Яoom ИumbeR_55

Яoom ИumbeR_55は「男性→女性への腹パンチ」を主に扱う小説サークルです。未成年の方、現実とフィクションの区別のつかない方は閲覧しないでください。

NOIZ7のコピー


 綾がベッドの上に身を起こそうとすると、ノイズに蹂躙された内臓が悲鳴を上げた。「うぶッ!?」とえずいて口元と腹を押さえ、ビデオの一時停止を押したように固まる。内臓がギュルギュルと音を立てて、捻れるように痛んだ。鷺沢がベッドに駆け寄り、綾の身体を支えた。
 医務室の中央では憔悴しきった男性戦闘員が丸椅子に座っている。美樹は壁に寄り掛かって腕を組み、スノウは部屋の隅の椅子に座ったまま、両手で頭を抱えていた。
「あの女は会議室に突然現れたんです……」と、男性戦闘員が何も無い床をじっと見つめたまま話し始めた。「現れたと言っても、ドアを開けて入ってきたのではありません。我々が着席して会議が始まるのを待っていると、まるで最初からずっとそこにいたかのように、いつの間にか部屋の隅の椅子に座っていたんです。もちろんざわつきましたが、如月シオン上級戦闘員が戻ってこられたと喜ぶ者もいました。その中の一人が駆け寄り、次の瞬間に崩れ落ちるように倒れたんです。なにが起きたのか、誰もわかりませんでした……」
「会議なんて予定されていなかっただろう」と鷺沢が険しい顔をして言った。
 戦闘員は首を振った。「ファーザーの声で放送がありました。本部に残っている戦闘員は、直ちに中央会議室に集合するようにと。半年振りのファーザーの指示に驚きましたが──」
 怪我人は男女合わせて十八名に及んでいて、そのほとんどは綾と同じように一撃で戦闘不能にされたそうだ。上級戦闘員ですら一撃で倒され、残った一般戦闘員やオペレーターは手も足も出ず、蜘蛛の子を散らすように逃げ隠れたらしい。男性戦闘員が医務室から出ていくと、不安そうに医務室を覗き込むオペレーターや一般戦闘員の姿が目に入った。鷺沢は廊下に出て、残った戦闘員は自分の持ち場で待機し、オペレーターはなるべく一箇所に固まるように指示した。
「──なにがどうなっているのか、話してもらうぞ」
 美樹がスノウに言った。問い詰めるのではなく、語りかけるような口調だった。「ノイズ・ラスプーチナと言ったな。あれはシオンなのか?」
 美樹の言葉に、スノウは黙って首を振った。
「あれは、お姉様じゃない……」
 暗い声でスノウが言った。
「じゃあ誰なんだ? お前のもう一人の姉か? それとも親戚か?」
 スノウはまた首を振った。なにかを言おうとして息を吸い込み、ため息を吐くのを繰り返した。やがて決意したように顔を上げた。
「もう全部話すわ……あれは以前お姉様の中にいた、もう一人の人格なのよ……」
 美樹と鷺沢は顔を見合わせた。綾も驚いた顔をしている。
「……なんだその安っぽい漫画みたいは話は」と、美樹が呆れたように言った。「あいつとの付き合いは二年になるが、そんな気配は全く無かったぞ」
「付き合って二年……? じゃあ美樹はお姉様の何を知っているの?」と言いながら、スノウは美樹を睨んだ。「おかしいと思わなかったの? お姉様ほど聡明で、自分で言うもの何だけど世界的企業の長女が、理由もなく遠く離れた日本で一人暮らししているわけないじゃない! それこそ安っぽい漫画みたいな設定だわ。お姉様に及ばない私ですら飛び級で大学を卒業しているのよ? お姉様ほどの人が今だに日本で高校に通っているなんて、アスクレピオスとラスプーチナ家にとってはとんでもない機会損失よ!」
 スノウは一気に捲し立てた後、下を向いて首を振った。
「──ごめんなさい。人が踏み込んでほしくない領域には踏み込まない……美樹は昨日言ってたわよね。知らなくて当然だわ……」
「その踏み込んでほしくない領域が、とんでもない機会損失を受け入れてまでシオンが日本にいる理由なんだな?」
 美樹の言葉に、スノウが頷いた。
「……お姉様はね……お父様を殺してしまったのよ」
 スノウが震えながら絞り出した言葉に、三人は絶句した。
 綾が呻きながらベッドから降りた。
 鷺沢と美樹が慌てて止めたが、綾は振り切って肩で息をしながらスノウを睨んだ。
「何よそれ……? シオンさんがそんなことするわけないでしょ!?」
「不幸な事故だったのよ!」
 スノウが叫んだ。目に涙を浮かべながら歯を食いしばっている。「お父様はとても忙しい方で、その日は半年ぶりに家に帰ってきたの。両手にプレゼントを抱えて、私達を驚かせようとこっそりと階段を上って来た。そして喜んだお姉様がお父様に抱きついたの……。お父様はバランスを崩して、階段からお姉様と一緒に落ちてしまった。お父様はお姉様を庇って、自分をクッションにして守ったんだけど、大理石の床に後頭部を強く打って……。不幸な事故よ……私はもちろん、家族は誰もお姉様を責めなかった……。対外発表では、お父様は一人で足を滑らせたことになっているわ……今でもね」
 医務室の中は水を打ったように静かになった。
 「綾の言う通りよ……私だってそう思ってる」とスノウがポツリと言った。「お姉様がそんなことするわけない……。あれは不幸な偶然が重なってしまった事故なのよ。私も家族ももちろん強いショックを受けたけれど、でもお姉様のせいにはしなかった……。何回も言うけれど、これは事故なのよ。でもお姉様だけはそう思わなかった……。自分がお父様を殺したんだと、お姉様は自分を許さなかった。お姉様はそれはもうひどく落ち込み、ベッドから起きられず、食事も摂れない状態になった。そして数日後に意識を失って倒れたの」
 冬の海のような沈黙はまだ部屋を支配している。
 スノウは涙を袖で拭うと、話を続けた。
「生まれた時から『良い子』『良い子』と周囲から言われ、期待され、自分自身もそうあろうと努力してきたお姉様が犯した最大のタブー。お姉様はそれを受け止めきれなかった……。そして、病院のベッドで目が覚めたお姉様は、事故のことはなにも覚えていなかった。何事もなかったかのように、いつもの明るいお姉様に戻っていて、なぜ自分が病院にいるのかすらわかっていなかった。私達家族はむしろ好都合だと思って、対外発表と同じ内容をお姉様に伝えた……。でも、なにも解決していなかったの……。お姉様はちゃんと覚えていた……お父様の死の記憶と真実を、別の人格に移しただけだった……」
「その移された人格というのが、さっき綾を襲った女か……」
 美樹の言葉に、スノウは苦い顔をして頷いた。
「……お姉様は自分の中に、自分ではない『悪い子』を造ってしまったの。それ以来、お姉様の様子が時々おかしくなった。『悪い子』のノイズが表に現れてくるようになった。私はお姉様じゃないってすぐにわかったわ。お母様はすぐに専門の医者を雇って、医者の提案でお姉様を、お父様の死を想起させるラスプーチナ家から遠ざけることに決めた。ラスプーチナ性ではなくお母様の如月性を名乗らせて、日本のお母様の実家に住まわせて、アナスタシア聖書学院の初等部に編入させたの。雇った医者が優秀だったみたいで、日本に行く前の段階でノイズはすっかり出てこなくなった。医者はノイズが消滅するのは時間の問題だけれど、念のために高校を卒業するまではお姉様は日本で暮らしたほうがいいと言ったわ。これがお姉様が日本にいる理由……」
 綾はやるせないような表情を浮かべままま壁を叩いた。「過去に何があったって、シオンさんはシオンさんじゃない……」
 そうだな、と美樹も暗い顔で言った。
「だが、少しわからないな」と、美樹は腕を組んで言った。「今の話だと、日本に来る前にノイズはほとんど消滅しかかっていたんだろう? シオンが高校卒業まで日本に滞在するのはあくまでも保険的な措置で、問題はほぼ解決していたはずだ。さっきも言ったが、私はこの二年間、シオンがそんな問題を抱えているなどとは微塵も思わなかった。お前だって来日するたびにシオンの家に泊まったんだろう? シオンにおかしいところがあればすぐに気が付いたはずだ。なぜ消えたはずのノイズが存在しているんだ?」
 スノウは、わからないと言って首を振った。「私にも、正直お姉様になにが起きているのかわからないの……。そもそもこんなに長い時間ノイズが出現し続けていることすらあり得なかった。子供の頃ですら、長くても一時間程度しか出現しなかった……。私は来日前からあらゆる可能性を考えたけれど、でもあれはノイズで間違いないわ。あの恐ろしい笑顔は子供の頃に見たままだったし、ノイズは『良い子』と『悪い子』という区別にとてもこだわっていたから……」
「なるほど。そういえば私にも『悪い子』だとか言ってきたな……」と言いながら、美樹は目を瞑って鼻筋を揉んだ。
「私がノイズの出現に気が付いたのは二週間くらい前。アスクレピオスの財務システムにハッキングがあったの。気がついたのは私だけ。大型の投資案件に紛れ込ませた不正融資で、融資先は日本のレイズ社だった。アスクレピオスの中では話題にすら上がっていなかった会社よ。詳しく調べたら、半年前お姉様が行方不明になった直後から不正融資は始まっていて、多くの国や衛星を経由していたけれど、どうやらお姉様の部屋のパソコンからアクセスされているみたいだった。私は誰にも言わず、社内でレイズ社との業務提携の稟議を通して日本に来た。業務提携するつもりなんて最初から無かったわ。私がレイズ社に接触すれば、お姉様といずれ会えるかもしれないと思って……。レイズ社が予想以上に提携に乗り気で、中身が乏しい会社だったのは計算外だったけどね」
「しかし、ノイズは一体なにをしようとしているんでしょうか? そんなウイスキーメーカーに資金提供しても、ノイズ自身にメリットは無い気がしますが」
 鷺沢の言葉に、スノウも首を振った。
「私にもわからない……。ただ、これだけははっきり言える」
 スノウが顔を上げて、全員を見回しながら震える声で言った。
「……ノイズはお姉様の頭脳と身体をそのまま使えるの。ノイズが何の考えも無しに動いているとは思えない。絶対に何か意味と計算があって行動しているはず……。今日、私達の前に姿を現したのも、そもそも私に不正融資を発見させたのも、計算があっての行動だと思う」
「如月上級戦闘員と同じ……」と、鷺沢が顎に手を当てて言った。「会議室では私を含め、誰もノイズの動きを把握できませでした。あれは全員の死角を一瞬で把握し、共通する死角の中を移動しているんです。如月上級戦闘員の桁外れな頭脳と身体能力が合わさらないと出来ない芸当です。また、如月上級戦闘員は今まで相手を必要以上に傷つけることがないように、相手の急所をあえて外して一撃で倒す戦闘スタイルでした。でもそれは逆に言えば、相手の急所を一瞬で把握できる能力があるからこそ可能なんです。先ほど神崎上級戦闘員が倒された時のように、その気になれば相手に最大限の苦痛を与えることが出来るということに他なりません」
「仮にノイズと戦闘になったら、本気になったシオンが頭脳と能力とフル活用して、手加減無しに襲ってくるということか……」と、美樹がこめかみを揉みながらがら首を振った。「心強い味方ほど、敵に回ると恐ろしいものだな」
「まだ敵に回ったと決まった訳じゃないじゃないですか」と、綾が言った。
 その時、微かに地鳴りのような音が聞こえた。
 全員が無意識に天井を見上げた。
 一瞬置いて、緊急事態を告げる警報が鳴り響いた。
 鷺沢が通路に走った。
 ドアの向こうでは戦闘員達が慌ただしく走っている。
 鷺沢が一人を呼び止めて事情を聞いた。首都高側の入り口に、何者かが車で突っ込んだらしいと男性の戦闘員は言った。「緊急用のシャッターが下されているので、中に入っては来られないはずです。しかし警備担当の報告によると、ロータリーには体当たりした車がまだ残っているそうです」
 鷺沢はすぐにスマートフォンから館内放送を通じて指示を出した。綾はベッドから降りて、パジャマのまま戦闘用のグローブをはめている。「まだ無理だ」と制止する美樹に対して「寝ていられない!」と首を振り、吸入器を口に咥えて緊急用の噴霧式麻酔薬を吸った。
 スノウも医務室を出ようとして走った。
「お前はここにいろ!」と、美樹がスノウの肩を掴んだ。
 警報は相変わらずけたたましく鳴り響いている。
「来たのはノイズの関係者で間違いない! ノイズ本人だっているかもしれない! ノイズがいるということは、お姉様だってそこにいるのよ!」
 スノウが険しい顔をして美樹を振り返りながら言った。素直に言うことを聞くとは思えない勢いだった。仕方なく、スノウを含めた四人で首都高側の入り口に向かった。閉鎖されているシャッターの内側には、十人ほどの戦闘員が待機していた。
「報告します」と、紺色の競泳水着のような戦闘服に、太ももや二の腕までを覆う黒いサポーターを身につけた小柄な女の子が、敬礼しながら鷺沢の前に歩み出た。肩まである黒髪で、背はスノウと同じく150センチほどしかない。顔つきは身体のイメージ通り幼いが、表情は責任感に満ちている。
「朝比奈(あさひな)戦闘員」と、鷺沢は言った。
「はい。この中では私が最もランクが高いので、僭越ながらこの持ち場は私が取りまとめをしています。不審車両は二台。まだシャッターの外で待機しています」
 ハキハキとした口調で朝比奈が報告した。下手したら中学生に見える容姿からは想像できないほどの責任感のある口調だった。
 鷺沢が頷いて、その場の全員を見回した。「よし、これからシャッターを開ける。表に出るのは私と鷹宮上級戦闘員、そして朝比奈戦闘員だ。他の人間は内側で待機。神崎上級戦闘員、どうだ?」
「いけます」と、綾が答えて、拳と掌を合わせた。「麻酔が効いているだけだ、無理はするな」と鷺沢が言った。
「私も出る」と、スノウが進み出た。何かを言いかけた美樹を手をあげて制した。「わかってる。でも行かせて。私はお姉様が帰ってくるのなら、なんだってするわ」
 何かあったらすぐにシャッターを閉じろと鷺沢が言って、一人が通れるギリギリの幅で両開きのシャッターが開かれた。
 車から見て左から朝比奈、鷺沢、美樹、スノウ、綾の順番で横並びになる。
 黒塗りの車が二台停まっていて、車種は最新式のトヨタのセンチュリーとクラウンだった。クラウンにはプッシュバンパーが取り付けられている。こちらが体当たりした車体なのだろう。運転手はまだ乗っているらしいが、車内が暗くよくわからない。やがてセンチュリーの助手席が開き、黒いスーツを着た男が降りて後部座席を開けた。
 ドアの開いた後部座席から、ひときわシワだらけのスーツを着た男が難儀そうに降りてきた。
 かなりの肥満体で、清潔感がない容姿をしていた。
「まさか、賎妖か?」と、鷺沢が眉を潜めて言った。
 後部座席から降りた男が、両手を広げて歩み寄ってきた。
 鷺沢達が身構える。
「あっ」と、スノウが声を出した。
 車から降りてきたのは、三神の秘書を勤めている自らを「豚」と名乗った男だった。

