Яoom ИumbeR_55

Яoom ИumbeR_55は「男性→女性への腹パンチ」を主に扱う小説同人サークルです。

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 本日2020年7月21日をもって、Яoom ИumbeR_55は活動10周年を迎えることとなりました。
 ここまで続けられたのも、読者の皆様の応援と、協力していただけるイラストレーターさんのお力があってこそです。
 本当にありがとうございました。
 長いようで、本当にあっという間の10年間でした。ブログを作って初めて小説を公開した時のこと、同人誌の作り方がわからず色々と調べたこと、今でも大好きなイラストレーターさんであるsisyamo2%さんに、嫌われるのを覚悟で「すみませんが、僕のキャラクターが腹パンチされている絵を描いていただけませんか……?」とメールを送り、快諾していただいた時のこと、初めて同人イベントに参加した時のことなどが、昨日のことのように思い出されます。

design
scene1

↑当時sisyamo2%さんに描いていただいたラフ

 始めは綾ちゃん一人だけだったキャラクターも、話が進むにつれ徐々に増え、今ではそこそこの所帯となりました。特にシオンさんの登場は読者の方にもかなり受け入れていただいたようで、ブログのアクセスも一気に増え、自分自身も驚いた記憶があります。
 シオンさんは他のキャラクター以上に、「気がついたらそこにいた」というキャラクターでした。今でも覚えていますが、その頃も仕事とプライベートでかなり参っていました。大分県のある山道を車で走っていた時のことです。そこは開けた草原のような風光明媚な場所で、山の間を吊り橋がかかり、民家や商店は無く、空は雲ひとつない青空でした。真夏なのに気温は涼しく、山々の緑がとても綺麗だなと思った瞬間、まるで昔からずっとそこにいたかのように完璧な姿で頭の中にいました。まるでとこかの世界から気まぐれに自分の頭の中に遊びに来てくれたみたいに、姿形はもちろん、話し方や好み、性格から生い立ちまで完璧に完成されていました。
 当時の自分は「ここまで完成されているのなら、この人の話を書かなければ死ねないな」と思いました。

キャラのみ 2


さて、「ここまで続くとは思わなかった」とはこういう場面でよく使われる月並みなフレーズですが、自分の場合は本当に、長くて1年、早くて数ヶ月くらいで活動を終えるものだと思っておりました。
 何回か書いたり話したりしたことがあるので、既にご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、自分が活動を始めたきっかけはまさに「酔った勢い」です。このあたりの話は、現在DL販売しているリョナ作家インタビュー本[UIGEADAIL]のあとがきに書いておりますので、引用させていただきます。


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 自分には「男性から女性への腹パンチに興奮する」という変な性癖があります。
 いつ頃からこのような変な性癖に目覚めたのかは覚えていませんが、物心ついた頃、幼稚園に通う前にはすでにこの性癖は自分の中に確かに存在していました。その頃は腹パンチはもちろんのこと、戦隊モノやアニメでキャラクターが痛めつけられるのを見て、変な気持ちになっていたのを覚えています。腕が飛んだり、吐血したりという血が出るシーンは苦手でしたが、戦隊ヒーローが敵に攻撃されて火花が散ったり、アニメで女性キャラクターが捕まって苦しめられたりというシーンは大好きでした。6歳くらいの頃から、対象が女性で、攻撃方法が腹パンチに集約されていったと思います。その頃は自分の性癖が「特殊である」といことが具体的には理解できなかったとはいえ「自分はなにかが人と違っている」ということはおぼろげには理解していました。
 また、一般的な性についてもマイナスな出来事がありました。小学校の頃の保健体育の授業での出来事です。当時の担任(問題のある女性教師で、最後には解雇になりました)がとても嫌そうに、男女の身体の違いや、子供ができる仕組みを説明している中、自分はどうやって男性の作った精子が女性の身体の中に入るのか理解ができませんでした。授業はかなり端折られており、肝心なとことは「大人になればわかる」の一点張りでしたので全くわかりません。興味がある男子ならある程度は自分で調べて理解していたとは思いますが、わからなかった自分は手をあげて「男の作った精子をどうやって女の身体の中に入れるのか?」と質問をしたところ、その担任はひどく怒り「ふざけているのか? はしゃぎたいのなら出て行け」と言われ、教室を追い出されてしまいました。その時から自分にとって性は「よくわからないが、不気味で後ろ暗くて恐ろしいもので、決して人に話してはいけないタブー」というイメージがつきました。
 それからすぐに一般的な性の知識も得たのですが、それは自分の性嗜好が、人と違う特殊なものも同時に持ち合わせているという烙印も同時にもたらしました。一般的な性嗜好も持ち合わせてはいましたが、もうひとつの腹パンチという興味の対象が、少なからず人に危害を加える可能性があることも、自分を酷く苦悩させました。よくある特殊性癖(コスプレや汚物など)ならよかったのですが……。

 自分は人と違って頭がおかしいのだ。
 自分はなにか取り返しのつかないような病気なのだ。
 自分はいつか傷害事件を起こして逮捕されるのだ。
 自分は生きているだけで人に迷惑をかけている。

 小中学校の頃から毎日毎日そんなことを考え、こんな自分が表向きは普通の人間を装って生きていて大丈夫なのだろうか、いつかバレるのではないかと思い続けているうちに、自分の自己肯定感はとても低いものになってしまいました。今でも人と話すときは、いつも心のどこかで「こんな頭がおかしい奴の話を聞いて、この人は不愉快に感じていないのだろうか?」と不安に感じています。
 自分の中で転機が訪れたのは、小説……と呼んでいいのかわかりませんが、とにかく文章を書き始めてインターネットで公開した時でした。忘れもしない2010年7月のある夜、当時自分は仕事の関係であちこちを転々としており、縁もゆかりも無い遠い土地に独りで住んでいました。仕事はあまり上手くいっておらず、プライベートでも落ち込むことが重なり、部屋で独りで頭を抱えながらウイスキーを飲んでいました(たしかストラスアイラの12年だったと思います)。
 日付はとっくに変わっていました。
 仕事は、報酬は悪くはなかったのですが、多忙なうえ精神的に辛く、慣れない土地で友人もおらず、相変わらず性癖の悩みも抱え続けており、いっそのこと今から全てを投げ出してどこか知らない土地へでも行って、野垂れ死んでもいいのではないかと思っていたときです。なんの前触れも無く、なぜか突然「そうだ、小説を書こう」と思いました。
 いったい何の脈絡があって「そうだ」と思ったのか意味がわかりませんし、そもそもそれまで小説を書こうなんて思ったことも、ただの一度もありませんでした。文章といえば学校の宿題で出された読書感想文を嫌々書いたことくらいしかなかったのですが、その思いつきは自分の中では不思議と納得ができるものでした。また、その思いつきと同時に「神崎綾」というキャラクターや、敵を含めたその他のキャラクターも、まるで空から降りてきたかの様に頭の中にふわりと出てきて、勝手に動き出しました。数秒前に小説を書く決心を固めた自分は、とつぜん頭の中で勝手に紡がれ始めたストーリーを此(こ)れ幸いと、慌ててウイスキーのグラスをテーブルの隅に退けてキーボードを取り出して、箱庭の中の人形劇を観ているような感覚で必死にメモソフトに書き写し始めました。自分が名刺などで作家ではなくタイピスト(入力者)を名乗っているのは、このような製作過程があったからです。

 ともかくこうして、自分の最初の小説(らしきもの)は完成しました。
 小説を書こうと思った割には、やったことといえば頭の中で勝手に動くキャラクターを書き起こしただけなのですが、とにかく一定量の文章はできました。さて、書いたはいいものの、これをどうしようかと僕は思いました。出来上がった文章は、今読むと恥ずかしくなるほどメチャクチャなのですが、なぜか不思議な勢いがあるものでした。しかも女の子が腹パンチされるシーンが多く入った、過去の自分が読んだら大喜びするであろう内容です。そこで、さすがにこのまま削除するのはもったいないし、とりあえずブログを作って公開してみようと思いました。当時、自分はファッションと音楽のブログを運営していたので、ブログという媒体に馴染みはありました。しかし、それ以外のインターネットの知識はほとんど無く、「腹パンチ」と検索すると「国のすごい技術で犯罪者予備軍リストに載ってしまうかもしれない」と思い遠ざけ、匿名掲示板はアクセスするだけで個人情報が抜かれると思っていたほど、ネットに疎い生活をしていました。
 ブログで小説を公開してすると、ありがたいことに反応があり、また、自分と同じ性癖を持つ人からコメントや感想をいただくことができました。自分以外に同じ性癖を持つ人がいたのかととても驚き、そのあたりからインターネットも積極的に使うようになり、調べていくにつれ、自分が独りで悩んでいた頃から腹パンチをはじめとした特殊性癖は既に一定のコミュニティを形成していたこと、匿名という環境下も相まってかなりオープンな発言が多く、なかには自分でも驚くような特殊な性癖も存在することもわかりました。また、各種イベントに参加することで面と向かって特殊性癖の人達と話をする機会もあり、自分自身が感じていた疎外感も「生きづらいことは生きづらいが、世界に1人だけしか存在しないという特殊なものでない」という風に割り切れるようになりました。

 今回の「リョナ作家インタビュー本」は数年間ずっと自分の中で温めていた企画です。
 先に書いた通り、自分の性癖を恨んだことは数知れず、「どうしてこんな性癖になってしまったのか」「なにかきっかけがあるのではないか」と自分自身ずっと考え続けていた中、「そうだ、直接聞けばいいではないか」と思ったことがきっかけです。また、自分はたまたま小説を書いたことで、自分と同じような性癖を持つ人と会うことができ、少しだけ救われた感覚がありました。おそらく自分のように孤独感に苛まれながら、独りで悩んでいる人も他にもいると思います。そういう方々の孤独感を少しでも減らしてあげられることができればと思ったことが、企画を考えた理由のひとつです。また、偶然にも自分は創作者側の端くれとして存在しているので、純粋に他の創作者の方々が活動を始めたきっかけや、リョナを題材にした理由、産まれてからどのような時間を過ごして現在に至るのかとても興味がありました。
 また、先日LGBTの方に話を聞く機会がありました。その方はレズビアンなのですが、LGBTの方の多くが自己肯定感が低く、アウティング(自らの意思で行うカミングアウトではなく、他者から望まない暴露をされること)の被害を受け、性癖をファッションだと揶揄された経験があるとのことでした。自己肯定感の低さも、アウティングも、性癖をファッションだと揶揄されたことも、全て自分にも経験があり、酷く傷ついたことを覚えています。また、その方は次のようなことを話してくれました。

「産まれた時から私の性認識は女性であり、性の対象も女性だった。私はしばしば『なぜ女性なのに女性が好きなのか』と聞かれることがある。私にとっては産まれた時からこれが当たり前だったから『なぜ』と聞かれてもわからない。逆に、『なぜあなたは異性が好きなのか』と聞かれて、明確な理由を答えられる人がいるのだろうか」

 自分はその話を聞いてハッとしました。
 自分はLGBTではないが、特殊性癖としてはカテゴリとしては同じなのかもしれないと。
 もしかしたら、「どうしてこんな性癖になってしまったのか」「なにかきっかけがあるのではないか」という疑問は考えるだけ無駄で、答えなんて無いのではないか。
 帰宅してからすぐに、「リョナ作家インタビュー本」の募集要項を考え始めました。
 ありがたいことに今回20名を超える方に応募いただき、なるべくジャンルが分散されるように考えながらインタビューをさせていただきました。インタビューも書き起こしも、小説以外の本作りも初めてであり、至らぬ点も多く、結果として11名の作家様しかお話を聞くことができませんでしたが、皆様とても真剣に話をしていただき、ありがたいことに多くの方から「話ができてよかった」「楽しかった」「ここまで真剣に自分の悩みについて考えたことがなかった」と言っていただけました。インタビューに答えていただいた作家様、本当にありがとうございました。インタビュー本については、ぜひ第2弾を企画させていただきたいと思います。
 最後になりますが、この本を手に取っていただきありがとうございました。読んでいただいた方の琴線に少しでも触れることができていれば幸いです。

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 きっかけはともかく、小説を書いて創作活動を始めたことで、このようにある程度前向きな考えになったことは、自分の人生において本当にプラスになりました。また、活動を通じて多くの読者の方や作家さんと交流する機会に恵まれたことも、創作活動をしていて本当によかったと思えることです。
 本当にありがとうございました。
 これからもよろしくお願いいたします。

この作品はウニコーンさんに有償依頼をいただき、二次創作として製作したものです。
ウニコーンさんのオリジナルキャラの瀬奈さんを主人公に、世界観や設定、基本となるストーリーをお任せいただいたので、かなりの部分を好き勝手に書くことができました。
今後作品としてウニコーンさんが発売する予定ですが、今回私が書いた文章と制作中のイラストの掲載許可をいただきましたので、予告編としてぜひお楽しみください。


unui x RNR


Sena_Standing


 ようやく蛍光灯の光が届かない一角を見つけたので、樹村瀬奈は転がるように身を隠した。
 肩で息をしながら背中を壁につけると、力が抜けたようにズルズルと尻餅をつく。なめらかなコンクリートの感触と冷たさが、ピッタリとしたボディスーツ越しに背中に伝わってきた。両手で口を押さえながら、全力疾走した後の呼吸を抑えると、怯えきった金色の瞳で周囲をうかがった。天井に設置された大型のファンが、大型輸送機の様な重い音を立てている。それ以外の音は聞こえなかったため、瀬奈はわずかに安堵した。
 市民体育館ほどの広さの室内は、湿度維持のためのスチームが充満していて蒸し暑い。顔を上げるとミスト状の霧が蛍光灯の光を鈍く反射して、汚れたクリームの様に見えた。
 周囲はステンレス製のラックが、人がすれ違えるギリギリの幅を残して部屋全体を埋め尽くしている。瀬奈は逃げる途中に視界に入ったラックの中身を思い出した。ラックの中はエイリアンの卵の様な、乳白色のプラスチックの壺が隙間無く敷き詰められていた。そして壺の中には不気味な細長い緑色のキノコが、イソギンチャクの触手のように群生していた。
「これが……WISH……?」
 ラックを見上げながら、瀬奈が震える声で呟いた。
 二週間ほど前のミーテイングの様子が瀬奈の脳内に蘇る。

「『WISH』という名前は、君達も聞いたことがあるだろう?」
 国家認定の民間自警組織「ACPU」の会議室に集まった十五人ほどの男女は、ホワイトボードの前に立つ司令官の声に黙ったまま頷いた。
「では樹村、簡単に説明できるか?」と、司令官が言った。名指しされた瀬奈は、はいと返事をして立ち上がる。
「数年前から爆発的な広まりを見せている、新型麻薬の名称です。製造方法をはじめ、製造元や販売ルートはいまだに判明していません」
「そうだ。WISHはヘロインや大麻、コカインなどの既存の違法薬物とは全く違う。その特異な薬効で、短期間で麻薬市場のシェアを塗り替えたバケモノだ。これはサンプルだが……」と、言いながら司令官は封筒から粉薬のような袋を取り出して、全員に見せた。袋の中にはモスグリーンの粉末が入っている。「WISHの見た目はこの通り乾燥した緑色の粉末で、鼻粘膜から吸引すると『まるでオーダーメイドしたSF映画のバーチャルリアリティのように、自分の欲望を具現化した幻覚をリアルに体験することができる』という恐ろしい効果を持ち、多くのジャンキーや廃人を今でも生み出し続けている。あまりにも魅力的な効果のため、巷では『サキュバス』や『デビル』、『D』なんて隠語でも呼ばれている。化学式は複雑かつ不安定で再現は不可能。流通も組織的なものではなく、実際に販売をしている半グレや一般人を捕まえても、いずれも転売で、そもそも誰がどこから流通させているのか不明。樹村の言う通り、モノは確かにあるのだが、それ以外が一切不明の訳の分からないシロモノだ……昨日まではな」
 会議室の全員が、わずかに前に乗り出した。瀬奈もペンを握る手に力が入る。
「昨日、正規警察からWISHを製造している組織が『March Of The Pigs(MOTP)』と名乗っている団体であるとの情報が入った。実態は不明だが、表向きは小規模な新興宗教団体のようなものらしい。二週間後、我々は正規警察の先駆けとしてMOTPのアジトに突入する──」

 アジトの中は入り組んだ巨大なキノコ工場の様で、過去に何回か麻薬組織を壊滅させた実績のあるACPUの隊員達は面食らい、しかも潜入を事前に知っていたかのように即座に入口が閉ざされ、屈強な用心棒達が現れて仲間は散り散りになってしまった。
 ヘアゴムとヘアピンを取り外して、瀬奈は全力疾走で乱れた髪を直した。汗で張り付いた前髪を撫で付け、両サイドの髪と一緒に側頭部に留め直す。骨折や怪我はしていない。組織から支給されたコンバットスーツは少し破れてはいたが、この高湿度の中でも市販品ではありえないスピードで汗を体外に放出させ続けており、快適な着心地を保っている。
「とっとと入れ!」
 背後から低い男の声と、人間を引き摺る音が聞こえて、瀬奈は身体を縮こませた。それに続いて「ひ、ひッ!」という怯えきった男の声。一緒に潜入した仲間の一人だ。
「悪く思うな……」
 別の男の声。落ち着いていて、子供に言い聞かせているようなトーンだ。敵は二人か。
 ごつ、ごつと骨同士がぶつかる音と、仲間の悲鳴が聞こえる。拳骨が何回も仲間の身体に打ち込まれる音……。
「ひぎっ! がっ! ぎゃあぁ! あぁ……! あが……」
 仲間の男の悲鳴が激しくなり、それから徐々に小さくなっていった。瀬奈は涙を浮かべながら嗚咽が漏れないように両手で口を塞いだ。身体が自分のものではないみたいに、全く動かない。グシャリ、という嫌な音が聞こえ、仲間の悲鳴がくぐもったものに変わる。おそらく、鼻を砕かれたのだろう。怒声と悲鳴が混じった悪夢のような時間がしばらく続いた。不意に仲間の男が、壊れた水槽のポンプの様な声にならない声をあげた。首を絞められているのだ。もうやめてくれ、と瀬奈が思った直後、ごきん……という何かが外れた音がした。
 沈黙。
 仲間の悲鳴が途絶えた。
 殺されたのだ。
 力任せに、頭蓋骨と身体を繋ぐ頸椎を無理やり外されて……。
 瀬奈はガタガタと身体を震わせながら、口を押さえたまま流れる涙を拭うこともできずに必死に嗚咽を堪えた。
「あーあ、男は殺すくらいしか楽しみがねぇから、マジでクソだな」
 肉を蹴る音が聞こえる。仲間の死体が蹴られている。「この栽培室もカビ臭ぇし、ジメジメして蒸し暑いしよ……。最悪だぜ。女だったらブチ犯せるからいいんだがな。サエグサさん、どうなんですかい? もうあらかた捕まえたんでしょう?」
「ああ、残っていても、あと一人か二人くらいだろう。侵入者は全員で二十人くらい。女は六、七人はいたと思うが」と、サエグサと呼ばれた男が言った。相変わらず落ち着いた声だ。
「残ってるのが女だったらいいんだけどよ……」と、荒っぽい男がまた仲間の死体を蹴りながら言った。「しかしACPUの女どもの格好、どう思います? 動きやすいのかどうか知らんけど、身体のライン出まくりのあんなヤラシイ格好でノコノコ来やがって、レイプしてくださいって言ってるようなもんでしょ。クソッ! 先に捕まえた女どもは今頃、幹部連中がお楽しみだ。こんな残飯処理みてぇな仕事押し付けやがって……チンピラ連中にでも任しときゃいいのによ」
「そう言うな。サジ、残飯処理も我々の大切な仕事だ。売人のチンピラ達は見かけは威勢がいいが、実際は鍛えている女相手にも負けるようなひ弱な奴らばかりだ。ましてや今回みたいな特殊部隊が相手なら、歯が立たんだろう。だが、彼らはWISHの啓蒙活動という仕事を着々と遂行している。我々が現場の仕事をしなくて済むのは、彼らのおかげだ。適材適所、与えられた仕事を全うすることは素晴らしいぞ。こういう時のために、我々警備部はグールーに雇われているんだ」
「わかっていますよ……。というかサエグサさんだって幹部なんだから、現場は俺たちに任せて、捕まえた女とよろしくやってきた方がいいんじゃないですか?」
「警備部長が離れるわけにもいかんだろう。それに、女を無理やり犯すのは趣味ではない」
「相変わらず真面目っすね……。ねぇサエグサさん。隠れている奴がもし女だったら、俺がいただいちゃっていいですかい? 抵抗されたことにして殺しちまえばバレねぇし、一人くらい上に回さなくたって大丈夫でしょ?」
 瀬奈の震えが大きくなる。
 ほぼ全員捕まった……?
 残っているのは自分だけなのか……と瀬奈は絶望的な気分になった。
 身体の震えが止まらない。
 瀬奈の震えにラックが振動して、壺のひとつが床に落ちた。
 がしゃん……と、室内に音が響く。
 びくっ、と瀬奈の身体が跳ねた。
「おっとぉ……」と、サジと呼ばれた男がわざとらしく言った。「女だったらいいなぁ……」
 サジの声には、手負いの獲物を追い込むライオンの様な響きがあった。足音が近づいて来る。腰が抜けて動けない。殺される……。
 ふっ……と蛍光灯の光が遮られ、男達が姿を現した。背の高い屈強な男が二人、瀬奈を見下ろしている。一人は白い無地のタンクトップにジーンズという姿で、もう一人は濃いグレーのTシャツにオリーブ色のカーゴパンツを履いていた。二人とも腕や胸がはち切れそうなほど張っており、ウエストもそこそこ太い。明らかに、本格的に格闘技をやっている人間の身体つきだ。

