unui x RNR


この作品はウニコーンさんに有償依頼をいただき、二次創作として製作したものです。
ウニコーンさんのオリジナルキャラの瀬奈さんを主人公に、世界観や設定、ストーリーをお任せいただいたので、かなりの部分を好き勝手に書くことができました。
今後作品としてウニコーンさんが挿絵を付けて完全版として発売する予定ですが、今回私が書いた文章と制作中のイラストの掲載許可をいただきましたので、予告編としてぜひお楽しみください。


第1話

第2話


 ドアの外は通路になっていて、左右のドアには倉庫や食堂、ロッカールームといったプレートが貼ってあった。一般企業の工場となんら変わらない。このようなクリーンな環境で恐ろしい薬物が作られているのかと思うとゾッとした。途中、木製の大きな左右開きの自動ドアがあった。自動ドア横の端末は小林が持っていたカードと同じ赤色の端末が嵌め込まれている。瀬奈がカードを端末にかざして自動ドアを開けると、中はエレベーターホールになっていた。壁や床が工場エリアのような白い樹脂ではなく、濃いブラウンの板張りと赤黒い絨毯になっており、雰囲気がかなり違っている。ここから幹部エリアになるのだろう。
 エレベーターに乗りながら、はたして勝機はあるのだろうかと瀬奈は考えた。仲間の多くが倒れ、もはや瀬奈しか残っていない可能性が高い。正規警察もこちらに向かっているだろうが、様々な利権が絡み合って腰が重く、到着はいつになるのかわからない。確かな方法としては、グールーと呼ばれているボスを人質にとることだ。自分一人で多数の敵を全滅させるのは荷が重すぎるし、アスカと戦闘した男達を見るに、敵の戦力もかなり高い。男の子の話だと、グールーは未だにこの場所に留まっているらしい。よほどの自信家か、下手に逃げ回るよりは自ら雇った警護隊に守られていたほうが安全という考えなのだろう。トップを人質にとることができれば、敵も迂闊に手を出せないはずだ。その間に正規警察の到着を待つ。悪くない作戦というよりかは、これしかないという状況だが、闇雲に動くよりはマシだ。
 エレベーターを出て廊下を進むと、狭いロビーに出た。天井は高く、応接のための小部屋も複数見える。簡単な打ち合わせのためのスペースのようだ。床には埃一つ落ちていない。観葉植物が倒れている以外は清潔で、不気味なほど臭いも音も無い。奥の扉にも赤いカードリーダーが付いていたので、瀬奈はカードキーをかざした。高い電子音と共にドアが解錠される。
 ドアの先は広い空間だった。フットサルコートを半分にしたような広さで、床は長いこと磨き続けられた船のデッキのように黒光りしたフローリング。壁は鏡面磨きされた鉱物のようで、険しい顔をして立っている瀬奈の顔を鏡のように反射していた。壁と同じ黒い鉱物で作られた受付カウンターがあって、奥には椅子が二脚置かれている。
 瀬奈はロビーの中央に立って周囲を見渡した。壁の間から暖かい光の間接照明が効果的に使われ、安心感と、ある種の威圧感を与えるようなインテリアにまとめられている。受付カウンターの奥の壁には「I give you all that you want(あなたが欲しがるものは全て与える)」と彫られていた。ロビーの奥には数台のエレベーターがあって、地上のどこかから、このエリアに直通で来られるようだ。外部からMOTPと接触を図るときの正規のルートなのだろう。誰にも顔を合わせず、入口を知っている顧客のみがこのエリアに来ることができる。まるで一流企業の受付だ。本当にここは麻薬組織なのか、と瀬奈は思った。先ほどの工場といい、整い過ぎた空間に瀬奈は戸惑った。
 そうだ、このMOTPは全てが整い過ぎている。この掃除が行き届いたロビーで、昨日までWISHの取引が行われていたのだろうか。それは一般的な麻薬取引のイメージとは違ったのだろう。たとえば雨の降る路地裏で、虚ろな目をした売人同士が咥えタバコのまま、刺青の入った手でくしゃくしゃの紙幣とパッキングされた麻薬を交換するのとは対極の、極めてビジネスライクな取引だったのかもしれない。上等なスーツを着た顧客がエレベーターを降りて受付に歩いてくる。受付担当は名乗らずともその顔を覚えているから、顧客が名前を告げる前に担当者に連絡を入れる。部屋の奥からMOTPの担当者が現れ(おそらく担当も上等なスーツを着ている)、顧客を促して個室に招く。二人は二流のビジネスマンのように無駄な世間話をすることも、ブラフのために言葉に感情を込めることもなく、極めて事務的に取引額と物量を決め、手配を済ませる。次回の約束を取り付けて、握手をしてロビーで別れる。
 整い過ぎているのだ。
 まるで何かを隠すかのように。
 突然、ロビーの奥で女性の悲鳴が聞こえた。瀬奈からは死角になっている通路の奥だ。瀬奈は声のする方に走り、慎重に通路を覗き込んだ。通路の左右にはいくつかのドアがあり、右手奥のドアがひとつだけ開いていた。廊下には微かな臭気が漂っている。汗とアルコールの臭いだ。
 突然、奥の開いたドアから放り出されるように人が出てきた。瀬奈がとっさに身構える。飛び出した人は全裸の女性で、ドアの向かいにある壁に激突して動かなくなった。瀬奈の背筋にゾッとした冷たいものが流れた。見覚えがある。女性は全身に酷く殴られた痕があり、だらしなく開いた股間からは血の混じった白い液体がドロリと垂れていた。想像したくないほど酷い目に遭ったのだろう。嫌な予感がして、瀬奈は喉の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。目を凝らす。間違いない。瀬奈を庇うために男達に戦いを挑んだ、アスカだった。
 言葉を失っていると、開いたドアの中から男がヌッと出てきた。瀬奈の身体が硬直する。男は盛りあがった筋肉ではち切れそうになった白いTシャツに、黒いボクサーブリーフしか身につけていなかった。栽培室で会った二人組の片割れでサジと呼ばれていた男だ。サジは薄ら笑いを浮かべながら、薬物中毒者特有のドロリとした視線を瀬奈に向けている。少し前に何かの薬物を摂取したのだろう。サジはまるで数年来の友人に会った時のように「よぉ」と瀬奈に言った。缶ビールの缶を片手に持ち、咥えていたタバコを絨毯の上に捨てて足で揉み消す。
「モニターでずっと見てたけどよ、来るの遅すぎだろお前? え? 下っ端のガキと呑気に話してる暇があるならコイツ助けに来てやれよ。おかげでアスカちゃんにだいぶ無理させちまったぜ」
 サジは缶ビールの中身をアスカの身体にかけながら続けた。「それにしてもコイツ、お人好しもいいとこだな。お前逃がすために格好つけたらしいが、足くじいててまともに戦える状態じゃなかったぜ。ぬるいパンチばかり出すからムカついて、腹パン一発で失神させてやった。暇だったから、縛りつけて腹殴りまくって胃の中身空にしてやった後、マンコ使い物にならなくなるまで犯しちまったぜ。しかも俺が初めてのお客さんだったらしくてな、ブチ込む前に俺の極太にビビりまくって、真っ青になった顔は傑作だったぜ。ま、ビビってたのは最初だけで、すぐにヒイヒイ喘がせてアヘ顔晒させてやったけどな。全部お前のせいだぞ?」
「ふ、ふざけないで! よくもこんな……!」
「テメェが尻尾巻いてコイツ放って逃げたからだろうが? え? 違うのかよ? あのままお前も一緒に残ればコイツも少しはマシに闘えたかもしれねぇだろ? まぁ安心しな、お前もすぐにアスカちゃんと横並べにして、仲良くお友達レイプしてやるよ」
 サジは缶ビールを口に含む。その隙に瀬奈は重心を低くしてサジに向かって走った。瀬奈はサジから視線を外さないまま、太もものポケットに忍ばせていた試験管の中身を一息に吸った。戦闘に備えて組織から支給されている、アドレナリンの分泌を促進する即効性のガスだ。出し惜しみすることなく、最初の戦闘でも使っておくべきだったのだ。サジの手の内は見えている。ショッキングな言葉と光景を並べて動揺を誘っているだけだ。一瞬流されそうになったが、冷静さを失ってはこちらの負けだ。
 サジは瀬奈のタックルを受けてよろけた。サジは「テメェ!」と叫び、体勢を崩したまま瀬奈に殴りかかる。瀬奈は体勢を低く保ったまま躱し、金属プレートの付いた手袋をはめた拳でサジの顎を薙ぐ。サジの体勢がさらに崩れ、缶ビールが床に落ちた。サジは倒れず、無理やりの体勢で瀬奈の肩に手刀を落とす。瀬奈は呻き、肩を押さえたまま一旦距離を取った。耐衝撃性のボディスーツの上からでもこの威力とは、まともに食らったら骨折は免れないだろう。
 サジの顔からは余裕そうな雰囲気は無くなっていた。憎々しげな表情で倒れているアスカを蹴って傍にどけると、足を前後に開き、拳を目の高さにして構えた。綺麗なボクシングのファイトスタンスだ。
「遊んでやるかと思えばいい気になりやがって……。俺はプロのリングに上がっていたんだぞ?」
「だから何なの? 落ちぶれてこんな所でチンピラやってるんだから、大した成績残せなかったんでしょ?」
「ああそうだな。だが弱かったわけじゃねぇぜ。これでもデビューしてから、格上相手に何回もKO勝ちして、結構期待されていたんだ。リング外で相手を病院送りにして追放されちまったがな。ナメやがって……ホンモノのパンチを喰らいやがれ!」
 サジは身体を左右に振りながら瀬名との距離を詰める。瀬奈が後ずさると、少し遅れて目に見えないようなジャブが飛んできた。当たりはしなかったが、凄まじい風圧が瀬奈の顔を通過する。廊下は狭い。瀬奈はバックステップで受付のあるロビーまで戻った。サジが追う。瀬奈は一定の距離を保ってチャンスを待ったが、サジのフットワークは大きな身体にわりに軽快で、一瞬の油断ですぐに距離を詰められそうだった。サジの高速ジャブが何回も放たれ、瀬奈の髪を揺らす。一発でも喰らったら昏倒して、たちまちサンドバッグにされてしまうだろう。しばらく付かず離れずの攻防が続いた後、瀬奈はサジの張り詰めた雰囲気が一瞬緩むのを感じた。その隙に瀬奈はサジの足元に飛び込んだ。サジは反応しきれず、瀬奈に両足を取られて床に背中を打った。サジが呻く。瀬奈はすぐさまサジに馬乗りになり、渾身の力でサジの顎を殴った。サジの顔が跳ね上がる。瀬奈は腕を交差させてサジの首からTシャツの奥襟を掴み、身体を密着させるように体重をかけて頚動脈を圧迫した。
「ボクシングには、タックルも絞め技も無いでしょ!」と瀬奈が叫んだ。
 瀬奈の顔の近くで、サジの顔が目を見開いたまま瞬く間に紅潮する。あと三十秒もすれば意識が飛ぶはずだ。サジは身を捩りながら密着した瀬奈の身体を引き剥がそうと、瀬奈の両肩を力づくで押す。瀬奈も必死にしがみ付こうと歯を食いしばって腕に力を込める。瀬奈の小さな頭がサジの眼下で震え、髪の毛からは甘い匂いが漂ってきた。サジは咄嗟に肩から手を離し、僅かにできた隙間に手を入れて、瀬奈の胸を鷲掴みにした。サジの指が柔肉に埋まり、そのままグニグニと指を動かす。瀬奈の身体は突然の刺激にビクッと跳ね、込めていた力が一瞬緩んだ。その隙にサジは瀬奈の身体を引き離し、なおかつ瀬奈が逃げないように両手首を掴んだ。
「クソが……もう少しでイっちまう所だったぜ」
 サジが激しく噎(む)せながら言った。瀬奈は暴れてサジの手を振りほどこうとするが、力では勝てるはずがない。サジは瀬奈の両手首を引っ張って自分に倒れこませると同時に、その土手っ腹に手加減の全く無い右ストレートをぶち込んだ。倒れこむ途中だった瀬奈の身体が、突っかい棒を打ち込まれたように急停止する。
「ひゅぐぅッ?! ぐ……ぇ……?」と、瀬奈は身体の中の空気を吐き出した。一瞬自分に何が起きたのかわからなかった。恐る恐る視線を下に移すと、サジの拳が耐衝撃性のスーツを巻き込んで、自分のヘソ周辺の肉を巻き込んだまま手首まで陥没していた。「あ……う……うッぶ?! ぶッぐあぁぁぁ!」
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 溜まったマグマが噴出するかの様に、この世のものとは思えない苦痛が瀬奈を襲った。サジに跨ったまま瀬奈の上体がくの字に折れる。
「オラオラ、次は俺がイかせてやるよ。良い声で喘げよクソアマ!」
 サジが連続で右の拳を瀬奈の腹に埋めた。ぼちゅん、ぼちゅん、ぼちゅんと水っぽい音を立てて拳が突き込まれるたびに、瀬奈の身体は電気ショックを受けたように跳ね、吐き出された唾液が仰向けに寝ているサジの身体に降り注ぐ。サジはガード出来ないように瀬奈の手首を押さえたまま、へそや下腹のあたりを執拗に殴り続け、最後に硬い音を立てて瀬奈の鳩尾を貫いた。「おごッ?!」と瀬奈が鋭い悲鳴を上げ、全身の力が抜けてたまらずにサジに倒れこむ。
「へへ……騎乗位でガン突きしてるみてぇだな」とサジは言いながら瀬奈の腰を掴み、布越しに勃起した男性器を瀬奈の股間に押し当てた。ゴリっとした硬いものを感じ、瀬奈の身体が強張る。「すぐにコイツをブチ込んでやるよ。アスカちゃんよりもエロい身体しやがって……俺の女になれば悪いようにはしねぇぜ? その代わり、毎日俺のチンポの相手をしてもらうけどな」
「げほッ……ほんと……? 許して……くれるの?」と、瀬奈が肩で息をしながら力の無い声で言った。重いダメージで涙を浮かべたまま、上目遣いでサジと視線を合わせる。「もう……殴らないでくれる……?」
「あぁ……俺は殴るよりも、普通のセックスの方が好きだからな。お前、可愛い顔も出来んじゃねぇか……名前はなんて言うんだよ?」
「瀬奈……あなたは……?」と言いながら瀬奈はゆっくりと上体を移動させて、仰向けになったサジの顔を真上から見下ろす。
「俺か? この後ベッドの中で教えてやるよ……」
「……いじわる」
 少しの沈黙の後、瀬奈がサジに顔を近づける。サジが僅かに唇を突き出した。
 ぐしゃりと音がして、瀬奈の頭がサジの顔に埋まった。瀬奈の額がサジの鼻を押し潰し、鮮血が散る。サジは悲鳴をあげて瀬奈の身体を突き飛ばす。その隙に瀬奈は後方に飛び退いた。
 瀬奈は腹をおさえ、肩で息をしながら言った。「耐衝撃スーツ着ていてもこの威力なんて……プロだったというのは本当みたいね。三分で集中力が切れることも含めてだけど……」
「テメェ……」と、サジが鼻を押さえながら言った。「ハニートラップなんか仕掛けやがって……優しくしてやろうと思ったが、もう容赦しねぇからな」
「口を開くたびに脅しと恫喝……そうやっていつも自分よりも弱い人間をねじ伏せてきたんでしょ?」
「だから何だ?」
「別に……哀れだと思っただけよ」
 瀬奈はサジの周囲を距離をとったままゆっくりと回りはじめた。サジもファイティングポーズをとったままステップを踏む。
 サジはゆらゆらと身体を揺すりながら瀬奈との距離を縮める。瀬奈は距離を取りながらタイミングを待っている。サジがイライラして、焦れば焦るほど良い。三分間という時間の区切りは、ボクサーにとっては本能のように身体に染み付く。サジのそれも、それほど真面目にボクシングの練習をしていた証拠だ。ルールの中で窮屈な思いをしながらも、目指すものがあったのだろう。こんな暗い地下の底で用心棒などしておらず、リングの上で喝采を浴びた未来もあったのかもしれない。
 ふっ、とサジの身体から緊張の糸が切れた。今だ。瀬奈は太ももの隠しポケットからウズラの卵のような形をした礫(つぶて)を取り出して、サジの足元に放った。それが足元で割れると、中から大量のワイヤーが飛び出してサジの足に絡みついた。
「うおッ?! 何だこりゃあ!」とサジが叫びながら倒れる。瀬奈はサジに向かって走った。サジは膝立ちのまま憎々しげに歯を食いしばり、ファイティングポーズを取る。一か八かの賭けだった。サジのカウンターが決まったら、瀬奈はひとたまりもない。
 サジの背後に動くものが見えた。
 瀬奈は走りながら目を凝らした。
 何かがサジの背後に近づき、そのまま抱きついた。
 サジが驚愕する。
 アスカだ。
 アスカが背後から羽交い締めにしている。
 てめぇ! とサジが叫んだ。
 サジの腕が開き、ガードが解かれる。
 瀬奈はさらに加速して、ベストなタイミングで地面を蹴った。
「あああああああああッ!!」
 瀬奈は気合いとともにサジの髪の毛を掴むと、サジの顔面に渾身の力で膝をぶつけた。
 鈍い音と共にサジの顔が後方に折れる。瀬奈は勢い余って、受け身も取れずに前方に転がった。
 振り向くと、サジは大の字に倒れたまま失神していた。傍らには怯えた様子のアスカが座り込んでいる。瀬奈は反射的に立ち上がってアスカに駆け寄った。
「だ……大丈夫……」と、アスカは虚ろな視線を床に向けながら、震える声で言った。「大丈夫よ……私は大丈夫。これくらい……想定内だから……」
「なに言ってるんですか……。ごめんなさい……私が……私が弱いばっかりに……」と、言いながら瀬奈はアスカを抱きしめた。アスカの身体がビクリと跳ねる。想像を絶するほど酷い目にあったはずなのに、逃げずに瀬奈を助けるために加勢するなんて、どれほど怖かったのだろう。胸が締め付けられ、ただ抱きしめることしかできない自分が歯がゆかった。
「あの扉の先……」と、アスカが廊下の奥を震える指で差しながら言った。「あの先で……ここのリーダーらしき人を見たの。突入した時に少しだけ中を見たんだけど、中はまるで教会の様になっていて……」
「……教会?」と瀬奈は眉をひそめながら言った。
「そう。よくわからないけれど……私達が突入した時に、複数の幹部たちが礼拝みたいなことをやっていたの。祭壇の上で、白いローブを着た男が幹部達に話をしていて、突入した私達と大混戦になって。その時隊員の一人が、白いローブの男が祭壇の奥に逃げていくのを見たって……」
「グールーかも……」
「グールー? 瀬奈、何か知っているの?」
 瀬奈はアスカに少年から聞いた話を伝えた。
「WISHと共に降臨した神様……?」と、アスカは神妙な顔で言った。「二人で協力すれば、なんとか捕えられるかもしれない……」
「いえ……アスカ先輩はこのまま撤退してください。あとは私が行きます」と、瀬奈が通路の奥を見ながら言った。
「なに言ってるの……? この状況で一人で何が出来るって言うの。私も行く」
「ダメです……考えがあります。アスカ先輩はあのエレベーターで地上に向かってください」と、言いながら瀬奈はロビーの奥を指差した。「ここはおそらく重要な顧客を迎えるために作られた、VIP専用のロビーです。そのような顧客を、工場内の通路を歩かせることはありません。おそらくあのエレベーターが、地上と直通になっているはずです」
「でも……瀬奈はどうするの……?」
「グールーを人質に取ります。無理な場合でも、なるべく時間を稼ぎます。アスカ先輩は地上に出たら、警察に応援と救助を要請してください。内部構造や状況がわかれば警察も早く動くはずです」

Яoom ИumbeR_55は10月10日(土)に開催される「りょなけっと vs ABnormal Comic Day!」に、サークル参加させていただきます。
この時期にイベント参加することについては正直かなり迷いがありましたが、

①運営側の感染症対策(検温、消毒、マスク着用の義務、ソーシャルディスタンスなど)がしっかりしている。
②スペースに余裕があり、サークル側でも出来る限りの感染症対策が可能である。

上記の理由から、参加することにいたしました。
また、自分のような特殊なジャンルを発信する機会と、後押ししてくれる運営、イベント会場、印刷所等に対して、少しでも応援になれば幸いです。


_イベント
 
 ※感染症対策のため、通常開催とは大きく異なります。
 ページ内の「重要なお知らせ」をよく読んでからご来場ください。

_スペース
 4階 な-10
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サークルカット(number_55)


_配布物
 腹パンチメインの小説&挿絵、[ PLASTIC_CELL ]を紙媒体で製作しました
 B5サイズ76ページ(文章:63ページ2段組み、イラスト:9ページ)
 ※内容はDL販売しているものと基本的に同じです

 購入特典として、全イラストのフルカラーと差分のダウンロードコードが付属しております

 ジャンルの応援として、通常よりもかなり価格を抑えて1,000円で配布させていただきます

サンプルのコピー

スクリーンショット 2020-10-03 17.50.44

スクリーンショット 2020-10-03 17.44.31

スクリーンショット 2020-10-03 17.46.14


_注意点
 ・サンプル、配布について
 不特定多数の人が配布物に触るのを防ぐため、1冊のみサンプルとして机の上に置き、在庫は全てダンボールに入れた状態で机下に保管します。
 サンプルはビニールカバーをかけ、定期的にアルコールで消毒します。
 配布希望の際はお声掛けいただければ、誰も触れていない新品の在庫を差し上げます。

 ・お金の受け渡しについて
 手渡しを防ぐため、コイントレーを用意しました。
 受け渡しを少なくするため、なるべくお釣りの無いようにお願いします。

 ・マスクについて
 常時着用をお願いします。
 マスクをアゴにかけた状態、鼻が出た状態の方には配布できません。


では、よろしくお願いします。

unui x RNR


この作品はウニコーンさんに有償依頼をいただき、二次創作として製作したものです。
ウニコーンさんのオリジナルキャラの瀬奈さんを主人公に、世界観や設定、ストーリーをお任せいただいたので、かなりの部分を好き勝手に書くことができました。
今後作品としてウニコーンさんが挿絵を付けて完全版として発売する予定ですが、今回私が書いた文章と制作中のイラストの掲載許可をいただきましたので、予告編としてぜひお楽しみください。


1話目はこちらです


 瀬奈は入り組んだ廊下を走った。
 アスカのことは考えずに任務に集中しろと自分に言い聞かせた。そうでもしないと、涙が溢れそうだった。
 しばらく奥に進むと、左側の壁が全てガラス張りになった。ガラスの向こうには新型のベルトコンベアが数台並んでいる。入り口には「梱包室」と書かれたプレートが貼ってあった。瀬奈は呼吸を整えてから慎重に扉を開けて、素早く中に入ってドアを閉めた。
 木くずとカビが混ざったような匂いが漂っている。
 部屋の奥にはステンレスの大きなタンクがあり、そこから機械を通して、透明なビニール袋にパッキングされた、緑色の粉薬のようなものがベルトコンベアの上を流れていた。袋の中身は栽培室で見たキノコを乾燥粉末にしたもの……WISHだろう。瀬奈は身を隠しながら袋のひとつを手に取った。未開封を示すためのセキュリティシールと、MOTPのロゴがホログラムで印刷された偽装防止シールが貼られている。一般的なドラッグは、生産時はキロ単位の大容量でパッキングされ、流通を経由するうちに徐々に小分けされるのが常だが、WISHは最初から一回分を小分けにして生産されているようだ。また、一般のドラッグは製造環境や質も粗悪で、不安定な流通経路を辿って人の手に渡るたびに混ぜ物が加えられたり、中には全く別の薬と偽って販売されたりするケースが後を絶たない。これほどまでに清潔な環境で生産され、品質管理や偽造防止が施されているドラッグを瀬奈は見た事が無かった。
 瀬奈が注意を払いながら室内を点検していると、奥のドアが開いて人が入ってくる気配があった。瀬奈は身を隠し、部屋の奥に注意を払う。
「こんなにもらっていいんですか?!」
「重要な情報だったからな。礼も兼ねて三倍の量を入れるようにとグールーに言われている。いつも助かっているよ」
「いやぁ、お互い様ですよ。最近のWISHの値段は天井知らずですし、富裕層や権力者に買い占められてモノ自体が手に入らない時も多いですからね。こんな風に直接分けてもらいでもしないと、手に入れることは本当に難しい。グールーにもよろしく言っておいてください」
 グールー? なんのことだろう。宗教上の指導者をそう呼ぶこともあるが……。
 瀬奈は機械の陰からそっと顔を出して様子をうかがった。男が二人いる。作業着を着た中年の男と、瀬奈と同じエナメルのコンバットスーツを着た男。瀬奈の所属するACPUの男性隊員だ。隊員は太めの体系で、瀬奈は見覚えがあった。男性隊員が話を続ける。
「しかし、WISHは一回使ったら最後……これはもうやめられないですね。初めて使った時、幻覚に何が出てきたと思います?」
「さぁ? 初恋の女か?」
「ウチの女性隊員ですよ。ははは。その中に好きな娘がいるんですよね。ほら、ウチの隊員って結構美人が多いし、このピッタリしたスーツ着てるでしょ? 訓練中はいつも目のやり場に困るんですよ。身体のライン強調させたこの格好で飛んだり跳ねたり……堪らないですよ。こっちは勃起したらすぐバレるっていうのに」
「ははは、そりゃあ大変だな」
「気の合う男の隊員同士で飲むと、そんな話ばかりですよ。あいつの胸がデカいとか、尻のラインが綺麗だとか。あと、勃起がバレない下着とかね……。初めてWISHを吸った時のことは、強烈すぎて今でも覚えていますよ。幻覚で出てきた娘は瀬奈ちゃんって言うんですけどね。たぶんもう捕まって、上の方々にレイプされてると思うんでが……。これがめっちゃくちゃエロい身体してて、一眼見た時からずっと大好きだったんですよ。WISHを吸った瞬間に暗転して、幻覚がすぐに現れました。どこかの廃墟みたいな場所で、瀬奈ちゃんと背中合わせの状態で潜伏していたんですよ。周りはドンパチやってる中で瀬奈ちゃんの体温や息遣い、柔らかい肌の感触がリアルに伝わってきて、一瞬本当に任務中かと焦ったんですが、すぐに『ああ、これはこれはWISHの効果だな』って、明晰夢を見たような感じになって、迷いなく瀬奈ちゃんを押し倒しました。効果は三時間くらい続きましたかね。自分、任務中に瀬奈ちゃんとエッチするネタで毎回オナニーしてたんで……本当にWISHのおかげで夢が叶いましたよ。口から胸からアソコまで何回も……。幻覚から覚めた後、オナニーじゃ絶対出ない量の精液の掃除が毎回大変なことが、唯一の困りごとですけどね」
「はははは。有効活用できているみたいでなによりだ。こっちもここまでの大規模な突入となると、事前に準備していない限り流石にヤバいからな。ま、これからもウィンウィンでいこう」
 男達は握手をし、男性隊員が大事そうにアルミのアタッシュケースを抱えたまま作業服の男に背を向けた。
 顔にはまだ笑みが貼り付いている。
 やはり、瀬奈が知っている顔だ。
 先輩隊員のヤタベ。 
 何回か一緒に出撃したことがあるが、格闘能力は低く、太った体型のために隠密行動にも向かない。後方支援も事務処理も要領が悪く、素行についてもあまりいい噂を聞かない人物だ。
 この人が、裏切り者……?
 この人のせいで、仲間が殺され、アスカ先輩が危険な目に……?
 なんでこの人はこの状況で、笑いながら下衆な話なんかできるのだろう?
 ヤタベは醜く口角を釣り上げたまま、こちらに歩いてくる。おそらくこれから帰宅して、WISHを使う時のことを考えているのだろう。
 瀬奈は無意識に立ち上がり、ヤタベの前に立ち塞がった。「え?」とヤタベが驚いた表情で言った。瀬奈は飛び出し、ヤタベの頬に拳を打ち込んだ。ヤタベが悲鳴をあげて転がる。アタッシュケースが床に落ちて派手な音を立てた。作業服の男が振り返り、驚いた顔をする。瀬奈は滑るように床を移動し、作業服の男の鳩尾を貫き、失神させた。
「ひ、ひぃ……!」と、ヤタベが尻餅をついたまま言った。
「あなた……」と、瀬奈がヤタベを見下ろしながら言った。自分でも驚くほどの冷たい声だった。「自分が何をしたのか……わかっているんですか?」
 瀬奈の表情が、わなわなと震える。ヤタベは強張った表情のまま視線を逸らし、転がっているアタッシュケースと、失神した作業員の男をチラリと見た。
「……わ、わかっているに決まってるだろ」と、ヤタベが声を震わせながら、吐き捨てるように言った。
「人が死んでいるんですよ! それも仲間が! もちろん危険な任務だし、皆それなりの覚悟を持って挑んでいるとは思いますが、あなたがした行為は最悪の裏切りどころか……意図的な殺人なんですよ!?」
「そ、そんなこと言うな! 僕だって仕方がなかったんだよ……」
「仕方がないって──」
「わかるだろ!?」と、ヤタベが瀬奈の言葉を遮った。「僕がこの組織で、皆にどんなふうに思われているのか、瀬奈ちゃんだって知っているだろ!? ずっとそうさ……どの集団にいても、ちやほやされたことなんて一回も無かったよ。それどころか、使えない奴だとレッテルを貼られて、いつも邪魔者扱いだ。ACPUに入ったのだって、どこにも就職できなかったから、親にコネで無理やり入れられただけさ。後方支援だけやっていればいいって聞いていたのに、まさか前線に出させられるなんて思ってもいなかったけどね……。家族からもお払い箱にされて、クスリにでも頼らないと生きていけるわけないだろ! ましてやこのWISHは、もはや僕みたいな一般庶民では手が出せないほどの高嶺の花になっているんだ。手に入れるためなら、愛着の無い組織なんていくらでも売るさ!」
「そんな理由で……なんでこんな事態になる前に、組織を辞めなかったんですか……?」
 瀬奈が絞り出すように言った。ヤタベは目を伏せながら、失神している作業服の男を見る。
「……あいつと僕の会話を聞いていたんだろう? 君がいたからだよ……瀬奈ちゃん。前線部隊に配属になると聞いて、その日のうちに辞表を書いたさ。つらい訓練も、危険な任務もまっぴらだ。でも、辞表を出そうと前線部隊のオフィスに行ったら、君がいた。一目惚れっていうのかな……今まで好きになった娘は何人もいたけれど、君ほど惹かれたのは初めてだったよ。だから、頑張ってみようと思った。この通りダメだったけどね……。最初は近くで君を見ていられるだけで幸せだった。でも、だんだん辛くなってきた。君はいつか僕以外の誰かを好きになって、身も心もそいつのモノになってしまうと考えると、気が狂いそうだったよ。正直に言うと、帰り道に後をつけたことも何回もある……。君は誰かと付き合っている様子は無かったけれど、ならいっそ今のうちに押し倒して無理やりとも考えたが、君は僕よりも強いから、返り討ちに遭うのは目に見えている……。そんな生活の中で、こいつの噂を聞いた」
 ヤタベは太腿のポケットからビニール袋を取り出した。くしゃくしゃになっているが、未開封のWISHだ。
「まるでプロメテウスの火だと思ったよ……。WISHは僕みたいに毎日劣等感に押しつぶされながら、惨めに地べたを這い回るしかない人間を救ってくれる、神様からのギフトだ。WISHを使っているうちは、辛く惨めな現実を全て忘れさせてくれる……。幻覚の中で何回も何回も、君や他の女性隊員を犯したり、嫌な上司や隊員をぶっ殺したりしたよ。WISHは僕の暗い心を、明るく照らしてくれた火だ。WISHのおかげで、僕は心の平穏を得ることができたんだよ」
「そんなのただの幻覚じゃないですか。まやかしに何の救いがあるんですか!?」
「これが救いじゃなかったら何だ! まやかしにでも縋(すが)らないと、僕みたいな人間は人生という名の地獄から永久に救われないんだ! 現実で救われないのなら、WISHでも麻薬でも何でも使ってやるさ! 瀬奈ちゃんはいいよな……強くて可愛くてスタイルもいいんだから、こんなもの使わなくても全然平気だろう。僕みたいな出来損ないの気持ちなんて、一生わからないだろうさ。そして出来損ないの人間が一度WISHを知ってしまったら、もうWISH無しの生活なんて考えられないよ。人間がもはや、プロメテウスから貰った火を使わずに生活出来ないようにね……。僕はWISHを手に入れるためなら、なんだってやるさ。なんだってね」と、言いながら、ヤタベは瀬奈の顔を見た。その顔はうっすら笑っているように見えた。「せっかく君と初めてまともに話ができたのに、こんな内容だなんて散々だよ……。でも、これだけは信じてくれ。確かに僕は組織を裏切ったが、罪悪感もなにもなく、平気で見知った顔を裏切れるほど、僕の心はまだ壊れていない……。今でも手が震えて、叫び出したいのを必死に抑えているんだ。だから、ここを出た瞬間に使うつもりだったさ!」
 ヤタベは震える手でWISHの封を切り、瀬奈が止めるのも間に合わずに一気に口に入れた。ヤタベはむせながらもWISHを嚥下する。その後、激しい吐き気を堪えるように悶えた。瀬奈は四つん這いになってげぇげぇと苦しむヤタベに駆け寄るが、ヤタベはその手を振り切る。
「あぁあぁぁ!! あ…………あはは」
 虚を見ているような、どろりとした目になったヤタベと目が合った。WISHの効果の発現はこんなにも早いのかと瀬奈は思った。吐かせようかと考えたが、既に手遅れだろう。
「瀬ぇ奈ちゃん……ん~むっ! んむむむむむむむんむんむ!」と、言いながらヤタベは自分の手の平を舐めまわしはじめた。幻覚の中で瀬奈と抱き合って、キスをしているのだろう。その後、血走った目を見開き、呆けたように口から涎を垂らしながら、腰をゆさゆさと前後に振り始めた。あまりのおぞましさに瀬奈が目を逸らす。ヤタベはすぐに「うんッ!」と鋭い声をあげると、ゆっくりと立ち上がった。コンバットスーツの股間のあたりが盛り上がり、小便を漏らした様なシミができている。ヤタベは効果発現から三分も経っていないのに射精したのだ。
 なんの前触れもなく、ヤタベは両手を広げて瀬奈に向かって突進した。瀬奈は不意を突かれて咄嗟に判断ができず、ヤタベに抱きつかれてしまう。脂っぽい汗と、生臭い臭いが瀬奈の鼻を突いた。ヤタベは呻き声のような声をあげながら腰を瀬奈に押し付けようとするが、瀬奈は身を捩ってヤタベの腕を解いた。ヤタベとの距離が更に広がったところで、ヤタベの顎を裏拳で薙ぐ。テコの原理でヤタベの脳が揺れているはずだが、倒れる気配はない。ヤタベはデタラメに手を振り回しながら瀬奈に抱きつこうとする。ヤタベは瀬奈の手首を掴んで強引に身体を引きつけると、瀬奈の下腹部に拳を突き込んだ。
「うっぶ?!」
 胃液がこみ上げ、瀬奈はうめき声をあげた。腹を抱えるようにして身体をくの字に折る。瀬奈は体勢を立て直してヤタベに攻撃を加えるが、効果的なダメージを与えられずにいた。ヤタベの動きは予測不能のデタラメなもので、再び抱きつかれる。普通であれば瀬奈が苦戦する相手ではないが、WISHによって脳のリミットが外れているのか、力はかなり強かった。ヤタベは瀬奈に抱きついたまま、ごちゅ、ごちゅ、と瀬奈の腹や下腹部を殴った。
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「ゔッ?! ぶぐッ! ゔぇッ!」
 肥満体のためパンチには重さがあり、無理な体勢に崩されているため腹筋を固めることもままならない。ヤタベは瀬奈の腹に突き込んだ拳をさらに深く押し込み、そのままピストンの様に圧迫した。
「ゔあッ?! がっ……ぐぷっ……! ごぇッ?!」
 ヤタベは男性器を抽送する様に瀬奈の腹をぐぽぐぽと責めた。瀬奈の腹は杵で突かれている様に陥没し、はらわたが掻き回されたことでデタラメな信号が脳に送られる。瀬奈は目と口を大きく開けて苦しみ、出した舌から唾液が伝って床に落ちた。
「んぎ……いッ!」
 瀬奈は意識が途切れる前に歯を食いしばり、ヤタベの顔面に頭突きを見舞った。ヤタベは痛みを感じているのかわからないが、一瞬ひるんで腕の力が抜ける。瀬奈はヤタベの顎をアッパーで突き上げ、背後に回り込んでチョークスリーパーをかけた。歯を食いしばり、呼吸を止めて腕に力を込める。ヤタベはしばらくバタバタと暴れたが、やがて動かなくなった。
 瀬奈は肩で息をしながら、仰向けに倒れたヤタベを見た。呼吸はしているようだ。失神しているとはいえ、まだWISHの幻覚の中にいるのだろう。その顔にはいまだに不気味な笑みが張り付いていた。
 突如、けたたましい警報が鳴り響いた。
 瀬奈はビクリと反応し、呼吸が落ち着く間も無くベルトコンベアに身を隠す。
 部屋の奥のアルミ扉が開き、小柄な男が入ってきた。男は倒れている作業員を見て「うわっ」と驚いた声をあげた。瀬奈が覗き見る。小柄な男は倒れている男と同じ作業着を着ており、首からカードホルダーを下げていた。
 小柄な男が、倒れている作業員の名前を叫びながら揺り動かす。作業員の部下だろうか。声のトーンが高く、未成年かもしれない。小柄な男は倒れているヤタベにも気がつき、助けを呼ぶために扉に向かって背を向けた。瀬奈が飛び出す。背後から左腕を男の首に回し、カードホルダーを握った手を掴んだ。
「ぐあッ!」
「この音は?」と、瀬奈が低い声で聞く。
「警報です……WISHの製造数と、箱詰めされた数が合わなくなった時に鳴る……。ライン工がWISHを盗むのを防ぐために付いているんです……」
 苦しそうな声で男が答える。近くで見ると、男は瀬奈の想像よりもずっと年齢が低かった。まだ十代前半から半ばくらいだろう。真面目そうな雰囲気の顔が苦痛と恐怖に染まっている。瀬奈は力を込めている腕を少し緩めた。
「あなたもWISHを? WISH欲しさにこんなことをしているの?」
 男の子は目を閉じて苦しそうに歯を食いしばりながら、二、三回頷いた。
「先生から貰ったんです……イジメの相談をしたら、夢の中でイジメた奴に復讐ができるって……。でも、ある時先生から、もっとWISHが欲しいならここで働けと言われて……僕みたいなライン工はたくさんいます……」
「なんてことを……」と、瀬奈は頭を振りながら言った。こんな子供まで使って量産されている薬物など、潰さなければいけない。「幹部やボスはどこにいるの? そのカードを使えば行ける?」
 男の子は首を振った。
「扉のロックはレベルがあって……僕のカードは最低レベルで、この工場エリアしか入れないんです。でも、課長の持っているカードなら、偉い人達のエリアにも行けます……グールーもそこにいます」
「グールー?」と瀬奈が言うと、男の子はかすかに頷いた。
「グールーです。WISHを初めて創った人で、ここで一番偉い人です。グールーは僕達みたいなダメな人間を救うために、WISHと共にこの世に降臨した神様だと、大人達は話しています……」
 瀬奈は男の子を解放した。男の子は四つん這いになって激しく咳をしている。瀬奈は倒れている男のカードホルダーから赤いカードを抜き取った。顔写真付きのしっかりとしたカードで、名前の上には「製造部 在庫管理課 課長」と印字されている。まるで会社の社員証だ。
 瀬奈はしゃがみ込んで、四つん這いになっている男の子と目の高さを合わせた。
「ねぇ、ここを出たら、麻薬更生プログラムを絶対に受けるって約束できる?」と、瀬奈は男の子に向かって言った。男の子はキョトンとしながらも、しっかりと頷いた。「じゃあ、お姉ちゃんとの約束」と言って、瀬奈は小指を差し出した。男の子も恐る恐るという様子で、その小指に自分の小指を絡める。
「私にも、君と同じくらいの妹がいるの。もし、お姉ちゃんとの約束を忘れそうになったら、これを見て思い出して」
 瀬奈は金色の髪留めを一本外し、男の子に渡した。男の子は扉から出て行く瀬奈を見送ると、それを大事そうにポケットにしまった。