NOIZの前編はあと2〜3話程度を予定しているのですが、今後のストーリーを調整する必要が出てきたため、更新ペースが少しゆっくりになります。
お待たせして申し訳ありませんが、どうか飽きずに読んでいただければ嬉しいです。
よろしくお願いいたします。

姉妹2のコピー

 スノウの所有するロシア製の高級車「アウルス」は静かに首都高を疾走した。
 前方を走る鷺沢の乗った車を追いながら、助手席の美樹が運転手に細かい指示を出している。
 後部座席には綾とスノウが座っている。空間は十分な広さがあり、座り心地は恐ろしく快適で、まるでリビングがそのまま移動しているようだ。しかしスノウはずっと親指の爪を噛みながら身をかがめ、険しい顔をしている。
「大丈夫?」と綾がスノウに聞いた。「車出してもらってなんだけど、私達を下ろしたらすぐにホテルに帰ったほうがいいわ。別にあんたが嫌いとか、意地悪とかで言っているんじゃないの。単純に危険なのよ。アンチレジストの本部に何者かが侵入したなんて前代未聞だし、鷺沢さんの話だと結構な被害も出ているみたい。もし強力な敵がいたら、私や美樹さんでも守れないかもしれない。悪いことは言わないから、本部に着いたらすぐに帰ること。わかった?」
 綾も美樹も、それぞれセーラー服と巫女服を模した戦闘服に着替えている。
 本部に侵入した敵がまだ居座っているとしたら戦闘は避けられない。それ以前に厳重にセキュリティがかけられているアンチレジスト本部に侵入できる敵とは、一体何者なのか。
 スノウは「わからない」と言って首を振った。顔色が悪い。「あまり見くびらないで。私やお姉様は一般人に比べて狙われる危険性が高いから、いざとなったら自分で自分の身を守れる術は子供の頃から身につけている。こう見えても結構強いのよ? 信じられないのなら一度手合わせしてみる?」
「強がってる場合じゃないでしょ? 相手は人妖かもしれないのよ? 誘拐犯なんかとは訳が違う、人間離れした怪物なのよ?」
 スノウは追い詰められたような表情のまま、何も言わずに窓の外に視線を移した。
 車は首都高の地下トンネルに入り、緊急車両用と書かれているシャッターの前で停まった。鷺沢が車から降りて、隣に埋め込まれたパネルに手をかざすと、自動でシャッターが開いた。内部はオレンジ色の照明が等間隔に配置されたトンネルが続いている。しばらく走るとロータリーのような場所に出て、その先はコンクリートの壁で行き止まりになっている。マイクロバスのような車と、数台の乗用車以外は何も無い。
 美樹が「着いたぞ。アンチレジストの本部だ」と言って助手席から降りた。どう見ても行き止まりだ。スノウも戸惑いながら車から降りる。
 鷺沢が壁の一部に掌を当てると、壁の中央が左右に開いて入り口が現れた。先ほどのシャッターと同じ仕組みだ。
 四人が中に入る。
 内部もこれといった装飾はなく、外壁と同じコンクリート剥き出しの壁が一直線に伸びている。左右にはグレーに塗装された鉄製の扉が多数あるだけだ。
 荒らされた様子はないが、静まり返っている。
 綾と美樹が視線を合わせて頷いた。綾が先頭に、美樹が最後尾に立って、鷺沢とスノウを挟むように一列になって進んだ。
「まるで一昔前の生物研究所みたい……」と、スノウがしんがりを歩く美樹を振り返って言った。
「一昔前どころか本当に古い」と、美樹が言った。「だが、今回のような場合には役に立つ。内部は一本道で、見ての通り極力遮蔽物を無くしている。敵が隠れられないようにな。出入口は今入ってきた所と、この通路の突き当たりの二箇所のみで、一本のチューブのような構造だ。だからこの隊列が襲われたときに最も対処しやすい」
「車が随分と少ないように思えたけど?」と、スノウが言った。
「隊員の多くは地上の隠し通路から入っている。地下鉄の駅やビルの中に直通している通路があって、ロータリーの手前に出られる。私も車で来たのは久しぶりだ」
「ドアの中の設備は新しいんですよ」と、鷺沢が言った。「ここまで閉塞感があると職員のメンタルにも影響しますから、会議室やトレーニングルームの内装には気を使っています」
 静かに、と先頭を歩く綾が言った。
 微かに呻き声のようなものが聞こえてくる。
「中央会議室だな」と、美樹が言った。視線の先に木製のドアがある。
 綾が慎重にドアを開けた。
 三十人ほどが入れそうな会議室だが、コンピューターが床の上に落ち、椅子や机が散乱している。倒れている戦闘員やオペレーターの姿が目に入った。四人がそれぞれ駆け寄って介抱すると、いずれも致命傷ではないようだ。
 突然、天井に埋め込まれたスピーカーが起動した。
 ──遅かったな。
 機械加工された男性の声。
 聞き慣れた声だ。
「ファーザー?」と鷺沢がつぶやいた。
 四人は無言で天井を見上げた。
 ──アンチレジストがここまで不甲斐無いとは思わなかった。人妖相手に、よく今まで持ち堪えられたものだ。
 鷺沢が天井に向かって叫んだ。「ファーザー、どこにいるんです?! みんなあなたを待っていたのに、そんな他人事みたいに……」
 ファーザーは低い声で笑った。
 スノウはガタガタと震えている。
 異様な怖がり方だ。
 歯がガチガチと鳴り、その音は近くにいた綾にまで聞こえた。綾が気がついて、スノウの手を握った。
「どうしたの? 大丈夫?」
 綾が問いかけても、スノウは戦慄したままだ。こんなスノウの姿を見たのは初めてだった。美樹と鷺沢もスノウのただならぬ様子に気が付き、近くに駆け寄った。美樹が屈んでスノウに目の高さを合わせて「どうした?」と聞いた。
「な……なんで」と、スノウが震える声で言った。
 スノウは両手で頭を抱える。「なんでファーザーシステムが起動しているの……? こっちから操作できなくなったはずなのに……」
「……なんだと?」と美樹が言った。
 スノウは小刻みに首を振った。歯が鳴らないように、必死に歯を食いしばっている。
 ──あら? スノウもいるの?
 スノウの顔から、ふっと表情が消えた。
 突然地面が消えて、自分が奈落に落ちていくのを理解した瞬間のような顔をしていた。
 突然ファーザーが女性のような口調になったので、スノウ以外の三人は目を見合わせた。
 スピーカーに一瞬ノイズが走り、プツンと音を立てて通話が途切れた。
 会議室は水を打ったように静かになった。
 事態が把握できない。
 今のは一体何なんだ。
 やがて、コツコツという足音が廊下に響いてきた。
 こちらに向かってくる。
 誰も口を開かず、押し黙ったまま会議室の入り口を凝視した。
 人影が現れた。
「……シオンさん?」
 綾が呟くように言った。
 その人は、胸元の大きく開いた黒いドレスを着ていた。ぬめるような光沢の、最高級のシルクが使用されていることがひと目でわかる。赤いエナメルのヒールから黒いガーターベルトの付いたストッキングが伸び、ドレスの中に続いている。深紅のジャケットを半脱ぎにして腕に掛け、両手には黒いレースの手袋をはめていた。そして、所々に血のような赤い毛がマダラに混ざった長い金髪を、ツインテールにまとめている。
「お前……なにをしている?」
 美樹が幽霊を見たような口調で言った。
「や……やっぱりあんたの仕業だったのね!」
 突然スノウが叫んだ。三人が驚いてスノウを振り返る。スノウは両手を血が出るほど握り込み、歯をむき出しにしてドレスの女性を睨んでいた。
「あら? どうしたのスノウ? そんなに怖い顔をして?」
 女性は歌を歌うような柔らかい口調で言った。スノウの取り乱した様子など意に介さず、人差し指で自分の唇を撫でながら首を傾げている。「久しぶりの姉妹の再会なんだから、もう少し喜んでもいいんじゃないかしら?」
「お前は私のお姉様じゃない!」
 スノウは喉が裂けそうなほどの勢いで叫んだ後、憎々しげに食いしばった歯の隙間から「……ノイズ・ラスプーチナ」と絞り出すように言った。
「ノイズ・ラスプーチナ? シオンじゃないのか?」
 美樹がスノウからノイズに視線を移した。服装や髪の色以外はシオンそっくりだが、表情や雰囲気がまるで違う。ノイズはゆっくりと室内に入ってきた。
「シオンさん何やってるの?! みんな心配してたのよ!」と言いながら、綾がノイズに近づいた。
「綾!? ダメ!」とスノウが叫ぶ。
 ノイズの姿が一瞬で消えた。
 四人が呆気に取られる暇もなく、ゴリュッ……という嫌な音が室内に響いた。
 再び姿を現したノイズは綾のセーラー服のリボンを掴み、前屈みになった綾の腹に膝を打ち込んでいた。
「──ぐぷっ!?」と、綾の口から水っぽい音が漏れた。
 ノイズは「くふっ」と小さく笑うと、綾の腹に打ち込んだ膝を別の生き物のようにねじり、胃と肝臓をすり潰すように掻き回した。ぐぢゅり……という厭な音と共に、綾の身体が電気に打たれたようにビクンと痙攣した。
「ぎゅぶえッ?! げぅッ?! ゔぶっ……う……うぶえろおぉぉぉぉ……!!」
 綾は膝から崩れ落ち、額を床にしたたかに打ち付けた。そのまま床にエビのように丸まり、白目を剥いたまま嘔吐した。一瞬で急所という急所を同時に潰されたことによる凄まじい苦痛が身体中を駆け巡り、両手で腹を抱えたまま痙攣している。
「まぁ汚い。人前で嘔吐するなんて、私だったら恥ずかしくて生きていけません」
 ノイズは笑みを浮かべたまま口元に手を当て、蔑みの混ざった視線で綾を見下ろした。
 再びノイズの姿が消え、スノウの前に表れた。横切られたはずの美樹と鷺沢にはノイズの姿は見えず、風だけが美樹と鷺沢の髪を揺らした。
 ノイズは中腰になって、真っ青になったスノウの顔に鼻が触れ合うほど自分の顔を近づけた。
「そんなに怖い顔しないで? 大丈夫、スノウの大好きなシオンは、ちゃんと『良い子』にしているわ」
 ノイズが至近距離でスノウの目を覗き込んで首を傾げた。顔は満面の笑みだが、目は全く笑っていない。綺麗なエメラルドグリーンの瞳の下半分は、内出血したように赤色がせり上がっている。シオンと同じく顔の造形が異様に整っているだけに、背筋が凍るような不気味さがあった。
 スノウは恐怖を振り切り、ノイズに向けて蹴りを放った。体幹と重心を固めた、美樹や鷺沢が見ても唸るような見事な蹴りだった。攻撃が当たる前にノイズの姿が消え、スノウの蹴りは空を切った。
 ノイズは机の上に姿を現した。 
 下着が見えるのも構わずしゃがみこんで、「危ないじゃない?」と言いなら自分の小指を蠱惑的に舐めている。
「あら? あなた……」とノイズが嬉しそうな顔をして、スノウから美樹に視線を移した。「良い目をしているわね? 目の奥底が暗いわ。『悪い子』の目……過去になにがあったの?」
 何が嬉しいのか、ノイズは限界まで口元を釣り上げた。
「許さない……絶対に許さない!」と、スノウが叫んだ。
 スノウが美樹の横をすり抜け、ノイズに飛びかかった。跳躍して前転し、ゴシックロリータのスカートを翻してノイズ目掛けて踵落としを仕掛ける。シオンの得意技だ。派手な音を立てて机が割れたが、ノイズの姿は既に消えていた。ノイズはそのまま姿を表さず、床に転がった綾が苦しげに呻く声だけが残った。


※こちらの文章はラフ書きになります。製本時には大きく内容が変わる可能性があります。

NOIZ7

イラストレーターさんが「イラストの息抜きにイラストを描く」というのが最近わかった気がします。
少し前から本編を書く前に筆鳴らしとして、頭を空っぽにして落書きしてから書くようにしています。
現在書いている本編に合わせて、シオンさんとスノウのネタが多めです。