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「へへへ……こりゃ参ったな。残り物には何とやらってやつか? 上が輪姦(まわ)してる奴らよりよっぽど上玉だぜ」と、タンクトップを着ている男が言った。先ほどサジと呼ばれてた男だ。目が嗜虐の色に光っている。「なんだこの胸……エロい身体しやがって。大人しくしてりゃあ気持ち良くしてやるぜ?」
 瀬奈の歯がガチガチと音を立てた。

 風を切る音。
 衝撃音と共にサジの体が横に吹っ飛んだ。
 突如現れた人影がミサイルの様なドロップキックを見舞い、もう一人の男──サエグサと呼ばれていた──を巻き込んで倒すと、そのまま蛍光灯の下に着地する。
「……あんまりウチの若いのをいじめないでくれる?」
 鼻にかかった気怠そうな声が瀬奈の頭上に降ってきた。声の主は長い髪の毛を手櫛で梳きながら、瀬奈の手を引いて立ち上がらせる。
「あ……アスカ先輩……?」と、瀬奈が言った。
 アスカは瀬奈の目を見て頷く。ここに来るまで激しい戦闘をかいくぐってきたのだろう。蹴り技主体のアスカ用に仕立てられた、競泳水着の様なコンバットスーツは所々が破れていた。
「厄介ね。入り口近くにいた奴らはチンピラみたいなのばかりで楽だったけれど、こいつらは違うみたい……」と、アスカは溜息混じりに言った。「私と瀬奈以外は、全員捕まったかもしれない……」
「そんな……」
「行って。私がこいつらを食い止めているうちにどこかに身を隠して、後援や正規警察の部隊が到着したら状況を伝るの。出来るわよね?」
「い、嫌です! 私も戦います!」
「あなたまで捕まったら、それこそ全滅かもしれない。大丈夫、私の実力は知っているでしょう?」
「でも、相手は二人です。いくらアスカ先輩でも、疲労した状態で二人を相手にするのは荷が重すぎます。私も戦えば、少なくとも一対一にはできるはずです!」
 アスカは瀬奈の目をじっと見た。瀬奈もアスカの目をまっすぐに見つめている。迷った後、アスカは静かに頷いた。
「わかった。そのかわり、絶対に無理はしないで。最悪の事態は避けなきゃいけないから」
 アスカの背後で男二人が立ち上がった。サジが首を鳴らし、こちらに近づいてくる。
「私は、あのカーゴパンツの男をやる。多分あいつの方が……」と、アスカが言った。「危なくなったらすぐに逃げて」
 アスカがラックに足をかけ、三角飛びを繰り返す要領で男達の頭上に飛び上がる。サジの頭を飛び越え、サエグサに向かって蹴りを放った。サエグサは腕を十字に重ねてガードし、そのまま後ずさる。アスカは追撃として連続で蹴りを放ち、サジとサエグサの距離を離していく。
「分断作戦か……チンケな真似しやがって」と、サジが瀬奈を睨みながら言った。「ま、俺はお前の方が好みだから構わねぇがな」
「残念ね、私は全然好みじゃないから」
 瀬奈は距離を取り、サジの出方を見た。サジは余裕そうにノーガードで直立している。女相手に負けることはないと信じて疑っていない。
 ふッ……と瀬奈は鋭く息を吐き、サジの懐に飛び込んだ。ずぶり……とサジの腹に瀬奈の拳が埋まる。「うぶっ!」とサジは息を吐き、驚愕の表情に変わった。そのままサジの顎を跳ね上げ、ガラ空きになった腹部に鋭い蹴りを打ち込む。
 サジは勢いよくラックにぶつかり、いくつかの容器が頭上から落下して割れた。
「舐め腐っているからよ!」と、言いながら瀬奈は跳躍し、サジの頭上をめがけて蹴りを放った。アスカと共闘していることが心強い。姿は見えないが、向こうも善戦していることだろう。瀬奈の足裏がサジの頭を蹴った瞬間、突然瀬奈の目に鋭い痛みが走った。目を開けていられず、涙が溢れて視界がゼロになる。サジが瀬奈の顔を目掛けて、床に落ちた苗床の砂を投げたのだ。
「痛てェなこのクソアマが!」とサジが憎々しげに叫ぶ。
 ごしゃッ……という鈍い音。
 瀬奈の頭に硬いものが叩きつけられた。キノコの苗床になっていた乳白色の瓶だ。目の前に星が飛び、身体から力が抜けるのを感じた。直後、顎に鈍器のような拳が打ち付けられた。世界が回転し、どちらが上か下かもわからなくなり、瀬奈は崩れ落ちるように尻餅をついた。すぐさまサジに身体を強引に引き上げられ、ラックに背中を叩き付けられる。
「俺は女にナメられるのが一番嫌いなんだよ!」
 サジが叫びながら、瀬奈の腹に容赦の無い拳を打ち込んだ。瀬奈のスーツの布地が大きく凹み、ラックが激しい音を立てて揺れる。
「ゔっぶぇッ?! ぐぷッ……!!」
 目が見えない中、ほとんど不意打ちのようなボディブローを受け、瀬奈の身体がくの字に折れる。はらわたを掴まれたような不快な感覚が瀬奈を襲い、内部から自分の意思に反して胃液がこみ上げてきた。サジはよろめく瀬奈の腕を掴んで強引に引き起こし、そのガラ空きの腹部を突き上げた。瀬奈の胴体が床と水平になり、落下するのと同時にさらに突き上げる。
「ぐぼッ! ごぇッ! げぶぉッ! げぇぇッ!」
 胃の中がさらにシェイクされ、押し潰された中身が食道を逆流する。
「おぶっ……ご……ごぶぇっ?! おぶろろろろろろえぇぇ………」
 瀬奈はたまらず胃液を吐き散らしながら悶絶した。透明な胃液が逆流し、瀬奈は痙攣しながら床でのたうつ。
「汚ねぇんだよボケが! 雑魚がイキってんじゃねぇぞ!」
 脇腹を蹴られ、瀬奈は虐待された人形のように床に転がり、身体を折り曲げて悶絶している。
「がッ?! あがッ……! げぁッ……」
 内臓が危険信号を発し、瀬奈の全身を猛烈な苦痛が駆け抜ける。サジはダンゴムシのように身体を折りたたんで苦しんでいる瀬奈を足で蹴って仰向けにすると、その腹を体重をかけて踏みつけた。ぐちゅりという音と共に瀬奈の腹が潰れる。
「ぶげぇッ?! ぎぇっ……ぎゃあぁぁぁぁ!」

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 瀬奈は苦痛に顔を歪ませながら、サジの足首を掴んで必死に自分の腹を押しつぶしているものを抜こうとする。その様子に、サジの加虐心はさらに燃え上がった。グリグリと体重をかける場所を微妙に変え、的確な苦痛を瀬奈に与える。
 突如、サジの後頭部に衝撃が加わった。バランスが崩れ、瀬奈の腹がようやく拷問から解放される。ラックの上からサジに飛び膝蹴りを放ったアスカが瀬奈のそばに着地した。着地した瞬間、アスカの顔が苦痛に歪む。
 アスカは瀬奈を抱き起しながら「瀬奈!」と叫んだ。
「ゲホッ! ゲホッ! あ……アスカ……先輩?」
 アスカの顔と身体には、再会した時よりもさらに多くの格闘の跡が残っていた。
「心配して来てみれば……もう満身創痍じゃない」と、アスカが言った。「……私が戦っている相手もかなりの手練れで、完全に遊ばれている感じなの。このままでは二人とも負けるだけよ……。最初に言った通り、瀬奈はどこかに身を隠して応援を待って。私はできるだけ時間を稼ぐから」
「そ……んな……」
「大丈夫……あなたの回復力は隊でも随一だから、しばらく大人しくしていれば動けるようになるはず。絶対に生き延びて」
「でも……」
 瀬奈が言いかける前に、アスカの背後でサジが立ち上がった。いつの間にかサエグサも合流しており、サジの背後から瀬奈とアスカを無表情のまま見下ろしている。アスカは立ち上がり、瀬奈を庇うように二人の前に立ちふさがった。
「早く!」とアスカが瀬奈を振り返らずに言った。瀬奈は振り切るようにアスカに背中を向け、腹を押さえながら出口に向かってよろよろと走った。背後でサジが「待てこら!」と叫ぶ。続いてアスカの鋭い声と、ラックが崩れる音。瀬奈が振り返る。アスカがラックの脚を破壊して倒し、瓦礫がバリケードのように床に重なっていた。瀬奈を逃がすために、素手で人を殺すような男達を自らと共に閉じ込めたのだ。瀬奈は涙を拭うこともせずにふらつきながら全力で走り、栽培室から出でドアを閉めた。


「やっ! はッ! はぁッ!!」
 アスカが流れるように連続でサジの身体に蹴りを見舞う。しかし、サジは全く動じずに蹴られた場所をさすっている。
「へへへ、可哀想に。漫画の世界だったらお前みたいなヒロインぶった奴は、なんだかんだで最後は助かるんだろうけどな」と、サジが言った。サエグサは無表情で腕を組んでいる。
 アスカが一方的に攻撃をしているはずなのに、サジはじりじりと距離を詰めていく。サジはノーガードでアスカの攻撃を受け入れてるが、全く効いている様子は無い。「くっ……」と、アスカは食いしばった歯の隙間から、嗚咽に似た声を漏らして後ずさった。直後、アスカの背中がラックに当たる。もう後が無い。アスカは意を決して、サジに拳を繰り出した。正確にサジの腹と鳩尾に連続して拳を突き刺す。そして足を蛇のようにしならせながらサジの顎先を蹴った。しかし、サジは僅かに顔をしかめた程度で全く動じていない。
「なんだそれ? 俺にパンチで勝負を挑むなんて、いい度胸してるじゃねぇか? パンチってのはこう打つんだよ!」
 どぎゅるッ! という聞いたことが無いような音がアスカの耳に届いた。

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「ゔぶッ?! ひゅぐぇッ!?」
 サジは一切の躊躇も手加減も無く、アスカの鳩尾に大砲の様な拳を埋めた。殴られた衝撃でアスカの両足が地面から三十センチほど浮き上がる。アスカの心臓は一瞬で潰され、男達に土下座をする様に顔から地面に崩れ落ちた。まともに呼吸ができないのだろう。「がっあッ!? ごッ……? ごぇッ……!」と死にかけの蛙の様に呻きながらガクガクと痙攣している。
「……少しは手加減してやったらどうだ?」と、サエグサが呆れたように言った。「鳩尾に元プロボクサーの全力パンチなんて食らったら、男でも意識が飛ぶ。ましてや女だったら……」
「そこが良いんでしょう? 暴力でもセックスでも、女はとことんまで追い詰めてヒィヒィ言わせて、徹底的に征服すんのがたまんねぇ。最近はこいつみてぇに勘違いした女が多いっすからね。女は男に奉仕して、快楽を与えるための道具だって立場を徹底的に分からせてやらないとダメなんすよ」
「……まぁいい、好きにしろ。我々に歯向かう者は人間ではないからな」
 サジがアスカのスーツの首の後ろあたりを掴んで、無理やり体を引き起こした。失神したのだろう、動かなくなったアスカの両足が地面から浮き、ダラリと下がっている。
「それよりもサエグサさん、さっきの約束、大丈夫っすよね? こいつは俺がもらいますよ。犯す前に、もうちっと殴ってもいいですかい? 女のサンドバッグなんて久しくやってねぇもんで」
「かまわんが、ほどほどにしておけよ。逃げた女を追うことも忘れるな」
 サジはアスカの身体を荷物の様に肩に担ぐと、緑色のキノコが蠢く栽培室から出て行った。誰もいなくなった室内には、天井のファンの音だけが変わらずに響いていた。

ウニコーンさんからご依頼いただき、作品作りに協力させていただきました。

ウニコーンさんのオリジナルキャラの瀬奈さんを主人公に、世界観や設定、基本となるストーリーの殆どをお任せいただいたので、ある程度好きに書くことができました。
既に文章の納品は済んでおり、ウニコーンさんの挿絵が完成次第発表となります。
文章の公開許可もいただいておりますので、こちらにも数回に分けて掲載していきます。
最後になりましたが、このような機会をいただき本当にありがとうございました。




[ WISH ]

 ようやく蛍光灯の光が届かない一角を見つけたので、樹村瀬奈は転がるように身を隠した。
 肩で息をしながら背中を壁につけると、力が抜けたようにズルズルと尻餅をつく。なめらかなコンクリートの感触と冷たさが、ピッタリとしたボディスーツ越しに背中に伝わってきた。両手で口を押さえながら、全力疾走した後の呼吸を抑えると、怯えきった金色の瞳で周囲をうかがった。天井に設置された大型のファンが、大型輸送機の様な重い音を立てている。それ以外の音は聞こえなかったため、瀬奈はわずかに安堵した。
 市民体育館ほどの広さの室内は、湿度維持のためのスチームが充満していて蒸し暑い。顔を上げるとミスト状の霧が蛍光灯の光を鈍く反射して、汚れたクリームの様に見えた。
 周囲はステンレス製のラックが、人がすれ違えるギリギリの幅を残して部屋全体を埋め尽くしている。瀬奈は逃げる途中に視界に入ったラックの中身を思い出した。ラックの中はエイリアンの卵の様な、乳白色のプラスチックの壺が隙間無く敷き詰められていた。そして壺の中には不気味な細長い緑色のキノコが、イソギンチャクの触手のように群生していた。
「これが……WISH……?」
 ラックを見上げながら、瀬奈が震える声で呟いた。

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【2020年6月22日更新】

DLsiteとBOOTHの両サイトにて[PLASTIC_CELL]のDL販売が開始されました。
HPの推敲から更に推敲してありますので、一気読みや挿絵を楽しみたい場合はご検討ください。
文字数は約10万字、イラストも多数揃っておりますので、興味のある方はよろしくお願いいたします。