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 本日2020年7月21日をもって、Яoom ИumbeR_55は活動10周年を迎えることとなりました。
 ここまで続けられたのも、読者の皆様の応援と、協力していただけるイラストレーターさんのお力があってこそです。
 本当にありがとうございました。
 長いようで、本当にあっという間の10年間でした。ブログを作って初めて小説を公開した時のこと、同人誌の作り方がわからず色々と調べたこと、今でも大好きなイラストレーターさんであるsisyamo2%さんに、嫌われるのを覚悟で「すみませんが、僕のキャラクターが腹パンチされている絵を描いていただけませんか……?」とメールを送り、快諾していただいた時のこと、初めて同人イベントに参加した時のことなどが、昨日のことのように思い出されます。

design
scene1

↑当時sisyamo2%さんに描いていただいたラフ

 始めは綾ちゃん一人だけだったキャラクターも、話が進むにつれ徐々に増え、今ではそこそこの所帯となりました。特にシオンさんの登場は読者の方にもかなり受け入れていただいたようで、ブログのアクセスも一気に増え、自分自身も驚いた記憶があります。
 シオンさんは他のキャラクター以上に、「気がついたらそこにいた」というキャラクターでした。今でも覚えていますが、その頃も仕事とプライベートでかなり参っていました。大分県のある山道を車で走っていた時のことです。そこは開けた草原のような風光明媚な場所で、山の間を吊り橋がかかり、民家や商店は無く、空は雲ひとつない青空でした。真夏なのに気温は涼しく、山々の緑がとても綺麗だなと思った瞬間、まるで昔からずっとそこにいたかのように完璧な姿で頭の中にいました。まるでとこかの世界から気まぐれに自分の頭の中に遊びに来てくれたみたいに、姿形はもちろん、話し方や好み、性格から生い立ちまで完璧に完成されていました。
 当時の自分は「ここまで完成されているのなら、この人の話を書かなければ死ねないな」と思いました。

キャラのみ 2


さて、「ここまで続くとは思わなかった」とはこういう場面でよく使われる月並みなフレーズですが、自分の場合は本当に、長くて1年、早くて数ヶ月くらいで活動を終えるものだと思っておりました。
 何回か書いたり話したりしたことがあるので、既にご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、自分が活動を始めたきっかけはまさに「酔った勢い」です。このあたりの話は、現在DL販売しているリョナ作家インタビュー本[UIGEADAIL]のあとがきに書いておりますので、引用させていただきます。


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 自分には「男性から女性への腹パンチに興奮する」という変な性癖があります。
 いつ頃からこのような変な性癖に目覚めたのかは覚えていませんが、物心ついた頃、幼稚園に通う前にはすでにこの性癖は自分の中に確かに存在していました。その頃は腹パンチはもちろんのこと、戦隊モノやアニメでキャラクターが痛めつけられるのを見て、変な気持ちになっていたのを覚えています。腕が飛んだり、吐血したりという血が出るシーンは苦手でしたが、戦隊ヒーローが敵に攻撃されて火花が散ったり、アニメで女性キャラクターが捕まって苦しめられたりというシーンは大好きでした。6歳くらいの頃から、対象が女性で、攻撃方法が腹パンチに集約されていったと思います。その頃は自分の性癖が「特殊である」といことが具体的には理解できなかったとはいえ「自分はなにかが人と違っている」ということはおぼろげには理解していました。
 また、一般的な性についてもマイナスな出来事がありました。小学校の頃の保健体育の授業での出来事です。当時の担任(問題のある女性教師で、最後には解雇になりました)がとても嫌そうに、男女の身体の違いや、子供ができる仕組みを説明している中、自分はどうやって男性の作った精子が女性の身体の中に入るのか理解ができませんでした。授業はかなり端折られており、肝心なとことは「大人になればわかる」の一点張りでしたので全くわかりません。興味がある男子ならある程度は自分で調べて理解していたとは思いますが、わからなかった自分は手をあげて「男の作った精子をどうやって女の身体の中に入れるのか?」と質問をしたところ、その担任はひどく怒り「ふざけているのか? はしゃぎたいのなら出て行け」と言われ、教室を追い出されてしまいました。その時から自分にとって性は「よくわからないが、不気味で後ろ暗くて恐ろしいもので、決して人に話してはいけないタブー」というイメージがつきました。
 それからすぐに一般的な性の知識も得たのですが、それは自分の性嗜好が、人と違う特殊なものも同時に持ち合わせているという烙印も同時にもたらしました。一般的な性嗜好も持ち合わせてはいましたが、もうひとつの腹パンチという興味の対象が、少なからず人に危害を加える可能性があることも、自分を酷く苦悩させました。よくある特殊性癖(コスプレや汚物など)ならよかったのですが……。

 自分は人と違って頭がおかしいのだ。
 自分はなにか取り返しのつかないような病気なのだ。
 自分はいつか傷害事件を起こして逮捕されるのだ。
 自分は生きているだけで人に迷惑をかけている。

 小中学校の頃から毎日毎日そんなことを考え、こんな自分が表向きは普通の人間を装って生きていて大丈夫なのだろうか、いつかバレるのではないかと思い続けているうちに、自分の自己肯定感はとても低いものになってしまいました。今でも人と話すときは、いつも心のどこかで「こんな頭がおかしい奴の話を聞いて、この人は不愉快に感じていないのだろうか?」と不安に感じています。
 自分の中で転機が訪れたのは、小説……と呼んでいいのかわかりませんが、とにかく文章を書き始めてインターネットで公開した時でした。忘れもしない2010年7月のある夜、当時自分は仕事の関係であちこちを転々としており、縁もゆかりも無い遠い土地に独りで住んでいました。仕事はあまり上手くいっておらず、プライベートでも落ち込むことが重なり、部屋で独りで頭を抱えながらウイスキーを飲んでいました(たしかストラスアイラの12年だったと思います)。
 日付はとっくに変わっていました。
 仕事は、報酬は悪くはなかったのですが、多忙なうえ精神的に辛く、慣れない土地で友人もおらず、相変わらず性癖の悩みも抱え続けており、いっそのこと今から全てを投げ出してどこか知らない土地へでも行って、野垂れ死んでもいいのではないかと思っていたときです。なんの前触れも無く、なぜか突然「そうだ、小説を書こう」と思いました。
 いったい何の脈絡があって「そうだ」と思ったのか意味がわかりませんし、そもそもそれまで小説を書こうなんて思ったことも、ただの一度もありませんでした。文章といえば学校の宿題で出された読書感想文を嫌々書いたことくらいしかなかったのですが、その思いつきは自分の中では不思議と納得ができるものでした。また、その思いつきと同時に「神崎綾」というキャラクターや、敵を含めたその他のキャラクターも、まるで空から降りてきたかの様に頭の中にふわりと出てきて、勝手に動き出しました。数秒前に小説を書く決心を固めた自分は、とつぜん頭の中で勝手に紡がれ始めたストーリーを此(こ)れ幸いと、慌ててウイスキーのグラスをテーブルの隅に退けてキーボードを取り出して、箱庭の中の人形劇を観ているような感覚で必死にメモソフトに書き写し始めました。自分が名刺などで作家ではなくタイピスト(入力者)を名乗っているのは、このような製作過程があったからです。

 ともかくこうして、自分の最初の小説(らしきもの)は完成しました。
 小説を書こうと思った割には、やったことといえば頭の中で勝手に動くキャラクターを書き起こしただけなのですが、とにかく一定量の文章はできました。さて、書いたはいいものの、これをどうしようかと僕は思いました。出来上がった文章は、今読むと恥ずかしくなるほどメチャクチャなのですが、なぜか不思議な勢いがあるものでした。しかも女の子が腹パンチされるシーンが多く入った、過去の自分が読んだら大喜びするであろう内容です。そこで、さすがにこのまま削除するのはもったいないし、とりあえずブログを作って公開してみようと思いました。当時、自分はファッションと音楽のブログを運営していたので、ブログという媒体に馴染みはありました。しかし、それ以外のインターネットの知識はほとんど無く、「腹パンチ」と検索すると「国のすごい技術で犯罪者予備軍リストに載ってしまうかもしれない」と思い遠ざけ、匿名掲示板はアクセスするだけで個人情報が抜かれると思っていたほど、ネットに疎い生活をしていました。
 ブログで小説を公開してすると、ありがたいことに反応があり、また、自分と同じ性癖を持つ人からコメントや感想をいただくことができました。自分以外に同じ性癖を持つ人がいたのかととても驚き、そのあたりからインターネットも積極的に使うようになり、調べていくにつれ、自分が独りで悩んでいた頃から腹パンチをはじめとした特殊性癖は既に一定のコミュニティを形成していたこと、匿名という環境下も相まってかなりオープンな発言が多く、なかには自分でも驚くような特殊な性癖も存在することもわかりました。また、各種イベントに参加することで面と向かって特殊性癖の人達と話をする機会もあり、自分自身が感じていた疎外感も「生きづらいことは生きづらいが、世界に1人だけしか存在しないという特殊なものでない」という風に割り切れるようになりました。

 今回の「リョナ作家インタビュー本」は数年間ずっと自分の中で温めていた企画です。
 先に書いた通り、自分の性癖を恨んだことは数知れず、「どうしてこんな性癖になってしまったのか」「なにかきっかけがあるのではないか」と自分自身ずっと考え続けていた中、「そうだ、直接聞けばいいではないか」と思ったことがきっかけです。また、自分はたまたま小説を書いたことで、自分と同じような性癖を持つ人と会うことができ、少しだけ救われた感覚がありました。おそらく自分のように孤独感に苛まれながら、独りで悩んでいる人も他にもいると思います。そういう方々の孤独感を少しでも減らしてあげられることができればと思ったことが、企画を考えた理由のひとつです。また、偶然にも自分は創作者側の端くれとして存在しているので、純粋に他の創作者の方々が活動を始めたきっかけや、リョナを題材にした理由、産まれてからどのような時間を過ごして現在に至るのかとても興味がありました。
 また、先日LGBTの方に話を聞く機会がありました。その方はレズビアンなのですが、LGBTの方の多くが自己肯定感が低く、アウティング(自らの意思で行うカミングアウトではなく、他者から望まない暴露をされること)の被害を受け、性癖をファッションだと揶揄された経験があるとのことでした。自己肯定感の低さも、アウティングも、性癖をファッションだと揶揄されたことも、全て自分にも経験があり、酷く傷ついたことを覚えています。また、その方は次のようなことを話してくれました。

「産まれた時から私の性認識は女性であり、性の対象も女性だった。私はしばしば『なぜ女性なのに女性が好きなのか』と聞かれることがある。私にとっては産まれた時からこれが当たり前だったから『なぜ』と聞かれてもわからない。逆に、『なぜあなたは異性が好きなのか』と聞かれて、明確な理由を答えられる人がいるのだろうか」

 自分はその話を聞いてハッとしました。
 自分はLGBTではないが、特殊性癖としてはカテゴリとしては同じなのかもしれないと。
 もしかしたら、「どうしてこんな性癖になってしまったのか」「なにかきっかけがあるのではないか」という疑問は考えるだけ無駄で、答えなんて無いのではないか。
 帰宅してからすぐに、「リョナ作家インタビュー本」の募集要項を考え始めました。
 ありがたいことに今回20名を超える方に応募いただき、なるべくジャンルが分散されるように考えながらインタビューをさせていただきました。インタビューも書き起こしも、小説以外の本作りも初めてであり、至らぬ点も多く、結果として11名の作家様しかお話を聞くことができませんでしたが、皆様とても真剣に話をしていただき、ありがたいことに多くの方から「話ができてよかった」「楽しかった」「ここまで真剣に自分の悩みについて考えたことがなかった」と言っていただけました。インタビューに答えていただいた作家様、本当にありがとうございました。インタビュー本については、ぜひ第2弾を企画させていただきたいと思います。
 最後になりますが、この本を手に取っていただきありがとうございました。読んでいただいた方の琴線に少しでも触れることができていれば幸いです。

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 きっかけはともかく、小説を書いて創作活動を始めたことで、このようにある程度前向きな考えになったことは、自分の人生において本当にプラスになりました。また、活動を通じて多くの読者の方や作家さんと交流する機会に恵まれたことも、創作活動をしていて本当によかったと思えることです。
 本当にありがとうございました。
 これからもよろしくお願いいたします。

この作品はウニコーンさんに有償依頼をいただき、二次創作として製作したものです。
ウニコーンさんのオリジナルキャラの瀬奈さんを主人公に、世界観や設定、基本となるストーリーをお任せいただいたので、かなりの部分を好き勝手に書くことができました。
今後作品としてウニコーンさんが発売する予定ですが、今回私が書いた文章と制作中のイラストの掲載許可をいただきましたので、予告編としてぜひお楽しみください。


unui x RNR


Sena_Standing


 ようやく蛍光灯の光が届かない一角を見つけたので、樹村瀬奈は転がるように身を隠した。
 肩で息をしながら背中を壁につけると、力が抜けたようにズルズルと尻餅をつく。なめらかなコンクリートの感触と冷たさが、ピッタリとしたボディスーツ越しに背中に伝わってきた。両手で口を押さえながら、全力疾走した後の呼吸を抑えると、怯えきった金色の瞳で周囲をうかがった。天井に設置された大型のファンが、大型輸送機の様な重い音を立てている。それ以外の音は聞こえなかったため、瀬奈はわずかに安堵した。
 市民体育館ほどの広さの室内は、湿度維持のためのスチームが充満していて蒸し暑い。顔を上げるとミスト状の霧が蛍光灯の光を鈍く反射して、汚れたクリームの様に見えた。
 周囲はステンレス製のラックが、人がすれ違えるギリギリの幅を残して部屋全体を埋め尽くしている。瀬奈は逃げる途中に視界に入ったラックの中身を思い出した。ラックの中はエイリアンの卵の様な、乳白色のプラスチックの壺が隙間無く敷き詰められていた。そして壺の中には不気味な細長い緑色のキノコが、イソギンチャクの触手のように群生していた。
「これが……WISH……?」
 ラックを見上げながら、瀬奈が震える声で呟いた。
 二週間ほど前のミーテイングの様子が瀬奈の脳内に蘇る。

「『WISH』という名前は、君達も聞いたことがあるだろう?」
 国家認定の民間自警組織「ACPU」の会議室に集まった十五人ほどの男女は、ホワイトボードの前に立つ司令官の声に黙ったまま頷いた。
「では樹村、簡単に説明できるか?」と、司令官が言った。名指しされた瀬奈は、はいと返事をして立ち上がる。
「数年前から爆発的な広まりを見せている、新型麻薬の名称です。製造方法をはじめ、製造元や販売ルートはいまだに判明していません」
「そうだ。WISHはヘロインや大麻、コカインなどの既存の違法薬物とは全く違う。その特異な薬効で、短期間で麻薬市場のシェアを塗り替えたバケモノだ。これはサンプルだが……」と、言いながら司令官は封筒から粉薬のような袋を取り出して、全員に見せた。袋の中にはモスグリーンの粉末が入っている。「WISHの見た目はこの通り乾燥した緑色の粉末で、鼻粘膜から吸引すると『まるでオーダーメイドしたSF映画のバーチャルリアリティのように、自分の欲望を具現化した幻覚をリアルに体験することができる』という恐ろしい効果を持ち、多くのジャンキーや廃人を今でも生み出し続けている。あまりにも魅力的な効果のため、巷では『サキュバス』や『デビル』、『D』なんて隠語でも呼ばれている。化学式は複雑かつ不安定で再現は不可能。流通も組織的なものではなく、実際に販売をしている半グレや一般人を捕まえても、いずれも転売で、そもそも誰がどこから流通させているのか不明。樹村の言う通り、モノは確かにあるのだが、それ以外が一切不明の訳の分からないシロモノだ……昨日まではな」
 会議室の全員が、わずかに前に乗り出した。瀬奈もペンを握る手に力が入る。
「昨日、正規警察からWISHを製造している組織が『March Of The Pigs(MOTP)』と名乗っている団体であるとの情報が入った。実態は不明だが、表向きは小規模な新興宗教団体のようなものらしい。二週間後、我々は正規警察の先駆けとしてMOTPのアジトに突入する──」

 アジトの中は入り組んだ巨大なキノコ工場の様で、過去に何回か麻薬組織を壊滅させた実績のあるACPUの隊員達は面食らい、しかも潜入を事前に知っていたかのように即座に入口が閉ざされ、屈強な用心棒達が現れて仲間は散り散りになってしまった。
 ヘアゴムとヘアピンを取り外して、瀬奈は全力疾走で乱れた髪を直した。汗で張り付いた前髪を撫で付け、両サイドの髪と一緒に側頭部に留め直す。骨折や怪我はしていない。組織から支給されたコンバットスーツは少し破れてはいたが、この高湿度の中でも市販品ではありえないスピードで汗を体外に放出させ続けており、快適な着心地を保っている。
「とっとと入れ!」
 背後から低い男の声と、人間を引き摺る音が聞こえて、瀬奈は身体を縮こませた。それに続いて「ひ、ひッ!」という怯えきった男の声。一緒に潜入した仲間の一人だ。
「悪く思うな……」
 別の男の声。落ち着いていて、子供に言い聞かせているようなトーンだ。敵は二人か。
 ごつ、ごつと骨同士がぶつかる音と、仲間の悲鳴が聞こえる。拳骨が何回も仲間の身体に打ち込まれる音……。
「ひぎっ! がっ! ぎゃあぁ! あぁ……! あが……」
 仲間の男の悲鳴が激しくなり、それから徐々に小さくなっていった。瀬奈は涙を浮かべながら嗚咽が漏れないように両手で口を塞いだ。身体が自分のものではないみたいに、全く動かない。グシャリ、という嫌な音が聞こえ、仲間の悲鳴がくぐもったものに変わる。おそらく、鼻を砕かれたのだろう。怒声と悲鳴が混じった悪夢のような時間がしばらく続いた。不意に仲間の男が、壊れた水槽のポンプの様な声にならない声をあげた。首を絞められているのだ。もうやめてくれ、と瀬奈が思った直後、ごきん……という何かが外れた音がした。
 沈黙。
 仲間の悲鳴が途絶えた。
 殺されたのだ。
 力任せに、頭蓋骨と身体を繋ぐ頸椎を無理やり外されて……。
 瀬奈はガタガタと身体を震わせながら、口を押さえたまま流れる涙を拭うこともできずに必死に嗚咽を堪えた。
「あーあ、男は殺すくらいしか楽しみがねぇから、マジでクソだな」
 肉を蹴る音が聞こえる。仲間の死体が蹴られている。「この栽培室もカビ臭ぇし、ジメジメして蒸し暑いしよ……。最悪だぜ。女だったらブチ犯せるからいいんだがな。サエグサさん、どうなんですかい? もうあらかた捕まえたんでしょう?」
「ああ、残っていても、あと一人か二人くらいだろう。侵入者は全員で二十人くらい。女は六、七人はいたと思うが」と、サエグサと呼ばれた男が言った。相変わらず落ち着いた声だ。
「残ってるのが女だったらいいんだけどよ……」と、荒っぽい男がまた仲間の死体を蹴りながら言った。「しかしACPUの女どもの格好、どう思います? 動きやすいのかどうか知らんけど、身体のライン出まくりのあんなヤラシイ格好でノコノコ来やがって、レイプしてくださいって言ってるようなもんでしょ。クソッ! 先に捕まえた女どもは今頃、幹部連中がお楽しみだ。こんな残飯処理みてぇな仕事押し付けやがって……チンピラ連中にでも任しときゃいいのによ」
「そう言うな。サジ、残飯処理も我々の大切な仕事だ。売人のチンピラ達は見かけは威勢がいいが、実際は鍛えている女相手にも負けるようなひ弱な奴らばかりだ。ましてや今回みたいな特殊部隊が相手なら、歯が立たんだろう。だが、彼らはWISHの啓蒙活動という仕事を着々と遂行している。我々が現場の仕事をしなくて済むのは、彼らのおかげだ。適材適所、与えられた仕事を全うすることは素晴らしいぞ。こういう時のために、我々警備部はグールーに雇われているんだ」
「わかっていますよ……。というかサエグサさんだって幹部なんだから、現場は俺たちに任せて、捕まえた女とよろしくやってきた方がいいんじゃないですか?」
「警備部長が離れるわけにもいかんだろう。それに、女を無理やり犯すのは趣味ではない」
「相変わらず真面目っすね……。ねぇサエグサさん。隠れている奴がもし女だったら、俺がいただいちゃっていいですかい? 抵抗されたことにして殺しちまえばバレねぇし、一人くらい上に回さなくたって大丈夫でしょ?」
 瀬奈の震えが大きくなる。
 ほぼ全員捕まった……?
 残っているのは自分だけなのか……と瀬奈は絶望的な気分になった。
 身体の震えが止まらない。
 瀬奈の震えにラックが振動して、壺のひとつが床に落ちた。
 がしゃん……と、室内に音が響く。
 びくっ、と瀬奈の身体が跳ねた。
「おっとぉ……」と、サジと呼ばれた男がわざとらしく言った。「女だったらいいなぁ……」
 サジの声には、手負いの獲物を追い込むライオンの様な響きがあった。足音が近づいて来る。腰が抜けて動けない。殺される……。
 ふっ……と蛍光灯の光が遮られ、男達が姿を現した。背の高い屈強な男が二人、瀬奈を見下ろしている。一人は白い無地のタンクトップにジーンズという姿で、もう一人は濃いグレーのTシャツにオリーブ色のカーゴパンツを履いていた。二人とも腕や胸がはち切れそうなほど張っており、ウエストもそこそこ太い。明らかに、本格的に格闘技をやっている人間の身体つきだ。

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「へへへ……こりゃ参ったな。残り物には何とやらってやつか? 上が輪姦(まわ)してる奴らよりよっぽど上玉だぜ」と、タンクトップを着ている男が言った。先ほどサジと呼ばれてた男だ。目が嗜虐の色に光っている。「なんだこの胸……エロい身体しやがって。大人しくしてりゃあ気持ち良くしてやるぜ?」
 瀬奈の歯がガチガチと音を立てた。