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【コンプレックス】
 スノウがまた会見でやらかしたらしい。
 シオンは自室で頭を抱えながら、ひっきりなしにスマートフォンに流れてくるニュースの見出しを目で追った。
「『私の言う通りにしろ』と威圧的。ロシアの大手製薬会社アスクレピオス創業家の令嬢」
「『プランは全て私が考える』と一喝。提携先立場無し」
 名誉のために言うが、スノウは有能なのだ。
 事実スノウの発案で業務提携した企業のほとんどは最初こそ反発するものの、結果的に当初の目論見以上の成果を挙げ、円満に感謝されて終わることがほどんとである。失敗した提携は決まって相手がスノウに反発し、勝手にプランを書き換えた場合に限っている。
 それに身内の贔屓目ではなく、可愛いところもあるのだ。
 少なくとも姉である自分は慕ってくてれいるようで、来日するたびに自分の所に泊まりに来ては猫のように甘えてくる。好きなゴスロリブランドをに一緒に行くと、子供のようにはしゃぐ。そして私が料理を作ろうとすると「お姉様は休んでて! ここは私がやるから!」と気を使ってくれる健気な面もあるのだ。
 本人からはニュースになっていることなど知ってかしらずか、あと一時間ほどで着きますと可愛い絵文字付きのメールがきた。

「あのねスノウ、発言する時は相手がどう思うか考えてから発言しないと……」
 シオンの声に応える代わりに、スノウはシオンの腰に手を回し、身体に顔を押し付けた。ソファに座ったシオンに膝枕をされたまま抱きついているスノウの姿を見たら、先ほど記者会見でコテンパンにやられた相手企業の役員はなんて思うだろう。
 無意識にシオンもスノウの頭を撫でてしまう。これではまるで甘えている犬だ。
「見えない……」とスノウが静かな声で言った。
「え?」と、シオンが戸惑った声で言った。
「お姉様の顔が見えない! その胸で!」
 胴体の方に顔を向けているスノウが言った。確かにシオンからもスノウの顔が見えない。
「お姉様が私に来るはずだった栄養を全部持っていったのよ……。それに性格だって、本当はお姉様みたいに誰からも好かれる性格になりたかったわ……」
 スノウがさらに強く抱きついた。
 こうやって甘えてくる時は、なにか嫌なことがあったのだろう。
 本社の人間に会見を咎められたのかもしれない。ここは姉として慰めないわけにはいかない。甘えられるだけの存在ではなく、頼れる姿を見せなければ。
「大丈夫よ。スノウは今のままでもとても魅力的だもの」
 本当? と言ってスノウが顔を上げた。うん、可愛い。
「性格や体型なんて簡単に変わるものではないし、自分だけの力ではどうにもならないわ。周囲の環境やサポートがとても重要なの。スノウの責任じゃないわ」
 スノウが起き上がってシオンの横に座った。
「そう……なのかな?」
 スノウが俯いたままポツリと言った。可愛い。
「そうよ。だからまずはちゃんと栄養を摂って、しっかり休息することが大切なの。あまり根を詰めずに、今日くらいはゆっくり休んでね」
「……うん」
 スノウが頷いて、シオンが微笑んだ。
「そうと決まったら、まずはしっかり栄養と摂らないとね!」
「……えっ?」
 スノウの表情があからさまに変わった。
 顔色が悪いスノウに反して、シオンはニコニコしている。「いつも疲れているのにスノウが料理を作ってくれるから、今日はその前に私が頑張って作ったんだから!」
 シオンが胸の前で力強く両手を握った。
 いや……あの……と言い淀むスノウを尻目に、シオンはキッチンに入るとゲル状になった紫色の物体をトレイに乗せて運んできた。しかも表面が真っ黒に焦げている。
 絶句するスノウに、シオンがニコニコしながら言った。
「頑張ってグラタン作ったのよ! タマネギを買い忘れて紫キャベツを使ったからちょっと色が悪いけれど、栄養満点の納豆もちゃんと入って──」
 スノウは意識が遠のくのを感じながら、明日の仕事が全てキャンセルになった場合のスケジュールを考え始めた。


【ロシア人美人コスプレイヤーKZさん】
「へぇ〜、コスプレって文化が日本にはあるんだ……」
 風呂から上がったスノウがソファに寝転びながら呟いた一言に、シオンはぎくりと背中を硬直させた。トレイに載せているティーポットとカップが小刻みに震えている。
「うわ! すご! こんなに人だかりができるの?! お姉様、見て見て!」
 平静を装ってコーナーソファに座ったシオンに、スノウが目を輝かせながらタブレットの画面を見せてきた。こう言う時は子供っぽく可愛いのだが、シオンは内心焦っている。そ、そうね……とつい素っ気ない返事をしながら、スノウの画面を盗み見た。コスプレイヤーを取り囲むカメラマンが黒山の人だかりになっている。前回のコミックマーケットに参加している人気コスプレイヤーを特集したネット記事だ。
 そして視界の隅に見つけてしまった。
 関連記事で表示されている、「話題沸騰! 人気ロシア人コスプレイヤー・KZさんインタビュー ”コスプレはもはや世界的文化” 自身が日本のアニメに衝撃を受けた日を語る」という記事を。
 これはまずい。
 いや、コスプレが人気なのはまずくないが、人気ロシア人コスプレイヤー・KZさんのくだりが非常にまずい。
 スノウは俄然興味が出たらしく、ケーキを食べながら「コミケっていうイベントがあるのね!」などと言っている。まずい。次のコミケに連れて行ってくれなどと言われると非常に困る。なぜならその日シオンはヴァ○パイアシリーズのモ○ガンになる予定なのだ。
「ス、スノウは行っても面白くないかもしれないわよ」と、シオンが言った。声が少し震えている。「私と違ってスノウは漫画やアニメは見ないし、そういうのは元ネタが分からないと……」
「うーん、でもこの人達すごく楽しそうなのよね。楽しそうな人達を見るのは好きだから……」と、スノウが言った。「ほら、私達の国ってなんか硬いじゃない? もしロシアで開催できれば、そういうイメージも少しは薄まると思うし、なにより潜在的な需要があるのかも……」
 まずい、スノウがビジネスの顔になってきた。
 母国開催するなどと言い出したら、需要調査として日本のコスプレイベントのために来日する外国人の数を調査するだろう。カメラマンはもちろん、自らコスプレ参加している外国人も調査するはずだ。人気ロシア人コスプレイヤー・KZさんなど真っ先にスノウの目に留まる。
「……よかったら、今度一緒に行ってみる?」と、シオンが言った。
「えっ? いいの?!」
 スノウが目を輝かせた。
 やむを得ない。
 コスプレをしていた程度でスノウがシオンを嫌いになることはありえないが、どうせバレるのなら、バレ方というものがある。それに吸血鬼は、相手を噛むことで仲間を増やすと言うではないか。
 そう、モリガ○には、リ○スという妹がいるのだ。
 体型的にもピッタリだろう。
 呑気に喜ぶスノウを見て、シオンは犬歯を見せて笑った。


【前衛芸術】
「や……やっと出来ました……」
 シオンがヘナヘナとキッチンの床に座り込んだ。肩で息をしながら、近くにあったミネラルウォーターを煽るように飲む。床には黒いチョコレートの破片や、爆発して飛び散ったクリームが散乱していた。とりえあえず大きな破片はひょいひょいと手でつまみ、クリームは布巾で簡単い拭いた。あとはフラーバとルンバに任せればいい。
 呼吸が整い、ようやく立ち上がると、ゴムでひとつに留めた長い金髪を解く。
「素晴らしい……。これで、もう料理下手なんて言わせないですよ……。ふふ……ふ……」
 シオンにしては珍しく、まるでマッドサイエンティストのような邪悪な笑みを浮かべている。
 システムキッチンの上には、便宜上チョコレートケーキと呼ばれるべき物体が置かれていた。
 その物体はチョコレートケーキのような色と大きさをしているが、形状はなんとも名状し難く破壊的であった。茶色いレンガのような物体は所々が爆発したように弾け、白いクリーム状の液体がものすごい勢いで叩きつけられいる。叩きつけ方もなんとも邪悪である。現在ではすっかり見なくなったが、昭和のバラエティ番組などで「パイ投げ」と称し、皿に盛られたクリームを相手の顔目掛けて投げ合うことがあったが、このクリームの叩きつけ方はまさにそれだ。
 夫婦喧嘩をした陶芸家が、自らの作品に八つ当たりをしたのなら、もしかしたらこんな作品ができるのかもしれない。その物体の前に「妻への怒り」と作品名の書かれたプレートを置けば、何人かの専門家はあるいは感動するだろう。もしくは新進気鋭な前衛芸術家の作品のようにも見える。サザビーズに出品したのなら、あるいは数億円の値がつくのかもしれない。
 しかしシオンはその物体を丁寧に梱包し(梱包は至極綺麗であった)、綾と美樹に電話をかけた。チョコレートケーキを作ったので、一緒に食べませんか? などと訳のわからない言っている。この部屋には「妻への怒り」、もしくは前衛芸術作品はあるが、チョコレートケーキなど無いなずなのに。
 一時間ほどして、美樹と綾が部屋に現れた。
 綾はお守りを両手で握りしめ、目に涙を溜めて内股になって震えている。美樹はなぜか白装束を着て、虚空を見つめて祝詞を唱えていた。まさかこの格好でバイクに乗ってきたのだろうか。
 キッチンの方ではルンバとフラーバが喧嘩するように床を掃除している。