DLsite




BOOTH




 蓮斗は年季の入ったバルセロナチェアに座り、ウォルナットのセンターテーブルにブーツを履いたまま両足を乗せていた。
 丸のままのリンゴに齧りつきながら、虚空を見つめている。
 部屋は薄暗かった。棚や床の上に多数置かれた蝋燭が弱々しい火を放ち、壁に飾られた水牛の頭骨や、棚の上に置かれたアンティークの置物の影を、白いペンキが塗られたコンクリートの壁に曖昧な形で映していた。
 バルセロナチェアは、一九二四年にドイツの建築家、ミース・ファン・デル・ローエがデザインした美しい椅子だ。その美しさはもうすぐ誕生から百年の時を迎えようとしていたが、全く色褪せることはなく、常に新鮮みを帯びている。蓮斗は物に執着する性格ではあったが、時の洗礼を受けていない物にはあまり興味が湧かなかった。蓮斗はなんとなく棚の上を見た。デンマークから取り寄せたミルクガラスの馬の置物と目が合った。蓮斗はその馬の目を見ながら、百年後はどのような世界になり、どのような物で溢れているのかを頭の片隅で想像した。
「蓮斗、ちょっといいかしら?」
 神経質そうな女性の声が、ノックの音と共にドアの外から聞こえた。蓮斗は小さく舌打ちをすると、半分ほどかじったリンゴをテーブルの上に置いた。部屋を横切り、姿見の前で作り笑いの確認をする。病的とまでは言えないが、まだかなり痩せている。しかし、以前に比べると幾分血色が良くなった。美樹や久留美と出会ったからだろうなと蓮斗は思った。人間は楽しみが増えると生命力が出るものなのだろう。
 ドアを開けると、無表情の冷子が立っていた。
「どうしました冷子さん? 何か問題でも?」と、蓮斗が作り笑いを浮かべながら言った。
「……相変わらず酷い部屋ね。好きに使っていいとは言ったけれど、なぜわざわざ貧乏臭い内装にするのか理解出来ないわ」
 蓮斗の質問には答えず、冷子は溜息混じりに嫌味を言った。蓮斗はまた小さく舌打ちした。
 冷子は蓮斗を押し除けるように部屋に入ると、バルセロナチェアに座った。蓮斗の食べ残しのリンゴを見て顔をしかめる。冷子はいつも通り、シワひとつ無いブランド物のスーツを着ていた。ディオールかそこらだろう。冷子はTPOの感覚が薄く、常にフォーマルな格好をしている。もっとも冷子が羽目を外して遊びに行ったり、スポーツで汗を流したりするとは思えない。もしかしたら寝る時もスーツなのかもしれないと蓮斗は思ったが、そういえば人妖に睡眠はほとんど必要ないことを思い出した。
 冷子は若干呼吸が早く、顔にはうっすらと赤味が差している。
 人妖にとっての栄養補──飼っている餌の男とセックスをしてきたばかりなのだろう。どういう仕組みか知らないが、人妖は人間の異性とセックスするだけで生命活動が維持され、睡眠や排泄の必要は無い。便利なものだと思うが、餌に選ばれた人間は最悪だ。冷子の相手を見ても、優秀な男でも保って二ヶ月程。それ以上は重度の薬物中毒者のような状態になり、言動がおかしくなってきた頃には飽きられて殺されてしまう。多くの人妖達は複数の異性を侍らせて、補給の感覚を開けることで中毒症状が出ることを遅らせているらしいが、冷子はほぼ毎日、同じ男から補給を行って使い捨てる。蓮斗もたまに相手をすることはあったが、最低でも一週間は開けてもらうように頼んでいる。
 蓮斗が玲子の正面に座った。
 冷子が部屋に来ることは珍しい。そして、冷子が内装について文句を言うのは機嫌がいい証拠だ。普段は他人に対しては徹底的に無関心な奴だからだ。
「貧乏臭いとはずいぶんだなぁ、退廃的と言って下さいよ。デカタンスは僕の趣味なんです。病的でけだるくて、虚飾とセックスにまみれた部屋ですよ」と言いながら蓮斗は両手を広げておどけて見せ、心の中で、あんた達みたいにな、と続けた。「ところで、『お食事』はもう済んだんですか?」
「まぁ、ね。ただ最近は若干使い物にならなくなってきたから、近いうちにまた狩らないといけないわ。それより、今日連れて来たあの娘はなんなの?」
「久留美ちゃんのことです? どうするも何も、僕の趣味に使うだけですよ。今更、僕の性癖を説明する必要はないですよね? お腹を殴った時の反応が好みだったので、思わず拉致っちゃいました──というのは冗談で、彼女は昨日僕が襲ったアンチレジストの上級戦闘員、鷹宮美樹が可愛がっている後輩です。色々と使い勝手があるので、彼女のメルアドを調べておいて、美樹ちゃんの病院に行かせるように仕向けました。移動中に拉致るつもりでしたが、少しばかり邪魔が入ったので結構苦労しましたけどね」
 冷子はふんと鼻を鳴らすと、蓮斗に続いて部屋に入った。
「あなたの特殊な性癖なんてどうだっていいのよ。それよりも、私の命令を忘れたわけじゃないでしょうね?」
 冷子の右腕が一瞬ビクリと痙攣すると、ナメクジの様にずるりと床まで伸びた。皮膚が気味の悪い灰色に変色し、湧き出た粘液でぬめぬめと光っている。蓮斗は両方の手のひらを冷子に向けて口を開いた。
「落ち着いて下さいよ。冷子さんの命令を忠実に遂行すれば僕の目的が達せられるのですから、僕は全力で当たっています。如月シオンを連れて来いという命令はちゃんと守ります。先程邪魔が入ったというのは、実は如月シオンが久留美ちゃんとほぼ同時刻に美樹ちゃんのお見舞いに行ったからなんです。久留美ちゃんとシオンが合流したら、僕は諦めるしかなかった。シオンは昨日本物を初めて見ました、彼女はかなり恐ろしいですよ。仕事柄、今まで色んな人間を見てきましたが、傍目にはあのフワフワした雰囲気を醸し出しながら隙がない。冷子さが執着するのもわかる気がします」
 蓮斗は冷蔵庫から炭酸水を出して飲んだ。冷子は話の続きを待っている。
「先程も言いましたが、今回拉致した久留美ちゃんは鷹宮美樹や如月シオンの後輩です。彼女を餌にすれば面倒見のいい美樹ちゃんは頭に血を上らせたまま、真っ先にここに飛んで来るでしょう。それに、あなたが涼さんの仇を討ちたがっているシオンも、おそらく美樹ちゃんの後を追って来る。動揺して頭に血が上った人間は力を出せないし、現に美樹ちゃんは一度それで僕に負けているのですから。こちらとしては、ターゲットが僕達のテリトリーに自ら来てくれるのですから、これほど有利な戦闘はありません。戦闘はいかに自分に有利な条件で進めるかで勝負が決まりますから、舞台やシチュエーションは実力以上に重要です。負ける勝負はしないに限りますからね。冷子さんは美樹ちゃんの後を追ってきたシオンを殺すなり、四肢切断するなりして再起不能にすればいい。僕は僕で久留美ちゃんと美樹ちゃんで楽しませていただければ、その後の処理はお任せします」
 冷子の瞼が少しだけ大きく開いた。涼の名前を出され、彼女の感情を僅かに揺らしたらしい。それは蓮斗の狙い通りだった。
「……もしシオンが来なかったら?」と、冷子が首を傾げながら言った。
「必ず来ます。美樹ちゃんはクールに見えて、実は結構な激情家なんですよ。自分のことや、能力の高い人間に対しては冷静なのですが、危なっかしい子や後輩に対しては、いささか面倒見が良すぎる所がある。逆にシオンはおっとりしたように見えて、感情的な行動を全くと言っていいほど起こさない。何が最善かをまず考えてから行動する。もし僕が昨日あのままプールで美樹ちゃんを拉致したとしても、シオンは心配こそするでしょうが、美樹ちゃんの実力を信頼して助けには来ないかもしれない。もしかしたらシオンではなく、別の戦闘員が救出に来るかもしれない。しかし、美樹ちゃんの大切な後輩の久留美ちゃんが拉致されたとしたら、頭に血が上った美樹ちゃんは馬鹿正直に正面から殴り込んで来る。そこで、シオンの出番です。美樹ちゃんが冷静なら、別の戦闘員でも対処ができるかもしれない。しかし冷静さを欠いた美樹ちゃんなら、普段の力を出せないかもしれない。シオンは自分の実力を知っているし、仲が良い自分が説得した方が美樹も冷静さを取り戻すかもしれない。他の戦闘員に任せるよりも、自分が出向いた方が成功する確率が高いと考える」
 冷子が顎をさすりながら、数回小さく頷く。
「まぁいいわ。こんな辛気くさいアジトももう飽きてきたし、さっさと始末して別の場所へ移動しましょう。鷹宮美樹と水橋久留美はあなたが好きにしていいわ。私は別に興味が無いし」
「ありがとうございます。で、その手に持っている袋の中身は、例のアレですか……?」
 冷子がふんと鼻を鳴らしながらショートカットの髪を掻き揚げ、茶色の紙袋をテーブルの上に置いた。蓮斗が袋を開ける。薬剤の入った数本のアンプルが入っていた。
「人工チャーム入りの筋弛緩剤。貴方に魅入らせるように調合してあるし、リクエスト通りの『一味』も加えてある。吸入式だから効果は三十分ほどだけどね」
 蓮斗はアンプルを見ながら口元をつり上げた。今後の事を考えると興奮して自然に呼吸が荒くなる。
 冷子が呆れたように声をかけた。
「もう興奮してるの? 本当にあなた変態ね。興奮ついでにデザートになってくれないかしら? 今の餌は明日処分するわ」
 冷子がジャケットを脱いで錆び付いた簡素なフレームベッドに腰を下ろすと、その隣に蓮斗も座った。


 明るい部屋で久留美は目を覚ました。天井に埋め込まれた蛍光灯の光に目を細め、硬い床の上で無意識に寝返りを打つ。視界はまだぼやけていたが、腹部に残る疼痛だけははっきりと感じた。
 部屋に窓は無く、簡素なステンレスのドア以外に出入り口らしきものは見当たらなかった。部屋を横断するように排水溝が設けられていて、壁には所々剥げてはいたが、白いペンキが全面に塗られていた。壁際には大小さまざまな古めかしい器具が、まるで博物館のように整然と並べられている。無数の小さな刺の付いた鉄製の鞭。三角形に鋭く削られた木馬。人が直立した形そのままに作られた檻。鉄製の釣鐘型の女性の像。
「なに……これ……?」
 久留美はごくりと喉を鳴らした。この中のいくつかは本やテレビで見た事がある。
 拷問器具だ。
 大小様々で、用途の分からないものが大半だったが、それぞれが何らかの方法で人に苦痛を与えるために考案された物だろう。器具一つ一つが放つ不気味な雰囲気はなんとも言えない迫力がある。
「……ッ!」
 一瞬の間を置いて、久留美の背中が凍りついた。本能が身の危険を察知し、久留美は考えるより先に立ち上がり、ドアに向かって走った。固い金属の音がして、久留美は前のめりに派手に転んだ。足首が痛い。軽いパニックになりながら、久留美は痛みの走った箇所を見る。足首に革ベルトが嵌められており、壁に埋め込まれた把手と鎖で繋がっていた。揺すってみたが、革ベルトと鎖には無骨な錠が付いていて、無理矢理では外れそうもない。
「嘘……いや……いやぁ……!」
 久留美は半狂乱になりながら叫んだ。全ての拷問器具が自分を睨み付けているように感じる。
「やだ……やだ……先輩……美樹先輩……!」
 目に涙を浮かべながら、久留美は足首のベルトに爪を立てた。外れるどころか、緩む気配も無い。もがいていると、ドアノブが回転する音が部屋に響いた。久留美が絶望感を顔に浮かべながら、ドアを見る。全体にダメージの入ったブラックデニムに、黒いライダースジャケット着た男が部屋に入ってきた。久留美は「ひっ」と悲鳴を上げて首を振る。あの時の医者だと、久留美は確信した。
「もう起きたんだ? お腹は大丈夫?」
 久留美は歯をカチカチと鳴らしながら、身体を引きずるようにして壁際に後ずさった。
「病院では少ししか楽しめなかったけれど、今日は時間もたっぷりあるし……」
 蓮斗は久留美から視線を外さず、部屋の中を歩きながらい愛おしむように拷問器具を撫でた。緊張で久留美の呼吸が荒くなる。
「なかなかのコレクションだろう? 全部、拷問器具だ。しかもほとんどは本物の歴史的価値があるもので、実際に使われたものもある。すごいと思わないかい? 人を痛めつけるという目的のためだけに、昔の人々はアイデアと工夫と芸術性をもって、これら様々な器具を作り上げた。とても残酷なものも多い。昔は処刑や拷問はある種のエンターテイメントだったという側面もあるが、僕は正常性バイアスの産物だと思っている。正常性バイアスは知っているだろう?」
 久留美は震えながら頷いた。
「き、危機が迫った時に、当事者が自分にとって不利な情報を認知しづらくなることですよね……?」
「その通り。平たく言うと、自分だけは大丈夫という思考に陥ることだ。僕はこれらの器具を作った人達も、正常製バイアスに陥っていたと思うよ。もしこれらの器具が自分に使われる可能性があると少しでも思えば、ここまで残酷な発明はできなかったはずだ。それどころか、残酷性を競っていた節さえある。対岸の火事ほど、見ていて面白いものは無いからね……。たとえば、そこにある牛の像だ。残念ながらレプリカだけど、ファラリスの雄牛という有名な拷問器具──というか処刑器具だな。考案したのはペリロスという人物で、空洞になっている像の中に人間を閉じ込めて、下から火で炙る。閉じ込められた人間は堪らない。少しずつ全身を焼かれ、断末魔の悲鳴が像の中で反響して、本当に牛が鳴いているように聞こえたらしい。なんとも恐ろしいことを考えるものだ。しかも最初にこの器具を使われたのは、開発したペリロス自身だと言われている。自分自身がその中に入れられると思えば、もう少し楽に死ねる器具を作っただろうね」
 久留美が恐る恐る牛の像を見つめた。もの言わぬその牛の像は、まるで意志を持つかの様にじっと久留美を見つめていた。
「な、何をする気ですか……? まさか……これで……?」
「そんな悪趣味なことはしないさ」と、蓮斗は笑って言った。「俺は人を殺す趣味は無い」
 蓮斗が久留美に近づいた。久留美は背中が壁に当たり、これ以上下がれない。腰が抜けた久留美の脇に手を入れ、無理やり立たせる。蓮斗の顔が、額が触れ合うほど近付き、久留美は息を飲んだ。蓮斗の微かに興奮した吐息が頬にかかる。
「それに、こんなものを使ったら、久留美ちゃんの可愛い顔が苦しんでいる様子が見えないじゃないか?」
 ずぷんっ……という水っぽい音が響き、久留美の華奢な腹部に蓮斗の拳が埋まった。
「ふぐぅっ?!」
 怯えていた久留美の表情が一瞬で戸惑いと苦痛に塗り潰された。「う」の形で突き出された口から唾液の飛沫が飛ぶ。
「ッぁ……! かふっ……ッ!」
「殺すなんてもったいない。せっかくこんなに良い反応をしてくれるのに、じっくり楽しめなくなっちゃうじゃないか」
 蓮斗が久留美の耳元で囁くように言った。拳を脇の下まで引き絞り、久留美の臍の位置に拳を埋める。ずんっ……と重い衝撃が身体の奥から脳に伝わり、久留美の小さな身体が跳ねた。
「はぐぅッ!? ぶふっ……?! ッぁ……」
 久留美の身体がくの字に折れ、蓮斗に倒れ込んだ。
 ろくに鍛えられていない久留美の薄い腹筋は蓮斗の拳に容易く打ち破られ、蓮斗の骨張った拳を包み込む様に陥没している。ゆっくりと拳を抜くと、久留美の全身から力が抜ける。
 蓮斗が人差し指と親指で、久留美の顎を挟むように顔を持ち上げた。
 久留美は息がうまく吸えないのだろう。短い呼吸を繰り返しながらぼんやりと蓮斗を見ているが、視点は蓮斗の背後のどこか遠くを見ているようだった。
 蓮斗は久留美のブレザーのボタンを外すと、スカートの中に入っているシャツを捲り上げた。久留美の腹が露になる。色白で、縦長の臍からうっすらと腹筋の筋が見えた。水泳をしているので引き締まっているが、元々筋肉が付きにくい体質なのかもしれない。
 蓮斗は久留美の生腹に拳を当てがった。久留美の顔が青ざめる。蓮斗は久留美の腰に左手を回すと、久留美の身体を自分に引き寄せた。ずぶっ……と音が聞こえそうなほどの勢いで、久留美の腹に拳を埋めた。
「んぐぅぅぅッ?!」
 蓮斗の拳に柔らかい内臓を掻き分けられ、久留美の腹は背骨に触れるほど陥没した。肺の中の空気が一気に吐き出させられる。新たな空気を求めるが、蓮斗の拳に邪魔をされ、いくら口を開けても息が吸えなかった。
 蓮斗は突き込んだままの拳を、久留美が微かに息を吐くタイミングに合わせて更に奥へと押し込んだ。
「……おゔぅっ!?」
 久留美から、今まで聞いたことが無いような濁った悲鳴が漏れた。蓮斗はタイミングを掴むと、リズミカルに久留美の腹にピストン運動のように拳を埋め続けた。一度も拳を抜かれること無く内臓を嬲られる。悪夢の様な苦痛に襲われ、久留美は何度も苦痛の声をあげた。途切れかけた意識の中で、苦しむ自分の顔を蓮斗が満足げに見下ろしている。
 蓮斗は久留美を抱き上げると、拷問器具を掻き分けるように部屋の奥に進んだ。四本の枝の生えた、ポールハンガーのような器具があった。高さが一メートルと少しの金属製で、蛍光灯の光を反射して鈍く光っている。器具の先端はソフトボールほどの大きさの球体になっている。中程の高さから四本の枝が真上から見て十字になるように伸びていて、板状になった枝の先にコンクリートブロックが置かれていた。
「どうかな? 俺が考えた拷問器具。久留美ちゃんがあまりにも可愛いから、久しぶりに使ってみたくなったよ。それに、冷子さんの作ってくれた薬も試しておかないとね」
 蓮斗は朦朧としている久留美の身体を床に向けると、先端の球体に腹部を押し付けるように乗せた。
 久留美は身体に力が入らないのだろう。蓮斗は慣れた手つきで、久留美の手首と足首を器具の枝に乗っているコンクリートブロックに繋いだ。
 自分の体重が腹部にかかり、今までのダメージと重なって久留美は微かに呻き声を上げた。
「じゃあ……頑張ってね」
 蓮斗が器具のスイッチを押すと、四カ所の枝のストッパーが同時に外れた。コンクリートブロックが床に向かって落下し、久留美の手足を強引に引っ張る。
「ごぶっ!? うああああああぁぁぁ!?」
 久留美の手足と繋がったコンクリートブロックが宙吊りになったまま揺れている。久留美の体重とコンクリートブロックの重さが、久留美の腹に一気に襲い掛かった。先端の球体が久留美の腹にめり込み、痛々しく陥没する。
「ぐぷっ! おぅッ……ぐッ……うぐあぁぁぁ!!」
 猛烈な圧迫感と苦痛を感じ、久留美はあまりの溢れ出た唾液を撒き散らしながら悲鳴を上げた。
「やっぱり良い反応をするなぁ、久留美ちゃんは。どうだい? 俺の考えたこの器具は? 三角木馬をヒントに考えたんだ。すごい苦痛だろう?」
 久留美は蓮斗の言葉も耳に入らないほどの苦痛に喘いでいた。舌はだらしなく垂れ下がり、黒目は半分以上が瞼の裏に隠れている。蓮斗は明らかに興奮していた。蓮斗は冷子から渡されたアンプルを折ると、中身を久留美の顔にかけた。久留美は何をされたかわからないほどパニックになっており、ただ苦痛に悲鳴を上げ続けた。しかし薬液がかけられると、すぐに苦痛に変化が表れた。
 球体がめり込んでいる腹部から、地獄の拷問の様な苦痛と同時に、えも言われぬ快感が身体を駆け上がって来た。
「あ……あああっ……! ぐ……な、なに……ごれぇ……? おなか、が…………ゔぁ……ぎもち……いぃ……」
「おぉ! もしかして効いてる? どうだい? チャームの成分に、お腹が性感帯にする効果をプラスしてもらったんだ。気持ち良い?」
 蓮斗は久留美の顔を覗き込みながら興奮気味に訪ねるが、久留美は喘ぎ続けるだけだった。目は白目を剥き、興奮で粘度を増した唾液は糸を引きながら口から垂れ続けている。しかし、時折ガクガクと身体を痙攣させながら、苦痛と快楽の波に飲まれている様だ。
「んぐっ! ふあぁぁ……嘘……ぎもぢいいぃ……んあぁ!」
「……マジで感じてやがるな。クソっ!」
 蓮斗は性器を取り出すと、久留美の顔を目掛けて一心不乱にしごきはじめた。久留美は蓮斗の行為に気付く余裕も無く、ただただ崩れた表情を蓮斗に晒している。
「くるじ……気持ち……いい……あああっ……なんで……ぇ……」
 蓮斗は久留美の背中を押した。球体が久留美の腹に更に深くめり込む。より強くなった刺激に久留美の身体がビクンと大きく跳ねると、絶叫しながら絶頂を迎えた。久留美の身体が断続的に痙攣し、それを見た蓮斗も久留美の顔を目掛け発射した。
「ああああああっ! あぐっ……あがあぁぁぁぁ!」
「くおぉっ!」
 絶叫する久留美の顔に、蓮斗の精液が叩き付けるような勢いで降り掛かった。蓮斗も興奮しているただろう。精液の量や粘度はいつも以上に高まり、限界まで伸ばした久留美の舌に乗った精液は垂れず、ゼリーのように舌の上で震えた。久留美は粘液が顔にかかる嫌悪感をまるで感じていないらしく、自分の腹部を中心に広がる快感に身を任せ、童顔を限界まで歪ませている。
 蓮斗は長い放出を終えると、肩で息をしながら失神した久留美の手足からコンクリートブロックを外した。


