Яoom ИumbeR_55

Яoom ИumbeR_55は「男性→女性への腹パンチ」を主に扱う小説サークルです。未成年の方、現実とフィクションの区別のつかない方は閲覧しないでください。

予告

 綾と美樹が帰った後、スノウは一人でシオンの部屋に残り、ソファに座ったまま頭を抱えていた。
 爪先から血液が逆流するような寒気が駆け上がってきて、心臓が掴まれているような感覚を覚えた。
 もしかしたら、最悪の事態になっているのかもしれない──。
 シオンの生死は不明。生存していたとしても、親友の美樹や綾には一度も連絡を取っていない。新しい情報は何も無かった。
 スノウの脳内であらゆる可能性が試算されている。
 やがてスノウは、普段は決して人には見せない憔悴しきった顔を上げた。「……アンチレジストを、本格的に巻き込むしかないわね」
 スノウの頭脳は、最悪のケースを想定して動くように結論を出した。
 スノウはふらふらとソファから立ち上がると、シオンの書斎への向かった。
 リビングとはテイストの違ったビクトリア様式の内装で、ダークブラウンのフローリングの上に絨毯が敷かれ、大きな執務机の上にマッキントッシュが二台置かれている。一台は電源が切られ、もう一台はスリープ状態のままだ。パスワードは先日突破している。起動させると、ハッキングソフトが静かに稼働し続けていた。画面にはセキュリティを突破されたアスクレピオスの社内システムが表示されていて、いつ、どこにでも送金が可能な状態になっている。
「……なにをするつもりなの?」
 スノウが机に両手をついたまま項垂れて、「お姉様……」と絞り出すように言った。

 午後七時過ぎに、スノウは単独で「レイズ・バー」を訪れた。
 虎ノ門のとある高層ビルの最上階にある、三神の経営する会員制の高級バーだ。
 常にレイズモルトが飲める店だとメディアに多数取り上げられているが、現在は新規の会員は募集されていない。
 重厚なドアの入口にはやけに太った男が待機していて、スノウを見ると「これはこれはスノウ・ラスプーチナ様、お待ちしておりました」と言いながら深く頭を下げた。容姿に反して耳障りの良い声と、完璧な最敬礼だった。
「わたくしは三神の秘書を努めさせていただいておる者でございます。名乗るほどの者ではございませんので、どうぞ見た目通り『豚』とお呼びください」
 豚は顔を上げると、満面の笑みでスノウを見た。
 スノウはかなり引いている。「豚? いや、そういうわけには……」
「いえいえ構いません。三神からもそう呼ばれておりますし、むしろ豚と呼んでいただかなければ私が呼ばれていると気が付きませんので」
 豚は丁寧にドアを開け、スノウを中に招き入れた。バーの照明は薄暗いダウンライトと間接照明のみの落ち着いた雰囲気だ。壁面は全てガラス張りで、眼下に東京の夜景が見えた。客はおらず、バーテンダーすらいない。店内の椅子やソファの背もたれには全て「RAY`S BAR」と筆記体で刺繍がされていた。中央のソファには三神が座っていて、スノウを見ると立ち上がり、自分の向かいのソファを勧めた。
「カッシーナですか」と、ソファに座りながらスノウが言った。
 三神がうなずいた。「ええ、別注したんですよ。イタリアにスーツを作りに行ったついでにね。ここは最高の店にするつもりでしたので、家具も全て最高のものを揃えました。あなたのような特別なゲストをお招きするときの来賓室としても使えるようにするためです。一見客は入れませんし、会員は財界人や芸能関係者ばかりです。この店の価値がわかる人間しか入ってほしくないんですよ」
 三神は両手を広げて語った。スノウは「悪くない」と言った以外は、特に感想を言わなかった。豚がスノウの近くに歩み寄り、失礼いたしますと言って頭を下げた。
「お飲み物はいかがなさいましょう? ここはバーですので、ソフトドリンクも様々なものがございます。ノンアルコールのカクテルもお作りできますし、ご希望であればレイズモルトを含めたアルコールも提供させていただきます」
「遠慮させていただきます。これの前の商談でも飲み物をいただいたので」
 スノウは強気そうな笑みを浮かべたまま、三神から視線を外さずに言った。
「ビールを」と、三神もスノウを見たまま言った。豚は会釈すると、バーカウンターに入っていった。
「失礼。気を悪くしないでいただきたい。大切な商談の時はいつも少し飲むようにしているんですよ。決断の最後の一押しになる」
「構いませんよ。私は仕事の話ができれば、たとえ相手が酔っ払っていようが薬をきめていようが気にしません。後になって、あの話は酔っ払っていたので無かったことに、というのは困りますが」
 ははは、と三神は乾いた声で笑った。豚は脚付きのグラスにミネラルウォーターを入れてスノウ の前に置いた。三神の前にも繊細なカットが施されたビアグラスを二脚置き、三神はそのうちの一杯をほぼ一口で飲み干すと、二杯目にも口を付けた。最後に自分の分のコーヒーを淹れて三神の隣に座った。
「昨日渡したサンプルですが、もう試されましたか?」
 スノウは背もたれに深く身体をあずけながら言った。
 三神は視線をそらし、何回か小さく頷いた。「ええ、まぁ」
「まぁ、というのは? 気に入らなかったということでしょうか?」
「いえ……大変素晴らしかった」
 三神は素直にそう言った。二十種類のサンプルは、いずれも基本的なウイスキーとしての味と香りを押さえつつ、どこかの箇所を鋭く尖らせたような個性と魅力があった。会見でのスノウの高圧的な態度から、サンプルがそこそこの出来であればこきおろしてやろうと考えていた三神だが、まさに打ちのめされた。本当にあのガキが作ったのか? と認めたくない三神は何回も思ったが、同時に、これは売れると確信せざるを得なかった。しかもスノウは必要であればいくつでも作ると言い捨てて去っていったのだ。このクオリティのものを何種類でも量産できるとなれば、まさに革命ではないか。
「それは良かった」と言いながら、スノウは相変わらず小馬鹿にしたような笑みを浮かべると、ミント味のチュッパチャプスを取り出して咥えた。「私も失礼。子供の頃からこの飴が大好きで、咥えていると落ち着くんですよ」
 まだじゅうぶん子供だろうと三神は思ったが、もちろん口には出さなかった。隣ではロリコン趣味の豚がスノウを凝視している。確か昨日は好みのど真ん中と言っていたが……。三神は視線に気がつかれないかとひやひやした。
「……弊社としては、ぜひアスクレピオスさんと提携していただきたいと思っています」
 三神が身を乗り出して言った。スノウは相変わらず背もたれに身体を預けている。悪くないカッシーナの背もたれに。
「私の指示通りにウイスキーを作ると?」
「そうです。今までのラインナップは継続しつつ、新たなシリーズとして、スノウさんのレシピ通りに作ったものを発売したい。シリーズ名は『スノウ』にしようかと思っています」
 はっ、とスノウが呆れたように短く笑った。「私の名前ですか?」
「ええ。スノウさんは昨日の会見以来、日本でかなり知名度が上がっています。話題性もあるし、肝心のウイスキーも素晴らしい。今までにないほど売れますよ、このシリーズは」
「でしょうね。売れるように意識して調合しましたから」
「では、契約条件について話を進めても?」
「いえ、その前にひとつ確認しておきたいことがあります」
 今度はスノウが身を乗り出した。両手を組み、その上に顎を載せている。今までの小馬鹿にしたような笑みが消え、すっと真剣な表情になった。
「そもそもなぜ、レイズモルトはこんなに人気になったんです?」
 三神はやれやれという様子で首を振った。
「それはもちろん、私どもの努力や品質が世間に評価され──」
「違う。あなた達はもともと輸入ウイスキーを日本で瓶詰めして『大和—YAMATO—』という日本的な名前を付け、外国人観光客をターゲットに売り出している小さなメーカーに過ぎなかった。愛好家からは姑息な商売だと反感を買い、ブランド価値は決して高くはなかった。しかし、半年前から突然ラインナップをレイズモルトに一新し、直後に異常なほどのブームになった。いったい、なにをしたんです?」
「確かに最初は投資回収のために輸入ウイスキーをメインにしていましたが、その影で自社蒸留もしていたんですよ。その原酒が育ってきたんです」
「それにしては販売量が多すぎる。私の予想では、現在のレイズモルトの中身はほとんどが輸入ウイスキーで、中身も『大和—YAMATO—』とほぼ変わっていない。しかし人気だけは爆発している。なぜです?」
「ですからそれは先ほども言った通り──」
「なら質問を変えましょう」
 スノウはチュッパチャプスの棒を灰皿に捨てた。カチンと軽い音が響いた。
「ノイズ──という言葉に聞き覚えは?」
 スノウはまるで未知の文字が刻まれた石板の謎を解こうとする考古学者のような表情で三神の顔を見た。
「ノイズ? なんですかそれは?」と三神が言い、炭酸ガスが抜けたビールを飲んだ。
「聞き覚えがあるかどうか、それだけです」
「……英和辞典に載っている、騒音という意味以外では、聞き覚えはありませんね」
「本当に?」
「本当です」
「なるほど──」
 スノウは再び背もたれに背中を預けて、しばらく窓の外の夜景を眺めた。やがて「ではこうしましょう」と言って、スノウは三神に視線を向けた。
「私のレシピから作るウイスキーの名前は、全て『ノイズ』という名前にしていただきたい」
「なんだと」
 三神が立ち上がった。
 スノウが小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。「簡単でしょう? あなた達には聞き覚えも関係もない名前です。ネーミングもシンプルでありながら、なおかつ良い感じに引っかかりもある。あなたのように思わせぶりにするのなら、『歴史あるクラシック音楽のような数多のウイスキーの中の、ノイズでありたい』とでも言っておけば客も喜ぶでしょう。できない場合は、この提携は決裂ということで」
 三神が身体を揺すりながらスノウに近づいた。スノウもソファから立ち上がる。
「……最初から提携する気なんて無かったのか?」と、三神が低い声で言った。
「なにを怒っているんです? ネーミングの提案をしただけなのに」
「うるせぇ。散々コケにしやがってクソガキが。秘書を連れてくるべきだったな」
 三神がスノウを掴もうと手を伸ばす。
 スノウはその手を振り払い、近くにあったテーブルを蹴飛ばした。
 その小さな身体から放った蹴りとは思えないほど、テーブルは簡単に舞い上がった。
 三神が虚を突かれている間、スノウはまるで肩車をされるように三神の後頭部にまたがり、三神の喉を太腿で締め上げた。
 ごえっ……と三神が悲鳴を上げる。
「秘書を連れてこなくてよかった」と、スノウが三神の頭を愛おしむように両手で撫でながら言った。満面の笑みだった。「私の秘書はこういう風に手加減ができない人間なので……。まぁ、私も色々と挑発が過ぎましたから、今回の件は不問にしてあげますよ」
 床に手をついて咳き込む三神に一瞥をくれて、スノウはレイズ・バーを出た。ドアが閉まると三神は「クソッ」と吐き捨てるように言い、豚はスノウが灰皿に捨てたチュッパチャプスの棒を拾って口に咥えた。

※こちらの文章はラフ書きになります。製本時には大きく内容が変わる可能性があります。

予告


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 そのソファは恐ろしく座り心地が良かった。
 一見何の変哲も無いソファだが、クッションはまるで自分の身体に合わせてオーダーメイドされたように下半身を包み込み、張られたレザーもしなやかで良く伸びた。
 スノウは足が床に着いていないが、別段気にする様子もない。何回かこのソファに座ったことがあるのだろう。そして隣にはシオンもいたのだろう。
 スノウはソファに座るや否や、慣れた様子でペリエをペットボトルのまま飲んだ。美樹と綾もそれに倣い、ペリエを開けた。スノウから話しかけられるのを待ちながら、二人はなんとなくフィーリーという名のタマネギに似た陶器を見た。
「言っておくけれど」と、スノウが言った。「お姉様がアンチレジストのことを私に喋ったわけじゃないわ。守秘義務のことは私も知っているし、お姉様もそれを破るような人じゃない」
「じゃあなんで知ってるのよ?」と、綾が言った。
「資金提供」と、スノウが正面を見ながら呟くように言った。「アスクレピオスからアンチレジストへ、定期的に資金提供をしているのよ。もちろん極秘融資で、社内でも知る人間は経営に関わる一部の親族だけ。お姉様は家業とは一切関わっていないから、アンチレジストに資金提供していることすら知らなかったでしょうね。まさかお姉様本人が戦闘員として活動するなんて想像もしなかったけれど」
「我々の活動資金がどこから出ているのかずっと疑問だったが、その一部がアスクレピオスだったとはな。シオンがアスクレピオス創業家の長女だということも驚いたが」と、美樹が呟いた。
 知らなかったの? と、スノウが聞いた。
「ああ。向こうから話してくれればもちろん聞いたがな。シオンはあまり出生や家のことは話したがらなかったし、私達もあえて聞かなかった。誰にだって自分の中に踏み込まれたくない部分はある。私にだってあるし、お前にもあるだろう。そして、それは無理に踏み込むべき領域ではない。相手の全てを知ることと、相手を理解することは、似ているようで全く違う」
 美樹の言葉に、綾も頷いた。スノウは美樹と綾の顔を観察するように見た。そしてペリエを一口飲み、天井から下がっているランプを見上げてぽつりと言った。
「二人とも……やっぱり仲良かったんだ。お姉様と」
 強気な表情は変わらないが、その横顔は少し悲しそうに見えた。エメラルドのような瞳は、確かにシオンのそれを思い出させた。
 スノウは話を続けた。「お姉様はこの家に人を呼んだら嫌われてしまうかもしれないと悩んでいたけれど、あんた達二人なら大丈夫かもしれないと言っていたわ。よほど気を許していたのね。二人の話をしている時のお姉様は、本当に楽しそうだった」
 スノウは照れ隠しのように髪を縛っている赤いリボンをいじった。
「今更だけど、随分と日本語が上手なのね」と綾が言った。
「お姉様が日本に移住した後に勉強したの。日本にはいつか行きたかったし、それにビジネスにおいても日本の市場は大きいから、通訳を介すよりも直接交渉が出来た方がスムーズなのよ。仕事やプライベートで日本に来るたびに、ここに泊まったわ。お姉様は私が泊まりに来ると毎回はりきって料理を作ってくれようとするんだけど、お姉様は料理だけはあまり得意じゃないから、いつも私が無理やり退かして代わりに作ったの。お互い忙しいから年に何回も会えなかったけれど、泊まった時はこのソファに座って、夜遅くまで色んな話をしたわ。それでも足りなくて、客間があるのに一緒のベッドに入って、明け方まで話をした。お姉様は普段はしっかりしているけれど、私と話をする時は本当によく笑うのよ。私はお姉様の妹として生まれてきたことが誇りなの。あんなに素晴らしい人は他にはいないわ」
 スノウは少し寂しそうに笑った。「そう言えば、こういうデザインの服を着るようになったのもお姉様の影響ね。お姉様はなぜかメイドに傾倒していて、クローゼットひとつが全部メイド服で埋まっているの。私が来るたびにあれこれと着せてくれて、結局いつも二人でファッションショーになるんだけど、お姉様と私じゃサイズが合わないのよね……。服の系統としては私も嫌いじゃなかったし、なによりお姉様が可愛いって言ってくれたから、似たような服を探して着るようになったの」
 どうやらスノウはメイド服とゴシックロリータを一緒くたにしているようだが、二人は黙っていることにした。それにしても、スノウは最初の印象とはずいぶんと変わって見えた。ぶっきらぼうな口調は変わらないが、記者会見で見たような、あからさまな棘のある言動はしてこない。シオンのことも本当に慕っているらしい。しかしシオンとの思い出を饒舌に語るスノウは、本題を言うのを迷っているようにも見えた。美樹と綾もそれがわかっていた。だから無理に急かすことはしなかった。
 しばらく取り留めのない話が続いた後、スノウが「お姉様が失踪してから半年も経つわね」と切り出した。
「お姉様が失踪した孤児院での事件。最後にお姉様と一緒にいたのは美樹、あんたなんでしょ? お姉様になにがあったの? 美樹とお姉様が人妖と戦うために孤児院に行ったところまでは知っている。でも中で何があったのかは知らない。そこで美樹は生き残り、お姉様は行方不明になった。孤児院は全焼している。最初は正直、美樹がお姉様になにかしたのかと思ったわ。でもお姉様の今までの話ぶりと、実際に会って話をしてみても、美樹がそんなことをする人とは思えない」
 人妖のことまで知っているのかと美樹は少し驚いたが、いよいよ隠し事をする必要はなくなったなとも思った。なによりスノウは、シオンの家族なのだ。友人の家族に協力するのは当然のことだろう。
「終始一緒にいたわけではない。私とシオンは別の場所で、別の相手と戦闘していた。もちろん互いの姿は見えなかった。敵は冷子という女と、蓮斗という男だ。冷子は使役系と呼ばれる強力な人妖で、蓮斗は人妖になるために冷子に取り入っていた人間だ。蓮斗は冷子によって身体を作り替えられ、なんと言うか……化物のようになった。身体が何倍にも大きくなって、倒すのに苦労した」
「何倍にも……? 人妖にそんなことができるの?」と、スノウが顔をしかめた。
「ああ。詳細を話してもあまり気持ちの良いものではないから省くが、見ているのが辛かった……。巨体の蓮斗が暴れ、孤児院の床に大穴が開き、シオンはそこに落ちてしまった。地下は病院か研究所のような作りになっていて、冷子もシオンを追って穴から飛び降りた。地下で戦闘があったはずだが、私がシオンを見たのはそこまでだ」
 スノウは美樹の顔をじっと見ていた。そこには小さな変化やあらゆる情報を見逃すまいという強い意志が見て取れた。
 美樹は話を続けた。「私は蓮斗を倒した後、シオンが気になって床に空いた穴から地下に降りた。冷子と思われる遺体はあったが、シオンの姿は無かった。現場にあったのは、このヘッドドレスだけだ」
 美樹はテーブルの上に、ビニールパックに入ったシオンのヘッドドレスを置いた。上質なシルクに、白と黒の細かいレースが編み込まれている。手がかりになればと美樹が預かっているものだ。スノウはそれを手に取り、生き別れになった家族の写真を見るような表情でじっと見つめていた。
「お姉様が……その冷子って人妖を殺したの?」
 スノウがヘッドドレスを見つめながら言った。
 美樹は静かに首を振った。
「わからない」
「冷子の遺体は見たんでしょ?」
「見た」
「どういう状態だったの?」
「損傷はかなり激しかった」
「瓦礫や火災に巻き込まれたことによる損傷? それとも、人の手によるもの?」
「……後者だ」
 スノウは親指の爪を噛みながら、ロシア語でなにかを呟いた。スノウの頭の中が高速で回転していることが美樹と綾にもわかった。
 やがて錆びたゼンマイ人形のように、ぎこちなく美樹の方に顔を向けた。
「本当に……」と、スノウが絞り出すように言った。顔色は青ざめて、エメラルドの瞳の焦点が合っていなかった。吐き気を堪えているようにも見えた。「本当に……それ以来お姉様と会っていないの? 何か連絡とか、似た人を見たとか、そういう噂も聞いたことはない?」
「ない。あったらとっくに動いている」と、美樹は言った。
 それもそうよね……と言いながら、スノウは暗い表情で下を向いた。シオンのわずかな手がかりを探っているのだろうが、力になれない歯痒さを美樹は感じていた。
 美樹は天井を見て記憶を探った。最後にシオンと会った時のことを思い出す。雪の降りしきる孤児院のレンガ道を歩いている。入り口のドアの前に立つと、ホールの中から蓮斗の戯けたような声が聞こえた。瞬間的に感情が昂り、ドアを蹴破って中に入った。シオンが床に座り込んでいたので立たせた。わずかに動揺はしていたが、落ち着いていた。その後、蓮斗と言い合いになり……。
「……そういえば」
 ポツリと美樹が言った。スノウが縋るような表情で美樹を見た。こんな表情のスノウを見るのは初めてだった。
「蓮斗は、シオンの出生をずいぶんと詳しく調べていたみたいだった。シオンのことを世界的製薬会社の令嬢だと言って、酷く罵っていた。まさかアスクレピオスのことだとその時は思わなかったが。蓮斗は……まぁ私も似たようなものだが、出自は決して恵まれたものではなかったからな。その辺りが気に食わなかったのかもしれん」
「お姉様が言われていたのは、令嬢だってことだけ? 他になにか言われてなかった? 例えば子供の頃の話とか……」
「子供の頃? いや、その時点ではそれだけだ。子供の頃に何かあったのか?」
 いや、と言ったきりスノウは質問に答えず、視線をテーブルの上に戻して再び考え事を巡らせ始めた。手持ち無沙汰に美樹は無意識にポケットのタバコを探り、シオンの家であることを思い出して諦めた。
「……悪いけど、明日私の泊まっているホテルに来てくれない? 詳しい時間と、ホテルの部屋番号は後で連絡するから」と、スノウはテーブルの上を凝視したまま言った。まるでテーブルの上に世界を揺るがす重要な装置が置かれているような視線を送っているが、もちろんテーブルには飲みかけのペリエが三本置いてあるだけだった。
 わかったと言って、美樹はあっさりとソファから立ち上がった。美樹が目配せし、綾も従って立ち上がった。色々と聞きたいことはあったが、信用を得られているのなら深追いするよりも、最初は要求通りにしていた方が後々利することが多い。
「こちらからもひとつ質問だが」と、美樹は言った。スノウがソファに座ったまま顔を上げる。立ち位置的にスノウが美樹を見上げる姿勢になり、心理的に優位に立てるタイミングを選んだ。従っているだけでは主従関係になってしまう。「その髪を留めているリボンなんだが、なぜ右のリボンだけ古ぼけているんだ? 別に貶しているわけじゃない。むしろ服装には拘っているみたいだから、意図的なものかと気になってな」
「……ああ、これ?」と、スノウは右のリボンに手を当てた。左右とも赤いシルクのリボンだが、確かに右側のリボンは光沢が落ち着き、生地も痩せてきている。「これは子供の頃、お姉様から頂いた物なの。クリスマスの初めてのプレゼント交換で、私はお母様に手伝ってもらって自分で焼いたクッキーを、お姉様からはリボンのセットをいただいたの。大切に使っていたんだけど、傷んだり汚れたりして、これが最後の一本……」