予告


 シオンのマンションを訪れた翌日、綾と美樹は指定された午後六時にスノウの宿泊しているホテルを訪れた。
 海外の要人が宿泊するホテルで、スノウの滞在しているスイートフロアには着物を着た専属のアテンダントがいて、綾と美樹をエレベーターから部屋まで案内してくれた。ドアをノックすると、会見に同席していたスノウの秘書がドアを開けて出迎え、お待ちしておりましたと流暢な日本語で言った。
 室内は家族向けのマンションのように広く、歴史を感じる英国調のインテリアでまとめられていた。秘書がリビングに案内すると、スノウは相変わらずゴシックロリータの服を着て、執務机で真剣な顔をしながらパソコンを操作していた。パソコンの隣には部屋の雰囲気にそぐわないカラフルなチュッパチャプスのホイールディスプレイが置かれていて、スノウが既に食べたのか、三分の一ほどが無くなっている。
「そこに座ってて」とスノウがパソコンのディスプレイを見たままぶっきらぼうに言い、ロシア語で秘書になにやら指示を出した。秘書が二人にソファを勧めると同時に、ルームサービスが三人分の紅茶を持って部屋に入ってきた。紅茶の他に小皿が二つあり、イチジクのジャムと小さなスプーンが添えられている。シオンが好きだった組み合わせだと綾は思い、胸が詰まるような感覚を覚えた。
 秘書が一礼して別室に移動すると、三人はしばらく無言になり、スノウがキーボードを叩くカタカタという音だけが広いリビングに響いた。スノウは真剣に仕事をしているらしく、時々何か呟きながら画面を見つめ、英語で二本、ロシア語で一本、電話をかけた。ディスプレイから覗くスノウの真剣な顔が青白い光に照らされている。まるで人形が座っているように見えた。シオンも人間離れした現実感が無い容姿をしていたが、スノウも同様に、どこか遠い世界の存在のように思えた。
「電話の内容を聞くに、海外支社の財務諸表を照合しているらしいな」と、スノウの英語を聞き取った美樹が綾に耳打ちした。「相手を雑に扱うポーズをすることは主導権を握るための常套手段だが、どうやら本当に急用らしい。急かさない方がいいだろう」
 しばらくして、スノウが椅子に座ったまま伸びをした。仕事が終わったらしい。スノウはまるでマニ車のようにチュッパチャプスのホイールディスプレイを回し、くじ引きをするように一本を引き出して、慣れた手つきで包み紙を解いて口に咥えた。一日の仕事を終える際に毎回行うルーティンなのか、あまりにも滑らかな動作だった。スノウはチュッパチャプスを口に咥えたままソファに歩み寄り、「悪かったわね。こっちから呼んだのに待たせちゃって」と二人に言った。
 スノウは二人に向かい合って座ると、背もたれに身体を預けてストレッチをするように背中をそらしながら、親指と人差し指で目頭を揉んだ。
「随分と疲れているみたいだな」と、美樹が言った。
 スノウは首を振った。「別にいつも通りよ。やることをやるだけ。まぁ、確かに少し立て込んではいるけどね……」
 強がってはいるが、スノウは明らかに疲労の色が見て取れた。綾と美樹も十分に若いが、スノウはそれよりもはるかに若く、身体も小さいのだ(本人に言うと怒るはずだが)。世界的企業の中枢に属し、海外で商談をまとめるなど、その小さな身体にかかっている重圧はいかほどのものかと二人は思った。もちろんそれに見合うはずの収入は得ているはずだが、スノウの年齢からすればそれは大して重要ではないのかもしれない。
「ウイスキーの業務提携の話は順調なのか?」
 美樹の言葉に、スノウは紅茶を飲みながら首を振った。
「順調もなにも、昨日決裂したわ」
 まるで一度も訪れたことがない店の閉店を告げるような、あっさりとした口調でスノウが言った。あまりの興味の無さに綾が驚いた。
「えっ? そのために日本に来たんでしょ?」
「別に。最初からウイスキー事業なんて興味が無いし。あの程度の利益が見込める商談なんていくらでも作れるわ」
 スノウはカップをソーサーに戻すと、小皿のジャムをスプーンで掬って口に運んだ。そして真剣な顔をして二人に向き合った。
「あの男はむしろ、あんた達の方が関係があるんじゃない? アンチレジストとして監視対象にした方がいいと思うわ」
「どういうことだ?」と、美樹が身を乗り出して聞いた。
 部屋がノックされ、スノウの秘書が顔を出して「お見えになりました」と言った。
「ちょうど良かった」とスノウが言った。
 綾と美樹が注目する中、聡明な雰囲気の女性がリビングに入ってきた。女性はスリットの入ったタイトスカートのスーツを着て、ショートカットの髪を軽く染めている。元上級戦闘員で、オペレーターのリーダーを務めている鷺沢(さぎさわ)だ。現在は行方不明になったファーザーの代わりに代理で総指揮を執っているアンチレジストの重要人物だ。
 鷺沢は驚いている綾と美樹に目で挨拶し、スノウの前に進み出た。
「はじめまして。アンチレジストでオペレーターのリーダーを務めている、鷺沢です。現在、指揮官であるファーザーに代わり、私が臨時で指揮をとっています。ご実家のラスプーチナ家、およびアスクレピオス社からは長年多額の寄付をいただき、感謝しております」
 鷺沢はスノウに対して丁寧に頭を下げた。
 スノウは気まずそうに髪を手櫛で梳いた。「そんなに畏(かしこ)まらなくても構わないわ。べつに私が偉いわけじゃないし」
 綾と美樹は顔を見合わせた。アスクレピオスから資金提供があることは昨日スノウの口から聞いていたが、鷺沢のここまでの平身低頭さから察するに、その額はかなり膨大なことは容易に想像がついた。
 さて、と言いながらスノウは三人に向き合った。「本当はこんな回りくどいことはしたくないんだけど、説明するよりも見てもらった方が早いわ」
 スノウが指を鳴らすと、秘書がキッチンワゴンを押してリビングに入ってきた。ワゴンの上にはウイスキーのボトルが二本とチューリップ形のテイスティンググラスが八脚、紙コップが四つ、小ぶりな三角フラスコが二つ乗っている。ウイスキーのラベルは青と赤の二種類があり、それぞれに凝った書体でレイズモルトのロゴが書かれている。
「これ二本で六十万円だって。青い方がスタンダードラインの『ブルーラベル』で、赤い方がリミテッドラインの『レッドラベル』。都内のバーで未開封のボトルを買ってきたの」
 ボトルの説明をするスノウを三人が無言で見つめた。一体なにをするつもりなのだろうと綾は思った。ほぼ未成年しかいない中、まさかこの出会いに乾杯というわけではあるまい。スノウはスタンダードラインのブルーラベルを手に取り、慣れた手つきでテイスティンググラスと三角フラスコに中身を注いだ。
「綾、飲んでみる?」と、スノウが意地悪そうな顔で言った。
 綾が首を振った。「飲まないわよ。というか飲めるわけないでしょ」
「じゃあ鷺沢。香りだけ試してみて」
 鷺沢がグラスを手に取り、香りを嗅いだ後に顔をしかめた。
「……これは本物ですか?」と鷺沢が言った。
 スノウが頷いた。「本物で間違いないわ。偽造防止のセキュリティラベルも確認できた」
「……ウイスキーは好きでよく飲むんですが、これは溶剤やゴムみたいな、どちらかと言えばネガティヴな香りが強い気がします。アルコールもかなり立っていて、私はあまり好みではないです」
 スノウに促されて美樹も香りを嗅ぎ、似たような感想を述べた。スノウが真剣な顔で何回か頷いた。
「じゃあ、ここからが本題」と言って、ポケットから小さなビニールパックを取り出して三人に見せた。ピンク色の粉薬のようなものが入っている。
「これが何だか、わかるわよね?」と、スノウがビニールパックを振りながら言った。
「チャームの検出薬だ」と、美樹が答えた。
「そう。あんた達もよく使っているでしょ? 人妖が異性の人間を魅了するために分泌する体液、チャームに反応して青く変色する検出薬」
「……なんでのスノウが持ってるのよ?」と、綾が腕組みをしながら聞いた。
「なんでも何も、これウチの機密部署が作っているんだもの。こういった特殊薬の開発と製造、そしてその効果を秘密裏に実地検証できる環境は、我々製薬会社にとって非常に重要なの」
「アスクレピオスにとってアンチレジストは実験場というわけか。多額の寄付もそのためか?」と、美樹が言った。
「もちろん」と、スノウが言った。「でも悪く取らないでほしいわ。あんた達もこのチャーム検出薬を便利に使っているでしょ? 持ちつ持たれつってやつよ。残念だけど、純粋な意味での寄付は世の中にそう多くはないわ。多額の寄付をする代わりに、それなりのリターンは求めている。優先的な情報提供、プロモーションにブランディング、イメージアップや節税。なんらかの見返りや費用対効果があるからこそ、多くの企業や成功者は寄付という名目の広告宣伝費を支払うのよ。ウチとアンチレジストの関係は、プロモーションというよりはビジネスパートナーに近いわ。人妖やチャームのデータは新薬開発に随分と役に立っている。アンチレジストとの提携は、どこかのウイスキーメーカーとの提携とは比べるものバカらしくなるほど我々にとって有益なのよ」
 スノウがブルーラベルの入った三角フラスコに検出薬を入れた。円を描くように振って攪拌し、白いテーブルクロスを背後にかざす。ウイスキーの色に変化は見られない。
 スノウは「セーフね」と言うと、何の迷いもなくテイスティンググラスの中身を一気に口に流し込んだ。鷺沢以下三人がぎょっとした表情になる。綾は「ちょっ!」と言ってスノウに手を伸ばした。たっぷりダブルの量はあったはずだ。スノウは目を瞑ったまま、しばらく口の中でウイスキーを転がしている。徐々に眉間にシワが寄り、そのまま紙コップを引っ掴むと口の中のウイスキーを勢いよく吐き出した。
「ブリャーチ……変なものは入っていないけれど、香りも味も最悪ね」
 スノウが険しい顔をしながら、袖で口元を拭った。「あちこちから粗悪な原酒を仕入れて、なにも考えずに混ぜただけという感じ。アルコールの刺激と、新聞紙を燃やしたような嫌な煙たさが目立つ。苦味と雑味の主張が強いのに変な甘さもあって気持ち悪いわ。こんなものを作るあいつも信じられないし、有り難がって買う奴はもっと信じられない」
「飲んで大丈夫なの……?」と、綾が呆れたように聞いた。
「飲んでないわ。ちゃんと吐き出したじゃない」
「でも……」
「テイスティングくらいするわよ。仮にも業務提携を提案したのは私なんだし。未成年だから味見はできないけれど良いものです──なんて無責任な仕事は私はしないわ。たとえ決裂した交渉であってもね」
 スノウは話しながらレッドラベルの封を開け、ブルーラベルと同様にテイスティンググラスと三角フラスコに注いだ。スノウが香りを嗅ぎ、顔をしかめる。
「さっきのに比べたら多少はマシだけど、こっちも大したことないわね」
 スノウはレッドラベルの入った三角フラスコにチャーム検出薬を入れた。一見変化が無いように見えたが、白いテーブルクロスに透かすと液体の縁が薄く青みがかっている。
「そんな……」と、鷺沢が呟くように言った。
「これは飲まない方がいいわ」と、スノウが言った。「ごく微量だけどチャームの反応が出ている。この濃度なら依存レベルまで相手を魅了することはないでしょうけれど、製造過程でチャームが混入するなんてあり得ない。あの男が意図的に添加していることは間違いないわ。レイズモルトの味は飲むに値しないけれど、なぜか異様な人気を得ている理由はこれよ」
 スノウは三角フラスコを親指と人差し指で摘んで、顔の横で振った。「レイズモルトは珍しく、一般的にウイスキーとは縁遠いと言われている女性から爆発的な人気になった。やがて、男性が女性の気を引くためにレイズモルトを買い漁り始めた。雑誌でも特集が組まれ、『個性的な味』なんて言われながら一気に知名度が広がった。ものは言い様ね。実際はチャームの依存性で中毒症状が起きているだけなのに」
「あのレイズ社の社長が人妖だったのか……」と、美樹が言った。
「すぐに動かないと。こんなに広範囲にチャームが広がっているなんて前代未聞ですよ」
 綾の視線に鷺沢が頷いた。同時に鷺沢の携帯が震えた。緊急用の回線だ。鷺沢は「失礼」と言って通話ボタンを押した。電話に出た鷺沢の表情がみるみる変わっていく。まるで親しい者の死を突然知らされたような顔になった。
「どうしたんですか……?」と、綾が不安そうな表情で言った。
 鷺沢は通話の切れた携帯を見つめていた。「アンチレジストの本部が……何者かに襲われたみたい」

※こちらの文章はラフ書きになります。製本時には大きく内容が変わる可能性があります。

予告

 綾と美樹が帰った後、スノウは一人でシオンの部屋に残り、ソファに座ったまま頭を抱えていた。
 爪先から血液が逆流するような寒気が駆け上がってきて、心臓が掴まれているような感覚を覚えた。
 もしかしたら、最悪の事態になっているのかもしれない──。
 シオンの生死は不明。生存していたとしても、親友の美樹や綾には一度も連絡を取っていない。新しい情報は何も無かった。
 スノウの脳内であらゆる可能性が試算されている。
 やがてスノウは、普段は決して人には見せない憔悴しきった顔を上げた。「……アンチレジストを、本格的に巻き込むしかないわね」
 スノウの頭脳は、最悪のケースを想定して動くように結論を出した。
 スノウはふらふらとソファから立ち上がると、シオンの書斎への向かった。
 リビングとはテイストの違ったビクトリア様式の内装で、ダークブラウンのフローリングの上に絨毯が敷かれ、大きな執務机の上にマッキントッシュが二台置かれている。一台は電源が切られ、もう一台はスリープ状態のままだ。パスワードは先日突破している。起動させると、ハッキングソフトが静かに稼働し続けていた。画面にはセキュリティを突破されたアスクレピオスの社内システムが表示されていて、いつ、どこにでも送金が可能な状態になっている。
「……なにをするつもりなの?」
 スノウが机に両手をついたまま項垂れて、「お姉様……」と絞り出すように言った。