 美樹の住んでいる鷹宮神社は、アナスタシア聖書学院から見える距離の、小高い丘の上に鎮座している。参拝客は多くも少なくもないという程度だが、清廉な佇まいと、時期が来ると境内を埋め尽すように咲く見事な梅の木で、近隣の住民から親しまれていた。
 時刻は午前六時。
 真冬の空がようやく黒から群青に移り変わりはじめた。
 濡れた氷柱のような透明で静謐な空気が包む神社の境内に、かすかに竹箒の乾いた音が聞こえる。美樹が薄紫色の簡素な着物に藍染めの上着を羽織り、黙々と境内を掃除していた。広い境内に和服を着た女性が一人、もの鬱気な表情で佇んでいる姿は、遠目から見ると神聖で美しい光景だった。
 しかし美樹本人は心ここにあらずの状態だった。
 俯いた視線は石畳のさらに下の土中を見ているようで、竹箒を動かす手も何処か機械的だ。
 久留美が失踪してから、既に三日が経過していた。
 手がかりは全く言っていいほど無く、美樹の所属している人妖討伐機関、アンチレジストからの報告も調査中のまま止まっていた。
 美樹は小さくため息をついた。
 吐いた息は一瞬だけ白くその存在を誇示し、すぐに霧散した。
 その白い息がまるで今の頼りない自分自身を表しているようで、美樹はやり場の無い怒りが込み上げ、竹箒を握る手に力が入った。
「……自分が情けない。もう五日も経つのに何の手がかりも……。あの男の事だ。久留美に何をしてるか……」
 歯を食いしばり、悔しさで込み上げてくる涙に耐えた。しかし、泣いた所で行動しなければ何も解決しない事は十分に理解している。昨日、学院へは一週間の休学届を提出した。しばらくは久留美の捜索に専念できる。
 参道の掃除が終わり、美樹は鳥居を潜って境内を出た。もうすぐ日の出だ。眼下には長い階段が伸びていて、神社と街をつないでいる。
 ふと、鳥居の根元に妙なものが置いてあることに気がついた。
「……手紙?」と、美樹は言った。
 何の変哲もない白い封筒の上に、風で飛ばされないように石が置かれている。封筒の表には綺麗な字で「鷹宮美樹様」と青インクの万年筆で書かれていた。
 嫌な予感がした。
 美樹はゆっくりと封筒を裏返し、差出人の欄を見る。小さな文字で蓮斗と書かれている。
「こいつ……ッ! いつの間にこんな物を!?」
 美樹が震える手で封を開け中身を取り出した。


 本日二十三時
 S区の「CELLA」に一人でお越し下さい。  
 久留美ちゃんと一緒にお待ちしております。


 美樹は無意識に手紙を握りつぶした。怒りのために拳がぶるぶると震えている。
 だが、ともかくこれで手がかりができた。「CELLA」というものが何なのかわからないが、向こうが指定してくるということは、調べればわかるものなのだろう。
 美樹は数回深呼吸して気持ちを落ち着かせると、社務所へ帰ろうと鳥居に背を向けた。その時、階段の下からパタパタと走る音と声が聞こえた。こんな早くに何事かと階段を覗き込む。階段の下からアナスタシア聖書学院の制服を来た女性が全速力で駆け上がって来ていた。登りはじめた朝日に照らされ、長い金髪がきらきらと輝いている。
「あっ! 美樹さーん! よ、よかった……。は、早起きなんですね……」
「シオン……?」
 シオンは息を弾ませながら美樹に手を振り、見る見るうちに階段を駆け上がってくる。美樹は無意識に蓮斗からの手紙を袖の下へ隠した。
 鷹宮神社の階段は途中に休憩用のベンチを用意してあるほど段数が多く、傾斜が急だ。そのため、多くの参拝客は参拝時間のみ解放している裏門の駐車場まで車で上がってくる。あと三十分したら駐車場を解放するまでが、美樹の朝の仕事だった。
 シオンは最後の数段をジャンプして飛び上がるように境内に着地すると、しばらく膝に手をついて呼吸を整えた。
「はぁ……はぁ……。お、おはよう……ございます……。あ……朝から……この……広い境内の……はぁ……お掃除なんて……た、大変ですね……」
「いや……朝からこの階段を一気に駆け上がるほど大変ではないと思うが……。と言うより一体どうした? こんなに急ぐなんて、ただ事じゃないんだろう?」
 シオンは肩で息をしながらようやく上体を起こし、顔にかかった長い金髪を掻き上げた。美樹がよく見ると、シオンの目の下にはうっすらと隈ができている。シオンもここ数日は殆ど学院に泊まり込みで防犯カメラの分析や、組織を通した警察との秘密裏の交渉をしながら、蓮斗の行方を追っていた。
「……はぁ……。んくっ……じ、実は、蓮斗の出生について、ある程度の情報が手に入りました。はぁ……も……もうすぐ迎えの車が来ますので、よかったら一緒に学院まで……」
「何!? 分かった、すぐに準備をする!」
 シオンが全て言い終わる前に、美樹は竹箒をシオンに押し付けると、着替える為に一目散に社務所へと駆けて行った。
 境内に一人ぽつんと残されたシオンはしばし呆然としていたが、とりあえず美樹が押し付けた竹箒で境内の掃除の続きを始めた。

 黒塗りのレクサスが、アナスタシア聖書学院の正門を、滑らかに障害物を避けながら泳ぐ魚の様にくぐった。
 運転手が慣れた手つきで後部座席のドアを開けて、制服に着替えた美樹とシオンを降ろす。
「朝早くからすみません、ありがとうございました」と、シオンが初老の運転手に礼を言った。
「とんでもございません。では、御用件が済みましたら、またお呼び下さい。鷹宮様も是非ご一緒に」
 運転手は二人に対して定規で測ったような一礼をすると、静かに車に戻った。
「組織のか?」
 美樹が走り去るレクサスを指差して言った。
「いいえ、自前です」と、シオンが言った。
「……乗せてもらって何だが、なぜ組織のハイヤーを使わなかったんだ? お前は組織に入っていることを家に秘密にしているんだろう? わざわざ自前のを用意するなんてリスクが高すぎる」
 シオンは曖昧な笑みを少し浮かべただけで、美樹の疑問には答えずに会長室に向かって歩き出した。
 夏のアナスタシアでの一件以来、シオンが意図的に組織と距離を置いていることは何となく感じていた。どのような事情があったのかはあえて聞かなかったが、シオンが考え無しに動く人間ではないことを美樹は理解している。彼女なりに何か事情や思う所があるのだろう。今回の蓮斗の情報にしても、シオンが何か手がかりを見つけたのであれば、まずはアンチレジストへ報告してから会議という形で美樹を招集することが正しい手順だ。直接美樹の家に出向き、自前のハイヤーで学院へ連れて来たあたり、組織を介さないシオンの単独行動であることは間違いない。
 早朝のため学院内には誰もおらず、二人はまっすぐ会長室の中に入った。
 ソファには仮眠を取るためか、毛足の長い厚めの毛布が綺麗に畳んで置かれていた。シオンはもう何日も家に帰っていないのだろう。クリーニング店から配達されたままのシャツやタオルが、シオンの執務机の隅に置かれている。
「お茶を淹れますね。紅茶でいいですか?」
「ああ」と美樹は短く答えた。
 美樹は元々紅茶が苦手だった。
 コーヒーや緑茶は好んで飲むが、ティーバックで淹れた紅茶独特の甘ったるい香りや、香りに反して舌に絡み付く渋みが好きになれなかった。シオンに初めて紅茶を薦められた時、美樹は香りと味を誤摩化す為にレモンを入れて欲しいと頼んだことがあったが、すかさずシオンに「レモンはダメです!」と珍しく大きな声を出された。レモンを入れると紅茶の命である香りと風味が消えるらしい。それを消したかったのだが。
 美樹は素直に紅茶が苦手であることをシオンに話した。シオンは美樹がアレルギーではないことを確認すると、濃いめに紅茶を淹れ、ミルクと少しの砂糖を入れた後「一口でいいから」と美樹に薦めた。渋々味わうと、今まで味わったことがないほど豊かな香味が口の中に広がったことに驚いた。紅茶は相変わらず好きではないが、美樹はシオンの淹れる紅茶は好きになった。
 シオンが毛布を片付けながら、部屋の奥の給湯室へ入った。美樹は入口側のソファに腰を下ろす。
 執務机の上には、大量のコピー用紙の束が置かれている。所々に付箋が貼られた資料の山を見ながら、美樹は手紙の件をシオンに話すべきか考えていた。
 手紙の件を話せば、シオンは手を貸すと言うだろう。蓮斗からは一人で来いという指示だが、シオンの実力なら気付かれないように同行することも可能だと思う。しかし今回の件は、元はと言えば自分の不甲斐無さが招いたことだと美樹は思っていた。敵に不覚を取られ、久留美を誘拐され、ろくな情報も得られていない。出来れば誰にも迷惑をかけず、自分一人の力で解決したかった。美樹がブレザーの内ポケットから手紙を取り出して、小さく折り畳んでスカートのポケットに移した時、シオンがトレーを持って部屋に入ってきた。美樹はミルクと砂糖を入れて、シオンは小皿に取り分けたイチジクのジャムを少しずつスプーンで口に運びながらストレートで、お互いに紅茶をゆっくりと飲む。特に会話は無いが、張りつめていた神経が、少しずつ解れるような気がした。
 一息ついた後、シオンが執務机から資料を持って来た。
「防犯カメラの映像を元に蓮斗の顔の骨格を割り出し、警察の内部資料と再び照合しました。最近の犯罪歴はありませんでしたが、少年時代の記録と、ある孤児院の名前がヒットしました」
 美樹は、警察の内部資料をシオンがどのようにして手に入れたのか突っ込まないことにした。
「ヒットした情報を元にして、蓮斗の個人情報がある程度わかりました。これが、少年時代の蓮斗の写真です」
 美樹は目の前の資料に視線を落とした。「……ん?」と、美樹が困惑した声を漏らす。
 小学校の頃とおぼしき顔写真。数枚の写真の中には、先日対峙した蓮斗とは似ても似つかない面影の少年がいた。
「ずいぶん太っているな……」
 合唱祭、体育祭、修学旅行。イベントの際に撮ったであろうクラスの集合写真。その少年は、いつも同じ場所に立っていた。クラスメイトが押し合うようにフレームの中心で固まり、思い思いのポーズをとっているのに対し、その太った少年はいつもフレームの切れるギリギリの位置に無表情で立っていた。中途半端に伸びた癖毛は梳いた様子もなく、首元が伸びたTシャツは汗で色が変わっていた。どの写真も無表情で、固く両手の拳を握っている。
「確かなのか?」と、美樹がシオンを見ながら言った。
「確かです。いくら体型が変化しても元々の骨格が変わることはありません。蓮斗はおそらく、かなりの美容成形手術を施していますが、骨格照合をかいくぐるほど根本的な改変は不可能です。この写真に写っている少年は間違いなく、美樹さんを襲った蓮斗と名乗る人物です」
 美樹は頭を掻きながら無意識に溜息を吐いた。あらためて写真を眺める。顔の作り自体は悪くないが、脂肪が貼り付いた顎や頬のラインがそれを台無しにしている。なるほど目元辺りは言われてみれば面影がある気がするが、何かを諦めたような目つきは印象に残った。
「ご覧の通り、クラスにはあまり馴染めていない様子です。そして、卒業式の写真には写っていません」
「……引っ越したのか?」
 引っ越してはいないだろうという確信を持ちながら美樹は聞いた。写真の中の蓮斗は、暗い目で美樹を見つめ返していた。
「休学のまま卒業しています。正確には少年院に入ったまま、義務教育期間を終えています」
「何をした?」
「さ……殺人です」
 珍しくシオンが吃った。軽く咳払いをして言葉を続ける。
「蓮斗は当時、クラスメイトから日常的に暴力を受けていました。その内容は酷いもので、歩道橋から突き落とされて入院したこともあるとか……。蓮斗はある日の放課後に虐めの首謀者であるクラスメイトを凄惨な方法で……殺害しました。その夜、別のクラスメイトの母子家庭の家に押し入り、母親を含めて……。そのまま、警察に保護されました。捕まらなければ、両親が寝ている自宅に火を付けようと計画していたらしいです」
「おぞましいな……子供にそんなことが……」
「残念ですが、事実です。警察に保護された後、ある更生施設に強制入所させられています」
 シオンは一枚の名簿をテーブルの上に置いた。
 美樹は思わず声を上げそうになった。
 蛍光ペンでラインが引かれた蓮斗の本名の、ずっと下の方に二本、別の色の蛍光ペンでラインが引かれている。『木附由里』『木附由羅』の文字がマークされていた。
「……何だこれは? あの失踪した双子が蓮斗と同じ施設に?」
「……私も最初はただの偶然かと思いましたが、調べてみるとこの施設は、少し特殊な子供達を集めるための場所でした。家庭環境や様々な事情により、精神的に深い傷を持つ子供達。その中でも反社会的行動をとってしまった子供達……つまりは……」
「犯罪者だけを集めた施設か……」
 シオンはゆっくりと頷き、紅茶のカップに手をつける。
「『CELLA(セラ)』。この施設の名前です」
 美樹はカップを落としそうになった。ポケットの中の手紙が僅かに音を立てた気がした。
「S区の外れの丘の上に建っていましたが、数年前に閉鎖されて、現在は廃墟になっています。ここに何か手がかりがあることは間違いありませんが……美樹さん?」
 シオンが神妙な顔をして美樹の目を射抜くように見る。エメラルドの様なシオンの目は恐ろしいほど透き通っていた。
「……美樹さんが私に何かを隠していることは、何となく分かります。でもそれが美樹さんが隠したいことなのであれば、私が知ってはいけないことなのでしょう。ただ、一人で悩んでも、事態が好転することはあまり無いことは分かって下さい。美樹さん、何か私に出来ることがあれば言って下さい。理由は聞きませんが、全力でサポートします」
 美樹はカップをゆっくりとソーサーに戻した。今すぐに手紙の件を打ち明けたい衝動に駆られるが、寸での所で言葉をごくりと飲み込む。
「いや……大丈夫だ」
 そう、大丈夫だ。と、美樹は自分に言い聞かせた。シオンの少し悲しそうな顔を見たくなかったので、美樹は紅茶の中に映る自分の顔を見つめた。
 紅茶の水面で揺らめく自分は、泣きそうな顔をしていた。


 肉に指したフォークの櫛に添ってナイフを這わせる。すっ、と音が聞こえてきそうなほど簡単に肉の繊維が剥がれた。
 暖炉の火がぱりちと弾ける。
 六人が一度に食事ができる長方形のテーブル。短辺には久留美と、向かい合う様に蓮斗が座り、片側の長辺には双子の女の子(久留美に由里と由羅と名乗った)が仲良く並んで座っていた。冷子と名乗った女性は食事を摂らないらしい。
 久留美が蓮斗に誘拐されて三日目。ここの住人達と夕食を共にするのも三回目だ。
 食事は誘拐されたその日から誘われた。
 最初は警戒して口を付けなかったが、時間と共に薄れる警戒心や、強くなる空腹感で口を付けると、想像以上に美味しかった。
 食事は蓮斗と由里が担当しており、ダイニングには決まった時間に久留美の分も含め人数分が用意された。「変なモノは何も入っていないから、安心して食べてほしい。不安なら、誰かの皿と交換してもいいよ」という蓮斗の言葉も、久留美の警戒心を解した。
 正面に座る蓮斗と目が合った。蓮斗はそれに気が付くと「美味い?」と聞いた。
「良い赤身肉が手に入って、やっとドライエイジングが終わったんだ。肉の旨味が素晴らしいだろう? 良い肉は霜降りよりも、赤身が美味いんだ」
「焼き方もいけてるじゃない?」
 蓮斗の言葉を遮る様に、由羅が口を開いた。
「片面焼きのブルー。由里の作ったポトフには負けるけどね。なんたってあんたの奢りだし」
「私はあまり高級食材ばかりを使うのは……」
 由里がおずおずと口を開く。文句を言いながらも、皿の上の肉は既に無くなっている。
「俺は酒も煙草もダメだからさ、食べ物くらい拘ったって罰は当たらないさ。で、久留美ちゃんはどう?」
 三人の視線が久留美に集中する。
 久留美は一瞬下を向いて目を逸らした後、「美味しい……です」と呟いた。
 なぜこの人達は、まるで友人のように自分に普通に接するのだろうか……と久留美は思った。
 誘拐されてから、久留美は毎日のように蓮斗に腹を嬲られた。固い拳を鳩尾に突き込まれ、膝で胃を突き上げられ、手のひらで腹部全体を潰す様に圧迫され、蓮斗の作った様々な拷問器具で責め立てられた。
 何度も泣き、嘔吐し、失神した。
 何故自分がこんな目に……と、絶望の深い穴の縁を独りで歩いているような気分になった。
 しかし、久留美は腹を責められる以外は、歓迎とも思える扱いを受けた。
 初日の責め苦から目を覚ますと、蓮斗は氷と水の入ったビニール袋で失神した久留美の腹部を冷やしていた。精液の付いた顔は清拭され、痛みが落ち着くとシャワー室へ案内された。蓮斗はタオルを置くとすぐに脱衣所から出て行った。入れ替わるように入ってきた双子の姉妹から一週間分の新品の下着とシャツを手渡され、使い捨てにするように言われた。
 軟禁されている建物は古かったが清潔で、あてがわれた寝室も掃除が行き届いていた。食事も最初は警戒したが、温かくて美味しいものだった。
 意外なことに蓮斗は腹を責める意外は紳士的で、それ以外の久留美の身体には関心を示さなかった。唇や胸や性器は、まだ一度も触れられていない。双子の姉妹も明るくよく喋る性格で、なぜ蓮斗と一緒に生活しているのか久留美は理解に苦しんだ。
 誘拐されたその日、食事の後に久留美は双子と三人きりになり、流れで双子の生い立ちを聞くことになった。凄惨な話だった。双子は両親から酷い虐待を受け、ふとしたきっかけで両親を殺害し、かつてこの場所で運営されていた施設に入居していたらしい。双子にとって両親との思い出は暴力しかなかったが、そのため、双子は暴力でしか愛情を感じられなくなってしまったらしい。いまでも毎晩、姉妹で身体を傷つけ合いながら、お互いを認識し合っているとのことだ。
 久留美はその話を聞いて、涙が止まらなくなった。
「久留美ちゃん?」
「えっ……? あ……?」
 切り分けた肉をフォークに突き刺した状態で惚けていたようだ。心配するように目を細めた蓮斗と目が合った。
「大丈夫? まだお腹が痛むかい? 食事は後で部屋に持っていってもいいけど……」と、蓮斗が言った。
「いえ……大丈夫です」
 目を逸らし、切り分けた肉を口に入れる。少し冷めてしまったが、奥歯で噛むとほろほろと崩れ、軽い塩胡椒の風味と旨味が溢れた。
 不意に、久留美の目から涙が溢れた。
「え? ちょっと、どうしたの?」
 ジーンズにパーカーというラフな格好の由羅が席を立って久留美に駆け寄ると、ポケットからハンカチを取り出して差し出した。
 なぜ、この人達は優しくしてくれるのだろう。
 なぜ、美樹先輩は助けに来てくれないのだろう。
 美樹先輩やシオン会長が何らかの組織に属しており、自分が知る由もない何かと戦っていることは、病院で盗み聞きした会話で察しが付いた。もしかしたら、自分は一般人が知ってはならない大いなる秘密に巻き込まれてしまったのではないか。もしかしたら、自分は口封じの為に美樹先輩やシオン会長に見捨てられたのではないか。
 そんな訳はないと何度も思ったが、蓮斗達に向けられていた恐怖や猜疑心は既に無くなっていた。
「あの……蓮斗……さん?」と、久留美が上目遣いで蓮斗を見た。「この後も……殴ってくれませんか……?」

