2018年10月21日追記

ウニコーン様からイラストをいただきました!
該当シーンに貼っておりますので、お楽しみください。
ありがとうございました!




 ──寒い──寒い──。
 俺は一体どうなっちまったんだ……?
 人妖になれたら、全てが上手くいくはずじゃなかったのか?
 冷子が裏切ったのか?
 やはり、人妖に取り入ったのが間違いだったのか?
 いや、それしか方法が無かったじゃないか。
 施設を放り出されてから、ヤクザの下働きでクソみたいな仕事をしているただのヤク中だった俺は、あのまま生きていても野垂れ死ぬだけだった。
 人妖……ジンヨウ……施設で大人達が話していた聞きなれない言葉だ。
 施設にいた頃は何のことか分からなかったが、薬の売人をしている時、偶然客から人妖の噂を聞いた。
 人妖は見た目は人間で、そいつとセックスするとクスリ以上の快楽が得られるが、依存性がハンパない……と。
 俺たちは生きた麻薬にされるための実験をされていたって訳だ。
 苦労して冷子と接触して、殺されるのを覚悟で取り入ったのに……。
 寒い……。
 くそ……寒いな……。
 何も見えないし、何も聞こえない。
 身体が上を向いているのか、下を向いているのかすらもわからない。
 酷い寒さだ……。
 あの時よりも寒い。
 俺がデブだった頃。
 集団で虐められ、泣きながら家に帰ったら「やり返すまで帰ってくるな」と家を追い出された。
 雨の降る中、屋根の無い公園のベンチで途方に暮れた。
 あの時は世界の全てから裏切られたように感じた。
 寒い。
 寒い。
 寒い。
 やり返すまで帰ってくるなだと……?
 やってやったさ!
 親に「やり返せ」って言われたから、俺はそいつらの腹を、そいつの親の目の前で掻っ捌いて中身を掻き回しながらマス掻いてやった……。
 今まで俺が受けた苦痛をまとめて一括返済してやったのさ!
 テメェらがやれって言ったくせに、たかが腹ん中ミンチにしてぶっ殺してやった程度でぐちゃぐちゃ喚きやがって!
 クソが! 死ね! みんな死ね! 死なねぇなら俺が殺してやる!
 まだ三人しか「やり返して」ねぇんだ! ふざけやがって! 死ね! 全員死ね! 苦しんでもがいて死ね!
 クラスの奴ら全員と担任を殺す──いや、唯一庇ってくれたあの女の子だけは見逃すつもりだったが……その前に取っ捕まって、少年院ではなくこの施設に入れられた。
 思えば施設に入る前も出た後も最悪だった……。
 施設では訳の分からない薬打たれたり検査や実験をされたりして、ゲロとクソを垂れ流しながら一晩中のたうち回ったことも何回もある。
 少し後に入ってきた双子の姉妹となんとなく話すようになって……。
 ……畜生。
 俺はいつも食い物にされてきた……。
 何年か経って、突然施設の中が慌ただしくなって、大人たち全員がバタバタと荷物や資料をまとめて出て行きやがった。
 スポンサーだか経営者だか、とにかく一番偉い奴が急死して、権利者の間で揉めはじめたとか言っていたが……。
 ──双子とははぐれちまったが、俺はヤバい雰囲気を感じてどさくさに紛れて逃げ出した。
 大人達のあの慌てよう……俺たちをそのまま生かしておく筈が無い。
 まぁ、双子も上手く逃げ延びたってわかって少しホッとしたがな……。
 真冬の山の中を、手術着みたいな薄い服一枚と裸足で必死に逃げた。
 なんでそこまでして生き延びようとしたんだろうな……。
 その時も寒かった……。
 今も……。
 寒い。
 寒い。
 なんだ、今も寒いじゃないか……。
 誰か暖炉に火を入れてくれよ……。
 俺の部屋の暖炉だ。薪は暖炉の横に置いてあるから……。
 誰か火を……。
 誰か……。
 高価な服も、豪華なメシも、肝心な時に役に立たないじゃないか……。
 誰か、俺の味方をしてくれ……。
 俺に大丈夫だと言ってくれ……。
 誰か……。