 風を切る音。
 衝撃音と共にサジの体が横に吹っ飛んだ。
 突如現れた人影がミサイルの様なドロップキックを見舞い、もう一人の男──サエグサと呼ばれていた──を巻き込んで倒すと、そのまま蛍光灯の下に着地する。
「……あんまりウチの若いのをいじめないでくれる?」
 鼻にかかった気怠そうな声が瀬奈の頭上に降ってきた。声の主は長い髪の毛を手櫛で梳きながら、瀬奈の手を引いて立ち上がらせる。
「あ……アスカ先輩……?」と、瀬奈が言った。
 アスカは瀬奈の目を見て頷く。ここに来るまで激しい戦闘をかいくぐってきたのだろう。蹴り技主体のアスカ用に仕立てられた、競泳水着の様なコンバットスーツは所々が破れていた。
「厄介ね。入り口近くにいた奴らはチンピラみたいなのばかりで楽だったけれど、こいつらは違うみたい……」と、アスカは溜息混じりに言った。「私と瀬奈以外は、全員捕まったかもしれない……」
「そんな……」
「行って。私がこいつらを食い止めているうちにどこかに身を隠して、後援や正規警察の部隊が到着したら状況を伝るの。出来るわよね?」
「い、嫌です! 私も戦います!」
「あなたまで捕まったら、それこそ全滅かもしれない。大丈夫、私の実力は知っているでしょう?」
「でも、相手は二人です。いくらアスカ先輩でも、疲労した状態で二人を相手にするのは荷が重すぎます。私も戦えば、少なくとも一対一にはできるはずです!」
 アスカは瀬奈の目をじっと見た。瀬奈もアスカの目をまっすぐに見つめている。迷った後、アスカは静かに頷いた。
「わかった。そのかわり、絶対に無理はしないで。最悪の事態は避けなきゃいけないから」
 アスカの背後で男二人が立ち上がった。サジが首を鳴らし、こちらに近づいてくる。
「私は、あのカーゴパンツの男をやる。多分あいつの方が……」と、アスカが言った。「危なくなったらすぐに逃げて」
 アスカがラックに足をかけ、三角飛びを繰り返す要領で男達の頭上に飛び上がる。サジの頭を飛び越え、サエグサに向かって蹴りを放った。サエグサは腕を十字に重ねてガードし、そのまま後ずさる。アスカは追撃として連続で蹴りを放ち、サジとサエグサの距離を離していく。
「分断作戦か……チンケな真似しやがって」と、サジが瀬奈を睨みながら言った。「ま、俺はお前の方が好みだから構わねぇがな」
「残念ね、私は全然好みじゃないから」
 瀬奈は距離を取り、サジの出方を見た。サジは余裕そうにノーガードで直立している。女相手に負けることはないと信じて疑っていない。
 ふッ……と瀬奈は鋭く息を吐き、サジの懐に飛び込んだ。ずぶり……とサジの腹に瀬奈の拳が埋まる。「うぶっ!」とサジは息を吐き、驚愕の表情に変わった。そのままサジの顎を跳ね上げ、ガラ空きになった腹部に鋭い蹴りを打ち込む。
 サジは勢いよくラックにぶつかり、いくつかの容器が頭上から落下して割れた。
「舐め腐っているからよ!」と、言いながら瀬奈は跳躍し、サジの頭上をめがけて蹴りを放った。アスカと共闘していることが心強い。姿は見えないが、向こうも善戦していることだろう。瀬奈の足裏がサジの頭を蹴った瞬間、突然瀬奈の目に鋭い痛みが走った。目を開けていられず、涙が溢れて視界がゼロになる。サジが瀬奈の顔を目掛けて、床に落ちた苗床の砂を投げたのだ。
「痛てェなこのクソアマが!」とサジが憎々しげに叫ぶ。
 ごしゃッ……という鈍い音。
 瀬奈の頭に硬いものが叩きつけられた。キノコの苗床になっていた乳白色の瓶だ。目の前に星が飛び、身体から力が抜けるのを感じた。直後、顎に鈍器のような拳が打ち付けられた。世界が回転し、どちらが上か下かもわからなくなり、瀬奈は崩れ落ちるように尻餅をついた。すぐさまサジに身体を強引に引き上げられ、ラックに背中を叩き付けられる。
「俺は女にナメられるのが一番嫌いなんだよ!」
 サジが叫びながら、瀬奈の腹に容赦の無い拳を打ち込んだ。瀬奈のスーツの布地が大きく凹み、ラックが激しい音を立てて揺れる。
「ゔっぶぇッ?! ぐぷッ……!!」
 目が見えない中、ほとんど不意打ちのようなボディブローを受け、瀬奈の身体がくの字に折れる。はらわたを掴まれたような不快な感覚が瀬奈を襲い、内部から自分の意思に反して胃液がこみ上げてきた。サジはよろめく瀬奈の腕を掴んで強引に引き起こし、そのガラ空きの腹部を突き上げた。瀬奈の胴体が床と水平になり、落下するのと同時にさらに突き上げる。
「ぐぼッ! ごぇッ! げぶぉッ! げぇぇッ!」
 胃の中がさらにシェイクされ、押し潰された中身が食道を逆流する。
「おぶっ……ご……ごぶぇっ?! おぶろろろろろろえぇぇ………」
 瀬奈はたまらず胃液を吐き散らしながら悶絶した。透明な胃液が逆流し、瀬奈は痙攣しながら床でのたうつ。
「汚ねぇんだよボケが! 雑魚がイキってんじゃねぇぞ!」
 脇腹を蹴られ、瀬奈は虐待された人形のように床に転がり、身体を折り曲げて悶絶している。
「がッ?! あがッ……! げぁッ……」
 内臓が危険信号を発し、瀬奈の全身を猛烈な苦痛が駆け抜ける。サジはダンゴムシのように身体を折りたたんで苦しんでいる瀬奈を足で蹴って仰向けにすると、その腹を体重をかけて踏みつけた。ぐちゅりという音と共に瀬奈の腹が潰れる。
「ぶげぇッ?! ぎぇっ……ぎゃあぁぁぁぁ!」

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 瀬奈は苦痛に顔を歪ませながら、サジの足首を掴んで必死に自分の腹を押しつぶしているものを抜こうとする。その様子に、サジの加虐心はさらに燃え上がった。グリグリと体重をかける場所を微妙に変え、的確な苦痛を瀬奈に与える。
 突如、サジの後頭部に衝撃が加わった。バランスが崩れ、瀬奈の腹がようやく拷問から解放される。ラックの上からサジに飛び膝蹴りを放ったアスカが瀬奈のそばに着地した。着地した瞬間、アスカの顔が苦痛に歪む。
 アスカは瀬奈を抱き起しながら「瀬奈!」と叫んだ。
「ゲホッ! ゲホッ! あ……アスカ……先輩?」
 アスカの顔と身体には、再会した時よりもさらに多くの格闘の跡が残っていた。
「心配して来てみれば……もう満身創痍じゃない」と、アスカが言った。「……私が戦っている相手もかなりの手練れで、完全に遊ばれている感じなの。このままでは二人とも負けるだけよ……。最初に言った通り、瀬奈はどこかに身を隠して応援を待って。私はできるだけ時間を稼ぐから」
「そ……んな……」
「大丈夫……あなたの回復力は隊でも随一だから、しばらく大人しくしていれば動けるようになるはず。絶対に生き延びて」
「でも……」
 瀬奈が言いかける前に、アスカの背後でサジが立ち上がった。いつの間にかサエグサも合流しており、サジの背後から瀬奈とアスカを無表情のまま見下ろしている。アスカは立ち上がり、瀬奈を庇うように二人の前に立ちふさがった。
「早く!」とアスカが瀬奈を振り返らずに言った。瀬奈は振り切るようにアスカに背中を向け、腹を押さえながら出口に向かってよろよろと走った。背後でサジが「待てこら!」と叫ぶ。続いてアスカの鋭い声と、ラックが崩れる音。瀬奈が振り返る。アスカがラックの脚を破壊して倒し、瓦礫がバリケードのように床に重なっていた。瀬奈を逃がすために、素手で人を殺すような男達を自らと共に閉じ込めたのだ。瀬奈は涙を拭うこともせずにふらつきながら全力で走り、栽培室から出でドアを閉めた。


「やっ! はッ! はぁッ!!」
 アスカが流れるように連続でサジの身体に蹴りを見舞う。しかし、サジは全く動じずに蹴られた場所をさすっている。
「へへへ、可哀想に。漫画の世界だったらお前みたいなヒロインぶった奴は、なんだかんだで最後は助かるんだろうけどな」と、サジが言った。サエグサは無表情で腕を組んでいる。
 アスカが一方的に攻撃をしているはずなのに、サジはじりじりと距離を詰めていく。サジはノーガードでアスカの攻撃を受け入れてるが、全く効いている様子は無い。「くっ……」と、アスカは食いしばった歯の隙間から、嗚咽に似た声を漏らして後ずさった。直後、アスカの背中がラックに当たる。もう後が無い。アスカは意を決して、サジに拳を繰り出した。正確にサジの腹と鳩尾に連続して拳を突き刺す。そして足を蛇のようにしならせながらサジの顎先を蹴った。しかし、サジは僅かに顔をしかめた程度で全く動じていない。
「なんだそれ? 俺にパンチで勝負を挑むなんて、いい度胸してるじゃねぇか? パンチってのはこう打つんだよ!」
 どぎゅるッ! という聞いたことが無いような音がアスカの耳に届いた。

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「ゔぶッ?! ひゅぐぇッ!?」
 サジは一切の躊躇も手加減も無く、アスカの鳩尾に大砲の様な拳を埋めた。殴られた衝撃でアスカの両足が地面から三十センチほど浮き上がる。アスカの心臓は一瞬で潰され、男達に土下座をする様に顔から地面に崩れ落ちた。まともに呼吸ができないのだろう。「がっあッ!? ごッ……? ごぇッ……!」と死にかけの蛙の様に呻きながらガクガクと痙攣している。
「……少しは手加減してやったらどうだ?」と、サエグサが呆れたように言った。「鳩尾に元プロボクサーの全力パンチなんて食らったら、男でも意識が飛ぶ。ましてや女だったら……」
「そこが良いんでしょう? 暴力でもセックスでも、女はとことんまで追い詰めてヒィヒィ言わせて、徹底的に征服すんのがたまんねぇ。最近はこいつみてぇに勘違いした女が多いっすからね。女は男に奉仕して、快楽を与えるための道具だって立場を徹底的に分からせてやらないとダメなんすよ」
「……まぁいい、好きにしろ。我々に歯向かう者は人間ではないからな」
 サジがアスカのスーツの首の後ろあたりを掴んで、無理やり体を引き起こした。失神したのだろう、動かなくなったアスカの両足が地面から浮き、ダラリと下がっている。
「それよりもサエグサさん、さっきの約束、大丈夫っすよね? こいつは俺がもらいますよ。犯す前に、もうちっと殴ってもいいですかい? 女のサンドバッグなんて久しくやってねぇもんで」
「かまわんが、ほどほどにしておけよ。逃げた女を追うことも忘れるな」
 サジはアスカの身体を荷物の様に肩に担ぐと、緑色のキノコが蠢く栽培室から出て行った。誰もいなくなった室内には、天井のファンの音だけが変わらずに響いていた。

ウニコーンさんからご依頼いただき、作品作りに協力させていただきました。

ウニコーンさんのオリジナルキャラの瀬奈さんを主人公に、世界観や設定、基本となるストーリーの殆どをお任せいただいたので、ある程度好きに書くことができました。
既に文章の納品は済んでおり、ウニコーンさんの挿絵が完成次第発表となります。
文章の公開許可もいただいておりますので、こちらにも数回に分けて掲載していきます。
最後になりましたが、このような機会をいただき本当にありがとうございました。




[ WISH ]

 ようやく蛍光灯の光が届かない一角を見つけたので、樹村瀬奈は転がるように身を隠した。
 肩で息をしながら背中を壁につけると、力が抜けたようにズルズルと尻餅をつく。なめらかなコンクリートの感触と冷たさが、ピッタリとしたボディスーツ越しに背中に伝わってきた。両手で口を押さえながら、全力疾走した後の呼吸を抑えると、怯えきった金色の瞳で周囲をうかがった。天井に設置された大型のファンが、大型輸送機の様な重い音を立てている。それ以外の音は聞こえなかったため、瀬奈はわずかに安堵した。
 市民体育館ほどの広さの室内は、湿度維持のためのスチームが充満していて蒸し暑い。顔を上げるとミスト状の霧が蛍光灯の光を鈍く反射して、汚れたクリームの様に見えた。
 周囲はステンレス製のラックが、人がすれ違えるギリギリの幅を残して部屋全体を埋め尽くしている。瀬奈は逃げる途中に視界に入ったラックの中身を思い出した。ラックの中はエイリアンの卵の様な、乳白色のプラスチックの壺が隙間無く敷き詰められていた。そして壺の中には不気味な細長い緑色のキノコが、イソギンチャクの触手のように群生していた。
「これが……WISH……?」
 ラックを見上げながら、瀬奈が震える声で呟いた。

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【2020年6月22日更新】

DLsiteとBOOTHの両サイトにて[PLASTIC_CELL]のDL販売が開始されました。
HPの推敲から更に推敲してありますので、一気読みや挿絵を楽しみたい場合はご検討ください。
文字数は約10万字、イラストも多数揃っておりますので、興味のある方はよろしくお願いいたします。


DLsite




BOOTH




 蓮斗は年季の入ったバルセロナチェアに座り、ウォルナットのセンターテーブルにブーツを履いたまま両足を乗せていた。
 丸のままのリンゴに齧りつきながら、虚空を見つめている。
 部屋は薄暗かった。棚や床の上に多数置かれた蝋燭が弱々しい火を放ち、壁に飾られた水牛の頭骨や、棚の上に置かれたアンティークの置物の影を、白いペンキが塗られたコンクリートの壁に曖昧な形で映していた。
 バルセロナチェアは、一九二四年にドイツの建築家、ミース・ファン・デル・ローエがデザインした美しい椅子だ。その美しさはもうすぐ誕生から百年の時を迎えようとしていたが、全く色褪せることはなく、常に新鮮みを帯びている。蓮斗は物に執着する性格ではあったが、時の洗礼を受けていない物にはあまり興味が湧かなかった。蓮斗はなんとなく棚の上を見た。デンマークから取り寄せたミルクガラスの馬の置物と目が合った。蓮斗はその馬の目を見ながら、百年後はどのような世界になり、どのような物で溢れているのかを頭の片隅で想像した。
「蓮斗、ちょっといいかしら?」
 神経質そうな女性の声が、ノックの音と共にドアの外から聞こえた。蓮斗は小さく舌打ちをすると、半分ほどかじったリンゴをテーブルの上に置いた。部屋を横切り、姿見の前で作り笑いの確認をする。病的とまでは言えないが、まだかなり痩せている。しかし、以前に比べると幾分血色が良くなった。美樹や久留美と出会ったからだろうなと蓮斗は思った。人間は楽しみが増えると生命力が出るものなのだろう。
 ドアを開けると、無表情の冷子が立っていた。
「どうしました冷子さん? 何か問題でも?」と、蓮斗が作り笑いを浮かべながら言った。
「……相変わらず酷い部屋ね。好きに使っていいとは言ったけれど、なぜわざわざ貧乏臭い内装にするのか理解出来ないわ」
 蓮斗の質問には答えず、冷子は溜息混じりに嫌味を言った。蓮斗はまた小さく舌打ちした。
 冷子は蓮斗を押し除けるように部屋に入ると、バルセロナチェアに座った。蓮斗の食べ残しのリンゴを見て顔をしかめる。冷子はいつも通り、シワひとつ無いブランド物のスーツを着ていた。ディオールかそこらだろう。冷子はTPOの感覚が薄く、常にフォーマルな格好をしている。もっとも冷子が羽目を外して遊びに行ったり、スポーツで汗を流したりするとは思えない。もしかしたら寝る時もスーツなのかもしれないと蓮斗は思ったが、そういえば人妖に睡眠はほとんど必要ないことを思い出した。
 冷子は若干呼吸が早く、顔にはうっすらと赤味が差している。
 人妖にとっての栄養補──飼っている餌の男とセックスをしてきたばかりなのだろう。どういう仕組みか知らないが、人妖は人間の異性とセックスするだけで生命活動が維持され、睡眠や排泄の必要は無い。便利なものだと思うが、餌に選ばれた人間は最悪だ。冷子の相手を見ても、優秀な男でも保って二ヶ月程。それ以上は重度の薬物中毒者のような状態になり、言動がおかしくなってきた頃には飽きられて殺されてしまう。多くの人妖達は複数の異性を侍らせて、補給の感覚を開けることで中毒症状が出ることを遅らせているらしいが、冷子はほぼ毎日、同じ男から補給を行って使い捨てる。蓮斗もたまに相手をすることはあったが、最低でも一週間は開けてもらうように頼んでいる。
 蓮斗が玲子の正面に座った。
 冷子が部屋に来ることは珍しい。そして、冷子が内装について文句を言うのは機嫌がいい証拠だ。普段は他人に対しては徹底的に無関心な奴だからだ。
「貧乏臭いとはずいぶんだなぁ、退廃的と言って下さいよ。デカタンスは僕の趣味なんです。病的でけだるくて、虚飾とセックスにまみれた部屋ですよ」と言いながら蓮斗は両手を広げておどけて見せ、心の中で、あんた達みたいにな、と続けた。「ところで、『お食事』はもう済んだんですか?」
「まぁ、ね。ただ最近は若干使い物にならなくなってきたから、近いうちにまた狩らないといけないわ。それより、今日連れて来たあの娘はなんなの?」
「久留美ちゃんのことです? どうするも何も、僕の趣味に使うだけですよ。今更、僕の性癖を説明する必要はないですよね? お腹を殴った時の反応が好みだったので、思わず拉致っちゃいました──というのは冗談で、彼女は昨日僕が襲ったアンチレジストの上級戦闘員、鷹宮美樹が可愛がっている後輩です。色々と使い勝手があるので、彼女のメルアドを調べておいて、美樹ちゃんの病院に行かせるように仕向けました。移動中に拉致るつもりでしたが、少しばかり邪魔が入ったので結構苦労しましたけどね」
 冷子はふんと鼻を鳴らすと、蓮斗に続いて部屋に入った。
「あなたの特殊な性癖なんてどうだっていいのよ。それよりも、私の命令を忘れたわけじゃないでしょうね?」
 冷子の右腕が一瞬ビクリと痙攣すると、ナメクジの様にずるりと床まで伸びた。皮膚が気味の悪い灰色に変色し、湧き出た粘液でぬめぬめと光っている。蓮斗は両方の手のひらを冷子に向けて口を開いた。
「落ち着いて下さいよ。冷子さんの命令を忠実に遂行すれば僕の目的が達せられるのですから、僕は全力で当たっています。如月シオンを連れて来いという命令はちゃんと守ります。先程邪魔が入ったというのは、実は如月シオンが久留美ちゃんとほぼ同時刻に美樹ちゃんのお見舞いに行ったからなんです。久留美ちゃんとシオンが合流したら、僕は諦めるしかなかった。シオンは昨日本物を初めて見ました、彼女はかなり恐ろしいですよ。仕事柄、今まで色んな人間を見てきましたが、傍目にはあのフワフワした雰囲気を醸し出しながら隙がない。冷子さが執着するのもわかる気がします」
 蓮斗は冷蔵庫から炭酸水を出して飲んだ。冷子は話の続きを待っている。
「先程も言いましたが、今回拉致した久留美ちゃんは鷹宮美樹や如月シオンの後輩です。彼女を餌にすれば面倒見のいい美樹ちゃんは頭に血を上らせたまま、真っ先にここに飛んで来るでしょう。それに、あなたが涼さんの仇を討ちたがっているシオンも、おそらく美樹ちゃんの後を追って来る。動揺して頭に血が上った人間は力を出せないし、現に美樹ちゃんは一度それで僕に負けているのですから。こちらとしては、ターゲットが僕達のテリトリーに自ら来てくれるのですから、これほど有利な戦闘はありません。戦闘はいかに自分に有利な条件で進めるかで勝負が決まりますから、舞台やシチュエーションは実力以上に重要です。負ける勝負はしないに限りますからね。冷子さんは美樹ちゃんの後を追ってきたシオンを殺すなり、四肢切断するなりして再起不能にすればいい。僕は僕で久留美ちゃんと美樹ちゃんで楽しませていただければ、その後の処理はお任せします」
 冷子の瞼が少しだけ大きく開いた。涼の名前を出され、彼女の感情を僅かに揺らしたらしい。それは蓮斗の狙い通りだった。
「……もしシオンが来なかったら?」と、冷子が首を傾げながら言った。
「必ず来ます。美樹ちゃんはクールに見えて、実は結構な激情家なんですよ。自分のことや、能力の高い人間に対しては冷静なのですが、危なっかしい子や後輩に対しては、いささか面倒見が良すぎる所がある。逆にシオンはおっとりしたように見えて、感情的な行動を全くと言っていいほど起こさない。何が最善かをまず考えてから行動する。もし僕が昨日あのままプールで美樹ちゃんを拉致したとしても、シオンは心配こそするでしょうが、美樹ちゃんの実力を信頼して助けには来ないかもしれない。もしかしたらシオンではなく、別の戦闘員が救出に来るかもしれない。しかし、美樹ちゃんの大切な後輩の久留美ちゃんが拉致されたとしたら、頭に血が上った美樹ちゃんは馬鹿正直に正面から殴り込んで来る。そこで、シオンの出番です。美樹ちゃんが冷静なら、別の戦闘員でも対処ができるかもしれない。しかし冷静さを欠いた美樹ちゃんなら、普段の力を出せないかもしれない。シオンは自分の実力を知っているし、仲が良い自分が説得した方が美樹も冷静さを取り戻すかもしれない。他の戦闘員に任せるよりも、自分が出向いた方が成功する確率が高いと考える」
 冷子が顎をさすりながら、数回小さく頷く。
「まぁいいわ。こんな辛気くさいアジトももう飽きてきたし、さっさと始末して別の場所へ移動しましょう。鷹宮美樹と水橋久留美はあなたが好きにしていいわ。私は別に興味が無いし」
「ありがとうございます。で、その手に持っている袋の中身は、例のアレですか……?」
 冷子がふんと鼻を鳴らしながらショートカットの髪を掻き揚げ、茶色の紙袋をテーブルの上に置いた。蓮斗が袋を開ける。薬剤の入った数本のアンプルが入っていた。
「人工チャーム入りの筋弛緩剤。貴方に魅入らせるように調合してあるし、リクエスト通りの『一味』も加えてある。吸入式だから効果は三十分ほどだけどね」
 蓮斗はアンプルを見ながら口元をつり上げた。今後の事を考えると興奮して自然に呼吸が荒くなる。
 冷子が呆れたように声をかけた。
「もう興奮してるの? 本当にあなた変態ね。興奮ついでにデザートになってくれないかしら? 今の餌は明日処分するわ」
 冷子がジャケットを脱いで錆び付いた簡素なフレームベッドに腰を下ろすと、その隣に蓮斗も座った。


 明るい部屋で久留美は目を覚ました。天井に埋め込まれた蛍光灯の光に目を細め、硬い床の上で無意識に寝返りを打つ。視界はまだぼやけていたが、腹部に残る疼痛だけははっきりと感じた。
 部屋に窓は無く、簡素なステンレスのドア以外に出入り口らしきものは見当たらなかった。部屋を横断するように排水溝が設けられていて、壁には所々剥げてはいたが、白いペンキが全面に塗られていた。壁際には大小さまざまな古めかしい器具が、まるで博物館のように整然と並べられている。無数の小さな刺の付いた鉄製の鞭。三角形に鋭く削られた木馬。人が直立した形そのままに作られた檻。鉄製の釣鐘型の女性の像。
「なに……これ……?」
 久留美はごくりと喉を鳴らした。この中のいくつかは本やテレビで見た事がある。
 拷問器具だ。
 大小様々で、用途の分からないものが大半だったが、それぞれが何らかの方法で人に苦痛を与えるために考案された物だろう。器具一つ一つが放つ不気味な雰囲気はなんとも言えない迫力がある。
「……ッ!」
 一瞬の間を置いて、久留美の背中が凍りついた。本能が身の危険を察知し、久留美は考えるより先に立ち上がり、ドアに向かって走った。固い金属の音がして、久留美は前のめりに派手に転んだ。足首が痛い。軽いパニックになりながら、久留美は痛みの走った箇所を見る。足首に革ベルトが嵌められており、壁に埋め込まれた把手と鎖で繋がっていた。揺すってみたが、革ベルトと鎖には無骨な錠が付いていて、無理矢理では外れそうもない。
「嘘……いや……いやぁ……!」
 久留美は半狂乱になりながら叫んだ。全ての拷問器具が自分を睨み付けているように感じる。
「やだ……やだ……先輩……美樹先輩……!」
 目に涙を浮かべながら、久留美は足首のベルトに爪を立てた。外れるどころか、緩む気配も無い。もがいていると、ドアノブが回転する音が部屋に響いた。久留美が絶望感を顔に浮かべながら、ドアを見る。全体にダメージの入ったブラックデニムに、黒いライダースジャケット着た男が部屋に入ってきた。久留美は「ひっ」と悲鳴を上げて首を振る。あの時の医者だと、久留美は確信した。
「もう起きたんだ? お腹は大丈夫?」
 久留美は歯をカチカチと鳴らしながら、身体を引きずるようにして壁際に後ずさった。
「病院では少ししか楽しめなかったけれど、今日は時間もたっぷりあるし……」
 蓮斗は久留美から視線を外さず、部屋の中を歩きながらい愛おしむように拷問器具を撫でた。緊張で久留美の呼吸が荒くなる。
「なかなかのコレクションだろう? 全部、拷問器具だ。しかもほとんどは本物の歴史的価値があるもので、実際に使われたものもある。すごいと思わないかい? 人を痛めつけるという目的のためだけに、昔の人々はアイデアと工夫と芸術性をもって、これら様々な器具を作り上げた。とても残酷なものも多い。昔は処刑や拷問はある種のエンターテイメントだったという側面もあるが、僕は正常性バイアスの産物だと思っている。正常性バイアスは知っているだろう?」
 久留美は震えながら頷いた。
「き、危機が迫った時に、当事者が自分にとって不利な情報を認知しづらくなることですよね……?」
「その通り。平たく言うと、自分だけは大丈夫という思考に陥ることだ。僕はこれらの器具を作った人達も、正常製バイアスに陥っていたと思うよ。もしこれらの器具が自分に使われる可能性があると少しでも思えば、ここまで残酷な発明はできなかったはずだ。それどころか、残酷性を競っていた節さえある。対岸の火事ほど、見ていて面白いものは無いからね……。たとえば、そこにある牛の像だ。残念ながらレプリカだけど、ファラリスの雄牛という有名な拷問器具──というか処刑器具だな。考案したのはペリロスという人物で、空洞になっている像の中に人間を閉じ込めて、下から火で炙る。閉じ込められた人間は堪らない。少しずつ全身を焼かれ、断末魔の悲鳴が像の中で反響して、本当に牛が鳴いているように聞こえたらしい。なんとも恐ろしいことを考えるものだ。しかも最初にこの器具を使われたのは、開発したペリロス自身だと言われている。自分自身がその中に入れられると思えば、もう少し楽に死ねる器具を作っただろうね」
 久留美が恐る恐る牛の像を見つめた。もの言わぬその牛の像は、まるで意志を持つかの様にじっと久留美を見つめていた。
「な、何をする気ですか……? まさか……これで……?」
「そんな悪趣味なことはしないさ」と、蓮斗は笑って言った。「俺は人を殺す趣味は無い」
 蓮斗が久留美に近づいた。久留美は背中が壁に当たり、これ以上下がれない。腰が抜けた久留美の脇に手を入れ、無理やり立たせる。蓮斗の顔が、額が触れ合うほど近付き、久留美は息を飲んだ。蓮斗の微かに興奮した吐息が頬にかかる。
「それに、こんなものを使ったら、久留美ちゃんの可愛い顔が苦しんでいる様子が見えないじゃないか?」
 ずぷんっ……という水っぽい音が響き、久留美の華奢な腹部に蓮斗の拳が埋まった。
「ふぐぅっ?!」
 怯えていた久留美の表情が一瞬で戸惑いと苦痛に塗り潰された。「う」の形で突き出された口から唾液の飛沫が飛ぶ。
「ッぁ……! かふっ……ッ!」
「殺すなんてもったいない。せっかくこんなに良い反応をしてくれるのに、じっくり楽しめなくなっちゃうじゃないか」
 蓮斗が久留美の耳元で囁くように言った。拳を脇の下まで引き絞り、久留美の臍の位置に拳を埋める。ずんっ……と重い衝撃が身体の奥から脳に伝わり、久留美の小さな身体が跳ねた。
「はぐぅッ!? ぶふっ……?! ッぁ……」
 久留美の身体がくの字に折れ、蓮斗に倒れ込んだ。
 ろくに鍛えられていない久留美の薄い腹筋は蓮斗の拳に容易く打ち破られ、蓮斗の骨張った拳を包み込む様に陥没している。ゆっくりと拳を抜くと、久留美の全身から力が抜ける。
 蓮斗が人差し指と親指で、久留美の顎を挟むように顔を持ち上げた。
 久留美は息がうまく吸えないのだろう。短い呼吸を繰り返しながらぼんやりと蓮斗を見ているが、視点は蓮斗の背後のどこか遠くを見ているようだった。
 蓮斗は久留美のブレザーのボタンを外すと、スカートの中に入っているシャツを捲り上げた。久留美の腹が露になる。色白で、縦長の臍からうっすらと腹筋の筋が見えた。水泳をしているので引き締まっているが、元々筋肉が付きにくい体質なのかもしれない。
 蓮斗は久留美の生腹に拳を当てがった。久留美の顔が青ざめる。蓮斗は久留美の腰に左手を回すと、久留美の身体を自分に引き寄せた。ずぶっ……と音が聞こえそうなほどの勢いで、久留美の腹に拳を埋めた。
「んぐぅぅぅッ?!」
 蓮斗の拳に柔らかい内臓を掻き分けられ、久留美の腹は背骨に触れるほど陥没した。肺の中の空気が一気に吐き出させられる。新たな空気を求めるが、蓮斗の拳に邪魔をされ、いくら口を開けても息が吸えなかった。
 蓮斗は突き込んだままの拳を、久留美が微かに息を吐くタイミングに合わせて更に奥へと押し込んだ。
「……おゔぅっ!?」
 久留美から、今まで聞いたことが無いような濁った悲鳴が漏れた。蓮斗はタイミングを掴むと、リズミカルに久留美の腹にピストン運動のように拳を埋め続けた。一度も拳を抜かれること無く内臓を嬲られる。悪夢の様な苦痛に襲われ、久留美は何度も苦痛の声をあげた。途切れかけた意識の中で、苦しむ自分の顔を蓮斗が満足げに見下ろしている。
 蓮斗は久留美を抱き上げると、拷問器具を掻き分けるように部屋の奥に進んだ。四本の枝の生えた、ポールハンガーのような器具があった。高さが一メートルと少しの金属製で、蛍光灯の光を反射して鈍く光っている。器具の先端はソフトボールほどの大きさの球体になっている。中程の高さから四本の枝が真上から見て十字になるように伸びていて、板状になった枝の先にコンクリートブロックが置かれていた。
「どうかな? 俺が考えた拷問器具。久留美ちゃんがあまりにも可愛いから、久しぶりに使ってみたくなったよ。それに、冷子さんの作ってくれた薬も試しておかないとね」
 蓮斗は朦朧としている久留美の身体を床に向けると、先端の球体に腹部を押し付けるように乗せた。
 久留美は身体に力が入らないのだろう。蓮斗は慣れた手つきで、久留美の手首と足首を器具の枝に乗っているコンクリートブロックに繋いだ。
 自分の体重が腹部にかかり、今までのダメージと重なって久留美は微かに呻き声を上げた。
「じゃあ……頑張ってね」
 蓮斗が器具のスイッチを押すと、四カ所の枝のストッパーが同時に外れた。コンクリートブロックが床に向かって落下し、久留美の手足を強引に引っ張る。
「ごぶっ!? うああああああぁぁぁ!?」
 久留美の手足と繋がったコンクリートブロックが宙吊りになったまま揺れている。久留美の体重とコンクリートブロックの重さが、久留美の腹に一気に襲い掛かった。先端の球体が久留美の腹にめり込み、痛々しく陥没する。
「ぐぷっ! おぅッ……ぐッ……うぐあぁぁぁ!!」
 猛烈な圧迫感と苦痛を感じ、久留美はあまりの溢れ出た唾液を撒き散らしながら悲鳴を上げた。
「やっぱり良い反応をするなぁ、久留美ちゃんは。どうだい? 俺の考えたこの器具は? 三角木馬をヒントに考えたんだ。すごい苦痛だろう?」
 久留美は蓮斗の言葉も耳に入らないほどの苦痛に喘いでいた。舌はだらしなく垂れ下がり、黒目は半分以上が瞼の裏に隠れている。蓮斗は明らかに興奮していた。蓮斗は冷子から渡されたアンプルを折ると、中身を久留美の顔にかけた。久留美は何をされたかわからないほどパニックになっており、ただ苦痛に悲鳴を上げ続けた。しかし薬液がかけられると、すぐに苦痛に変化が表れた。
 球体がめり込んでいる腹部から、地獄の拷問の様な苦痛と同時に、えも言われぬ快感が身体を駆け上がって来た。
「あ……あああっ……! ぐ……な、なに……ごれぇ……? おなか、が…………ゔぁ……ぎもち……いぃ……」
「おぉ! もしかして効いてる? どうだい? チャームの成分に、お腹が性感帯にする効果をプラスしてもらったんだ。気持ち良い?」
 蓮斗は久留美の顔を覗き込みながら興奮気味に訪ねるが、久留美は喘ぎ続けるだけだった。目は白目を剥き、興奮で粘度を増した唾液は糸を引きながら口から垂れ続けている。しかし、時折ガクガクと身体を痙攣させながら、苦痛と快楽の波に飲まれている様だ。
「んぐっ! ふあぁぁ……嘘……ぎもぢいいぃ……んあぁ!」
「……マジで感じてやがるな。クソっ!」
 蓮斗は性器を取り出すと、久留美の顔を目掛けて一心不乱にしごきはじめた。久留美は蓮斗の行為に気付く余裕も無く、ただただ崩れた表情を蓮斗に晒している。
「くるじ……気持ち……いい……あああっ……なんで……ぇ……」
 蓮斗は久留美の背中を押した。球体が久留美の腹に更に深くめり込む。より強くなった刺激に久留美の身体がビクンと大きく跳ねると、絶叫しながら絶頂を迎えた。久留美の身体が断続的に痙攣し、それを見た蓮斗も久留美の顔を目掛け発射した。
「ああああああっ! あぐっ……あがあぁぁぁぁ!」
「くおぉっ!」
 絶叫する久留美の顔に、蓮斗の精液が叩き付けるような勢いで降り掛かった。蓮斗も興奮しているただろう。精液の量や粘度はいつも以上に高まり、限界まで伸ばした久留美の舌に乗った精液は垂れず、ゼリーのように舌の上で震えた。久留美は粘液が顔にかかる嫌悪感をまるで感じていないらしく、自分の腹部を中心に広がる快感に身を任せ、童顔を限界まで歪ませている。
 蓮斗は長い放出を終えると、肩で息をしながら失神した久留美の手足からコンクリートブロックを外した。