 ズブリと蓮斗の拳が久留美の腹部を抉る。細く華奢な久留美の腹は痛々しく陥没した。
「ごぷっ?!」
 両手足を固定された久留美は瞼を限界まで見開き、目尻に涙を溜めながら苦痛に耐えた。口内には二時間ほど前に飲み込んだ肉の味がこみ上げてくる。拘束されると同時に茶色いアンプルの中身を顔に浴びせられていたため、久留美のショーツはぐっしょりと濡れていた。別にいい。替えは何枚もあるのだ。
 はっ、はっ、と短い呼吸をしながら蓮斗の表情を見る。蓮斗も興奮しているようだ。久留美はなぜか、蓮斗の顔がとても愛おしく感じた。
 ぐぼんっ……と膝が鳩尾に突き込まれ、久留美は嘔吐いた。
「ぐえっ……ッ! あ……うぶぅッ!」
 耐えきれず、久留美の喉が膨らみ、ほとんど消化された茶色い液体が口から溢れた。嘔吐の途中でも蓮斗は間髪入れず、久留美の胃を突き上げた。痙攣している真っ只中の胃をひしゃげられ、久留美はこの世のものとは思えない苦痛を感じた。
「ぐっ……ぐえぇぇっ……はッ……はぁ……」
 頭が支えられず、ガクリと頭部が落ちる。そのまま上目遣いで蓮斗を見上げた。
「は……蓮斗……さ……ん……」
 蓮斗は目で「何だ?」と聞いた。
「う……く……口で……して……あげます……」
 言い終わった後、久留美ははっとした。なぜこのようなことを口走ったのかわからない。久留美はキスすらしたことが無く、性的な知識も本で読んだ程度だった。ただ、なぜか、そうしたかった。
 蓮斗は久留美の手足の拘束を解くと、久留美を膝立ちにして黒いカーゴパンツのファスナーを下ろした。男性器が限界までそそり立っている。久留美の鼻に、微かに汗と男性の匂いが刺さった。
 久留美はうっとりと蓮斗の性器を見つめた。
 徐々に近づき、口を開けてくわえ込む。
「んっ……んむっ……んぅ……」
 どうしていいのかわからず、反応をうかがうように蓮斗の顔を見上げながら、舌先を這わす。気持ち悪さは無く、不思議な満足感が久留美を満たしていた。腹部からこみ上げて来る苦痛は子宮の辺りからこみ上げる熱と混ざり合って、下半身全体が溶けるような感覚を覚えた。
 久留美は哺乳瓶を咥えた赤ん坊のように蓮斗の性器を吸った。中身を吸い出すように、そのまま何回か頭を前後に動かすと、蓮斗の性器が震えて熱い液体が久留美の口内に注がれた。
 突然の射精に驚いて、慌てて性器を口から離す。
 そらした顔を目掛けて、まだ粘液の飛沫が降り掛かった。
 大量の精液を顔に浴びながら、久留美の脳裏にふと美樹の顔が浮かび、すぐに消えた。
 もう、このまま助けられなくてもいいのかもしれないと、久留美は思った。


 水を打つ音と祝詞の声が境内に微かに響いている。音は鷹宮神社の奥、竹薮のそばの井戸から聞こえた。髪を結い上げた美樹が白襦袢一枚の姿で黙々と祝詞を唱えながら、井戸の底につるべを落としては引き上げ、桶いっぱいに溜まった氷の様な水をかぶっている。
「高天原に神留座す神魯伎神魯美の詔以て……」
 見ているだけで皮膚に痛みを覚えるような光景だったが、美樹は顔色一つ変えることなく黙々と水行をこなした。祝詞を唱えながら冷水を浴びること十数回。終えると美樹は丁寧に井戸に蓋をし、桶を直すと両手を合わせた。
「行くか……」
 身体は芯まで冷えきっている。声は震え、消え入るように小さい。しかし、頭は未踏の地の水源のように澄み切っていた。美樹は井戸に背を向けると、本殿横の離れにある自室に向かった。あらかじめ踏み石に置いておいたバスタオルで襦袢の上から身体を拭き、草履を揃えて部屋に入る。行水の一時間ほど前に火鉢に炭を入れていたため、柔らかい温かさにほっとする。行灯から橙色の灯りが弱々しく広がる十畳ほどの和室。多くの文庫本が入った本棚と、大きめの箪笥と姿見以外は、生活感があまり無い。食事は別室で摂ることが多かったし、好きなバイクや整備道具はまとめて車庫に置いてある。勉強も箪笥に立てかけてある書生机を必要に応じて出した。
 美樹は付書院の戸を開け、天板にテープで張り付けて隠してある鍵を取り出すと、施錠された箪笥の引き出しを開けた。
 丁寧に畳まれた服を取り出す。
 美樹専用の、アンチレジストの戦闘服だ。
 アンチレジストの戦闘服は、季節を通して同じ服で戦うために特殊な繊維が用いられている。伸縮性や対衝撃性は一般的な高機能繊維と同じだが、特筆すべきは温度と湿度の調節効果だ。
 その生地は周囲の温度を感知し、身体から発散される水蒸気をエネルギーとして、生地の無い場所も含め身体全体をヴェールで包むように適正温度に保つ。そのため一見露出の多い戦闘服でも、真冬でもコートを着ているように温かく、真夏は裸でいるよりも涼しい。この繊維を用いてアンチレジストは戦闘員各々の戦闘スタイルや衣服の好みに合わせてカスタムメイドされたものを支給している。
 好みにもよるが、基本的に一般戦闘員のものは防御に特化した戦闘服が多い。関節部分などの急所の保護を目的としたサポーター類をはじめ、素材自体も厚手で露出の少ないものが好まれる。中にはフルフェイスのヘルメットを選択する者もいる。逆に上級戦闘員は極力自分の戦闘能力を高める為に、関節部分は露出、もしくはサポーターの無い薄手の素材を選択する場合が多い。当然、美樹は後者である。
 美樹は襦袢を脱いで全裸になり、あらためて丁寧に身体を拭くと、結っていた髪を解いて姿見の前で丁寧に梳いた。均整の取れた身体だ。女性らしい体つきだが、無駄な脂肪は一切付いていない。適切な運動により腕や脚、腹にはしなやかな筋肉が付いている。
 ふふ……と美樹は笑った。鷹宮の養子になってもう七年が経つ。あらためて見ると、あの頃に比べ自分の身体も変わったものだ。人の為に使おうと決めたこの身体は、美樹の意志に応えるように成長してくれている。
 美樹は児童養護施設で過ごした後に鷹宮家の養子に入った。
 今の家族は宮司を務める養父だけだ。
 実の母親は他界し、実の父親にはもう会う事も無いだろう。母親が存命の頃は、美樹の家は裕福とは言えないが、ごく普通の家だった。父親は工場で決まった時間に働き、母親も美樹が学校へ行っている間にパートに出た。よほどの事が無ければ、夕食は家族三人揃って食べた。しかし美樹が八歳の頃に両親が離婚し、美樹の親権と監護権は母親に定められた。離婚の理由は美樹には知る由もないが、幼い美樹でもおそらく父親に原因があることはなんとなく理解した。簡単な裁判が終わり、美樹と母親は少し離れた土地へと引っ越し、美樹も転校を余儀なくされた。
 美樹の母親が体調を崩して入院したのは引っ越してから半年後の事だ。病状は重く、美樹は急遽父親の元に戻された。元の家から距離のある転校先の学校に通い続ける事は大変だったが、それ以上に美樹を苦しめたのは父親の変化だった。家には既に美樹の知らない女性が居た。異分子である美樹に女性は辛く当たり、父親も女性の肩を持った。時には美樹に何も持たせずに一晩外に放り出す事もあった。美樹の存在は、父親の第二の人生にとって邪魔者でしかなかったのだ。しかし父親と女性との関係は長続きしないらしく、短期間で何人もの女性を部屋に連れ込み、その度に美樹は疎まれた。
 母親が他界したのは入院してから半年後、離婚してから一年後のことだ。電話の受話器を戻すと父親は無表情で、美樹に向かって「死んだぞ」と言った。「誰が?」と震える声で美樹が聞くと、母親の名前を言った。
 父親は母親の死により、何かの「たが」が外れたのだろう。父親は美樹に対して性的な暴力を振るうようになった。一線は越えなかったが、母親が他界してから養護院に入れられるまで父と過ごした記憶を美樹はほとんど持っていない。幸いなことにフラッシュバックする事も無いが、自分が男性に対して興味を抱けなくなったのは父親が原因だろうと思っている。
 美樹が十歳の頃、父親は交際を断られた女性への強姦罪で逮捕され、美樹は養護施設に預けれた。その頃の美樹は全てにおいて無感動になり、特に男性に対しての敵意は凄まじかった。施設に入所してから一年後、美樹が十一歳の時に鷹宮神社の宮司に引き取られても敵意は変わらず、たびたび神社から脱走を試みた。
 美樹の養父になった宮司は六十代の独り身だった。父親から鷹宮神社を受け継ぎ、数人の通いの職員を遣う以外は境内の裏の離れで一人で暮らしていた。養父は美樹を養子にすると、まずは名前を「美樹」に改名した。鷹宮神社の力強く美しい神木の様に育つように、そして、過去を忘れ、一から人生を歩めるようにと願ってつけられた。そして離れの一室を美樹の部屋として与えた。美樹も最初こそ抵抗したものの、養父の「楽に生きればいい。私に心なんて開かなくてもいい。好きな事は出来るだけさせてやる。だから、出来るだけ楽に生きるんだ。そして、出来るだけ人の為に生きるんだ。人間どうしたって生きていかなきゃならないんだ。人に優しくしていれば、それだけ優しさが帰って来る。そうすりゃ楽に生きられる。楽に生きられるってことは、楽しく生きられるってことだ。本当だよ」と言う言葉は美樹の乾き切った心にゆっくりと、そしてじんわりと染み込んで行った。
 あれから七年。豊かな表情を作るのはまだ苦手だが、養父のお陰で人の道から外れずに送れている。アンチレジストに入ったのも養父の教えからだ。まだ恩を返し切れていない。久留美の救出を諦める事は、養父の教えを裏切る事だ。ここで立ち止まるわけにはいかない。
 美樹は綺麗に畳まれた巫女装束を基調とした戦闘服に手を合わせた。
 まずは身体にフィットした光沢のある黒いノースリーブレオタードを身に付ける。水泳部で着用している水着に似たそれも、組織の開発した特殊繊維で作られている。肩紐に指を入れてレオタードのたるみを直すと、太腿の途中まである長いソックスを穿いた。ゴム口には緋色のリボンがスティッチ状に縫われている。
 緋色の短いプリーツスカートを履き、緋色の裏地の付いた白い襦袢を羽織る。襦袢は胸の下あたりまでのショート丈。美樹は作務衣を着る要領で内側と外側に付いた紐で裾を留めた。帯は用いない。激しい戦闘においては締め付けは邪魔になる。袖口は巫女装束や振袖の様に袋状になっており、袖口にはソックスと同じように緋色のリボンが縫われている。
 美樹は姿見の前に立つと、両手で襦袢の中に入った髪の毛をふわりとかき出した。自然と身体が昂揚してくる。髪をポニーテールに結い上げると、全身の着衣の乱れを直した。
 姿見の中の自分はまるで巫女とクノイチを足して割ったような姿だ。昼間にこの格好のまま出歩くわけにはいかないが、美樹はなかなか気に入っていた。上級戦闘員の戦闘服にしては身体を覆う部分が多かったが、美樹は衣服のあらゆる場所に武器を隠している。
 着替えが終わると、美樹は軽くその場でジャンプしてみた。
 衣服を身に付けていることを忘れるほど軽い。そして生地に使われた特殊繊維の効果で、先ほどまで感じていた寒さが嘘のように消えていた。
 目を瞑り、足の裏から空気を吸う様にゆっくりを息を吸い込む。そして吸い込んだ空気の塊を丹田に押し込むように意識を集中し、吸った時の倍近い時間をかけてゆっくりと息を吐き出す。数回繰り返した後、静かに目を開く。
「行くか……久留美、待っていろ。すぐに助ける」
 美樹は箪笥からライダースジャケットを取り出して羽織ると、編み上げのコンバットブーツを履いて外に出た。
 雪は止んでいた。境内の石畳には足跡ひとつ無い雪が一面降り積もっている。
 暗くて静かで、美しい光景だった。
 美樹はライダースのポケットからショートホープを取り出して火をつけた。養父のいるもうひとつの離れを見る。早寝の養父らしく部屋の灯りは消えていた。美樹はゆっくりと煙を吸い込み、蜂蜜に似た甘さを楽しむように長い時間をかけて吐いた。空気が冷えきっているため、自分の吐く息の白さと合わせて普段よりも煙量が多く感じる。時間をかけて短い煙草を吸い終わると、美樹は少し迷った後に養父の寝ている離れの踏み石に火の消えた煙草を置き、自分にしか聞こえない声で「行ってきます」と呟いた。


 固い音を立てて、カップが漆喰の塗られた壁に叩き付けられた。ブルーの絵が入った薄造りのカップはドライフラワーが崩れるように簡単に四散し、漆喰の壁には蜂蜜を塗ったように紅茶の垂れる跡が残った。
「……か……б……бо……か、神様……」
 シオンは両手で頭を抱え、会長室の執務机に両肘を着いた。白に近い金髪にディスプレイの青みがかった光が反射している。悪い夢から覚めようとすよう首を振る。一瞬でカラカラに乾いた喉の粘膜が貼り付き、思わず咳き込んだ。
「はっ……はぁ……は……」
 呼吸を乱しながらディスプレイを見ないように立ち上がる。ふらつきながら深紅のブレザーと自分で墨染めしたブラックウォッチ柄のスカートを脱ぎ捨てた。給湯スペースの奥のシャワー室に向かいながら下着を取り、シャワーコックを全開にした。冷たい水がレインシャワーから飛び出し、思わず身体が跳ねた。
 吐水が徐々に水から湯に変わる。混乱していた精神が溶かされるように、徐々に平静を取り戻していくのがわかった。
 あまりにもショックが大きすぎた。
 シオンは久留美の捜索と蓮斗の調査をする傍ら、アンチレジストについての調査も進めていた。自分も所属しているとはいえ、あの組織はあまりにも謎が多すぎる。豊潤な資金源や構成員の正確な人数、そしてトップであるファーザーの素性。アンチレジストに対する調査は、警察の内部資料を盗み出す以上に大変だった。しかし今日、ハッキングソフトがひとつの答えを出した。そしてそれはシオンを大きく混乱させた。
 頭からシャワーを浴びながら、こめかみを揉んで乱れた心を落ち着かせる。まだ調査が必要だ。自分はまだ氷山の一角を見ただけだ。今は久留美ちゃんの救出を第一に考えなければ。
 シオンはシャワーから出ると、髪と身体にタオルを巻いたまま割れたカップを片付けた。汚れた壁を拭きながら、カップを叩き付けるなんてどうかしていると思った。ここまで心が乱れた事は今までの人生であっただろうか。
 まだ、そうと決まった訳ではないのに。
 偶然の可能性の方が高いはずだ。改姓した人が多いとはいえ、元々はありふれた姓であり、まだその姓のを名乗る人は多く残っている。アンチレジストの送金者リストのトップに記載された姓。ラスプーチナ。まだあの国にはその姓の人は大勢いるはずだ。そうだ、自分の生家と同じ姓を持つ人は、母国には何人もいる。だが、自分の生家と同じ姓で、アンチレジストの資金提供リストのトップに記載されるほどの財力を持つ家系を、シオンは思いつく事が出来なかった。