「もう一度言うぞ」と、美樹が眉間に皺を寄せながら冷子に言った。シオンも見たことが無いような恐ろしい表情だった。「こいつを治す方法を教えろ」
 美樹が指を指した先には、異常に脂肪が増殖した蓮斗が四つん這いで頭を抱える様にしてうずくまっている。肌の色は青白く変色し、所々に青や紫の欠陥が透けて見えた。塞がれた口腔の奥からモゴモゴとくぐもった不明瞭な声が聞こえる。何か言葉を発しているのか、ただ単に呻いているだけなのかはわからない。
 この様な姿になって、蓮斗は今何を思っているのだろうかとシオンは思った。いや、何も思っていなければいいのに。そうであってほしい……。肥満を理由に酷い虐めを受けた蓮斗にとって、脂肪に覆われた今の姿は発狂するほど堪え難いものだろう。それならば、いっそ何も考えられなくなっていた方が幸せなのかもしれない。
「そうねぇ、私なら出来なくもないわね」
 冷子が静かに言った。美樹とシオンが固唾を呑む。背後では蓮斗が微かに身じろぎした。
「でも、こうなったらもう私でも無理よ」
 冷子が再び指を鳴らす。
 背後の蓮斗が硝子を引っ掻く様な悲鳴を上げ、美樹とシオンが同時に耳を塞いだ。蓮斗は芋虫の様な指で頭を強く抱える。脂肪でぶよぶよになった頭皮に指が埋まり、一部が破れて血が滲む。
 美樹とシオンはなす術も無く呆然とその様子を見守るしかなかった。
 蓮斗はもがき苦しむ様にしばらく頭を振っていると、やがてぴたりと動かなくなる。
 少しの沈黙。
 突如、蓮斗の背中に無数の瘤のようなものがぼこりぼこりと発生した。瘤は盛り上がり、数を増やしながら独立した生き物のように蠢いている。布の破れる音。蓮斗の伸び切った赤いカットソーが破れ、中から角材のように太いカタツムリの目の様なグロテスクな触手がわらわらと溢れた。シオンが「ひっ」と小さな悲鳴をあげる。
「治験は成功ねぇ。皮膚の下にあるうちは脂肪に見えるかもしれないけれど、こいつに注入したのは私の触手の細胞に手を加えたもの。人妖になれる薬と称して、拒絶反応が起こらないように少量ずつこいつの体内に蓄積させておいたの。今、私の合図でこいつの脳に完全に浸透したわ。思考はもはや見た目通りナメクジやカタツムリと変わらない。あとは本能の赴くまま、食欲や性欲に従って暴れるだけ暴れる醜い肉塊として、自滅するまで動き続ける。今は時間をかけて複数回細胞を注入することでしか変異させることはできないけれど、いずれ粘膜から吸収可能な噴霧式で即効性を持たせることができれば、一度に大量の人間を変異させることができる。理想は感染性を持たせたウイルスタイプね……完成すれば最後の一匹になるまで人間同士で勝手に共食いを始めてくれるわ」
「そんなことさせるか!」
 顎に指を当てて満足そうに状況を分析する冷子に対して、美樹が吠えると同時に突進した。今の冷子には左腕が無い。右手に嵌めた手甲の金属部分が当たるように拳を突き出す。左手を失った冷子の、防御の薄い左側へ。手応え。蒟蒻を殴った様な異様な手応え。冷子の左肩からズルリと灰色の太い触手が生え、美樹の攻撃を受け止めていた。
「な……に……」
 美樹が歯を食いしばる。
「急ごしらえさせるんじゃないわよ……」
 冷子は右手で美樹の上着の裾を掴むと、強引に身体を引きつけて触手の砲丸の様な先端を美樹の腹に埋めた。ずぷんと鈍い音がして、美樹の背中が僅かに盛り上がる。
「ゔぶぅッ?!」
 美樹の両足が地面から浮き、腹を支点に体重が支えられる。
「無駄よ。人間が私達に勝てるわけないでしょう?」
 冷子が美樹の腹に埋まった左手の先端を捻る。ただ苦痛を与えるだけの行為に、美樹の身体は悲鳴を上げた。
「ぐぶぁッ……! ぎぃッ……」
 苦痛に耐える様に美樹が歯を食いしばる。次の一瞬、その顔が笑った。両手で冷子の腕を掴む。怪訝な顔をした冷子の視界が一瞬暗くなった。シオンが美樹の背後から飛び上がり、シャンデリアの灯りを遮る。シオンは羽のようなふわりとした優雅な動作から、フィギュアスケートのジャンプの様に勢いよく錐揉みに状に回転して冷子の首に巻き付く様な回し蹴りを放った。頚椎をしたたかに打ち抜かれ、冷子の身体が大きく傾く。人間であれば吹き飛ばされてもおかしくない威力だったが、人妖の冷子にはどれほどのダメージがあったのかは分からない。冷子の左手から解放された美樹が、無呼吸のまま右手で冷子の顎を跳ね上げる。冷子の顔が完全に上を向く。
「シオン!」
 美樹が叫ぶ。シオンが頷く。美樹がシオンに向かってバレーボールのレシーブの様に手を伸ばした。シオンが軽く跳んで美樹の手のひらに足を乗せると、そのまま美樹の押し上げる力を利用して飛び上がる。羽の生えた様な跳躍だった。シオンは膝を抱えたまま前方に宙返りを繰り返して勢いをつけると、天地が逆転した姿勢のまま落下点を確かめる。一瞬、無表情の冷子と目が合った。
 宙返りの勢いを殺さず、そのまま脚を伸ばして踵を冷子の顔面に振り下ろした……つもりだった。
 シオンの靴底は天井を向いたまま、逆さ吊りの体勢で固定された。一瞬事態が飲み込めず、無意識にスカートを手で押さえる。下を見た。にやりと笑っている冷子と目が合う。逆さ吊りのまま天井を見下ろす。視界の隅に巨大なシャンデリアが目に入った。自分の足首にカタツムリの目の様な触手が巻き付いている。
 これは……蓮斗の……。
「シオン! 危ない!」
 美樹が叫び、視線を移す。風を切る音。蓮斗の触手が猛烈な勢いでシオンの腹に埋まった。
「え……おぶぅッ?!」
 ドッヂボールほどの黒ずんだ先端がぐじゅりと腹に埋まった。体がくの字に折れ、思わず自分の腹を見る。天井の灯りを反射した触手はぬらぬらと不気味に光っていた。
「かはっ……! ぁ……」
 シオンがなんとか呼吸をしようと口を開けた瞬間、再び不気味な風切り音が耳に届いた。背中にぞくりと悪寒が走る。次の瞬間、数本の触手がシオンの腹に連続して埋まった。
「ゔッ?! ゔぁッ!? あああぁぁぁぁ!!!」
 シオンの顔に自分の吐き出した唾液が降り掛かった。一瞬失神し、スカートを押さえていた手がだらりと地面に向けて伸びる。

シオンさん腹責め


 蓮斗の触手はシオンの身体をハンマー投げの様に振り、壁に向かって叩きつけた。
「あぐッ! かはっ……ぐっ……」
 したたかに背中を打ち付けられた衝撃でシオンは覚醒こそしたものの、肺の中の空気が一気に押し出されて呼吸がままならない。足に力が入らず、背中で壁をこするようにズルズルと尻餅を着いた。
 ふっ……と視界が暗くなる。シオンが顔を上げると、蓮斗の太い触手がハンマーの様に振り下ろされようとしていた。
 シオンは無理な姿勢から転がるように横に逃れる。蓮斗の触手はそのまま振り下ろされロビーの床に大穴を開けた。
「あっ……!」
 シオンが短く叫んだ。
 触手の直撃すら免れたものの、穴に下半身が落ちかけている。
「シオン!」と、美樹が叫んだ。シオンの元に駆け寄ろうとするが、蓮斗の触手に阻まれた。
 風切り音。
 冷子の左肩から生えた触手が鞭のように伸びてシオンの手に当たり、シオンはそのまま地下に落ちていった。
 再び美樹がシオンの名を叫んだ。
 蓮斗はターゲットを美樹に変えたらしく、数本の触手を束にして美樹の腹部を狙って放った。
 美樹は舌打ちしながらサッカーボールを蹴るようにしてその触手を弾く。
「そんな姿になってまでも、お前は腹を狙うんだな……」
 美樹が呆れるように言った。
 シオンは無事だろうか。いや、無事だろう。一瞬だが、空いた穴からは病院か研究所のような空間が見えた。なぜ地下にそんなものがあるのかはわからないが、危険そうなエリアには見えなかった。落ちた程度で致命傷を負うほどシオンはヤワではない。
 冷子の姿も見えない。おそらくシオンを追ったのだろう。
「二対一の最悪の状況にならなくて良かったと言いたいところだが……」
 美樹が蓮斗に視線を移す。蓮斗は触手を使って大きな上半身を起こした。
 上着は完全に裂けて失われ、胴体の肉がスカートの様に垂れ下がって足元を覆っている。脚部が完全に肉で隠れ、座っているのか立っているのかもわからない。両手は先ほど頭を抱えた状態で肉に取り込まれ、まるで耳を塞いでいるような格好のまま固定されている。顔は二倍以上の大きさに膨れ上がり、額や頬の肉が垂れ下がって目と口がへの字型の裂け目のように見える。裂け目の中に赤い瞳が見えた。思考は読み取れない。仮にあったとしても、もはや自分自身の変化に発狂しているのかもしれない。
「蓮斗……」と、美樹がポツリと言った。「お前のことは大嫌いだし、お前の考えには全く同意できない。それに久留美を誘拐し、暴行したことは許せん。だが、そんな目に逢う運命は少しむご過ぎるな……」
 蓮斗からは汚水が泡立つような音が聞こえた。肉に阻まれた呼吸音なのか、唸り声なのかはわからない。
「辛いだろうな。太っていたことが嫌だったんだろう? それをもう一度同じ目にな……だが」
 美樹が上着の中に手を入れ、油性マジックほどの大きさの棒状のものを二本取り出す。美樹が強く振ると収納されていた中身が飛び出し、長さが三倍ほどに伸びた。折り畳まれていた取っ手も飛び出し、トンファーの形になる。美樹は慣れた手つきでトンファーを回転させながら構えた。
「人間であったら救うために最大限の努力をしたが、人妖か、それに準ずるモノになってしまったのなら私達アンチレジストの討伐対象だ。観念しろ」