 美樹の住んでいる鷹宮神社は、アナスタシア聖書学院から見える距離の、小高い丘の上に鎮座している。参拝客は多くも少なくもないという程度だが、清廉な佇まいと、時期が来ると境内を埋め尽すように咲く見事な梅の木で、近隣の住民から親しまれていた。
 時刻は午前六時。
 真冬の空がようやく黒から群青に移り変わりはじめた。
 濡れた氷柱のような透明で静謐な空気が包む神社の境内に、かすかに竹箒の乾いた音が聞こえる。美樹が薄紫色の簡素な着物に藍染めの上着を羽織り、黙々と境内を掃除していた。広い境内に和服を着た女性が一人、もの鬱気な表情で佇んでいる姿は、遠目から見ると神聖で美しい光景だった。
 しかし美樹本人は心ここにあらずの状態だった。
 俯いた視線は石畳のさらに下の土中を見ているようで、竹箒を動かす手も何処か機械的だ。
 久留美が失踪してから、既に三日が経過していた。
 手がかりは全く言っていいほど無く、美樹の所属している人妖討伐機関、アンチレジストからの報告も調査中のまま止まっていた。
 美樹は小さくため息をついた。
 吐いた息は一瞬だけ白くその存在を誇示し、すぐに霧散した。
 その白い息がまるで今の頼りない自分自身を表しているようで、美樹はやり場の無い怒りが込み上げ、竹箒を握る手に力が入った。
「……自分が情けない。もう五日も経つのに何の手がかりも……。あの男の事だ。久留美に何をしてるか……」
 歯を食いしばり、悔しさで込み上げてくる涙に耐えた。しかし、泣いた所で行動しなければ何も解決しない事は十分に理解している。昨日、学院へは一週間の休学届を提出した。しばらくは久留美の捜索に専念できる。
 参道の掃除が終わり、美樹は鳥居を潜って境内を出た。もうすぐ日の出だ。眼下には長い階段が伸びていて、神社と街をつないでいる。
 ふと、鳥居の根元に妙なものが置いてあることに気がついた。
「……手紙?」と、美樹は言った。
 何の変哲もない白い封筒の上に、風で飛ばされないように石が置かれている。封筒の表には綺麗な字で「鷹宮美樹様」と青インクの万年筆で書かれていた。
 嫌な予感がした。
 美樹はゆっくりと封筒を裏返し、差出人の欄を見る。小さな文字で蓮斗と書かれている。
「こいつ……ッ! いつの間にこんな物を!?」
 美樹が震える手で封を開け中身を取り出した。


 本日二十三時
 S区の「CELLA」に一人でお越し下さい。  
 久留美ちゃんと一緒にお待ちしております。


 美樹は無意識に手紙を握りつぶした。怒りのために拳がぶるぶると震えている。
 だが、ともかくこれで手がかりができた。「CELLA」というものが何なのかわからないが、向こうが指定してくるということは、調べればわかるものなのだろう。
 美樹は数回深呼吸して気持ちを落ち着かせると、社務所へ帰ろうと鳥居に背を向けた。その時、階段の下からパタパタと走る音と声が聞こえた。こんな早くに何事かと階段を覗き込む。階段の下からアナスタシア聖書学院の制服を来た女性が全速力で駆け上がって来ていた。登りはじめた朝日に照らされ、長い金髪がきらきらと輝いている。
「あっ! 美樹さーん! よ、よかった……。は、早起きなんですね……」
「シオン……?」
 シオンは息を弾ませながら美樹に手を振り、見る見るうちに階段を駆け上がってくる。美樹は無意識に蓮斗からの手紙を袖の下へ隠した。
 鷹宮神社の階段は途中に休憩用のベンチを用意してあるほど段数が多く、傾斜が急だ。そのため、多くの参拝客は参拝時間のみ解放している裏門の駐車場まで車で上がってくる。あと三十分したら駐車場を解放するまでが、美樹の朝の仕事だった。
 シオンは最後の数段をジャンプして飛び上がるように境内に着地すると、しばらく膝に手をついて呼吸を整えた。
「はぁ……はぁ……。お、おはよう……ございます……。あ……朝から……この……広い境内の……はぁ……お掃除なんて……た、大変ですね……」
「いや……朝からこの階段を一気に駆け上がるほど大変ではないと思うが……。と言うより一体どうした? こんなに急ぐなんて、ただ事じゃないんだろう?」
 シオンは肩で息をしながらようやく上体を起こし、顔にかかった長い金髪を掻き上げた。美樹がよく見ると、シオンの目の下にはうっすらと隈ができている。シオンもここ数日は殆ど学院に泊まり込みで防犯カメラの分析や、組織を通した警察との秘密裏の交渉をしながら、蓮斗の行方を追っていた。
「……はぁ……。んくっ……じ、実は、蓮斗の出生について、ある程度の情報が手に入りました。はぁ……も……もうすぐ迎えの車が来ますので、よかったら一緒に学院まで……」
「何!? 分かった、すぐに準備をする!」
 シオンが全て言い終わる前に、美樹は竹箒をシオンに押し付けると、着替える為に一目散に社務所へと駆けて行った。
 境内に一人ぽつんと残されたシオンはしばし呆然としていたが、とりあえず美樹が押し付けた竹箒で境内の掃除の続きを始めた。

 黒塗りのレクサスが、アナスタシア聖書学院の正門を、滑らかに障害物を避けながら泳ぐ魚の様にくぐった。
 運転手が慣れた手つきで後部座席のドアを開けて、制服に着替えた美樹とシオンを降ろす。
「朝早くからすみません、ありがとうございました」と、シオンが初老の運転手に礼を言った。
「とんでもございません。では、御用件が済みましたら、またお呼び下さい。鷹宮様も是非ご一緒に」
 運転手は二人に対して定規で測ったような一礼をすると、静かに車に戻った。
「組織のか?」
 美樹が走り去るレクサスを指差して言った。
「いいえ、自前です」と、シオンが言った。
「……乗せてもらって何だが、なぜ組織のハイヤーを使わなかったんだ? お前は組織に入っていることを家に秘密にしているんだろう? わざわざ自前のを用意するなんてリスクが高すぎる」
 シオンは曖昧な笑みを少し浮かべただけで、美樹の疑問には答えずに会長室に向かって歩き出した。
 夏のアナスタシアでの一件以来、シオンが意図的に組織と距離を置いていることは何となく感じていた。どのような事情があったのかはあえて聞かなかったが、シオンが考え無しに動く人間ではないことを美樹は理解している。彼女なりに何か事情や思う所があるのだろう。今回の蓮斗の情報にしても、シオンが何か手がかりを見つけたのであれば、まずはアンチレジストへ報告してから会議という形で美樹を招集することが正しい手順だ。直接美樹の家に出向き、自前のハイヤーで学院へ連れて来たあたり、組織を介さないシオンの単独行動であることは間違いない。
 早朝のため学院内には誰もおらず、二人はまっすぐ会長室の中に入った。
 ソファには仮眠を取るためか、毛足の長い厚めの毛布が綺麗に畳んで置かれていた。シオンはもう何日も家に帰っていないのだろう。クリーニング店から配達されたままのシャツやタオルが、シオンの執務机の隅に置かれている。
「お茶を淹れますね。紅茶でいいですか?」
「ああ」と美樹は短く答えた。
 美樹は元々紅茶が苦手だった。
 コーヒーや緑茶は好んで飲むが、ティーバックで淹れた紅茶独特の甘ったるい香りや、香りに反して舌に絡み付く渋みが好きになれなかった。シオンに初めて紅茶を薦められた時、美樹は香りと味を誤摩化す為にレモンを入れて欲しいと頼んだことがあったが、すかさずシオンに「レモンはダメです!」と珍しく大きな声を出された。レモンを入れると紅茶の命である香りと風味が消えるらしい。それを消したかったのだが。
 美樹は素直に紅茶が苦手であることをシオンに話した。シオンは美樹がアレルギーではないことを確認すると、濃いめに紅茶を淹れ、ミルクと少しの砂糖を入れた後「一口でいいから」と美樹に薦めた。渋々味わうと、今まで味わったことがないほど豊かな香味が口の中に広がったことに驚いた。紅茶は相変わらず好きではないが、美樹はシオンの淹れる紅茶は好きになった。
 シオンが毛布を片付けながら、部屋の奥の給湯室へ入った。美樹は入口側のソファに腰を下ろす。
 執務机の上には、大量のコピー用紙の束が置かれている。所々に付箋が貼られた資料の山を見ながら、美樹は手紙の件をシオンに話すべきか考えていた。
 手紙の件を話せば、シオンは手を貸すと言うだろう。蓮斗からは一人で来いという指示だが、シオンの実力なら気付かれないように同行することも可能だと思う。しかし今回の件は、元はと言えば自分の不甲斐無さが招いたことだと美樹は思っていた。敵に不覚を取られ、久留美を誘拐され、ろくな情報も得られていない。出来れば誰にも迷惑をかけず、自分一人の力で解決したかった。美樹がブレザーの内ポケットから手紙を取り出して、小さく折り畳んでスカートのポケットに移した時、シオンがトレーを持って部屋に入ってきた。美樹はミルクと砂糖を入れて、シオンは小皿に取り分けたイチジクのジャムを少しずつスプーンで口に運びながらストレートで、お互いに紅茶をゆっくりと飲む。特に会話は無いが、張りつめていた神経が、少しずつ解れるような気がした。
 一息ついた後、シオンが執務机から資料を持って来た。
「防犯カメラの映像を元に蓮斗の顔の骨格を割り出し、警察の内部資料と再び照合しました。最近の犯罪歴はありませんでしたが、少年時代の記録と、ある孤児院の名前がヒットしました」
 美樹は、警察の内部資料をシオンがどのようにして手に入れたのか突っ込まないことにした。
「ヒットした情報を元にして、蓮斗の個人情報がある程度わかりました。これが、少年時代の蓮斗の写真です」
 美樹は目の前の資料に視線を落とした。「……ん?」と、美樹が困惑した声を漏らす。
 小学校の頃とおぼしき顔写真。数枚の写真の中には、先日対峙した蓮斗とは似ても似つかない面影の少年がいた。
「ずいぶん太っているな……」
 合唱祭、体育祭、修学旅行。イベントの際に撮ったであろうクラスの集合写真。その少年は、いつも同じ場所に立っていた。クラスメイトが押し合うようにフレームの中心で固まり、思い思いのポーズをとっているのに対し、その太った少年はいつもフレームの切れるギリギリの位置に無表情で立っていた。中途半端に伸びた癖毛は梳いた様子もなく、首元が伸びたTシャツは汗で色が変わっていた。どの写真も無表情で、固く両手の拳を握っている。
「確かなのか?」と、美樹がシオンを見ながら言った。
「確かです。いくら体型が変化しても元々の骨格が変わることはありません。蓮斗はおそらく、かなりの美容成形手術を施していますが、骨格照合をかいくぐるほど根本的な改変は不可能です。この写真に写っている少年は間違いなく、美樹さんを襲った蓮斗と名乗る人物です」
 美樹は頭を掻きながら無意識に溜息を吐いた。あらためて写真を眺める。顔の作り自体は悪くないが、脂肪が貼り付いた顎や頬のラインがそれを台無しにしている。なるほど目元辺りは言われてみれば面影がある気がするが、何かを諦めたような目つきは印象に残った。
「ご覧の通り、クラスにはあまり馴染めていない様子です。そして、卒業式の写真には写っていません」
「……引っ越したのか?」
 引っ越してはいないだろうという確信を持ちながら美樹は聞いた。写真の中の蓮斗は、暗い目で美樹を見つめ返していた。
「休学のまま卒業しています。正確には少年院に入ったまま、義務教育期間を終えています」
「何をした?」
「さ……殺人です」
 珍しくシオンが吃った。軽く咳払いをして言葉を続ける。
「蓮斗は当時、クラスメイトから日常的に暴力を受けていました。その内容は酷いもので、歩道橋から突き落とされて入院したこともあるとか……。蓮斗はある日の放課後に虐めの首謀者であるクラスメイトを凄惨な方法で……殺害しました。その夜、別のクラスメイトの母子家庭の家に押し入り、母親を含めて……。そのまま、警察に保護されました。捕まらなければ、両親が寝ている自宅に火を付けようと計画していたらしいです」
「おぞましいな……子供にそんなことが……」
「残念ですが、事実です。警察に保護された後、ある更生施設に強制入所させられています」
 シオンは一枚の名簿をテーブルの上に置いた。
 美樹は思わず声を上げそうになった。
 蛍光ペンでラインが引かれた蓮斗の本名の、ずっと下の方に二本、別の色の蛍光ペンでラインが引かれている。『木附由里』『木附由羅』の文字がマークされていた。
「……何だこれは? あの失踪した双子が蓮斗と同じ施設に?」
「……私も最初はただの偶然かと思いましたが、調べてみるとこの施設は、少し特殊な子供達を集めるための場所でした。家庭環境や様々な事情により、精神的に深い傷を持つ子供達。その中でも反社会的行動をとってしまった子供達……つまりは……」
「犯罪者だけを集めた施設か……」
 シオンはゆっくりと頷き、紅茶のカップに手をつける。
「『CELLA(セラ)』。この施設の名前です」
 美樹はカップを落としそうになった。ポケットの中の手紙が僅かに音を立てた気がした。
「S区の外れの丘の上に建っていましたが、数年前に閉鎖されて、現在は廃墟になっています。ここに何か手がかりがあることは間違いありませんが……美樹さん?」
 シオンが神妙な顔をして美樹の目を射抜くように見る。エメラルドの様なシオンの目は恐ろしいほど透き通っていた。
「……美樹さんが私に何かを隠していることは、何となく分かります。でもそれが美樹さんが隠したいことなのであれば、私が知ってはいけないことなのでしょう。ただ、一人で悩んでも、事態が好転することはあまり無いことは分かって下さい。美樹さん、何か私に出来ることがあれば言って下さい。理由は聞きませんが、全力でサポートします」
 美樹はカップをゆっくりとソーサーに戻した。今すぐに手紙の件を打ち明けたい衝動に駆られるが、寸での所で言葉をごくりと飲み込む。
「いや……大丈夫だ」
 そう、大丈夫だ。と、美樹は自分に言い聞かせた。シオンの少し悲しそうな顔を見たくなかったので、美樹は紅茶の中に映る自分の顔を見つめた。
 紅茶の水面で揺らめく自分は、泣きそうな顔をしていた。


 肉に指したフォークの櫛に添ってナイフを這わせる。すっ、と音が聞こえてきそうなほど簡単に肉の繊維が剥がれた。
 暖炉の火がぱりちと弾ける。
 六人が一度に食事ができる長方形のテーブル。短辺には久留美と、向かい合う様に蓮斗が座り、片側の長辺には双子の女の子(久留美に由里と由羅と名乗った)が仲良く並んで座っていた。冷子と名乗った女性は食事を摂らないらしい。
 久留美が蓮斗に誘拐されて三日目。ここの住人達と夕食を共にするのも三回目だ。
 食事は誘拐されたその日から誘われた。
 最初は警戒して口を付けなかったが、時間と共に薄れる警戒心や、強くなる空腹感で口を付けると、想像以上に美味しかった。
 食事は蓮斗と由里が担当しており、ダイニングには決まった時間に久留美の分も含め人数分が用意された。「変なモノは何も入っていないから、安心して食べてほしい。不安なら、誰かの皿と交換してもいいよ」という蓮斗の言葉も、久留美の警戒心を解した。
 正面に座る蓮斗と目が合った。蓮斗はそれに気が付くと「美味い?」と聞いた。
「良い赤身肉が手に入って、やっとドライエイジングが終わったんだ。肉の旨味が素晴らしいだろう? 良い肉は霜降りよりも、赤身が美味いんだ」
「焼き方もいけてるじゃない?」
 蓮斗の言葉を遮る様に、由羅が口を開いた。
「片面焼きのブルー。由里の作ったポトフには負けるけどね。なんたってあんたの奢りだし」
「私はあまり高級食材ばかりを使うのは……」
 由里がおずおずと口を開く。文句を言いながらも、皿の上の肉は既に無くなっている。
「俺は酒も煙草もダメだからさ、食べ物くらい拘ったって罰は当たらないさ。で、久留美ちゃんはどう?」
 三人の視線が久留美に集中する。
 久留美は一瞬下を向いて目を逸らした後、「美味しい……です」と呟いた。
 なぜこの人達は、まるで友人のように自分に普通に接するのだろうか……と久留美は思った。
 誘拐されてから、久留美は毎日のように蓮斗に腹を嬲られた。固い拳を鳩尾に突き込まれ、膝で胃を突き上げられ、手のひらで腹部全体を潰す様に圧迫され、蓮斗の作った様々な拷問器具で責め立てられた。
 何度も泣き、嘔吐し、失神した。
 何故自分がこんな目に……と、絶望の深い穴の縁を独りで歩いているような気分になった。
 しかし、久留美は腹を責められる以外は、歓迎とも思える扱いを受けた。
 初日の責め苦から目を覚ますと、蓮斗は氷と水の入ったビニール袋で失神した久留美の腹部を冷やしていた。精液の付いた顔は清拭され、痛みが落ち着くとシャワー室へ案内された。蓮斗はタオルを置くとすぐに脱衣所から出て行った。入れ替わるように入ってきた双子の姉妹から一週間分の新品の下着とシャツを手渡され、使い捨てにするように言われた。
 軟禁されている建物は古かったが清潔で、あてがわれた寝室も掃除が行き届いていた。食事も最初は警戒したが、温かくて美味しいものだった。
 意外なことに蓮斗は腹を責める意外は紳士的で、それ以外の久留美の身体には関心を示さなかった。唇や胸や性器は、まだ一度も触れられていない。双子の姉妹も明るくよく喋る性格で、なぜ蓮斗と一緒に生活しているのか久留美は理解に苦しんだ。
 誘拐されたその日、食事の後に久留美は双子と三人きりになり、流れで双子の生い立ちを聞くことになった。凄惨な話だった。双子は両親から酷い虐待を受け、ふとしたきっかけで両親を殺害し、かつてこの場所で運営されていた施設に入居していたらしい。双子にとって両親との思い出は暴力しかなかったが、そのため、双子は暴力でしか愛情を感じられなくなってしまったらしい。いまでも毎晩、姉妹で身体を傷つけ合いながら、お互いを認識し合っているとのことだ。
 久留美はその話を聞いて、涙が止まらなくなった。
「久留美ちゃん?」
「えっ……? あ……?」
 切り分けた肉をフォークに突き刺した状態で惚けていたようだ。心配するように目を細めた蓮斗と目が合った。
「大丈夫? まだお腹が痛むかい? 食事は後で部屋に持っていってもいいけど……」と、蓮斗が言った。
「いえ……大丈夫です」
 目を逸らし、切り分けた肉を口に入れる。少し冷めてしまったが、奥歯で噛むとほろほろと崩れ、軽い塩胡椒の風味と旨味が溢れた。
 不意に、久留美の目から涙が溢れた。
「え? ちょっと、どうしたの?」
 ジーンズにパーカーというラフな格好の由羅が席を立って久留美に駆け寄ると、ポケットからハンカチを取り出して差し出した。
 なぜ、この人達は優しくしてくれるのだろう。
 なぜ、美樹先輩は助けに来てくれないのだろう。
 美樹先輩やシオン会長が何らかの組織に属しており、自分が知る由もない何かと戦っていることは、病院で盗み聞きした会話で察しが付いた。もしかしたら、自分は一般人が知ってはならない大いなる秘密に巻き込まれてしまったのではないか。もしかしたら、自分は口封じの為に美樹先輩やシオン会長に見捨てられたのではないか。
 そんな訳はないと何度も思ったが、蓮斗達に向けられていた恐怖や猜疑心は既に無くなっていた。
「あの……蓮斗……さん?」と、久留美が上目遣いで蓮斗を見た。「この後も……殴ってくれませんか……?」

 ズブリと蓮斗の拳が久留美の腹部を抉る。細く華奢な久留美の腹は痛々しく陥没した。
「ごぷっ?!」
 両手足を固定された久留美は瞼を限界まで見開き、目尻に涙を溜めながら苦痛に耐えた。口内には二時間ほど前に飲み込んだ肉の味がこみ上げてくる。拘束されると同時に茶色いアンプルの中身を顔に浴びせられていたため、久留美のショーツはぐっしょりと濡れていた。別にいい。替えは何枚もあるのだ。
 はっ、はっ、と短い呼吸をしながら蓮斗の表情を見る。蓮斗も興奮しているようだ。久留美はなぜか、蓮斗の顔がとても愛おしく感じた。
 ぐぼんっ……と膝が鳩尾に突き込まれ、久留美は嘔吐いた。
「ぐえっ……ッ! あ……うぶぅッ!」
 耐えきれず、久留美の喉が膨らみ、ほとんど消化された茶色い液体が口から溢れた。嘔吐の途中でも蓮斗は間髪入れず、久留美の胃を突き上げた。痙攣している真っ只中の胃をひしゃげられ、久留美はこの世のものとは思えない苦痛を感じた。
「ぐっ……ぐえぇぇっ……はッ……はぁ……」
 頭が支えられず、ガクリと頭部が落ちる。そのまま上目遣いで蓮斗を見上げた。
「は……蓮斗……さ……ん……」
 蓮斗は目で「何だ?」と聞いた。
「う……く……口で……して……あげます……」
 言い終わった後、久留美ははっとした。なぜこのようなことを口走ったのかわからない。久留美はキスすらしたことが無く、性的な知識も本で読んだ程度だった。ただ、なぜか、そうしたかった。
 蓮斗は久留美の手足の拘束を解くと、久留美を膝立ちにして黒いカーゴパンツのファスナーを下ろした。男性器が限界までそそり立っている。久留美の鼻に、微かに汗と男性の匂いが刺さった。
 久留美はうっとりと蓮斗の性器を見つめた。
 徐々に近づき、口を開けてくわえ込む。
「んっ……んむっ……んぅ……」
 どうしていいのかわからず、反応をうかがうように蓮斗の顔を見上げながら、舌先を這わす。気持ち悪さは無く、不思議な満足感が久留美を満たしていた。腹部からこみ上げて来る苦痛は子宮の辺りからこみ上げる熱と混ざり合って、下半身全体が溶けるような感覚を覚えた。
 久留美は哺乳瓶を咥えた赤ん坊のように蓮斗の性器を吸った。中身を吸い出すように、そのまま何回か頭を前後に動かすと、蓮斗の性器が震えて熱い液体が久留美の口内に注がれた。
 突然の射精に驚いて、慌てて性器を口から離す。
 そらした顔を目掛けて、まだ粘液の飛沫が降り掛かった。
 大量の精液を顔に浴びながら、久留美の脳裏にふと美樹の顔が浮かび、すぐに消えた。
 もう、このまま助けられなくてもいいのかもしれないと、久留美は思った。


 水を打つ音と祝詞の声が境内に微かに響いている。音は鷹宮神社の奥、竹薮のそばの井戸から聞こえた。髪を結い上げた美樹が白襦袢一枚の姿で黙々と祝詞を唱えながら、井戸の底につるべを落としては引き上げ、桶いっぱいに溜まった氷の様な水をかぶっている。
「高天原に神留座す神魯伎神魯美の詔以て……」
 見ているだけで皮膚に痛みを覚えるような光景だったが、美樹は顔色一つ変えることなく黙々と水行をこなした。祝詞を唱えながら冷水を浴びること十数回。終えると美樹は丁寧に井戸に蓋をし、桶を直すと両手を合わせた。
「行くか……」
 身体は芯まで冷えきっている。声は震え、消え入るように小さい。しかし、頭は未踏の地の水源のように澄み切っていた。美樹は井戸に背を向けると、本殿横の離れにある自室に向かった。あらかじめ踏み石に置いておいたバスタオルで襦袢の上から身体を拭き、草履を揃えて部屋に入る。行水の一時間ほど前に火鉢に炭を入れていたため、柔らかい温かさにほっとする。行灯から橙色の灯りが弱々しく広がる十畳ほどの和室。多くの文庫本が入った本棚と、大きめの箪笥と姿見以外は、生活感があまり無い。食事は別室で摂ることが多かったし、好きなバイクや整備道具はまとめて車庫に置いてある。勉強も箪笥に立てかけてある書生机を必要に応じて出した。
 美樹は付書院の戸を開け、天板にテープで張り付けて隠してある鍵を取り出すと、施錠された箪笥の引き出しを開けた。
 丁寧に畳まれた服を取り出す。
 美樹専用の、アンチレジストの戦闘服だ。
 アンチレジストの戦闘服は、季節を通して同じ服で戦うために特殊な繊維が用いられている。伸縮性や対衝撃性は一般的な高機能繊維と同じだが、特筆すべきは温度と湿度の調節効果だ。
 その生地は周囲の温度を感知し、身体から発散される水蒸気をエネルギーとして、生地の無い場所も含め身体全体をヴェールで包むように適正温度に保つ。そのため一見露出の多い戦闘服でも、真冬でもコートを着ているように温かく、真夏は裸でいるよりも涼しい。この繊維を用いてアンチレジストは戦闘員各々の戦闘スタイルや衣服の好みに合わせてカスタムメイドされたものを支給している。
 好みにもよるが、基本的に一般戦闘員のものは防御に特化した戦闘服が多い。関節部分などの急所の保護を目的としたサポーター類をはじめ、素材自体も厚手で露出の少ないものが好まれる。中にはフルフェイスのヘルメットを選択する者もいる。逆に上級戦闘員は極力自分の戦闘能力を高める為に、関節部分は露出、もしくはサポーターの無い薄手の素材を選択する場合が多い。当然、美樹は後者である。
 美樹は襦袢を脱いで全裸になり、あらためて丁寧に身体を拭くと、結っていた髪を解いて姿見の前で丁寧に梳いた。均整の取れた身体だ。女性らしい体つきだが、無駄な脂肪は一切付いていない。適切な運動により腕や脚、腹にはしなやかな筋肉が付いている。
 ふふ……と美樹は笑った。鷹宮の養子になってもう七年が経つ。あらためて見ると、あの頃に比べ自分の身体も変わったものだ。人の為に使おうと決めたこの身体は、美樹の意志に応えるように成長してくれている。
 美樹は児童養護施設で過ごした後に鷹宮家の養子に入った。
 今の家族は宮司を務める養父だけだ。
 実の母親は他界し、実の父親にはもう会う事も無いだろう。母親が存命の頃は、美樹の家は裕福とは言えないが、ごく普通の家だった。父親は工場で決まった時間に働き、母親も美樹が学校へ行っている間にパートに出た。よほどの事が無ければ、夕食は家族三人揃って食べた。しかし美樹が八歳の頃に両親が離婚し、美樹の親権と監護権は母親に定められた。離婚の理由は美樹には知る由もないが、幼い美樹でもおそらく父親に原因があることはなんとなく理解した。簡単な裁判が終わり、美樹と母親は少し離れた土地へと引っ越し、美樹も転校を余儀なくされた。
 美樹の母親が体調を崩して入院したのは引っ越してから半年後の事だ。病状は重く、美樹は急遽父親の元に戻された。元の家から距離のある転校先の学校に通い続ける事は大変だったが、それ以上に美樹を苦しめたのは父親の変化だった。家には既に美樹の知らない女性が居た。異分子である美樹に女性は辛く当たり、父親も女性の肩を持った。時には美樹に何も持たせずに一晩外に放り出す事もあった。美樹の存在は、父親の第二の人生にとって邪魔者でしかなかったのだ。しかし父親と女性との関係は長続きしないらしく、短期間で何人もの女性を部屋に連れ込み、その度に美樹は疎まれた。
 母親が他界したのは入院してから半年後、離婚してから一年後のことだ。電話の受話器を戻すと父親は無表情で、美樹に向かって「死んだぞ」と言った。「誰が?」と震える声で美樹が聞くと、母親の名前を言った。
 父親は母親の死により、何かの「たが」が外れたのだろう。父親は美樹に対して性的な暴力を振るうようになった。一線は越えなかったが、母親が他界してから養護院に入れられるまで父と過ごした記憶を美樹はほとんど持っていない。幸いなことにフラッシュバックする事も無いが、自分が男性に対して興味を抱けなくなったのは父親が原因だろうと思っている。
 美樹が十歳の頃、父親は交際を断られた女性への強姦罪で逮捕され、美樹は養護施設に預けれた。その頃の美樹は全てにおいて無感動になり、特に男性に対しての敵意は凄まじかった。施設に入所してから一年後、美樹が十一歳の時に鷹宮神社の宮司に引き取られても敵意は変わらず、たびたび神社から脱走を試みた。
 美樹の養父になった宮司は六十代の独り身だった。父親から鷹宮神社を受け継ぎ、数人の通いの職員を遣う以外は境内の裏の離れで一人で暮らしていた。養父は美樹を養子にすると、まずは名前を「美樹」に改名した。鷹宮神社の力強く美しい神木の様に育つように、そして、過去を忘れ、一から人生を歩めるようにと願ってつけられた。そして離れの一室を美樹の部屋として与えた。美樹も最初こそ抵抗したものの、養父の「楽に生きればいい。私に心なんて開かなくてもいい。好きな事は出来るだけさせてやる。だから、出来るだけ楽に生きるんだ。そして、出来るだけ人の為に生きるんだ。人間どうしたって生きていかなきゃならないんだ。人に優しくしていれば、それだけ優しさが帰って来る。そうすりゃ楽に生きられる。楽に生きられるってことは、楽しく生きられるってことだ。本当だよ」と言う言葉は美樹の乾き切った心にゆっくりと、そしてじんわりと染み込んで行った。
 あれから七年。豊かな表情を作るのはまだ苦手だが、養父のお陰で人の道から外れずに送れている。アンチレジストに入ったのも養父の教えからだ。まだ恩を返し切れていない。久留美の救出を諦める事は、養父の教えを裏切る事だ。ここで立ち止まるわけにはいかない。
 美樹は綺麗に畳まれた巫女装束を基調とした戦闘服に手を合わせた。
 まずは身体にフィットした光沢のある黒いノースリーブレオタードを身に付ける。水泳部で着用している水着に似たそれも、組織の開発した特殊繊維で作られている。肩紐に指を入れてレオタードのたるみを直すと、太腿の途中まである長いソックスを穿いた。ゴム口には緋色のリボンがスティッチ状に縫われている。
 緋色の短いプリーツスカートを履き、緋色の裏地の付いた白い襦袢を羽織る。襦袢は胸の下あたりまでのショート丈。美樹は作務衣を着る要領で内側と外側に付いた紐で裾を留めた。帯は用いない。激しい戦闘においては締め付けは邪魔になる。袖口は巫女装束や振袖の様に袋状になっており、袖口にはソックスと同じように緋色のリボンが縫われている。
 美樹は姿見の前に立つと、両手で襦袢の中に入った髪の毛をふわりとかき出した。自然と身体が昂揚してくる。髪をポニーテールに結い上げると、全身の着衣の乱れを直した。
 姿見の中の自分はまるで巫女とクノイチを足して割ったような姿だ。昼間にこの格好のまま出歩くわけにはいかないが、美樹はなかなか気に入っていた。上級戦闘員の戦闘服にしては身体を覆う部分が多かったが、美樹は衣服のあらゆる場所に武器を隠している。
 着替えが終わると、美樹は軽くその場でジャンプしてみた。
 衣服を身に付けていることを忘れるほど軽い。そして生地に使われた特殊繊維の効果で、先ほどまで感じていた寒さが嘘のように消えていた。
 目を瞑り、足の裏から空気を吸う様にゆっくりを息を吸い込む。そして吸い込んだ空気の塊を丹田に押し込むように意識を集中し、吸った時の倍近い時間をかけてゆっくりと息を吐き出す。数回繰り返した後、静かに目を開く。
「行くか……久留美、待っていろ。すぐに助ける」
 美樹は箪笥からライダースジャケットを取り出して羽織ると、編み上げのコンバットブーツを履いて外に出た。
 雪は止んでいた。境内の石畳には足跡ひとつ無い雪が一面降り積もっている。
 暗くて静かで、美しい光景だった。
 美樹はライダースのポケットからショートホープを取り出して火をつけた。養父のいるもうひとつの離れを見る。早寝の養父らしく部屋の灯りは消えていた。美樹はゆっくりと煙を吸い込み、蜂蜜に似た甘さを楽しむように長い時間をかけて吐いた。空気が冷えきっているため、自分の吐く息の白さと合わせて普段よりも煙量が多く感じる。時間をかけて短い煙草を吸い終わると、美樹は少し迷った後に養父の寝ている離れの踏み石に火の消えた煙草を置き、自分にしか聞こえない声で「行ってきます」と呟いた。