順番が前後してしまいましたが、[Plastic_Cell] 前編の推敲作業を進めています。
まだ甘いので、あと2回くらい推敲します。



 雪が降っていた。
 夕方からしんしんと降り続いた雪は二十二時を過ぎても止まず、本来なら、手入れの行き届いたきめの細かい芝生で覆われたアナスタシア聖書学院のグラウンドを、まるで最高級のグレイグースの羽毛を敷き詰めた様に真っ白に覆い隠していた。
 その雪が全ての音を吸い尽くしてしまったかの様に、ほぼ完全な静寂がヨーロッパ調の敷地内を静かに漂っている。赤味の強い煉瓦造りの校舎の中は全ての灯りが消えており、等間隔に灯されたレトロなガス灯のあかりだけが、雪に霞みながら静かにゆらめいていた。
 男は裏門にいた警備員を昏倒させると、鍵束から裏門の通用口の鍵を探し出し、足早に学院内へと侵入した。
 男は二十代前半だろうか。顔の彫りが深く、目が落ち窪んで眼光がやけに鋭い。金色に染め上げたボリュームのある髪の毛を、爆発したようなきつめのパーマで逆立てている。男は黒いタイトなレザーライダースのファスナーを首元まで締め、大きなポケットの着いた厚手の黒いカーゴパンツのポケットに手を突っ込んで歩いていた。
 十年に一度の異常気象と言われた夏の暑さとはうってかわって、年が明けた一月の夜は凍てつく様に冷えきっていた。男は時折白い息を吐きながら新雪を踏みしめた。さくさくと乾いた音がドクターマーチンの靴底から男の耳に届く。
 学院の奥へと進むと、ようやく目当ての建物が見えてきた。煉瓦や自然石を基調とした敷地の中で、やや浮いた印象のコンクリートむき出しの五階建ての建物、通称S棟。
 S等は一階がプール、二階と三階が多目的コート、四階が武道場、五階がトレーニングジムというスポーツ専用に建設された建物で、授業や部活動以外にも体力向上やダイエット目的の生徒に幅広く利用されている。
 男はS棟の真下に到着すると、微かに明かりの漏れている一階部分を見上げた。高い天井付近の窓から漏れる明かりと、わずかに見える天井に写る水面の揺らめきが、ターゲットがまだ中に居ることを男に伝える。男は僅かに唇の端をつり上げるとS棟の中に侵入した。
 内部は空調が効いているのか、外の寒さに反して適度な湿度と温度に保たれていた。
 広い競泳用プールの左端のレーンを、一人の女性が綺麗なフォームのクロールで泳いでいる。
 女性はあっという間に向こう側の壁にたどり着くと、鮮やかなクイックターンですぐにこちらに向かって泳いで来る。
 女性ほとんどペースを落とさずに数回プールを往復すると、肩で息をしながらプールサイドに据え付けられたステンレス製の手すりにつかまり呼吸を整えた。わずかに見える横顔からは満足そうな色が伺えた。男が居ることには気付いていない。呼吸が落ち着き、プールサイドに登るためにステップに足をかける。
「手を貸そうか?」
 女性の肩がビクリ跳ね、反射的に男が伸ばした手を弾くと、隙をついてプールサイドに上がった。女性が飛び上がった反動で舞い上がった水しぶきが、遅れて男のライダースジャケットの上に落ちた。
「へぇ……あれだけ泳いだ後なのに、なかなか良い動きするじゃないか? 鷹宮美樹?」
「……何だお前は? なぜ私の名前を知っている?」
 男は質問には答えず、まだ水の滴る美樹の身体をゆっくりと見回した。
 均整の取れた美しい身体だ。
 腰まである長い黒髪は濡れた烏の羽の様に艶々と輝いており、凛とした印象の整った顔立ちを引き立たせている。身体にぴったりとした競泳用の水着は身体のラインを余す所無く浮かび上がらせていた。男は無意識に唇を舐めた。
「次の大会で君の連覇は確実だというのに、こんな時間まで居残り練習とは大したもんだ。優雅に泳ぐ白鳥は水面下で必死に足を動かしている……ってやつかな?」
「質問に答えろ。どうやって侵入したかは知らないが、どうせやましいことが目的だろう? 怪我をしないうちに帰った方がいいぞ……」
「噂通り口が悪いなぁ……。神社の巫女さんってのはそんなにぶっきらぼうでも勤まるものなのかい?」
 美樹の目がわずかに大きく開く。この男は家のことまで知っているのか。
「君のことは結構知っているよ。鷹宮神社の一人娘……と言っても、住職とは血の繋がりは無くて養子縁組。アナスタシア聖書学院の水泳部のエースで、地区大会ではいつも優勝、全国大会でも上位。ぶっきらぼうだけど面倒見が良くて水泳部の後輩からは慕われている。男にも女にも人気はあるが、雰囲気や言動から近寄りがたく、あまり告白はされないし、されても一度もOKしたことは無い。成績はかなり良くて……」
「ストーカーかお前は?」
 美樹が男の言葉を遮る。正面を向いたまま後ずさり、立てかけてあったデッキブラシを掴んで、男に先端を突きつけた。
「生憎、私はそこいらの女達のように簡単に組み伏せられたりはしないぞ。早々に失せろ。金輪際私の前に姿を現さず、アナスタシアの敷居も跨ぐな」
 突きつけたデッキブラシを薙刀のように持ち替え、足を前後にやや大きめに開きながら構える。重心をしっかりと落とした理想的な構えだ。デッキブラシの先端は全く揺れず、射抜く様に男に向かって突き出されている。
「おお、怖い怖い。警備員呼ばずに自分でどうにかしちゃうんだ? 流石はアンチレジストの上級戦闘員。痴漢やストーカーの一人や二人懲らしめるくらい朝飯前だよね?」
 表情の変化こそ乏しかったが、アンチレジストの名前を出され、美樹は心底驚いた。人間を餌にする人妖の存在は、世間にもほとんど知られていない情報だ。それを討伐する組織、美樹の所属するアンチレジストも同様に世間には伏せられている。
 この男は知りすぎている。
 美樹は意を決し、すぐさま男に向かってデッキブラシを振り下ろした。

 デッキブラシが床を打つ硬い音が室内に反響する。男は美樹の攻撃をバックステップでかわすが、デッキブラシはまるで生きているかのように男を追跡した。
「うおっ!?」と、男が攻撃をかろうじて躱しながら、驚愕の声を上げる。
 美樹は床の上を滑るように摺り足で移動する。男との距離を一気に縮めながら、地面すれすれの位置からデッキブラシの先端を男の顎を狙って振り上げた。
 男は仰け反って回避する。顎の数センチ手前をブラシの先端がかすめた。美樹は攻撃が外れたと分かるとすぐさま脳天にターゲットを変える。男は咄嗟に腕を上げて、唸りを上げて振り下ろされたデッキブラシをガードする。先端が腕に当たった瞬間ミシリという嫌な音が響いた。
「痛ってぇ!」
 男が痛みに歯を食いしばる。美樹は攻撃がガードされるや否や、すぐさまデッキブラシを手放して男に急接近し、正確に男の顎を肘で跳ね上げ、ガラ空きになった腹に槍のような蹴りを突き込んだ。
 男は悲鳴を上げる間もなく後方へ吹っ飛び、プールのほぼ中央に派手な音を立てて着水した。一瞬置いて、デッキブラシがからんと音を立ててプールサイドに落下した。
「ふん……この程度か……」
 美樹は足下に落ちていた虎縞のナイロンロープを掴むと、男を追ってプールに飛び込んだ。頭まで水に沈んだまま浮いてこない男の髪の毛を掴んで無理矢理水面から引き上げると、美樹は電柱の根元に放置された吐瀉物を見るような目つきで男の顔を覗き込んだ。
「弱いな。アンチレジストの名前を出したときは驚いたが……とんだ肩透かしだ。名前は?」
「うぅっ……は……蓮斗(はすと)だよ……。蓮の花の蓮に、北斗七星の斗……。もちろん、こんなふざけた名前は本名じゃないぜ……」
 美樹の拳が正確に蓮斗の肝臓を射抜く。水中から肉を打つくぐもった音が響き、男が微かにうめき声を上げると、口から泡を吹いて全身の力が緩んだ。美樹が掴んでいた髪を離すと、ばしゃりと蓮斗の顔が水面に落ちる。
「ふぅ……せっかく集中して練習していたというのに、とんだ邪魔が入った。教員に見つかる前に回収班を呼んで、帰りにシオンの家に寄って報告しておくか。しかしこいつ、どこでアンチレジストの存在を知ったんだ……?」
 美樹がロープで蓮斗を縛り上げようとした瞬間、蓮斗は水面に顔を付けたまま、掌底を美樹の顔面に放った。美樹は咄嗟にガードするが、蓮斗の手に掬われた水が美樹の顔にかかった。
「こいつ……まだ動けたのか……うっ!? あああっ!?」
 美樹が攻撃のために拳を握りしめた瞬間、突然目に激痛が走った。目を開けていられないほどの尋常ではない痛みが目の中で次々と爆発し、止めどなく涙があふれた。
「げほっ……流石は上級戦闘員様だ……。たまたま落ちた所に消毒用の塩素剤があったんで、握りつぶして使わせてもらったよ。ラッキーだった……」
「ぐっ……ひ……卑怯者! くっ……目が……」
「ははっ……げほっ……どこ向いてんだよ?」
「くっ……こ……この!」
 美樹が音を頼りに必死に居場所を探ろうとするが、水音が壁全体に反響してほとんど状況が把握できない。
「ははっ。どこ向いてるんだい?」
「ひ……卑怯者! 男なら、正々堂々と勝負しろ!」
 当てずっぽうに拳を放つが、いずれも空しく空を切る。視界は何とかぼやけて見えるくらいには回復したが、それでも正確に男の位置を把握することは難しかった。不意に、美樹の背中にプールの壁が触れた。いつの間にかプールの端まで移動していたらしい。後頭部も壁に付くことから、おそらくここは飛び込み台の真下なのだろう。
「くそっ……そこか!」
 水音がしたとこを目掛け渾身の一撃を放つが、拳には全く手応えが無く、代わりに手首の辺りをがっしりと掴まれた。
「なっ?」
「やっとつかまえた……さて……楽しませてもらうよ?」
 蓮斗は正面に回り込むと、美樹にのど輪を食らわせ、力任せに背後の壁に美樹の背中を叩き付けた。美樹は後頭部をしたたかに打ち、小さなうめき声を上げながら、かすむ目で必死に蓮斗を睨みつける。
「恥を知れ……この下衆が!」
「いいねぇ……強気であればあるほど、屈服させたときの征服感がたまらないからね。特に君みたいな綺麗で強気な女の心をへし折った時なんて、本当に最高だよ」
「寝言は寝て言え! 誰がお前なんかに!」
「本当に寝言かな? 美樹ちゃんがいつまで保つか試してみようか? ほら?」
 ぐずっ、という湿った音が、背骨を伝わって美樹の脳内に届く。
「──ぐぷっ!? あ……?」
 美樹は強烈な圧迫感を腹部に感じ、その衝撃で言葉になるはずだった空気を全て吐き出してしまった。
 ゆっくりと水中の自分の身体を見下ろす。無駄な贅肉の無い引き締まった腹部に、競泳用の薄い水着の生地を巻き込んで蓮斗の拳が深々と突き刺さった。
 蓮斗は再び拳を引き絞ると、美樹の臍のあたりに拳を埋める。美樹の腹部が水着を巻き込んで陥没し、くぐもった悲鳴が美樹の口から漏れた。
「うぐぅッ!」
「ほら、まだいくよ?」
 施設内にごつごつと重い音が反響する。蓮斗の拳が美樹の腹にめり込む度に美樹の身体がビクリと跳ね、大きな水しぶきがプールサイドを濡らした。
「うぶっ! ぐふっ! がぶぅっ! あ……あぐっ……」
 まだ完全に視力の回復しない美樹は攻撃を全て正面から喰らい、鍛え上げられた腹筋を固める暇もなく、すべての拳が深々と体内に突き刺さった。
 蓮斗の攻撃は容赦がなく、美樹に呼吸はおろか悲鳴を上げる暇すら与えずに、腹に拳を突き込み続けた。美樹の瞳孔は点の様に小さく収縮し、ガクリと頭を垂れた際に長い髪がはらはらと水中に落ちた。
「さっきまでの威勢はどうしたの? やっぱり女の子だから、お腹が弱点なのかな?」
 蓮斗は美樹の髪を掴んで顔を正面から覗き込む。美樹は悔しそうに目に涙を溜めながら蓮斗を睨みつけたが、度重なる衝撃で頬は上気してほんのりと赤くなり、食いしばった歯は苦痛でガチガチと音を立てて震え、口の端からは一筋の唾液が垂れていた。
「へぇ……結構色っぽい表情するじゃん? 大好きだよ、そういう顔」
「お……お前みたいな変態に……喜ばれても……嬉しくな……ぐぶぅッ!」
 蓮斗は渾身のボディブローを美樹の鳩尾に埋め、更に身体の奥へと拳を捻り込んで、美樹の心臓に直接ダメージを与える。
「がふぅっ……ぁ……うぐっ!?」
 蓮斗が鳩尾から拳を引き抜くと、陥没が収まらないうちに二撃目を突き入れた。美樹の瞳がまぶたの裏に隠れ、力が抜けて水しぶきを上げながら水面に顔を付ける。蓮斗が美樹の髪を掴んで水面から顔を上げるが、両目を閉じたまま反応が無い。
「変態であることは認めるよ。さて、変態は変態らしく、こういう機会は楽しまないとね」
 蓮斗は美樹が持って来たロープをつかむと、力無く弛緩した美樹をプールサイドへ上がる為のステップに座らせた。
 蓮斗は慣れた手つきで美樹の両手首を手摺に縛り付ける。手首が終わると、水の中に潜って両足首も同じ様に手摺に固定した。
 作業が終わると、蓮斗は美樹の身体を少し下がって眺めた。
「へぇ……スポーツやってるだけあって、流石にスタイルが良いな」
 引き締まった身体に、適度な大きさの胸が半分水面から顔を出している。美樹はまるで大胸筋を鍛えるフィットネスマシンに座るような格好で、梯子に縛られたまま項垂れていた。長い睫毛や髪の毛からは時折水滴が音も無く水面に落ちている。
「そそるな……」
 蓮斗は思わず生唾を飲み込む。
 美樹ほどの美貌とスタイル持ち主が、目の前で全身を濡らしたまま無防備に身体を開いている。
 水を吸ったネイビーの競泳用水着はまるで絹糸の様な光沢があり、美樹の身体のラインを魅力的に浮かび上がらせていた。
「これはヤバいな……一発抜いとくか」
 蓮斗は自らステップに上がると、カーゴパンツのジッパーをおろして性器を露出させ、美樹の顔の目の前でしごき立てた。水着越しに美樹の胸に擦り付け、化学繊維特有のザラザラした感触と、その奥にあるマシュマロの様な柔肉の感触を楽しむ。
「おぉ……たまんねぇ……」
「んっ……うぅ……」
 胸を硬いものが這い回る違和感と、顔の前で何かが蠢く感覚に美樹はうっすらと目を開けた。
「んっ……なっ、なにをしている?」
 美樹は目覚めると、すぐさま蓮斗から離れようと身を捩った。ナイロン製のロープが手首に食い込み小さな悲鳴を上げる。露出した男性器に気が付き、鋭い視線で蓮斗を睨みつけた。
「貴様……どこまで下衆なんだ! 女一人動けなくして、どうするつもりだ!?」
「どうするって、見ての通りだよ。美樹ちゃんがあまりにもエッチだから、自分で楽しんでただけだよ? ほら、こんな風に……」
 蓮斗はガチガチになった性器を美樹に見せつける様に目の前でしごき上げた。美樹に見られていると思うと蓮斗の興奮度は増々高まり、自然と手の動きが速くなる。
「男のオナニー見たことある? もっとよく見て?」
「ふざけるな! は、早くしまえ!」
 美樹は大きくかぶりを振って拒絶の意を示す。目が泳ぎ、明らかに気が動転している。蓮斗はその様子をニヤ付きながら眺めていた。
「こんなになったものを、今更しまえるわけないだろ? そんなに嫌なら早く治まるように、美樹ちゃんも協力してくれよ」
 そう言うと蓮斗は美樹の乳首の周辺を、あえて乳首を触らずに円を描くようになぞり始めた。水着の上から乳輪のふちをなぞる様に刺激され、美樹は思わず口から声が漏れそうになる。乳首はそのじれったい刺激で硬くなり、今では水着越しでもその位置がはっきり分かるくらいの硬度になっていた。
「あっ……くっ……や……やめろ……こんな……んぁっ!?」
「やめろって言う割には、気持ち良さそうじゃないか」
 蓮斗は円を描く様になぞっていた亀頭の動きをやめ、乳首に性器を挿入するように先端を突き入れた。むっちりとした柔肉が亀頭をすっぽりと包み、硬くなった乳首が尿道を刺激する。美樹も待ちかねた刺激に思わず身体が跳ね、大きな声を上げた。
「んあッ! くっ……ぅ……」
「うっ……気持ち良い……。そろそろ出させてもらうよ」
「あっ……あぁ……こんな男に……や、やめろ……」
 戸惑う美樹を見下しながら蓮斗は美樹の頭を掴んで固定すると、美樹の顔を目掛け勢い良くしごき上げた。
「あぁ……出る……出るよ……」
 不穏な空気を察し発せられた美樹の抵抗の声も空しく、蓮斗の性器からは勢い良く粘液が飛び出し、美樹の顔や髪の毛を汚していった。美樹は、放出する瞬間に驚いて腰を浮かせる。
「あっ?! きゃあぁっ! うぶっ……うぁ……」
「おっ……おおぉ……すごい……出る……」
 粘液は美樹の顔や髪を白く汚し、すらりと尖った顎を伝って水着の胸元へ染み込んで行った。
「う……うぇっ……何だこれは……? 酷い匂いだ……ドロドロして……」
 美樹は気持ち悪さに顔をしかめた。顔中を精液まみれにされたショックで、表情は今までの強気なものとは代わり、弱々しく呆然としている。その姿に蓮斗の性器は放出したばかりだというのに、早くも硬度を取り戻しつつあった。
「そんなに驚いて、射精を見るもの初めてだったのかな? 俺にしても惜しいな。俺の精液に人妖みたいな人を魅了する力があれば、今頃美樹ちゃんは虜になっていたはずだけど」
「チャームのことまで……貴様、どこまで知っている?」
「まぁその話はまた今度ね。ところで美樹ちゃん、これ知ってる?」
 蓮斗はカーゴパンツのポケットから、金色に光る連結された指輪のようなものを取り出した。かなり使い込まれているようで、形が微かにひしゃげ、塗装も剥げている。
「……ナ……ナックル……」
「正解。メリケンサックとも言うよね」
 そう言うと、蓮斗は美樹に見せつけるように右の拳にメリケンサックをはめ込んだ。美樹に近づき、開かれた身体の中心線を値踏みするように眺める。
「ん~、見れば見るほどエロいね。顔中精液まみれの女の子がプールの梯子に縛り付けられてるなんてシチュエーション、一生かけても見られるか分からないよ」
 美樹は黙って蓮斗を睨みつけた。戯けた様子だが、蓮斗の目は少しも笑っていない。
 蓮斗はメリケンサックを嵌めていない左手で美樹の口を塞ぐと、先ほどとは重さと硬さが桁違いに上がった右手の拳で美樹の臍の辺りをえぐった。
 ゴギッ……という固い音が周囲に響く。
 美樹は自分の身体に入り込む金属の感触と、身体の中を反響する嫌な音を聞いた。同時に今まで味わった事の無い苦痛が全身に広がる。内臓全てを吐き出したいほどの衝動に駆られ、一瞬で瞳孔が点の様に収縮する。
「ぶぐぅっ?! ぐ……うぶぅぅぅぅぅ!!」
 口を塞がれているため、まともに悲鳴を上げることすら出来ない。
 メリケンサックを嵌めた攻撃は先ほどのものとは比べ物にならず、たったの一撃で目からは大粒の涙があふれ、意識が暗転した。しかし、意識が途切れる一瞬前に再び強烈な衝撃が鳩尾を襲った。
「ぐぶぅぅぅぅっ! ごっ……ごぶぅっ……」
「おぉ、良い反応。俺も興奮してきたよ」
 たった二発の攻撃だが、身体を開かれた上に背中をプールの壁に密着した逃げ場の無い中、メリケンサックをはめた攻撃の威力全てを美樹の身体が受け止める。既に意識は飛びかけ、視野が普段の三分の一ほどに狭くなっていた。
「あれ? 白目向いちゃって、まさかもう限界?」
 美樹は既に小刻みに震えており、美樹の口を押さえている蓮斗の左手には、ガクガクと顎が震えている感覚が伝わる。
「もう少し頑張ってよ。俺ももうすぐ……」
 ゴリッ、ゴリッという嫌な音が、何回も何回も水の中で反響する。音が響く度に美樹の身体は大きく跳ね上がった。
「むぐぅぅぅぅぅ! ぐ……ぐぶっ……?!」 
 冷たい金属に守られた拳が美樹の下腹部にめり込み、美樹の子宮や胃は身体の中で痛々しくひしゃげている。攻撃の数は少ないものの、その重すぎる一撃の威力に慈悲は全く感じられず、既に美樹の内蔵はショックで痙攣を起こしていた。
 蓮斗は鳩尾の少し下へ狙いを定める。ぐじゅっ、という水っぽい衝撃が蓮斗の拳に伝わる。胃を潰された衝撃で美樹の喉が大きく蠢き、内容物が何度も食道を通って逆流するが、口を押さえる蓮斗の左手が容赦の無い堤防となって押しとどめた。
 美樹の苦しむ様子に蓮斗も限界まで昂り、最後に弓を引き絞るように限界まで右手を引き絞ると、下腹部から力任せに美樹を突き上げた。
「ぐうっ?! ごぷっ?! う……うげえぇぁぁぁぁ!」 
「ああ……いいぞ。俺も……」
 美樹の胃はメリケンサックとプールの壁に挟まれ、まるで石臼でゆっくりとすり潰されるようにひしゃげた。内容物が強制的に喉を駆け上がり、蓮斗が美樹の口を解放すると同時に勢いよく胃液が美樹の口から飛び出した。
「げぶぅっ! お、おごぉぉぉぉぉ!」
 美樹は白目を剥きながら、勢い良く水面に黄色がかった胃液を吐き出した。ガクガクと痙攣する美樹を見て、蓮斗も勢いよくプールのステップに上がり、嘔吐を続けている美樹の髪を掴んで上を向かせると、胃液が逆流し続けている口に無理矢理性器を押し込んだ。
「むぐぅぅぅぅっ?! ぐっ……ぐえっ……」
「おおおおっ!? 胃液が潤滑油代わりになって……喉がすげぇ滑る……出る……出るよ……」
 蓮斗は嘔吐を続ける美樹のことなど気にもかけず、自らの快楽に任せて腰を振った。嘔吐を塞き止められたこととイラマチオによる二重の苦痛で美樹の喉は大きく痙攣し、それが結果的に蓮斗の男根を締め付けた。
「おぉぉぉっ! すげぇ……ほら……死ねよ……」 
 蓮斗は背中を大きく仰け反らせて射精した。呼吸も出来ないほどの苦痛を受けながら喉の奥で熱い粘液を吐き出され、美樹の黒目がぐりんと裏返る。
「ぐ……ぐむぅぅぅっ?! ごぼっ!!? ごぶぅっ!!」
 蓮斗は逆流して来る胃液を押し返す様に精液を美樹の喉に流し込んだ。食道内で精液と胃液がぶつかり合い、逃げ場を無くした液体は気管に逃げ込み、気道反射で押し返された液体は再び食道でぶつかった。
「うぶぅっ! ごぼろぉぉぉっ! う……うげぇぇぇぇっ……うぐっ……うあぁぁ……」
 蓮斗がようやく放出を終えて美樹の口から性器を抜くと、美樹の頭が糸が切れたようにがくりと落ちる。同時に、精液と胃液が混ざった濁った液体が、美樹の口から滝の様に水面に落ちた。美樹の身体は完全に力が抜け、皮肉にも蓮斗が手足を縛ったロープが支えとなり、美樹が水中に落下するのを防いでいた。
「くあぁ……少しやり過ぎたか……。もしかして本当に死んじゃったかな?」
 蓮斗は肩を大きく上下させて息をしながら、美樹の首元に手を当てる。若干弱くなっているが、美樹の心臓が脈打つ感触が伝わって来た。明日の朝程度までであれば放置しても大丈夫だと判断し、プールサイドに上がる。
「帰ったらライダースにオイル塗らないとな。じゃあ美樹ちゃん、また近いうちにね」
 蓮斗はひらひらと手を振ってプールから出て行った。当然その声は美樹に届かず、美樹の髪の毛から水面に向かって滴り落ちる小さな水音だけが広い空間に反響していた。
 翌日の早朝。練習に来た美樹の後輩、水橋久留美(みずはし くるみ)が変わり果てた美樹の姿を発見し、悲鳴がプールの壁を反響した。