 綾と美樹はシオンのマンションから出て、道路を挟んだ向かいのカフェに入った。一階がロースターとキッチンを兼ねていて、狭い階段を上がった二階に、五人も入ったら窮屈に感じるほど狭い喫茶スペースがあった。持ち帰りが多いのか、綾と美樹以外に客はいない。小さいテーブルや椅子は長い間海面を漂っていていたような板と、錆が浮いた鉄パイプのようなもので作られている。もしかしたら本当に砂浜に打ち上げられた材料で作ったものかもしれないが、洒落っ気はあるが決して使い勝手の良いものではなかった。
 小さく硬い椅子に美樹と綾は座り、酸味の強いコーヒーを飲んだ。果物のような芳香もあり、これはこれで悪くない。空はくっきりと晴れていて、綺麗に磨かれた窓からはシオンのマンションが見えた。
「なんだか色んなことが一気にわかった日でしたね」と、綾がカップを両手で持ったまま言った。「シオンさん自身についても色々と驚きましたけど、まさかあんな妹がいたなんて。性格が全然違うから最初は本当に妹なのか疑いましたけど、シオンさんのことは大好きみたいですし」
「そうだな。二人でどんな話をしていたのか想像もつかないが、嘘をついている感じはなかった」
「美樹さん……冷子の遺体の損傷については、詳細を言わなかったですよね?」
「……ああ。聞いても気分の良いものじゃないだろう」
 冷子は自分の身体の一部を触手のように変形させる能力があったが、シオンに対しては全身を触手に変態して戦ったようだ。頭部だけはかろうじて形を残していたが、その頭部の損傷が最も激しかった。特に顔面は硬いもので何回も攻撃され、骨という骨が砕けて完全に陥没していた。人間の膝の跡のように見えたが、シオンは決してそんなえげつない攻撃をしない。シオンはむしろ人妖相手でもなるべく苦痛のない方法で一撃で倒すことを第一に考えている。そのため攻撃が大振りになり、思わぬ苦戦を強いられることもあるのだが。
 では冷子を倒したのはいったい誰なのだろう。それも不必要なほど強大で残虐な力で。
 美樹のスマートフォンが震えた。
 マンションのコンシェルジュからのメールだ。
 スノウの宿泊先として、都内の歴史あるホテルの名前が記されていた。


前振りが長くなっておりますが、すみませんがお付き合いください
次週にまた更新予定です。
※こちらの文章はラフ書きになります。製本時には大きく内容が変わる可能性があります。

予告


 スマートフォンのアラームが鳴った。
 神崎綾はベッドの中で少し呻いた後、スムーズに上体を起こしてアラームを切った。
 外はまだ薄暗く、時計は五時半を表示してる。
 綾はベッドから降りると、うーんと声を出しながら身体を伸ばした。洗面所に行って入念に歯を磨き、ライトブルーのパジャマを着たままルームランナーに乗って二十分ほど走った。走っている最中、綾と同じ上級戦闘員の鷹宮美樹から、十一時頃にそちらに行ってもいいかと連絡が来たので了承した。向こうもとっくに起床していて、鷹宮神社の境内をほうきで掃いている頃だろう。
 綾はシャワーを浴び終えると、タオルとパジャマを洗濯機に放り込んでから赤いチェックのスカートと黒いタートルネックのセーターに着替えた。作り置きしたサラダに両面焼きした目玉焼き、トーストで朝食を採り、再び入念に歯を磨いた。
 今日は土曜日で学校は休みだ。
 リビングと寝室にロボット掃除機をかけている間に、風呂場とトイレを掃除する。掃除が終わると先日三体の賎妖を倒した時のレポートを書き、後はのんびりと過ごした。
 BGMのように流していたテレビには、タレントが司会をするワイドショーが映っていた。
 半年前に発生した火災の特集だ。
 半年前、S区の丘の上にある廃墟になった孤児院が真夜中に出火し、全焼した。それだけであれば不審火として処理され、特に世間の耳目を集めることもないのだが、建物の中から人骨が発見されたことで当時はかなり大きなニュースになった。また、その人骨の一部が不可解に変形していたとの噂が流れたことから、オカルトマニアや個人配信業を営む者が建物に忍び込もうとして、多少の混乱が発生した。
 番組では半年ぶりに孤児院の跡地を訪れたが、いまだに立ち入り禁止のバリケードが張られており、結局のところよくわからなかったという内容の映像が流れ、その後はカルト教団のアジトや、旧日本軍の人体実験施設などといった説を支持する人間のインタビューが紹介された。スタジオにカメラが戻ると、司会と複数のコメンテーターが唾を飛ばしながら、事件を誰のせいにするかという議論が始まった。当時の管理者が悪い、いや政治家が悪いと言い合い、公式見解をいまだに出さない警察が一番悪いという結論に議論が進んでいった。
 綾はその真相を現場に居合わせた美樹から聞かされている。
 公式見解が出なくて当たり前だと綾は思った。事件が風化するを待って、しれっとありきたりな見解を出して、新聞の隅にでも載って終わりだ。孤児院を装って子供を集めて、地下で人間を人妖にする人体実験をしていましたなどと発表ができるわけがない。人間そっくりの怪物が知らないうちに社会に巣食っているなんて知れ渡ったら、疑心暗鬼で世の中が魔女狩りの時代に戻ってしまうかもしれない。
 半年前、孤児院では美樹と如月シオンが人妖討伐任務にあたっていた。篠崎冷子という強力な使役系の人妖と、それに与する蓮斗という人間が廃墟の孤児院をアジトにしており、壮絶な戦闘が繰り広げられた。蓮斗は冷子によって無理やり身体を怪物に変異させられたが、身体を維持するためには膨大なカロリーが必要になり、生命維持のために止むを得ずガソリンを吸収していた。美樹は戦闘の際に蓮斗の身体に火を放ち、孤児院は全焼。蓮斗も焼死した。冷子の死体らしきものも、美樹が地下で発見した。そして、その任務以来シオンとは連絡が取れなくなった。
 もちろん綾や美樹は必死にシオンを捜索したが、いまだに行方はわかっていない。守秘義務のため、アンチレジストは警察に失踪届を出すことも出来なかった。遺体は見つかっていないが、組織内ではおそらく建物の火災に巻き込まれており、生存は絶望的という見方が強まっている。シオンはアンチレジスト内でも慕う者が多く、深い悲しみに暮れて組織を去る者もいた。そしてシオンの失踪から時間を置かず、総指揮官のファーザーも音信不通になった。
 シオンに続き、突然の指揮官の失踪という事態に組織は混乱したが、そこを上手くまとめたのが現在臨時で指揮をとっている鷺沢だ。鷺沢は口数が少ないキャリアウーマン然とした女性だ。年齢は三十代だが上級戦闘員からの叩き上げで、それまでも副指揮官兼オペレーター達のリーダーとして組織をまとめた実績がある。戦闘訓練も担当し、戦闘員達にも顔が利く人物だ。鷺沢の指揮により、組織の結束が一層強まったと評価する者もいる。
 テレビは次のニュースに移っていた。
 日本の新興ウイスキーメーカーと、海外の大手製薬会社が提携するらしい。白いスーツに身を包んだ身なりの派手な男と、黒いゴシックロリータの服を着た金髪の女の子が並び立っている。女の子はどう見ても場違いなように綾は感じた。
「いや、すごいですね!」と、テレビの中の司会が興奮した様子でコメンテーターに言った。「もはや飛ぶ鳥を落とす勢いの我々日本が誇るクラフトウイスキーメーカー、レイズ社を率いる三神冷而氏! いやぁ、かっこいい! 私と年齢は近いのですが、同じオジサンにカテゴライズしてはいけませんね!」
 綾はチャンネルを変えようかと思ったが、金髪の女の子が気になってそのままにした。話を振られた初老のコメンテーターの男が、苦笑しながら話をした。
「いや私も先日レイズモルトを飲む機会があったんですが、これがまた個性的で素晴らしかったですよ。プレミアが付いて価格は上がる一方ですので、なかなか口にする機会がないのが残念ですけどね。しかし、なにかと噂に事欠かない三神さんも、今回ばかりは注目を奪われちゃいましたねぇ……」
「そうそうそう! 会見の内容は我々も当日まで知らされていなかったのですが、なんと世界的製薬会社アスクレピオスと業務提携に向けて協議中という電撃発表でありました! それだけでも驚きなのに、アスクレピオス側の責任者が、なんと三神氏の隣に立っているこの可愛い女の子なのです!」
 スタジオから切り替わり、会見の映像が流れた。スノウの顔がアップで映る。
『失礼ですが、なぜ財務担当の方が来られたのでしょうか? 業務提携は、本来はマーケティングや経営企画の担当では?』
『日本企業の財務は違うのかもしれませんが、組織内の資産の動きだけではなく、将来に向けた資産配分や投資案件を検討するのも財務の重要な役割です。そしてレイズ社との提携を企画したのも、この提携の責任者も私です。先ほどから皆さんは私の服装や年齢を気にされているみたいですが、我々アスクレピオスは完全な実力主義を敷いています。性別や容姿や年齢など、我々にとっては取るに足らないものです。私が代表としてこの場に立ち、提携について話をしていても、アスクレピオスとしては何ら不思議なことではありません』
 カメラがスタジオに切り替わり、司会の男が目を見開きながら「どうですかこれ!」と、まるで自分の手柄のように言った。「すごくないですかこの子!? プロフィール出ますかね?」
 女の子の写真と経歴が書かれたボードが映された。会見が終わって会場を出たところを撮影されたのだろうか。女の子はスカートのポケットに片手を突っ込み、チュッパチャプスのような棒付き飴を咥えたまま、不機嫌そうにカメラを睨んでいる。
「名前はスノウ・ラスプーチナちゃん! おっと、つい『ちゃん付け』で呼んでしまいました。はははは。なんとスノウちゃんは大学を飛び級で卒業した後、この若さでアスクレピオス本社の財務に就いている超エリートなのです! お聞きの通り日本語も堪能。しかも生い立ちはなんと創業家の次女で──」
 司会の声を遮るように、マンションのインターホンが鳴った。美樹がモニターに映っている。綾はオートロックを解除して、テレビを消した。

 突然来てすまなかったなと言いながら、美樹はルイスレザーのライダースジャケットを脱ぎ、綾に借りたハンガーにかけた。下は細身のジーンズで、長身の美樹によく似合っていた。
「構いませんよ。特に予定は無かったですから」と言いながら、綾がキッチンに入った。
 ダイニングテーブルに向かい合い、チョコレートを茶請けにしながら二人は時々他愛のない会話をしながらコーヒーを飲んだ。美樹は時々視線を横に逸らして、白いクロスが貼られている壁を見た。まるで見えない暗号がそこに浮かび上がっているような視線だった。なにか重要なことを言うタイミングを測っていることが綾にもわかった。
 やがて美樹は決心したように、「シオンのマンションに入試許可が下りた」と言った。
「……本当ですか?」と、綾が身を乗り出した。
「本当だ。昨日の深夜、マンションのコンシェルジュからメールが入っていた」
「やったじゃないですか。この半年間、全然許可が下りなかったのに」
 綾が明るい声を出したが、美樹の表情は冴えない。美樹はコーヒーカップを持ち上げ、中身を飲まずにソーサーに戻して話を続けた。
「失踪の手がかりが掴めるかもしれないと思って、失踪直後から私が友人として個人的に入室を申し込んでいたんだ。家族の許可がなければ入室は不可能だと言って今まで許可されなかったが、妙なんだ……」
「妙、と言うと?」
「お前にも入室許可が下りている」
 えっ? と綾は言って、怪訝な顔をした。美樹は話を続けた。
「そうだ。私しか申し込んでいないんだ。なぜお前の名前が出てくるのか……」
「シオンさんが、私のことも家族に喋っていたんでしょうか?」
「そうだとしても、そもそも許可を申し込んでいないお前にも許可を出すのはおかしいだろう。お前の名前は一切出していないんだぞ」
 うーんと言いながら綾は指を顎に添えた。「誰かが私も呼んでいる……ってことでいいんですよね?」
 美樹はしばらく黙ってから、「まぁ、そうなるな」と言ってカップに口を付けた。
 綾まで呼ばれた理由は不明だが、行かない理由は無いので、美樹はシオンのマンションに電話をかけた。今日は午後であればいつでも構わないらしく、短い会話をして美樹は電話を切った。
「やはり半年間、シオンのマンションには家族を含めて誰も入っていない。入室許可も、昨日向こうから一方的に来たらしい。私のバイクで一緒に行こう」と、言いながら美樹はショートホープと携帯灰皿を持って立ち上がった。「それにしても半年か……あっという間だった気がするな。シオンとファーザーがいなくなってから」
 美樹がベランダでタバコを吸っている間、綾はコーヒーのおかわりを淹れた。部屋に戻ってきた後の、美樹の身体から微かに香るタバコの匂いが、綾は好きだった。