 固い音を立てて、カップが漆喰の塗られた壁に叩き付けられた。ブルーの絵が入った薄造りのカップはドライフラワーが崩れるように簡単に四散し、漆喰の壁には蜂蜜を塗ったように紅茶の垂れる跡が残った。
「……か……б……бо……か、神様……」
 シオンは両手で頭を抱え、会長室の執務机に両肘を着いた。白に近い金髪にディスプレイの青みがかった光が反射している。悪い夢から覚めようとすよう首を振る。一瞬でカラカラに乾いた喉の粘膜が貼り付き、思わず咳き込んだ。
「はっ……はぁ……は……」
 呼吸を乱しながらディスプレイを見ないように立ち上がる。ふらつきながら深紅のブレザーと自分で墨染めしたブラックウォッチ柄のスカートを脱ぎ捨てた。給湯スペースの奥のシャワー室に向かいながら下着を取り、シャワーコックを全開にした。冷たい水がレインシャワーから飛び出し、思わず身体が跳ねた。
 吐水が徐々に水から湯に変わる。混乱していた精神が溶かされるように、徐々に平静を取り戻していくのがわかった。
 あまりにもショックが大きすぎた。
 シオンは久留美の捜索と蓮斗の調査をする傍ら、アンチレジストについての調査も進めていた。自分も所属しているとはいえ、あの組織はあまりにも謎が多すぎる。豊潤な資金源や構成員の正確な人数、そしてトップであるファーザーの素性。アンチレジストに対する調査は、警察の内部資料を盗み出す以上に大変だった。しかし今日、ハッキングソフトがひとつの答えを出した。そしてそれはシオンを大きく混乱させた。
 頭からシャワーを浴びながら、こめかみを揉んで乱れた心を落ち着かせる。まだ調査が必要だ。自分はまだ氷山の一角を見ただけだ。今は久留美ちゃんの救出を第一に考えなければ。
 シオンはシャワーから出ると、髪と身体にタオルを巻いたまま割れたカップを片付けた。汚れた壁を拭きながら、カップを叩き付けるなんてどうかしていると思った。ここまで心が乱れた事は今までの人生であっただろうか。
 まだ、そうと決まった訳ではないのに。
 偶然の可能性の方が高いはずだ。改姓した人が多いとはいえ、元々はありふれた姓であり、まだその姓のを名乗る人は多く残っている。アンチレジストの送金者リストのトップに記載された姓。ラスプーチナ。まだあの国にはその姓の人は大勢いるはずだ。そうだ、自分の生家と同じ姓を持つ人は、母国には何人もいる。だが、自分の生家と同じ姓で、アンチレジストの資金提供リストのトップに記載されるほどの財力を持つ家系を、シオンは思いつく事が出来なかった。

順番が前後してしまいましたが、[Plastic_Cell] 前編の推敲作業を進めています。
まだ甘いので、あと2回くらい推敲します。



 雪が降っていた。
 夕方からしんしんと降り続いた雪は二十二時を過ぎても止まず、本来なら、手入れの行き届いたきめの細かい芝生で覆われたアナスタシア聖書学院のグラウンドを、まるで最高級のグレイグースの羽毛を敷き詰めた様に真っ白に覆い隠していた。
 その雪が全ての音を吸い尽くしてしまったかの様に、ほぼ完全な静寂がヨーロッパ調の敷地内を静かに漂っている。赤味の強い煉瓦造りの校舎の中は全ての灯りが消えており、等間隔に灯されたレトロなガス灯のあかりだけが、雪に霞みながら静かにゆらめいていた。
 男は裏門にいた警備員を昏倒させると、鍵束から裏門の通用口の鍵を探し出し、足早に学院内へと侵入した。
 男は二十代前半だろうか。顔の彫りが深く、目が落ち窪んで眼光がやけに鋭い。金色に染め上げたボリュームのある髪の毛を、爆発したようなきつめのパーマで逆立てている。男は黒いタイトなレザーライダースのファスナーを首元まで締め、大きなポケットの着いた厚手の黒いカーゴパンツのポケットに手を突っ込んで歩いていた。
 十年に一度の異常気象と言われた夏の暑さとはうってかわって、年が明けた一月の夜は凍てつく様に冷えきっていた。男は時折白い息を吐きながら新雪を踏みしめた。さくさくと乾いた音がドクターマーチンの靴底から男の耳に届く。
 学院の奥へと進むと、ようやく目当ての建物が見えてきた。煉瓦や自然石を基調とした敷地の中で、やや浮いた印象のコンクリートむき出しの五階建ての建物、通称S棟。
 S等は一階がプール、二階と三階が多目的コート、四階が武道場、五階がトレーニングジムというスポーツ専用に建設された建物で、授業や部活動以外にも体力向上やダイエット目的の生徒に幅広く利用されている。
 男はS棟の真下に到着すると、微かに明かりの漏れている一階部分を見上げた。高い天井付近の窓から漏れる明かりと、わずかに見える天井に写る水面の揺らめきが、ターゲットがまだ中に居ることを男に伝える。男は僅かに唇の端をつり上げるとS棟の中に侵入した。
 内部は空調が効いているのか、外の寒さに反して適度な湿度と温度に保たれていた。
 広い競泳用プールの左端のレーンを、一人の女性が綺麗なフォームのクロールで泳いでいる。
 女性はあっという間に向こう側の壁にたどり着くと、鮮やかなクイックターンですぐにこちらに向かって泳いで来る。
 女性ほとんどペースを落とさずに数回プールを往復すると、肩で息をしながらプールサイドに据え付けられたステンレス製の手すりにつかまり呼吸を整えた。わずかに見える横顔からは満足そうな色が伺えた。男が居ることには気付いていない。呼吸が落ち着き、プールサイドに登るためにステップに足をかける。
「手を貸そうか?」
 女性の肩がビクリ跳ね、反射的に男が伸ばした手を弾くと、隙をついてプールサイドに上がった。女性が飛び上がった反動で舞い上がった水しぶきが、遅れて男のライダースジャケットの上に落ちた。
「へぇ……あれだけ泳いだ後なのに、なかなか良い動きするじゃないか? 鷹宮美樹?」
「……何だお前は? なぜ私の名前を知っている?」
 男は質問には答えず、まだ水の滴る美樹の身体をゆっくりと見回した。
 均整の取れた美しい身体だ。
 腰まである長い黒髪は濡れた烏の羽の様に艶々と輝いており、凛とした印象の整った顔立ちを引き立たせている。身体にぴったりとした競泳用の水着は身体のラインを余す所無く浮かび上がらせていた。男は無意識に唇を舐めた。
「次の大会で君の連覇は確実だというのに、こんな時間まで居残り練習とは大したもんだ。優雅に泳ぐ白鳥は水面下で必死に足を動かしている……ってやつかな?」
「質問に答えろ。どうやって侵入したかは知らないが、どうせやましいことが目的だろう? 怪我をしないうちに帰った方がいいぞ……」
「噂通り口が悪いなぁ……。神社の巫女さんってのはそんなにぶっきらぼうでも勤まるものなのかい?」
 美樹の目がわずかに大きく開く。この男は家のことまで知っているのか。
「君のことは結構知っているよ。鷹宮神社の一人娘……と言っても、住職とは血の繋がりは無くて養子縁組。アナスタシア聖書学院の水泳部のエースで、地区大会ではいつも優勝、全国大会でも上位。ぶっきらぼうだけど面倒見が良くて水泳部の後輩からは慕われている。男にも女にも人気はあるが、雰囲気や言動から近寄りがたく、あまり告白はされないし、されても一度もOKしたことは無い。成績はかなり良くて……」
「ストーカーかお前は?」
 美樹が男の言葉を遮る。正面を向いたまま後ずさり、立てかけてあったデッキブラシを掴んで、男に先端を突きつけた。
「生憎、私はそこいらの女達のように簡単に組み伏せられたりはしないぞ。早々に失せろ。金輪際私の前に姿を現さず、アナスタシアの敷居も跨ぐな」
 突きつけたデッキブラシを薙刀のように持ち替え、足を前後にやや大きめに開きながら構える。重心をしっかりと落とした理想的な構えだ。デッキブラシの先端は全く揺れず、射抜く様に男に向かって突き出されている。
「おお、怖い怖い。警備員呼ばずに自分でどうにかしちゃうんだ? 流石はアンチレジストの上級戦闘員。痴漢やストーカーの一人や二人懲らしめるくらい朝飯前だよね?」
 表情の変化こそ乏しかったが、アンチレジストの名前を出され、美樹は心底驚いた。人間を餌にする人妖の存在は、世間にもほとんど知られていない情報だ。それを討伐する組織、美樹の所属するアンチレジストも同様に世間には伏せられている。
 この男は知りすぎている。
 美樹は意を決し、すぐさま男に向かってデッキブラシを振り下ろした。

 デッキブラシが床を打つ硬い音が室内に反響する。男は美樹の攻撃をバックステップでかわすが、デッキブラシはまるで生きているかのように男を追跡した。
「うおっ!?」と、男が攻撃をかろうじて躱しながら、驚愕の声を上げる。
 美樹は床の上を滑るように摺り足で移動する。男との距離を一気に縮めながら、地面すれすれの位置からデッキブラシの先端を男の顎を狙って振り上げた。
 男は仰け反って回避する。顎の数センチ手前をブラシの先端がかすめた。美樹は攻撃が外れたと分かるとすぐさま脳天にターゲットを変える。男は咄嗟に腕を上げて、唸りを上げて振り下ろされたデッキブラシをガードする。先端が腕に当たった瞬間ミシリという嫌な音が響いた。
「痛ってぇ!」
 男が痛みに歯を食いしばる。美樹は攻撃がガードされるや否や、すぐさまデッキブラシを手放して男に急接近し、正確に男の顎を肘で跳ね上げ、ガラ空きになった腹に槍のような蹴りを突き込んだ。
 男は悲鳴を上げる間もなく後方へ吹っ飛び、プールのほぼ中央に派手な音を立てて着水した。一瞬置いて、デッキブラシがからんと音を立ててプールサイドに落下した。
「ふん……この程度か……」
 美樹は足下に落ちていた虎縞のナイロンロープを掴むと、男を追ってプールに飛び込んだ。頭まで水に沈んだまま浮いてこない男の髪の毛を掴んで無理矢理水面から引き上げると、美樹は電柱の根元に放置された吐瀉物を見るような目つきで男の顔を覗き込んだ。
「弱いな。アンチレジストの名前を出したときは驚いたが……とんだ肩透かしだ。名前は?」
「うぅっ……は……蓮斗(はすと)だよ……。蓮の花の蓮に、北斗七星の斗……。もちろん、こんなふざけた名前は本名じゃないぜ……」
 美樹の拳が正確に蓮斗の肝臓を射抜く。水中から肉を打つくぐもった音が響き、男が微かにうめき声を上げると、口から泡を吹いて全身の力が緩んだ。美樹が掴んでいた髪を離すと、ばしゃりと蓮斗の顔が水面に落ちる。
「ふぅ……せっかく集中して練習していたというのに、とんだ邪魔が入った。教員に見つかる前に回収班を呼んで、帰りにシオンの家に寄って報告しておくか。しかしこいつ、どこでアンチレジストの存在を知ったんだ……?」
 美樹がロープで蓮斗を縛り上げようとした瞬間、蓮斗は水面に顔を付けたまま、掌底を美樹の顔面に放った。美樹は咄嗟にガードするが、蓮斗の手に掬われた水が美樹の顔にかかった。
「こいつ……まだ動けたのか……うっ!? あああっ!?」
 美樹が攻撃のために拳を握りしめた瞬間、突然目に激痛が走った。目を開けていられないほどの尋常ではない痛みが目の中で次々と爆発し、止めどなく涙があふれた。
「げほっ……流石は上級戦闘員様だ……。たまたま落ちた所に消毒用の塩素剤があったんで、握りつぶして使わせてもらったよ。ラッキーだった……」
「ぐっ……ひ……卑怯者! くっ……目が……」
「ははっ……げほっ……どこ向いてんだよ?」
「くっ……こ……この!」
 美樹が音を頼りに必死に居場所を探ろうとするが、水音が壁全体に反響してほとんど状況が把握できない。
「ははっ。どこ向いてるんだい?」
「ひ……卑怯者! 男なら、正々堂々と勝負しろ!」
 当てずっぽうに拳を放つが、いずれも空しく空を切る。視界は何とかぼやけて見えるくらいには回復したが、それでも正確に男の位置を把握することは難しかった。不意に、美樹の背中にプールの壁が触れた。いつの間にかプールの端まで移動していたらしい。後頭部も壁に付くことから、おそらくここは飛び込み台の真下なのだろう。
「くそっ……そこか!」
 水音がしたとこを目掛け渾身の一撃を放つが、拳には全く手応えが無く、代わりに手首の辺りをがっしりと掴まれた。
「なっ?」
「やっとつかまえた……さて……楽しませてもらうよ?」
 蓮斗は正面に回り込むと、美樹にのど輪を食らわせ、力任せに背後の壁に美樹の背中を叩き付けた。美樹は後頭部をしたたかに打ち、小さなうめき声を上げながら、かすむ目で必死に蓮斗を睨みつける。
「恥を知れ……この下衆が!」
「いいねぇ……強気であればあるほど、屈服させたときの征服感がたまらないからね。特に君みたいな綺麗で強気な女の心をへし折った時なんて、本当に最高だよ」
「寝言は寝て言え! 誰がお前なんかに!」
「本当に寝言かな? 美樹ちゃんがいつまで保つか試してみようか? ほら?」
 ぐずっ、という湿った音が、背骨を伝わって美樹の脳内に届く。
「──ぐぷっ!? あ……?」
 美樹は強烈な圧迫感を腹部に感じ、その衝撃で言葉になるはずだった空気を全て吐き出してしまった。
 ゆっくりと水中の自分の身体を見下ろす。無駄な贅肉の無い引き締まった腹部に、競泳用の薄い水着の生地を巻き込んで蓮斗の拳が深々と突き刺さった。
 蓮斗は再び拳を引き絞ると、美樹の臍のあたりに拳を埋める。美樹の腹部が水着を巻き込んで陥没し、くぐもった悲鳴が美樹の口から漏れた。
「うぐぅッ!」
「ほら、まだいくよ?」
 施設内にごつごつと重い音が反響する。蓮斗の拳が美樹の腹にめり込む度に美樹の身体がビクリと跳ね、大きな水しぶきがプールサイドを濡らした。
「うぶっ! ぐふっ! がぶぅっ! あ……あぐっ……」
 まだ完全に視力の回復しない美樹は攻撃を全て正面から喰らい、鍛え上げられた腹筋を固める暇もなく、すべての拳が深々と体内に突き刺さった。
 蓮斗の攻撃は容赦がなく、美樹に呼吸はおろか悲鳴を上げる暇すら与えずに、腹に拳を突き込み続けた。美樹の瞳孔は点の様に小さく収縮し、ガクリと頭を垂れた際に長い髪がはらはらと水中に落ちた。
「さっきまでの威勢はどうしたの? やっぱり女の子だから、お腹が弱点なのかな?」
 蓮斗は美樹の髪を掴んで顔を正面から覗き込む。美樹は悔しそうに目に涙を溜めながら蓮斗を睨みつけたが、度重なる衝撃で頬は上気してほんのりと赤くなり、食いしばった歯は苦痛でガチガチと音を立てて震え、口の端からは一筋の唾液が垂れていた。
「へぇ……結構色っぽい表情するじゃん? 大好きだよ、そういう顔」
「お……お前みたいな変態に……喜ばれても……嬉しくな……ぐぶぅッ!」
 蓮斗は渾身のボディブローを美樹の鳩尾に埋め、更に身体の奥へと拳を捻り込んで、美樹の心臓に直接ダメージを与える。
「がふぅっ……ぁ……うぐっ!?」
 蓮斗が鳩尾から拳を引き抜くと、陥没が収まらないうちに二撃目を突き入れた。美樹の瞳がまぶたの裏に隠れ、力が抜けて水しぶきを上げながら水面に顔を付ける。蓮斗が美樹の髪を掴んで水面から顔を上げるが、両目を閉じたまま反応が無い。
「変態であることは認めるよ。さて、変態は変態らしく、こういう機会は楽しまないとね」
 蓮斗は美樹が持って来たロープをつかむと、力無く弛緩した美樹をプールサイドへ上がる為のステップに座らせた。
 蓮斗は慣れた手つきで美樹の両手首を手摺に縛り付ける。手首が終わると、水の中に潜って両足首も同じ様に手摺に固定した。
 作業が終わると、蓮斗は美樹の身体を少し下がって眺めた。
「へぇ……スポーツやってるだけあって、流石にスタイルが良いな」
 引き締まった身体に、適度な大きさの胸が半分水面から顔を出している。美樹はまるで大胸筋を鍛えるフィットネスマシンに座るような格好で、梯子に縛られたまま項垂れていた。長い睫毛や髪の毛からは時折水滴が音も無く水面に落ちている。
「そそるな……」
 蓮斗は思わず生唾を飲み込む。
 美樹ほどの美貌とスタイル持ち主が、目の前で全身を濡らしたまま無防備に身体を開いている。
 水を吸ったネイビーの競泳用水着はまるで絹糸の様な光沢があり、美樹の身体のラインを魅力的に浮かび上がらせていた。
「これはヤバいな……一発抜いとくか」
 蓮斗は自らステップに上がると、カーゴパンツのジッパーをおろして性器を露出させ、美樹の顔の目の前でしごき立てた。水着越しに美樹の胸に擦り付け、化学繊維特有のザラザラした感触と、その奥にあるマシュマロの様な柔肉の感触を楽しむ。
「おぉ……たまんねぇ……」
「んっ……うぅ……」
 胸を硬いものが這い回る違和感と、顔の前で何かが蠢く感覚に美樹はうっすらと目を開けた。
「んっ……なっ、なにをしている?」
 美樹は目覚めると、すぐさま蓮斗から離れようと身を捩った。ナイロン製のロープが手首に食い込み小さな悲鳴を上げる。露出した男性器に気が付き、鋭い視線で蓮斗を睨みつけた。
「貴様……どこまで下衆なんだ! 女一人動けなくして、どうするつもりだ!?」
「どうするって、見ての通りだよ。美樹ちゃんがあまりにもエッチだから、自分で楽しんでただけだよ? ほら、こんな風に……」
 蓮斗はガチガチになった性器を美樹に見せつける様に目の前でしごき上げた。美樹に見られていると思うと蓮斗の興奮度は増々高まり、自然と手の動きが速くなる。
「男のオナニー見たことある? もっとよく見て?」
「ふざけるな! は、早くしまえ!」
 美樹は大きくかぶりを振って拒絶の意を示す。目が泳ぎ、明らかに気が動転している。蓮斗はその様子をニヤ付きながら眺めていた。
「こんなになったものを、今更しまえるわけないだろ? そんなに嫌なら早く治まるように、美樹ちゃんも協力してくれよ」
 そう言うと蓮斗は美樹の乳首の周辺を、あえて乳首を触らずに円を描くようになぞり始めた。水着の上から乳輪のふちをなぞる様に刺激され、美樹は思わず口から声が漏れそうになる。乳首はそのじれったい刺激で硬くなり、今では水着越しでもその位置がはっきり分かるくらいの硬度になっていた。
「あっ……くっ……や……やめろ……こんな……んぁっ!?」
「やめろって言う割には、気持ち良さそうじゃないか」
 蓮斗は円を描く様になぞっていた亀頭の動きをやめ、乳首に性器を挿入するように先端を突き入れた。むっちりとした柔肉が亀頭をすっぽりと包み、硬くなった乳首が尿道を刺激する。美樹も待ちかねた刺激に思わず身体が跳ね、大きな声を上げた。
「んあッ! くっ……ぅ……」
「うっ……気持ち良い……。そろそろ出させてもらうよ」
「あっ……あぁ……こんな男に……や、やめろ……」
 戸惑う美樹を見下しながら蓮斗は美樹の頭を掴んで固定すると、美樹の顔を目掛け勢い良くしごき上げた。
「あぁ……出る……出るよ……」
 不穏な空気を察し発せられた美樹の抵抗の声も空しく、蓮斗の性器からは勢い良く粘液が飛び出し、美樹の顔や髪の毛を汚していった。美樹は、放出する瞬間に驚いて腰を浮かせる。
「あっ?! きゃあぁっ! うぶっ……うぁ……」
「おっ……おおぉ……すごい……出る……」
 粘液は美樹の顔や髪を白く汚し、すらりと尖った顎を伝って水着の胸元へ染み込んで行った。
「う……うぇっ……何だこれは……? 酷い匂いだ……ドロドロして……」
 美樹は気持ち悪さに顔をしかめた。顔中を精液まみれにされたショックで、表情は今までの強気なものとは代わり、弱々しく呆然としている。その姿に蓮斗の性器は放出したばかりだというのに、早くも硬度を取り戻しつつあった。
「そんなに驚いて、射精を見るもの初めてだったのかな? 俺にしても惜しいな。俺の精液に人妖みたいな人を魅了する力があれば、今頃美樹ちゃんは虜になっていたはずだけど」
「チャームのことまで……貴様、どこまで知っている?」
「まぁその話はまた今度ね。ところで美樹ちゃん、これ知ってる?」
 蓮斗はカーゴパンツのポケットから、金色に光る連結された指輪のようなものを取り出した。かなり使い込まれているようで、形が微かにひしゃげ、塗装も剥げている。
「……ナ……ナックル……」
「正解。メリケンサックとも言うよね」
 そう言うと、蓮斗は美樹に見せつけるように右の拳にメリケンサックをはめ込んだ。美樹に近づき、開かれた身体の中心線を値踏みするように眺める。
「ん~、見れば見るほどエロいね。顔中精液まみれの女の子がプールの梯子に縛り付けられてるなんてシチュエーション、一生かけても見られるか分からないよ」
 美樹は黙って蓮斗を睨みつけた。戯けた様子だが、蓮斗の目は少しも笑っていない。
 蓮斗はメリケンサックを嵌めていない左手で美樹の口を塞ぐと、先ほどとは重さと硬さが桁違いに上がった右手の拳で美樹の臍の辺りをえぐった。
 ゴギッ……という固い音が周囲に響く。
 美樹は自分の身体に入り込む金属の感触と、身体の中を反響する嫌な音を聞いた。同時に今まで味わった事の無い苦痛が全身に広がる。内臓全てを吐き出したいほどの衝動に駆られ、一瞬で瞳孔が点の様に収縮する。
「ぶぐぅっ?! ぐ……うぶぅぅぅぅぅ!!」
 口を塞がれているため、まともに悲鳴を上げることすら出来ない。
 メリケンサックを嵌めた攻撃は先ほどのものとは比べ物にならず、たったの一撃で目からは大粒の涙があふれ、意識が暗転した。しかし、意識が途切れる一瞬前に再び強烈な衝撃が鳩尾を襲った。
「ぐぶぅぅぅぅっ! ごっ……ごぶぅっ……」
「おぉ、良い反応。俺も興奮してきたよ」
 たった二発の攻撃だが、身体を開かれた上に背中をプールの壁に密着した逃げ場の無い中、メリケンサックをはめた攻撃の威力全てを美樹の身体が受け止める。既に意識は飛びかけ、視野が普段の三分の一ほどに狭くなっていた。
「あれ? 白目向いちゃって、まさかもう限界?」
 美樹は既に小刻みに震えており、美樹の口を押さえている蓮斗の左手には、ガクガクと顎が震えている感覚が伝わる。
「もう少し頑張ってよ。俺ももうすぐ……」
 ゴリッ、ゴリッという嫌な音が、何回も何回も水の中で反響する。音が響く度に美樹の身体は大きく跳ね上がった。
「むぐぅぅぅぅぅ! ぐ……ぐぶっ……?!」 
 冷たい金属に守られた拳が美樹の下腹部にめり込み、美樹の子宮や胃は身体の中で痛々しくひしゃげている。攻撃の数は少ないものの、その重すぎる一撃の威力に慈悲は全く感じられず、既に美樹の内蔵はショックで痙攣を起こしていた。
 蓮斗は鳩尾の少し下へ狙いを定める。ぐじゅっ、という水っぽい衝撃が蓮斗の拳に伝わる。胃を潰された衝撃で美樹の喉が大きく蠢き、内容物が何度も食道を通って逆流するが、口を押さえる蓮斗の左手が容赦の無い堤防となって押しとどめた。
 美樹の苦しむ様子に蓮斗も限界まで昂り、最後に弓を引き絞るように限界まで右手を引き絞ると、下腹部から力任せに美樹を突き上げた。
「ぐうっ?! ごぷっ?! う……うげえぇぁぁぁぁ!」 
「ああ……いいぞ。俺も……」
 美樹の胃はメリケンサックとプールの壁に挟まれ、まるで石臼でゆっくりとすり潰されるようにひしゃげた。内容物が強制的に喉を駆け上がり、蓮斗が美樹の口を解放すると同時に勢いよく胃液が美樹の口から飛び出した。
「げぶぅっ! お、おごぉぉぉぉぉ!」
 美樹は白目を剥きながら、勢い良く水面に黄色がかった胃液を吐き出した。ガクガクと痙攣する美樹を見て、蓮斗も勢いよくプールのステップに上がり、嘔吐を続けている美樹の髪を掴んで上を向かせると、胃液が逆流し続けている口に無理矢理性器を押し込んだ。
「むぐぅぅぅぅっ?! ぐっ……ぐえっ……」
「おおおおっ!? 胃液が潤滑油代わりになって……喉がすげぇ滑る……出る……出るよ……」
 蓮斗は嘔吐を続ける美樹のことなど気にもかけず、自らの快楽に任せて腰を振った。嘔吐を塞き止められたこととイラマチオによる二重の苦痛で美樹の喉は大きく痙攣し、それが結果的に蓮斗の男根を締め付けた。
「おぉぉぉっ! すげぇ……ほら……死ねよ……」 
 蓮斗は背中を大きく仰け反らせて射精した。呼吸も出来ないほどの苦痛を受けながら喉の奥で熱い粘液を吐き出され、美樹の黒目がぐりんと裏返る。
「ぐ……ぐむぅぅぅっ?! ごぼっ!!? ごぶぅっ!!」
 蓮斗は逆流して来る胃液を押し返す様に精液を美樹の喉に流し込んだ。食道内で精液と胃液がぶつかり合い、逃げ場を無くした液体は気管に逃げ込み、気道反射で押し返された液体は再び食道でぶつかった。
「うぶぅっ! ごぼろぉぉぉっ! う……うげぇぇぇぇっ……うぐっ……うあぁぁ……」
 蓮斗がようやく放出を終えて美樹の口から性器を抜くと、美樹の頭が糸が切れたようにがくりと落ちる。同時に、精液と胃液が混ざった濁った液体が、美樹の口から滝の様に水面に落ちた。美樹の身体は完全に力が抜け、皮肉にも蓮斗が手足を縛ったロープが支えとなり、美樹が水中に落下するのを防いでいた。
「くあぁ……少しやり過ぎたか……。もしかして本当に死んじゃったかな?」
 蓮斗は肩を大きく上下させて息をしながら、美樹の首元に手を当てる。若干弱くなっているが、美樹の心臓が脈打つ感触が伝わって来た。明日の朝程度までであれば放置しても大丈夫だと判断し、プールサイドに上がる。
「帰ったらライダースにオイル塗らないとな。じゃあ美樹ちゃん、また近いうちにね」
 蓮斗はひらひらと手を振ってプールから出て行った。当然その声は美樹に届かず、美樹の髪の毛から水面に向かって滴り落ちる小さな水音だけが広い空間に反響していた。
 翌日の早朝。練習に来た美樹の後輩、水橋久留美(みずはし くるみ)が変わり果てた美樹の姿を発見し、悲鳴がプールの壁を反響した。


