。スノウちゃんに再会できただけでも天恵なのに、まさか君みたいな天使がいるとはね。他の女供は全員十代後半のババァばかりで、目が腐るかと思ったよ」
 豚が朝比奈の頬を力づくで掴んで、強引に口を開かせた。そして自分の舌を朝比奈の小さい口にねじ込む。朝比奈の目が見開いた。豚はじゅるじゅると音を立てて朝比奈の舌と唾液を吸い、自分の唾液と混ぜ合わせて朝比奈の口に押し戻した。朝比奈の小さい口から溢れた唾液が喉を伝う。
「どうだい大人のキスは? これからたっぷり教えてあげるからね。朝比奈ちゃんみたいな小さくて可愛い子がこんなエッチな格好をしてたら、どんな風にレイプされちゃうのかを」
 豚は再び朝比奈の口を吸いながら、朝比奈の足の付け根に手を這わせた。運転手は見ないフリをしている。豚達を乗せた車は人気の無い港湾の倉庫に入っていった。


※こちらの文章はラフ書きになります。製本時には大きく内容が変わる可能性があります。

NOIZ7のコピー


 綾がベッドの上に身を起こそうとすると、ノイズに蹂躙された内臓が悲鳴を上げた。「うぶッ!?」とえずいて口元と腹を押さえ、ビデオの一時停止を押したように固まる。内臓がギュルギュルと音を立てて、捻れるように痛んだ。鷺沢がベッドに駆け寄り、綾の身体を支えた。
 医務室の中央では憔悴しきった男性戦闘員が丸椅子に座っている。美樹は壁に寄り掛かって腕を組み、スノウは部屋の隅の椅子に座ったまま、両手で頭を抱えていた。
「あの女は会議室に突然現れたんです……」と、男性戦闘員が何も無い床をじっと見つめたまま話し始めた。「現れたと言っても、ドアを開けて入ってきたのではありません。我々が着席して会議が始まるのを待っていると、まるで最初からずっとそこにいたかのように、いつの間にか部屋の隅の椅子に座っていたんです。もちろんざわつきましたが、如月シオン上級戦闘員が戻ってこられたと喜ぶ者もいました。その中の一人が駆け寄り、次の瞬間に崩れ落ちるように倒れたんです。なにが起きたのか、誰もわかりませんでした……」
「会議なんて予定されていなかっただろう」と鷺沢が険しい顔をして言った。
 戦闘員は首を振った。「ファーザーの声で放送がありました。本部に残っている戦闘員は、直ちに中央会議室に集合するようにと。半年振りのファーザーの指示に驚きましたが──」
 怪我人は男女合わせて十八名に及んでいて、そのほとんどは綾と同じように一撃で戦闘不能にされたそうだ。上級戦闘員ですら一撃で倒され、残った一般戦闘員やオペレーターは手も足も出ず、蜘蛛の子を散らすように逃げ隠れたらしい。男性戦闘員が医務室から出ていくと、不安そうに医務室を覗き込むオペレーターや一般戦闘員の姿が目に入った。鷺沢は廊下に出て、残った戦闘員は自分の持ち場で待機し、オペレーターはなるべく一箇所に固まるように指示した。
「──なにがどうなっているのか、話してもらうぞ」
 美樹がスノウに言った。問い詰めるのではなく、語りかけるような口調だった。「ノイズ・ラスプーチナと言ったな。あれはシオンなのか?」
 美樹の言葉に、スノウは黙って首を振った。
「あれは、お姉様じゃない……」
 暗い声でスノウが言った。
「じゃあ誰なんだ? お前のもう一人の姉か? それとも親戚か?」
 スノウはまた首を振った。なにかを言おうとして息を吸い込み、ため息を吐くのを繰り返した。やがて決意したように顔を上げた。
「もう全部話すわ……あれは以前お姉様の中にいた、もう一人の人格なのよ……」
 美樹と鷺沢は顔を見合わせた。綾も驚いた顔をしている。
「……なんだその安っぽい漫画みたいは話は」と、美樹が呆れたように言った。「あいつとの付き合いは二年になるが、そんな気配は全く無かったぞ」
「付き合って二年……? じゃあ美樹はお姉様の何を知っているの?」と言いながら、スノウは美樹を睨んだ。「おかしいと思わなかったの? お姉様ほど聡明で、自分で言うもの何だけど世界的企業の長女が、理由もなく遠く離れた日本で一人暮らししているわけないじゃない! それこそ安っぽい漫画みたいな設定だわ。お姉様に及ばない私ですら飛び級で大学を卒業しているのよ? お姉様ほどの人が今だに日本で高校に通っているなんて、アスクレピオスとラスプーチナ家にとってはとんでもない機会損失よ!」
 スノウは一気に捲し立てた後、下を向いて首を振った。
「──ごめんなさい。人が踏み込んでほしくない領域には踏み込まない……美樹は昨日言ってたわよね。知らなくて当然だわ……」
「その踏み込んでほしくない領域が、とんでもない機会損失を受け入れてまでシオンが日本にいる理由なんだな?」
 美樹の言葉に、スノウが頷いた。
「……お姉様はね……お父様を殺してしまったのよ」
 スノウが震えながら絞り出した言葉に、三人は絶句した。
 綾が呻きながらベッドから降りた。
 鷺沢と美樹が慌てて止めたが、綾は振り切って肩で息をしながらスノウを睨んだ。
「何よそれ……? シオンさんがそんなことするわけないでしょ!?」
「不幸な事故だったのよ!」
 スノウが叫んだ。目に涙を浮かべながら歯を食いしばっている。「お父様はとても忙しい方で、その日は半年ぶりに家に帰ってきたの。両手にプレゼントを抱えて、私達を驚かせようとこっそりと階段を上って来た。そして喜んだお姉様がお父様に抱きついたの……。お父様はバランスを崩して、階段からお姉様と一緒に落ちてしまった。お父様はお姉様を庇って、自分をクッションにして守ったんだけど、大理石の床に後頭部を強く打って……。不幸な事故よ……私はもちろん、家族は誰もお姉様を責めなかった……。対外発表では、お父様は一人で足を滑らせたことになっているわ……今でもね」
 医務室の中は水を打ったように静かになった。
 「綾の言う通りよ……私だってそう思ってる」とスノウがポツリと言った。「お姉様がそんなことするわけない……。あれは不幸な偶然が重なってしまった事故なのよ。私も家族ももちろん強いショックを受けたけれど、でもお姉様のせいにはしなかった……。何回も言うけれど、これは事故なのよ。でもお姉様だけはそう思わなかった……。自分がお父様を殺したんだと、お姉様は自分を許さなかった。お姉様はそれはもうひどく落ち込み、ベッドから起きられず、食事も摂れない状態になった。そして数日後に意識を失って倒れたの」
 冬の海のような沈黙はまだ部屋を支配している。
 スノウは涙を袖で拭うと、話を続けた。
「生まれた時から『良い子』『良い子』と周囲から言われ、期待され、自分自身もそうあろうと努力してきたお姉様が犯した最大のタブー。お姉様はそれを受け止めきれなかった……。そして、病院のベッドで目が覚めたお姉様は、事故のことはなにも覚えていなかった。何事もなかったかのように、いつもの明るいお姉様に戻っていて、なぜ自分が病院にいるのかすらわかっていなかった。私達家族はむしろ好都合だと思って、対外発表と同じ内容をお姉様に伝えた……。でも、なにも解決していなかったの……。お姉様はちゃんと覚えていた……お父様の死の記憶と真実を、別の人格に移しただけだった……」
「その移された人格というのが、さっき綾を襲った女か……」
 美樹の言葉に、スノウは苦い顔をして頷いた。
「……お姉様は自分の中に、自分ではない『悪い子』を造ってしまったの。それ以来、お姉様の様子が時々おかしくなった。『悪い子』のノイズが表に現れてくるようになった。私はお姉様じゃないってすぐにわかったわ。お母様はすぐに専門の医者を雇って、医者の提案でお姉様を、お父様の死を想起させるラスプーチナ家から遠ざけることに決めた。ラスプーチナ性ではなくお母様の如月性を名乗らせて、日本のお母様の実家に住まわせて、アナスタシア聖書学院の初等部に編入させたの。雇った医者が優秀だったみたいで、日本に行く前の段階でノイズはすっかり出てこなくなった。医者はノイズが消滅するのは時間の問題だけれど、念のために高校を卒業するまではお姉様は日本で暮らしたほうがいいと言ったわ。これがお姉様が日本にいる理由……」