 午後七時過ぎに、スノウは単独で「レイズ・バー」を訪れた。
 虎ノ門のとある高層ビルの最上階にある、三神の経営する会員制の高級バーだ。
 常にレイズモルトが飲める店だとメディアに多数取り上げられているが、現在は新規の会員は募集されていない。
 重厚なドアの入口にはやけに太った男が待機していて、スノウを見ると「これはこれはスノウ・ラスプーチナ様、お待ちしておりました」と言いながら深く頭を下げた。容姿に反して耳障りの良い声と、完璧な最敬礼だった。
「わたくしは三神の秘書を努めさせていただいておる者でございます。名乗るほどの者ではございませんので、どうぞ見た目通り『豚』とお呼びください」
 豚は顔を上げると、満面の笑みでスノウを見た。
 スノウはかなり引いている。「豚? いや、そういうわけには……」
「いえいえ構いません。三神からもそう呼ばれておりますし、むしろ豚と呼んでいただかなければ私が呼ばれていると気が付きませんので」
 豚は丁寧にドアを開け、スノウを中に招き入れた。バーの照明は薄暗いダウンライトと間接照明のみの落ち着いた雰囲気だ。壁面は全てガラス張りで、眼下に東京の夜景が見えた。客はおらず、バーテンダーすらいない。店内の椅子やソファの背もたれには全て「RAY`S BAR」と筆記体で刺繍がされていた。中央のソファには三神が座っていて、スノウを見ると立ち上がり、自分の向かいのソファを勧めた。
「カッシーナですか」と、ソファに座りながらスノウが言った。
 三神がうなずいた。「ええ、別注したんですよ。イタリアにスーツを作りに行ったついでにね。ここは最高の店にするつもりでしたので、家具も全て最高のものを揃えました。あなたのような特別なゲストをお招きするときの来賓室としても使えるようにするためです。一見客は入れませんし、会員は財界人や芸能関係者ばかりです。この店の価値がわかる人間しか入ってほしくないんですよ」
 三神は両手を広げて語った。スノウは「悪くない」と言った以外は、特に感想を言わなかった。豚がスノウの近くに歩み寄り、失礼いたしますと言って頭を下げた。
「お飲み物はいかがなさいましょう? ここはバーですので、ソフトドリンクも様々なものがございます。ノンアルコールのカクテルもお作りできますし、ご希望であればレイズモルトを含めたアルコールも提供させていただきます」
「遠慮させていただきます。これの前の商談でも飲み物をいただいたので」
 スノウは強気そうな笑みを浮かべたまま、三神から視線を外さずに言った。
「ビールを」と、三神もスノウを見たまま言った。豚は会釈すると、バーカウンターに入っていった。
「失礼。気を悪くしないでいただきたい。大切な商談の時はいつも少し飲むようにしているんですよ。決断の最後の一押しになる」
「構いませんよ。私は仕事の話ができれば、たとえ相手が酔っ払っていようが薬をきめていようが気にしません。後になって、あの話は酔っ払っていたので無かったことに、というのは困りますが」
 ははは、と三神は乾いた声で笑った。豚は脚付きのグラスにミネラルウォーターを入れてスノウ の前に置いた。三神の前にも繊細なカットが施されたビアグラスを二脚置き、三神はそのうちの一杯をほぼ一口で飲み干すと、二杯目にも口を付けた。最後に自分の分のコーヒーを淹れて三神の隣に座った。
「昨日渡したサンプルですが、もう試されましたか?」
 スノウは背もたれに深く身体をあずけながら言った。
 三神は視線をそらし、何回か小さく頷いた。「ええ、まぁ」
「まぁ、というのは? 気に入らなかったということでしょうか?」
「いえ……大変素晴らしかった」
 三神は素直にそう言った。二十種類のサンプルは、いずれも基本的なウイスキーとしての味と香りを押さえつつ、どこかの箇所を鋭く尖らせたような個性と魅力があった。会見でのスノウの高圧的な態度から、サンプルがそこそこの出来であればこきおろしてやろうと考えていた三神だが、まさに打ちのめされた。本当にあのガキが作ったのか? と認めたくない三神は何回も思ったが、同時に、これは売れると確信せざるを得なかった。しかもスノウは必要であればいくつでも作ると言い捨てて去っていったのだ。このクオリティのものを何種類でも量産できるとなれば、まさに革命ではないか。
「それは良かった」と言いながら、スノウは相変わらず小馬鹿にしたような笑みを浮かべると、ミント味のチュッパチャプスを取り出して咥えた。「私も失礼。子供の頃からこの飴が大好きで、咥えていると落ち着くんですよ」
 まだじゅうぶん子供だろうと三神は思ったが、もちろん口には出さなかった。隣ではロリコン趣味の豚がスノウを凝視している。確か昨日は好みのど真ん中と言っていたが……。三神は視線に気がつかれないかとひやひやした。
「……弊社としては、ぜひアスクレピオスさんと提携していただきたいと思っています」
 三神が身を乗り出して言った。スノウは相変わらず背もたれに身体を預けている。悪くないカッシーナの背もたれに。
「私の指示通りにウイスキーを作ると?」
「そうです。今までのラインナップは継続しつつ、新たなシリーズとして、スノウさんのレシピ通りに作ったものを発売したい。シリーズ名は『スノウ』にしようかと思っています」
 はっ、とスノウが呆れたように短く笑った。「私の名前ですか?」
「ええ。スノウさんは昨日の会見以来、日本でかなり知名度が上がっています。話題性もあるし、肝心のウイスキーも素晴らしい。今までにないほど売れますよ、このシリーズは」
「でしょうね。売れるように意識して調合しましたから」
「では、契約条件について話を進めても?」
「いえ、その前にひとつ確認しておきたいことがあります」
 今度はスノウが身を乗り出した。両手を組み、その上に顎を載せている。今までの小馬鹿にしたような笑みが消え、すっと真剣な表情になった。
「そもそもなぜ、レイズモルトはこんなに人気になったんです?」
 三神はやれやれという様子で首を振った。
「それはもちろん、私どもの努力や品質が世間に評価され──」
「違う。あなた達はもともと輸入ウイスキーを日本で瓶詰めして『大和—YAMATO—』という日本的な名前を付け、外国人観光客をターゲットに売り出している小さなメーカーに過ぎなかった。愛好家からは姑息な商売だと反感を買い、ブランド価値は決して高くはなかった。しかし、半年前から突然ラインナップをレイズモルトに一新し、直後に異常なほどのブームになった。いったい、なにをしたんです?」
「確かに最初は投資回収のために輸入ウイスキーをメインにしていましたが、その影で自社蒸留もしていたんですよ。その原酒が育ってきたんです」
「それにしては販売量が多すぎる。私の予想では、現在のレイズモルトの中身はほとんどが輸入ウイスキーで、中身も『大和—YAMATO—』とほぼ変わっていない。しかし人気だけは爆発している。なぜです?」
「ですからそれは先ほども言った通り──」
「なら質問を変えましょう」
 スノウはチュッパチャプスの棒を灰皿に捨てた。カチンと軽い音が響いた。
「ノイズ──という言葉に聞き覚えは?」
 スノウはまるで未知の文字が刻まれた石板の謎を解こうとする考古学者のような表情で三神の顔を見た。
「ノイズ? なんですかそれは?」と三神が言い、炭酸ガスが抜けたビールを飲んだ。
「聞き覚えがあるかどうか、それだけです」
「……英和辞典に載っている、騒音という意味以外では、聞き覚えはありませんね」
「本当に?」
「本当です」
「なるほど──」
 スノウは再び背もたれに背中を預けて、しばらく窓の外の夜景を眺めた。やがて「ではこうしましょう」と言って、スノウは三神に視線を向けた。
「私のレシピから作るウイスキーの名前は、全て『ノイズ』という名前にしていただきたい」
「なんだと」
 三神が立ち上がった。
 スノウが小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。「簡単でしょう? あなた達には聞き覚えも関係もない名前です。ネーミングもシンプルでありながら、なおかつ良い感じに引っかかりもある。あなたのように思わせぶりにするのなら、『歴史あるクラシック音楽のような数多のウイスキーの中の、ノイズでありたい』とでも言っておけば客も喜ぶでしょう。できない場合は、この提携は決裂ということで」
 三神が身体を揺すりながらスノウに近づいた。スノウもソファから立ち上がる。
「……最初から提携する気なんて無かったのか?」と、三神が低い声で言った。
「なにを怒っているんです? ネーミングの提案をしただけなのに」
「うるせぇ。散々コケにしやがってクソガキが。秘書を連れてくるべきだったな」
 三神がスノウを掴もうと手を伸ばす。
 スノウはその手を振り払い、近くにあったテーブルを蹴飛ばした。
 その小さな身体から放った蹴りとは思えないほど、テーブルは簡単に舞い上がった。
 三神が虚を突かれている間、スノウはまるで肩車をされるように三神の後頭部にまたがり、三神の喉を太腿で締め上げた。
 ごえっ……と三神が悲鳴を上げる。
「秘書を連れてこなくてよかった」と、スノウが三神の頭を愛おしむように両手で撫でながら言った。満面の笑みだった。「私の秘書はこういう風に手加減ができない人間なので……。まぁ、私も色々と挑発が過ぎましたから、今回の件は不問にしてあげますよ」
 床に手をついて咳き込む三神に一瞥をくれて、スノウはレイズ・バーを出た。ドアが閉まると三神は「クソッ」と吐き捨てるように言い、豚はスノウが灰皿に捨てたチュッパチャプスの棒を拾って口に咥えた。

※こちらの文章はラフ書きになります。製本時には大きく内容が変わる可能性があります。

予告


スクリーンショット 2021-01-22 21.27.53


 そのソファは恐ろしく座り心地が良かった。
 一見何の変哲も無いソファだが、クッションはまるで自分の身体に合わせてオーダーメイドされたように下半身を包み込み、張られたレザーもしなやかで良く伸びた。
 スノウは足が床に着いていないが、別段気にする様子もない。何回かこのソファに座ったことがあるのだろう。そして隣にはシオンもいたのだろう。
 スノウはソファに座るや否や、慣れた様子でペリエをペットボトルのまま飲んだ。美樹と綾もそれに倣い、ペリエを開けた。スノウから話しかけられるのを待ちながら、二人はなんとなくフィーリーという名のタマネギに似た陶器を見た。
「言っておくけれど」と、スノウが言った。「お姉様がアンチレジストのことを私に喋ったわけじゃないわ。守秘義務のことは私も知っているし、お姉様もそれを破るような人じゃない」
「じゃあなんで知ってるのよ?」と、綾が言った。
「資金提供」と、スノウが正面を見ながら呟くように言った。「アスクレピオスからアンチレジストへ、定期的に資金提供をしているのよ。もちろん極秘融資で、社内でも知る人間は経営に関わる一部の親族だけ。お姉様は家業とは一切関わっていないから、アンチレジストに資金提供していることすら知らなかったでしょうね。まさかお姉様本人が戦闘員として活動するなんて想像もしなかったけれど」
「我々の活動資金がどこから出ているのかずっと疑問だったが、その一部がアスクレピオスだったとはな。シオンがアスクレピオス創業家の長女だということも驚いたが」と、美樹が呟いた。
 知らなかったの? と、スノウが聞いた。
「ああ。向こうから話してくれればもちろん聞いたがな。シオンはあまり出生や家のことは話したがらなかったし、私達もあえて聞かなかった。誰にだって自分の中に踏み込まれたくない部分はある。私にだってあるし、お前にもあるだろう。そして、それは無理に踏み込むべき領域ではない。相手の全てを知ることと、相手を理解することは、似ているようで全く違う」
 美樹の言葉に、綾も頷いた。スノウは美樹と綾の顔を観察するように見た。そしてペリエを一口飲み、天井から下がっているランプを見上げてぽつりと言った。
「二人とも……やっぱり仲良かったんだ。お姉様と」
 強気な表情は変わらないが、その横顔は少し悲しそうに見えた。エメラルドのような瞳は、確かにシオンのそれを思い出させた。
 スノウは話を続けた。「お姉様はこの家に人を呼んだら嫌われてしまうかもしれないと悩んでいたけれど、あんた達二人なら大丈夫かもしれないと言っていたわ。よほど気を許していたのね。二人の話をしている時のお姉様は、本当に楽しそうだった」
 スノウは照れ隠しのように髪を縛っている赤いリボンをいじった。
「今更だけど、随分と日本語が上手なのね」と綾が言った。
「お姉様が日本に移住した後に勉強したの。日本にはいつか行きたかったし、それにビジネスにおいても日本の市場は大きいから、通訳を介すよりも直接交渉が出来た方がスムーズなのよ。仕事やプライベートで日本に来るたびに、ここに泊まったわ。お姉様は私が泊まりに来ると毎回はりきって料理を作ってくれようとするんだけど、お姉様は料理だけはあまり得意じゃないから、いつも私が無理やり退かして代わりに作ったの。お互い忙しいから年に何回も会えなかったけれど、泊まった時はこのソファに座って、夜遅くまで色んな話をしたわ。それでも足りなくて、客間があるのに一緒のベッドに入って、明け方まで話をした。お姉様は普段はしっかりしているけれど、私と話をする時は本当によく笑うのよ。私はお姉様の妹として生まれてきたことが誇りなの。あんなに素晴らしい人は他にはいないわ」
 スノウは少し寂しそうに笑った。「そう言えば、こういうデザインの服を着るようになったのもお姉様の影響ね。お姉様はなぜかメイドに傾倒していて、クローゼットひとつが全部メイド服で埋まっているの。私が来るたびにあれこれと着せてくれて、結局いつも二人でファッションショーになるんだけど、お姉様と私じゃサイズが合わないのよね……。服の系統としては私も嫌いじゃなかったし、なによりお姉様が可愛いって言ってくれたから、似たような服を探して着るようになったの」
 どうやらスノウはメイド服とゴシックロリータを一緒くたにしているようだが、二人は黙っていることにした。それにしても、スノウは最初の印象とはずいぶんと変わって見えた。ぶっきらぼうな口調は変わらないが、記者会見で見たような、あからさまな棘のある言動はしてこない。シオンのことも本当に慕っているらしい。しかしシオンとの思い出を饒舌に語るスノウは、本題を言うのを迷っているようにも見えた。美樹と綾もそれがわかっていた。だから無理に急かすことはしなかった。
 しばらく取り留めのない話が続いた後、スノウが「お姉様が失踪してから半年も経つわね」と切り出した。
「お姉様が失踪した孤児院での事件。最後にお姉様と一緒にいたのは美樹、あんたなんでしょ? お姉様になにがあったの? 美樹とお姉様が人妖と戦うために孤児院に行ったところまでは知っている。でも中で何があったのかは知らない。そこで美樹は生き残り、お姉様は行方不明になった。孤児院は全焼している。最初は正直、美樹がお姉様になにかしたのかと思ったわ。でもお姉様の今までの話ぶりと、実際に会って話をしてみても、美樹がそんなことをする人とは思えない」
 人妖のことまで知っているのかと美樹は少し驚いたが、いよいよ隠し事をする必要はなくなったなとも思った。なによりスノウは、シオンの家族なのだ。友人の家族に協力するのは当然のことだろう。
「終始一緒にいたわけではない。私とシオンは別の場所で、別の相手と戦闘していた。もちろん互いの姿は見えなかった。敵は冷子という女と、蓮斗という男だ。冷子は使役系と呼ばれる強力な人妖で、蓮斗は人妖になるために冷子に取り入っていた人間だ。蓮斗は冷子によって身体を作り替えられ、なんと言うか……化物のようになった。身体が何倍にも大きくなって、倒すのに苦労した」
「何倍にも……? 人妖にそんなことができるの?」と、スノウが顔をしかめた。
「ああ。詳細を話してもあまり気持ちの良いものではないから省くが、見ているのが辛かった……。巨体の蓮斗が暴れ、孤児院の床に大穴が開き、シオンはそこに落ちてしまった。地下は病院か研究所のような作りになっていて、冷子もシオンを追って穴から飛び降りた。地下で戦闘があったはずだが、私がシオンを見たのはそこまでだ」
 スノウは美樹の顔をじっと見ていた。そこには小さな変化やあらゆる情報を見逃すまいという強い意志が見て取れた。
 美樹は話を続けた。「私は蓮斗を倒した後、シオンが気になって床に空いた穴から地下に降りた。冷子と思われる遺体はあったが、シオンの姿は無かった。現場にあったのは、このヘッドドレスだけだ」
 美樹はテーブルの上に、ビニールパックに入ったシオンのヘッドドレスを置いた。上質なシルクに、白と黒の細かいレースが編み込まれている。手がかりになればと美樹が預かっているものだ。スノウはそれを手に取り、生き別れになった家族の写真を見るような表情でじっと見つめていた。
「お姉様が……その冷子って人妖を殺したの?」
 スノウがヘッドドレスを見つめながら言った。
 美樹は静かに首を振った。
「わからない」
「冷子の遺体は見たんでしょ?」
「見た」
「どういう状態だったの?」
「損傷はかなり激しかった」
「瓦礫や火災に巻き込まれたことによる損傷? それとも、人の手によるもの?」
「……後者だ」
 スノウは親指の爪を噛みながら、ロシア語でなにかを呟いた。スノウの頭の中が高速で回転していることが美樹と綾にもわかった。
 やがて錆びたゼンマイ人形のように、ぎこちなく美樹の方に顔を向けた。
「本当に……」と、スノウが絞り出すように言った。顔色は青ざめて、エメラルドの瞳の焦点が合っていなかった。吐き気を堪えているようにも見えた。「本当に……それ以来お姉様と会っていないの? 何か連絡とか、似た人を見たとか、そういう噂も聞いたことはない?」
「ない。あったらとっくに動いている」と、美樹は言った。
 それもそうよね……と言いながら、スノウは暗い表情で下を向いた。シオンのわずかな手がかりを探っているのだろうが、力になれない歯痒さを美樹は感じていた。
 美樹は天井を見て記憶を探った。最後にシオンと会った時のことを思い出す。雪の降りしきる孤児院のレンガ道を歩いている。入り口のドアの前に立つと、ホールの中から蓮斗の戯けたような声が聞こえた。瞬間的に感情が昂り、ドアを蹴破って中に入った。シオンが床に座り込んでいたので立たせた。わずかに動揺はしていたが、落ち着いていた。その後、蓮斗と言い合いになり……。
「……そういえば」
 ポツリと美樹が言った。スノウが縋るような表情で美樹を見た。こんな表情のスノウを見るのは初めてだった。
「蓮斗は、シオンの出生をずいぶんと詳しく調べていたみたいだった。シオンのことを世界的製薬会社の令嬢だと言って、酷く罵っていた。まさかアスクレピオスのことだとその時は思わなかったが。蓮斗は……まぁ私も似たようなものだが、出自は決して恵まれたものではなかったからな。その辺りが気に食わなかったのかもしれん」
「お姉様が言われていたのは、令嬢だってことだけ? 他になにか言われてなかった? 例えば子供の頃の話とか……」
「子供の頃? いや、その時点ではそれだけだ。子供の頃に何かあったのか?」
 いや、と言ったきりスノウは質問に答えず、視線をテーブルの上に戻して再び考え事を巡らせ始めた。手持ち無沙汰に美樹は無意識にポケットのタバコを探り、シオンの家であることを思い出して諦めた。
「……悪いけど、明日私の泊まっているホテルに来てくれない? 詳しい時間と、ホテルの部屋番号は後で連絡するから」と、スノウはテーブルの上を凝視したまま言った。まるでテーブルの上に世界を揺るがす重要な装置が置かれているような視線を送っているが、もちろんテーブルには飲みかけのペリエが三本置いてあるだけだった。
 わかったと言って、美樹はあっさりとソファから立ち上がった。美樹が目配せし、綾も従って立ち上がった。色々と聞きたいことはあったが、信用を得られているのなら深追いするよりも、最初は要求通りにしていた方が後々利することが多い。
「こちらからもひとつ質問だが」と、美樹は言った。スノウがソファに座ったまま顔を上げる。立ち位置的にスノウが美樹を見上げる姿勢になり、心理的に優位に立てるタイミングを選んだ。従っているだけでは主従関係になってしまう。「その髪を留めているリボンなんだが、なぜ右のリボンだけ古ぼけているんだ? 別に貶しているわけじゃない。むしろ服装には拘っているみたいだから、意図的なものかと気になってな」
「……ああ、これ?」と、スノウは右のリボンに手を当てた。左右とも赤いシルクのリボンだが、確かに右側のリボンは光沢が落ち着き、生地も痩せてきている。「これは子供の頃、お姉様から頂いた物なの。クリスマスの初めてのプレゼント交換で、私はお母様に手伝ってもらって自分で焼いたクッキーを、お姉様からはリボンのセットをいただいたの。大切に使っていたんだけど、傷んだり汚れたりして、これが最後の一本……」