「ファウスト?」
 女性の柔らかい声が部屋に響くと、暖炉の中で燃えている薪がパチリと爆ぜた。
 部屋の壁は清潔感のある漆喰が丁寧に塗られていた。ダークブラウンのフローリングに、磨き抜かれた紫檀の無垢材で出来たリビングテーブル。それを挟むようにスリーシーターのソファが向かい合わせて二脚置かれている。ここはアナスタシア聖書学院の生徒会長室だ。ソファに張られた光沢のあるモスグリーンのモケットファブリックが、暗色の床の色と調和して暖かみのある雰囲気を醸し出していた。趣味の良い喫茶店のような雰囲気の部屋だが、部屋の奥には執務机が置かれ、その上には二十七インチのマッキントッシュが鎮座している。
 なぜ生徒会長に、このような個室が用意されているのか。
 一般的な学校の生徒会長とは違い、自主性を重んじるアナスタシア聖書学院では、生徒会と生徒会長にそれなりの権限が付与されている。どちらかと言えば労働組合に近く、生徒会長には一般生徒から吸い上げた意見を元に学院の行事や運営に一定の発言権があり、生徒会として拒否を示せば一度差し戻して審議される。そして生徒会長には権限がある分、執務や生徒の意見を聞くことが多く、このような専用の部屋が用意されている。現在の部屋の主の如月シオンも、授業が終わってから夜八時頃までは生徒会長室にいることが多い。
 入り口側のソファにはアナスタシア聖書学院の制服を着た男性と、同じく制服を着た腰まである長い金髪の女性が真ん中を一人分空けて座っている。金髪の女性が生徒会長の如月シオンだ。上座のソファにも制服を着た桃色の髪の女性が一人座っている。シオンが緑色の瞳を輝かせながら 手のひらを胸の前でぱんと合わせた。
「ファウストと言えばあれですよね、ゲーテの書いた戯曲のファウスト。実家に原本がありましたので、子供の頃から何回か読んでいます。素晴らしい言葉もたくさん出てきますし……」
 ストーリーを思い出すように、アーモンド型の目が細くなる。シオンはファウストの中の一文を口に出したが、ドイツ語の原文のため、向かいに座る女性の頭には「?」マークが浮かんでいた。
「あの……もしかして如月会長ってファウストを原文で読んだんですか?」
 水橋久留美が右手を上げながらおずおずと声をかける。幼い印象の顔立ちで、身体も同年代のそれよりは一回りほど小さい。ショートカットに切り揃えた髪に、白いリボンカチューシャを留めている。
「ええ、ファウストは全て韻文なので、原文で読んだほうが本来の言葉の響きや意味を理解しやすいんですよ。あ、それと久留美ちゃん、私の事は改まらずに下の名前で読んで下さっていいですよ?」
「はぁ……。いえ、当然のように仰ってますけど、ただでさえ難解なファウストを原文ですらすら読める方が……。ちなみに、きさ……シオン会長って何カ国語喋れるんですか……?」
「ええと……母国語はロシア語ですけど、母が日本人なので、物心ついた頃から日本語は話していましたね。あとは子供の頃に習った英語、ドイツ語、フランス語と中国語は特に不自由していません。イタリア語は勉強を始めたばかりですので、まだ日常会話程度ですけど」
 シオンは人差し指を口に当てて思い出すように呟いた。久留美はしばらくぽかんと口を開けていたが、はっと我に帰りテーブルに身を乗り出しながら早口でまくしたてた。
「十分というか凄過ぎますよ! 確かにここ、アナスタシア聖書学院では入学条件に『母国語の高いレベルでの習熟と、その他に一つ以上の言語を不自由のないレベルで習得していること』とありますけど、ほとんど皆、日本語と英語だけで精一杯で、六カ国語もマスターしてる人なんて会長だけですよ!」
「そ、そうですか? 習っていたのが子供の頃だったので、勉強するというよりは自然と身に付いてしまって……」
 久留美が感心を通り越して呆れたようにため息をつくと、違う方向からも大きく溜息をつく音が聞こえた。シオンの横に座っている副生徒会長、鑑が眼鏡を直しながら口を開く。
「確かに母国語を完全に認識する前の幼少期に専門のトレーニングを施せば、あらゆる言語を抵抗無く素直に受け入れられるという研究結果はありますが、それでも一般的には二、三カ国語の習得が限界だそうです。それに、習得したとしても日常会話程度がほとんどで、会長のように専門用語に溢れた論文翻訳のアルバイトが出来るレベルまでには、とてもなりません」
「え……シオン会長ってそんなこまでしているんですか?」
 久留美がさらに呆れたような声を出した。
「会長のケースはおそらく、元々会長自身の能力が高い上に、かなりレベルの高い英才教育を受けたのでしょう。というか、いつ突っ込もうか迷っていましたけど、鷹宮さんを襲った容疑者の名前はファウストではなく蓮斗ですよ。会長も呑気に雑談している場合ではなく、水橋さんに鷹宮さんを発見したときの状況を聞いて、容疑者を見つけなければ次の事件がいつ起こるとも限りませんよ?」
「あ、ああ……そうでしたね。久留美ちゃんも今回は大変だったけれど、もう大丈夫かしら? 大好きな先輩があんな事になって、とてもショックだったと思うけれど……?」
「あ……ええ。なんかシオン会長を見てたら、なんだか元気が出てきちゃって……」
 そういうと久留美は右手でポリポリと頭を掻いて、「あの噂って本当だったんですね」と小声で呟いた。久留美のシオンに対するイメージは、いつも腰まである金髪を颯爽となびかせて廊下を早足で歩き、大きな行事の際には良く通る声で壇上から堂々と演説する姿だった。冷淡な雰囲気は無いが、あまりに完璧な仕事ぶりと人間離れしたその美貌は時に現実感を失わせ、久留美をはじめ生徒達は少なからず近寄りがたい印象をシオンに抱いていた。一部生徒の中には「如月会長は実際に話すと、呆れるほど『ゆるふわ』である」と噂する者もいるが、ほどんど都市伝説のように扱われていた。
 シオンの顔がふと真剣になる。
「それはよかったです……。では、申し訳ないですが、そろそろ本題に移ってもよろしいですか?」
 シオンの顔がさっきまでののんびりした顔から、凛としたものに変わる。アナスタシアの生徒にとっては、いつものシオンの雰囲気だった。一瞬で部屋の空気が、真冬の禅寺のように張りつめた。久留美はその雰囲気に押され、無意識に浮かせていた腰をぽすんと音を立ててソファに降ろした。
「久留美ちゃんが美樹さんをとても慕っていることは知っています。ショックな場面をもう一度思い出す事はとても辛いかもしれませんが、美樹さんを見つけた時のことをなるべく詳しく話してもらえませんか? こんな事をお願いするのは申し訳ないですけど、学院の安全のために協力して欲しいんです」
 シオンが久留美に訴えかける。その真摯な目線に久留美はこくりと頷くと、テーブルの下でぎゅっと組んだ自分の小さな手を見ながら話し始めた。
「えと……うまく話せるかわからないですけど……今朝は自主練のため、七時にS棟に入りました。更衣室で水着に着替えて、準備体操をしようとプールサイドに向かった時、梯子に縛られている美樹先輩を見つけて……美樹先輩の身体には……あの……」
 久留美が言い澱みながら鑑をちらりと見る。鑑は真剣にメモを取っていたためその視線には気付かなかったが、シオンがすぐに財布からカードを取り出して鑑に渡した。
「鑑君。悪いけど紅茶が切れているの。買ってきてくれる?」
「え? 今ですか?」
 シオンが頷くと、鑑が書きかけのメモをシオンに渡し、生徒会長室から出て行った。久留美はいささかほっとした様子で話し始めた。
「すみません。男の人の前だと、少し話し難くて……」
「大丈夫ですよ。話せる所までで、無理しなくて大丈夫ですから」
「はい……美樹先輩の顔や身体には……その……男の人の体液だと思うんですけど……ドロドロしたものがたくさん付いていました……。今まで実際に見たことがなかったので、確証はないんですけど……」
「体液? 久留美ちゃん、変な質問だけど、その時ドキドキしたり、頭がぼうっとしたりしなかった? もしかしたら、体液じゃない可能性もあるの」
「ドキドキ……? いえ、特になにも……。先輩の顔についたものはタオルで拭ったんですけど、変な匂いだなって思っただけで……。タオルは証拠として、警察の方に渡しました」
 シオンがわずかに眉を顰めた。犯人の体液はチャームではない。まさか本当に人間の犯行なのだろうか。
 ぽつりぽつりと話す久留美に、シオンは真剣に耳を傾けた。
 変わり果てた美樹の姿を発見した久留美は、あまりの事態に悲鳴を上げたものの、すぐ我に帰り美樹の元に駆け寄った。美樹は梯子に両手足を縛り付けられたまま失神していたが、呼吸や脈拍に問題はなかった。震える手で両手足のロープを解き、自分が持ってきたタオルを敷いてプールサイドに寝かせた。濡れた美しい黒髪が艶々と光りながら顔に貼り付いていた。唇は紫色に変色し、普段から色白の肌は透き通るような青白さになっていて、まるで美しい幽霊のように見えた。
「先輩を寝かせた後、夢中で警備員室まで走りました。救急車が来て……先輩が運ばれて……。運ばれる時に先輩目を開けたんです。そして、小さな声で『大丈夫だから、お前は心配するな』って笑ってくれて……。なんで……なんで先輩があんな酷い目に合わなければならないんですか!? 先輩が何をしたんですか!? こんな……酷い……」
 久留美の力一杯握りしめられた小さな手に涙がぽたぽたと落ちた。水泳部に入部した時から、久留美は美樹に色々と面倒を見てもらっていた。美樹を知る人間は、美樹の言動はぶっきらぼうで表情は厳しいが、その奥には他人への優しさと気遣いで溢れている事を知っていた。何故美樹のような素晴らしい人が惨い目に遭わなければならないのかと思うと、久留美の瞳にはやるせなさと悔しさで自然と涙があふれた。
 シオンが静かにソファから立ち上がると久留美の横に座り、久留美の頭を自分の胸に抱え込むように抱きしめた。ほんのりと甘く優しい香りがする。久留美はシオンに美樹と同じ優しさを感じ取り、いつの間にかシオンに抱きついて大声で泣いていた。シオンは細く長い指でそっと久留美の髪を撫で続けた。
 扉をノックし、鑑が紅茶葉の入った缶を持って会長室に入ってきた。二人の様子に驚いた顔をしたが、シオンが無言で人差し指を立てて唇に当てると、足音を立てないように奥の給湯室に入って、ティーポットと三つのカップを用意してヤカンを火にかけた。


「……今回は、我々は出番無しというところですかね」と、鑑がソファの背もたれに身体を預けながら口を開いた。「鷹宮さんが倒されたと聞いて人妖の犯行を疑いましたが、体液に水橋さんが反応しなかったのであれば、犯人は人妖ではなく人間の線が濃厚です。人間であった以上、この件の管轄は我々アンチレジストではなく警察ですよ。犯人の体液も採取されているのなら、前科があれば比較的早く逮捕されます」
「それが、どうもそう簡単にはいかないみたいです……」
 シオンがソファから立ち上がり、執務机のパソコンを操作する。不鮮明だが、争う美樹と男の声が流れてきた。
「なんですかこれは?」と、鑑が立ち上がってシオンに聞いた。
「学院の防犯カメラには、実は音声録音機能も付いています。プライバシー保護のために一般には公開されておらず、何か問題が発生した場合に限り、専用のIDとパスワードで聞くことができるようになっています。私はたまたまIDとパスワードを見つけたのですが……。すみません、襲われている美樹さんの声も入っているので、鑑君には音声データがあることは黙っていました」
 たまたま見つけたと言いながら、意図的に学院のシステムにハッキングしたのだろう。この人に出来ないことは無いのだろうか、と鑑は思った。味方でいるうちはとても心強いが、最も敵に回したくないタイプの典型だ。
 美樹と蓮斗と思われる会話が聞こえてきた。蓮斗は自分は人間で、人妖とつながりがあるとはっきり言った。人妖に接触している人間がいる。最も恐れていた事態が現実になってしまった。
 美樹のために何か手伝わせてくれとすがりつく久留美をなだめ、これ以上は警察の仕事だから深追いしないようにと釘を刺したのは正解だった。

 授業が終わるとシオンはすぐさまタクシーに乗り、美樹が入院している総合病院に向かった。この病院の最上階には財界人や政治家など、事情を抱える人達専用のVIPエリアが用意されている。アンチレジストの戦闘員も、負傷した場合はこの病院に入院することが通例になっている。
 タクシーが病院の入口に横付けされると、シオンは礼を言いながら支払いを済ませて後部座席から降り、軽くブレザーの襟を直して髪を手櫛で梳いた。シオンは戦闘時には長い髪が邪魔にならないようにツインテールに纏めているが、普段は櫛で梳いただけのナチュラルストレートにしている。プラチナブロンドの髪が冬の日差しに反射し、柔らかく光っていた。
 シオンは振り返って運転手に軽く手を振り、病院の総合受付に向かった。運転手は後部座席のドアを閉めるのも忘れ、ぽかんと口を開けたままシオンの後ろ姿を見送り、天使みたいな人だなと溜息混じりに呟いた。派手な容姿のシオンは歩いているだけで目立つ。そのため、シオンの後に入ってきたタクシーから久留美が降り、隠れるようにシオンの後を追ってロビーに入った姿は、誰の目にも留らなかった。

「すみません。鷹宮美樹さんのお見舞いに来たのですが」
「鷹宮様ですね。かしこまりました。許可制となっておりますので、こちらにサインと身分証をお願いします」
 受付の女性が端末で照合を始めた。照合している間も、女性は笑顔を全く崩さなかった。もしかしたら寝る時もこの笑顔のままなのではないだろうかと、シオンは心の片隅で思った。
「如月シオン様。ただいま鷹宮様から入室許可を頂きました。鷹宮様のお部屋までご案内致しますので……」
「大丈夫です。私も以前同じエリアに入院していて、大体の場所は分かりますので、部屋番号だけ教えて頂けますか?」
 シオンは受付に礼を言うと、最上階までエレベーターで登り、教えられた部屋番号をノックした。中から「どうぞ」と返事が返って来た。美樹の声だ。扉を開けると、中はホテルの一室のような内装になっていた。応接セットの奥に備え付けられた落下防止の柵がついたベッドだけが、ここが病室である事を主張していた。
「大丈夫ですか美樹さん。すみません、来るのが遅くなってしまって。今回は大変でしたね……」
「いや、こちらこそ悪かったな。迷惑をかけてすまない……くっ……」
 ライトブルーのパジャマを着た美樹は読んでいた本を閉じて起き上がろうとしたが、腹部を押さえて小さなうめき声を上げた。シオンが慌てて駆け寄り、寝ているように促す。
「大丈夫だ……医者によると、内臓へのダメージはほとんど残っていないらしい。それより、今回の件について話がしたい。お前の事だから、もう犯人の写真くらいは手に入れているんだろう?」
「ええ、監視カメラには犯人の顔がある程度鮮明に映っていました。先走って申し訳ありませんが、このデータを元に、鑑君にはアンチレジストの本部で照合をお願いしています」
 シオンがプリントアウトした数枚の写真を美樹に手渡すと、それを見た美樹の顔がわずかに強張った。
「こいつで間違いない……鑑にはそのまま調査を続けてもらってくれ。情けない話だが、隙をつかれてこのザマだ。なによりこいつは……」
「人妖ではなく人間……ですよね」
 美樹が言い終わる前に、シオンが言葉を継いだ。美樹の深く黒い瞳が、シオンの緑色の瞳を見上げる。
 シオンは胸の下で自分の身体を抱くように腕を組むと、視線を足下に落とした。
「どうしてわかった?」と、美樹が言った。
「体液が、チャームではありませんでした。犯人の体液に接近した久留美ちゃんに、精神的な変化はありません。我々ならともかく、久留美ちゃんのような一般人にとって、人妖の分泌するチャームは効果覿面なはずです。そして厄介なことに、この犯人は人間でありながら、人妖との繋がりを仄かしている。これは内々の話ですが、学院の防犯カメラには録音機能も備わっています。すみませんが、犯人と美樹さんの会話を聞かせていただきました。蓮斗と名乗っているこの犯人は、何らかのメリットがあって人妖と接触しているか、少なくとも人妖の存在を知っていることになります」
「……お前の言う通りだ。確かにこいつは、自分を人間だと名乗った。行動目的は分からないが、どうやら我々アンチレジストの出番らしい。ところで、久留美は大丈夫だったか? ショックを受けていないといいんだが……」
 シオンが大丈夫だと頷くと、美樹はようやくほっとしたようなため息をついた。

「ジンヨウ? アンチレジスト? 先輩、何を話しているの……?」
 個室のドアに耳を付けて中の話を聞いていた久留美は目を丸くした。美樹やシオンの口から発せられた聞き慣れない単語は所々意味が分からなかったが、何か大きなモノに美樹やシオンが対峙している事は理解出来た。
「何をしてるんだい? そんな所で」
「ひゃ! ひゃいっ!? す、すみません! わわわ私、先輩のお見舞いに……」
 急に背後から声をかけられ、久留美が床から三十センチほど飛び上がった。油が切れた蝶番の様に、ギギギという擬音が聞こえそうなほどぎこちなく後ろを振り返ると、そこには長身で細身の医師が立っていた。白衣にマスクをしており表情は分からないが、髪の毛が全て金色に染められていたのが異様に見えた。
「お見舞い? 怪しいなぁ……知り合いだったら盗み聞きなんてしないんじゃないのか?」 
 医師が壁に片手をつき、久留美に覆い被さるように質問する。
 有無を言わさぬ雰囲気に久留美が気圧されそうになるが、小さな身体が震えそうになるのを必死に堪える。
「あ、あの、違うんです。今先輩達が大事な話をしてるから、少し外で待ってるように言われて……」
「ふぅん、大事な話か。もしかして、美樹ちゃんの容態のことかな? 結構ヤバい状態なんだけど、本人から聞いたかい?」
「えっ……?」
「知らないのか? まぁ美樹ちゃんは人に心配をかけたがらないからなぁ。あんな事になるなんて可哀想に……」
「な、何があったんですか!? 先輩は大丈夫なんですか!? お願いします。先輩を助けて下さい!」
 久留美が必死な形相で医師の白衣を掴む。医師はマスクの下で満面の笑みを浮かべていたが、久留美は全く気付かなかった。
「まぁ廊下では何だから、向こうで話そうか?」
 ただならぬ雰囲気を感じ、久留美が無言で頷く。
 美樹の病室に背を向け、久留美は強張った顔で医師の後に付いて歩いた。途中、自分と同い年くらいのセーラー服を来た少女がエレベーターを降りて、早足で歩いて来た。その少女はすれ違う際に自分と医師に対し軽く頭を下げた。久留美は反射的に頭を下げたが、医師は気に留めた様子も無く正面を見つめて歩き続けた。その少女が美樹やシオンと同じ組織に所属する上級戦闘員、神崎綾だとは、久留美は知る由もなかった。
「ごめんなさい遅れちゃって! 美樹さん、大丈夫ですか?」と、ドアを開けるなり綾が言った。
「ああ、綾か。遠くからすまないな。私はこの通り平気だ」
「綾ちゃん久しぶりー。元気だった?」と、シオンが綾に手を振る。
「あ、シオンさんもいる。今日は鑑さんは一緒じゃないんですか?」
 綾が悪戯っぽくシオンをからかう。軽い雑談の後、美樹が綾に今回の経緯を説明した。

「あの、先輩の容態って……?」
 久留美が連れて来られたのは、予備のベッドやシーツが置かれているリネン室だった。ベッド数の多い総合病院らしく、リネン室はかなりの広さだ。業者に受け渡す前の使用済みのシーツがうずたかく積み上げられ、その横には糊の利いた真っ白なシーツが寸分の狂いも無く畳まれた状態で置かれている。
「化学繊維の混紡か……。それに糊も効かせすぎだ。俺は病気になっても、こんなものの上に寝たくはないな」
 金髪の医師が真新しいシーツを触りながら言った。美樹の様子が気になる久留美は思わず声を荒げた。
「先生、先輩は大丈夫なんですか? ここに来たら教えてくれるって言ったじゃないですか!? 先輩は助かるんですか?」
 ゆっくりと医師が振り返ると、久留美の身体を爪先から頭まで舐め回すように見つめた。
 黒いローファーから健康的な脚が白いニーソックスに包まれて伸び、僅かな素肌が覗いた後、黒と緑を基調としたブラックウォッチのプリーツスカートに隠れた。凹凸の薄い身体を深紅のブレザーが包み、幼い顔立ちが不安げな表情を浮かべている。
 医師の舐め回すような視線に、久留美は背中に薄ら寒い物を感じて、思わず後ずさった。
「へ、変な事をしたら、人を呼びますよ……?」
「今教えるから。まず美樹ちゃんがあんな風になった原因はね……」
 ずぐん……と重い振動が久留美の体内に響いた。
「えぅ……?」と、久留美の半開きになった口から無意識に息が漏れる。
 医師が久留美に近づくと同時に、右の拳を久留美の腹部に埋めた。ブレザーの金ボタンがメキリと音を立ててひしゃげ、久留美の華奢な腹部にめり込んでいた。
「俺がこうやって美樹ちゃんをイジメちゃったからなんだよね」
「な……ぐぷっ!? うぐあぁぁぁぁぁ!!」
 同年代より一回り小さな久留美の身体は、蓮斗の拳を支点に軽々と持ち上げられ、両足が完全に地面から離れた。人に腹を殴られるという初めての経験に、久留美の脳は一瞬でパニックに陥った。
「あ……あぐああっ! げぼっ!? う……うあぁ……」
「へぇ、凄くいい反応するね。水橋久留美ちゃん?」
「な……何で……私の名前……? んむぅッ!?」
 蓮斗は強引に久留美の唇を奪った。朦朧とする意識の中、初めてを奪われたという思いが頭の片隅に浮かんだ。
 蓮斗は久留美の舌を吸いながら、再び拳を久留美の腹に埋めた。重い音を立てて、骨張った拳が腹と鳩尾に突き刺さる。
「んぶぉっ?! ぐぷッ!? ごぶッ!?」
 塞がれていた口が解放されると、久留美は限界まで舌を伸ばして喘ぎ、唾液が糸を引いて地面に落ちた。
「やべぇ……予想以上だな……。完全にスイッチ入ったわ」
「あ……いや……いやぁ……」
 蓮斗は久留美の身体を、重量挙げをする様に軽々と抱え上げた。手を離すと、重力に従い、久留美の身体がうつ伏せの姿勢のまま落下する。そのスピードを利用し、久留美の柔らかい腹を膝で突き上げた。
 落下のスピードと自分の体重が合わさった状態で、久留美の腹部は酷く潰れた。内臓がひしゃげ、パニックになった久留美の脳がデタラメな危険信号を全身に送る。
「えごぉぉっ!?」
 普段の久留美からは想像がつかない濁った悲鳴が響いた。限界まで見開いた目は黒目が半分隠れ、口からは大量の唾液が強制的に吐き出された。溺れる人間が空気を求めるように何度か口を開閉した後、電池が切れたように体全体が弛緩した。蓮斗は興奮した息を整えながら新品のシーツを広げると、気絶している小柄な久留美の身体を包みはじめた。

「人妖とつながりのある人間……?」
 綾が美樹の話に目を丸くする。人妖とつながりのある人間がいることに加え、加害者の口からアンチレジストの名前が発せられたことも気がかりだ。蓮斗と人妖はどのようなつながりがあるのか、相互に何らかの利益が無ければ、人妖は一方的に人間を餌にするだけだ。事態は急を要するが、現時点でわかっていることは少ない。想像で話をしていても解決することはなく、なにより美樹には休息が必要だ。シオンと綾は警戒を強化しつつ情報を集め、美樹の退院を待ってアンチレジスト本部で具体的な作戦を決めようということになった。
「そいれにしても、久留美には心配をかけたな。すまないが、久留美に会ったら私は問題なく元気だったと伝えてくれ」と、美樹がシオンを見て言った。「シオンのフォローのお陰で、久留美が大丈夫そうで安心した。あいつは身体は小さいが正義感と芯が強いからな……。こんな事にあいつを巻き込みたくはない」
「そうですね。久留美ちゃんに限らず、一般生徒に心配をかける前に、早急に解決できればいいのですが……」
「……あの、久留美ちゃんて、あの先に帰った背の小ちゃい子ですか? 私と同い年くらいで、ピンク色の髪に白いカチューシャを付けてる……。さっきお医者さんの後について歩いて行きましたけど……」
 綾が人差し指と親指で、自分の頭にカチューシャの形を描いた。
 美樹が怪訝そうな顔でシオンを見ると、シオンが小さく首を振った。二人の表情が緊張したものに変わって行く。
「嘘……久留美ちゃん……来てたの……?」
「医者の後について行っただと……? 綾、この階は一般病棟とは違って、医師や看護師はこちらから呼ばなければ絶対に来ない。この階に重病人は一人も居ないんだ。うろついてる医者なんていない。どんな奴だった?」
「えと……顔はマスクで隠れていて分からなかったんですけど、髪の毛を金髪にした背の高い男の人で……」
 三人の視線がベッドの上に置かれた写真に集中する。
 一瞬の間。綾は鞄からオープンフィンガーグローブを取り出して両手に嵌め、まだ近くに居るかもしれない蓮斗と久留美を探して病室を飛び出した。シオンは鑑の携帯に電話をかけ、美樹はナースコールを押した。数秒の間を置いて、落ち着いた女性の声が天井のスピーカーから響く。
「鷹宮様、どうなされましたか?」
「退院する。今すぐにだ」
「はい?」
「すぐにタクシーを呼んでくれ」

後編の推敲が終わりました。
最終的な推敲を行い、今月中にDL販売の登録をします。


シオン尻餅ダウン修正フルのコピー



 冷子が床に手をついたまま激しく咳き込んだ。
「大丈夫ですか?」と、蓮斗が冷子を振り返って言った。声色にはやや馬鹿にしたような響きがあった。
「……うるさいっ。邪魔するんじゃないわよ」
「負けそうだったところを助けたのに随分だなぁ……。冷子さんがあそこまで追い詰められるなんて意外ですよ。多分僕が来なかったら一分も経たずに──」
 薄笑いを浮かべたまま話し続ける蓮斗の眼前に、冷子の軟体化した腕が鞭のような音を立てて伸びた。濡らしたタオルを弾いたような湿った破裂音に、蓮斗の体が一瞬固まる。蓮斗は、ひひ、と笑いながら両手を上げて後ろに下がった。
 シオンは今まで写真でしか見たことがなかった蓮斗を見定めようと努めた。写真で見た印象よりもさらに細く見える。肥満体型の頃の面影は皆無だ。顔は所々引きつったような不自然さがあった。おそらく数回にわたる整形手術の影響だろう。身振り手振りでよく話し、表情は落ち着かない。そして派手な髪型やこだわりの強すぎる服装は、根底にある強いコンプレックスと自身の無さ、自分の中の知られたくないものを隠そうとする人によく見られる傾向だ。中身が乏しい商品ほど、外箱は派手な場合が多い。過剰に目が潤んでいて呂律もわずかに怪しい。薬物依存症によく見られる症状だ。
 蓮斗が負った心の傷は、想像以上に深いものなのだろうとシオンは思った。
 自分はいじめられた経験は無いが、いじめとは存在の否定だとシオンは考えている。そして自分を見てほしいという欲求は、人間が本質的に持っている欲求だ。いじめはその欲求を否定させる。見ないでほしい、放っておいてほしいという本能とは矛盾する欲求が生まれ、結果的に心が歪み、傷ついてしまう。蓮斗は、ギリギリでここに立っているのかもしれない。繰り返す整形手術、極度の痩身、ブランドものの服、違法な薬物というプロテクターで自分を守りながら。
「悪かったわね、横槍が入って」と、冷子がシオンを見ずに言った。「落とし前は、これで許して頂戴」
 冷子はおもむろに左腕を掴むと、唸り声をあげながら右手に力を込めた。めりめりという音がして、指が二の腕の筋肉に食い込む。
「なっ……なにを……や、やめてください!」
 シオンが頭を振って駆け出そうとするが、その前に冷子が一層低い声で唸る。ブチブチという何本もの繊維がちぎれる音と共に、左腕が冷子の肩関節から脱臼する音が響いた。シオンは耳を塞いでしゃがみ込む。冷子の左腕が肩から完全に抜け、おびただしい量の血液がロビーの床にぶちまけられる。蓮斗がひゅうと口笛を吹いた。
「な、なんて……なんてことを……」
 あまりの光景にシオンは目に涙を浮かべ、両手を口に当てながら震えている。
「……そんなに大袈裟なもんじゃないわよ。腕一本再生するくらい訳ないわ」
 呼吸を乱しながら冷子が言った。左肩の傷口はナメクジの様な粘液質の表皮に覆われ、既に止血されている。
「随分と怯えちゃって。調べた通りだなぁ」と、蓮斗がシオンを見ながら言った。「人が傷つくことが極端に嫌いって本当なんだ。シオンちゃんの闘っている映像を何本か見たけどさ、おかしいと思ったんだよね。基本的に大振りで一撃必殺狙い。どう考えても理詰めや搦め手を使ってじわじわと追い詰める頭脳戦の方が得意なはずなのに、実際の戦闘スタイルは脳筋かよっていうほど大雑把だから、なんか変だなぁと思ったんだよ。なるほど、なるべく苦しめないように最短で勝負決めちゃおうって魂胆ね。僕とは正反対だなぁ。そうなったのもやっぱりアレかな? 君のことは色々調べさせてもらったけどさ、昔──」
 蓮斗が言い終わる前に、玄関の方で轟音が響いた。蝶番が壊れ、扉の一枚板がゆっくりとロビーの床に向かって倒れる。開けっ放しになった扉から、風に舞った雪が吹き込んできた。
 雪の光を背負い、巫女服の袖を揺らしながら鷹宮美樹がロビーに入ってきた。
 三人の視線が一斉に美樹に集中する。
「扉を壊してすまないな。驚かすつもりは無かったんだが──」と言いながら、美樹が蓮斗を睨みつけた。「貴様の声が聞こえたので、少しイラついてしまった」
「美樹さん……」と床に座り込んだままシオンが言った。美樹がシオンの側まで来て手を差し伸べ、シオンはその手をとって立ち上がった。シオンは頬を手で擦りながら「大丈夫です、大丈夫……」と視線を床に落としながら言った。美樹が勇気付けるようにシオンの肩を叩く。冷子が蓮斗を睨みつけた。
「ちょっと……なんでこいつが生きてるのよ? 始末したからこっちに来たんじゃないの?」
「いやぁ、その手違いというか……実は寸でのところで逃げられまして、あの双子もいつの間にか消えていて誰も捕まえることができず──」
 蓮斗が言い終わる前に、冷子が変形させない状態の右腕を蓮斗の顔面に向けて払った。首が折れるほどの勢いで蓮斗の頭が揺れるが、蓮斗は悲鳴をあげることもなくバランスを崩した程度で持ち直す。両方の鼻からは大量の血が垂れていた。
「あら?」と冷子が言った。蓮斗の顔を覗き込む。
 蓮斗の瞳孔は冷子のそれと同じ様に縦に裂けていた。
 瞳孔の内部が微かに赤みがかって見える。冷子はジャケットの内ポケットから鏡を取り出し、蓮斗に手渡した。蓮斗は自分の目を覗き込むと、何度も小さく頷きながら「やった……やったぞ」と言った。
「最終段階ってとこかしら……違和感は無い?」
「違和感どころかすこぶる順調です。痛みや疲労は日が経つにつれてほとんど感じなくなってきていますし、射精できる回数も増えました。久留美ちゃんと遊んでいる時は、お腹を殴りながら一晩で八回出したこともあります。睡眠欲もほとんど無くなりました」
 興奮気味に早口で捲したてる蓮斗を、冷子は手で制した。
「拒絶反応も無いみたいだし、ここまでくれば成功よ。あと数時間もすれば異性との粘膜接触で養分を吸収出来るし、老廃物もほとんど生成されなくなる。分泌する体液は異性を魅了する効果のある、いわゆるチャームに変化する。食事も排泄も必要無いし、疲労物質やわずかに生成される老廃物は体液と同時に体外へ排出されるから睡眠も必要無い。ようこそ、こちら側へ」
「ありがとうございます……ようやく人妖になれるんですね……。食事の必要がなくなるのは少し残念ですが」
「おい、なんの話だ……。人妖になれるだと? どういうことだ?」
 美樹が眉間に皺を寄せながら、蓮斗と冷子を交互に見た。シオンは地下で見た資料を思い出し、背筋が寒くなった。
「そのまんまの意味さ。俺はやっと人妖に進化できたんだよ。ずっと夢見ていたんだ……人間というクソッタレな存在から解放される日をな。なんでも順位付けして、余計なことばかり気にしながら、人の顔色をうかがってせこせこと生きるしかない卑屈なクズどもから──」と言いながら、蓮斗が興奮した様子でポケットからシガーケースのようなものを取り出した。開いて注射器を取り出し、鎖骨のあたりに針を打ち込む。雑に中の薬液を注入すると、ケースごと注射器を床に叩きつけた。「こいつは適正のある人間を人妖に進化させる薬だ。今は定期的に注射するしかないが、冷子さんのおかげで近いうちに、飛沫を吸い込んだだけで効果が発揮できるように改良される。俺はこいつを大量生産して、まずは日本中の人間を人妖にする。適正の無い奴はどうなるか知らねぇけどな」
 蓮斗の瞳は紅い光を放ちはじめた。冷子がその背後で興味無さげに頭を掻いている。
「日本は理想郷になるのさ。だってそうだろう? 飢えが無くなり、ただセックスしていれば生きられる存在に全員が進化するんだ。いまの世の中を見てみろ。容姿や収入、生まれや育ちで一生が決まっちまう世界だ。運悪くクソッタレな親の元に産まれちまったら、惨めな劣等感を抱えながら一生をジメジメとした日陰で泥水をすすりながら耐えなきゃならない。俺はそんな世界をぶち壊してやりたいのさ。考えてもみろ。セックスしてりゃあ飲み食いが必要なくなるんだぞ? 価値観が全部ひっくり返る。みんな同じだ。顔が良いとか悪いとか、金持ちとか貧乏とかで差別されなくなる世界だ。最高じゃないか」
「そ、そんな……」
「そんなことさせるか!」
 言葉に詰まったシオンの横で美樹が叫んだ。蓮斗を矢で射抜くように睨みつけた。
「日本中の人間を人妖にするだと……? 貴様、人間を何だと思っている?」
「自分勝手な最低の屑さ。街を歩いてると、色んな奴がいるよな? 俺はそいつら全員が何を考えてるのか想像するだけで、頭がおかしくなりそうだよ。でもさ、結局は全員何を食うか、誰とヤルかしか考えてないんだよ。それが満たされないから、自分より下の奴を作って、そいつを貶めて自尊心を保とうとするのさ。だったら、俺がその不安を取り除いていやる。お前らの仲間だったあの双子の生い立ちを聞いたことはあるか? 可哀想に、変態趣味の馬鹿親のせいでサイコになっちまった……。あいつらがいまだにソーセージと生卵を食べられない理由を考えてみろよ」
「屑はお前だろ?」と、美樹が冷たく蓮斗に言い放った。「人妖になれば人間全員が平等になれるだと? ふざけるな。人間という存在自体をかなぐり捨てて、何が平等だ。そんなもの、化け物になれと言っているようなものだ」
「俺から言わせれば人間の方がよっぽど化け物だ。少しでも他人と違うってだけで平気で傷付ける。俺はお前とは違うってだけで、平気で嫌悪の対象にして攻撃する」
「それは違います。自分らしく精一杯生きていれば──」
「お前らみたいに! お前らみたいに……最初から生まれや顔や学力に恵まれた奴らが、綺麗ごと言ってんじゃねぇぞ!」
 シオンの言葉を蓮斗が遮る。蓮斗は美樹とシオンを交互に睨みながら声を荒げた。
「余裕ぶっこいて上からほざいてんじゃねぇぞ! あ? 自分らしく精一杯生きるだと? なんだお前? お前、世界的製薬会社の創業家の令嬢だろうが? こっちは知ってんだぞ! 生まれや顔や脳味噌に恵まれて、周りからちやほやされてるから、くだらねぇ奉仕精神とか博愛主義とかでいられるんだろうが? あ? 何がメイドだよ。わざわざロシアから来て愛想振りまきやがって。お前が家柄に恵まれず、金に困っていて、顔や頭が今みたいに良くなくても、今と同じことをしていたのかよ!?」
「ただの僻みにしか聞こえんな」と、美樹が静かに言った。「確かにシオンの出生は、世間的に見れば恵まれたものだったのかもしれない。だが、知った風な口で、自分だけが不幸だと喚くな。私もシオンも、道楽や人を見下すためにこんなことをしていると思うか? そんなくだらない自己満足で命を張れるものか。いいか、命を張るってことはな、それなりの理由と覚悟が必要なんだ。お前は生まれつき生まれつきというが、黙って寝ているだけで頭や身体が鍛えられるか? ろくな努力もせずに、薬物や人妖の力に頼っているお前には、何も言う権利は無いぞ」
 水を打ったような沈黙が流れる。
 雪は相変わらず壊れたドアから吹き込み、シャンデリアの灯りは風に揺らめきながら黒檀の床を照らした。
 誰も何も発しない。
 凍りついた空気は永久凍土の様に重苦しく、ロビーにその身を横たえていた。
「……もういいわ」
 しばらくして、蓮斗の背後から声が響いた。凍りついた空気がようやく溶け出した。
 冷子がつまらなそうな顔をして全員を一瞥した。
「蓮斗……あなた、もういいわ……」
 冷子が冷たく言い放ちながら指を鳴らすと、蓮斗の身体が震えるほど大きく「どくん」と脈打った。次の瞬間、腹の中で爆弾が破裂したような勢いで、蓮斗の腹が物凄い勢いで膨張した。ライダースのジッパーが音を立てて壊れ、中に着ていた薄手の赤いカットソーが限界まで伸びる。
「……え?」
 蓮斗は自分の膨張する腹を呆然と見下ろす。ベルトが音を立てて千切れ、カーゴパンツのボタンが弾け飛んだ。身体は脈打つ度に膨張する箇所が広がり、膨張は胴体から手足、指先へと面積を広げた。
「ああああああああああああああああ!」
 カブトムシの幼虫の様に変形した自分の指を見ながら、蓮斗は喉が裂けるほど絶叫した。そのまま頭を抱えてうずくまる。
 シオンが青ざめた顔で手を口元に当て、首を横に振りながら無意識に後ずさった。
「な……なに……なんですかこれは……?」
「わからん……あの女が何かしたらしいが……」
 美樹も震える声を隠せずに、ただ呆然と蓮斗の変形を見守った。
「いやだぁぁ……戻っちまう……もう太りたくない……太りたくない……また皆から……虐められ……」
 膨張は既に全身に広がっていた。蓮斗の顔は二倍ほどの大きさに膨らみ、声は風船を押し当てて喋っているように不明瞭になっていた。綺麗に染められた金髪は頭皮が膨張したせいで密度が下がり、所々地肌が見えている。
「人妖の適正を無くすことくらい簡単に出来るのよ。なんで私があなたのくだらない理想のために力を貸さなきゃならないの? 自分は特別な存在だとでも勘違いしていたのかしら?」
 冷子の声に蓮斗は顔を上げる。元の面影が皆無なほど変形していた。目は恐ろしい量の脂肪で塞がり、口や鼻も膨らんだ頬に押しやられ、数カ所小さな穴が開いている肉団子のように見えた。
「ぼおぉ……」
 蓮斗は何か言葉を発したらしいが、口腔が脂肪で塞がれて呻き声にしかならなかった。
 冷子は気にせずに薄笑いを浮かべている。
 蓮斗の狭まった視界の隅に、緋色の布が映り込んだ。蓮斗は顔の角度を変えて見上げようと試みるが、まともに動くことが出来ない。
「こいつを元に戻せ」
 美樹の声だ。
 蓮斗の歪んだ視界のピントが、一瞬だけ合った。
 自分に背を向けて、冷子に立ち塞っている美樹の姿が目に入った。緋色のスカートや襦袢に走る緋色のラインが、やけに鮮やかに見えた。
「あなたなら出来るはずです」
 蓮斗の視界に別の影が映る。
 白いガーターベルトの付いたストッキングに、フリルの付いた黒いスカート。二つに纏めた長い金髪。
「人間をここまで作り替えることが出来るのなら、逆に戻すことも出来るはずです。お願いします」
 シオンの声にはすがるような雰囲気があった。冷子がふんと短く息を吐く。
 蓮斗の思考はまだはっきりとしていたが、身体は四つん這いの体勢のまま動かすことが出来ない。その蓮斗をまるで庇う様に二人が背を向けて立っている。
 美樹の長い綺麗な黒髪が揺れて綺麗だった。
 印象に残っている、綺麗な長い黒髪。
 そして強気で凛とした性格。
 小学校の頃、いじめらていた自分を唯一助けてくれた女の子も、長い黒髪だった。
 まさか……な。
 そんな都合のいい話がある訳が無い。
 でも、もしそうだとしたら……。
 蓮斗の身体が脈打ち、瞼が更に膨張する。蓮斗の視界は完全に塞がり、何も見えなくなった。
 耳も塞がれているのか、彼女達の会話の声も、まるで轟轟と吹き荒ぶ激しい風の音のように不明確になった。
 そして、思考や意識までもが徐々に混濁していった。