 綾はやるせないような表情を浮かべままま壁を叩いた。「過去に何があったって、シオンさんはシオンさんじゃない……」
 そうだな、と美樹も暗い顔で言った。
「だが、少しわからないな」と、美樹は腕を組んで言った。「今の話だと、日本に来る前にノイズはほとんど消滅しかかっていたんだろう? シオンが高校卒業まで日本に滞在するのはあくまでも保険的な措置で、問題はほぼ解決していたはずだ。さっきも言ったが、私はこの二年間、シオンがそんな問題を抱えているなどとは微塵も思わなかった。お前だって来日するたびにシオンの家に泊まったんだろう? シオンにおかしいところがあればすぐに気が付いたはずだ。なぜ消えたはずのノイズが存在しているんだ?」
 スノウは、わからないと言って首を振った。「私にも、正直お姉様になにが起きているのかわからないの……。そもそもこんなに長い時間ノイズが出現し続けていることすらあり得なかった。子供の頃ですら、長くても一時間程度しか出現しなかった……。私は来日前からあらゆる可能性を考えたけれど、でもあれはノイズで間違いないわ。あの恐ろしい笑顔は子供の頃に見たままだったし、ノイズは『良い子』と『悪い子』という区別にとてもこだわっていたから……」
「なるほど。そういえば私にも『悪い子』だとか言ってきたな……」と言いながら、美樹は目を瞑って鼻筋を揉んだ。
「私がノイズの出現に気が付いたのは二週間くらい前。アスクレピオスの財務システムにハッキングがあったの。気がついたのは私だけ。大型の投資案件に紛れ込ませた不正融資で、融資先は日本のレイズ社だった。アスクレピオスの中では話題にすら上がっていなかった会社よ。詳しく調べたら、半年前お姉様が行方不明になった直後から不正融資は始まっていて、多くの国や衛星を経由していたけれど、どうやらお姉様の部屋のパソコンからアクセスされているみたいだった。私は誰にも言わず、社内でレイズ社との業務提携の稟議を通して日本に来た。業務提携するつもりなんて最初から無かったわ。私がレイズ社に接触すれば、お姉様といずれ会えるかもしれないと思って……。レイズ社が予想以上に提携に乗り気で、中身が乏しい会社だったのは計算外だったけどね」
「しかし、ノイズは一体なにをしようとしているんでしょうか? そんなウイスキーメーカーに資金提供しても、ノイズ自身にメリットは無い気がしますが」
 鷺沢の言葉に、スノウも首を振った。
「私にもわからない……。ただ、これだけははっきり言える」
 スノウが顔を上げて、全員を見回しながら震える声で言った。
「ノイズの頭脳と身体はお姉様と同じなの……ノイズが何の考えも無しに動いているとは思えない。絶対に何か意味と計算があって行動しているはず……。今日、私達の前に姿を現したのも、そもそも私に不正融資を発見させたのも、計算があっての行動だと思う」
「如月上級戦闘員と同じ……」と、鷺沢が顎に手を当てて言った。「会議室では私を含め、誰もノイズの動きを把握できませでした。あれは全員の死角を一瞬で把握し、共通する死角の中を移動しているんです。如月上級戦闘員の桁外れな頭脳と身体能力が合わさらないと出来ない芸当です。また、如月上級戦闘員は今まで相手を必要以上に傷つけることがないように、相手の急所をあえて外して一撃で倒す戦闘スタイルでした。でもそれは逆に言えば、相手の急所を一瞬で把握できる能力があるからこそ可能なんです。先ほど神崎上級戦闘員が倒された時のように、その気になれば相手に最大限の苦痛を与えることが出来るということに他なりません」
「仮にノイズと戦闘になったら、本気になったシオンが頭脳と能力とフル活用して、手加減無しに襲ってくるということか……」と、美樹がこめかみを揉みながらがら首を振った。「心強い味方ほど、敵に回ると恐ろしいものだな」
「まだ敵に回ったと決まった訳じゃないじゃないですか」と、綾が言った。
 その時、微かに地鳴りのような音が聞こえた。
 全員が無意識に天井を見上げた。
 一瞬置いて、緊急事態を告げる警報が鳴り響いた。
 鷺沢が通路に走った。
 ドアの向こうでは戦闘員達が慌ただしく走っている。
 鷺沢が一人を呼び止めて事情を聞いた。首都高側の入り口に、何者かが車で突っ込んだらしいと男性の戦闘員は言った。「緊急用のシャッターが下されているので、中に入っては来られないはずです。しかし警備担当の報告によると、ロータリーには体当たりした車がまだ残っているそうです」
 鷺沢はすぐにスマートフォンから館内放送を通じて指示を出した。綾はベッドから降りて、パジャマのまま戦闘用のグローブをはめている。「まだ無理だ」と制止する美樹に対して「寝ていられない!」と首を振り、吸入器を口に咥えて緊急用の噴霧式麻酔薬を吸った。
 スノウも医務室を出ようとして走った。
「お前はここにいろ!」と、美樹がスノウの肩を掴んだ。
 警報は相変わらずけたたましく鳴り響いている。
「来たのはノイズの関係者で間違いない! ノイズ本人だっているかもしれない! ノイズがいるということは、お姉様だってそこにいるのよ!」
 スノウが険しい顔をして美樹を振り返りながら言った。素直に言うことを聞くとは思えない勢いだった。仕方なく、スノウを含めた四人で首都高側の入り口に向かった。閉鎖されているシャッターの内側には、十人ほどの戦闘員が待機していた。
「報告します」と、紺色の競泳水着のような戦闘服に、太ももや二の腕までを覆う黒いサポーターを身につけた小柄な女の子が、敬礼しながら鷺沢の前に歩み出た。背中まである黒髪で、背はスノウと同じく150センチほどしかない。顔つきは身体のイメージ通り幼いが、表情は責任感に満ちている。
「朝比奈(あさひな)戦闘員」と、鷺沢は言った。
「はい。この中では私が最もランクが高いので、僭越ながらこの持ち場は私が取りまとめをしています。不審車両は二台。まだシャッターの外で待機しています」
 ハキハキとした口調で朝比奈が報告した。下手したら中学生に見える容姿からは想像できないほどの責任感のある口調だった。
 鷺沢が頷いて、その場の全員を見回した。「よし、これからシャッターを開ける。表に出るのは私と鷹宮上級戦闘員、そして朝比奈戦闘員だ。他の人間は内側で待機。神崎上級戦闘員、どうだ?」
「いけます」と、綾が答えて、拳と掌を合わせた。「麻酔が効いているだけだ、無理はするな」と鷺沢が言った。
「私も出る」と、スノウが進み出た。何かを言いかけた美樹を手をあげて制した。「わかってる。でも行かせて。私はお姉様が帰ってくるのなら、なんだってするわ」
 何かあったらすぐにシャッターを閉じろと鷺沢が言って、一人が通れるギリギリの幅で両開きのシャッターが開かれた。
 車から見て左から朝比奈、鷺沢、美樹、スノウ、綾の順番で横並びになる。
 黒塗りの車が二台停まっていて、車種は最新式のトヨタのセンチュリーとクラウンだった。クラウンにはプッシュバンパーが取り付けられている。こちらが体当たりした車体なのだろう。運転手はまだ乗っているらしいが、車内が暗くよくわからない。やがてセンチュリーの助手席が開き、黒いスーツを着た男が降りて後部座席を開けた。
 ドアの開いた後部座席から、ひときわシワだらけのスーツを着た男が難儀そうに降りてきた。
 かなりの肥満体で、清潔感がない容姿をしていた。
「まさか、賎妖か?」と、鷺沢が眉を潜めて言った。
 後部座席から降りた男が、両手を広げて歩み寄ってきた。
 鷺沢達が身構える。
「あっ」と、スノウが声を出した。
 車から降りてきたのは、三神の秘書を勤めている自らを「豚」と名乗った男だった。