【2018年10月10日追記】
BOOTH、DL.siteでDLが可能となりました。



あらためまして、昨日は多くの方にスペースまで来ていただきありがとうございました。
今回はいつもより少なめの部数で向かったのですが、目測を誤り開始30分そこそこで売り切れてしまうという失態を犯してしました……。
せっかく来ていただいたのにお渡しができなかった方には大変申し訳ありません。
現在DL.site、BOOTHにて作品の登録が完了しましたので、興味がある方はよろしくお願いいたします。


_内容
腹パンチを中心とした小説付きイラスト集になります。
初めて挑戦した東方Project様の二次創作に、オリジナル作品2本をまとめた短編集になります。

_仕様 / 収録作品
文章37ページ(文章上下2段組)
フルカラー挿絵16枚(差分含む)

_あらすじ
[PERSONA]
世界的ファッションブランドで生地探しの職に就いている木附悠は、仕事も順調で美しい恋人にも恵まれているが「女の腹を殴ることでしか性的に興奮できない」という悩みを抱えていた。
ある時、特殊な性癖が元で恋人の瑞樹から別れを切り出される。落ち込んだまま深夜に職場に戻ると、コレクションの出来に不満を抱える同僚の販売員で同性愛者の西方が残っていた。西方は憂さ晴らしと称して悠を「何をしてもいい」という会員制の風俗店に誘うのだが……。

[PARTY_PILLS]
小早川小春は背も小さく身体も華奢だが、空手では全国大会常連の選手だった。小春は帰宅時に柄の悪い男から「全国大会を辞退しろ」と脅される。当然断る小春だったが、卑怯な手で実力行使に出る男に小春は思わぬ苦戦を強いられる。

[昔話をしようか-CARBON COPY SYNDROME-]
東方Project二次創作。吸血鬼レミリアは生贄の男を前に昔話を始めた。弾幕ルールが無く妖怪と人間が殺し合いで決着をつけていた先代の博麗の巫女の話と、その娘「霊夢」の秘密を。

[昔話をしようか-DAHLIA-]
危険度激高の妖怪、風見幽香はなぜか子供と妖精には優しい。今日もチルノは幽香の家に遊びに来て、遊び疲れて幽香の家に泊めてもらうことになった。チルノにせがまれて幽香は昔話を始める。自分自身の秘密の話を……。


こちら ← BOOTH販売ページ

↓DL.site販売ページ
Lest we Forget : short stories

【この記事は自動投稿設定になっております】

本日は当スペースにお越しいただき、また、本を手に取っていただき本当にありがとうございました。

特典の挿絵イラスト16点は下記リンクの「続きを読む」から閲覧、DLをお願いいたします。



パスコード:パンフレット内側の左上に記載されている「u」から始まる文字を入力してください。
※文字は全て小文字で入力してください続きを読む

あらためまして、10月7日開催のりょなけっと10に参加させていただきます。
過去に単発で発表したり寄稿したりして個人的に気に入っている短編3本をまとめた短編集に、挿絵16枚のDLコードパンフレットを付けた状態で配布します。
既刊も数冊ですが持って行きますので、興味のある方はよろしくお願いします。

※イラストのDLはイベント終了後にこちらのHPにて行います。

_スペースNo.
 「R1」

_配布物
 COLLECTION_018
 [ Lest we Forget : short stories ]

_内容 / 収録作品
 B5サイズ、44ページ(文章上下2段組)
 COLLECTION_007: [PARTY_PILLS]
 COLLECTION_008: CARBON COPY SYNDROME/DAHLIA
 PERSONA

_イラスト
 フルカラー16枚(差分込み)
 ・ [PARTY_PILLS]
  10枚
 ・CARBON COPY SYNDROME/DAHLIA
  4枚
 ・ゲスト原稿(スガレオン様 新規描き下ろし作品)
  2枚

nefudaのコピー


map

10月7日(日)開催のりょなけっと10にてスペースいただきました。
当日は過去に単発で配布した短編集の製本版と16枚のイラストサンプル、16枚のイラストのフルサイズダウンロードコードをセットにしたものを配布予定です。
よろしくお願いいたします。