 バイクの後ろに跨り、綾は美樹のウエストにしっかりと腕を回した。途中ファミリーレストランに寄って簡単な昼食を摂った。綾はサンドイッチのセット、美樹はアボカドとエビのサラダを注文した。代官山駅を通り過ぎたあたりで、美樹はバイクを停めた。閑静だが豪奢なマンションが立ち並ぶエリアの中で、そのマンションは一際目を引くものだった。沿道からは入り口が見えず、大きく湾曲した手入れの行き届いた並木道を通って二人はエントランスに入った。内部は間接照明がふんだんに使われた落ち着いた空間で、高級ホテルのようなカウンターに男性と女性のコンシェルジュが座っていた。
「すご……家賃いくらなんだろう」と、綾がため息混じりに言った。
「分譲だが、借りるとしたら三桁はかかるだろうな。高校進学の際にシオンは自分で別の部屋を借りようとしていたんだが、親族が無理やり買い与えたらしい。我々はアンチレジストから十分な手当てが出ているし、あいつは他に論文翻訳の仕事もしていたから、セキュリティがしっかりしている部屋を借りるくらい訳なかったんだがな。見せびらかしているみたいで気がひけると言って、シオンはあまり気に入っていなかったし、事実ほとんど誰も家に呼ばなかった。私も入るのは初めてだ」
 美樹が男性のコンシェルジュに話しかけ、身分証を提示した。コンシェルジュに話は通っており、部屋まで案内してくれるらしい。
 ダークスーツを着た男性のコンシェルジュは定規で測ったような歩き方で、シオンの部屋まで案内した。マンションには入居者用のジムやプールもあり、ガラス張りになった通路からは中庭が見えた。中庭は散歩するには十分な広さがあり、小さな川まで流れていた。並木の下に置かれたベンチでは高齢の上品そうな女性が本を読んでいた。車の音や、話し声も聞こえない。もしかしたらこのマンションの中だけ時間がゆっくりと流れているのかもしれないと、綾は思った。
 こちらでございますとコンシェルジュは言って、白い手袋をはめた手でノックをし、恭(うやうや)しくドアを開けた。
 ドアが開くと同時に、玄関ホールのダウンライトとリビングへ続く廊下の間接照明が自動で点灯した。玄関ホールだけでワンルームマンション程度の広さがあり、正面には針葉樹林を描いた油絵が掛けられていた。絵画の下にはキャビネットが置かれ、瑠璃色の玉ねぎのような形をした小さな陶器が飾られている。廊下の壁は大理石で、白とライトグレーのマーブル模様に間接照明の灯りが柔らかく反射していた。
 お邪魔します、と綾が小声で言った。美樹も靴を揃えて脱ぎ、リビングへ向かった。
 リビングはとても広く整然としており、家具がひとつ多くても少なくてもバランスが崩れてしまうほど、的確な場所に的確に家具が配置されていた。中央にはホワイトとブラウンのレザーが張られた大きなコーナーソファと黒檀のテーブルが置かれている。部屋の隅には同じシリーズのラウンジチェアがあり、サイドテーブルには洋書が数冊重ねられていた。おそらくシオンの読みかけだろうと美樹は思った。正面の壁一面が巨大なオープンシェルフになっていて、多数の本の間に、玄関ホールに飾られていたものと同じ玉ねぎのような形の陶器がいくつも飾られている。分類としては壺になるのだろうが、口径がとても小さく、水を入れるのに苦労しそうだ。瑠璃色や紫、緑色のものが多いが、中には本当に玉ねぎのような飴色をしたものや、乳白色のものもあった。
「すっご……まるでモデルルームみたい」と、綾が感心して溜息をついた。
 ──モデルルームなんかと一緒にしないで。
 不意に声が聞こえたので、綾はびくりと身体を硬直させ、美樹は咄嗟に身構えた。
 二人は声の聞こえたキッチンの方を素早く振り返ると、声の主が暗がりからリビングの灯りの下にゆっくりと姿を現した。
 あっ、と言いながら綾が口元を手で押さえた。
「なんだ? 知っているのか?」と、美樹が綾を見た。
「いや、今日のワイドショーで……。スノウ・ラスプーチナでしょ?」と、綾が言った。
「へぇ、あのくだらない記者会見も、自己紹介の手間を省くくらいの効果はあったみたいね」と言いながら、スノウが首を傾げた。顔には小馬鹿にしたような笑みを浮かべている。綾がテレビで見た服とは違うが、やはり真っ黒いゴシックロリータの服に、赤いリボンで金髪をツーサイドアップに結っている。スノウはペリエのペットボトルを三本持っており、黒檀のテーブルに置くと綾と美樹に向き直った。
「ま、あらためて……」と、スノウは言った。「私はスノウ・ラスプーチナ。製薬会社のアスクレピオスで財務を担当しているわ。あんた達には、シオンの妹って言った方が馴染みがあるでしょうね」
「シオンさんの妹!?」と、綾が驚いた。スノウがあからさまに不機嫌な顔になった。
「ちょっと、なに驚いてるの? まさか似てないって言うんじゃないでしょうね?」と言いながら、スノウがずかずかと綾の元に歩いてきた。
 えぇ……と言いながら綾は助けを求めるように美樹を見つめ、美樹は私に振るなと言わんばかりに首を振った。スノウは怒った顔で腰に手を当てながら、綾を見上げている。
「あと、あんたさっきこの部屋をモデルルームみたいだとか失礼なこと言ったわよね?」と言いながら、スノウは綾を指差した。「言っておくけれど、家具やインテリアは全てお姉様の趣味よ。あんた達が不思議そうに見ていたその陶器はローズ・キャバットの『フィーリー』。お姉様が好きで集めていて、用途はまさに鑑賞。花瓶としては使えなくもないでしょうけれど、やめた方がいいでしょうね。あと、そっちのソファとチェアはポルトローナ・フラウ。良い会社だわ。過度な装飾が無くシンプルだけど、上質とは何かを理解している。お姉様の審美眼を、見た目だけのモデルルームなんかと一緒にしないでくれる?」
 綾と美樹は顔を見合わせた。容姿はともかく、性格はシオンとは似ても似つかない。スノウはまだ怒った顔で綾を睨んでいる。ひとまず美樹が前に出てスノウに軽く頭を下げた。
「まず、入室の許可を出してくれた礼を言おう」と、美樹がスノウに言った。「私は鷹宮美樹だ。こっちは神崎綾。私とシオンは学校が一緒で、綾は学校は違うが共通の友人だ」
「へぇ、あんたが神崎綾なんだ。強いって聞いていたけれど、結構ちんちくりんなのね」
「なっ? えっ? あ、あんたの方がちんちくりんじゃない!」
 待て待て待て、と言いながら美樹が綾を押さえた。綾は背の低さを気にしている。スノウはふふんと笑いながら平らな胸を張っている。
「私はいいのよ。いずれお姉様みたいに完璧なプロポーションになるんだから」
「はっ、本気で言ってるの? 無理に決まってるでしょ。私ですらあんたくらいの頃はもっと胸あったんだから」
 綾の反撃に、今度はスノウが怒り始めた。美樹は言い争う二人の間に割って入る。なぜ初対面でここまで喧嘩ができるのだろうか。ある意味気が会うのかもしれないが、このままでは話が進まない。そして先程のスノウの言葉の中には引っかかる箇所がある。スノウが怒って退室したり、そもそも入室許可を取り消されたりしたらたまらない。
「わかったから二人とも落ち着いてくれ。綾も子供相手にムキになるな」
「子供扱いしないでよ! 言っておくけれど、間違っても私を『ちゃん付け』でなんか呼ぶんじゃないわよ」
 わかった、すまなかったと美樹が言った。「スノウ、喧嘩する前にひとつ教えてくれ」
「なに?」と言いながら、スノウは美樹を睨んだ。
「さっき綾のことを強いはずだと言ったな? なぜ綾が強いと知っている?」
「知ってるもなにも、あんた達アンチレジストの上級戦闘員で、その中でも上位なんでしょ? 強いに決まってるじゃない」
 当たり前のことを聞くなという感じでスノウが言い、美樹と綾の動きがピタリと止まった。リビングは三人の呼吸音以外は、水を打ったように静かになった。
「……なんでそれを? アンチレジストを知ってるの?」と、美樹の肩越しに綾が言った。
 スノウも落ち着いたのか、親指でソファを差しながら「とりあえず座るわよ」と言った。

※こちらの文章はラフ書きになります。製本時には大きく内容が変わる可能性があります。
次回更新は2週間後になる予定です。

予告



嘆くことはない。悲しむことはない。
アーナンダよ、私はずっと説いてきたではないか。
愛するもの、大切なものは全て、
やがては別れ、離れ離れになり、二度と交わることは無いということを。
ー釈迦ー




「──つまり私の作るウイスキーは、常に新しい味や香りを追求し、皆様に驚きと、ある意味ではショックを与えたいと考えております。ただ美味い、香りが良い、飲みやすいといった一般的な価値観に興味はありません。手間暇をかけた自社蒸留はもちろんのこと、一部のラインナップでは日本では未発売か、とてもマイナーな蒸留所の原酒を買い付け、自社貯蔵庫で更に熟成させてからブレンドしております。一部は自前の樽に移し替えますし、時にはウイスキーにとってある種の冒涜的な行為を行うこともあります。ウイスキーが入った樽をクレーンで吊り上げ、破壊しないギリギリの高さから落下させたり、様々な木材の破片を漬け込んだり、貯蔵庫で香を炊いたり、ヘヴィメタルの音楽を大音量で鳴らしたり……。全ては、皆様にウイスキーを通した未知の体験をしていただきたいからです。当然、生産コストは大手メーカーのウイスキーとは桁違いです。また大量生産もできませんので、現在の需要にお応えできる量を生産できていない状況には、心からお詫びを申し上げます」
 午後六時から始まった会見には、多くの記者とカメラマンが集まった。
 三神冷而(みかみ れいじ)はカメラのフラッシュを浴びながら、自分の作るウイスキーを魅力的に、そしてミステリアスに語った。ウイスキーなど、所詮は誰も中身を知ることのないブラックボックスだ。多くの人々がウイスキーに求めるものは味や香りではない。ドラマ性と、それがいかに希少で良い物かどうかという情報なのだと、三神は考えていた。
 自分自身の見た目も重要な情報のひとつだ。サイドを短く刈り上げ、トップをオールバックにしたスリックバックの髪型。彫りの深いくっきりとした顔立ち。ネクタイの完璧なディンプル。そしてイタリアまで出向いてオーダーした高級スーツ。男にも女にも好印象を与える見た目を意識した。「こんな格好良い男が、なにやら革新的なことをして作った酒は良いものに違いない」と、大衆に思わせることができれば成功だ。そして彼を取り囲む多くの記者やテレビカメラが、彼の目論見が成功したことを表していた。あのテレビカメラの先には、数多の一般大衆が自分の一言一言を注意深く聞き、次に発売するウイスキーに想いを馳せているはずだ。
 今や自身の名を冠した「レイズモルト」は、発売から半年しか経っていないにもかかわらず、飛ぶ鳥を落とす勢いで知名度が加速している。まだ国内流通しか行っていないが、ワインの五大シャトーよりも投機的価値があるとメディアがこぞって煽り、人気はアジアにも及び始めている。新作を発売すれば即完売。すぐに転売され、末端価格は売価の十倍以上になることも珍しくない。
 そして今日の発表は、世間をさらに沸き立たせることになるだろうと三神は思っていた。
「では、会見の本題に入らせていただきます」と、司会の男がよく通る声で言った。「このたび、三神が代表を務める弊社『レイズ』は、世界的製薬会社大手の『アスクレピオス』様と、業務提携に向けた協議に入っております」
 記者達がどよめいた。
 司会の言う通り、アスクレピオスと言えば百年以上の歴史を持つ、ロシアに本社を置く世界的製薬会社だ。規模こそファイザーやノバルティスには及ばないが、バイオ医薬品の部類ではかなりの存在感を放っている。規模に反して株式は公開されておらず、製薬会社としては珍しい家族経営を今でも貫いている。しかし、なぜ世界的製薬会社と、人気とはいえ日本のウイスキーメーカーが提携するのかと記者達は思った。人気や知名度はさておき、酒造メーカーの企業規模は大手を除いて、いずれも中小どころか零細の域である。レイズ社ですら例外ではなく、資本力も雲泥どころの差ではない。その空気を察したのか、司会の男は軽く咳払いをしてから次の言葉に繋いだ。
「本日は、アスクレピオス様から代表として一名、この場にお越しいただいております。本日のためにロシアの本社から来日いただいた、スノウ・ラスプーチナ様です。一言、ご挨拶をいただきます」
 紹介された人物が袖から入ってくると、記者達はさらに度肝を抜かれた。
 フリルの付いた真っ黒いゴシックアンドロリータの服に身を包んだ十代前半と思しき女の子が、胸を張って会場に入ってきて、三神の横に並んだ。「子供?」と、カメラマンの誰かが言った。女の子は背も小さく、身体の凹凸も乏しい。綺麗な金髪を赤いリボンでツーサイドアップに結んだ髪型も、幼さをより強調している。ロシア人の秘書らしき男が入ってきて、スノウの身長に合わせたマイクスタンドをセットした。その間、スノウは自信ありげな笑みを浮かべながら、というより少し小馬鹿にしたような表情で、記者とカメラマンをゆっくりと見回した。
「スノウ・ラスプーチナです。アスクレピオスの本社でCFO(最高財務責任者)の元、財務を担当しています。なにか質問はありますか?」
 スノウはマイクがセットされるや否や、流暢な日本語で言った。わずかに首を横に傾げ、口元だけで笑っている表情はやはり小馬鹿にしているように見える。記者達は呆気に取られていた。業務提携の説明のために日本法人の男性が入ってくるのかと思いきや、生意気そうな外国人の女の子が入ってきたのだ。無理もないだろう。
「なにも無いですか?」と、スノウは言った。顔からは笑みが消え、不機嫌そうな表情になっている。
「あの……」と、前列の男性記者がおずおずと手を挙げた。スノウがどうぞと言って手を向けた。
「その格好は、ゴスロリですか?」と、指名された男性記者が言った。
 スノウは「このバカはいったい何を言っているんだ?」と言いたげな表情になった。これ? と言いながら服の胸元を摘んで首を傾げ、不機嫌そうな顔のまま質問した記者を睨む。
「そうですけど、これがなにか? 仕事と関係のある質問ですか?」
「随分とお若く見えますが、年齢はおいくつですか? 学校は?」と、すかさず別の記者が言った。子供に問いかけるような声色だ。あからさまにスノウの眉間にシワが寄ったので、司会者が質問を遮り、業務提携に関する質問をするように促した。後方の女性記者が手を挙げた。
「失礼ですが、なぜ財務担当の方が来られたのでしょうか? 業務提携は、本来はマーケティングや経営企画の担当では?」
 スノウは質問を聞いて、ふんと鼻を鳴らした。やっと少しはマシな奴が出てきたかという様子で、マイクに向かって喋り始めた。
「日本企業の財務は違うのかもしれませんが、組織内の資産の動きだけではなく、将来に向けた資産配分や投資案件を検討するのも財務の重要な役割です。そしてレイズ社との提携を企画したのも、この提携の責任者も私です。先ほどから皆さんは私の服装や年齢を気にされているみたいですが、我々アスクレピオスは完全な実力主義を敷いています。性別や容姿や年齢など、我々にとっては取るに足らないものです。私が代表としてこの場に立ち、提携について話をしていても、アスクレピオスとしては何ら不思議なことではありません」
 記者達はスノウの回答に顔を見合わせた。どこか小馬鹿にしたような表情は変わらないものの、堂々とした口調で経営について滑らかに話をするスノウは見た目とのギャップもあり、ある種特別なオーラを放っているように見えた。記者達は興味を引かれ、数人が同時に手を上げた。
「なぜ、ウイスキーメーカーと提携されるのでしょうか? 製薬とウイスキーは畑違いでは?」
「まずマーケットの話をさせていただくと、ウイスキーは皆さんもご存知の通り、今後も需要の拡大が期待できる有益な市場です。有益な市場がそこにあるのに、畑違いだからと指をくわえて見ているだけでは、なにも得られません。また畑違いと思われるかもしれませんが、私はそうは思いません。我々は創業から百年を超える知見の積み重ねにより、人間の受ける官能を数値化することが可能です。そして、ウイスキーの持つ香りや味わいが人間の感覚器官への刺激、つまり官能である以上、我々の知見は製薬だろうが酒造だろうが、あらゆる分野で生かせると考えています。ウイスキーは今までは良くも悪くもブレが大きく、完成するまで品質がわからない、ある種偶然の産物でした。自然任せと言えば聞こえはいいのですが、愚かなほど非効率です。しかし我々アスクレピオスの技術を用いれば、レイズ社の作るウイスキーを完全にコントロールし、狙い通りの香味の実現が可能です。先ほど彼が語った新しい味や香りと言うものも、我々であればいとも簡単に、何種類でも作り出せます──」
 そのような可能性もあります、と三神がスノウの話を遮るように割って入った。スノウが視線の端で三神を睨む。
「お聞きの通り、アスクレピオスさんは弊社が逆立ちしても敵わない技術をお持ちです。冒頭申し上げた通り、今までに無い新しい香りや味のウイスキーを作り皆様にショックを与えたいという考えでは、我々とアスクレピオスさんは意見が一致しています。しかし、まだ提携について打ち合わせは始まったばかりです。今後、良い進展を皆様にご報告できると信じております」
 三神が会見を切ろうとした時、先ほど質問した女性記者が声をあげた。
「最後にすみません。スノウさんのファミリーネームについてですが、失礼ですが創業家とのご関係は?」
「……ええ、前社長は私の実の父です」と、スノウは興味なさげに言った。「十年ほど前に亡くなりましたけどね」