NOIZの前編はあと2〜3話程度を予定しているのですが、今後のストーリーを調整する必要が出てきたため、更新ペースが少しゆっくりになります。
お待たせして申し訳ありませんが、どうか飽きずに読んでいただければ嬉しいです。
よろしくお願いいたします。

姉妹2のコピー

 スノウの所有するロシア製の高級車「アウルス」は静かに首都高を疾走した。
 前方を走る鷺沢の乗った車を追いながら、助手席の美樹が運転手に細かい指示を出している。
 後部座席には綾とスノウが座っている。空間は十分な広さがあり、座り心地は恐ろしく快適で、まるでリビングがそのまま移動しているようだ。しかしスノウはずっと親指の爪を噛みながら身をかがめ、険しい顔をしている。
「大丈夫?」と綾がスノウに聞いた。「車出してもらってなんだけど、私達を下ろしたらすぐにホテルに帰ったほうがいいわ。別にあんたが嫌いとか、意地悪とかで言っているんじゃないの。単純に危険なのよ。アンチレジストの本部に何者かが侵入したなんて前代未聞だし、鷺沢さんの話だと結構な被害も出ているみたい。もし強力な敵がいたら、私や美樹さんでも守れないかもしれない。悪いことは言わないから、本部に着いたらすぐに帰ること。わかった?」
 綾も美樹も、それぞれセーラー服と巫女服を模した戦闘服に着替えている。
 本部に侵入した敵がまだ居座っているとしたら戦闘は避けられない。それ以前に厳重にセキュリティがかけられているアンチレジスト本部に侵入できる敵とは、一体何者なのか。
 スノウは「わからない」と言って首を振った。顔色が悪い。「あまり見くびらないで。私やお姉様は一般人に比べて狙われる危険性が高いから、いざとなったら自分で自分の身を守れる術は子供の頃から身につけている。こう見えても結構強いのよ? 信じられないのなら一度手合わせしてみる?」
「強がってる場合じゃないでしょ? 相手は人妖かもしれないのよ? 誘拐犯なんかとは訳が違う、人間離れした怪物なのよ?」
 スノウは追い詰められたような表情のまま、何も言わずに窓の外に視線を移した。
 車は首都高の地下トンネルに入り、緊急車両用と書かれているシャッターの前で停まった。鷺沢が車から降りて、隣に埋め込まれたパネルに手をかざすと、自動でシャッターが開いた。内部はオレンジ色の照明が等間隔に配置されたトンネルが続いている。しばらく走るとロータリーのような場所に出て、その先はコンクリートの壁で行き止まりになっている。マイクロバスのような車と、数台の乗用車以外は何も無い。
 美樹が「着いたぞ。アンチレジストの本部だ」と言って助手席から降りた。どう見ても行き止まりだ。スノウも戸惑いながら車から降りる。
 鷺沢が壁の一部に掌を当てると、壁の中央が左右に開いて入り口が現れた。先ほどのシャッターと同じ仕組みだ。
 四人が中に入る。
 内部もこれといった装飾はなく、外壁と同じコンクリート剥き出しの壁が一直線に伸びている。左右にはグレーに塗装された鉄製の扉が多数あるだけだ。
 荒らされた様子はないが、静まり返っている。
 綾と美樹が視線を合わせて頷いた。綾が先頭に、美樹が最後尾に立って、鷺沢とスノウを挟むように一列になって進んだ。
「まるで一昔前の生物研究所みたい……」と、スノウがしんがりを歩く美樹を振り返って言った。
「一昔前どころか本当に古い」と、美樹が言った。「だが、今回のような場合には役に立つ。内部は一本道で、見ての通り極力遮蔽物を無くしている。敵が隠れられないようにな。出入口は今入ってきた所と、この通路の突き当たりの二箇所のみで、一本のチューブのような構造だ。だからこの隊列が襲われたときに最も対処しやすい」
「車が随分と少ないように思えたけど?」と、スノウが言った。
「隊員の多くは地上の隠し通路から入っている。地下鉄の駅やビルの中に直通している通路があって、ロータリーの手前に出られる。私も車で来たのは久しぶりだ」
「ドアの中の設備は新しいんですよ」と、鷺沢が言った。「ここまで閉塞感があると職員のメンタルにも影響しますから、会議室やトレーニングルームの内装には気を使っています」
 静かに、と先頭を歩く綾が言った。
 微かに呻き声のようなものが聞こえてくる。
「中央会議室だな」と、美樹が言った。視線の先に木製のドアがある。
 綾が慎重にドアを開けた。
 三十人ほどが入れそうな会議室だが、コンピューターが床の上に落ち、椅子や机が散乱している。倒れている戦闘員やオペレーターの姿が目に入った。四人がそれぞれ駆け寄って介抱すると、いずれも致命傷ではないようだ。
 突然、天井に埋め込まれたスピーカーが起動した。
 ──遅かったな。
 機械加工された男性の声。
 聞き慣れた声だ。
「ファーザー?」と鷺沢がつぶやいた。
 四人は無言で天井を見上げた。
 ──アンチレジストがここまで不甲斐無いとは思わなかった。人妖相手に、よく今まで持ち堪えられたものだ。
 鷺沢が天井に向かって叫んだ。「ファーザー、どこにいるんです?! みんなあなたを待っていたのに、そんな他人事みたいに……」
 ファーザーは低い声で笑った。
 スノウはガタガタと震えている。
 異様な怖がり方だ。
 歯がガチガチと鳴り、その音は近くにいた綾にまで聞こえた。綾が気がついて、スノウの手を握った。
「どうしたの? 大丈夫?」
 綾が問いかけても、スノウは戦慄したままだ。こんなスノウの姿を見たのは初めてだった。美樹と鷺沢もスノウのただならぬ様子に気が付き、近くに駆け寄った。美樹が屈んでスノウに目の高さを合わせて「どうした?」と聞いた。