「ファウスト?」
 女性の柔らかい声が部屋に響くと、暖炉の中で燃えている薪がパチリと爆ぜた。
 部屋の壁は清潔感のある漆喰が丁寧に塗られていた。ダークブラウンのフローリングに、磨き抜かれた紫檀の無垢材で出来たリビングテーブル。それを挟むようにスリーシーターのソファが向かい合わせて二脚置かれている。ここはアナスタシア聖書学院の生徒会長室だ。ソファに張られた光沢のあるモスグリーンのモケットファブリックが、暗色の床の色と調和して暖かみのある雰囲気を醸し出していた。趣味の良い喫茶店のような雰囲気の部屋だが、部屋の奥には執務机が置かれ、その上には二十七インチのマッキントッシュが鎮座している。
 なぜ生徒会長に、このような個室が用意されているのか。
 一般的な学校の生徒会長とは違い、自主性を重んじるアナスタシア聖書学院では、生徒会と生徒会長にそれなりの権限が付与されている。どちらかと言えば労働組合に近く、生徒会長には一般生徒から吸い上げた意見を元に学院の行事や運営に一定の発言権があり、生徒会として拒否を示せば一度差し戻して審議される。そして生徒会長には権限がある分、執務や生徒の意見を聞くことが多く、このような専用の部屋が用意されている。現在の部屋の主の如月シオンも、授業が終わってから夜八時頃までは生徒会長室にいることが多い。
 入り口側のソファにはアナスタシア聖書学院の制服を着た男性と、同じく制服を着た腰まである長い金髪の女性が真ん中を一人分空けて座っている。金髪の女性が生徒会長の如月シオンだ。上座のソファにも制服を着た桃色の髪の女性が一人座っている。シオンが緑色の瞳を輝かせながら 手のひらを胸の前でぱんと合わせた。
「ファウストと言えばあれですよね、ゲーテの書いた戯曲のファウスト。実家に原本がありましたので、子供の頃から何回か読んでいます。素晴らしい言葉もたくさん出てきますし……」
 ストーリーを思い出すように、アーモンド型の目が細くなる。シオンはファウストの中の一文を口に出したが、ドイツ語の原文のため、向かいに座る女性の頭には「?」マークが浮かんでいた。
「あの……もしかして如月会長ってファウストを原文で読んだんですか?」
 水橋久留美が右手を上げながらおずおずと声をかける。幼い印象の顔立ちで、身体も同年代のそれよりは一回りほど小さい。ショートカットに切り揃えた髪に、白いリボンカチューシャを留めている。
「ええ、ファウストは全て韻文なので、原文で読んだほうが本来の言葉の響きや意味を理解しやすいんですよ。あ、それと久留美ちゃん、私の事は改まらずに下の名前で読んで下さっていいですよ?」
「はぁ……。いえ、当然のように仰ってますけど、ただでさえ難解なファウストを原文ですらすら読める方が……。ちなみに、きさ……シオン会長って何カ国語喋れるんですか……?」
「ええと……母国語はロシア語ですけど、母が日本人なので、物心ついた頃から日本語は話していましたね。あとは子供の頃に習った英語、ドイツ語、フランス語と中国語は特に不自由していません。イタリア語は勉強を始めたばかりですので、まだ日常会話程度ですけど」
 シオンは人差し指を口に当てて思い出すように呟いた。久留美はしばらくぽかんと口を開けていたが、はっと我に帰りテーブルに身を乗り出しながら早口でまくしたてた。
「十分というか凄過ぎますよ! 確かにここ、アナスタシア聖書学院では入学条件に『母国語の高いレベルでの習熟と、その他に一つ以上の言語を不自由のないレベルで習得していること』とありますけど、ほとんど皆、日本語と英語だけで精一杯で、六カ国語もマスターしてる人なんて会長だけですよ!」
「そ、そうですか? 習っていたのが子供の頃だったので、勉強するというよりは自然と身に付いてしまって……」
 久留美が感心を通り越して呆れたようにため息をつくと、違う方向からも大きく溜息をつく音が聞こえた。シオンの横に座っている副生徒会長、鑑が眼鏡を直しながら口を開く。
「確かに母国語を完全に認識する前の幼少期に専門のトレーニングを施せば、あらゆる言語を抵抗無く素直に受け入れられるという研究結果はありますが、それでも一般的には二、三カ国語の習得が限界だそうです。それに、習得したとしても日常会話程度がほとんどで、会長のように専門用語に溢れた論文翻訳のアルバイトが出来るレベルまでには、とてもなりません」
「え……シオン会長ってそんなこまでしているんですか?」
 久留美がさらに呆れたような声を出した。
「会長のケースはおそらく、元々会長自身の能力が高い上に、かなりレベルの高い英才教育を受けたのでしょう。というか、いつ突っ込もうか迷っていましたけど、鷹宮さんを襲った容疑者の名前はファウストではなく蓮斗ですよ。会長も呑気に雑談している場合ではなく、水橋さんに鷹宮さんを発見したときの状況を聞いて、容疑者を見つけなければ次の事件がいつ起こるとも限りませんよ?」
「あ、ああ……そうでしたね。久留美ちゃんも今回は大変だったけれど、もう大丈夫かしら? 大好きな先輩があんな事になって、とてもショックだったと思うけれど……?」
「あ……ええ。なんかシオン会長を見てたら、なんだか元気が出てきちゃって……」
 そういうと久留美は右手でポリポリと頭を掻いて、「あの噂って本当だったんですね」と小声で呟いた。久留美のシオンに対するイメージは、いつも腰まである金髪を颯爽となびかせて廊下を早足で歩き、大きな行事の際には良く通る声で壇上から堂々と演説する姿だった。冷淡な雰囲気は無いが、あまりに完璧な仕事ぶりと人間離れしたその美貌は時に現実感を失わせ、久留美をはじめ生徒達は少なからず近寄りがたい印象をシオンに抱いていた。一部生徒の中には「如月会長は実際に話すと、呆れるほど『ゆるふわ』である」と噂する者もいるが、ほどんど都市伝説のように扱われていた。
 シオンの顔がふと真剣になる。
「それはよかったです……。では、申し訳ないですが、そろそろ本題に移ってもよろしいですか?」
 シオンの顔がさっきまでののんびりした顔から、凛としたものに変わる。アナスタシアの生徒にとっては、いつものシオンの雰囲気だった。一瞬で部屋の空気が、真冬の禅寺のように張りつめた。久留美はその雰囲気に押され、無意識に浮かせていた腰をぽすんと音を立ててソファに降ろした。
「久留美ちゃんが美樹さんをとても慕っていることは知っています。ショックな場面をもう一度思い出す事はとても辛いかもしれませんが、美樹さんを見つけた時のことをなるべく詳しく話してもらえませんか? こんな事をお願いするのは申し訳ないですけど、学院の安全のために協力して欲しいんです」
 シオンが久留美に訴えかける。その真摯な目線に久留美はこくりと頷くと、テーブルの下でぎゅっと組んだ自分の小さな手を見ながら話し始めた。
「えと……うまく話せるかわからないですけど……今朝は自主練のため、七時にS棟に入りました。更衣室で水着に着替えて、準備体操をしようとプールサイドに向かった時、梯子に縛られている美樹先輩を見つけて……美樹先輩の身体には……あの……」
 久留美が言い澱みながら鑑をちらりと見る。鑑は真剣にメモを取っていたためその視線には気付かなかったが、シオンがすぐに財布からカードを取り出して鑑に渡した。
「鑑君。悪いけど紅茶が切れているの。買ってきてくれる?」
「え? 今ですか?」
 シオンが頷くと、鑑が書きかけのメモをシオンに渡し、生徒会長室から出て行った。久留美はいささかほっとした様子で話し始めた。
「すみません。男の人の前だと、少し話し難くて……」
「大丈夫ですよ。話せる所までで、無理しなくて大丈夫ですから」
「はい……美樹先輩の顔や身体には……その……男の人の体液だと思うんですけど……ドロドロしたものがたくさん付いていました……。今まで実際に見たことがなかったので、確証はないんですけど……」
「体液? 久留美ちゃん、変な質問だけど、その時ドキドキしたり、頭がぼうっとしたりしなかった? もしかしたら、体液じゃない可能性もあるの」
「ドキドキ……? いえ、特になにも……。先輩の顔についたものはタオルで拭ったんですけど、変な匂いだなって思っただけで……。タオルは証拠として、警察の方に渡しました」
 シオンがわずかに眉を顰めた。犯人の体液はチャームではない。まさか本当に人間の犯行なのだろうか。
 ぽつりぽつりと話す久留美に、シオンは真剣に耳を傾けた。
 変わり果てた美樹の姿を発見した久留美は、あまりの事態に悲鳴を上げたものの、すぐ我に帰り美樹の元に駆け寄った。美樹は梯子に両手足を縛り付けられたまま失神していたが、呼吸や脈拍に問題はなかった。震える手で両手足のロープを解き、自分が持ってきたタオルを敷いてプールサイドに寝かせた。濡れた美しい黒髪が艶々と光りながら顔に貼り付いていた。唇は紫色に変色し、普段から色白の肌は透き通るような青白さになっていて、まるで美しい幽霊のように見えた。
「先輩を寝かせた後、夢中で警備員室まで走りました。救急車が来て……先輩が運ばれて……。運ばれる時に先輩目を開けたんです。そして、小さな声で『大丈夫だから、お前は心配するな』って笑ってくれて……。なんで……なんで先輩があんな酷い目に合わなければならないんですか!? 先輩が何をしたんですか!? こんな……酷い……」
 久留美の力一杯握りしめられた小さな手に涙がぽたぽたと落ちた。水泳部に入部した時から、久留美は美樹に色々と面倒を見てもらっていた。美樹を知る人間は、美樹の言動はぶっきらぼうで表情は厳しいが、その奥には他人への優しさと気遣いで溢れている事を知っていた。何故美樹のような素晴らしい人が惨い目に遭わなければならないのかと思うと、久留美の瞳にはやるせなさと悔しさで自然と涙があふれた。
 シオンが静かにソファから立ち上がると久留美の横に座り、久留美の頭を自分の胸に抱え込むように抱きしめた。ほんのりと甘く優しい香りがする。久留美はシオンに美樹と同じ優しさを感じ取り、いつの間にかシオンに抱きついて大声で泣いていた。シオンは細く長い指でそっと久留美の髪を撫で続けた。
 扉をノックし、鑑が紅茶葉の入った缶を持って会長室に入ってきた。二人の様子に驚いた顔をしたが、シオンが無言で人差し指を立てて唇に当てると、足音を立てないように奥の給湯室に入って、ティーポットと三つのカップを用意してヤカンを火にかけた。


「……今回は、我々は出番無しというところですかね」と、鑑がソファの背もたれに身体を預けながら口を開いた。「鷹宮さんが倒されたと聞いて人妖の犯行を疑いましたが、体液に水橋さんが反応しなかったのであれば、犯人は人妖ではなく人間の線が濃厚です。人間であった以上、この件の管轄は我々アンチレジストではなく警察ですよ。犯人の体液も採取されているのなら、前科があれば比較的早く逮捕されます」
「それが、どうもそう簡単にはいかないみたいです……」
 シオンがソファから立ち上がり、執務机のパソコンを操作する。不鮮明だが、争う美樹と男の声が流れてきた。
「なんですかこれは?」と、鑑が立ち上がってシオンに聞いた。
「学院の防犯カメラには、実は音声録音機能も付いています。プライバシー保護のために一般には公開されておらず、何か問題が発生した場合に限り、専用のIDとパスワードで聞くことができるようになっています。私はたまたまIDとパスワードを見つけたのですが……。すみません、襲われている美樹さんの声も入っているので、鑑君には音声データがあることは黙っていました」
 たまたま見つけたと言いながら、意図的に学院のシステムにハッキングしたのだろう。この人に出来ないことは無いのだろうか、と鑑は思った。味方でいるうちはとても心強いが、最も敵に回したくないタイプの典型だ。
 美樹と蓮斗と思われる会話が聞こえてきた。蓮斗は自分は人間で、人妖とつながりがあるとはっきり言った。人妖に接触している人間がいる。最も恐れていた事態が現実になってしまった。
 美樹のために何か手伝わせてくれとすがりつく久留美をなだめ、これ以上は警察の仕事だから深追いしないようにと釘を刺したのは正解だった。

 授業が終わるとシオンはすぐさまタクシーに乗り、美樹が入院している総合病院に向かった。この病院の最上階には財界人や政治家など、事情を抱える人達専用のVIPエリアが用意されている。アンチレジストの戦闘員も、負傷した場合はこの病院に入院することが通例になっている。
 タクシーが病院の入口に横付けされると、シオンは礼を言いながら支払いを済ませて後部座席から降り、軽くブレザーの襟を直して髪を手櫛で梳いた。シオンは戦闘時には長い髪が邪魔にならないようにツインテールに纏めているが、普段は櫛で梳いただけのナチュラルストレートにしている。プラチナブロンドの髪が冬の日差しに反射し、柔らかく光っていた。
 シオンは振り返って運転手に軽く手を振り、病院の総合受付に向かった。運転手は後部座席のドアを閉めるのも忘れ、ぽかんと口を開けたままシオンの後ろ姿を見送り、天使みたいな人だなと溜息混じりに呟いた。派手な容姿のシオンは歩いているだけで目立つ。そのため、シオンの後に入ってきたタクシーから久留美が降り、隠れるようにシオンの後を追ってロビーに入った姿は、誰の目にも留らなかった。

「すみません。鷹宮美樹さんのお見舞いに来たのですが」
「鷹宮様ですね。かしこまりました。許可制となっておりますので、こちらにサインと身分証をお願いします」
 受付の女性が端末で照合を始めた。照合している間も、女性は笑顔を全く崩さなかった。もしかしたら寝る時もこの笑顔のままなのではないだろうかと、シオンは心の片隅で思った。
「如月シオン様。ただいま鷹宮様から入室許可を頂きました。鷹宮様のお部屋までご案内致しますので……」
「大丈夫です。私も以前同じエリアに入院していて、大体の場所は分かりますので、部屋番号だけ教えて頂けますか?」
 シオンは受付に礼を言うと、最上階までエレベーターで登り、教えられた部屋番号をノックした。中から「どうぞ」と返事が返って来た。美樹の声だ。扉を開けると、中はホテルの一室のような内装になっていた。応接セットの奥に備え付けられた落下防止の柵がついたベッドだけが、ここが病室である事を主張していた。
「大丈夫ですか美樹さん。すみません、来るのが遅くなってしまって。今回は大変でしたね……」
「いや、こちらこそ悪かったな。迷惑をかけてすまない……くっ……」
 ライトブルーのパジャマを着た美樹は読んでいた本を閉じて起き上がろうとしたが、腹部を押さえて小さなうめき声を上げた。シオンが慌てて駆け寄り、寝ているように促す。
「大丈夫だ……医者によると、内臓へのダメージはほとんど残っていないらしい。それより、今回の件について話がしたい。お前の事だから、もう犯人の写真くらいは手に入れているんだろう?」
「ええ、監視カメラには犯人の顔がある程度鮮明に映っていました。先走って申し訳ありませんが、このデータを元に、鑑君にはアンチレジストの本部で照合をお願いしています」
 シオンがプリントアウトした数枚の写真を美樹に手渡すと、それを見た美樹の顔がわずかに強張った。
「こいつで間違いない……鑑にはそのまま調査を続けてもらってくれ。情けない話だが、隙をつかれてこのザマだ。なによりこいつは……」
「人妖ではなく人間……ですよね」
 美樹が言い終わる前に、シオンが言葉を継いだ。美樹の深く黒い瞳が、シオンの緑色の瞳を見上げる。
 シオンは胸の下で自分の身体を抱くように腕を組むと、視線を足下に落とした。
「どうしてわかった?」と、美樹が言った。
「体液が、チャームではありませんでした。犯人の体液に接近した久留美ちゃんに、精神的な変化はありません。我々ならともかく、久留美ちゃんのような一般人にとって、人妖の分泌するチャームは効果覿面なはずです。そして厄介なことに、この犯人は人間でありながら、人妖との繋がりを仄かしている。これは内々の話ですが、学院の防犯カメラには録音機能も備わっています。すみませんが、犯人と美樹さんの会話を聞かせていただきました。蓮斗と名乗っているこの犯人は、何らかのメリットがあって人妖と接触しているか、少なくとも人妖の存在を知っていることになります」
「……お前の言う通りだ。確かにこいつは、自分を人間だと名乗った。行動目的は分からないが、どうやら我々アンチレジストの出番らしい。ところで、久留美は大丈夫だったか? ショックを受けていないといいんだが……」
 シオンが大丈夫だと頷くと、美樹はようやくほっとしたようなため息をついた。