「困りますな……勝手に話を進められては」
 記者達が引き上げた会見場で、三神が顔を歪めながらスノウに言った。苛立っているのだろう。刈り上げた側頭部をしきりに掻いている。
「話が早くていいじゃないですか。そもそも私がさっき言ったことが目的で、そちらは提携の話に乗ったのでは?」
「それはそうですが、発表には然るべきタイミングと方法というものがある。あれではまるで、そちらの指示通りにウチがウイスキーを作ると言っているようなものだ」
「事実そうじゃないですか」
「違う! 下請けになったように聞こえたら、それこそ変な誤解を生んでしまう。ウイスキーはブランドイメージが大事なんだ。確かに会社規模は比ぶべくもないが、話はあくまでも対等な提携で、吸収や買収ではないはずだ。今日は提携について協議を開始するという内容発表にとどめるべきだった。自己紹介して握手でもすれば、それで十分だったんだ」
「もったいつけて何の利があるんです? ウイスキーなんて、所詮は多少の香味成分の入ったエタノールと水の混合物に過ぎないじゃないですか。そんな物に、なにをそんなに必死になっているんです?」
 なんだと、と三神が声を荒げた。スノウは涼しい顔をして、不敵に微笑んでいる。
「今のは聞き捨てなりませんな……。私の仕事に価値が無いと言っているんですか?」
「そうは言っていません。たとえ無価値なものでも利益を生み出している以上、それには価値があります。例えばあなたの言っているブランドイメージとやらがそれです」と、スノウは三神を指差しながら言った。「繰り返しますが、大切なのは利益です。この提携はお互いの利益を最大限にすることが第一の目的であり、私にはそれが出来る。美味しいウイスキーとやらを世間に届ける目的は二の次です。それに、私は見ての通り未成年なので、提携後のウイスキーが完成しても飲む機会はとうぶん先です。成果物にありつけない以上、利益重視で動かざるを得ないことを、どうかご理解いただければ」
 スノウは嘲笑するような表情で、そんなこともわからないのかという口調で一気に捲し立てた。そして指を鳴らし、背後に控えていたロシア人の秘書からアタッシュケースを受け取ると、三神の足元に放り投げた。
「あなたが欲しがっている『今までに無い新しい香りや味のウイスキー』とやらのレシピとサンプルです。とりあえず二十種類ほど作ってみました。足りなければ追加で送ります。では、今日はこれ以上話すことはありませんので……」

 スノウが秘書を従えて去った後、三神はしばらくブルブルと身体を震わせ、演台を蹴飛ばした。派手な音を立ててマイクや水差しが床に散乱する。
「なめやがって……あのクソガキが!」
 三神が倒れている演台をさらに蹴った。派手な音が会場内に繰り返し響き渡る。司会の男は狼狽しながら、なす術なく遠くから見守るしかなかった。
「おい、豚!」
 三神が怒鳴ると、袖から肥満体の男が現れた。スキンヘッドに無精髭を生やし、着ているスーツはシワだらけで今にもはち切れそうだ。そもそもサイズが合っていない。ジャケットは肩幅が長過ぎて「ひさし」のように迫り出しているのに、袖が短過ぎて白いシャツのカフスが全て見えている。
「お呼びでしょうか?」と、豚と呼ばれた男が呑気な口調で言った。風体に似合わず、よく通った聞き心地のいい声だ。
「あのクソガキのことを調べろ!」
「クソガキですか?」
「スノウ・ラスプーチナだ!」と言いながら、三神はもう一発演壇を蹴った。「お前も見ていただろうが! さっきここで俺をコケにして、恥をかかせたメスガキだ!」
「なんだスノウちゃんのことですか。クソガキだなんて言うから、そんな子いたかなと考えてしまいましたよ。もちろん見ていましたよ。なんたって私の好みど真ん中の女の子ですから。女性記者はみんな二十歳以上のババァばかりで、目が腐るかと思っていたところです。それにしても、本物は写真よりも何倍も可愛くて──」
「黙れロリコンが! さっさとあのガキを調べろ!」と叫びながら、三神が演題を蹴飛ばした。
「そんなこと言われなくても、とっくに調べていますよ。スノウちゃんは子供の頃──と言っても今でも子供ですが、スイスのボーディングスクールに短期留学した後に大学を飛び級で卒業しています。かなり優秀で、大学では化学と経営学を同時に学んでいたそうです。そして卒業と同時にアスクレピオスに入社しています」
「そんなことは知っている! いくらでもネットに書いてあるだろう。何か弱みを握れ!」
「いえ、大切なのは、なぜそこまで急いでアスクレピオスに入ったのかということです」と、豚は言った。「アスクレピオスは確かに世界的な企業ですが、スノウちゃんがそこまで優秀なら、家業を手伝う前に色々と出来たはずです。たとえば他の大手企業やシンクタンクで実績や経験を積む機会はたくさんあったでしょうし、むしろその方がアスクレピオスに戻ってからより大きな貢献が出来たはです。事実、大学在学中からスノウちゃんは様々な分野から引く手数多だったらしいですが、全て断って一分一秒を争うように実家に戻っている。おかしいと思いませんか? そこまで優秀な子が、なぜそのようなもったいない選択をしたのか。帰らなければならない理由があったということです。それも急いで……。その理由が何なのかまではもちろんネットには書いていませんが、もしかしたら弱みになるのかもしれません」
 三神は苦虫を噛み潰したような顔で唸りながら顎に手を当てた。豚は容姿は酷いものだが、仕事は出来る男だ。やがて三神は豚の顔を指差しながら言った。
「あのクソガキのことはそのまま調べておけ。あと、『レイズ・バー』は今日は機材トラブルで閉店にしろ。俺の借り切りにする。壊してもいい適当な女をレイズ・バーに呼んでおけ」
 豚は相変わらず呑気な口調でわかりましたと言い、小走りに会見場を出て行った。

 スノウがチュッパチャップスを咥えながらビルの階段を降りると、待ち構えていたカメラマンとインタビュアーに囲まれた。
 会見の時しか撮影を許可していないはずだ。日本で雇ったボディガードが記者達を押し除け、なんとかスノウと秘書が通れるスペースを作る。スノウはカメラを睨みつけ、口に入れたばかりのチュッパチャップスをガリッと噛み砕いた。
 日本の印象は?
 なぜゴスロリ服を着ているんですか?
 服はどこのブランドですか?
 スノウ本人に関する質問が騒音に紛れて聞こえてきた。
 囲みの外でガードマンがカメラマンの一人を強く押したらしく、機材が壊れる音と怒号が響いた。
 スノウは難儀しながら階段下に待たせてあった車に乗り込んだ。外見は黒いロールス・ロイスに似ているが、ひと回り大きい。スノウがロシアから持ち込んだアウルスというブランドの車で、純ロシア製の高級車だ。車を撮影しているカメラマンも複数いる。
 運転手が後部座席を閉めると、車内はほぼ無音になった。サイドガラス越しに車内は見えない。フロントに回り込んだカメラマンを押し除けるように、車は静かに走り出した。
「はぁ……うっざ。ハリウッドスターの出待ちじゃあるまいし」
 スノウはセンターテーブル下の収納からチュッパチャプスの箱を取り出し、ストロベリークリーム味を探し出して口に放り込んだ。後部座席に身体を投げ出すように座ると、最高級のレザーとクッションがスノウの小さな身体を優しく抱きとめた。
「いかがでしたか。三神冷而は」
 助手席に座っている秘書が、スノウにロシア語で聞いた。スノウはうーんと言いながら斜め上を見るようにして口の中でチュッパチャプスをコロコロと転がし、しばらく考えた後に答えた。
「自信は無いのに虚栄心だけはある人間の典型って感じ。見た目や話し方で繕ってはいるけれど、少し挑発したらすぐ逆上したし。会見の冒頭であいつが喋っていた妙なウイスキーの作り方も、どこまで本当かわからないわね。レイズモルトも、おそらく大したものではないでしょう。あいつと同じように」
 スノウは秘書に、金額はいくらかかってもいいからレイズモルトを二本手配するように依頼した。都内のバーを探せば未開封のものがあるだろう。秘書がホテルのコンシェルジュに電話をかけている間、スノウは静かに目を閉じた。車の微かな揺れの中、その頭脳は素早く回転していた。


※こちらの文章はラフ書きになります。製本時には大きく内容が変わる可能性があります。

あけましておめでとうとございます。
本年もどうぞよろしくお願い致します。

現在制作中の新章についてですが、だいたい半分の6話程度のラフが書き終わりましたので、1月9日より公開していきたいと思います。
1〜2週間を目処に1話ずつ公開していきますので、楽しんでいただけたら幸いです。
では、よろしくお願い致します。
予告

unui x RNR


この作品はウニコーンさんに有償依頼をいただき、二次創作として製作したものです。
ウニコーンさんのオリジナルキャラの瀬奈さんを主人公に、世界観や設定、ストーリーをお任せいただいたので、かなりの部分を好き勝手に書くことができました。
今後作品としてウニコーンさんが挿絵を付けて完全版として発売する予定ですが、今回私が書いた文章と制作中のイラストの掲載許可をいただきましたので、予告編としてぜひお楽しみください。