map

LWFsample1モザイク

LWFsample2モザイク

LWFsample3モザイク


※サンプルのためモザイク処理しています。
当日配布するイラストサンプルはモザイク処理なしです。

 冷子が床に手をついたまま激しく咳き込んだ。
「大丈夫ですか?」と、蓮斗が冷子を振り返って言った。声色にはやや馬鹿にしたような響きがうかがえる。
「……うるさいっ。邪魔するんじゃないわよ」
「負けそうだったところを助けたのに随分だなぁ……。冷子さんがあそこまで追い詰められるなんて意外ですよ。多分僕が来なかったら一分も経たずに──」
 薄笑いを浮かべたまま話し続ける蓮斗の眼前に、冷子の軟体化した腕が目にも留まらぬ速さで伸びて、鞭のような音を立てた。濡らしたタオルを弾いたような湿った破裂音に蓮斗の体が一瞬固まる。蓮斗は、ひひ、と笑いながら両手を上げて後ろに下がった。
 シオンは今まで写真でしか見たことがなかった蓮斗という人物を把握しようとつとめた。ボリュームのある服を着ているせいもあるだろうが、写真で見た印象に比べややがっしりとした体型に見える。おそらく数回にわたり整形手術を受けているのだろう。肥満体系の頃の面影はほとんど無い。そして過剰に目が潤んでいて呂律もわずかに怪しい。薬物依存症によく見られる様子だ。
「悪かったわね、横槍が入って」と、冷子がシオンに言った。「これは負け惜しみではなく事実として言うけれど、貴女はあのまま勝ってはいなかった。私が手を打っている途中にこいつに邪魔をされただけ……この後それを証明してあげるわ。さっきの落とし前はこれで許して頂戴」
 冷子は右手で左の二の腕を掴むと、唸り声をあげながら右手に力を込めた。めりめりという音がして、指が二の腕の筋肉に食い込む。
「なっ……何を……や、やめてください!」
 シオンが頭を振って駆け出そうとするが、その前に冷子が一層低い声で唸る。ブチブチという何本もの繊維がちぎれる音と共に、腕が肩関節から脱臼する重い音がはっきりと響き、シオンは耳を塞いでしゃがみ込んだ。冷子の左腕が肩から抜け、おびただしい血液がロビーの床にぶちまけられる。蓮斗が背後でひゅうと口笛を吹いた。
「な、なんて……なんてことを……」
 あまりの光景にシオンは目に涙を浮かべ、口に両手を当てながら震えている。
「……そんなに大袈裟なもんじゃないわよ。腕一本再生するくらい訳ないわ」と、冷子が肩で息をしながら言った。左肩の傷口はナメクジの様な粘液質の表皮に覆われ、既に止血されている。冷子は主を失った左腕をシオンの目の前に放り投げる。シオンは「ひっ」と悲鳴をあげながら肩を震わせた。
「へぇ……調べた通りだなぁ」と、蓮斗が言った。「人が傷つくところが極端に嫌いなんだっけ? シオンちゃんの闘っている映像を何本か見たけどさ、基本的に大振りで一撃必殺狙いな感じだよね? 性格的に理詰めや搦め手を使ってじわじわと追い詰める頭脳戦の方が得意なはずなのに、実際の戦闘スタイルは脳筋かよっていうほど大雑把だからなんか変だなぁと思ったんだよ。なるほど、苦しめる前に勝負決めちゃおうって魂胆ね。僕とは正反対だなぁ。そうなったのもやっぱりアレかな? 君のことは色々調べさせてもらったけどさ、昔──」
 蓮斗が言い終わる前に、玄関の方で轟音が響いた。玄関扉の蝶番が壊れ、扉の一枚板がゆっくりとロビーの床に向かって倒れる。開けっ放しになった扉から風に舞った雪が吹き込む。雪の光を背負って巫女服の袖を揺らしながら、美樹がブーツの底をごつごつと鳴らしながらロビーに入ってきた。三人の視線が美樹に集まる。
「扉を壊してすまないな……驚かすつもりは無かったんだが──」と言いながら、美樹が蓮斗を睨みつけた。「お前の声が聞こえたので、少しイラついてしまった」
「美樹さん……」と床に座り込んだままシオンが言った。美樹がシオンの側まで来て手を差し伸べる。シオンがその手を引いてた立ち上がった。シオンは足元を確かめるように靴底を何度か踏みしめ、ツインテールを手櫛で梳く。「大丈夫です、大丈夫……」と床を見ながらシオンが言った。美樹が勇気付けるようにシオンの肩を叩く。冷子が蓮斗を睨みつけた。
「ちょっと……なんでこいつが生きてるのよ? 始末したからこっちに来たんじゃないの?」
「いやぁ、その手違いというか……実は寸でのところで逃げられまして、あの双子もいつの間にか消えていて誰も捕まえることができず──」
 蓮斗が言い終わる前に、冷子が変形させない状態の右腕を蓮斗の顔面に向けて払った。蓮斗の首が折れたのではないかと思うほど顔が真後ろに倒れるが、蓮斗は悲鳴をあげることもなくバランスを崩した程度で持ち直す。ゆっくりを顔を戻すと、両方の鼻からは大量の血が垂れていた。
「あら?」と冷子が言った。蓮斗の顔を覗き込む。
 蓮斗の瞳孔は冷子のそれと同じ様に縦に裂けていた。
 瞳孔の内部が微かに赤みがかって見える。それを見ると冷子はジャケットの内ポケットから鏡を取り出し、蓮斗に手渡す。蓮斗は自分の目を覗き込むと、首を振りながら「やった……やったぞ」と静かに言った。
「最終段階ってとこかしら……違和感は無い?」
「違和感どころかすこぶる順調です。痛みや疲労は日が経つにつれてほとんど感じなくなってきていますし、射精の回数や量も増えました。昨日まで久留美ちゃんと遊んでいる時はお腹を殴りながら一晩で八回も射精しましたし、睡眠欲もほとんど無くなりました」
 蓮斗が興奮で所々声を上ずらせながら冷子に捲したてる。
「ここまでくれば成功でしょうね。拒絶反応も無いみたいだし。あと数時間もすれば粘膜同士の接触で栄養素を吸収出来るし、老廃物もほとんど生成されなくなる。分泌する唾液や精液などの体液は異性を魅了する効果がある、いわゆるチャームに変化する。食事も排泄も必要無いし、疲労物質やわずかに生成される老廃物は体液と同時に体外へ排出されるから睡眠も必要無い。ようこそ、こちら側へ」
「ありがとうございます……ようやく人妖になれるんですね……。食事の必要がなくなるのは少し残念ですが」
「おい、なんの話だ……。人妖になれるだと? どういうことだ?」
 美樹が幽霊を見るような顔で蓮斗と冷子を見ながら言った。シオンは地下で見た資料を思い出し、背中がゾッと粟立った。
「そのまんまの意味さ。俺は人間という存在が心底嫌いなんだ。あれこれ気にしながら、人の顔色をうかがってせこせこと生きている卑屈なクズども──」と言いながら、蓮斗が息を荒げながらカーゴパンツのポケットからシガーケースのようなものを取り出した。中を開く。注射器が一本入っている以外は何も入っていない。蓮斗はその一本を取り出して、震える手で鎖骨のあたりに針を打ち込んだ。雑に中の薬液を注入すると、ケースごと注射器を床に叩きつけて壊した。「冷子さんが開発したこの薬を定期的に打つだけで、人間はより高位の存在の人妖になれるのさ……。将来的には飛沫でも効果があるようになるし、適性がない奴でも強制的に人妖化できるように冷子さんが調整してくれている」