 綾と美樹はシオンのマンションから出て、道路を挟んだ向かいのカフェに入った。一階がロースターとキッチンを兼ねていて、狭い階段を上がった二階に、五人も入ったら窮屈に感じるほど狭い喫茶スペースがあった。持ち帰りが多いのか、綾と美樹以外に客はいない。小さいテーブルや椅子は長い間海面を漂っていていたような板と、錆が浮いた鉄パイプのようなもので作られている。もしかしたら本当に砂浜に打ち上げられた材料で作ったものかもしれないが、洒落っ気はあるが決して使い勝手の良いものではなかった。
 小さく硬い椅子に美樹と綾は座り、酸味の強いコーヒーを飲んだ。果物のような芳香もあり、これはこれで悪くない。空はくっきりと晴れていて、綺麗に磨かれた窓からはシオンのマンションが見えた。
「なんだか色んなことが一気にわかった日でしたね」と、綾がカップを両手で持ったまま言った。「シオンさん自身についても色々と驚きましたけど、まさかあんな妹がいたなんて。性格が全然違うから最初は本当に妹なのか疑いましたけど、シオンさんのことは大好きみたいですし」
「そうだな。二人でどんな話をしていたのか想像もつかないが、嘘をついている感じはなかった」
「美樹さん……冷子の遺体の損傷については、詳細を言わなかったですよね?」
「……ああ。聞いても気分の良いものじゃないだろう」
 冷子は自分の身体の一部を触手のように変形させる能力があったが、シオンに対しては全身を触手に変態して戦ったようだ。頭部だけはかろうじて形を残していたが、その頭部の損傷が最も激しかった。特に顔面は硬いもので何回も攻撃され、骨という骨が砕けて完全に陥没していた。人間の膝の跡のように見えたが、シオンは決してそんなえげつない攻撃をしない。シオンはむしろ人妖相手でもなるべく苦痛のない方法で一撃で倒すことを第一に考えている。そのため攻撃が大振りになり、思わぬ苦戦を強いられることもあるのだが。
 では冷子を倒したのはいったい誰なのだろう。それも不必要なほど強大で残虐な力で。
 美樹のスマートフォンが震えた。
 マンションのコンシェルジュからのメールだ。
 スノウの宿泊先として、都内の歴史あるホテルの名前が記されていた。


前振りが長くなっておりますが、すみませんがお付き合いください
次週にまた更新予定です。
※こちらの文章はラフ書きになります。製本時には大きく内容が変わる可能性があります。

予告


 スマートフォンのアラームが鳴った。
 神崎綾はベッドの中で少し呻いた後、スムーズに上体を起こしてアラームを切った。
 外はまだ薄暗く、時計は五時半を表示してる。
 綾はベッドから降りると、うーんと声を出しながら身体を伸ばした。洗面所に行って入念に歯を磨き、ライトブルーのパジャマを着たままルームランナーに乗って二十分ほど走った。走っている最中、綾と同じ上級戦闘員の鷹宮美樹から、十一時頃にそちらに行ってもいいかと連絡が来たので了承した。向こうもとっくに起床していて、鷹宮神社の境内をほうきで掃いている頃だろう。
 綾はシャワーを浴び終えると、タオルとパジャマを洗濯機に放り込んでから赤いチェックのスカートと黒いタートルネックのセーターに着替えた。作り置きしたサラダに両面焼きした目玉焼き、トーストで朝食を採り、再び入念に歯を磨いた。
 今日は土曜日で学校は休みだ。
 リビングと寝室にロボット掃除機をかけている間に、風呂場とトイレを掃除する。掃除が終わると先日三体の賎妖を倒した時のレポートを書き、後はのんびりと過ごした。
 BGMのように流していたテレビには、タレントが司会をするワイドショーが映っていた。
 半年前に発生した火災の特集だ。
 半年前、S区の丘の上にある廃墟になった孤児院が真夜中に出火し、全焼した。それだけであれば不審火として処理され、特に世間の耳目を集めることもないのだが、建物の中から人骨が発見されたことで当時はかなり大きなニュースになった。また、その人骨の一部が不可解に変形していたとの噂が流れたことから、オカルトマニアや個人配信業を営む者が建物に忍び込もうとして、多少の混乱が発生した。
 番組では半年ぶりに孤児院の跡地を訪れたが、いまだに立ち入り禁止のバリケードが張られており、結局のところよくわからなかったという内容の映像が流れ、その後はカルト教団のアジトや、旧日本軍の人体実験施設などといった説を支持する人間のインタビューが紹介された。スタジオにカメラが戻ると、司会と複数のコメンテーターが唾を飛ばしながら、事件を誰のせいにするかという議論が始まった。当時の管理者が悪い、いや政治家が悪いと言い合い、公式見解をいまだに出さない警察が一番悪いという結論に議論が進んでいった。
 綾はその真相を現場に居合わせた美樹から聞かされている。
 公式見解が出なくて当たり前だと綾は思った。事件が風化するを待って、しれっとありきたりな見解を出して、新聞の隅にでも載って終わりだ。孤児院を装って子供を集めて、地下で人間を人妖にする人体実験をしていましたなどと発表ができるわけがない。人間そっくりの怪物が知らないうちに社会に巣食っているなんて知れ渡ったら、疑心暗鬼で世の中が魔女狩りの時代に戻ってしまうかもしれない。
 半年前、孤児院では美樹と如月シオンが人妖討伐任務にあたっていた。篠崎冷子という強力な使役系の人妖と、それに与する蓮斗という人間が廃墟の孤児院をアジトにしており、壮絶な戦闘が繰り広げられた。蓮斗は冷子によって無理やり身体を怪物に変異させられたが、身体を維持するためには膨大なカロリーが必要になり、生命維持のために止むを得ずガソリンを吸収していた。美樹は戦闘の際に蓮斗の身体に火を放ち、孤児院は全焼。蓮斗も焼死した。冷子の死体らしきものも、美樹が地下で発見した。そして、その任務以来シオンとは連絡が取れなくなった。
 もちろん綾や美樹は必死にシオンを捜索したが、いまだに行方はわかっていない。守秘義務のため、アンチレジストは警察に失踪届を出すことも出来なかった。遺体は見つかっていないが、組織内ではおそらく建物の火災に巻き込まれており、生存は絶望的という見方が強まっている。シオンはアンチレジスト内でも慕う者が多く、深い悲しみに暮れて組織を去る者もいた。そしてシオンの失踪から時間を置かず、総指揮官のファーザーも音信不通になった。
 シオンに続き、突然の指揮官の失踪という事態に組織は混乱したが、そこを上手くまとめたのが現在臨時で指揮をとっている鷺沢だ。鷺沢は口数が少ないキャリアウーマン然とした女性だ。年齢は三十代だが上級戦闘員からの叩き上げで、それまでも副指揮官兼オペレーター達のリーダーとして組織をまとめた実績がある。戦闘訓練も担当し、戦闘員達にも顔が利く人物だ。鷺沢の指揮により、組織の結束が一層強まったと評価する者もいる。
 テレビは次のニュースに移っていた。
 日本の新興ウイスキーメーカーと、海外の大手製薬会社が提携するらしい。白いスーツに身を包んだ身なりの派手な男と、黒いゴシックロリータの服を着た金髪の女の子が並び立っている。女の子はどう見ても場違いなように綾は感じた。
「いや、すごいですね!」と、テレビの中の司会が興奮した様子でコメンテーターに言った。「もはや飛ぶ鳥を落とす勢いの我々日本が誇るクラフトウイスキーメーカー、レイズ社を率いる三神冷而氏! いやぁ、かっこいい! 私と年齢は近いのですが、同じオジサンにカテゴライズしてはいけませんね!」
 綾はチャンネルを変えようかと思ったが、金髪の女の子が気になってそのままにした。話を振られた初老のコメンテーターの男が、苦笑しながら話をした。
「いや私も先日レイズモルトを飲む機会があったんですが、これがまた個性的で素晴らしかったですよ。プレミアが付いて価格は上がる一方ですので、なかなか口にする機会がないのが残念ですけどね。しかし、なにかと噂に事欠かない三神さんも、今回ばかりは注目を奪われちゃいましたねぇ……」
「そうそうそう! 会見の内容は我々も当日まで知らされていなかったのですが、なんと世界的製薬会社アスクレピオスと業務提携に向けて協議中という電撃発表でありました! それだけでも驚きなのに、アスクレピオス側の責任者が、なんと三神氏の隣に立っているこの可愛い女の子なのです!」
 スタジオから切り替わり、会見の映像が流れた。スノウの顔がアップで映る。
『失礼ですが、なぜ財務担当の方が来られたのでしょうか? 業務提携は、本来はマーケティングや経営企画の担当では?』
『日本企業の財務は違うのかもしれませんが、組織内の資産の動きだけではなく、将来に向けた資産配分や投資案件を検討するのも財務の重要な役割です。そしてレイズ社との提携を企画したのも、この提携の責任者も私です。先ほどから皆さんは私の服装や年齢を気にされているみたいですが、我々アスクレピオスは完全な実力主義を敷いています。性別や容姿や年齢など、我々にとっては取るに足らないものです。私が代表としてこの場に立ち、提携について話をしていても、アスクレピオスとしては何ら不思議なことではありません』
 カメラがスタジオに切り替わり、司会の男が目を見開きながら「どうですかこれ!」と、まるで自分の手柄のように言った。「すごくないですかこの子!? プロフィール出ますかね?」
 女の子の写真と経歴が書かれたボードが映された。会見が終わって会場を出たところを撮影されたのだろうか。女の子はスカートのポケットに片手を突っ込み、チュッパチャプスのような棒付き飴を咥えたまま、不機嫌そうにカメラを睨んでいる。
「名前はスノウ・ラスプーチナちゃん! おっと、つい『ちゃん付け』で呼んでしまいました。はははは。なんとスノウちゃんは大学を飛び級で卒業した後、この若さでアスクレピオス本社の財務に就いている超エリートなのです! お聞きの通り日本語も堪能。しかも生い立ちはなんと創業家の次女で──」
 司会の声を遮るように、マンションのインターホンが鳴った。美樹がモニターに映っている。綾はオートロックを解除して、テレビを消した。