第1話

第2話


 ドアの外は通路になっていて、左右のドアには倉庫や食堂、ロッカールームといったプレートが貼ってあった。一般企業の工場となんら変わらない。このようなクリーンな環境で恐ろしい薬物が作られているのかと思うとゾッとした。途中、木製の大きな左右開きの自動ドアがあった。自動ドア横の端末は小林が持っていたカードと同じ赤色の端末が嵌め込まれている。瀬奈がカードを端末にかざして自動ドアを開けると、中はエレベーターホールになっていた。壁や床が工場エリアのような白い樹脂ではなく、濃いブラウンの板張りと赤黒い絨毯になっており、雰囲気がかなり違っている。ここから幹部エリアになるのだろう。
 エレベーターに乗りながら、はたして勝機はあるのだろうかと瀬奈は考えた。仲間の多くが倒れ、もはや瀬奈しか残っていない可能性が高い。正規警察もこちらに向かっているだろうが、様々な利権が絡み合って腰が重く、到着はいつになるのかわからない。確かな方法としては、グールーと呼ばれているボスを人質にとることだ。自分一人で多数の敵を全滅させるのは荷が重すぎるし、アスカと戦闘した男達を見るに、敵の戦力もかなり高い。男の子の話だと、グールーは未だにこの場所に留まっているらしい。よほどの自信家か、下手に逃げ回るよりは自ら雇った警護隊に守られていたほうが安全という考えなのだろう。トップを人質にとることができれば、敵も迂闊に手を出せないはずだ。その間に正規警察の到着を待つ。悪くない作戦というよりかは、これしかないという状況だが、闇雲に動くよりはマシだ。
 エレベーターを出て廊下を進むと、狭いロビーに出た。天井は高く、応接のための小部屋も複数見える。簡単な打ち合わせのためのスペースのようだ。床には埃一つ落ちていない。観葉植物が倒れている以外は清潔で、不気味なほど臭いも音も無い。奥の扉にも赤いカードリーダーが付いていたので、瀬奈はカードキーをかざした。高い電子音と共にドアが解錠される。
 ドアの先は広い空間だった。フットサルコートを半分にしたような広さで、床は長いこと磨き続けられた船のデッキのように黒光りしたフローリング。壁は鏡面磨きされた鉱物のようで、険しい顔をして立っている瀬奈の顔を鏡のように反射していた。壁と同じ黒い鉱物で作られた受付カウンターがあって、奥には椅子が二脚置かれている。
 瀬奈はロビーの中央に立って周囲を見渡した。壁の間から暖かい光の間接照明が効果的に使われ、安心感と、ある種の威圧感を与えるようなインテリアにまとめられている。受付カウンターの奥の壁には「I give you all that you want(あなたが欲しがるものは全て与える)」と彫られていた。ロビーの奥には数台のエレベーターがあって、地上のどこかから、このエリアに直通で来られるようだ。外部からMOTPと接触を図るときの正規のルートなのだろう。誰にも顔を合わせず、入口を知っている顧客のみがこのエリアに来ることができる。まるで一流企業の受付だ。本当にここは麻薬組織なのか、と瀬奈は思った。先ほどの工場といい、整い過ぎた空間に瀬奈は戸惑った。
 そうだ、このMOTPは全てが整い過ぎている。この掃除が行き届いたロビーで、昨日までWISHの取引が行われていたのだろうか。それは一般的な麻薬取引のイメージとは違ったのだろう。たとえば雨の降る路地裏で、虚ろな目をした売人同士が咥えタバコのまま、刺青の入った手でくしゃくしゃの紙幣とパッキングされた麻薬を交換するのとは対極の、極めてビジネスライクな取引だったのかもしれない。上等なスーツを着た顧客がエレベーターを降りて受付に歩いてくる。受付担当は名乗らずともその顔を覚えているから、顧客が名前を告げる前に担当者に連絡を入れる。部屋の奥からMOTPの担当者が現れ(おそらく担当も上等なスーツを着ている)、顧客を促して個室に招く。二人は二流のビジネスマンのように無駄な世間話をすることも、ブラフのために言葉に感情を込めることもなく、極めて事務的に取引額と物量を決め、手配を済ませる。次回の約束を取り付けて、握手をしてロビーで別れる。
 整い過ぎているのだ。
 まるで何かを隠すかのように。
 突然、ロビーの奥で女性の悲鳴が聞こえた。瀬奈からは死角になっている通路の奥だ。瀬奈は声のする方に走り、慎重に通路を覗き込んだ。通路の左右にはいくつかのドアがあり、右手奥のドアがひとつだけ開いていた。廊下には微かな臭気が漂っている。汗とアルコールの臭いだ。
 突然、奥の開いたドアから放り出されるように人が出てきた。瀬奈がとっさに身構える。飛び出した人は全裸の女性で、ドアの向かいにある壁に激突して動かなくなった。瀬奈の背筋にゾッとした冷たいものが流れた。見覚えがある。女性は全身に酷く殴られた痕があり、だらしなく開いた股間からは血の混じった白い液体がドロリと垂れていた。想像したくないほど酷い目に遭ったのだろう。嫌な予感がして、瀬奈は喉の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。目を凝らす。間違いない。瀬奈を庇うために男達に戦いを挑んだ、アスカだった。
 言葉を失っていると、開いたドアの中から男がヌッと出てきた。瀬奈の身体が硬直する。男は盛りあがった筋肉ではち切れそうになった白いTシャツに、黒いボクサーブリーフしか身につけていなかった。栽培室で会った二人組の片割れでサジと呼ばれていた男だ。サジは薄ら笑いを浮かべながら、薬物中毒者特有のドロリとした視線を瀬奈に向けている。少し前に何かの薬物を摂取したのだろう。サジはまるで数年来の友人に会った時のように「よぉ」と瀬奈に言った。缶ビールの缶を片手に持ち、咥えていたタバコを絨毯の上に捨てて足で揉み消す。
「モニターでずっと見てたけどよ、来るの遅すぎだろお前? え? 下っ端のガキと呑気に話してる暇があるならコイツ助けに来てやれよ。おかげでアスカちゃんにだいぶ無理させちまったぜ」
 サジは缶ビールの中身をアスカの身体にかけながら続けた。「それにしてもコイツ、お人好しもいいとこだな。お前逃がすために格好つけたらしいが、足くじいててまともに戦える状態じゃなかったぜ。ぬるいパンチばかり出すからムカついて、腹パン一発で失神させてやった。暇だったから、縛りつけて腹殴りまくって胃の中身空にしてやった後、マンコ使い物にならなくなるまで犯しちまったぜ。しかも俺が初めてのお客さんだったらしくてな、ブチ込む前に俺の極太にビビりまくって、真っ青になった顔は傑作だったぜ。ま、ビビってたのは最初だけで、すぐにヒイヒイ喘がせてアヘ顔晒させてやったけどな。全部お前のせいだぞ?」
「ふ、ふざけないで! よくもこんな……!」
「テメェが尻尾巻いてコイツ放って逃げたからだろうが? え? 違うのかよ? あのままお前も一緒に残ればコイツも少しはマシに闘えたかもしれねぇだろ? まぁ安心しな、お前もすぐにアスカちゃんと横並べにして、仲良くお友達レイプしてやるよ」
 サジは缶ビールを口に含む。その隙に瀬奈は重心を低くしてサジに向かって走った。瀬奈はサジから視線を外さないまま、太もものポケットに忍ばせていた試験管の中身を一息に吸った。戦闘に備えて組織から支給されている、アドレナリンの分泌を促進する即効性のガスだ。出し惜しみすることなく、最初の戦闘でも使っておくべきだったのだ。サジの手の内は見えている。ショッキングな言葉と光景を並べて動揺を誘っているだけだ。一瞬流されそうになったが、冷静さを失ってはこちらの負けだ。
 サジは瀬奈のタックルを受けてよろけた。サジは「テメェ!」と叫び、体勢を崩したまま瀬奈に殴りかかる。瀬奈は体勢を低く保ったまま躱し、金属プレートの付いた手袋をはめた拳でサジの顎を薙ぐ。サジの体勢がさらに崩れ、缶ビールが床に落ちた。サジは倒れず、無理やりの体勢で瀬奈の肩に手刀を落とす。瀬奈は呻き、肩を押さえたまま一旦距離を取った。耐衝撃性のボディスーツの上からでもこの威力とは、まともに食らったら骨折は免れないだろう。
 サジの顔からは余裕そうな雰囲気は無くなっていた。憎々しげな表情で倒れているアスカを蹴って傍にどけると、足を前後に開き、拳を目の高さにして構えた。綺麗なボクシングのファイトスタンスだ。
「遊んでやるかと思えばいい気になりやがって……。俺はプロのリングに上がっていたんだぞ?」
「だから何なの? 落ちぶれてこんな所でチンピラやってるんだから、大した成績残せなかったんでしょ?」
「ああそうだな。だが弱かったわけじゃねぇぜ。これでもデビューしてから、格上相手に何回もKO勝ちして、結構期待されていたんだ。リング外で相手を病院送りにして追放されちまったがな。ナメやがって……ホンモノのパンチを喰らいやがれ!」
 サジは身体を左右に振りながら瀬名との距離を詰める。瀬奈が後ずさると、少し遅れて目に見えないようなジャブが飛んできた。当たりはしなかったが、凄まじい風圧が瀬奈の顔を通過する。廊下は狭い。瀬奈はバックステップで受付のあるロビーまで戻った。サジが追う。瀬奈は一定の距離を保ってチャンスを待ったが、サジのフットワークは大きな身体にわりに軽快で、一瞬の油断ですぐに距離を詰められそうだった。サジの高速ジャブが何回も放たれ、瀬奈の髪を揺らす。一発でも喰らったら昏倒して、たちまちサンドバッグにされてしまうだろう。しばらく付かず離れずの攻防が続いた後、瀬奈はサジの張り詰めた雰囲気が一瞬緩むのを感じた。その隙に瀬奈はサジの足元に飛び込んだ。サジは反応しきれず、瀬奈に両足を取られて床に背中を打った。サジが呻く。瀬奈はすぐさまサジに馬乗りになり、渾身の力でサジの顎を殴った。サジの顔が跳ね上がる。瀬奈は腕を交差させてサジの首からTシャツの奥襟を掴み、身体を密着させるように体重をかけて頚動脈を圧迫した。
「ボクシングには、タックルも絞め技も無いでしょ!」と瀬奈が叫んだ。
 瀬奈の顔の近くで、サジの顔が目を見開いたまま瞬く間に紅潮する。あと三十秒もすれば意識が飛ぶはずだ。サジは身を捩りながら密着した瀬奈の身体を引き剥がそうと、瀬奈の両肩を力づくで押す。瀬奈も必死にしがみ付こうと歯を食いしばって腕に力を込める。瀬奈の小さな頭がサジの眼下で震え、髪の毛からは甘い匂いが漂ってきた。サジは咄嗟に肩から手を離し、僅かにできた隙間に手を入れて、瀬奈の胸を鷲掴みにした。サジの指が柔肉に埋まり、そのままグニグニと指を動かす。瀬奈の身体は突然の刺激にビクッと跳ね、込めていた力が一瞬緩んだ。その隙にサジは瀬奈の身体を引き離し、なおかつ瀬奈が逃げないように両手首を掴んだ。
「クソが……もう少しでイっちまう所だったぜ」
 サジが激しく噎(む)せながら言った。瀬奈は暴れてサジの手を振りほどこうとするが、力では勝てるはずがない。サジは瀬奈の両手首を引っ張って自分に倒れこませると同時に、その土手っ腹に手加減の全く無い右ストレートをぶち込んだ。倒れこむ途中だった瀬奈の身体が、突っかい棒を打ち込まれたように急停止する。
「ひゅぐぅッ?! ぐ……ぇ……?」と、瀬奈は身体の中の空気を吐き出した。一瞬自分に何が起きたのかわからなかった。恐る恐る視線を下に移すと、サジの拳が耐衝撃性のスーツを巻き込んで、自分のヘソ周辺の肉を巻き込んだまま手首まで陥没していた。「あ……う……うッぶ?! ぶッぐあぁぁぁ!」
WISH_pic_05

 溜まったマグマが噴出するかの様に、この世のものとは思えない苦痛が瀬奈を襲った。サジに跨ったまま瀬奈の上体がくの字に折れる。
「オラオラ、次は俺がイかせてやるよ。良い声で喘げよクソアマ!」
 サジが連続で右の拳を瀬奈の腹に埋めた。ぼちゅん、ぼちゅん、ぼちゅんと水っぽい音を立てて拳が突き込まれるたびに、瀬奈の身体は電気ショックを受けたように跳ね、吐き出された唾液が仰向けに寝ているサジの身体に降り注ぐ。サジはガード出来ないように瀬奈の手首を押さえたまま、へそや下腹のあたりを執拗に殴り続け、最後に硬い音を立てて瀬奈の鳩尾を貫いた。「おごッ?!」と瀬奈が鋭い悲鳴を上げ、全身の力が抜けてたまらずにサジに倒れこむ。
「へへ……騎乗位でガン突きしてるみてぇだな」とサジは言いながら瀬奈の腰を掴み、布越しに勃起した男性器を瀬奈の股間に押し当てた。ゴリっとした硬いものを感じ、瀬奈の身体が強張る。「すぐにコイツをブチ込んでやるよ。アスカちゃんよりもエロい身体しやがって……俺の女になれば悪いようにはしねぇぜ? その代わり、毎日俺のチンポの相手をしてもらうけどな」
「げほッ……ほんと……? 許して……くれるの?」と、瀬奈が肩で息をしながら力の無い声で言った。重いダメージで涙を浮かべたまま、上目遣いでサジと視線を合わせる。「もう……殴らないでくれる……?」
「あぁ……俺は殴るよりも、普通のセックスの方が好きだからな。お前、可愛い顔も出来んじゃねぇか……名前はなんて言うんだよ?」
「瀬奈……あなたは……?」と言いながら瀬奈はゆっくりと上体を移動させて、仰向けになったサジの顔を真上から見下ろす。
「俺か? この後ベッドの中で教えてやるよ……」
「……いじわる」
 少しの沈黙の後、瀬奈がサジに顔を近づける。サジが僅かに唇を突き出した。
 ぐしゃりと音がして、瀬奈の頭がサジの顔に埋まった。瀬奈の額がサジの鼻を押し潰し、鮮血が散る。サジは悲鳴をあげて瀬奈の身体を突き飛ばす。その隙に瀬奈は後方に飛び退いた。
 瀬奈は腹をおさえ、肩で息をしながら言った。「耐衝撃スーツ着ていてもこの威力なんて……プロだったというのは本当みたいね。三分で集中力が切れることも含めてだけど……」
「テメェ……」と、サジが鼻を押さえながら言った。「ハニートラップなんか仕掛けやがって……優しくしてやろうと思ったが、もう容赦しねぇからな」
「口を開くたびに脅しと恫喝……そうやっていつも自分よりも弱い人間をねじ伏せてきたんでしょ?」
「だから何だ?」
「別に……哀れだと思っただけよ」
 瀬奈はサジの周囲を距離をとったままゆっくりと回りはじめた。サジもファイティングポーズをとったままステップを踏む。
 サジはゆらゆらと身体を揺すりながら瀬奈との距離を縮める。瀬奈は距離を取りながらタイミングを待っている。サジがイライラして、焦れば焦るほど良い。三分間という時間の区切りは、ボクサーにとっては本能のように身体に染み付く。サジのそれも、それほど真面目にボクシングの練習をしていた証拠だ。ルールの中で窮屈な思いをしながらも、目指すものがあったのだろう。こんな暗い地下の底で用心棒などしておらず、リングの上で喝采を浴びた未来もあったのかもしれない。
 ふっ、とサジの身体から緊張の糸が切れた。今だ。瀬奈は太ももの隠しポケットからウズラの卵のような形をした礫(つぶて)を取り出して、サジの足元に放った。それが足元で割れると、中から大量のワイヤーが飛び出してサジの足に絡みついた。
「うおッ?! 何だこりゃあ!」とサジが叫びながら倒れる。瀬奈はサジに向かって走った。サジは膝立ちのまま憎々しげに歯を食いしばり、ファイティングポーズを取る。一か八かの賭けだった。サジのカウンターが決まったら、瀬奈はひとたまりもない。
 サジの背後に動くものが見えた。
 瀬奈は走りながら目を凝らした。
 何かがサジの背後に近づき、そのまま抱きついた。
 サジが驚愕する。
 アスカだ。
 アスカが背後から羽交い締めにしている。
 てめぇ! とサジが叫んだ。
 サジの腕が開き、ガードが解かれる。
 瀬奈はさらに加速して、ベストなタイミングで地面を蹴った。
「あああああああああッ!!」
 瀬奈は気合いとともにサジの髪の毛を掴むと、サジの顔面に渾身の力で膝をぶつけた。
 鈍い音と共にサジの顔が後方に折れる。瀬奈は勢い余って、受け身も取れずに前方に転がった。
 振り向くと、サジは大の字に倒れたまま失神していた。傍らには怯えた様子のアスカが座り込んでいる。瀬奈は反射的に立ち上がってアスカに駆け寄った。
「だ……大丈夫……」と、アスカは虚ろな視線を床に向けながら、震える声で言った。「大丈夫よ……私は大丈夫。これくらい……想定内だから……」
「なに言ってるんですか……。ごめんなさい……私が……私が弱いばっかりに……」と、言いながら瀬奈はアスカを抱きしめた。アスカの身体がビクリと跳ねる。想像を絶するほど酷い目にあったはずなのに、逃げずに瀬奈を助けるために加勢するなんて、どれほど怖かったのだろう。胸が締め付けられ、ただ抱きしめることしかできない自分が歯がゆかった。
「あの扉の先……」と、アスカが廊下の奥を震える指で差しながら言った。「あの先で……ここのリーダーらしき人を見たの。突入した時に少しだけ中を見たんだけど、中はまるで教会の様になっていて……」
「……教会?」と瀬奈は眉をひそめながら言った。
「そう。よくわからないけれど……私達が突入した時に、複数の幹部たちが礼拝みたいなことをやっていたの。祭壇の上で、白いローブを着た男が幹部達に話をしていて、突入した私達と大混戦になって。その時隊員の一人が、白いローブの男が祭壇の奥に逃げていくのを見たって……」
「グールーかも……」
「グールー? 瀬奈、何か知っているの?」
 瀬奈はアスカに少年から聞いた話を伝えた。
「WISHと共に降臨した神様……?」と、アスカは神妙な顔で言った。「二人で協力すれば、なんとか捕えられるかもしれない……」
「いえ……アスカ先輩はこのまま撤退してください。あとは私が行きます」と、瀬奈が通路の奥を見ながら言った。
「なに言ってるの……? この状況で一人で何が出来るって言うの。私も行く」
「ダメです……考えがあります。アスカ先輩はあのエレベーターで地上に向かってください」と、言いながら瀬奈はロビーの奥を指差した。「ここはおそらく重要な顧客を迎えるために作られた、VIP専用のロビーです。そのような顧客を、工場内の通路を歩かせることはありません。おそらくあのエレベーターが、地上と直通になっているはずです」
「でも……瀬奈はどうするの……?」
「グールーを人質に取ります。無理な場合でも、なるべく時間を稼ぎます。アスカ先輩は地上に出たら、警察に応援と救助を要請してください。内部構造や状況がわかれば警察も早く動くはずです」

Яoom ИumbeR_55は10月10日(土)に開催される「りょなけっと vs ABnormal Comic Day!」に、サークル参加させていただきます。
この時期にイベント参加することについては正直かなり迷いがありましたが、

①運営側の感染症対策(検温、消毒、マスク着用の義務、ソーシャルディスタンスなど)がしっかりしている。
②スペースに余裕があり、サークル側でも出来る限りの感染症対策が可能である。

上記の理由から、参加することにいたしました。
また、自分のような特殊なジャンルを発信する機会と、後押ししてくれる運営、イベント会場、印刷所等に対して、少しでも応援になれば幸いです。


_イベント
 
 ※感染症対策のため、通常開催とは大きく異なります。
 ページ内の「重要なお知らせ」をよく読んでからご来場ください。

_スペース
 4階 な-10
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サークルカット(number_55)


_配布物
 腹パンチメインの小説&挿絵、[ PLASTIC_CELL ]を紙媒体で製作しました
 B5サイズ76ページ(文章:63ページ2段組み、イラスト:9ページ)
 ※内容はDL販売しているものと基本的に同じです

 購入特典として、全イラストのフルカラーと差分のダウンロードコードが付属しております

 ジャンルの応援として、通常よりもかなり価格を抑えて1,000円で配布させていただきます

サンプルのコピー

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スクリーンショット 2020-10-03 17.44.31

スクリーンショット 2020-10-03 17.46.14


_注意点
 ・サンプル、配布について
 不特定多数の人が配布物に触るのを防ぐため、1冊のみサンプルとして机の上に置き、在庫は全てダンボールに入れた状態で机下に保管します。
 サンプルはビニールカバーをかけ、定期的にアルコールで消毒します。
 配布希望の際はお声掛けいただければ、誰も触れていない新品の在庫を差し上げます。

 ・お金の受け渡しについて
 手渡しを防ぐため、コイントレーを用意しました。
 受け渡しを少なくするため、なるべくお釣りの無いようにお願いします。

 ・マスクについて
 常時着用をお願いします。
 マスクをアゴにかけた状態、鼻が出た状態の方には配布できません。


では、よろしくお願いします。

unui x RNR


この作品はウニコーンさんに有償依頼をいただき、二次創作として製作したものです。
ウニコーンさんのオリジナルキャラの瀬奈さんを主人公に、世界観や設定、ストーリーをお任せいただいたので、かなりの部分を好き勝手に書くことができました。
今後作品としてウニコーンさんが挿絵を付けて完全版として発売する予定ですが、今回私が書いた文章と制作中のイラストの掲載許可をいただきましたので、予告編としてぜひお楽しみください。