 蓮斗の瞳は紅い光を放ちはじめた。冷子がその背後で興味無さげに頭を掻いている。
「俺はこいつを大量生産して、まずは日本中の人間を全員人妖にする。日本は理想郷になるのさ。だってそうだろう? 飢えが無くなり、ただセックスしていれば生きられる存在に全員が進化するんだ。いまの世の中を見てみろ。容姿や収入、生まれや育ちで一生が決まっちまう世界だ。クソッタレな親の元に産まれちまったら、泥水をすすりながら惨めな劣等感に怨霊みたいに取り憑かれながら、一生をジメジメとした日陰で過ごさなきゃならない。俺はそんな世界をぶち壊してやりたいのさ。人間がもっとも恐怖する飢えが無くなり、価値観が全部ひっくり返る。童貞とか処女とか、金持ちとか貧乏人とかで差別されなくなる世界だ。最高じゃないか」
「そ、そんな……」
「そんなことさせるか!」
 言葉に詰まったシオンの横で美樹が叫んだ。蓮斗を矢で射抜く様に真っ直ぐに睨みつけた。
「日本中の人間を人妖にするだと……? 貴様、人間を何だと思っている?」
「身勝手で自分勝手な最低の屑さ。街を歩いてると、色んな奴がいるよな? 俺はそいつら全員が何を考えてるのか想像するだけで、頭がおかしくなりそうだよ。でもさ、結局は全員何を食うか、誰とヤルかしか考えてないんだよ。それが満たされないから、自分より下の奴を作って、そいつを貶めて自尊心を保とうとするのさ。だったら、その不安を取り除いてしまえば良いだろう? お前らの仲間だったあの双子の生い立ちを聞いたことはあるか? 可哀想に、変態趣味の馬鹿親のせいでサイコになっちまった……。あいつらがいまだにソーセージと生卵を食べられない理由を考えてみろよ。チンポと精液が大嫌いなんだよ」
「屑はお前だろ?」と、美樹が冷たく蓮斗に言い放った。「人妖になれば人間全員が平等になれるだと……? ふざけるな。人間という存在自体をかなぐり捨てて、何が平等だ。そんなもの、化け物になれと言っているようなものだ」
「俺から言わせれば人間の方がよっぽど化け物だ。少しでも他人と違うってだけで平気で傷付ける。俺はお前とは違うってだけで、平気で嫌悪の対象にして攻撃する」
「それは違います。自分らしく精一杯生きていれば──」
「お前らみたいに! お前らみたいに……最初から生まれや容姿や学力に恵まれた奴らが、綺麗ごと言っても説得力ねぇよ!」
 シオンの言葉を蓮斗が遮る。シオンの眉間に向けて指を指しながら声を荒げた。「余裕ぶっこいて上からほざいてんじゃねぇぞ! あ? 自分らしく精一杯生きるだと? なんだお前? 生まれや顔や頭にたまたま恵まれて、周りからちやほやされてるからくだらねぇ奉仕精神とか博愛主義とかでいられるんだろうが? あ? 何がメイドだよ。お前が家柄に恵まれず、金に困っていて、顔や頭が今みたいに良くなくても、今と同じことをしてたのかよ!?」
「ただの僻みにしか聞こえんな」と、美樹が静かに言った。「知った風な口で自分だけが不幸だと喚くな。私もこいつも、道楽や人を見下すためにへらへらしているように見えるか? そんなくだらないことで命を張れるものか。いいか、命を張るってことはな、それなりに理由があるんだ。他人を妬んで、黙って寝ているだけで頭や身体が鍛えられるか? ろくな努力もせずに薬物や他人の力に頼っているお前には何も言う権利は無いぞ」
 水を打ったような沈黙が流れる。
 雪は相変わらず壊れたドアから吹き込み、シャンデリアの灯りは揺らめきながらロビーの黒檀の床を照らした。
 誰も何も発しない時間は一瞬だったが、凍りついた空気は永久凍土の様に重苦しく無慈悲にその身を横たえていた。
「……もういいわ」
 蓮斗の背後から声が響く。
 冷子がつまらなそうな顔をして全員を一瞥した。
「蓮斗……あなた、もういいわ……」
 冷子が冷たく言い放ちながら指を鳴らす。蓮斗の身体が震えるほど大きくどくんと脈打つと、腹の辺りが恐ろしい勢いで膨張した。ライダースのジッパーが音を立てて壊れ、中に着ていた薄手の赤いカットソーが限界まで伸びる。
「……え?」
 蓮斗は自分の膨張する腹を呆然と見下ろす。腰に巻いていたベルトが音を立てて千切れ、カーゴパンツのボタンフライ弾け飛んだ。身体はどくどくと脈打つ度に膨張する箇所が広がり、膨張は胸から腕、指先へと面積を広げた。
「ああああああああああああああああ!」
 太ったカブトムシの幼虫の様に変形した指を顔の前に掲げながら、蓮斗はこの世の終わりの様な悲鳴を上げた。そのまま頭を抱えてうずくまる。
 シオンが手を口元に当てて無意識に後ずさった。
「な……何ですかこれは……?」
「わからん……あの女が何かしたらしいが……」
 美樹も震える声を隠せずに、ただ呆然と蓮斗の変形を見守った。
「厭だぁぁ……これじゃあ……あの頃に戻っちまう……。もう太りたくない……また皆から……虐められ……」
 膨張は既に全身に広がっていた。既に蓮斗の顔は二倍ほどの大きさに膨らみ、声は倍音を伴って不明瞭になっていた。綺麗に染められた金髪は膨張した頭皮で隙間が空いて、所々地肌が見えている。
「なんで人間ごときを自分と同じ存在にしなきゃならないのよ。自分は特別な存在だとでも勘違いしていたのかしら?」
 冷子の声に蓮斗は顔を上げる。その顔は直視できないほど無惨になっていた。目は恐ろしいほどの量の脂肪で膨張した瞼で塞がり、口や鼻も膨らんだ頬に押しやられ、ただの小さな穴になっていた。
「おおおおお…………!」
 何か言葉を発したらしいが、口腔が脂肪で押しつぶされて呻き声にしかならない。冷子は気にせずに薄笑いを浮かべている。
 すっと、蓮斗の狭まった視界の隅に緋色の布が映った。蓮斗は何とか顔の角度を変えて見上げようとするが、よくわからない。
「こいつを治す方法を教えろ」
 美樹の声だ。
 視界のピントがわずかに合う。
 自分に背を向けて、冷子に立ち塞っている美樹の姿が目に入った。緋色のスカートや襦袢に走る緋色のラインがやけに鮮やかに見えた。
「無理に決まってるでしょう。その姿を見てもわからないの?」
「貴女なら出来るはずです」
 蓮斗の視界に別の影が映る。
 白いガーターベルトの付いたストッキングに、フリルの付いた黒いスカート。二つに纏めた長い金髪。
「人間をここまで作り替えることが出来るのなら、逆に治すことも出来るはずです。お願いします」
 シオンの声にはすがる様な雰囲気があった。冷子がふんと短く息を吐く。
 蓮斗の思考はまだはっきりしていたが、身体は四つん這いのまま動かすことが出来ず、かつて顎であった場所を床に着けたまま身じろぎするだけだった。その蓮斗をまるで庇う様に二人が背を向けて立ちはだかっている。
 美樹の長い綺麗な黒髪が揺れて綺麗だった。
 印象に残っている、綺麗な長い黒髪。
 そして強気で凛とした性格。
 あの時、いじめられていた小学校の頃に助けてくれた女の子も、長い黒髪だった。
 まさか……な。
 そんな都合のいい話がある訳が無い。
 でも、もしそうだとしたら……。
 蓮斗の身体が脈打ち、瞼が更に膨張する。そして蓮斗の視界は完全に塞がり、何も見えなくなった。