 ──寒い──寒い──。
 俺は一体どうなっちまったんだ……?
 人妖に進化したら、全てが上手くいくはずじゃなかったのか?
 このクソッタレな人生に復讐ができるはずじゃなかったのか?
 冷子が裏切った……。
 人妖に取り入ったのが間違いだったのか……。
 いや、それしか方法が無かったじゃないか。
 突然この施設を放り出されてから、身寄りのない俺はヤクザの下働きになった。
 クソみたいな仕事をして小金をもらうだけのヤク中だった俺は、人妖に取り入らなければ野垂れ死ぬだけだった。
 人妖……ジンヨウ……。
 ガキの頃、施設の大人達が話していた聞きなれない言葉だ。意味を知ったのはずっと先のことだ。
 大人達は、俺達を人妖にするための実験をしていると言っていた。もちろん当時は意味がわからなかったが……。
 ヤクザの下で薬の売人をしている時、偶然客の女から人妖の噂を聞いた。
 もう薬は必要なくなった。それよりも良いものが見つかったと女は言った。
 なんのことか聞くと、ある男とのセックスにハマっていると、女は言った。
 どこぞのホストにでも入れ込んでいるのかと思ったら、その男は人間ではなく、人妖だと女は言った。
 俺は久しぶりに聞いた人妖という単語に心底驚いた。
 女は興奮した様子で、早口で捲し立てた。
 ハマってくると、キスだけでトぶ……。唾液や精液といった分泌液に妙な効果があるらしい。
 だから口やナカで出されでもしたら、脳が震えているのがわかるほど快楽の電撃が走る。
 しかも見た目は人間と変わらないが、超イケメンで、いつも最低五回は失神するまでイかされる。
 もう薬なんてどうでもいい。思い出しただけで濡れてきた。早く人妖に会いたい。もう薬はいらないから連絡しないでほしい。
 女が去った後、俺は放心していた。
 俺は生きた麻薬にされるためのモルモットだった訳だ。
 だったら、利用してやると思った。
 俺は人妖のことを調べ、苦労して冷子と接触して、殺されるのを覚悟で取り入ったのに……。
 こんなはずじゃなかった……。
 寒い……。
 くそ……寒いな……。
 何も見えないし、何も聞こえない。
 身体が上を向いているのか、下を向いているのかすらもわからない。
 酷い寒さだ……。
 あの時よりも寒い。
 俺がデブだった頃。
 集団で虐められ、ボロボロになって、泣きながら家に帰った。
 親は庇ってくれるのかと思ったら、「やり返すまで帰ってくるな」と、俺を家から締め出した。
 雨の降る中、真っ暗な公園の遊具の中で丸まり、寒さと絶望感と怒りに震えながら、独りで泣いた。
 あの時は世界の全てから裏切られたように感じた。
 寒い。
 寒い。
 寒い。
 やり返すまで帰ってくるなだと……?
 お前の言う通りやり返してやったぞ!
 言われた通り、俺はそいつらの腹をそいつの親の目の前で掻っ捌いて、中身を掻き回しながらマス掻いてやった!
 今まで俺が受けた苦痛をまとめて一括返済してやったのさ!
 テメェがやれって言ったくせに、たかが腹捌いて臭ぇ内臓ミンチにしてぶっ殺してやった程度でぐちゃぐちゃ喚きやがって!
 俺は殺される以上の仕打ちを受けてるんだよ!
 どうすりゃいいんだよ!?
 勝手なことばかり言いやがって!
 テメェがアイツらを殺してこいって言ったから殺したんだろうが!
 クソが!
 死ね!
 まだ三人しか「やり返して」ねぇんだよ! ふざけやがって! 俺はまだまだ殺さなきゃならねぇんだよ!
 死ね! 全員死ね! 苦しんでもがいて死ね!
 クラスの奴ら全員と担任を殺す──いや、唯一庇ってくれたあの女の子だけは見逃すつもりだったが……。
 その前に取っ捕まって、少年院ではなくこの施設に入れられた。
 思えば施設に入る前も出た後も最悪だった……。
 施設では訳の分からない薬打たれたり、検査や実験をされたりして、ゲロとクソを垂れ流しながら一晩中のたうち回ったことも何回もある。
 ……畜生。
 俺はいつも、誰かの食い物だった……。
 親からも、学校の奴らからも、教師からも、施設の大人等からも、人妖からも……俺は食われてばかりだ。
 やっと俺が食おうとすると、必ず誰かが邪魔をしてきやがる……。
 俺より少し後に施設に入ってきた双子の姉妹と、なんとなく話すようになった。
 あいつらだけは、俺を食おうとはしなかった。たぶんあいつらも、散々誰かに食われてきたんだろう。
 何年か経って、突然施設の中が慌ただしくなって、大人達がバタバタと荷物や資料をまとめて出て行きやがった。
 スポンサーだか経営者だか、とにかく施設の運営に関わる海外の偉い奴が急死して、権利者の間で揉めはじめたとか言っていたが……。
 パニックを起こした大人達の一部が、子供達を処分し始めた。
 連れて逃げる余裕は無いし、仮に保護された子供が施設のことを喋れば、立場が危うくなる奴なんて何人もいる。
 それまでも見せしめみたいに、適性の無い奴や問題を起こした子供を外の絞首台で処刑することはあったが、今回はニワトリをシメるみたいに片っ端から。
 止めようとした大人が銃を打って、子供を殺していた大人の何人かが倒れた。
 俺を含め、ガキの大半はどさくさに紛れて逃げ出すことに成功した。
 真冬の山の中を、手術着みたいな薄い服一枚と裸足で必死に逃げた。
 別に生き延びたくはなかったが、もうこれ以上誰かの食い物にされることにウンザリしていたんだ。
 あの時も、こんな風に寒かった……。
 寒い。
 寒い……。
 誰か、俺の部屋の暖炉に火を入れてくれよ……。
 薪は暖炉の横に置いてあるから……。
 誰か火を……。
 誰か……。
 ハイブランドの服も、豪華なメシも、肝心な時に役に立たないじゃないか……。
 誰か、俺の味方でいてくれよ……。
 俺に大丈夫だって言ってくれよ……。
 誰か。
 誰か……。


「まだ大丈夫だろう? こいつを元に戻せ」と、美樹が背後を親指で指しながら言った。眉間に皺を寄せてた美樹の顔は、シオンも見たことが無いような恐ろしい表情だった。美樹の親指の先には、見る影もないほど肥満体になった蓮斗が頭を抱えるようにしてうずくまっている。肌の色は青白く変色し、所々に血管が透けて見えた。塞がれた口腔の奥からモゴモゴとくぐもった不明瞭な声が聞こえる。何か言葉を発しているのか、ただ単に呻いているだけなのかはわからない。
 このような姿になって、蓮斗は今なにを思っているのだろうかとシオンは思った。いや、なにも思っていない方が良いのかもしれない。肥満を理由に酷い虐めを受けた蓮斗にとって、脂肪に覆われた今の姿は発狂するほど堪え難いものだろう。それならば、いっそ発狂し、なにも考えられなくなっていた方が幸せなのかもしれない。
「しつこいわね。まぁ、今なら戻すことも出来なくはないけれど……」
 冷子が呆れた様子で言った。美樹とシオンが溜めていた息を吐く。
「でも、こうなったらもう私でも無理よ」
 冷子が指を鳴らした。直後、蓮斗が硝子を引っ掻く様な悲鳴を上げた。
 美樹とシオンが同時に耳を塞ぐ。
 蓮斗は苦しみながら、芋虫の様な指で頭を強く抱えた。脂肪でぶよぶよになった頭皮に指が埋まり、一部が破れて血が滲む。
 美樹とシオンはなす術も無く、呆然とその様子を見守るしかなかった。
 蓮斗はもがき苦しむ様にしばらく身体を捩ると、やがてぴたりと動かなくなる。
 少しの沈黙。
 突如、蓮斗の背中に無数の瘤(こぶ)のようなものがボコボコと発生した。瘤は盛り上がり、分裂を繰り返して数を増やしながら、独立した生き物のように蠢いている。布の破れる音。蓮斗の伸び切った赤いカットソーが破れ、カタツムリの目の様なグロテスクな触手がわらわらと溢れた。シオンが「ひっ」と小さな悲鳴をあげる。
「うまくいったわね。皮膚の下にあるうちは脂肪に見えるかもしれないけれど、実際に増殖していたのは脂肪ではなく、私の触手の細胞に手を加えたもの……。人間を人妖に変態させる薬とカクテルにして、拒絶反応が起こらないように少量ずつこいつの体内に蓄積させておいたの。今、私の合図でこいつの脳に完全に浸透したわ。思考はもはや、見た目通りナメクジやカタツムリと変わらない。あとは本能の赴くまま、食欲に従って暴れるだけ暴れる醜い肉塊として、自滅するまで動き続ける。今は時間をかけて複数回細胞を注入することでしか変異させることはできないけれど、いずれ粘膜から吸収可能な噴霧式で即効性を持たせることができれば、一度に大量の人間を作り変えることができる。理想は感染性を持たせたウイルスタイプね……完成すれば最後の一匹になるまで人間同士で勝手に共食いを始めてくれるわ」
 顎に指を当てて満足そうに状況を分析する冷子に向かって、美樹が飛び出した。今の冷子には左腕が無い。防御の薄い左側へ、手甲の金属部分を冷子にぶち当てるように拳を突き出す。手応え。蒟蒻を殴った様な異様な手応え。冷子の左肩からズルリと灰色の太い触手が生え、美樹の攻撃を受け止めていた。
「な……に……」
 美樹が歯を食いしばる。
「急ごしらえさせるんじゃないわよ……」
 冷子は触手を美樹の上着に絡ませ、強引に身体を引きつけて右拳を美樹の腹に埋めた。ずぷんと鈍い音がして、美樹の背中が僅かに盛り上がる。
「ゔぶぅッ?!」
 美樹の両足が地面から浮き、身体がくの字に折れた。
「無駄よ。人間が私達に勝てるわけないでしょう?」
 冷子が美樹の腹に埋まった拳を捻る。ただ苦痛を与えるだけの行為に、美樹の身体は悲鳴を上げた。
「ぐぶぁッ……! ぎぃッ……」
 苦痛に耐えるように美樹が歯を食いしばる。次の一瞬、その顔が少しだけ笑った。両手で冷子の腕を掴む。怪訝な顔をした冷子の視界が一瞬暗くなった。シオンが美樹の背後から跳躍し、シャンデリアの灯りを遮っていた。シオンはフィギュアスケートのジャンプの様に錐揉みに状に回転し、冷子の首に巻き付く様な回し蹴りを放った。頚椎をしたたかに打ち抜かれ、冷子の身体がぐらりと傾く。美樹が手甲で冷子の顎を跳ね上げた。
「シオン!」
 美樹がシオンに向かってバレーボールのレシーブの様に手を伸ばした。シオンが軽く跳んで美樹の手のひらに足を乗せると、そのまま美樹の押し上げる力を利用して飛び上がる。羽の生えたような跳躍だった。シオンは膝を抱えたまま前方に宙返りし、勢いをつけたまま落下点を確かめる。宙返りで勢いをつけた踵落としはシオンの得意技だ。人妖とはいえ、脳天に食らえばほとんどの相手は失神してきた。
 今回も宙返りの勢いを殺さず、脚を伸ばして踵を冷子に振り下ろした……つもりだった。
 シオンの靴底は天井を向いたまま、逆さ吊りの体勢で固定された。まるで万力で足首を空中に固定されたようだ。一瞬事態が飲み込めず、無意識にスカートを手で押さえる。にやりと笑っている冷子と目が合った。逆さ吊りのまま自分の足首を見る。自分の足首に巻きついている触手がぬらぬらと光っていた。
 これは、蓮斗の背中から湧き出たものだ。
「シオン! 危ない!」
 美樹が叫び、視線を移す。風を切る音。蓮斗の触手が猛烈な勢いでシオンに伸びていた。
「え……おぶぅッ?!」
 不意打ちで、ドッヂボールほどの大きさの黒ずんだ先端が腹に減り込んだ。身体が折れ曲がり、痛々しいほど陥没した自分の腹部が目に入る。
「かはっ……! ぁ……」
 触手が引き抜かれ、シオンがなんとか呼吸をしようと口を開けた瞬間、再び不気味な風切り音が耳に届いた。背中にぞくりと悪寒が走る。次の瞬間、数本の触手がシオンの腹に連続して埋まった。
「ゔぶッ?! ごッ?! ゔぁッ!?」
 逆さ吊りの体勢のため、シオンの顔に自分の吐き出した唾液が降り掛かった。一瞬気を失い、スカートを押さえていた手がだらりと地面に向けて伸びる。
 触手はシオンの身体をハンマー投げの様に振り回し、壁に向かって叩きつけた。
 したたかに背中を打ち付けられた衝撃で、肺の中の空気が一気に押し出される。足に力が入らず、背中で壁をこするようにズルズルと尻餅を着いた。
 ふっ……と視界が暗くなる。シオンが顔を上げると、蓮斗の触手がわらわらと蠢きながら、シオンに向かってハンマーの様に振り下ろされようとしていた。
 シオンは無理な姿勢から転がるように逃れる。蓮斗の触手はそのまま振り下ろされロビーの床に大穴を開けた。
 あっ……と、シオンが短く叫んだ。
 触手の直撃は免れたものの、古い床には大穴が開き、シオンは今にも落下しそうな状態で穴の淵にかろうじて片手で掴まっている。
「シオン!」と、美樹が叫んだ。シオンの元に駆け寄ろうとするが、蓮斗の触手に阻まれる。
 風切り音。
 冷子の左肩から生えた触手が鞭のように伸びてシオンの手に当たり、シオンはそのまま地下に落ちていった。
 再び美樹がシオンの名を叫んだ。
 蓮斗はターゲットを美樹に変えたらしく、数本の触手を束にして美樹に放った。
 美樹は舌打ちしながらサッカーボールを蹴るようにして触手を弾く。
「そんな姿になってまでも、お前は私に執着するのか……」
 美樹が呆れるように言った。
 シオンは無事だろうか。一瞬だが、空いた穴からは病院か研究所のような空間が見えた。なぜ地下がそのような造りになっているのかは不明だが、深くはなさそうだ。落ちた程度で致命傷を負うほどシオンはヤワではない。視界の隅で、穴に飛び込む冷子の姿が見えた。
 蓮斗は触手を腕のように使って、膨れ上がった上半身を起こした。
 上着は完全に裂けて失われ、胴体の肉がスカートのように垂れ下がって足元を覆っている。脚部が完全に肉で隠れ、座っているのか立っているのかもわからない。両手は頭を抱えた状態のまま肉に取り込まれ、耳を塞いでいるように見えた。顔は二倍以上の大きさに膨れ上がり、額や頬の肉が垂れ下がって目と口がへの字型の裂け目のようになっている。裂け目の中に赤く光る瞳が見えた。
「蓮斗……」と、美樹がポツリと言った。「お前のことは大嫌いだ。久留美を誘拐し、暴行したことは許せん。だが、そんな目に逢う運命は少しむご過ぎるな……」
 蓮斗からは汚水が泡立つような音が聞こえた。肉に阻まれた呼吸音なのか、唸り声なのかはわからない。
「辛いだろう。太っていたことが嫌だったらしいな? それをもう一度同じ目に……。だが」
 美樹が上着の中に手を入れ、樹脂製の短いスティックを二本取り出した。美樹が強く振ると収納されていた中身が飛び出し、取っ手を起こすとトンファーの形になった。美樹は慣れた手つきでトンファーを回転させながら構えた。
「お前がまだ人間であったなら、アンチレジストはどんなクズだろうと救うために最大限の努力をした。だが、人妖か、それに準ずるモノになってしまったのなら、私達アンチレジストの討伐対象だ。観念しろ」

 蓮斗の背中から伸びた触手が蛇の群れように縦横無尽にうねり、美樹に向かって振り下ろされた。速くはない。美樹はジグザグに動いて躱しながら、徐々に距離を詰める。横に薙ぐような触手の攻撃を跳躍で回避し、蓮斗の顔面にトンファーを叩き込んだ。トンファーはぐにゃりと肉に埋まったが、ダメージは無いようだ。ならばと美樹はトンファーを握り直し、本体の短い部分で蓮斗の目を突いた。金属を切るような悲鳴が上がる。すかさずもう一方の目も突き、さらに眉間だった場所に一撃を打ち込んだ。ぶよぶよとした軟体動物のような肉の奥に、硬い骨の感触があった。
「肉の増殖に対して、骨が追いついていないようだな」と、美樹は距離を取りながら言った。トンファーを勢いよく振り、まとわりついた粘液を振り切る。「頭蓋骨の大きさや厚さは元のままのようだ。無茶なことを。その重量では脚の骨は今頃粉々だろうな
 蓮斗は触手を槍のようにして美樹に放った。美樹は最小限の動きで躱し、蓮斗の様子をうかがう。蓮斗のへの字に垂れた口から、苦しそうな喘ぎにも似た声が漏れている。蓮斗は何度か美樹に触手を飛ばしたが、いずれも力が無く、躱すのに苦労はしなかった。攻撃というよりかは、何かを探るような動きだ。美樹が不思議に思っていると、触手は奇妙な動きを見せた。美樹の後方の壁を探るように動き、火の消えた蝋燭を取ると、ビニールシャッターの様になった唇を押し上げて蝋燭を口に運んだ。
「なるほど……」
 美樹は蓮斗に向かって突進した。巫女装束の袖を翻しながら、高速でトンファーの柄を蓮斗の喉元に抉りこむ。まるで美樹自身が一本の槍になったような一撃に、蓮斗は悲鳴をあげて飲み込んだ蝋燭を吐き出した。
「こんな身体で動き回るには膨大なカロリーが必要だ。腹が減って仕方がないんだろう? 貴様ら人妖は異性との粘膜接触で養分を得るらしいが、もはや動けないその身体では難しい。放っておけば勝手に餓死する運命だ」
 触手が力の無い動きで美樹の足に絡まろうとしたので、美樹がブーツの底で踏みつけた。
「そして生憎、私は貴様に養分をやるつもりはない」
 美樹はトンファーを持ち替え、柄の長い部分で蓮斗の目を突くと、渾身の力で押し込んだ。耳を塞ぎたくなるような甲高い悲鳴が蓮斗の口から放たれる。
「最期に教えてやる……もう聞こえていないかも知れんがな」と、美樹は歯を食いしばってトンファーを押し込みながら言った。トンファーが蓮斗の脳に達するまでは、まだ距離がある。「蓮斗……お前はさっき私やシオンのことを、生まれや育ちが恵まれていたから博愛主義でいられて、アンチレジストのような人助けが出来ると言ったな? 違うぞ。私もシオンも家が少し複雑でな。私もお前のように小さい頃から施設に入っていて、実の親の顔もよく覚えていない。同じ頃にシオンも事情があって故郷のロシアに居られなくなり、独りで日本に来た。貴様も色々と気の毒だったとは思うがな……全てを人や環境のせいにして、中身を磨かずに外見だけを整えたり、薬物に頼ったりしていても何も解決はしないぞ。もっとも私も、シオンのようにいつもニコニコしていられるには、まだ時間がかかりそうだがな……!」
 蓮斗の腹のあたりが音も無く膨らみ、太い触手が生えた。美樹が気がつくと同時に、鞭のような速さで美樹の腹に埋まる。ぼぐんッ……という音とともに、美樹の黒いインナー部分が陥没した。
「ゔッ?! ぶぐぇッ……?!」
 美樹は後方に吹っ飛んで仰向けに倒れた。不意打ちを喰らい、視界が明滅する。天井のシャンデリアがぼやけて視界に映り、それを隠すように極太の触手が伸びてきて、美樹の腹を潰した。
「ごぶうッ!? ゔぁッ……! げろぉぉっ……」
 美樹は身体をよじり、背中を丸めて胃液を吐き出した。今までの弱り切った様子とは明らかに動きが違う。再び振り下ろされた触手を転がりながら避け、肩で息をしながら立ち上がった。蓮斗は目に刺さったままのトンファーを触手で引き抜き、フローリングの床に捨てた。
「なんだ……? 養分を補給したのか?」と、美樹が肩で息をしながら言った。すぐさま猛烈なスピードで触手が飛んでくる。美樹は屈んで避けるが、別の触手が美樹の足首に絡まり、蓮斗本体に向かって引きずられた。美樹は歯を食いしばり、触手を解こうとするが、粘液で滑って指を立てることすらできない。やがて美樹の身体に何本もの触手が巻きついた。
 この匂い……ガソリンか、と美樹は思った。バイクが趣味の美樹にとっては、親しみのある好きな匂いだ。
 見ると、蓮斗の背中から伸びたミミズの様な細い触手が、板張りの床の隙間に入り込んでいた。地下に保管されている燃料を吸い取っているのだろう。ガソリンや石油を分解し、養分にする微生物がいると美樹は過去に聞いたことはあったが、いくら飢餓状態とはいえ蓮斗がガソリンを吸収するとは。
 触手が美樹の顔の前に伸びた。先端が男性器の様な形をしている。次の瞬間、触手が伸びて美樹の半開きになった口から侵入し、喉奥まで押し込まれた。
「んぐぅッ?!」
 触手は素早く前後運動を繰り返し、美樹の口内と喉を嬲った。触手からは生臭い匂いとガソリンの匂いが染み出し、猛烈な吐き気に襲われる。美樹は失神しないように全身を硬直させて耐えた。やがて触手の先端が膨らみ、重油の様な粘液が美樹の口内に大量に放出された。蓮斗の口から溜息に似た音が聞こえた。一瞬拘束が緩み、美樹はスカートの中に忍ばせている小ぶりなナイフを取り出して触手を切りつけた。拘束が解け、美樹は転がるようにして距離を取ると、口内の粘液を憎々しげに吐き出す。
「もっと長い得物を持ってくるべきだったな……さて、どうしたものか」