1話目はこちらです


 瀬奈は入り組んだ廊下を走った。
 アスカのことは考えずに任務に集中しろと自分に言い聞かせた。そうでもしないと、涙が溢れそうだった。
 しばらく奥に進むと、左側の壁が全てガラス張りになった。ガラスの向こうには新型のベルトコンベアが数台並んでいる。入り口には「梱包室」と書かれたプレートが貼ってあった。瀬奈は呼吸を整えてから慎重に扉を開けて、素早く中に入ってドアを閉めた。
 木くずとカビが混ざったような匂いが漂っている。
 部屋の奥にはステンレスの大きなタンクがあり、そこから機械を通して、透明なビニール袋にパッキングされた、緑色の粉薬のようなものがベルトコンベアの上を流れていた。袋の中身は栽培室で見たキノコを乾燥粉末にしたもの……WISHだろう。瀬奈は身を隠しながら袋のひとつを手に取った。未開封を示すためのセキュリティシールと、MOTPのロゴがホログラムで印刷された偽装防止シールが貼られている。一般的なドラッグは、生産時はキロ単位の大容量でパッキングされ、流通を経由するうちに徐々に小分けされるのが常だが、WISHは最初から一回分を小分けにして生産されているようだ。また、一般のドラッグは製造環境や質も粗悪で、不安定な流通経路を辿って人の手に渡るたびに混ぜ物が加えられたり、中には全く別の薬と偽って販売されたりするケースが後を絶たない。これほどまでに清潔な環境で生産され、品質管理や偽造防止が施されているドラッグを瀬奈は見た事が無かった。
 瀬奈が注意を払いながら室内を点検していると、奥のドアが開いて人が入ってくる気配があった。瀬奈は身を隠し、部屋の奥に注意を払う。
「こんなにもらっていいんですか?!」
「重要な情報だったからな。礼も兼ねて三倍の量を入れるようにとグールーに言われている。いつも助かっているよ」
「いやぁ、お互い様ですよ。最近のWISHの値段は天井知らずですし、富裕層や権力者に買い占められてモノ自体が手に入らない時も多いですからね。こんな風に直接分けてもらいでもしないと、手に入れることは本当に難しい。グールーにもよろしく言っておいてください」
 グールー? なんのことだろう。宗教上の指導者をそう呼ぶこともあるが……。
 瀬奈は機械の陰からそっと顔を出して様子をうかがった。男が二人いる。作業着を着た中年の男と、瀬奈と同じエナメルのコンバットスーツを着た男。瀬奈の所属するACPUの男性隊員だ。隊員は太めの体系で、瀬奈は見覚えがあった。男性隊員が話を続ける。
「しかし、WISHは一回使ったら最後……これはもうやめられないですね。初めて使った時、幻覚に何が出てきたと思います?」
「さぁ? 初恋の女か?」
「ウチの女性隊員ですよ。ははは。その中に好きな娘がいるんですよね。ほら、ウチの隊員って結構美人が多いし、このピッタリしたスーツ着てるでしょ? 訓練中はいつも目のやり場に困るんですよ。身体のライン強調させたこの格好で飛んだり跳ねたり……堪らないですよ。こっちは勃起したらすぐバレるっていうのに」
「ははは、そりゃあ大変だな」
「気の合う男の隊員同士で飲むと、そんな話ばかりですよ。あいつの胸がデカいとか、尻のラインが綺麗だとか。あと、勃起がバレない下着とかね……。初めてWISHを吸った時のことは、強烈すぎて今でも覚えていますよ。幻覚で出てきた娘は瀬奈ちゃんって言うんですけどね。たぶんもう捕まって、上の方々にレイプされてると思うんでが……。これがめっちゃくちゃエロい身体してて、一眼見た時からずっと大好きだったんですよ。WISHを吸った瞬間に暗転して、幻覚がすぐに現れました。どこかの廃墟みたいな場所で、瀬奈ちゃんと背中合わせの状態で潜伏していたんですよ。周りはドンパチやってる中で瀬奈ちゃんの体温や息遣い、柔らかい肌の感触がリアルに伝わってきて、一瞬本当に任務中かと焦ったんですが、すぐに『ああ、これはこれはWISHの効果だな』って、明晰夢を見たような感じになって、迷いなく瀬奈ちゃんを押し倒しました。効果は三時間くらい続きましたかね。自分、任務中に瀬奈ちゃんとエッチするネタで毎回オナニーしてたんで……本当にWISHのおかげで夢が叶いましたよ。口から胸からアソコまで何回も……。幻覚から覚めた後、オナニーじゃ絶対出ない量の精液の掃除が毎回大変なことが、唯一の困りごとですけどね」
「はははは。有効活用できているみたいでなによりだ。こっちもここまでの大規模な突入となると、事前に準備していない限り流石にヤバいからな。ま、これからもウィンウィンでいこう」
 男達は握手をし、男性隊員が大事そうにアルミのアタッシュケースを抱えたまま作業服の男に背を向けた。
 顔にはまだ笑みが貼り付いている。
 やはり、瀬奈が知っている顔だ。
 先輩隊員のヤタベ。 
 何回か一緒に出撃したことがあるが、格闘能力は低く、太った体型のために隠密行動にも向かない。後方支援も事務処理も要領が悪く、素行についてもあまりいい噂を聞かない人物だ。
 この人が、裏切り者……?
 この人のせいで、仲間が殺され、アスカ先輩が危険な目に……?
 なんでこの人はこの状況で、笑いながら下衆な話なんかできるのだろう?
 ヤタベは醜く口角を釣り上げたまま、こちらに歩いてくる。おそらくこれから帰宅して、WISHを使う時のことを考えているのだろう。
 瀬奈は無意識に立ち上がり、ヤタベの前に立ち塞がった。「え?」とヤタベが驚いた表情で言った。瀬奈は飛び出し、ヤタベの頬に拳を打ち込んだ。ヤタベが悲鳴をあげて転がる。アタッシュケースが床に落ちて派手な音を立てた。作業服の男が振り返り、驚いた顔をする。瀬奈は滑るように床を移動し、作業服の男の鳩尾を貫き、失神させた。
「ひ、ひぃ……!」と、ヤタベが尻餅をついたまま言った。
「あなた……」と、瀬奈がヤタベを見下ろしながら言った。自分でも驚くほどの冷たい声だった。「自分が何をしたのか……わかっているんですか?」
 瀬奈の表情が、わなわなと震える。ヤタベは強張った表情のまま視線を逸らし、転がっているアタッシュケースと、失神した作業員の男をチラリと見た。
「……わ、わかっているに決まってるだろ」と、ヤタベが声を震わせながら、吐き捨てるように言った。
「人が死んでいるんですよ! それも仲間が! もちろん危険な任務だし、皆それなりの覚悟を持って挑んでいるとは思いますが、あなたがした行為は最悪の裏切りどころか……意図的な殺人なんですよ!?」
「そ、そんなこと言うな! 僕だって仕方がなかったんだよ……」
「仕方がないって──」
「わかるだろ!?」と、ヤタベが瀬奈の言葉を遮った。「僕がこの組織で、皆にどんなふうに思われているのか、瀬奈ちゃんだって知っているだろ!? ずっとそうさ……どの集団にいても、ちやほやされたことなんて一回も無かったよ。それどころか、使えない奴だとレッテルを貼られて、いつも邪魔者扱いだ。ACPUに入ったのだって、どこにも就職できなかったから、親にコネで無理やり入れられただけさ。後方支援だけやっていればいいって聞いていたのに、まさか前線に出させられるなんて思ってもいなかったけどね……。家族からもお払い箱にされて、クスリにでも頼らないと生きていけるわけないだろ! ましてやこのWISHは、もはや僕みたいな一般庶民では手が出せないほどの高嶺の花になっているんだ。手に入れるためなら、愛着の無い組織なんていくらでも売るさ!」
「そんな理由で……なんでこんな事態になる前に、組織を辞めなかったんですか……?」
 瀬奈が絞り出すように言った。ヤタベは目を伏せながら、失神している作業服の男を見る。
「……あいつと僕の会話を聞いていたんだろう? 君がいたからだよ……瀬奈ちゃん。前線部隊に配属になると聞いて、その日のうちに辞表を書いたさ。つらい訓練も、危険な任務もまっぴらだ。でも、辞表を出そうと前線部隊のオフィスに行ったら、君がいた。一目惚れっていうのかな……今まで好きになった娘は何人もいたけれど、君ほど惹かれたのは初めてだったよ。だから、頑張ってみようと思った。この通りダメだったけどね……。最初は近くで君を見ていられるだけで幸せだった。でも、だんだん辛くなってきた。君はいつか僕以外の誰かを好きになって、身も心もそいつのモノになってしまうと考えると、気が狂いそうだったよ。正直に言うと、帰り道に後をつけたことも何回もある……。君は誰かと付き合っている様子は無かったけれど、ならいっそ今のうちに押し倒して無理やりとも考えたが、君は僕よりも強いから、返り討ちに遭うのは目に見えている……。そんな生活の中で、こいつの噂を聞いた」
 ヤタベは太腿のポケットからビニール袋を取り出した。くしゃくしゃになっているが、未開封のWISHだ。
「まるでプロメテウスの火だと思ったよ……。WISHは僕みたいに毎日劣等感に押しつぶされながら、惨めに地べたを這い回るしかない人間を救ってくれる、神様からのギフトだ。WISHを使っているうちは、辛く惨めな現実を全て忘れさせてくれる……。幻覚の中で何回も何回も、君や他の女性隊員を犯したり、嫌な上司や隊員をぶっ殺したりしたよ。WISHは僕の暗い心を、明るく照らしてくれた火だ。WISHのおかげで、僕は心の平穏を得ることができたんだよ」
「そんなのただの幻覚じゃないですか。まやかしに何の救いがあるんですか!?」
「これが救いじゃなかったら何だ! まやかしにでも縋(すが)らないと、僕みたいな人間は人生という名の地獄から永久に救われないんだ! 現実で救われないのなら、WISHでも麻薬でも何でも使ってやるさ! 瀬奈ちゃんはいいよな……強くて可愛くてスタイルもいいんだから、こんなもの使わなくても全然平気だろう。僕みたいな出来損ないの気持ちなんて、一生わからないだろうさ。そして出来損ないの人間が一度WISHを知ってしまったら、もうWISH無しの生活なんて考えられないよ。人間がもはや、プロメテウスから貰った火を使わずに生活出来ないようにね……。僕はWISHを手に入れるためなら、なんだってやるさ。なんだってね」と、言いながら、ヤタベは瀬奈の顔を見た。その顔はうっすら笑っているように見えた。「せっかく君と初めてまともに話ができたのに、こんな内容だなんて散々だよ……。でも、これだけは信じてくれ。確かに僕は組織を裏切ったが、罪悪感もなにもなく、平気で見知った顔を裏切れるほど、僕の心はまだ壊れていない……。今でも手が震えて、叫び出したいのを必死に抑えているんだ。だから、ここを出た瞬間に使うつもりだったさ!」
 ヤタベは震える手でWISHの封を切り、瀬奈が止めるのも間に合わずに一気に口に入れた。ヤタベはむせながらもWISHを嚥下する。その後、激しい吐き気を堪えるように悶えた。瀬奈は四つん這いになってげぇげぇと苦しむヤタベに駆け寄るが、ヤタベはその手を振り切る。
「あぁあぁぁ!! あ…………あはは」
 虚を見ているような、どろりとした目になったヤタベと目が合った。WISHの効果の発現はこんなにも早いのかと瀬奈は思った。吐かせようかと考えたが、既に手遅れだろう。
「瀬ぇ奈ちゃん……ん~むっ! んむむむむむむむんむんむ!」と、言いながらヤタベは自分の手の平を舐めまわしはじめた。幻覚の中で瀬奈と抱き合って、キスをしているのだろう。その後、血走った目を見開き、呆けたように口から涎を垂らしながら、腰をゆさゆさと前後に振り始めた。あまりのおぞましさに瀬奈が目を逸らす。ヤタベはすぐに「うんッ!」と鋭い声をあげると、ゆっくりと立ち上がった。コンバットスーツの股間のあたりが盛り上がり、小便を漏らした様なシミができている。ヤタベは効果発現から三分も経っていないのに射精したのだ。
 なんの前触れもなく、ヤタベは両手を広げて瀬奈に向かって突進した。瀬奈は不意を突かれて咄嗟に判断ができず、ヤタベに抱きつかれてしまう。脂っぽい汗と、生臭い臭いが瀬奈の鼻を突いた。ヤタベは呻き声のような声をあげながら腰を瀬奈に押し付けようとするが、瀬奈は身を捩ってヤタベの腕を解いた。ヤタベとの距離が更に広がったところで、ヤタベの顎を裏拳で薙ぐ。テコの原理でヤタベの脳が揺れているはずだが、倒れる気配はない。ヤタベはデタラメに手を振り回しながら瀬奈に抱きつこうとする。ヤタベは瀬奈の手首を掴んで強引に身体を引きつけると、瀬奈の下腹部に拳を突き込んだ。
「うっぶ?!」
 胃液がこみ上げ、瀬奈はうめき声をあげた。腹を抱えるようにして身体をくの字に折る。瀬奈は体勢を立て直してヤタベに攻撃を加えるが、効果的なダメージを与えられずにいた。ヤタベの動きは予測不能のデタラメなもので、再び抱きつかれる。普通であれば瀬奈が苦戦する相手ではないが、WISHによって脳のリミットが外れているのか、力はかなり強かった。ヤタベは瀬奈に抱きついたまま、ごちゅ、ごちゅ、と瀬奈の腹や下腹部を殴った。
WISH_pic_04 bw

「ゔッ?! ぶぐッ! ゔぇッ!」
 肥満体のためパンチには重さがあり、無理な体勢に崩されているため腹筋を固めることもままならない。ヤタベは瀬奈の腹に突き込んだ拳をさらに深く押し込み、そのままピストンの様に圧迫した。
「ゔあッ?! がっ……ぐぷっ……! ごぇッ?!」
 ヤタベは男性器を抽送する様に瀬奈の腹をぐぽぐぽと責めた。瀬奈の腹は杵で突かれている様に陥没し、はらわたが掻き回されたことでデタラメな信号が脳に送られる。瀬奈は目と口を大きく開けて苦しみ、出した舌から唾液が伝って床に落ちた。
「んぎ……いッ!」
 瀬奈は意識が途切れる前に歯を食いしばり、ヤタベの顔面に頭突きを見舞った。ヤタベは痛みを感じているのかわからないが、一瞬ひるんで腕の力が抜ける。瀬奈はヤタベの顎をアッパーで突き上げ、背後に回り込んでチョークスリーパーをかけた。歯を食いしばり、呼吸を止めて腕に力を込める。ヤタベはしばらくバタバタと暴れたが、やがて動かなくなった。
 瀬奈は肩で息をしながら、仰向けに倒れたヤタベを見た。呼吸はしているようだ。失神しているとはいえ、まだWISHの幻覚の中にいるのだろう。その顔にはいまだに不気味な笑みが張り付いていた。
 突如、けたたましい警報が鳴り響いた。
 瀬奈はビクリと反応し、呼吸が落ち着く間も無くベルトコンベアに身を隠す。
 部屋の奥のアルミ扉が開き、小柄な男が入ってきた。男は倒れている作業員を見て「うわっ」と驚いた声をあげた。瀬奈が覗き見る。小柄な男は倒れている男と同じ作業着を着ており、首からカードホルダーを下げていた。
 小柄な男が、倒れている作業員の名前を叫びながら揺り動かす。作業員の部下だろうか。声のトーンが高く、未成年かもしれない。小柄な男は倒れているヤタベにも気がつき、助けを呼ぶために扉に向かって背を向けた。瀬奈が飛び出す。背後から左腕を男の首に回し、カードホルダーを握った手を掴んだ。
「ぐあッ!」
「この音は?」と、瀬奈が低い声で聞く。
「警報です……WISHの製造数と、箱詰めされた数が合わなくなった時に鳴る……。ライン工がWISHを盗むのを防ぐために付いているんです……」
 苦しそうな声で男が答える。近くで見ると、男は瀬奈の想像よりもずっと年齢が低かった。まだ十代前半から半ばくらいだろう。真面目そうな雰囲気の顔が苦痛と恐怖に染まっている。瀬奈は力を込めている腕を少し緩めた。
「あなたもWISHを? WISH欲しさにこんなことをしているの?」
 男の子は目を閉じて苦しそうに歯を食いしばりながら、二、三回頷いた。
「先生から貰ったんです……イジメの相談をしたら、夢の中でイジメた奴に復讐ができるって……。でも、ある時先生から、もっとWISHが欲しいならここで働けと言われて……僕みたいなライン工はたくさんいます……」
「なんてことを……」と、瀬奈は頭を振りながら言った。こんな子供まで使って量産されている薬物など、潰さなければいけない。「幹部やボスはどこにいるの? そのカードを使えば行ける?」
 男の子は首を振った。
「扉のロックはレベルがあって……僕のカードは最低レベルで、この工場エリアしか入れないんです。でも、課長の持っているカードなら、偉い人達のエリアにも行けます……グールーもそこにいます」
「グールー?」と瀬奈が言うと、男の子はかすかに頷いた。
「グールーです。WISHを初めて創った人で、ここで一番偉い人です。グールーは僕達みたいなダメな人間を救うために、WISHと共にこの世に降臨した神様だと、大人達は話しています……」
 瀬奈は男の子を解放した。男の子は四つん這いになって激しく咳をしている。瀬奈は倒れている男のカードホルダーから赤いカードを抜き取った。顔写真付きのしっかりとしたカードで、名前の上には「製造部 在庫管理課 課長」と印字されている。まるで会社の社員証だ。
 瀬奈はしゃがみ込んで、四つん這いになっている男の子と目の高さを合わせた。
「ねぇ、ここを出たら、麻薬更生プログラムを絶対に受けるって約束できる?」と、瀬奈は男の子に向かって言った。男の子はキョトンとしながらも、しっかりと頷いた。「じゃあ、お姉ちゃんとの約束」と言って、瀬奈は小指を差し出した。男の子も恐る恐るという様子で、その小指に自分の小指を絡める。
「私にも、君と同じくらいの妹がいるの。もし、お姉ちゃんとの約束を忘れそうになったら、これを見て思い出して」
 瀬奈は金色の髪留めを一本外し、男の子に渡した。男の子は扉から出て行く瀬奈を見送ると、それを大事そうにポケットにしまった。

heder


 本日2020年7月21日をもって、Яoom ИumbeR_55は活動10周年を迎えることとなりました。
 ここまで続けられたのも、読者の皆様の応援と、協力していただけるイラストレーターさんのお力があってこそです。
 本当にありがとうございました。
 長いようで、本当にあっという間の10年間でした。ブログを作って初めて小説を公開した時のこと、同人誌の作り方がわからず色々と調べたこと、今でも大好きなイラストレーターさんであるsisyamo2%さんに、嫌われるのを覚悟で「すみませんが、僕のキャラクターが腹パンチされている絵を描いていただけませんか……?」とメールを送り、快諾していただいた時のこと、初めて同人イベントに参加した時のことなどが、昨日のことのように思い出されます。

design
scene1

↑当時sisyamo2%さんに描いていただいたラフ

 始めは綾ちゃん一人だけだったキャラクターも、話が進むにつれ徐々に増え、今ではそこそこの所帯となりました。特にシオンさんの登場は読者の方にもかなり受け入れていただいたようで、ブログのアクセスも一気に増え、自分自身も驚いた記憶があります。
 シオンさんは他のキャラクター以上に、「気がついたらそこにいた」というキャラクターでした。今でも覚えていますが、その頃も仕事とプライベートでかなり参っていました。大分県のある山道を車で走っていた時のことです。そこは開けた草原のような風光明媚な場所で、山の間を吊り橋がかかり、民家や商店は無く、空は雲ひとつない青空でした。真夏なのに気温は涼しく、山々の緑がとても綺麗だなと思った瞬間、まるで昔からずっとそこにいたかのように完璧な姿で頭の中にいました。まるでとこかの世界から気まぐれに自分の頭の中に遊びに来てくれたみたいに、姿形はもちろん、話し方や好み、性格から生い立ちまで完璧に完成されていました。
 当時の自分は「ここまで完成されているのなら、この人の話を書かなければ死ねないな」と思いました。