先日発売した [ANOTHER(sic)]_013 をアップデートし、イラストを3枚追加しました。
双子のイラストについては描き下ろしとなります。
DL済みの方はお手数ですが再DLをお願いいたします。
※サンプルはネガ調ですが、製品版は通常のフルカラーになります。


RJ230343_img_smp6

RJ230343_img_smp7

RJ230343_img_smp8




【過去記事】
過去に製本版として発売した[ANOTHER(sic)]_013のDL販売を開始しました。
最下部のリンクから購入できますので、興味のある方はよろしくお願いいたします。

86294047-9595-4598-905d-ee1e118b8d7d

RJ230343_img_smp5

RJ230343_img_smp3

RJ230343_img_smp4

RJ230343_img_smp6


DL.site様
[ANOTHER(sic)]_013


BOOTH様
こちらのサークルページからお願いします。

本編続きのラフが書けましたので公開します。
雑ですが、お時間のある時に読んでいただけると幸いです。



 いま何時だろうか……と、シオンは思った。
 この施設に侵入したのが零時をまわったあたり。五本の鎖が不自然に垂れ下がったブランコのそばの入り口からこの研究所に入ってから一時間と少し。夜明けまでは、まだかなり時間がある。
『あれはやはり……』と、シオンが暗い目をしたままロシア語でポツリと呟いた。『ブランコなどではなく……』
 ──絞首台なのだろうか。
 最後の言葉は恐ろしくて声にならずに、シオンの腹の底に落ちていった。
 いったいこの施設は何なのだろう。
 人妖に関わる実験が行われていたのは間違いない。人間を人妖化する実験も行われていたのかもしれない。だが、いったい誰が主導していたのか。目的は何なのか……。冷子はこの施設を「私の庭」と呼ぶと同時に「利用価値がある」と言った。つまり冷子自身もこの施設の所有者ではないのだ。
 考えられる可能性のひとつは、人妖自身がこの施設を作ったということだ。人妖は社会のアッパークラスに入り込むことが珍しくない。大きな権力と財力を持った人妖がこの施設を作り、ほかの人妖と共に仲間を増やしていたと考えることが自然に感じるが……。
 考えがまとまらないうちに、シオンの目の前に研究所に似つかわしくない細工の施された大きな木製のドアが現れた。
 扉を開け、階段を急ぎ足で昇る。
 想像するより、冷子を倒して色々と聞き出した方が確実だ。
 シオンは警戒しながら突き当たりのドアを開けると、孤児院の玄関ホールの中に出た。今しがたシオンが出てきたドアは隠し扉になっているらしく、シオンの背後で閉まると同時に壁と一体化して、開ける方法がわからなくなった。
 広いホールの黒檀の床にシャンデリアの淡い光が反射しいている。孤児院にしては豪奢な造りで、円形の間取りに、中央から昇って壁に沿うような形の大きな階段がある。おそらく少し前に美樹が立ち回ったのだろう、玄関のドアがわずかに開いて雪が吹き込み、床や壁の一部が破損していた。   
 床を踏む音が頭上から聞こえた。
 シオンがロビー中央に移動すると、階段の上に人影が見えた。スタッズの付いた黒い生地のスーツがシャンデリアの暖かい光を反射して柔らかく光っている。
 篠崎冷子が、口元だけでうっすらと笑いながら立っていた。
「久しぶりねぇ如月会長? 相変わらず、はしたない痴女みたいな格好が似合っているわよ」
「こちらこそご無沙汰しております」と、シオンも笑みを浮かべながら答えた。「そちらのスーツ、ジョルジオ・アルマーニの新作ですね。私も同じものを持っています」
「あなたと服のセンスが被るなんて複雑ね……。あれから会長職は順調かしら? 夏からずっと休暇を取っているから、あなたの活躍がわからなくて残念だわ」
「ええ、お陰様で。あなたが居なくなってから失踪事件も起きなくなりましたし。今回の久留美ちゃんの件を除いて……ですが」
 シオンが皮肉を込めて冷子に言い放つと、冷子は、ふふ、と笑いながら階段を降りた。
 冷子もシオンもお互い微笑みを浮かべたまましばしの沈黙が流れる。冷子が人差し指で耳の後ろを掻いた。シオンが細めていた目を開くと、緑玉の様な瞳がシャンデリアの淡い光を浴びて暗く光り、顔に貼り付いていた笑みが消える。
「久留美ちゃんを返して下さい」
 滑らかだが普段よりもトーンの低いシオンの声は、ゆっくりと黒光りする床を広がって冷子の足に絡まった。
「いきなり核心を突くわね。交渉のセオリーを知らないの?」
「これは交渉ではなく警告ですので」
「警告? ふふ……いつから生徒会長は教師に警告できるほど偉くなったのかしら?」
「生徒に不利益を与える者を教師と認めることは出来ません。あなたに教師として復帰する気があるのであればの話ですが」
「それで?」
「久留美ちゃんを返して下さい」
「本人が帰りたがらないかもしれないわよ?」
「それは本人から直接聞きます」
「もう返したって言ったら?」
「証拠を見るまで信用することはできません。仮に久留美ちゃんを解放したことが事実であったとしても、あなたが危険因子であることに変わりはありません。すみませんが……」と、言いながらシオンは手袋を引いて位置を直した。「アンチレジストの戦闘員として、あなたを拘束します」
 冷子の射抜く様な視線がシオンの笑みの消えた顔を真っ直ぐに捉える。冷子は身に付けていたスーツの上着の肩口を掴むと、中に着ていたシャツごと袖を引き千切った。裏地のキュプラが、鼠が絞め殺された様な耳障りな悲鳴を上げる。両袖とも引き千切り、ジャケットがノースリーブの形になる。
「あなたと会うたびにスーツが台無しになるわ。あなた、そのふざけた格好で来たって事は、夏みたいに無様に負ける覚悟はできているんでしょう? 破廉恥なメイドさん?」
「ええ、もちろん。しかし負ける覚悟はできていても、負けるつもりはありませんが……」
 冷子は口を三日月のように歪めると右腕をぶらぶらと振った。右腕の振れ幅が大きくなると同時に徐々に振れ幅が増し、骨が無い軟体動物の触手のようにぐにゃぐにゃと変形したまま伸びる。肌の色が徐々に褪せ、ぬめぬめと粘液に濡れたなめくじの様なまだらな灰色へと変色した。手のひらが肥大化して指の股が消え、先端が丸みを帯びたソフトボールほどの大きさの塊になる。
「どうかしら? 少し改良したのよ。見た目は少しグロテスクになってしまったけれど、威力やスピードはかなり向上しているわ。試してみる?」