 割れた床の細かい破片が、仰向けに倒れたシオンの顔にパラパラと降ってきた。
 階上から落ちた衝撃でショートした脳を回復させるために、シオンは目を瞑ったままこめかみを揉む。服や手袋は所々が破れて素肌が見えていたが、大きな怪我や傷は負っていないようだ。天井の破片が目に入らないように注意しながら、ゆっくりと目を開ける。自分が落ちてきた穴の横に、旧式の無影灯が太いアームで固定されていた。自分の上に落下しなかったのは幸いだったと、シオンは思った。
 廊下の奥からカツカツとパンプスの音が聞こえてきた。誰が来るのかはもうわかっている。シオンは身構え、その人物が現れるのを待った。
「懐かしいわね……ここは実験室よ」と、言いながら冷子が部屋に入ってきた。ジャケットは脱ぎ捨てたようで、袖が破れてノースリーブになったワイシャツ一枚を羽織っている。冷子自らが捥(も)いだ左腕は触手によって再生させており、灰褐色の色でなければ普通の腕と見分けがつかなかった。「ここで被験者の子供たちに様々な薬物を与えて、人妖へ変化する過程を見ていたの。拒絶反応で暴れたり、蓮斗みたいに身体が変化してしまう子もいたから、実験室とは言えちょっと物々しい内装になっているけれど……」
 冷子が壁に設置されている拘束具を指差した。暴れてもいいように、両手足を固定してから実験をしたのだろう。シオンは拘束具を一瞥すると、冷子に視線を戻した。
「ホールに行く途中にここを通り、いろいろな資料を見ました……。孤児を集めていたのは、人妖化する実験のためだったんですね」
「そうよ。貴女には想像もつかないでしょうけれど、世の中には存在を望まれていない子供達が結構いるの。そういう子達は実験の失敗で死んでも誰も気がつかない、便利な存在だったわ」
「なぜそこまでして……」と、シオンが言った。
「簡単よ。前も言ったけれど、食物を必要としない人間を作りたかった、ただそれだけよ。人間は進化したけれど、生きるためには食事が必要であり、活動の大部分も食糧を得るために割かなければならない現状は、まだ動物としての枷が外れていない。では、もし人間が食物を摂取しなくても活動ができるようになったらどうなるか。動物が最も恐れる飢えが無くなり、食物を得るための活動を別のことに振り分けることができる。動物の枷から解放された人間は、知識のみを追求するより高次の存在になれる……と、研究をスタートさせた人間達は考えた。貴女が生まれるずっと前から、この実験は続いているの。各国が表の関係とは無関係に、人妖に関しては秘密裏に手を組んだり裏切ったりしながら、様々な実験を繰り返していた。やがて、異性の人間からであれば、粘膜接触で養分を吸収できる人妖の開発に成功した。私や、涼がそうね。彼はもういないけれど……」
「あなたも、元は人間だったんですか……?」
「馬鹿言わないでよ」と言いながら、冷子は苛立ったようにサイドの髪を後ろに梳いた。「私や涼は、試験管の中で人口受精させたばかりの卵細胞を遺伝子操作して、代理母に戻して造られたオリジナルの人妖……。人妖としての能力の他に、容姿や頭脳も遺伝子操作の際にイジられる。当時の最終目標のひとつである、人間から人妖に改造する手段を確立させたのも、研究を乗っ取った私たち人妖達よ。上の階で暴れている蓮斗みたいに、意図的に失敗させることもできるけれど」
「乗っ取った……?」と、シオンは息を飲みながら聞いた。
 冷子が言った。「人妖を生み出すことに成功した少し後、人間同士で内紛が起きたのよ。人妖には人間と同じく自我があるし、遺伝子操作で身体能力や知能指数が高く、おまけに異性の人間さえいれば食事の必要は無い。もし人妖達が自分達に牙を剥いたら勝ち目は無い。そうなる前に、人妖達は全員廃棄して研究を止めるべきだという意見が出始めた。自分達はとんでもない怪物を生み出してしまったのかもしれないと恐れたのね……。もちろん、人妖を兵器や労働力として研究していた組織は人妖の破棄に猛反発し、研究方針をめぐる争いは各地に飛び火して収集がつかなくなった。それと同時に、人妖研究に多大な援助をしていた最大手のパトロンからの資金が突然ストップしたことも、混乱に拍車をかけた。そして、多くの研究機関が自滅したり解散したりしているうちに、多くの人妖が研究所から逃げ出した……。私もその時に逃げたわ。勝手に造られて、研究所の人間から養分提供だとか言いながら犯されて、都合が悪くなったら殺されそうになるなんて……我ながら随分と酷い人生だったと思うわ」
 突然冷子の左腕が伸びてシオンの身体に巻き付いた。シオンを自分の身体に引きつけると、額が触れ合うほど顔を近づけながら言った。
「言っておくけれど、同情なんかするんじゃないわよ? 同情というのは関係の無い人間が自己満足のためにするもの……貴女、まだ自分が全く関係無いとでも思っているんでしょう? なんで私達が研究を乗っ取ることが出来たのか、まだ言っていなかったわよね?」
 冷子が聞いたことがないような低い声で言った。シオンは、初めて冷子の本当の声を聞いた気がした。
「人妖の研究には莫大な資金が必要なの……。ねぇ? わかるでしょう? 世界的製薬会社『アスクレピオス』の創業家、ラスプーチナ家のお嬢さん? 成果の出ていない段階の研究には、優秀なパトロンが必要不可欠なの。貴女の家は代々、人妖研究に莫大な資金を投じてきた。もちろん、研究が結実すればその何倍もの利益が返ってくることを見越してね。十数年ほど前、『アスクレピオス』総帥の貴女のお父様が突然死して、一時的に融資が途絶えた。でも数年前に突然、貴女の家は融資を再開した。私達はその混乱したタイミングで、頭の悪い人間に取って代わって過去の研究を引き継ぎ、研究途中だった人間を人妖化する方法を確立した。人間達の研究を紐解くだけで、方法の確立に大して時間がかからなかったわ。そして我々に敵対するアンチレジストにも、ラスプーチナ家はかなり融資をしている。まるで死の商人みたいね? 一方では人妖研究を進めさせ、もう一方では人妖討伐機関を運営しているんだから。どちらに転んでも、貴女の家は更なる富と名声を手に入れられる」
 シオンの頭にジリッとした痛みが走った。脳裏に、ハッキングして手に入れたアンチレジストの受取金リストが浮かぶ。確かに自分の生家の名前がトップに記載されていた。冷子はシオンの身体を物のように投げ捨て、シオンはしたたかに背中を壁に打ち付けた。
「……私の家が人妖研究に絡んでいることは知っています」と、シオンが痛みに耐えながら言った。「夏以来、アンチレジストに不信感を抱いた私は色々と調べました。その際に、ラスプーチナ家の投資案件リストも偶然手に入りました。人妖研究と、アチレジストにかなりの額を投資していることも……」
「なら話が早いわ……。責任を取って、貴女もこちら側に来なさい。嬲り倒して瀕死にしてから、人妖に改造してあげる。貴女はとびきり綺麗な人妖になるわよ?」
「それは私の責任の取り方ではありません」と、シオンが静かに首を振った。「他の人を犠牲にしなければ成り立たない存在には、私はなりたくはありません。廃人のようになってしまった人妖事件の被害者の姿を何人も見てきました。私の生家が人妖研究に関わっているのなら、私の手でそれを終わらせます。人妖を捕獲し、人間に戻す方法を探すのが私の責任の取り方です。人助けになればと始めたアンチレジストの活動ですが、思えば最初から神様が導いてくださったのかもしれません。贖罪なのか、試練なのか……」
「……いつまでも自分だけは、正義の味方でいられるなんて思わないことね」
 冷子の左腕が別の生き物のように伸びた。先端がソフトボールほどの大きさに膨らんだ触手が、シオンを目掛けて矢のように飛んだ。シオンは直前で回避し、背後の壁が大きく陥没する。冷子のもう一本の腕も触手化し、シオンを追うように伸びる。シオンは壁に向かって走り、触手が背中に触れる直前、壁を蹴って後方に宙返りして自分を追い越した触手に真上から膝を落とした。床とシオンの膝に挟まれた触手は、灰褐色から一瞬冷子の肌の色に戻る。冷子が舌打ちする音が聞こえた。その間にシオンは冷子との一気に距離を詰めた。体勢を低くしたまま走り、振り下ろされる鞭のような触手を躱しながら十分に近づくと、そのまま独楽のように回転して冷子に足払いをかける。冷子がバランスを崩すと同時に、シオンは冷子の頭と腰を抱えて右膝を冷子の腹に突き込んだ。
「ゔぶぇッ?!」
 冷子は濁った悲鳴をあげながら前屈みの体勢になる。シオンは冷子の身体から手を離さず、反動を利用して冷子の身体を持ち上げた。冷子の身体がフッと宙に浮く。シオンはそのまま裏投げの要領で後方に投げ、冷子の背中を地面に叩きつけた。
「ぐえぁッ?! ぐ……ぎ……ぎいぃぃぃぃぃッ!」
 冷子は歯を食いしばったまま、両腕の触手をロープの様にしてシオンの身体を抱きすくめた。シオンが冷子に覆いかぶさったまま抱き抱えられるような格好になり、お互いの鼻が触れそうな距離で身体が密着する。
「まともに戦えば強いじゃないの……顔を狙わないところにまだ甘さがあるけれど」と、冷子が苦痛に顔を歪めたまま言った。そのまま触手を解こうと踠(もが)ているシオンに自分の顔をぐいと近づけ、強引にシオンの唇を吸う。
「んぅッ?!」
 突然の感触にシオンは目を見開いた。冷子は触手でシオンの後頭部を押さえつけると、シオンの舌を強引に吸い、混ざり合った唾液と自分の舌をシオンの口内に押し込んだ。
「ぐぷっ……?! んむぅッ!」
 シオンと冷子の唇の間から、混ざり合った唾液が溢れる。不意に、シオンの背中をぞくりと寒気が駆け上がった。自分の口が徐々に大きく開いている。冷子の舌だ。自分の口内に侵入している冷子の舌が肥大化している。突然、ずりゅ……と冷子の舌が伸び、シオンの喉奥まで冷子の舌が突き込まれた。
「んぐぅッ?!」
 シオンは強引に触手を振り解き、冷子から離れた。激しくむせるシオンを眺めながら、冷子は人形のようにゆっくりと上体を起こす。灰色に触手化した五十センチほど舌が、冷子の口からブラブラと垂れ下がっている。あのまま突き込まれていたら窒息していたかもしれない。
「ひふははひれへらっはろ?(キスは初めてだったの?)」と、バケモノのような形相になった冷子が首を傾げながら言った。ぢゅるりと音を立てて、ゴムが収縮するように舌が冷子の口内に収まる。「残念だわ。もう少し味わっていたかったのに……」
「舌まで触手化できるなんて……」と言いながら、シオンが汗で貼りついた前髪を直した。「でも……無敵という訳ではないみたいですね」
「……どういう意味?」
 冷子は触手を飛ばした。シオンは屈んで回避し、次の攻撃に備える。もう一本の触手が自分目掛けて伸びてきた。これを待っていた。シオンはサイドステップで回避しながら、小脇ににかかえるようにして触手を掴む。シオンは抱えた触手目掛けて、「ふッ!」と気合を入れながら渾身の力で膝を蹴り上げた。ぐにゃりと変形した触手の色が、一瞬だけ灰褐色から肌色に戻る。シオンはその肌色の部分を目掛けて肘を落とした。
「がぁッ!」と、冷子が悲鳴をあげた。
「さっき気がつきました……。強い衝撃を受けると、その部分だけ触手化が一瞬解除されるみたいですね」
 シオンが蹴り上げた肌色の部分は確かに骨の感触があり、シオンの膝にはそれが折れる感触が伝わった。触手は逃げ帰るように冷子の右腕の形に戻る。折れた部分が真っ赤に腫れていていた。すかさず冷子は左手で右肩を掴む。
「また新しい腕を生やしますか?」と、シオンは冷子に向かって走りながら言った。「生えるまでの時間は、あなたにはありません」
 シオンは高く跳躍し、前方に宙返りした。何が来る? 得意の踵落としか? 冷子が身構える。腕を捥ぐのが先か? 攻撃を受けるのが先か? 攻撃を受けるのが先だ。避ける時間は無い。冷子は無事な左手を頭上に上げた。振り下ろされる踵を受けて、シオンがバランスを崩したところで反撃する。おそらく左腕も折れるだろうが、頭に食らったら確実に失神する。シオンの背中。エプロンを止めている腰のリボン。黒く短いスカートから伸びる太もも。エナメルの靴が振り下ろされる直前に、シオンと一瞬目が合った。
 衝撃。
「がぁッ!?」と、冷子が叫んだ。
 右肩?
 頭を狙うシオンの右足はフェイントで、シオンの左足が冷子の右肩に振り下ろされた。防ぐことができず、無防備な右肩の骨が砕ける音が聞こえた。冷子の頭上で、シオンが長く息を吸った。何だ? 次は何をする気だ? いつの間にか、シオンの右足が冷子の左肩に乗っている。逆向きの肩車のような体勢だ。シオンが冷子の頭を両手で押さえる。シルクの手袋の感触。シオンはそのままの体勢で、冷子の頭を太腿で強く挟んだ。まずい! 冷子がもがく。シオンはふっと息を鋭く吐くと、冷子の頭を挟んだままバク転するように後方に回転した。冷子の視界が回転し、頭が引っこ抜かれるように地面に吸い込まれ、激しい衝撃が冷子の脳天を叩いた。
「……終わりです」
 シオンが正座のような体勢で、肩で息をしながら言った。太腿の間の冷子の顔は、目を見開いたままだった。


 上階からは、重いものを床に叩きつけるような音が断続的に響いてくる。美樹と蓮斗の戦闘はまだ続いているのだろう。ひび割れた天井からは破片が断続的に降り落ちてくる。そのうち全体が崩落するのではないかと、シオンはわずかに不安になった。冷子を拘束してからオペレーターに回収の依頼をして、自分はできるだけ早く美樹の応援に行かねばならない。
 シオンは太腿の間にある、虚な目をした冷子から視線を外し、ゆっくりと前を向いた。
 瞬間、息を飲んだ。
 状況が理解できなかった。
 冷子が変わらない姿勢のまま立っている。
 頭は?
 確かに私の下にあるのに……?
 冷子の首の部分が灰色の細長いホースのように伸びて、シオンの肩越しに股の間の頭と繋がっている。冷子の身体が、早回しのビデオ映像のようにブルルッと震えた。途端に、タイトスカートから覗く脚や胸元の肌が灰色に変色する。ぞわりとした悪寒がシオンの背中に走った。咄嗟に視線を落とし、股の間の冷子の顔を見る。すでに顔全体がナメクジのようなマダラな灰色に変色していた。次の瞬間、巣穴に逃げむ海蛇のように、冷子の顔は一瞬でシオンの尻の下に引っ込んだ。冷子の頭は伸び切ったゴムが戻るように身体の方に吸い込まれていき、粘度の高い水面に投げ込まれた石のように「どぷん」と肩の間に沈んで見えなくなった。
 まずい。
 シオンが危機を察知して立ち上がろうとした瞬間、冷子のシャツを突き破って触手の群れがぞるるっと湧き出た。
「ひっ!? きゃああッ!」
 蛇の大群のような触手が、無茶苦茶な動きでシオンに襲いかかった。冷子の身体は跡形もなく崩壊して、主人を失ったスーツだけがボロ切れのように床に残されている。触手の塊は粘液を撒き散らしながらシオンの腕や足に絡みつきながら、ものすごい力でシオンを壁に叩きつけた。
「あぐッ?! な……なんですかこれ……?」
 両手足に絡みついている触手を見ながらシオンが言った。右脚を締め付けている触手の一部がカタツムリの目のように伸びて、シオンの顔の前で先端が膨らんだ。先端は徐々に卵形の球体になると、次第に冷子の顔の形になった。しかし形を保っているのが難しいらしく、目や鼻の形が泥のように流動的で定まらない。
「これだけは……使いたくなかったのよ……」と、冷子の顔のようなモノが言った。粘液の湖に湧き出る泡のような酷く不明瞭な声だった。「こうなると、元の姿に戻るのが大変なの。人体というのは不思議なものでね、自分の身体のことを自分以上にとてもよくわかっている。脳の記憶以上に、身体の記憶というのはとても強いのよ。だから、腕や脚みたいな身体の末端を触手化しただけだったら、その部分は脳が意識せずともすぐに元に戻る。身体の記憶を辿ってね。でも、元の身体が『コレ』だったらどうなると思う? 身体の記憶が書き換えられ、いくら脳が人間の姿を記憶していても、身体のほうが拒否してしまう。お前の元の身体は人間ではなく『コレ』だ、とね……」
 触手が寄り集まり、ボディビルダーの腕のような太さになった。シオンの瞳に怯えの色が浮かぶと同時に、撞木が鐘を突くようにシオンの腹部に突き刺さった。
「ゔっぶぅッ?! が……ごおぉぉぉぉッ!!」
 あまりの威力に胃液がこみ上げ、温かい液体がシオンの喉を逆流して床に落ちた。
 腕はさらに何本も増え、ガトリングガンの様にシオンの剥き出しの腹に埋まった。複数の極太な触手による一撃一撃が強烈なボディーブローを高速で喰らい、シオンの腹部が餅のように歪に潰れる。
「がぶッ!? ぐぇあッ!? おぼッ! ぶぐッ?! ごぇッ!」
 シオンの身体はガクガクと痙攣し、一瞬攻撃が止んだと思いきや鳩尾に強烈な一撃が突き刺さった。
「ゔっぶ!?」
 磔の状態になっているシオンは当然防御などできるはずもなく、電気ショックを受けたように身体が跳ねた。同時に触手の拘束が解かれ、シオンの身体は投げ捨てられたマリオネットのように床に崩れ落ちた。
「がっ……! ゔッ……ごぇっ……」
 シオンは海老のように身体を縮こませ、内臓からこみ上げてくる苦痛の波に耐えた。歯を食いしばってなんとか顔を上げると、霞んだ視線の先に、猫の死骸に集まった蛆虫のように蠢く触手が見えた。徐々に触手は境目を無くしてスライム状になると、床を這うようにシオンに接近した。スライムはそのままシオンの身体を飲み込む。温かい粘液のプールに溺れているような状態になり、シオンは一瞬天地がわからなくなった。息をすることもできず、顔から血の気がひいてくるのがわかる。
「このまま窒息させてもいいけれど……少し話をしましょうか?」と、不明瞭な冷子の声が聞こえた。直後、スライムはシオンを取り込んだまま移動し、シオンの背中を再び壁に叩きつけた。顔周辺の粘液が引くと同時にシオンは激しく咳き込む。
「私がまだアナスタシアに保健医として勤めている頃、よく男子学生と話をしたわ。養分補給のための相手だったけれど、みんな良い子だった……。でも、話を聞いてみると、全員が貴女のことが好きだった。酷いと思わない? 私を抱いた後にもかかわらず、貴女に対する好意や憧れを私に話すのよ? 如月会長は高嶺の花だとか別世界の存在だとか……私達人妖は完璧な存在として造られたはずなのに、なんで不完全な人間の貴女の方が私よりも優れていると皆思うの? 悔しくて悔しくて仕方がなかったわ」
 溶けたような灰色の顔がシオンに言った。表情は読み取れない。シオンは灰色の顔から目を逸らさず、黙って話の続きを待った。
「……それに私達試験管で造られた人妖の性器は、養分補給とチャームや老廃物を排出することのみを目的とした器官に作り替えられているから、生殖能力を持っていないの……。ねぇ、わかる? 私は涼が好きだったし、彼の子供が欲しかった。でも、彼が生きていようと死んでいようと、その願いが叶うことはない……。彼にも私にも生殖能力は無いのだから。貴女はいいわね、子供が産める身体で……」
 細い触手が、シオンの鳩尾から下腹部までをなぞった。冷子の背後で、天井の大きな石膏ボードが落下した。
「なぜ……なぜ私達が、人間が勝手に掲げた完璧な人間を作るなどという身勝手な目標のためにこんな出来損ないの身体で造られて、貴女みたいなただの人間が……私達以上に完璧だって思われるのよ!」
「完璧な人間なんて存在しません」と、シオンは言った。緑色の瞳で、灰色の泥のような冷子の眼窩らしい二つのくぼみを真っ直ぐに見つめている。「人は全員、なにかを抱えながら生きているんです。とても重い、その人にしか見えない荷物を背負って、歯を食いしばって坂を登っているんです。生まれながら完璧な存在なんて──」
 シオンの身体に巻き付いていた触手が一瞬で解け、そのままシオンの首に巻き付いた。
「がッ?! あがッ?!」
 シオンの両足が完全に浮き、絞首刑のように首に全体重がかかる。シオンは両手で首に巻き付いている触手を掴むが、密着した触手は全く解ける様子がない。
「自分への言い訳のつもり? ねぇ……知っているのよ? 貴女のお父様……ラスプーチナ家の当主を殺したのは、貴女なんでしょう?」
 ジリッ、とシオンの頭に痛みが走った。
「な……? な……にを……?」
 シオンは微かに首を振る。
「忘れたの? 全部調べたのよ。不幸な事故だったらしいわね? 国際的製薬グループの総帥として、世界中を飛び回っていた貴女のお父様が久し振りに家に帰ってきた。家族と使用人へのお土産をたくさん抱えてね。子供の貴女は喜んで、勢いよく階段の踊り場にいたお父様に抱きついた。そして、お父様は階段から落ちてしまった……。お父様は自分の身体をクッションにして貴女を守ったけれど、打ち所が悪くて命を落とした。そして、貴女は無傷で生き残った。表向きは一人で階段を踏み外したことによる事故ということになっているけれど、ロシアにいる私達の仲間が当時の関係者から聞き出したのよ。父親殺しとはまた、随分と重い荷物だこと」
「ち……がっ……」
 気道を塞がれているため、シオンは声を出すことができない。
「その様子だと、本当に覚えていないのかしら? 目の動きで嘘をついていないとわかるわ。優秀な割には、随分と都合のいい頭をしているわね?」と言いながら、冷子はシオンの首を締める力を強めた。「でもね、この状況を作ったのは全部貴女のせいなのよ? さっきも話したけれど、貴女がお父様を殺してくれたおかげで、人妖研究最大のパトロン、ラスプーチナ家からの融資が一時的にストップした。内紛が起こっていた各国の人妖研究機関は混乱を極め、融資再開と同時に私達人妖が研究の主導権を握ることができた。貴女には感謝するべきでしょうね? 我々人妖に多大な貢献をしてくれた一族の長女様だもの。その立場で人妖退治なんて笑わせるわ。メイドだとか奉仕だとか博愛だとか、気持ち悪い愛想を振りまいているのは無意識な罪滅ぼしのため? 貴女を好きだった人達が貴女の正体を知ったら、どんな顔をするかしらね?」
「く……あ……ぁ……」
 シオンは涙を流しながら、歯を食いしばって小さく首を振る。シオンの思考はすでにマッチ箱のように小さくなり、視界には明るいモヤがかかりはじめた。冷子の声は聞こえているが、頭の中で言葉と意味が結びつかない。言葉はシュレッダーにかけられたようにバラバラの断片になり、ノイズの洪水となってシオンの頭の中を満たした。
 かくん……とシオンの身体から力が抜けた。
 両手はだらりと床に伸び、目は半開きになったまま光が消えている。口はだらしなく開けたまま、唾液と涙が頬を伝って喉から胸へと垂れた。
「あ……く……くふぅっ……」
 シオンが肺の中の残りの空気を全て吐き出した。
「くふっ……くふ……くふふふふふふふふ……」
 突然、シオンの右手が別の生き物の様に自分の頭に伸びた。ヘッドドレスを毟るように掴み取ると、獲物に襲い掛かる蛇のような速さで冷子の顔に突き刺した。油断していた冷子が悲鳴をあげる。ヘッドドレスの中に仕込まれていた細長い棒状の金属が、冷子の左の眼窩だった部分に突き刺さっている。冷子の顔全体が、左目を中心に肌色に変色した。シオンの両手が冷子の顔を掴む。直後、ぐしゃり……と音がして、冷子の顔面にシオンの膝がめり込んだ。


「キリがないな……」と、美樹がポツリと言った。額や口の端が切れ、白衣(びゃくえ)には赤い花弁の様に血の赤が点々と落ちている。
 美樹は片手で調度品の燭台を三叉槍のように持ちながら、空いた方の手でポケットを探った。そして、ジッポーとタバコを久留美に預けたことを思い出して溜息をついた。
 体力の消耗は激しかった。
 美樹が切断しても切断しても蓮斗の触手は何回も生え変わった。燭台の先端は赤黒い血で濡れ、周囲には蓮斗の肉片が散らばっている。
 玄関ホール中には、蓮斗が階下から吸い上げたガソリンの匂いが充満していた。ガソリンを養分にすることはかなりの負担らしく、蓮斗は定期的に身悶えするように苦しみ、油の匂いのする吐瀉物を吐き続けた。蓮斗の身体は膨張を続け、もはや触手が不規則に生えた卵形の肉塊になっていた。目や口は完全に埋没し、血管が透けて見える灰色のぶよぶよとした肉の塊は、悪い夢に出てくる異世界の怪物を思わせた。
「……死ねないのか?」と、美樹は言った。おそらく再生能力が暴走し、無秩序に新陳代謝を繰り返しているのだろう。
 美樹が燭台を握り直し、再び蓮斗に襲い掛かった。蓮斗は悲鳴をあげ、削げて床に落ちた肉が嫌な匂いを放った。衣服に仕込んでいる釵(さい)や小刀も突き刺すが、ダメージはあるもののすぐさま回復して死ぬ様子はない。疲労から美樹の気が緩んだ瞬間、触手が美樹の胴体に巻きついた。そのまま野球ボールのように投げられ、壁に叩きつけられる。背骨が軋み、身体中の空気が強制的に吐き出された。
「かは……ッ!」
 壁からずり落ち、床にうつ伏せに倒れた。視界の隅に映り込んだドアからは、相変わらず雪が吹き込んでいる。音や痛みといった感覚は、自分の身体ではないように遠く感じた。
 ふと、シオンは大丈夫だろうかと思った。実力でいえば、シオンは間違いなくアンチレジストのトップだ。仮想敵とのトレーニングでは、難易度が最高レベルの相手でも難なく倒してしまう。しかもその明晰な頭脳で、敵の弱点把握と、どこをどう攻めれば効果的にダメージを与えられるかを瞬時に把握する才能も備えている。しかし持ち前の優しい性格から、敵に対しても無意識に手加減してしまう癖があった。弱点や、効果的にダメージを与える方法を瞬時に把握できるからこそ、その才能を逆に使い、あえてそこを攻めずに相手にとって最も苦痛の無い方法で攻撃するスタイルになっている。顔面を攻撃することもほとんど無い。そのため、時として攻撃は決め手を欠き、思わぬ苦戦を強いられることも多かった。冷子が階下に降りてから、どれくらいの時間が経ったのだろう。いつもの癖で手加減をして、窮地に立っていなければいいのだが。
 触手が伸びて、美樹の首と胴体に巻き付いた。そのまま足が床から離れるほどの高さに持ち上げられると、今度は床に叩きつけられた。もう痛みは感じない。再び持ち上げられると、蓮斗の顔が、縦に割れたザクロの様に大きく開いた。褐色の粘膜の中に、人間の歯が無数に生えている。無理やり口を開けているせいで、蓮斗のどこかの骨がパキパキと音を立てた。食べる気か……と美樹は思った。身体はまともに動きそうもない。
「……まぁいい。食え」
 美樹は微かに笑いながら、燭台を床に捨てた。
「お前は私だ、蓮斗。私も少し道を間違えていたら、お前みたいになっていたのかもしれない。私が全てを恨んで、お前みたいな化物にならなかったのは、無数にある未来の可能性のひとつに過ぎない。施設に入って今の親に拾われていなければ、どうせ子供の頃に死んでいたか、お前みたいになっていただろう。誰にも望まれずに生まれた私には、最初から何も無いのだから……」
「そんなことありません!」
 不意に大声が聞こえ、美樹は雪が吹き込んでいるドアに視線を移した。桃色の髪の毛に、白いリボンが見える。
「……久留美?」
「なんでそんな悲しいこと言うんですか! 私や、水泳部や学院のみんなが、どれほど先輩に憧れているのか、なんでわからないんですか! 見た目は少し怖いですけれど、悩みにも親身に相談に乗ってくれて、いつも助けてくれて、すごく格好良くて……そんな先輩が好きだって、私さっき言ったのに、もう忘れちゃったんですか!?」
 久留美は目を瞑って叫ぶと、美樹の元に走った。ドアの外には、思い詰めたような顔をしたシオンの運転手、山岡の姿が見えた。蓮斗が久留美の方を向く。触手の何本かが、久留美に向かって伸びた。
「やめろ!」
 美樹が叫んだ。胴体に巻き付いた触手は緩む気配はない。美樹は本能的に右腕に嵌っている金属製の手甲を外した。
「うおぉぉぉぉ!!」
 美樹は絶叫し、渾身の力で手甲を蓮斗の口内に投げつけた。
 突如体内に侵入した異物に蓮斗が怯む。拘束が緩んだ隙に美樹は触手から抜け出し、久留美の元に走った。
「馬鹿! なぜ戻ってきたんだ!?」
「ごめんなさい……これを見ていたら、もう先輩と会えない気がして……山岡さんに無理を言って……」
 久留美が震える手で、美樹のショートホープとジッポーライターを差し出した。美樹は何回かタバコと久留美の顔を見た後に、そうか、と言って久留美の頭をくしゃっと撫で、タバコとライターを受け取った。美樹の背後から、蓮斗がゆっくりと近づいてくる。
「……走れるか?」と、美樹は蓮斗に背中を向けたまま言った。
「大丈夫です。見た目よりも体力があること、先輩も知ってますよね?」
 久留美が小さくガッツポーズを作った。美樹が微かに笑いながら頷く。
「よし、行くぞ」
 美樹は久留美の手を引きながら、アーチ状の階段を駆け上がった。蓮斗の触手を躱しながら、吹き抜けの二階部分へと移動する。美樹と久留美はバルコニーから階下の蓮斗を見下ろした。
「先輩……いったい何と戦っているんですか……?」
 久留美の身体が小刻みに震えている。落ち着いてようやく事態を把握したのか、異形の怪物に少なからずショックを受けてるようだ。
「蓮斗だ。信じられんと思うが……」
「……えっ? あれが……蓮斗さん?」
 久留美が両手で口を覆った。
「詳細は省くが、奴はもう元には戻れない……。気の毒だとは思うが、楽にしてやろう」
 久留美が美樹を見上げながら、不安げな表情で頷いた。キィンという鋭い金属音を立てて、美樹は片手で器用にジッポーに火をつけた。ショートホープを口に咥え、火を灯す。長い時間をかけて吸い込み、天井に向けて煙を吐いた。久留美はそれを、いつまでも見つめていたいと思った。
「合図をしたら、すぐに私に掴まれ」と、美樹が言った。
 蓮斗がバルコニーの二人に向かって、ゆっくりと触手を伸ばしはじめた。
 美樹が紫煙を長く吐きながら、火のついたタバコを人差し指と中指で弾いた。タバコはまるで意志の強い蛍のように、赤い残像を残して蓮斗に向かってまっすぐ降りていった。
「掴まれ!」
 美樹が言うと同時に、低い着火音が響いた。
 蓮斗から滲み出たガソリンにタバコの火が引火し、火柱が天井に向かって伸びる。
 久留美は夢中で美樹の胸に飛び込んだ。美樹はそのまま久留美を抱き抱え、背後の窓を破って屋外に飛んだ。
 池の底から響くような蓮斗の悲鳴がホールに反響する。
 美樹が久留美を庇ったまま、屋外の地面に背中から落下した。分厚く積もった雪がクッションになり、思ったほど衝撃は強くなかった。
 建物内部は真っ赤に燃え上がり、ステンドグラスが割れて蓮斗の悲鳴が外まで響いてきた。美樹と久留美は炎に照らされたまま、しばし茫然とその光景を眺めていた。蓮斗の悲鳴は徐々に小さくなり、やがて炎が建物を舐める音だけが残った。
「……あれ? 山岡さんは?」と、言いながら久留美が周囲を見回した。どこかに避難したのか、姿が見えない。火はホールの天井に燃え移り、太い梁が燃える音が聞こえてきた。
 美樹はハッと気がついた。シオンがまだ中にいる。建物が崩れる前に連れ出さないと危ない。美樹は久留美にすぐに戻ると言いながら、燃え盛る建物の中に入った。

 シオンの落ちた穴周辺の炎は薄く、美樹は迷うことなく飛び込んだ。階下まで炎が回っていないのは幸いだった。レトロな作りの上物に比べて、穴の真下の部屋は遺棄された広い手術室のような作りで、不気味に静まり返っていた。
「……なんだ、これは?」
 着地した瞬間、美樹は目の前の光景に戸惑い、そのままの姿勢で静止した。
 リノリウムの床に、灰色の内臓のようなものがぶちまけられている。それはぬらぬらと光って、今まさに動物から引きづり出したかのように新しかった。
 美樹は注意しながら近づくと、それは内臓ではなく、触手の塊だった。死んでいるのだろうか、ぴくりとも動かない。所々が肌色に変色していて、その部分だけ人間の皮膚のような質感になっていた。
 肌色の部分は、例外なく硬いものがぶつかったような跡があり、折れたり曲がったりしていた。中から骨が飛び出している箇所もあった。先端が人の頭ほどの大きさに膨らんでいる部分は特に損傷が酷かった。それは、なにか硬いものを何回もぶつけられたように全体がボコボコと窪んで、元の形がわからなくなるほど酷く歪な形をしていた。人の顔のようにも見えたが、崩れ過ぎていて確証が持てない。
 肉塊のそばにハンカチほどの大きさの白い布が落ちていたので、美樹はそれを拾い上げた。上質なシルクで、細かいフリルと織り模様が施されている。
 シオンのヘッドドレスだった。
「まさか、これは……冷子か?」
 美樹が触手の塊を見ながら、呟くように言った。いや、おかしい。損傷が激しすぎる。シオンと闘っていたはずだが、シオンがこれほどえげつない攻撃をするはずが無い。
 直後、天井が崩れる音が聞こえた。
 美樹はヘッドドレスをスカートのポケットにしまい、落ちてきた穴を通って地上に急いだ。ホールには動かなくなった蓮斗がいた。炎は勢いが止まらず、中心の蓮斗は焦げた泥団子のように見えた。火が回った床の一部が崩れ、先ほどまで美樹がいた部屋の真上の床が崩落した。地下の触手の塊も炎に包まれたことだろう。炎は天井にも延焼し、建物全体がいつ崩れてもおかしくない状況だ。
 建物を出ると、美樹は久留美の手を引いて、自分のバイクが止めてある門まで急いだ。
「寒いと思うが、少し我慢してくれ」と、言いながら美樹はバイクに掛けてあった自分のライダースジャケットを久留美に着せた。
 久留美はバイクに跨った美樹の後ろに座り、しっかりと美樹の腰に腕を回した。バイクのエンジンが低音の唸りを上げる。美樹は久留美にヘルメットを被せると、雪煙を巻き上げながらバイクを走らせた。


 長い金髪が吹雪に踊っている。
 レクサスの後部座席のドアに手をかけながら、山岡が腰を九十度に曲げて待機している。
「……お待ちしておりました」
 山岡が言った。その声は寒さと緊張で微かに震えている。
「ノイズ・ラスプーチナ様……」
 山岡がタイミングを見計らって後部座席を開け、客人が乗り込むのと確認すると、細心の注意を払いながら静かにドアを閉めた。自分も素早く運転席に乗り込む。
「……実際にお会いするのは、初めてかしら?」
 運転席の座席を足先でなぞられている感触があり、山岡の背中がぞくりと粟立った。震える手でギアを入れ、アクセルを吹かす。
「行き先は……そうね──」
 氷の上を流れる冷気のような声だった。
 かしこまりました、と山岡は絞り出すように言った。背後で孤児院の建物が崩れ落ちる音が聞こえた。


 モスクワからの飛行機は、定刻を少し遅れて成田空港に到着した。
 ビジネスクラスの優先対応を受けながら、ゴシックアンドロリータのワンピースを着た少女がゲートを通過した。つまらなそうにチュッパチャプスをコロコロと咥えながら、黒いスカートのポケットに両手を突っ込み、ジト目で周囲を見回しながら歩いている。厚底の靴を履いているが背は低く、まだ子供と言っても差し支えない雰囲気だ。
「……国は狭いのに、空港は大きいのね」と、少女はロシア語で呟いた。
 赤いリボンでツーサイドアップに結ったプラチナブロンドの髪が歩くたびに揺れ、エメラルドグリーンの瞳は強気な印象を放っている。その目立つ姿に、すれ違う乗客の多くが振り返っている。上から下まで西洋人形のような完璧な格好だが、なぜか片方のリボンだけがやけに古ぼけていた。
「待っててね……お姉様」
 少女は自分にしか聞こえない声で囁くと、タクシー乗り場に向かって足を速めた。

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