キャラのみ 2


さて、「ここまで続くとは思わなかった」とはこういう場面でよく使われる月並みなフレーズですが、自分の場合は本当に、長くて1年、早くて数ヶ月くらいで活動を終えるものだと思っておりました。
 何回か書いたり話したりしたことがあるので、既にご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、自分が活動を始めたきっかけはまさに「酔った勢い」です。このあたりの話は、現在DL販売しているリョナ作家インタビュー本[UIGEADAIL]のあとがきに書いておりますので、引用させていただきます。


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 自分には「男性から女性への腹パンチに興奮する」という変な性癖があります。
 いつ頃からこのような変な性癖に目覚めたのかは覚えていませんが、物心ついた頃、幼稚園に通う前にはすでにこの性癖は自分の中に確かに存在していました。その頃は腹パンチはもちろんのこと、戦隊モノやアニメでキャラクターが痛めつけられるのを見て、変な気持ちになっていたのを覚えています。腕が飛んだり、吐血したりという血が出るシーンは苦手でしたが、戦隊ヒーローが敵に攻撃されて火花が散ったり、アニメで女性キャラクターが捕まって苦しめられたりというシーンは大好きでした。6歳くらいの頃から、対象が女性で、攻撃方法が腹パンチに集約されていったと思います。その頃は自分の性癖が「特殊である」といことが具体的には理解できなかったとはいえ「自分はなにかが人と違っている」ということはおぼろげには理解していました。
 また、一般的な性についてもマイナスな出来事がありました。小学校の頃の保健体育の授業での出来事です。当時の担任(問題のある女性教師で、最後には解雇になりました)がとても嫌そうに、男女の身体の違いや、子供ができる仕組みを説明している中、自分はどうやって男性の作った精子が女性の身体の中に入るのか理解ができませんでした。授業はかなり端折られており、肝心なとことは「大人になればわかる」の一点張りでしたので全くわかりません。興味がある男子ならある程度は自分で調べて理解していたとは思いますが、わからなかった自分は手をあげて「男の作った精子をどうやって女の身体の中に入れるのか?」と質問をしたところ、その担任はひどく怒り「ふざけているのか? はしゃぎたいのなら出て行け」と言われ、教室を追い出されてしまいました。その時から自分にとって性は「よくわからないが、不気味で後ろ暗くて恐ろしいもので、決して人に話してはいけないタブー」というイメージがつきました。
 それからすぐに一般的な性の知識も得たのですが、それは自分の性嗜好が、人と違う特殊なものも同時に持ち合わせているという烙印も同時にもたらしました。一般的な性嗜好も持ち合わせてはいましたが、もうひとつの腹パンチという興味の対象が、少なからず人に危害を加える可能性があることも、自分を酷く苦悩させました。よくある特殊性癖(コスプレや汚物など)ならよかったのですが……。

 自分は人と違って頭がおかしいのだ。
 自分はなにか取り返しのつかないような病気なのだ。
 自分はいつか傷害事件を起こして逮捕されるのだ。
 自分は生きているだけで人に迷惑をかけている。

 小中学校の頃から毎日毎日そんなことを考え、こんな自分が表向きは普通の人間を装って生きていて大丈夫なのだろうか、いつかバレるのではないかと思い続けているうちに、自分の自己肯定感はとても低いものになってしまいました。今でも人と話すときは、いつも心のどこかで「こんな頭がおかしい奴の話を聞いて、この人は不愉快に感じていないのだろうか?」と不安に感じています。
 自分の中で転機が訪れたのは、小説……と呼んでいいのかわかりませんが、とにかく文章を書き始めてインターネットで公開した時でした。忘れもしない2010年7月のある夜、当時自分は仕事の関係であちこちを転々としており、縁もゆかりも無い遠い土地に独りで住んでいました。仕事はあまり上手くいっておらず、プライベートでも落ち込むことが重なり、部屋で独りで頭を抱えながらウイスキーを飲んでいました(たしかストラスアイラの12年だったと思います)。
 日付はとっくに変わっていました。
 仕事は、報酬は悪くはなかったのですが、多忙なうえ精神的に辛く、慣れない土地で友人もおらず、相変わらず性癖の悩みも抱え続けており、いっそのこと今から全てを投げ出してどこか知らない土地へでも行って、野垂れ死んでもいいのではないかと思っていたときです。なんの前触れも無く、なぜか突然「そうだ、小説を書こう」と思いました。
 いったい何の脈絡があって「そうだ」と思ったのか意味がわかりませんし、そもそもそれまで小説を書こうなんて思ったことも、ただの一度もありませんでした。文章といえば学校の宿題で出された読書感想文を嫌々書いたことくらいしかなかったのですが、その思いつきは自分の中では不思議と納得ができるものでした。また、その思いつきと同時に「神崎綾」というキャラクターや、敵を含めたその他のキャラクターも、まるで空から降りてきたかの様に頭の中にふわりと出てきて、勝手に動き出しました。数秒前に小説を書く決心を固めた自分は、とつぜん頭の中で勝手に紡がれ始めたストーリーを此(こ)れ幸いと、慌ててウイスキーのグラスをテーブルの隅に退けてキーボードを取り出して、箱庭の中の人形劇を観ているような感覚で必死にメモソフトに書き写し始めました。自分が名刺などで作家ではなくタイピスト(入力者)を名乗っているのは、このような製作過程があったからです。

 ともかくこうして、自分の最初の小説(らしきもの)は完成しました。
 小説を書こうと思った割には、やったことといえば頭の中で勝手に動くキャラクターを書き起こしただけなのですが、とにかく一定量の文章はできました。さて、書いたはいいものの、これをどうしようかと僕は思いました。出来上がった文章は、今読むと恥ずかしくなるほどメチャクチャなのですが、なぜか不思議な勢いがあるものでした。しかも女の子が腹パンチされるシーンが多く入った、過去の自分が読んだら大喜びするであろう内容です。そこで、さすがにこのまま削除するのはもったいないし、とりあえずブログを作って公開してみようと思いました。当時、自分はファッションと音楽のブログを運営していたので、ブログという媒体に馴染みはありました。しかし、それ以外のインターネットの知識はほとんど無く、「腹パンチ」と検索すると「国のすごい技術で犯罪者予備軍リストに載ってしまうかもしれない」と思い遠ざけ、匿名掲示板はアクセスするだけで個人情報が抜かれると思っていたほど、ネットに疎い生活をしていました。
 ブログで小説を公開してすると、ありがたいことに反応があり、また、自分と同じ性癖を持つ人からコメントや感想をいただくことができました。自分以外に同じ性癖を持つ人がいたのかととても驚き、そのあたりからインターネットも積極的に使うようになり、調べていくにつれ、自分が独りで悩んでいた頃から腹パンチをはじめとした特殊性癖は既に一定のコミュニティを形成していたこと、匿名という環境下も相まってかなりオープンな発言が多く、なかには自分でも驚くような特殊な性癖も存在することもわかりました。また、各種イベントに参加することで面と向かって特殊性癖の人達と話をする機会もあり、自分自身が感じていた疎外感も「生きづらいことは生きづらいが、世界に1人だけしか存在しないという特殊なものでない」という風に割り切れるようになりました。

 今回の「リョナ作家インタビュー本」は数年間ずっと自分の中で温めていた企画です。
 先に書いた通り、自分の性癖を恨んだことは数知れず、「どうしてこんな性癖になってしまったのか」「なにかきっかけがあるのではないか」と自分自身ずっと考え続けていた中、「そうだ、直接聞けばいいではないか」と思ったことがきっかけです。また、自分はたまたま小説を書いたことで、自分と同じような性癖を持つ人と会うことができ、少しだけ救われた感覚がありました。おそらく自分のように孤独感に苛まれながら、独りで悩んでいる人も他にもいると思います。そういう方々の孤独感を少しでも減らしてあげられることができればと思ったことが、企画を考えた理由のひとつです。また、偶然にも自分は創作者側の端くれとして存在しているので、純粋に他の創作者の方々が活動を始めたきっかけや、リョナを題材にした理由、産まれてからどのような時間を過ごして現在に至るのかとても興味がありました。
 また、先日LGBTの方に話を聞く機会がありました。その方はレズビアンなのですが、LGBTの方の多くが自己肯定感が低く、アウティング(自らの意思で行うカミングアウトではなく、他者から望まない暴露をされること)の被害を受け、性癖をファッションだと揶揄された経験があるとのことでした。自己肯定感の低さも、アウティングも、性癖をファッションだと揶揄されたことも、全て自分にも経験があり、酷く傷ついたことを覚えています。また、その方は次のようなことを話してくれました。

「産まれた時から私の性認識は女性であり、性の対象も女性だった。私はしばしば『なぜ女性なのに女性が好きなのか』と聞かれることがある。私にとっては産まれた時からこれが当たり前だったから『なぜ』と聞かれてもわからない。逆に、『なぜあなたは異性が好きなのか』と聞かれて、明確な理由を答えられる人がいるのだろうか」

 自分はその話を聞いてハッとしました。
 自分はLGBTではないが、特殊性癖としてはカテゴリとしては同じなのかもしれないと。
 もしかしたら、「どうしてこんな性癖になってしまったのか」「なにかきっかけがあるのではないか」という疑問は考えるだけ無駄で、答えなんて無いのではないか。
 帰宅してからすぐに、「リョナ作家インタビュー本」の募集要項を考え始めました。
 ありがたいことに今回20名を超える方に応募いただき、なるべくジャンルが分散されるように考えながらインタビューをさせていただきました。インタビューも書き起こしも、小説以外の本作りも初めてであり、至らぬ点も多く、結果として11名の作家様しかお話を聞くことができませんでしたが、皆様とても真剣に話をしていただき、ありがたいことに多くの方から「話ができてよかった」「楽しかった」「ここまで真剣に自分の悩みについて考えたことがなかった」と言っていただけました。インタビューに答えていただいた作家様、本当にありがとうございました。インタビュー本については、ぜひ第2弾を企画させていただきたいと思います。
 最後になりますが、この本を手に取っていただきありがとうございました。読んでいただいた方の琴線に少しでも触れることができていれば幸いです。

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 きっかけはともかく、小説を書いて創作活動を始めたことで、このようにある程度前向きな考えになったことは、自分の人生において本当にプラスになりました。また、活動を通じて多くの読者の方や作家さんと交流する機会に恵まれたことも、創作活動をしていて本当によかったと思えることです。
 本当にありがとうございました。
 これからもよろしくお願いいたします。

この作品はウニコーンさんに有償依頼をいただき、二次創作として製作したものです。
ウニコーンさんのオリジナルキャラの瀬奈さんを主人公に、世界観や設定、基本となるストーリーをお任せいただいたので、かなりの部分を好き勝手に書くことができました。
今後作品としてウニコーンさんが発売する予定ですが、今回私が書いた文章と制作中のイラストの掲載許可をいただきましたので、予告編としてぜひお楽しみください。


unui x RNR


Sena_Standing


 ようやく蛍光灯の光が届かない一角を見つけたので、樹村瀬奈は転がるように身を隠した。
 肩で息をしながら背中を壁につけると、力が抜けたようにズルズルと尻餅をつく。なめらかなコンクリートの感触と冷たさが、ピッタリとしたボディスーツ越しに背中に伝わってきた。両手で口を押さえながら、全力疾走した後の呼吸を抑えると、怯えきった金色の瞳で周囲をうかがった。天井に設置された大型のファンが、大型輸送機の様な重い音を立てている。それ以外の音は聞こえなかったため、瀬奈はわずかに安堵した。
 市民体育館ほどの広さの室内は、湿度維持のためのスチームが充満していて蒸し暑い。顔を上げるとミスト状の霧が蛍光灯の光を鈍く反射して、汚れたクリームの様に見えた。
 周囲はステンレス製のラックが、人がすれ違えるギリギリの幅を残して部屋全体を埋め尽くしている。瀬奈は逃げる途中に視界に入ったラックの中身を思い出した。ラックの中はエイリアンの卵の様な、乳白色のプラスチックの壺が隙間無く敷き詰められていた。そして壺の中には不気味な細長い緑色のキノコが、イソギンチャクの触手のように群生していた。
「これが……WISH……?」
 ラックを見上げながら、瀬奈が震える声で呟いた。
 二週間ほど前のミーテイングの様子が瀬奈の脳内に蘇る。

「『WISH』という名前は、君達も聞いたことがあるだろう?」
 国家認定の民間自警組織「ACPU」の会議室に集まった十五人ほどの男女は、ホワイトボードの前に立つ司令官の声に黙ったまま頷いた。
「では樹村、簡単に説明できるか?」と、司令官が言った。名指しされた瀬奈は、はいと返事をして立ち上がる。
「数年前から爆発的な広まりを見せている、新型麻薬の名称です。製造方法をはじめ、製造元や販売ルートはいまだに判明していません」
「そうだ。WISHはヘロインや大麻、コカインなどの既存の違法薬物とは全く違う。その特異な薬効で、短期間で麻薬市場のシェアを塗り替えたバケモノだ。これはサンプルだが……」と、言いながら司令官は封筒から粉薬のような袋を取り出して、全員に見せた。袋の中にはモスグリーンの粉末が入っている。「WISHの見た目はこの通り乾燥した緑色の粉末で、鼻粘膜から吸引すると『まるでオーダーメイドしたSF映画のバーチャルリアリティのように、自分の欲望を具現化した幻覚をリアルに体験することができる』という恐ろしい効果を持ち、多くのジャンキーや廃人を今でも生み出し続けている。あまりにも魅力的な効果のため、巷では『サキュバス』や『デビル』、『D』なんて隠語でも呼ばれている。化学式は複雑かつ不安定で再現は不可能。流通も組織的なものではなく、実際に販売をしている半グレや一般人を捕まえても、いずれも転売で、そもそも誰がどこから流通させているのか不明。樹村の言う通り、モノは確かにあるのだが、それ以外が一切不明の訳の分からないシロモノだ……昨日まではな」
 会議室の全員が、わずかに前に乗り出した。瀬奈もペンを握る手に力が入る。
「昨日、正規警察からWISHを製造している組織が『March Of The Pigs(MOTP)』と名乗っている団体であるとの情報が入った。実態は不明だが、表向きは小規模な新興宗教団体のようなものらしい。二週間後、我々は正規警察の先駆けとしてMOTPのアジトに突入する──」