「な……なんで」と、スノウが震える声で言った。
 スノウは両手で頭を抱える。「なんでファーザーシステムが起動しているの……? こっちから操作できなくなったはずなのに……」
「……なんだと?」と美樹が言った。
 スノウは小刻みに首を振った。歯が鳴らないように、必死に歯を食いしばっている。
 ──あら? スノウもいるの?
 スノウの顔から、ふっと表情が消えた。
 突然地面が消えて、自分が奈落に落ちていくのを理解した瞬間のような顔をしていた。
 突然ファーザーが女性のような口調になったので、スノウ以外の三人は目を見合わせた。
 スピーカーに一瞬ノイズが走り、プツンと音を立てて通話が途切れた。
 会議室は水を打ったように静かになった。
 事態が把握できない。
 今のは一体何なんだ。
 やがて、コツコツという足音が廊下に響いてきた。
 こちらに向かってくる。
 誰も口を開かず、押し黙ったまま会議室の入り口を凝視した。
 人影が現れた。
「……シオンさん?」
 綾が呟くように言った。
 その人は、胸元の大きく開いた黒いドレスを着ていた。ぬめるような光沢の、最高級のシルクが使用されていることがひと目でわかる。赤いエナメルのヒールから黒いガーターベルトの付いたストッキングが伸び、ドレスの中に続いている。深紅のジャケットを半脱ぎにして腕に掛け、両手には黒いレースの手袋をはめていた。そして、所々に血のような赤い毛がマダラに混ざった長い金髪を、ツインテールにまとめている。
「お前……なにをしている?」
 美樹が幽霊を見たような口調で言った。
「や……やっぱりあんたの仕業だったのね!」
 突然スノウが叫んだ。三人が驚いてスノウを振り返る。スノウは両手を血が出るほど握り込み、歯をむき出しにしてドレスの女性を睨んでいた。
「あら? どうしたのスノウ? そんなに怖い顔をして?」
 女性は歌を歌うような柔らかい口調で言った。スノウの取り乱した様子など意に介さず、人差し指で自分の唇を撫でながら首を傾げている。「久しぶりの姉妹の再会なんだから、もう少し喜んでもいいんじゃないかしら?」
「お前は私のお姉様じゃない!」
 スノウは喉が裂けそうなほどの勢いで叫んだ後、憎々しげに食いしばった歯の隙間から「……ノイズ・ラスプーチナ」と絞り出すように言った。
「ノイズ・ラスプーチナ? シオンじゃないのか?」
 美樹がスノウからノイズに視線を移した。服装や髪の色以外はシオンそっくりだが、表情や雰囲気がまるで違う。ノイズはゆっくりと室内に入ってきた。
「シオンさん何やってるの?! みんな心配してたのよ!」と言いながら、綾がノイズに近づいた。
「綾!? ダメ!」とスノウが叫ぶ。
 ノイズの姿が一瞬で消えた。
 四人が呆気に取られる暇もなく、ゴリュッ……という嫌な音が室内に響いた。
 再び姿を現したノイズは綾のセーラー服のリボンを掴み、前屈みになった綾の腹に膝を打ち込んでいた。
「──ぐぷっ!?」と、綾の口から水っぽい音が漏れた。
 ノイズは「くふっ」と小さく笑うと、綾の腹に打ち込んだ膝を別の生き物のようにねじり、胃と肝臓をすり潰すように掻き回した。ぐぢゅり……という厭な音と共に、綾の身体が電気に打たれたようにビクンと痙攣した。
「ぎゅぶえッ?! げぅッ?! ゔぶっ……う……うぶえろおぉぉぉぉ……!!」
 綾は膝から崩れ落ち、額を床にしたたかに打ち付けた。そのまま床にエビのように丸まり、白目を剥いたまま嘔吐した。一瞬で急所という急所を同時に潰されたことによる凄まじい苦痛が身体中を駆け巡り、両手で腹を抱えたまま痙攣している。
「まぁ汚い。人前で嘔吐するなんて、私だったら恥ずかしくて生きていけません」
 ノイズは笑みを浮かべたまま口元に手を当て、蔑みの混ざった視線で綾を見下ろした。
 再びノイズの姿が消え、スノウの前に表れた。横切られたはずの美樹と鷺沢にはノイズの姿は見えず、風だけが美樹と鷺沢の髪を揺らした。
 ノイズは中腰になって、真っ青になったスノウの顔に鼻が触れ合うほど自分の顔を近づけた。
「そんなに怖い顔しないで? 大丈夫、スノウの大好きなシオンは、ちゃんと『良い子』にしているわ」
 ノイズが至近距離でスノウの目を覗き込んで首を傾げた。顔は満面の笑みだが、目は全く笑っていない。綺麗なエメラルドグリーンの瞳の下半分は、内出血したように赤色がせり上がっている。シオンと同じく顔の造形が異様に整っているだけに、背筋が凍るような不気味さがあった。
 スノウは恐怖を振り切り、ノイズに向けて蹴りを放った。体幹と重心を固めた、美樹や鷺沢が見ても唸るような見事な蹴りだった。攻撃が当たる前にノイズの姿が消え、スノウの蹴りは空を切った。
 ノイズは机の上に姿を現した。 
 下着が見えるのも構わずしゃがみこんで、「危ないじゃない?」と言いなら自分の小指を蠱惑的に舐めている。
「あら? あなた……」とノイズが嬉しそうな顔をして、スノウから美樹に視線を移した。「良い目をしているわね? 目の奥底が暗いわ。『悪い子』の目……過去になにがあったの?」
 何が嬉しいのか、ノイズは限界まで口元を釣り上げた。
「許さない……絶対に許さない!」と、スノウが叫んだ。
 スノウが美樹の横をすり抜け、ノイズに飛びかかった。跳躍して前転し、ゴシックロリータのスカートを翻してノイズ目掛けて踵落としを仕掛ける。シオンの得意技だ。派手な音を立てて机が割れたが、ノイズの姿は既に消えていた。ノイズはそのまま姿を表さず、床に転がった綾が苦しげに呻く声だけが残った。