 シオンが無言で構え、冷子の攻撃を待つ。風を切る音。シオンの鼻先に冷子の右手の先端が迫る。シオンは中国拳法の様に前後に開脚して身体をかがめて攻撃を避けると、そのまま起き上がる勢いを利用して冷子に向かって距離を詰めた。反動で戻って来た冷子の腕を避け、シオンは膝を冷子の腹部に埋める。
「ふぐッ!?」
 冷子の整った顔が歪む。
 そのまま流れる様に背後に回り込み、膝の裏を蹴って跪かせる。冷子の身体の影から鎖分銅の様に右手の先端がシオンの顔面に迫る。とっさに避けて直撃は回避したが、頬をかすった時に触手の粘液が僅かに頬に付いた。本能的に手の甲で拭う。
 冷子が背後のシオンをタックルの要領で突き飛ばしてバランスを崩させると、左手をシオンの脇腹に埋めた。
「んぐぅッ?!」
 腕を伸ばさない状態での攻撃は凄まじい威力だった。
 砲丸が腹に落ちた様な感覚を憶え、一瞬シオンの身体から力が抜け落ちてよろける。そこに触手の様になった右腕がシオンの首に巻き付いた。
「あうっ! ぐっ……」
 シオンはとっさに腕を触手と首の間に挟み込み、締め上げられるのを防いだ。ぬめぬめとした粘液が白い手袋を汚す。冷子は残った左腕を円を描く様に回して、遠心力を使って先端をシオンの顔面に向けて飛ばした。シオンは不自然な体勢から必死に飛んできた先端を蹴って方向を変えて防ぐと、蹴りの回転の力を使って触手から頭を抜いた。
 お互いに間合いを取り、二人の呼吸音が静まり返ったホールに響く。
「ふふふ……楽しわねぇ。あなたのことは大嫌いだけど、簡単に死なない相手というのは面白いわ」と言いながら冷子が腕を軽く振ると、水分が抜ける様にして腕が元の形に戻った。汗で貼り付いた前髪を整えながら、赤く、蛇の様に縦に割れた瞳孔でシオンを上目遣いに見る。「あなた人間のくせに本当に面白いわね。学院にいる時から見ていたけれど、ヘタな人妖よりも優秀だわ。人妖の中にもたまに愚鈍な奴がいて……私そういうの許せないからすぐに殺したくなっちゃうのよ。ねぇ、何のために産まれてきたのか分からない存在なんて殺してもいいと思わない? 人妖としての特徴や特殊能力でもあれば実験材料として使えるんだけど、そういう奴らって総じて何も持っていないのよ。せめて運動がわりに楽しんで殺そうと思ってもあっさり死んでしまう、最期まで役立たずのクズ達……。あなたもそう思うでしょう? きっと周囲の人間に対してとても歯痒い思いをしているんじゃないかしら?」
「存在価値の無い人なんていません……」と、シオンがツインテールの片方を手櫛で梳きながら言った。「仮にそう見えたとしても、それはまだその人の価値に本人も周囲の人も気がついていないだけです」
「買ってるのよ、あなたのことは。その胸糞悪い性格以外はね。ねぇ、あなた人妖になってみない? その顔と身体なら別にチャームなんて使わなくても餌には困らないでしょうし、その姿が保てて食事の必要も無くなり、人間では絶対に得られない身体能力や特殊能力を得ることができる。デメリットは全く無い話だと思うけれど?」
「……私が人妖に?」と、シオンは動揺を抑えながらいった。やはり人間の人妖化は可能なのだろうか。
「簡単よ」と冷子が言った。「身体と頭の仕組みをちょっとイジるだけで、ベースは一緒だもの。ここに来るまでにちらっと見てきたでしょう? もともとここはそのための実験施設で、過去からの研究を引き継ぐと同時に適正のある人間の保護と人妖化も行われてきたの」
「凄惨な事件を起こした子供達を集めていたのも、それが目的ですか」
 蓮斗の犯行調書が脳裏に蘇り、シオンの頭にチリッとした痛みが走った。微かな吐き気も込み上げる。
「そうよ。自分のためなら平気で人の命を奪える──言い換えれば自分のためなら他人をどの様な形でも躊躇いなく利用できる、自分と他人との境界をはっきりと線引きできる人間。あなたみたいに下らない博愛主義なんて持っていると、人間を餌だと割り切れずに人妖化した後に面倒臭いことになるのよ。人妖の中にも餌に情が移ってしまう出来損ないがいて、餌と一緒に駆け落ちみたいなことを試みた奴もいたわ。あなたを人妖化する時はそのあたりの処置も必要ね」
「……そんな利己主義の塊の様な存在になってまで、特殊な能力を得たくはありません」と言いながらシオンは片足を引き、両手でスカートの裾を軽く摘んだたまま深くお辞儀をした。「──失礼いたします」
 けたたましい音を立ててシオンの立っていた場所の床が割れる。シオンはお辞儀の姿勢から強く床を踏み込んで跳躍し、前方に宙返りしながら冷子の脳天を目掛けて踵を落とした。冷子は背後に跳躍して避ける。シオンの踵がぶつかった床が割れる。シオンは踵を叩きつけた勢いを利用してそのまま前方に突進して冷子を追う。冷子は右腕を軟体化させ、鞭の様に横に弾いた。シオンは低空の姿勢になって躱し、そのまま独楽の様に回転して冷子の足を横に薙いだ。
「ぐぅっ?!」
 くるぶしの部分にシオンの踵が当たり、冷子が呻く。体勢を崩した冷子にシオンが膝を抱える様にして飛び込み、冷子の喉に脛を当てて後方に倒した。後頭部を打ち、「がっ」と冷子が短い悲鳴を上げる。シオンは冷子の喉を自分の左の脛と床の間にギロチンの様に挟み、右膝を冷子の胸に乗せて固めた。衝撃で元の状態に戻った冷子の両手首も、冷子の頭の上で床につけて押さえ込む。冷子は重心を押さえられているため容易には立ち上がれず、シオンは肩で息をしたまま冷子を見下す。顎から垂れたシオンの汗が冷子のシャツに落ちて染みを作った。
「あなた、本当に強いのね──」と冷子が微かに笑いながら言った。「その性格の甘さでいつも力を出しきれないんでしょう? リミッターが無くなったら恐ろしいわね」
「……あなたが恐ろしいという言葉を使うなんて意外ですね」と、シオンは言った。「このまま失神してもらいます。なるべく苦しまないようにしますので、アンチレジストの本部でまた会いましょう。聞きたいことが山ほどあるので……」
 シオンは冷子の重心を極めたまま、喉を押さえている足をずらして冷子の頚動脈を締めた。冷子は平静を装いながらも歯を食い縛る。効いている。シオンが左足に更に体重をかけた瞬間、視界が一気に横に流れた。同時に、顎から頭にかけて、顔の右部分に強い衝撃が走る。
「ぐあッ?!」
 一瞬体が宙に浮き、左肩から床に着地した。不意打で受け身が取れず、体全体に痛みが走る。
「へぇ……実物は初めて見るけれど、本当に人形みたいだな」
 金髪をオールバックに撫で付けた真っ黒い格好をした痩身の男が、蹴りの姿勢から直りながら言った。
「……あなたは」とシオンが上体を起こしながら言った。「蓮斗……さん」
「初めまして──と言ってもお互いもう知ってるから、初対面って感じがしないね」と言いながら、蓮斗は口角を吊り上げた。