 アジトの中は入り組んだ巨大なキノコ工場の様で、過去に何回か麻薬組織を壊滅させた実績のあるACPUの隊員達は面食らい、しかも潜入を事前に知っていたかのように即座に入口が閉ざされ、屈強な用心棒達が現れて仲間は散り散りになってしまった。
 ヘアゴムとヘアピンを取り外して、瀬奈は全力疾走で乱れた髪を直した。汗で張り付いた前髪を撫で付け、両サイドの髪と一緒に側頭部に留め直す。骨折や怪我はしていない。組織から支給されたコンバットスーツは少し破れてはいたが、この高湿度の中でも市販品ではありえないスピードで汗を体外に放出させ続けており、快適な着心地を保っている。
「とっとと入れ!」
 背後から低い男の声と、人間を引き摺る音が聞こえて、瀬奈は身体を縮こませた。それに続いて「ひ、ひッ!」という怯えきった男の声。一緒に潜入した仲間の一人だ。
「悪く思うな……」
 別の男の声。落ち着いていて、子供に言い聞かせているようなトーンだ。敵は二人か。
 ごつ、ごつと骨同士がぶつかる音と、仲間の悲鳴が聞こえる。拳骨が何回も仲間の身体に打ち込まれる音……。
「ひぎっ! がっ! ぎゃあぁ! あぁ……! あが……」
 仲間の男の悲鳴が激しくなり、それから徐々に小さくなっていった。瀬奈は涙を浮かべながら嗚咽が漏れないように両手で口を塞いだ。身体が自分のものではないみたいに、全く動かない。グシャリ、という嫌な音が聞こえ、仲間の悲鳴がくぐもったものに変わる。おそらく、鼻を砕かれたのだろう。怒声と悲鳴が混じった悪夢のような時間がしばらく続いた。不意に仲間の男が、壊れた水槽のポンプの様な声にならない声をあげた。首を絞められているのだ。もうやめてくれ、と瀬奈が思った直後、ごきん……という何かが外れた音がした。
 沈黙。
 仲間の悲鳴が途絶えた。
 殺されたのだ。
 力任せに、頭蓋骨と身体を繋ぐ頸椎を無理やり外されて……。
 瀬奈はガタガタと身体を震わせながら、口を押さえたまま流れる涙を拭うこともできずに必死に嗚咽を堪えた。
「あーあ、男は殺すくらいしか楽しみがねぇから、マジでクソだな」
 肉を蹴る音が聞こえる。仲間の死体が蹴られている。「この栽培室もカビ臭ぇし、ジメジメして蒸し暑いしよ……。最悪だぜ。女だったらブチ犯せるからいいんだがな。サエグサさん、どうなんですかい? もうあらかた捕まえたんでしょう?」
「ああ、残っていても、あと一人か二人くらいだろう。侵入者は全員で二十人くらい。女は六、七人はいたと思うが」と、サエグサと呼ばれた男が言った。相変わらず落ち着いた声だ。
「残ってるのが女だったらいいんだけどよ……」と、荒っぽい男がまた仲間の死体を蹴りながら言った。「しかしACPUの女どもの格好、どう思います? 動きやすいのかどうか知らんけど、身体のライン出まくりのあんなヤラシイ格好でノコノコ来やがって、レイプしてくださいって言ってるようなもんでしょ。クソッ! 先に捕まえた女どもは今頃、幹部連中がお楽しみだ。こんな残飯処理みてぇな仕事押し付けやがって……チンピラ連中にでも任しときゃいいのによ」
「そう言うな。サジ、残飯処理も我々の大切な仕事だ。売人のチンピラ達は見かけは威勢がいいが、実際は鍛えている女相手にも負けるようなひ弱な奴らばかりだ。ましてや今回みたいな特殊部隊が相手なら、歯が立たんだろう。だが、彼らはWISHの啓蒙活動という仕事を着々と遂行している。我々が現場の仕事をしなくて済むのは、彼らのおかげだ。適材適所、与えられた仕事を全うすることは素晴らしいぞ。こういう時のために、我々警備部はグールーに雇われているんだ」
「わかっていますよ……。というかサエグサさんだって幹部なんだから、現場は俺たちに任せて、捕まえた女とよろしくやってきた方がいいんじゃないですか?」
「警備部長が離れるわけにもいかんだろう。それに、女を無理やり犯すのは趣味ではない」
「相変わらず真面目っすね……。ねぇサエグサさん。隠れている奴がもし女だったら、俺がいただいちゃっていいですかい? 抵抗されたことにして殺しちまえばバレねぇし、一人くらい上に回さなくたって大丈夫でしょ?」
 瀬奈の震えが大きくなる。
 ほぼ全員捕まった……?
 残っているのは自分だけなのか……と瀬奈は絶望的な気分になった。
 身体の震えが止まらない。
 瀬奈の震えにラックが振動して、壺のひとつが床に落ちた。
 がしゃん……と、室内に音が響く。
 びくっ、と瀬奈の身体が跳ねた。
「おっとぉ……」と、サジと呼ばれた男がわざとらしく言った。「女だったらいいなぁ……」
 サジの声には、手負いの獲物を追い込むライオンの様な響きがあった。足音が近づいて来る。腰が抜けて動けない。殺される……。
 ふっ……と蛍光灯の光が遮られ、男達が姿を現した。背の高い屈強な男が二人、瀬奈を見下ろしている。一人は白い無地のタンクトップにジーンズという姿で、もう一人は濃いグレーのTシャツにオリーブ色のカーゴパンツを履いていた。二人とも腕や胸がはち切れそうなほど張っており、ウエストもそこそこ太い。明らかに、本格的に格闘技をやっている人間の身体つきだ。

WISH_pic_01


「へへへ……こりゃ参ったな。残り物には何とやらってやつか? 上が輪姦(まわ)してる奴らよりよっぽど上玉だぜ」と、タンクトップを着ている男が言った。先ほどサジと呼ばれてた男だ。目が嗜虐の色に光っている。「なんだこの胸……エロい身体しやがって。大人しくしてりゃあ気持ち良くしてやるぜ?」
 瀬奈の歯がガチガチと音を立てた。

 風を切る音。
 衝撃音と共にサジの体が横に吹っ飛んだ。
 突如現れた人影がミサイルの様なドロップキックを見舞い、もう一人の男──サエグサと呼ばれていた──を巻き込んで倒すと、そのまま蛍光灯の下に着地する。
「……あんまりウチの若いのをいじめないでくれる?」
 鼻にかかった気怠そうな声が瀬奈の頭上に降ってきた。声の主は長い髪の毛を手櫛で梳きながら、瀬奈の手を引いて立ち上がらせる。
「あ……アスカ先輩……?」と、瀬奈が言った。
 アスカは瀬奈の目を見て頷く。ここに来るまで激しい戦闘をかいくぐってきたのだろう。蹴り技主体のアスカ用に仕立てられた、競泳水着の様なコンバットスーツは所々が破れていた。
「厄介ね。入り口近くにいた奴らはチンピラみたいなのばかりで楽だったけれど、こいつらは違うみたい……」と、アスカは溜息混じりに言った。「私と瀬奈以外は、全員捕まったかもしれない……」
「そんな……」
「行って。私がこいつらを食い止めているうちにどこかに身を隠して、後援や正規警察の部隊が到着したら状況を伝るの。出来るわよね?」
「い、嫌です! 私も戦います!」
「あなたまで捕まったら、それこそ全滅かもしれない。大丈夫、私の実力は知っているでしょう?」
「でも、相手は二人です。いくらアスカ先輩でも、疲労した状態で二人を相手にするのは荷が重すぎます。私も戦えば、少なくとも一対一にはできるはずです!」
 アスカは瀬奈の目をじっと見た。瀬奈もアスカの目をまっすぐに見つめている。迷った後、アスカは静かに頷いた。
「わかった。そのかわり、絶対に無理はしないで。最悪の事態は避けなきゃいけないから」
 アスカの背後で男二人が立ち上がった。サジが首を鳴らし、こちらに近づいてくる。
「私は、あのカーゴパンツの男をやる。多分あいつの方が……」と、アスカが言った。「危なくなったらすぐに逃げて」
 アスカがラックに足をかけ、三角飛びを繰り返す要領で男達の頭上に飛び上がる。サジの頭を飛び越え、サエグサに向かって蹴りを放った。サエグサは腕を十字に重ねてガードし、そのまま後ずさる。アスカは追撃として連続で蹴りを放ち、サジとサエグサの距離を離していく。
「分断作戦か……チンケな真似しやがって」と、サジが瀬奈を睨みながら言った。「ま、俺はお前の方が好みだから構わねぇがな」
「残念ね、私は全然好みじゃないから」
 瀬奈は距離を取り、サジの出方を見た。サジは余裕そうにノーガードで直立している。女相手に負けることはないと信じて疑っていない。
 ふッ……と瀬奈は鋭く息を吐き、サジの懐に飛び込んだ。ずぶり……とサジの腹に瀬奈の拳が埋まる。「うぶっ!」とサジは息を吐き、驚愕の表情に変わった。そのままサジの顎を跳ね上げ、ガラ空きになった腹部に鋭い蹴りを打ち込む。
 サジは勢いよくラックにぶつかり、いくつかの容器が頭上から落下して割れた。
「舐め腐っているからよ!」と、言いながら瀬奈は跳躍し、サジの頭上をめがけて蹴りを放った。アスカと共闘していることが心強い。姿は見えないが、向こうも善戦していることだろう。瀬奈の足裏がサジの頭を蹴った瞬間、突然瀬奈の目に鋭い痛みが走った。目を開けていられず、涙が溢れて視界がゼロになる。サジが瀬奈の顔を目掛けて、床に落ちた苗床の砂を投げたのだ。
「痛てェなこのクソアマが!」とサジが憎々しげに叫ぶ。
 ごしゃッ……という鈍い音。
 瀬奈の頭に硬いものが叩きつけられた。キノコの苗床になっていた乳白色の瓶だ。目の前に星が飛び、身体から力が抜けるのを感じた。直後、顎に鈍器のような拳が打ち付けられた。世界が回転し、どちらが上か下かもわからなくなり、瀬奈は崩れ落ちるように尻餅をついた。すぐさまサジに身体を強引に引き上げられ、ラックに背中を叩き付けられる。
「俺は女にナメられるのが一番嫌いなんだよ!」
 サジが叫びながら、瀬奈の腹に容赦の無い拳を打ち込んだ。瀬奈のスーツの布地が大きく凹み、ラックが激しい音を立てて揺れる。
「ゔっぶぇッ?! ぐぷッ……!!」
 目が見えない中、ほとんど不意打ちのようなボディブローを受け、瀬奈の身体がくの字に折れる。はらわたを掴まれたような不快な感覚が瀬奈を襲い、内部から自分の意思に反して胃液がこみ上げてきた。サジはよろめく瀬奈の腕を掴んで強引に引き起こし、そのガラ空きの腹部を突き上げた。瀬奈の胴体が床と水平になり、落下するのと同時にさらに突き上げる。
「ぐぼッ! ごぇッ! げぶぉッ! げぇぇッ!」
 胃の中がさらにシェイクされ、押し潰された中身が食道を逆流する。
「おぶっ……ご……ごぶぇっ?! おぶろろろろろろえぇぇ………」
 瀬奈はたまらず胃液を吐き散らしながら悶絶した。透明な胃液が逆流し、瀬奈は痙攣しながら床でのたうつ。
「汚ねぇんだよボケが! 雑魚がイキってんじゃねぇぞ!」
 脇腹を蹴られ、瀬奈は虐待された人形のように床に転がり、身体を折り曲げて悶絶している。
「がッ?! あがッ……! げぁッ……」
 内臓が危険信号を発し、瀬奈の全身を猛烈な苦痛が駆け抜ける。サジはダンゴムシのように身体を折りたたんで苦しんでいる瀬奈を足で蹴って仰向けにすると、その腹を体重をかけて踏みつけた。ぐちゅりという音と共に瀬奈の腹が潰れる。
「ぶげぇッ?! ぎぇっ……ぎゃあぁぁぁぁ!」

WISH_pic_02


 瀬奈は苦痛に顔を歪ませながら、サジの足首を掴んで必死に自分の腹を押しつぶしているものを抜こうとする。その様子に、サジの加虐心はさらに燃え上がった。グリグリと体重をかける場所を微妙に変え、的確な苦痛を瀬奈に与える。
 突如、サジの後頭部に衝撃が加わった。バランスが崩れ、瀬奈の腹がようやく拷問から解放される。ラックの上からサジに飛び膝蹴りを放ったアスカが瀬奈のそばに着地した。着地した瞬間、アスカの顔が苦痛に歪む。
 アスカは瀬奈を抱き起しながら「瀬奈!」と叫んだ。
「ゲホッ! ゲホッ! あ……アスカ……先輩?」
 アスカの顔と身体には、再会した時よりもさらに多くの格闘の跡が残っていた。
「心配して来てみれば……もう満身創痍じゃない」と、アスカが言った。「……私が戦っている相手もかなりの手練れで、完全に遊ばれている感じなの。このままでは二人とも負けるだけよ……。最初に言った通り、瀬奈はどこかに身を隠して応援を待って。私はできるだけ時間を稼ぐから」
「そ……んな……」
「大丈夫……あなたの回復力は隊でも随一だから、しばらく大人しくしていれば動けるようになるはず。絶対に生き延びて」
「でも……」
 瀬奈が言いかける前に、アスカの背後でサジが立ち上がった。いつの間にかサエグサも合流しており、サジの背後から瀬奈とアスカを無表情のまま見下ろしている。アスカは立ち上がり、瀬奈を庇うように二人の前に立ちふさがった。
「早く!」とアスカが瀬奈を振り返らずに言った。瀬奈は振り切るようにアスカに背中を向け、腹を押さえながら出口に向かってよろよろと走った。背後でサジが「待てこら!」と叫ぶ。続いてアスカの鋭い声と、ラックが崩れる音。瀬奈が振り返る。アスカがラックの脚を破壊して倒し、瓦礫がバリケードのように床に重なっていた。瀬奈を逃がすために、素手で人を殺すような男達を自らと共に閉じ込めたのだ。瀬奈は涙を拭うこともせずにふらつきながら全力で走り、栽培室から出でドアを閉めた。


「やっ! はッ! はぁッ!!」
 アスカが流れるように連続でサジの身体に蹴りを見舞う。しかし、サジは全く動じずに蹴られた場所をさすっている。
「へへへ、可哀想に。漫画の世界だったらお前みたいなヒロインぶった奴は、なんだかんだで最後は助かるんだろうけどな」と、サジが言った。サエグサは無表情で腕を組んでいる。
 アスカが一方的に攻撃をしているはずなのに、サジはじりじりと距離を詰めていく。サジはノーガードでアスカの攻撃を受け入れてるが、全く効いている様子は無い。「くっ……」と、アスカは食いしばった歯の隙間から、嗚咽に似た声を漏らして後ずさった。直後、アスカの背中がラックに当たる。もう後が無い。アスカは意を決して、サジに拳を繰り出した。正確にサジの腹と鳩尾に連続して拳を突き刺す。そして足を蛇のようにしならせながらサジの顎先を蹴った。しかし、サジは僅かに顔をしかめた程度で全く動じていない。
「なんだそれ? 俺にパンチで勝負を挑むなんて、いい度胸してるじゃねぇか? パンチってのはこう打つんだよ!」
 どぎゅるッ! という聞いたことが無いような音がアスカの耳に届いた。

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「ゔぶッ?! ひゅぐぇッ!?」
 サジは一切の躊躇も手加減も無く、アスカの鳩尾に大砲の様な拳を埋めた。殴られた衝撃でアスカの両足が地面から三十センチほど浮き上がる。アスカの心臓は一瞬で潰され、男達に土下座をする様に顔から地面に崩れ落ちた。まともに呼吸ができないのだろう。「がっあッ!? ごッ……? ごぇッ……!」と死にかけの蛙の様に呻きながらガクガクと痙攣している。
「……少しは手加減してやったらどうだ?」と、サエグサが呆れたように言った。「鳩尾に元プロボクサーの全力パンチなんて食らったら、男でも意識が飛ぶ。ましてや女だったら……」
「そこが良いんでしょう? 暴力でもセックスでも、女はとことんまで追い詰めてヒィヒィ言わせて、徹底的に征服すんのがたまんねぇ。最近はこいつみてぇに勘違いした女が多いっすからね。女は男に奉仕して、快楽を与えるための道具だって立場を徹底的に分からせてやらないとダメなんすよ」
「……まぁいい、好きにしろ。我々に歯向かう者は人間ではないからな」
 サジがアスカのスーツの首の後ろあたりを掴んで、無理やり体を引き起こした。失神したのだろう、動かなくなったアスカの両足が地面から浮き、ダラリと下がっている。
「それよりもサエグサさん、さっきの約束、大丈夫っすよね? こいつは俺がもらいますよ。犯す前に、もうちっと殴ってもいいですかい? 女のサンドバッグなんて久しくやってねぇもんで」
「かまわんが、ほどほどにしておけよ。逃げた女を追うことも忘れるな」
 サジはアスカの身体を荷物の様に肩に担ぐと、緑色のキノコが蠢く栽培室から出て行った。誰もいなくなった室内には、天井のファンの音だけが変わらずに響いていた。

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