 突然来てすまなかったなと言いながら、美樹はルイスレザーのライダースジャケットを脱ぎ、綾に借りたハンガーにかけた。下は細身のジーンズで、長身の美樹によく似合っていた。
「構いませんよ。特に予定は無かったですから」と言いながら、綾がキッチンに入った。
 ダイニングテーブルに向かい合い、チョコレートを茶請けにしながら二人は時々他愛のない会話をしながらコーヒーを飲んだ。美樹は時々視線を横に逸らして、白いクロスが貼られている壁を見た。まるで見えない暗号がそこに浮かび上がっているような視線だった。なにか重要なことを言うタイミングを測っていることが綾にもわかった。
 やがて美樹は決心したように、「シオンのマンションに入試許可が下りた」と言った。
「……本当ですか?」と、綾が身を乗り出した。
「本当だ。昨日の深夜、マンションのコンシェルジュからメールが入っていた」
「やったじゃないですか。この半年間、全然許可が下りなかったのに」
 綾が明るい声を出したが、美樹の表情は冴えない。美樹はコーヒーカップを持ち上げ、中身を飲まずにソーサーに戻して話を続けた。
「失踪の手がかりが掴めるかもしれないと思って、失踪直後から私が友人として個人的に入室を申し込んでいたんだ。家族の許可がなければ入室は不可能だと言って今まで許可されなかったが、妙なんだ……」
「妙、と言うと?」
「お前にも入室許可が下りている」
 えっ? と綾は言って、怪訝な顔をした。美樹は話を続けた。
「そうだ。私しか申し込んでいないんだ。なぜお前の名前が出てくるのか……」
「シオンさんが、私のことも家族に喋っていたんでしょうか?」
「そうだとしても、そもそも許可を申し込んでいないお前にも許可を出すのはおかしいだろう。お前の名前は一切出していないんだぞ」
 うーんと言いながら綾は指を顎に添えた。「誰かが私も呼んでいる……ってことでいいんですよね?」
 美樹はしばらく黙ってから、「まぁ、そうなるな」と言ってカップに口を付けた。
 綾まで呼ばれた理由は不明だが、行かない理由は無いので、美樹はシオンのマンションに電話をかけた。今日は午後であればいつでも構わないらしく、短い会話をして美樹は電話を切った。
「やはり半年間、シオンのマンションには家族を含めて誰も入っていない。入室許可も、昨日向こうから一方的に来たらしい。私のバイクで一緒に行こう」と、言いながら美樹はショートホープと携帯灰皿を持って立ち上がった。「それにしても半年か……あっという間だった気がするな。シオンとファーザーがいなくなってから」
 美樹がベランダでタバコを吸っている間、綾はコーヒーのおかわりを淹れた。部屋に戻ってきた後の、美樹の身体から微かに香るタバコの匂いが、綾は好きだった。

 バイクの後ろに跨り、綾は美樹のウエストにしっかりと腕を回した。途中ファミリーレストランに寄って簡単な昼食を摂った。綾はサンドイッチのセット、美樹はアボカドとエビのサラダを注文した。代官山駅を通り過ぎたあたりで、美樹はバイクを停めた。閑静だが豪奢なマンションが立ち並ぶエリアの中で、そのマンションは一際目を引くものだった。沿道からは入り口が見えず、大きく湾曲した手入れの行き届いた並木道を通って二人はエントランスに入った。内部は間接照明がふんだんに使われた落ち着いた空間で、高級ホテルのようなカウンターに男性と女性のコンシェルジュが座っていた。
「すご……家賃いくらなんだろう」と、綾がため息混じりに言った。
「分譲だが、借りるとしたら三桁はかかるだろうな。高校進学の際にシオンは自分で別の部屋を借りようとしていたんだが、親族が無理やり買い与えたらしい。我々はアンチレジストから十分な手当てが出ているし、あいつは他に論文翻訳の仕事もしていたから、セキュリティがしっかりしている部屋を借りるくらい訳なかったんだがな。見せびらかしているみたいで気がひけると言って、シオンはあまり気に入っていなかったし、事実ほとんど誰も家に呼ばなかった。私も入るのは初めてだ」
 美樹が男性のコンシェルジュに話しかけ、身分証を提示した。コンシェルジュに話は通っており、部屋まで案内してくれるらしい。
 ダークスーツを着た男性のコンシェルジュは定規で測ったような歩き方で、シオンの部屋まで案内した。マンションには入居者用のジムやプールもあり、ガラス張りになった通路からは中庭が見えた。中庭は散歩するには十分な広さがあり、小さな川まで流れていた。並木の下に置かれたベンチでは高齢の上品そうな女性が本を読んでいた。車の音や、話し声も聞こえない。もしかしたらこのマンションの中だけ時間がゆっくりと流れているのかもしれないと、綾は思った。
 こちらでございますとコンシェルジュは言って、白い手袋をはめた手でノックをし、恭(うやうや)しくドアを開けた。
 ドアが開くと同時に、玄関ホールのダウンライトとリビングへ続く廊下の間接照明が自動で点灯した。玄関ホールだけでワンルームマンション程度の広さがあり、正面には針葉樹林を描いた油絵が掛けられていた。絵画の下にはキャビネットが置かれ、瑠璃色の玉ねぎのような形をした小さな陶器が飾られている。廊下の壁は大理石で、白とライトグレーのマーブル模様に間接照明の灯りが柔らかく反射していた。
 お邪魔します、と綾が小声で言った。美樹も靴を揃えて脱ぎ、リビングへ向かった。
 リビングはとても広く整然としており、家具がひとつ多くても少なくてもバランスが崩れてしまうほど、的確な場所に的確に家具が配置されていた。中央にはホワイトとブラウンのレザーが張られた大きなコーナーソファと黒檀のテーブルが置かれている。部屋の隅には同じシリーズのラウンジチェアがあり、サイドテーブルには洋書が数冊重ねられていた。おそらくシオンの読みかけだろうと美樹は思った。正面の壁一面が巨大なオープンシェルフになっていて、多数の本の間に、玄関ホールに飾られていたものと同じ玉ねぎのような形の陶器がいくつも飾られている。分類としては壺になるのだろうが、口径がとても小さく、水を入れるのに苦労しそうだ。瑠璃色や紫、緑色のものが多いが、中には本当に玉ねぎのような飴色をしたものや、乳白色のものもあった。
「すっご……まるでモデルルームみたい」と、綾が感心して溜息をついた。
 ──モデルルームなんかと一緒にしないで。
 不意に声が聞こえたので、綾はびくりと身体を硬直させ、美樹は咄嗟に身構えた。
 二人は声の聞こえたキッチンの方を素早く振り返ると、声の主が暗がりからリビングの灯りの下にゆっくりと姿を現した。
 あっ、と言いながら綾が口元を手で押さえた。
「なんだ? 知っているのか?」と、美樹が綾を見た。
「いや、今日のワイドショーで……。スノウ・ラスプーチナでしょ?」と、綾が言った。
「へぇ、あのくだらない記者会見も、自己紹介の手間を省くくらいの効果はあったみたいね」と言いながら、スノウが首を傾げた。顔には小馬鹿にしたような笑みを浮かべている。綾がテレビで見た服とは違うが、やはり真っ黒いゴシックロリータの服に、赤いリボンで金髪をツーサイドアップに結っている。スノウはペリエのペットボトルを三本持っており、黒檀のテーブルに置くと綾と美樹に向き直った。
「ま、あらためて……」と、スノウは言った。「私はスノウ・ラスプーチナ。製薬会社のアスクレピオスで財務を担当しているわ。あんた達には、シオンの妹って言った方が馴染みがあるでしょうね」
「シオンさんの妹!?」と、綾が驚いた。スノウがあからさまに不機嫌な顔になった。
「ちょっと、なに驚いてるの? まさか似てないって言うんじゃないでしょうね?」と言いながら、スノウがずかずかと綾の元に歩いてきた。
 えぇ……と言いながら綾は助けを求めるように美樹を見つめ、美樹は私に振るなと言わんばかりに首を振った。スノウは怒った顔で腰に手を当てながら、綾を見上げている。
「あと、あんたさっきこの部屋をモデルルームみたいだとか失礼なこと言ったわよね?」と言いながら、スノウは綾を指差した。「言っておくけれど、家具やインテリアは全てお姉様の趣味よ。あんた達が不思議そうに見ていたその陶器はローズ・キャバットの『フィーリー』。お姉様が好きで集めていて、用途はまさに鑑賞。花瓶としては使えなくもないでしょうけれど、やめた方がいいでしょうね。あと、そっちのソファとチェアはポルトローナ・フラウ。良い会社だわ。過度な装飾が無くシンプルだけど、上質とは何かを理解している。お姉様の審美眼を、見た目だけのモデルルームなんかと一緒にしないでくれる?」
 綾と美樹は顔を見合わせた。容姿はともかく、性格はシオンとは似ても似つかない。スノウはまだ怒った顔で綾を睨んでいる。ひとまず美樹が前に出てスノウに軽く頭を下げた。
「まず、入室の許可を出してくれた礼を言おう」と、美樹がスノウに言った。「私は鷹宮美樹だ。こっちは神崎綾。私とシオンは学校が一緒で、綾は学校は違うが共通の友人だ」
「へぇ、あんたが神崎綾なんだ。強いって聞いていたけれど、結構ちんちくりんなのね」
「なっ? えっ? あ、あんたの方がちんちくりんじゃない!」
 待て待て待て、と言いながら美樹が綾を押さえた。綾は背の低さを気にしている。スノウはふふんと笑いながら平らな胸を張っている。
「私はいいのよ。いずれお姉様みたいに完璧なプロポーションになるんだから」
「はっ、本気で言ってるの? 無理に決まってるでしょ。私ですらあんたくらいの頃はもっと胸あったんだから」
 綾の反撃に、今度はスノウが怒り始めた。美樹は言い争う二人の間に割って入る。なぜ初対面でここまで喧嘩ができるのだろうか。ある意味気が会うのかもしれないが、このままでは話が進まない。そして先程のスノウの言葉の中には引っかかる箇所がある。スノウが怒って退室したり、そもそも入室許可を取り消されたりしたらたまらない。
「わかったから二人とも落ち着いてくれ。綾も子供相手にムキになるな」
「子供扱いしないでよ! 言っておくけれど、間違っても私を『ちゃん付け』でなんか呼ぶんじゃないわよ」
 わかった、すまなかったと美樹が言った。「スノウ、喧嘩する前にひとつ教えてくれ」
「なに?」と言いながら、スノウは美樹を睨んだ。
「さっき綾のことを強いはずだと言ったな? なぜ綾が強いと知っている?」
「知ってるもなにも、あんた達アンチレジストの上級戦闘員で、その中でも上位なんでしょ? 強いに決まってるじゃない」
 当たり前のことを聞くなという感じでスノウが言い、美樹と綾の動きがピタリと止まった。リビングは三人の呼吸音以外は、水を打ったように静かになった。
「……なんでそれを? アンチレジストを知ってるの?」と、美樹の肩越しに綾が言った。
 スノウも落ち着いたのか、親指でソファを差しながら「とりあえず座るわよ」と言った。