※こちらの文章はラフ書きになります。製本時には大きく内容が変わる可能性があります。

NOIZ7

イラストレーターさんが「イラストの息抜きにイラストを描く」というのが最近わかった気がします。
少し前から本編を書く前に筆鳴らしとして、頭を空っぽにして落書きしてから書くようにしています。
現在書いている本編に合わせて、シオンさんとスノウのネタが多めです。

スクリーンショット 2021-02-18 12.14.02


【コンプレックス】
 スノウがまた会見でやらかしたらしい。
 シオンは自室で頭を抱えながら、ひっきりなしにスマートフォンに流れてくるニュースの見出しを目で追った。
「『私の言う通りにしろ』と威圧的。ロシアの大手製薬会社アスクレピオス創業家の令嬢」
「『プランは全て私が考える』と一喝。提携先立場無し」
 名誉のために言うが、スノウは有能なのだ。
 事実スノウの発案で業務提携した企業のほとんどは最初こそ反発するものの、結果的に当初の目論見以上の成果を挙げ、円満に感謝されて終わることがほどんとである。失敗した提携は決まって相手がスノウに反発し、勝手にプランを書き換えた場合に限っている。
 それに身内の贔屓目ではなく、可愛いところもあるのだ。
 少なくとも姉である自分は慕ってくてれいるようで、来日するたびに自分の所に泊まりに来ては猫のように甘えてくる。好きなゴスロリブランドをに一緒に行くと、子供のようにはしゃぐ。そして私が料理を作ろうとすると「お姉様は休んでて! ここは私がやるから!」と気を使ってくれる健気な面もあるのだ。
 本人からはニュースになっていることなど知ってかしらずか、あと一時間ほどで着きますと可愛い絵文字付きのメールがきた。

「あのねスノウ、発言する時は相手がどう思うか考えてから発言しないと……」
 シオンの声に応える代わりに、スノウはシオンの腰に手を回し、身体に顔を押し付けた。ソファに座ったシオンに膝枕をされたまま抱きついているスノウの姿を見たら、先ほど記者会見でコテンパンにやられた相手企業の役員はなんて思うだろう。
 無意識にシオンもスノウの頭を撫でてしまう。これではまるで甘えている犬だ。
「見えない……」とスノウが静かな声で言った。
「え?」と、シオンが戸惑った声で言った。
「お姉様の顔が見えない! その胸で!」
 胴体の方に顔を向けているスノウが言った。確かにシオンからもスノウの顔が見えない。
「お姉様が私に来るはずだった栄養を全部持っていったのよ……。それに性格だって、本当はお姉様みたいに誰からも好かれる性格になりたかったわ……」
 スノウがさらに強く抱きついた。
 こうやって甘えてくる時は、なにか嫌なことがあったのだろう。
 本社の人間に会見を咎められたのかもしれない。ここは姉として慰めないわけにはいかない。甘えられるだけの存在ではなく、頼れる姿を見せなければ。
「大丈夫よ。スノウは今のままでもとても魅力的だもの」
 本当? と言ってスノウが顔を上げた。うん、可愛い。
「性格や体型なんて簡単に変わるものではないし、自分だけの力ではどうにもならないわ。周囲の環境やサポートがとても重要なの。スノウの責任じゃないわ」
 スノウが起き上がってシオンの横に座った。
「そう……なのかな?」
 スノウが俯いたままポツリと言った。可愛い。
「そうよ。だからまずはちゃんと栄養を摂って、しっかり休息することが大切なの。あまり根を詰めずに、今日くらいはゆっくり休んでね」
「……うん」
 スノウが頷いて、シオンが微笑んだ。
「そうと決まったら、まずはしっかり栄養と摂らないとね!」
「……えっ?」
 スノウの表情があからさまに変わった。
 顔色が悪いスノウに反して、シオンはニコニコしている。「いつも疲れているのにスノウが料理を作ってくれるから、今日はその前に私が頑張って作ったんだから!」
 シオンが胸の前で力強く両手を握った。
 いや……あの……と言い淀むスノウを尻目に、シオンはキッチンに入るとゲル状になった紫色の物体をトレイに乗せて運んできた。しかも表面が真っ黒に焦げている。
 絶句するスノウに、シオンがニコニコしながら言った。
「頑張ってグラタン作ったのよ! タマネギを買い忘れて紫キャベツを使ったからちょっと色が悪いけれど、栄養満点の納豆もちゃんと入って──」
 スノウは意識が遠のくのを感じながら、明日の仕事が全てキャンセルになった場合のスケジュールを考え始めた。