こちらの続きです。
間が開いてしまい申し訳ありません。
ラフの状態で読みにくいと思いますが、製本の段階で清書します。


 美樹の突進に蓮斗は一瞬早く反応し、久留美のシャツの襟をつかで真横に跳んだ。蓮斗の異様な素早さに美樹は少しだけ目を見開いた。美樹の手甲をはめた拳が鋭い音を立てて空を切る。視界の隅で蓮斗と目が合った。蓮斗は軽く口角を上げると、久留美の背中を押す。自分の胸に飛び込んできた久留美を美樹はとっさに受け止める。
「久留美!」と、美樹が久留美の顔を覗き込みながら叫んだ。
「えっ? あ……? は、蓮斗さん、なんで……?」
 久留美は熱病に冒された様なぼうっとした視線で蓮斗を追う。
「時間だ……」と、美樹を見ながら蓮斗が言った。口だけで笑っている様な表情をしている。「ようやく、夢が叶うんだ……」
 蓮斗は美樹の方を向いたままジリジリと扉の方へ移動しながら、ポケットから茶色い瓶を取り出して静かに床に置いた。
「……チャームの解毒剤だ。久留美ちゃんに使ってあげてくれ」
「なっ? そんなもの誰が信じるか!」と、美樹が吠える。
「だったらそのまま放っておけよ……。久留美ちゃんが今後まともな人生を送れなくなってもいいならな」と、蓮斗が言った。「俺は俺を好きになってくれるものが好きなんだ……。こいつは経口摂取で大丈夫だ。すぐに効く」
 蓮斗は薬瓶を蹴って美樹の方に転がすと、扉から素早く出ていった。部屋には美樹と久留美だけが忘れ物の様に残された。
「久留美! しっかりしろ!」
 美樹はハッと気がつき、久留美に再度声をかける。
「あ……先輩?」と、久留美がゆっくりと美樹の顔を見ながら言った。定まらなかった瞳の焦点がようやく美樹の顔で定まる。「先輩……蓮斗さんは……? もっとお腹……苦しくしてほしいんです。先輩でもいいです……私のお腹……ぐぽぐぽして虐めて下さい……」
 さっと顔に寒気が走った美樹の太ももに、かつん……と薬瓶が当たった。ラベルが貼られていない栄養ドリンクの様な茶色い小瓶。
 美樹は迷ったが、意を決して瓶を手に取った。
「久留美……これを飲め……」と、美樹は瓶のキャップを開けて久留美に差し出した。もう迷ってはいられなかった。今まで人妖に敗北した戦闘員やオペレーターが後遺症に苦しむ様子を何人も見てきた。後遺症は薬物である程度は抑えられるとはいえ、対症療法でしかなく、身体への負担も少なくはない。久留美にあの様な辛い思いはさせられないし、仮にもしこの解毒剤が本物であれば、分析すれば後遺症に苦しんでいる人々も助かるかもしれない。
 美樹はキャップに少しだけ中身を移し、瓶を久留美に差し出した。久留美は素直にこくこくと中身を少しずつ飲み込んでゆく。飲み終えたところで美樹は瓶の口を拭き、キャップに注いだ薬液をビンに戻して蓋を閉めた。
「……あ」
 久留美の瞳に光が戻ってくる。寝ぼけた子供の目が完全に醒める様に、不思議そうに美樹の姿を見た。
「久留美?」と美樹が聞いた。
「あ……先輩? 私……何を……? 私……病院で……それから……私……先輩……先輩!」
 久留美が美樹の首に腕を回す。胸に顔を付けて泣いている久留美の頭を、美樹がゆっくりと撫でた。
「大丈夫だ……落ち着け……」
「私……何してたんですか……? 怖い……」
「説明は後だ……とにかく今は避難するぞ」と、美樹が言いながら久留美の手を引いて二人で立ち上がる。久留美がぎょっとした様に美樹の全身……正確には戦闘服姿の美樹を見た。
「……先輩……あの……何ですかその格好?」
「……その説明も後だ」
「いえ、かっこいいです……なんだかすごく強そうで……」
 久留美がうっとりと溜息をつきながら言った。どうやら本心から言っているらしい。どうやって状況や戦闘服について説明しようかと悩みのタネは増えたが、少なくとも戦闘服のシオンがここにいなくて良かったと美樹は思った。
 久留美の手を引いて地下室を出て一階に上がる。
 玄関ホールに蓮斗の姿は見えない。
 開けっ放しの玄関からは雪が吹き込んでいた。
 二階に人の気配がして、美樹は身を屈めながら壁伝いに出入り口の扉へと向かった。久留美を連れて再び戦闘になるのはまずい。滑り込ませる様にして出入り口を出て、石畳を走った。正面には背の高い剣先の様な門が見える。
 ふと、門の外に小さな灯りが見えた。
 車のポジションランプだ。
 警戒しながら近づくと、黒塗りのレクサスから初老の男性が降りてきた。
「鷹宮様?」
 初老の男性は驚いた様に声をかけた。美樹も知った顔で、シオンの運転手をしている男性だ。
「……山岡さん? なぜここに?」と、美樹が聞いた。
「お嬢様をここまでお送りしたのです。ちょうど二時間ほど前になりますが……お嬢様からは帰るように言われたのですが、心配で居ても立っても居られず……」
「シオンも……」来ている、と美樹は思った。自分がここに来ることは伝えてはいないが、シオンの異様に鋭い勘はごまかせなかったらしい。美樹が建物を振り返る。この中のどこかにシオンもいるのだ。
「山岡さん……すみませんが、久留美を預かっていただけませんか? あと、これを……」美樹は久留美に飲ませた薬瓶を山岡に手渡した。「もし私が戻らなかったら、組織の人間に渡してください。その際に『チャームの解毒剤』と伝えていただければ」
「……承知しました。さ、こちらに……」
 山岡が後部座席のドアを開けて久留美を促す。久留美は戸惑いながらも「先輩」と美樹を振り返って声をかけた。「あの……私、何もわからないですけど……先輩たちのこと、本当に好きですから! シオン会長も、美樹先輩も!」
 久留美は泣いていた。
 強いな……と美樹は思った。訳のわからない事件に巻き込まれ、本来であれば全てを恨んでもいいはずなのに。いつの間にか後輩は大きく成長していたらしい。美樹はポケットからショートホープとジッポーライターを取り出して一本に火をつけた。
「預かっておいてくれ……」と、美樹はタバコの箱とライターを久留美に渡して、二人に煙がかからない様に雪の降る空を見上げて煙を吐き出した。「戻ったら吸う」と言って、美樹は建物に向かって走った。

DL.siteさんでも [ERROR CODE: AYA -ASPHYXIA-] _006が 発売開始されました。
内容はBOOTHさんのものと同じになります。
よろしくお願いいたします。

※過去に発売したものの再販になります


82978

82978_432

82978_431

82978_430



↓↓↓DL.siteさん販売ページ↓↓↓
[ERROR CODE: AYA -ASPHYXIA-] _006

↓↓↓BOOTHさん販売ページ↓↓↓

[ERROR CODE: AYA -ASPHYXIA-] _006

↑このページのトップヘ