※こちらの文章はラフ書きになります。製本時には大きく内容が変わる可能性があります。
次回更新は2週間後になる予定です。

予告


「──つまり私の作るウイスキーは、常に新しい味や香りを追求し、皆様に驚きと、ある意味ではショックを与えたいと考えております。ただ美味い、香りが良い、飲みやすいといった一般的な価値観に興味はありません。手間暇をかけた自社蒸留はもちろんのこと、一部のラインナップでは日本では未発売か、とてもマイナーな蒸留所の原酒を買い付け、自社貯蔵庫で更に熟成させてからブレンドしております。一部は自前の樽に移し替えますし、時にはウイスキーにとってある種の冒涜的な行為を行うこともあります。ウイスキーが入った樽をクレーンで吊り上げ、破壊しないギリギリの高さから落下させたり、様々な木材の破片を漬け込んだり、貯蔵庫で香を炊いたり、ヘヴィメタルの音楽を大音量で鳴らしたり……。全ては、皆様にウイスキーを通した未知の体験をしていただきたいからです。当然、生産コストは大手メーカーのウイスキーとは桁違いです。また大量生産もできませんので、現在の需要にお応えできる量を生産できていない状況には、心からお詫びを申し上げます」
 午後六時から始まった会見には、多くの記者とカメラマンが集まった。
 三神冷而(みかみ れいじ)はカメラのフラッシュを浴びながら、自分の作るウイスキーを魅力的に、そしてミステリアスに語った。ウイスキーなど、所詮は誰も中身を知ることのないブラックボックスだ。多くの人々がウイスキーに求めるものは味や香りではない。ドラマ性と、それがいかに希少で良い物かどうかという情報なのだと、三神は考えていた。
 自分自身の見た目も重要な情報のひとつだ。サイドを短く刈り上げ、トップをオールバックにしたスリックバックの髪型。彫りの深いくっきりとした顔立ち。ネクタイの完璧なディンプル。そしてイタリアまで出向いてオーダーした高級スーツ。男にも女にも好印象を与える見た目を意識した。「こんな格好良い男が、なにやら革新的なことをして作った酒は良いものに違いない」と、大衆に思わせることができれば成功だ。そして彼を取り囲む多くの記者やテレビカメラが、彼の目論見が成功したことを表していた。あのテレビカメラの先には、数多の一般大衆が自分の一言一言を注意深く聞き、次に発売するウイスキーに想いを馳せているはずだ。
 今や自身の名を冠した「レイズモルト」は、発売から半年しか経っていないにもかかわらず、飛ぶ鳥を落とす勢いで知名度が加速している。まだ国内流通しか行っていないが、ワインの五大シャトーよりも投機的価値があるとメディアがこぞって煽り、人気はアジアにも及び始めている。新作を発売すれば即完売。すぐに転売され、末端価格は売価の十倍以上になることも珍しくない。
 そして今日の発表は、世間をさらに沸き立たせることになるだろうと三神は思っていた。
「では、会見の本題に入らせていただきます」と、司会の男がよく通る声で言った。「このたび、三神が代表を務める弊社『レイズ』は、世界的製薬会社大手の『アスクレピオス』様と、業務提携に向けた協議に入っております」
 記者達がどよめいた。
 司会の言う通り、アスクレピオスと言えば百年以上の歴史を持つ、ロシアに本社を置く世界的製薬会社だ。規模こそファイザーやノバルティスには及ばないが、バイオ医薬品の部類ではかなりの存在感を放っている。規模に反して株式は公開されておらず、製薬会社としては珍しい家族経営を今でも貫いている。しかし、なぜ世界的製薬会社と、人気とはいえ日本のウイスキーメーカーが提携するのかと記者達は思った。人気や知名度はさておき、酒造メーカーの企業規模は大手を除いて、いずれも中小どころか零細の域である。レイズ社ですら例外ではなく、資本力も雲泥どころの差ではない。その空気を察したのか、司会の男は軽く咳払いをしてから次の言葉に繋いだ。
「本日は、アスクレピオス様から代表として一名、この場にお越しいただいております。本日のためにロシアの本社から来日いただいた、スノウ・ラスプーチナ様です。一言、ご挨拶をいただきます」
 紹介された人物が袖から入ってくると、記者達はさらに度肝を抜かれた。
 フリルの付いた真っ黒いゴシックアンドロリータの服に身を包んだ十代前半と思しき女の子が、胸を張って会場に入ってきて、三神の横に並んだ。「子供?」と、カメラマンの誰かが言った。女の子は背も小さく、身体の凹凸も乏しい。綺麗な金髪を赤いリボンでツーサイドアップに結んだ髪型も、幼さをより強調している。ロシア人の秘書らしき男が入ってきて、スノウの身長に合わせたマイクスタンドをセットした。その間、スノウは自信ありげな笑みを浮かべながら、というより少し小馬鹿にしたような表情で、記者とカメラマンをゆっくりと見回した。
「スノウ・ラスプーチナです。アスクレピオスの本社でCFO(最高財務責任者)の元、財務を担当しています。なにか質問はありますか?」
 スノウはマイクがセットされるや否や、流暢な日本語で言った。わずかに首を横に傾げ、口元だけで笑っている表情はやはり小馬鹿にしているように見える。記者達は呆気に取られていた。業務提携の説明のために日本法人の男性が入ってくるのかと思いきや、生意気そうな外国人の女の子が入ってきたのだ。無理もないだろう。
「なにも無いですか?」と、スノウは言った。顔からは笑みが消え、不機嫌そうな表情になっている。
「あの……」と、前列の男性記者がおずおずと手を挙げた。スノウがどうぞと言って手を向けた。
「その格好は、ゴスロリですか?」と、指名された男性記者が言った。
 スノウは「このバカはいったい何を言っているんだ?」と言いたげな表情になった。これ? と言いながら服の胸元を摘んで首を傾げ、不機嫌そうな顔のまま質問した記者を睨む。
「そうですけど、これがなにか? 仕事と関係のある質問ですか?」
「随分とお若く見えますが、年齢はおいくつですか? 学校は?」と、すかさず別の記者が言った。子供に問いかけるような声色だ。あからさまにスノウの眉間にシワが寄ったので、司会者が質問を遮り、業務提携に関する質問をするように促した。後方の女性記者が手を挙げた。
「失礼ですが、なぜ財務担当の方が来られたのでしょうか? 業務提携は、本来はマーケティングや経営企画の担当では?」
 スノウは質問を聞いて、ふんと鼻を鳴らした。やっと少しはマシな奴が出てきたかという様子で、マイクに向かって喋り始めた。
「日本企業の財務は違うのかもしれませんが、組織内の資産の動きだけではなく、将来に向けた資産配分や投資案件を検討するのも財務の重要な役割です。そしてレイズ社との提携を企画したのも、この提携の責任者も私です。先ほどから皆さんは私の服装や年齢を気にされているみたいですが、我々アスクレピオスは完全な実力主義を敷いています。性別や容姿や年齢など、我々にとっては取るに足らないものです。私が代表としてこの場に立ち、提携について話をしていても、アスクレピオスとしては何ら不思議なことではありません」
 記者達はスノウの回答に顔を見合わせた。どこか小馬鹿にしたような表情は変わらないものの、堂々とした口調で経営について滑らかに話をするスノウは見た目とのギャップもあり、ある種特別なオーラを放っているように見えた。記者達は興味を引かれ、数人が同時に手を上げた。
「なぜ、ウイスキーメーカーと提携されるのでしょうか? 製薬とウイスキーは畑違いでは?」
「まずマーケットの話をさせていただくと、ウイスキーは皆さんもご存知の通り、今後も需要の拡大が期待できる有益な市場です。有益な市場がそこにあるのに、畑違いだからと指をくわえて見ているだけでは、なにも得られません。また畑違いと思われるかもしれませんが、私はそうは思いません。我々は創業から百年を超える知見の積み重ねにより、人間の受ける官能を数値化することが可能です。そして、ウイスキーの持つ香りや味わいが人間の感覚器官への刺激、つまり官能である以上、我々の知見は製薬だろうが酒造だろうが、あらゆる分野で生かせると考えています。ウイスキーは今までは良くも悪くもブレが大きく、完成するまで品質がわからない、ある種偶然の産物でした。自然任せと言えば聞こえはいいのですが、愚かなほど非効率です。しかし我々アスクレピオスの技術を用いれば、レイズ社の作るウイスキーを完全にコントロールし、狙い通りの香味の実現が可能です。先ほど彼が語った新しい味や香りと言うものも、我々であればいとも簡単に、何種類でも作り出せます──」
 そのような可能性もあります、と三神がスノウの話を遮るように割って入った。スノウが視線の端で三神を睨む。
「お聞きの通り、アスクレピオスさんは弊社が逆立ちしても敵わない技術をお持ちです。冒頭申し上げた通り、今までに無い新しい香りや味のウイスキーを作り皆様にショックを与えたいという考えでは、我々とアスクレピオスさんは意見が一致しています。しかし、まだ提携について打ち合わせは始まったばかりです。今後、良い進展を皆様にご報告できると信じております」
 三神が会見を切ろうとした時、先ほど質問した女性記者が声をあげた。
「最後にすみません。スノウさんのファミリーネームについてですが、失礼ですが創業家とのご関係は?」
「……ええ、前社長は私の実の父です」と、スノウは興味なさげに言った。「十年ほど前に亡くなりましたけどね」

「困りますな……勝手に話を進められては」
 記者達が引き上げた会見場で、三神が顔を歪めながらスノウに言った。苛立っているのだろう。刈り上げた側頭部をしきりに掻いている。
「話が早くていいじゃないですか。そもそも私がさっき言ったことが目的で、そちらは提携の話に乗ったのでは?」
「それはそうですが、発表には然るべきタイミングと方法というものがある。あれではまるで、そちらの指示通りにウチがウイスキーを作ると言っているようなものだ」
「事実そうじゃないですか」
「違う! 下請けになったように聞こえたら、それこそ変な誤解を生んでしまう。ウイスキーはブランドイメージが大事なんだ。確かに会社規模は比ぶべくもないが、話はあくまでも対等な提携で、吸収や買収ではないはずだ。今日は提携について協議を開始するという内容発表にとどめるべきだった。自己紹介して握手でもすれば、それで十分だったんだ」
「もったいつけて何の利があるんです? ウイスキーなんて、所詮は多少の香味成分の入ったエタノールと水の混合物に過ぎないじゃないですか。そんな物に、なにをそんなに必死になっているんです?」
 なんだと、と三神が声を荒げた。スノウは涼しい顔をして、不敵に微笑んでいる。
「今のは聞き捨てなりませんな……。私の仕事に価値が無いと言っているんですか?」
「そうは言っていません。たとえ無価値なものでも利益を生み出している以上、それには価値があります。例えばあなたの言っているブランドイメージとやらがそれです」と、スノウは三神を指差しながら言った。「繰り返しますが、大切なのは利益です。この提携はお互いの利益を最大限にすることが第一の目的であり、私にはそれが出来る。美味しいウイスキーとやらを世間に届ける目的は二の次です。それに、私は見ての通り未成年なので、提携後のウイスキーが完成しても飲む機会はとうぶん先です。成果物にありつけない以上、利益重視で動かざるを得ないことを、どうかご理解いただければ」
 スノウは嘲笑するような表情で、そんなこともわからないのかという口調で一気に捲し立てた。そして指を鳴らし、背後に控えていたロシア人の秘書からアタッシュケースを受け取ると、三神の足元に放り投げた。
「あなたが欲しがっている『今までに無い新しい香りや味のウイスキー』とやらのレシピとサンプルです。とりあえず二十種類ほど作ってみました。足りなければ追加で送ります。では、今日はこれ以上話すことはありませんので……」

 スノウが秘書を従えて去った後、三神はしばらくブルブルと身体を震わせ、演台を蹴飛ばした。派手な音を立ててマイクや水差しが床に散乱する。
「なめやがって……あのクソガキが!」
 三神が倒れている演台をさらに蹴った。派手な音が会場内に繰り返し響き渡る。司会の男は狼狽しながら、なす術なく遠くから見守るしかなかった。
「おい、豚!」
 三神が怒鳴ると、袖から肥満体の男が現れた。スキンヘッドに無精髭を生やし、着ているスーツはシワだらけで今にもはち切れそうだ。そもそもサイズが合っていない。ジャケットは肩幅が長過ぎて「ひさし」のように迫り出しているのに、袖が短過ぎて白いシャツのカフスが全て見えている。
「お呼びでしょうか?」と、豚と呼ばれた男が呑気な口調で言った。風体に似合わず、よく通った聞き心地のいい声だ。
「あのクソガキのことを調べろ!」
「クソガキですか?」
「スノウ・ラスプーチナだ!」と言いながら、三神はもう一発演壇を蹴った。「お前も見ていただろうが! さっきここで俺をコケにして、恥をかかせたメスガキだ!」
「なんだスノウちゃんのことですか。クソガキだなんて言うから、そんな子いたかなと考えてしまいましたよ。もちろん見ていましたよ。なんたって私の好みど真ん中の女の子ですから。女性記者はみんな二十歳以上のババァばかりで、目が腐るかと思っていたところです。それにしても、本物は写真よりも何倍も可愛くて──」
「黙れロリコンが! さっさとあのガキを調べろ!」と叫びながら、三神が演題を蹴飛ばした。
「そんなこと言われなくても、とっくに調べていますよ。スノウちゃんは子供の頃──と言っても今でも子供ですが、スイスのボーディングスクールに短期留学した後に大学を飛び級で卒業しています。かなり優秀で、大学では化学と経営学を同時に学んでいたそうです。そして卒業と同時にアスクレピオスに入社しています」
「そんなことは知っている! いくらでもネットに書いてあるだろう。何か弱みを握れ!」
「いえ、大切なのは、なぜそこまで急いでアスクレピオスに入ったのかということです」と、豚は言った。「アスクレピオスは確かに世界的な企業ですが、スノウちゃんがそこまで優秀なら、家業を手伝う前に色々と出来たはずです。たとえば他の大手企業やシンクタンクで実績や経験を積む機会はたくさんあったでしょうし、むしろその方がアスクレピオスに戻ってからより大きな貢献が出来たはです。事実、大学在学中からスノウちゃんは様々な分野から引く手数多だったらしいですが、全て断って一分一秒を争うように実家に戻っている。おかしいと思いませんか? そこまで優秀な子が、なぜそのようなもったいない選択をしたのか。帰らなければならない理由があったということです。それも急いで……。その理由が何なのかまではもちろんネットには書いていませんが、もしかしたら弱みになるのかもしれません」
 三神は苦虫を噛み潰したような顔で唸りながら顎に手を当てた。豚は容姿は酷いものだが、仕事は出来る男だ。やがて三神は豚の顔を指差しながら言った。
「あのクソガキのことはそのまま調べておけ。あと、『レイズ・バー』は今日は機材トラブルで閉店にしろ。俺の借り切りにする。壊してもいい適当な女をレイズ・バーに呼んでおけ」
 豚は相変わらず呑気な口調でわかりましたと言い、小走りに会見場を出て行った。

 スノウがチュッパチャップスを咥えながらビルの階段を降りると、待ち構えていたカメラマンとインタビュアーに囲まれた。
 会見の時しか撮影を許可していないはずだ。日本で雇ったボディガードが記者達を押し除け、なんとかスノウと秘書が通れるスペースを作る。スノウはカメラを睨みつけ、口に入れたばかりのチュッパチャップスをガリッと噛み砕いた。
 日本の印象は?
 なぜゴスロリ服を着ているんですか?
 服はどこのブランドですか?
 スノウ本人に関する質問が騒音に紛れて聞こえてきた。
 囲みの外でガードマンがカメラマンの一人を強く押したらしく、機材が壊れる音と怒号が響いた。
 スノウは難儀しながら階段下に待たせてあった車に乗り込んだ。外見は黒いロールス・ロイスに似ているが、ひと回り大きい。スノウがロシアから持ち込んだアウルスというブランドの車で、純ロシア製の高級車だ。車を撮影しているカメラマンも複数いる。
 運転手が後部座席を閉めると、車内はほぼ無音になった。サイドガラス越しに車内は見えない。フロントに回り込んだカメラマンを押し除けるように、車は静かに走り出した。
「はぁ……うっざ。ハリウッドスターの出待ちじゃあるまいし」
 スノウはセンターテーブル下の収納からチュッパチャプスの箱を取り出し、ストロベリークリーム味を探し出して口に放り込んだ。後部座席に身体を投げ出すように座ると、最高級のレザーとクッションがスノウの小さな身体を優しく抱きとめた。
「いかがでしたか。三神冷而は」
 助手席に座っている秘書が、スノウにロシア語で聞いた。スノウはうーんと言いながら斜め上を見るようにして口の中でチュッパチャプスをコロコロと転がし、しばらく考えた後に答えた。
「自信は無いのに虚栄心だけはある人間の典型って感じ。見た目や話し方で繕ってはいるけれど、少し挑発したらすぐ逆上したし。会見の冒頭であいつが喋っていた妙なウイスキーの作り方も、どこまで本当かわからないわね。レイズモルトも、おそらく大したものではないでしょう。あいつと同じように」
 スノウは秘書に、金額はいくらかかってもいいからレイズモルトを二本手配するように依頼した。都内のバーを探せば未開封のものがあるだろう。秘書がホテルのコンシェルジュに電話をかけている間、スノウは静かに目を閉じた。車の微かな揺れの中、その頭脳は素早く回転していた。


※こちらの文章はラフ書きになります。製本時には大きく内容が変わる可能性があります。

あけましておめでとうとございます。
本年もどうぞよろしくお願い致します。

現在制作中の新章についてですが、だいたい半分の6話程度のラフが書き終わりましたので、1月9日より公開していきたいと思います。
1〜2週間を目処に1話ずつ公開していきますので、楽しんでいただけたら幸いです。
では、よろしくお願い致します。
予告

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