【ロシア人美人コスプレイヤーKZさん】
「へぇ〜、コスプレって文化が日本にはあるんだ……」
 風呂から上がったスノウがソファに寝転びながら呟いた一言に、シオンはぎくりと背中を硬直させた。トレイに載せているティーポットとカップが小刻みに震えている。
「うわ! すご! こんなに人だかりができるの?! お姉様、見て見て!」
 平静を装ってコーナーソファに座ったシオンに、スノウが目を輝かせながらタブレットの画面を見せてきた。こう言う時は子供っぽく可愛いのだが、シオンは内心焦っている。そ、そうね……とつい素っ気ない返事をしながら、スノウの画面を盗み見た。コスプレイヤーを取り囲むカメラマンが黒山の人だかりになっている。前回のコミックマーケットに参加している人気コスプレイヤーを特集したネット記事だ。
 そして視界の隅に見つけてしまった。
 関連記事で表示されている、「話題沸騰! 人気ロシア人コスプレイヤー・KZさんインタビュー ”コスプレはもはや世界的文化” 自身が日本のアニメに衝撃を受けた日を語る」という記事を。
 これはまずい。
 いや、コスプレが人気なのはまずくないが、人気ロシア人コスプレイヤー・KZさんのくだりが非常にまずい。
 スノウは俄然興味が出たらしく、ケーキを食べながら「コミケっていうイベントがあるのね!」などと言っている。まずい。次のコミケに連れて行ってくれなどと言われると非常に困る。なぜならその日シオンはヴァ○パイアシリーズのモ○ガンになる予定なのだ。
「ス、スノウは行っても面白くないかもしれないわよ」と、シオンが言った。声が少し震えている。「私と違ってスノウは漫画やアニメは見ないし、そういうのは元ネタが分からないと……」
「うーん、でもこの人達すごく楽しそうなのよね。楽しそうな人達を見るのは好きだから……」と、スノウが言った。「ほら、私達の国ってなんか硬いじゃない? もしロシアで開催できれば、そういうイメージも少しは薄まると思うし、なにより潜在的な需要があるのかも……」
 まずい、スノウがビジネスの顔になってきた。
 母国開催するなどと言い出したら、需要調査として日本のコスプレイベントのために来日する外国人の数を調査するだろう。カメラマンはもちろん、自らコスプレ参加している外国人も調査するはずだ。人気ロシア人コスプレイヤー・KZさんなど真っ先にスノウの目に留まる。
「……よかったら、今度一緒に行ってみる?」と、シオンが言った。
「えっ? いいの?!」
 スノウが目を輝かせた。
 やむを得ない。
 コスプレをしていた程度でスノウがシオンを嫌いになることはありえないが、どうせバレるのなら、バレ方というものがある。それに吸血鬼は、相手を噛むことで仲間を増やすと言うではないか。
 そう、モリガ○には、リ○スという妹がいるのだ。
 体型的にもピッタリだろう。
 呑気に喜ぶスノウを見て、シオンは犬歯を見せて笑った。


【前衛芸術】
「や……やっと出来ました……」
 シオンがヘナヘナとキッチンの床に座り込んだ。肩で息をしながら、近くにあったミネラルウォーターを煽るように飲む。床には黒いチョコレートの破片や、爆発して飛び散ったクリームが散乱していた。とりえあえず大きな破片はひょいひょいと手でつまみ、クリームは布巾で簡単い拭いた。あとはフラーバとルンバに任せればいい。
 呼吸が整い、ようやく立ち上がると、ゴムでひとつに留めた長い金髪を解く。
「素晴らしい……。これで、もう料理下手なんて言わせないですよ……。ふふ……ふ……」
 シオンにしては珍しく、まるでマッドサイエンティストのような邪悪な笑みを浮かべている。
 システムキッチンの上には、便宜上チョコレートケーキと呼ばれるべき物体が置かれていた。
 その物体はチョコレートケーキのような色と大きさをしているが、形状はなんとも名状し難く破壊的であった。茶色いレンガのような物体は所々が爆発したように弾け、白いクリーム状の液体がものすごい勢いで叩きつけられいる。叩きつけ方もなんとも邪悪である。現在ではすっかり見なくなったが、昭和のバラエティ番組などで「パイ投げ」と称し、皿に盛られたクリームを相手の顔目掛けて投げ合うことがあったが、このクリームの叩きつけ方はまさにそれだ。
 夫婦喧嘩をした陶芸家が、自らの作品に八つ当たりをしたのなら、もしかしたらこんな作品ができるのかもしれない。その物体の前に「妻への怒り」と作品名の書かれたプレートを置けば、何人かの専門家はあるいは感動するだろう。もしくは新進気鋭な前衛芸術家の作品のようにも見える。サザビーズに出品したのなら、あるいは数億円の値がつくのかもしれない。
 しかしシオンはその物体を丁寧に梱包し(梱包は至極綺麗であった)、綾と美樹に電話をかけた。チョコレートケーキを作ったので、一緒に食べませんか? などと訳のわからない言っている。この部屋には「妻への怒り」、もしくは前衛芸術作品はあるが、チョコレートケーキなど無いなずなのに。
 一時間ほどして、美樹と綾が部屋に現れた。
 綾はお守りを両手で握りしめ、目に涙を溜めて内股になって震えている。美樹はなぜか白装束を着て、虚空を見つめて祝詞を唱えていた。まさかこの格好でバイクに乗ってきたのだろうか。
 キッチンの方ではルンバとフラーバが喧嘩するように床を掃除している。

予告


 シオンのマンションを訪れた翌日、綾と美樹は指定された午後六時にスノウの宿泊しているホテルを訪れた。
 海外の要人が宿泊するホテルで、スノウの滞在しているスイートフロアには着物を着た専属のアテンダントがいて、綾と美樹をエレベーターから部屋まで案内してくれた。ドアをノックすると、会見に同席していたスノウの秘書がドアを開けて出迎え、お待ちしておりましたと流暢な日本語で言った。
 室内は家族向けのマンションのように広く、歴史を感じる英国調のインテリアでまとめられていた。秘書がリビングに案内すると、スノウは相変わらずゴシックロリータの服を着て、執務机で真剣な顔をしながらパソコンを操作していた。パソコンの隣には部屋の雰囲気にそぐわないカラフルなチュッパチャプスのホイールディスプレイが置かれていて、スノウが既に食べたのか、三分の一ほどが無くなっている。
「そこに座ってて」とスノウがパソコンのディスプレイを見たままぶっきらぼうに言い、ロシア語で秘書になにやら指示を出した。秘書が二人にソファを勧めると同時に、ルームサービスが三人分の紅茶を持って部屋に入ってきた。紅茶の他に小皿が二つあり、イチジクのジャムと小さなスプーンが添えられている。シオンが好きだった組み合わせだと綾は思い、胸が詰まるような感覚を覚えた。
 秘書が一礼して別室に移動すると、三人はしばらく無言になり、スノウがキーボードを叩くカタカタという音だけが広いリビングに響いた。スノウは真剣に仕事をしているらしく、時々何か呟きながら画面を見つめ、英語で二本、ロシア語で一本、電話をかけた。ディスプレイから覗くスノウの真剣な顔が青白い光に照らされている。まるで人形が座っているように見えた。シオンも人間離れした現実感が無い容姿をしていたが、スノウも同様に、どこか遠い世界の存在のように思えた。
「電話の内容を聞くに、海外支社の財務諸表を照合しているらしいな」と、スノウの英語を聞き取った美樹が綾に耳打ちした。「相手を雑に扱うポーズをすることは主導権を握るための常套手段だが、どうやら本当に急用らしい。急かさない方がいいだろう」
 しばらくして、スノウが椅子に座ったまま伸びをした。仕事が終わったらしい。スノウはまるでマニ車のようにチュッパチャプスのホイールディスプレイを回し、くじ引きをするように一本を引き出して、慣れた手つきで包み紙を解いて口に咥えた。一日の仕事を終える際に毎回行うルーティンなのか、あまりにも滑らかな動作だった。スノウはチュッパチャプスを口に咥えたままソファに歩み寄り、「悪かったわね。こっちから呼んだのに待たせちゃって」と二人に言った。
 スノウは二人に向かい合って座ると、背もたれに身体を預けてストレッチをするように背中をそらしながら、親指と人差し指で目頭を揉んだ。
「随分と疲れているみたいだな」と、美樹が言った。
 スノウは首を振った。「別にいつも通りよ。やることをやるだけ。まぁ、確かに少し立て込んではいるけどね……」
 強がってはいるが、スノウは明らかに疲労の色が見て取れた。綾と美樹も十分に若いが、スノウはそれよりもはるかに若く、身体も小さいのだ(本人に言うと怒るはずだが)。世界的企業の中枢に属し、海外で商談をまとめるなど、その小さな身体にかかっている重圧はいかほどのものかと二人は思った。もちろんそれに見合うはずの収入は得ているはずだが、スノウの年齢からすればそれは大して重要ではないのかもしれない。
「ウイスキーの業務提携の話は順調なのか?」
 美樹の言葉に、スノウは紅茶を飲みながら首を振った。
「順調もなにも、昨日決裂したわ」
 まるで一度も訪れたことがない店の閉店を告げるような、あっさりとした口調でスノウが言った。あまりの興味の無さに綾が驚いた。
「えっ? そのために日本に来たんでしょ?」
「別に。最初からウイスキー事業なんて興味が無いし。あの程度の利益が見込める商談なんていくらでも作れるわ」
 スノウはカップをソーサーに戻すと、小皿のジャムをスプーンで掬って口に運んだ。そして真剣な顔をして二人に向き合った。
「あの男はむしろ、あんた達の方が関係があるんじゃない? アンチレジストとして監視対象にした方がいいと思うわ」
「どういうことだ?」と、美樹が身を乗り出して聞いた。
 部屋がノックされ、スノウの秘書が顔を出して「お見えになりました」と言った。
「ちょうど良かった」とスノウが言った。
 綾と美樹が注目する中、聡明な雰囲気の女性がリビングに入ってきた。女性はスリットの入ったタイトスカートのスーツを着て、ショートカットの髪を軽く染めている。元上級戦闘員で、オペレーターのリーダーを務めている鷺沢(さぎさわ)だ。現在は行方不明になったファーザーの代わりに代理で総指揮を執っているアンチレジストの重要人物だ。
 鷺沢は驚いている綾と美樹に目で挨拶し、スノウの前に進み出た。
「はじめまして。アンチレジストでオペレーターのリーダーを務めている、鷺沢です。現在、指揮官であるファーザーに代わり、私が臨時で指揮をとっています。ご実家のラスプーチナ家、およびアスクレピオス社からは長年多額の寄付をいただき、感謝しております」
 鷺沢はスノウに対して丁寧に頭を下げた。
 スノウは気まずそうに髪を手櫛で梳いた。「そんなに畏(かしこ)まらなくても構わないわ。べつに私が偉いわけじゃないし」
 綾と美樹は顔を見合わせた。アスクレピオスから資金提供があることは昨日スノウの口から聞いていたが、鷺沢のここまでの平身低頭さから察するに、その額はかなり膨大なことは容易に想像がついた。
 さて、と言いながらスノウは三人に向き合った。「本当はこんな回りくどいことはしたくないんだけど、説明するよりも見てもらった方が早いわ」
 スノウが指を鳴らすと、秘書がキッチンワゴンを押してリビングに入ってきた。ワゴンの上にはウイスキーのボトルが二本とチューリップ形のテイスティンググラスが八脚、紙コップが四つ、小ぶりな三角フラスコが二つ乗っている。ウイスキーのラベルは青と赤の二種類があり、それぞれに凝った書体でレイズモルトのロゴが書かれている。
「これ二本で六十万円だって。青い方がスタンダードラインの『ブルーラベル』で、赤い方がリミテッドラインの『レッドラベル』。都内のバーで未開封のボトルを買ってきたの」
 ボトルの説明をするスノウを三人が無言で見つめた。一体なにをするつもりなのだろうと綾は思った。ほぼ未成年しかいない中、まさかこの出会いに乾杯というわけではあるまい。スノウはスタンダードラインのブルーラベルを手に取り、慣れた手つきでテイスティンググラスと三角フラスコに中身を注いだ。
「綾、飲んでみる?」と、スノウが意地悪そうな顔で言った。
 綾が首を振った。「飲まないわよ。というか飲めるわけないでしょ」
「じゃあ鷺沢。香りだけ試してみて」
 鷺沢がグラスを手に取り、香りを嗅いだ後に顔をしかめた。
「……これは本物ですか?」と鷺沢が言った。
 スノウが頷いた。「本物で間違いないわ。偽造防止のセキュリティラベルも確認できた」
「……ウイスキーは好きでよく飲むんですが、これは溶剤やゴムみたいな、どちらかと言えばネガティヴな香りが強い気がします。アルコールもかなり立っていて、私はあまり好みではないです」
 スノウに促されて美樹も香りを嗅ぎ、似たような感想を述べた。スノウが真剣な顔で何回か頷いた。
「じゃあ、ここからが本題」と言って、ポケットから小さなビニールパックを取り出して三人に見せた。ピンク色の粉薬のようなものが入っている。
「これが何だか、わかるわよね?」と、スノウがビニールパックを振りながら言った。
「チャームの検出薬だ」と、美樹が答えた。
「そう。あんた達もよく使っているでしょ? 人妖が異性の人間を魅了するために分泌する体液、チャームに反応して青く変色する検出薬」
「……なんでのスノウが持ってるのよ?」と、綾が腕組みをしながら聞いた。
「なんでも何も、これウチの機密部署が作っているんだもの。こういった特殊薬の開発と製造、そしてその効果を秘密裏に実地検証できる環境は、我々製薬会社にとって非常に重要なの」
「アスクレピオスにとってアンチレジストは実験場というわけか。多額の寄付もそのためか?」と、美樹が言った。
「もちろん」と、スノウが言った。「でも悪く取らないでほしいわ。あんた達もこのチャーム検出薬を便利に使っているでしょ? 持ちつ持たれつってやつよ。残念だけど、純粋な意味での寄付は世の中にそう多くはないわ。多額の寄付をする代わりに、それなりのリターンは求めている。優先的な情報提供、プロモーションにブランディング、イメージアップや節税。なんらかの見返りや費用対効果があるからこそ、多くの企業や成功者は寄付という名目の広告宣伝費を支払うのよ。ウチとアンチレジストの関係は、プロモーションというよりはビジネスパートナーに近いわ。人妖やチャームのデータは新薬開発に随分と役に立っている。アンチレジストとの提携は、どこかのウイスキーメーカーとの提携とは比べるものバカらしくなるほど我々にとって有益なのよ」
 スノウがブルーラベルの入った三角フラスコに検出薬を入れた。円を描くように振って攪拌し、白いテーブルクロスを背後にかざす。ウイスキーの色に変化は見られない。
 スノウは「セーフね」と言うと、何の迷いもなくテイスティンググラスの中身を一気に口に流し込んだ。鷺沢以下三人がぎょっとした表情になる。綾は「ちょっ!」と言ってスノウに手を伸ばした。たっぷりダブルの量はあったはずだ。スノウは目を瞑ったまま、しばらく口の中でウイスキーを転がしている。徐々に眉間にシワが寄り、そのまま紙コップを引っ掴むと口の中のウイスキーを勢いよく吐き出した。
「ブリャーチ……変なものは入っていないけれど、香りも味も最悪ね」
 スノウが険しい顔をしながら、袖で口元を拭った。「あちこちから粗悪な原酒を仕入れて、なにも考えずに混ぜただけという感じ。アルコールの刺激と、新聞紙を燃やしたような嫌な煙たさが目立つ。苦味と雑味の主張が強いのに変な甘さもあって気持ち悪いわ。こんなものを作るあいつも信じられないし、有り難がって買う奴はもっと信じられない」
「飲んで大丈夫なの……?」と、綾が呆れたように聞いた。
「飲んでないわ。ちゃんと吐き出したじゃない」
「でも……」
「テイスティングくらいするわよ。仮にも業務提携を提案したのは私なんだし。未成年だから味見はできないけれど良いものです──なんて無責任な仕事は私はしないわ。たとえ決裂した交渉であってもね」
 スノウは話しながらレッドラベルの封を開け、ブルーラベルと同様にテイスティンググラスと三角フラスコに注いだ。スノウが香りを嗅ぎ、顔をしかめる。
「さっきのに比べたら多少はマシだけど、こっちも大したことないわね」
 スノウはレッドラベルの入った三角フラスコにチャーム検出薬を入れた。一見変化が無いように見えたが、白いテーブルクロスに透かすと液体の縁が薄く青みがかっている。
「そんな……」と、鷺沢が呟くように言った。
「これは飲まない方がいいわ」と、スノウが言った。「ごく微量だけどチャームの反応が出ている。この濃度なら依存レベルまで相手を魅了することはないでしょうけれど、製造過程でチャームが混入するなんてあり得ない。あの男が意図的に添加していることは間違いないわ。レイズモルトの味は飲むに値しないけれど、なぜか異様な人気を得ている理由はこれよ」
 スノウは三角フラスコを親指と人差し指で摘んで、顔の横で振った。「レイズモルトは珍しく、一般的にウイスキーとは縁遠いと言われている女性から爆発的な人気になった。やがて、男性が女性の気を引くためにレイズモルトを買い漁り始めた。雑誌でも特集が組まれ、『個性的な味』なんて言われながら一気に知名度が広がった。ものは言い様ね。実際はチャームの依存性で中毒症状が起きているだけなのに」
「あのレイズ社の社長が人妖だったのか……」と、美樹が言った。
「すぐに動かないと。こんなに広範囲にチャームが広がっているなんて前代未聞ですよ」
 綾の視線に鷺沢が頷いた。同時に鷺沢の携帯が震えた。緊急用の回線だ。鷺沢は「失礼」と言って通話ボタンを押した。電話に出た鷺沢の表情がみるみる変わっていく。まるで親しい者の死を突然知らされたような顔になった。
「どうしたんですか……?」と、綾が不安そうな表情で言った。
 鷺沢は通話の切れた携帯を見つめていた。「アンチレジストの本部が……何者かに襲われたみたい」

※こちらの文章はラフ書きになります。製本時には大きく内容が変わる可能性があります。

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