「ジンヨウ? アンチレジスト? 先輩、何を話しているの……?」
 個室のドアに耳を付けて中の話を聞いていた久留美は目を丸くした。美樹やシオンの口から発せられた聞き慣れない単語は所々意味が分からなかったが、何か大きなモノに美樹やシオンが対峙している事は理解出来た。
「何をしてるんだい? そんな所で」
「ひゃ! ひゃいっ!? す、すみません! わわわ私、先輩のお見舞いに……」
 急に背後から声をかけられ、久留美が床から三十センチほど飛び上がった。油が切れた蝶番の様に、ギギギという擬音が聞こえそうなほどぎこちなく後ろを振り返ると、そこには長身で細身の医師が立っていた。白衣にマスクをしており表情は分からないが、髪の毛が全て金色に染められていたのが異様に見えた。
「お見舞い? 怪しいなぁ……知り合いだったら盗み聞きなんてしないんじゃないのか?」 
 医師が壁に片手をつき、久留美に覆い被さるように質問する。
 有無を言わさぬ雰囲気に久留美が気圧されそうになるが、小さな身体が震えそうになるのを必死に堪える。
「あ、あの、違うんです。今先輩達が大事な話をしてるから、少し外で待ってるように言われて……」
「ふぅん、大事な話か。もしかして、美樹ちゃんの容態のことかな? 結構ヤバい状態なんだけど、本人から聞いたかい?」
「えっ……?」
「知らないのか? まぁ美樹ちゃんは人に心配をかけたがらないからなぁ。あんな事になるなんて可哀想に……」
「な、何があったんですか!? 先輩は大丈夫なんですか!? お願いします。先輩を助けて下さい!」
 久留美が必死な形相で医師の白衣を掴む。医師はマスクの下で満面の笑みを浮かべていたが、久留美は全く気付かなかった。
「まぁ廊下では何だから、向こうで話そうか?」
 ただならぬ雰囲気を感じ、久留美が無言で頷く。
 美樹の病室に背を向け、久留美は強張った顔で医師の後に付いて歩いた。途中、自分と同い年くらいのセーラー服を来た少女がエレベーターを降りて、早足で歩いて来た。その少女はすれ違う際に自分と医師に対し軽く頭を下げた。久留美は反射的に頭を下げたが、医師は気に留めた様子も無く正面を見つめて歩き続けた。その少女が美樹やシオンと同じ組織に所属する上級戦闘員、神崎綾だとは、久留美は知る由もなかった。
「ごめんなさい遅れちゃって! 美樹さん、大丈夫ですか?」と、ドアを開けるなり綾が言った。
「ああ、綾か。遠くからすまないな。私はこの通り平気だ」
「綾ちゃん久しぶりー。元気だった?」と、シオンが綾に手を振る。
「あ、シオンさんもいる。今日は鑑さんは一緒じゃないんですか?」
 綾が悪戯っぽくシオンをからかう。軽い雑談の後、美樹が綾に今回の経緯を説明した。

「あの、先輩の容態って……?」
 久留美が連れて来られたのは、予備のベッドやシーツが置かれているリネン室だった。ベッド数の多い総合病院らしく、リネン室はかなりの広さだ。業者に受け渡す前の使用済みのシーツがうずたかく積み上げられ、その横には糊の利いた真っ白なシーツが寸分の狂いも無く畳まれた状態で置かれている。
「化学繊維の混紡か……。それに糊も効かせすぎだ。俺は病気になっても、こんなものの上に寝たくはないな」
 金髪の医師が真新しいシーツを触りながら言った。美樹の様子が気になる久留美は思わず声を荒げた。
「先生、先輩は大丈夫なんですか? ここに来たら教えてくれるって言ったじゃないですか!? 先輩は助かるんですか?」
 ゆっくりと医師が振り返ると、久留美の身体を爪先から頭まで舐め回すように見つめた。
 黒いローファーから健康的な脚が白いニーソックスに包まれて伸び、僅かな素肌が覗いた後、黒と緑を基調としたブラックウォッチのプリーツスカートに隠れた。凹凸の薄い身体を深紅のブレザーが包み、幼い顔立ちが不安げな表情を浮かべている。
 医師の舐め回すような視線に、久留美は背中に薄ら寒い物を感じて、思わず後ずさった。
「へ、変な事をしたら、人を呼びますよ……?」
「今教えるから。まず美樹ちゃんがあんな風になった原因はね……」
 ずぐん……と重い振動が久留美の体内に響いた。
「えぅ……?」と、久留美の半開きになった口から無意識に息が漏れる。
 医師が久留美に近づくと同時に、右の拳を久留美の腹部に埋めた。ブレザーの金ボタンがメキリと音を立ててひしゃげ、久留美の華奢な腹部にめり込んでいた。
「俺がこうやって美樹ちゃんをイジメちゃったからなんだよね」
「な……ぐぷっ!? うぐあぁぁぁぁぁ!!」
 同年代より一回り小さな久留美の身体は、蓮斗の拳を支点に軽々と持ち上げられ、両足が完全に地面から離れた。人に腹を殴られるという初めての経験に、久留美の脳は一瞬でパニックに陥った。
「あ……あぐああっ! げぼっ!? う……うあぁ……」
「へぇ、凄くいい反応するね。水橋久留美ちゃん?」
「な……何で……私の名前……? んむぅッ!?」
 蓮斗は強引に久留美の唇を奪った。朦朧とする意識の中、初めてを奪われたという思いが頭の片隅に浮かんだ。
 蓮斗は久留美の舌を吸いながら、再び拳を久留美の腹に埋めた。重い音を立てて、骨張った拳が腹と鳩尾に突き刺さる。
「んぶぉっ?! ぐぷッ!? ごぶッ!?」
 塞がれていた口が解放されると、久留美は限界まで舌を伸ばして喘ぎ、唾液が糸を引いて地面に落ちた。
「やべぇ……予想以上だな……。完全にスイッチ入ったわ」
「あ……いや……いやぁ……」
 蓮斗は久留美の身体を、重量挙げをする様に軽々と抱え上げた。手を離すと、重力に従い、久留美の身体がうつ伏せの姿勢のまま落下する。そのスピードを利用し、久留美の柔らかい腹を膝で突き上げた。
 落下のスピードと自分の体重が合わさった状態で、久留美の腹部は酷く潰れた。内臓がひしゃげ、パニックになった久留美の脳がデタラメな危険信号を全身に送る。
「えごぉぉっ!?」
 普段の久留美からは想像がつかない濁った悲鳴が響いた。限界まで見開いた目は黒目が半分隠れ、口からは大量の唾液が強制的に吐き出された。溺れる人間が空気を求めるように何度か口を開閉した後、電池が切れたように体全体が弛緩した。蓮斗は興奮した息を整えながら新品のシーツを広げると、気絶している小柄な久留美の身体を包みはじめた。

「人妖とつながりのある人間……?」
 綾が美樹の話に目を丸くする。人妖とつながりのある人間がいることに加え、加害者の口からアンチレジストの名前が発せられたことも気がかりだ。蓮斗と人妖はどのようなつながりがあるのか、相互に何らかの利益が無ければ、人妖は一方的に人間を餌にするだけだ。事態は急を要するが、現時点でわかっていることは少ない。想像で話をしていても解決することはなく、なにより美樹には休息が必要だ。シオンと綾は警戒を強化しつつ情報を集め、美樹の退院を待ってアンチレジスト本部で具体的な作戦を決めようということになった。
「そいれにしても、久留美には心配をかけたな。すまないが、久留美に会ったら私は問題なく元気だったと伝えてくれ」と、美樹がシオンを見て言った。「シオンのフォローのお陰で、久留美が大丈夫そうで安心した。あいつは身体は小さいが正義感と芯が強いからな……。こんな事にあいつを巻き込みたくはない」
「そうですね。久留美ちゃんに限らず、一般生徒に心配をかける前に、早急に解決できればいいのですが……」
「……あの、久留美ちゃんて、あの先に帰った背の小ちゃい子ですか? 私と同い年くらいで、ピンク色の髪に白いカチューシャを付けてる……。さっきお医者さんの後について歩いて行きましたけど……」
 綾が人差し指と親指で、自分の頭にカチューシャの形を描いた。
 美樹が怪訝そうな顔でシオンを見ると、シオンが小さく首を振った。二人の表情が緊張したものに変わって行く。
「嘘……久留美ちゃん……来てたの……?」
「医者の後について行っただと……? 綾、この階は一般病棟とは違って、医師や看護師はこちらから呼ばなければ絶対に来ない。この階に重病人は一人も居ないんだ。うろついてる医者なんていない。どんな奴だった?」
「えと……顔はマスクで隠れていて分からなかったんですけど、髪の毛を金髪にした背の高い男の人で……」
 三人の視線がベッドの上に置かれた写真に集中する。
 一瞬の間。綾は鞄からオープンフィンガーグローブを取り出して両手に嵌め、まだ近くに居るかもしれない蓮斗と久留美を探して病室を飛び出した。シオンは鑑の携帯に電話をかけ、美樹はナースコールを押した。数秒の間を置いて、落ち着いた女性の声が天井のスピーカーから響く。
「鷹宮様、どうなされましたか?」
「退院する。今すぐにだ」
「はい?」
「すぐにタクシーを呼んでくれ」

後編の推敲が終わりました。
最終的な推敲を行い、今月中にDL販売の登録をします。


シオン尻餅ダウン修正フルのコピー



 冷子が床に手をついたまま激しく咳き込んだ。
「大丈夫ですか?」と、蓮斗が冷子を振り返って言った。声色にはやや馬鹿にしたような響きがあった。
「……うるさいっ。邪魔するんじゃないわよ」
「負けそうだったところを助けたのに随分だなぁ……。冷子さんがあそこまで追い詰められるなんて意外ですよ。多分僕が来なかったら一分も経たずに──」
 薄笑いを浮かべたまま話し続ける蓮斗の眼前に、冷子の軟体化した腕が鞭のような音を立てて伸びた。濡らしたタオルを弾いたような湿った破裂音に、蓮斗の体が一瞬固まる。蓮斗は、ひひ、と笑いながら両手を上げて後ろに下がった。
 シオンは今まで写真でしか見たことがなかった蓮斗を見定めようと努めた。写真で見た印象よりもさらに細く見える。肥満体型の頃の面影は皆無だ。顔は所々引きつったような不自然さがあった。おそらく数回にわたる整形手術の影響だろう。身振り手振りでよく話し、表情は落ち着かない。そして派手な髪型やこだわりの強すぎる服装は、根底にある強いコンプレックスと自身の無さ、自分の中の知られたくないものを隠そうとする人によく見られる傾向だ。中身が乏しい商品ほど、外箱は派手な場合が多い。過剰に目が潤んでいて呂律もわずかに怪しい。薬物依存症によく見られる症状だ。
 蓮斗が負った心の傷は、想像以上に深いものなのだろうとシオンは思った。
 自分はいじめられた経験は無いが、いじめとは存在の否定だとシオンは考えている。そして自分を見てほしいという欲求は、人間が本質的に持っている欲求だ。いじめはその欲求を否定させる。見ないでほしい、放っておいてほしいという本能とは矛盾する欲求が生まれ、結果的に心が歪み、傷ついてしまう。蓮斗は、ギリギリでここに立っているのかもしれない。繰り返す整形手術、極度の痩身、ブランドものの服、違法な薬物というプロテクターで自分を守りながら。
「悪かったわね、横槍が入って」と、冷子がシオンを見ずに言った。「落とし前は、これで許して頂戴」
 冷子はおもむろに左腕を掴むと、唸り声をあげながら右手に力を込めた。めりめりという音がして、指が二の腕の筋肉に食い込む。
「なっ……なにを……や、やめてください!」
 シオンが頭を振って駆け出そうとするが、その前に冷子が一層低い声で唸る。ブチブチという何本もの繊維がちぎれる音と共に、左腕が冷子の肩関節から脱臼する音が響いた。シオンは耳を塞いでしゃがみ込む。冷子の左腕が肩から完全に抜け、おびただしい量の血液がロビーの床にぶちまけられる。蓮斗がひゅうと口笛を吹いた。
「な、なんて……なんてことを……」
 あまりの光景にシオンは目に涙を浮かべ、両手を口に当てながら震えている。
「……そんなに大袈裟なもんじゃないわよ。腕一本再生するくらい訳ないわ」
 呼吸を乱しながら冷子が言った。左肩の傷口はナメクジの様な粘液質の表皮に覆われ、既に止血されている。
「随分と怯えちゃって。調べた通りだなぁ」と、蓮斗がシオンを見ながら言った。「人が傷つくことが極端に嫌いって本当なんだ。シオンちゃんの闘っている映像を何本か見たけどさ、おかしいと思ったんだよね。基本的に大振りで一撃必殺狙い。どう考えても理詰めや搦め手を使ってじわじわと追い詰める頭脳戦の方が得意なはずなのに、実際の戦闘スタイルは脳筋かよっていうほど大雑把だから、なんか変だなぁと思ったんだよ。なるほど、なるべく苦しめないように最短で勝負決めちゃおうって魂胆ね。僕とは正反対だなぁ。そうなったのもやっぱりアレかな? 君のことは色々調べさせてもらったけどさ、昔──」
 蓮斗が言い終わる前に、玄関の方で轟音が響いた。蝶番が壊れ、扉の一枚板がゆっくりとロビーの床に向かって倒れる。開けっ放しになった扉から、風に舞った雪が吹き込んできた。
 雪の光を背負い、巫女服の袖を揺らしながら鷹宮美樹がロビーに入ってきた。
 三人の視線が一斉に美樹に集中する。
「扉を壊してすまないな。驚かすつもりは無かったんだが──」と言いながら、美樹が蓮斗を睨みつけた。「貴様の声が聞こえたので、少しイラついてしまった」
「美樹さん……」と床に座り込んだままシオンが言った。美樹がシオンの側まで来て手を差し伸べ、シオンはその手をとって立ち上がった。シオンは頬を手で擦りながら「大丈夫です、大丈夫……」と視線を床に落としながら言った。美樹が勇気付けるようにシオンの肩を叩く。冷子が蓮斗を睨みつけた。
「ちょっと……なんでこいつが生きてるのよ? 始末したからこっちに来たんじゃないの?」
「いやぁ、その手違いというか……実は寸でのところで逃げられまして、あの双子もいつの間にか消えていて誰も捕まえることができず──」
 蓮斗が言い終わる前に、冷子が変形させない状態の右腕を蓮斗の顔面に向けて払った。首が折れるほどの勢いで蓮斗の頭が揺れるが、蓮斗は悲鳴をあげることもなくバランスを崩した程度で持ち直す。両方の鼻からは大量の血が垂れていた。
「あら?」と冷子が言った。蓮斗の顔を覗き込む。
 蓮斗の瞳孔は冷子のそれと同じ様に縦に裂けていた。
 瞳孔の内部が微かに赤みがかって見える。冷子はジャケットの内ポケットから鏡を取り出し、蓮斗に手渡した。蓮斗は自分の目を覗き込むと、何度も小さく頷きながら「やった……やったぞ」と言った。
「最終段階ってとこかしら……違和感は無い?」
「違和感どころかすこぶる順調です。痛みや疲労は日が経つにつれてほとんど感じなくなってきていますし、射精できる回数も増えました。久留美ちゃんと遊んでいる時は、お腹を殴りながら一晩で八回出したこともあります。睡眠欲もほとんど無くなりました」
 興奮気味に早口で捲したてる蓮斗を、冷子は手で制した。
「拒絶反応も無いみたいだし、ここまでくれば成功よ。あと数時間もすれば異性との粘膜接触で養分を吸収出来るし、老廃物もほとんど生成されなくなる。分泌する体液は異性を魅了する効果のある、いわゆるチャームに変化する。食事も排泄も必要無いし、疲労物質やわずかに生成される老廃物は体液と同時に体外へ排出されるから睡眠も必要無い。ようこそ、こちら側へ」
「ありがとうございます……ようやく人妖になれるんですね……。食事の必要がなくなるのは少し残念ですが」
「おい、なんの話だ……。人妖になれるだと? どういうことだ?」
 美樹が眉間に皺を寄せながら、蓮斗と冷子を交互に見た。シオンは地下で見た資料を思い出し、背筋が寒くなった。
「そのまんまの意味さ。俺はやっと人妖に進化できたんだよ。ずっと夢見ていたんだ……人間というクソッタレな存在から解放される日をな。なんでも順位付けして、余計なことばかり気にしながら、人の顔色をうかがってせこせこと生きるしかない卑屈なクズどもから──」と言いながら、蓮斗が興奮した様子でポケットからシガーケースのようなものを取り出した。開いて注射器を取り出し、鎖骨のあたりに針を打ち込む。雑に中の薬液を注入すると、ケースごと注射器を床に叩きつけた。「こいつは適正のある人間を人妖に進化させる薬だ。今は定期的に注射するしかないが、冷子さんのおかげで近いうちに、飛沫を吸い込んだだけで効果が発揮できるように改良される。俺はこいつを大量生産して、まずは日本中の人間を人妖にする。適正の無い奴はどうなるか知らねぇけどな」
 蓮斗の瞳は紅い光を放ちはじめた。冷子がその背後で興味無さげに頭を掻いている。
「日本は理想郷になるのさ。だってそうだろう? 飢えが無くなり、ただセックスしていれば生きられる存在に全員が進化するんだ。いまの世の中を見てみろ。容姿や収入、生まれや育ちで一生が決まっちまう世界だ。運悪くクソッタレな親の元に産まれちまったら、惨めな劣等感を抱えながら一生をジメジメとした日陰で泥水をすすりながら耐えなきゃならない。俺はそんな世界をぶち壊してやりたいのさ。考えてもみろ。セックスしてりゃあ飲み食いが必要なくなるんだぞ? 価値観が全部ひっくり返る。みんな同じだ。顔が良いとか悪いとか、金持ちとか貧乏とかで差別されなくなる世界だ。最高じゃないか」
「そ、そんな……」
「そんなことさせるか!」
 言葉に詰まったシオンの横で美樹が叫んだ。蓮斗を矢で射抜くように睨みつけた。
「日本中の人間を人妖にするだと……? 貴様、人間を何だと思っている?」
「自分勝手な最低の屑さ。街を歩いてると、色んな奴がいるよな? 俺はそいつら全員が何を考えてるのか想像するだけで、頭がおかしくなりそうだよ。でもさ、結局は全員何を食うか、誰とヤルかしか考えてないんだよ。それが満たされないから、自分より下の奴を作って、そいつを貶めて自尊心を保とうとするのさ。だったら、俺がその不安を取り除いていやる。お前らの仲間だったあの双子の生い立ちを聞いたことはあるか? 可哀想に、変態趣味の馬鹿親のせいでサイコになっちまった……。あいつらがいまだにソーセージと生卵を食べられない理由を考えてみろよ」
「屑はお前だろ?」と、美樹が冷たく蓮斗に言い放った。「人妖になれば人間全員が平等になれるだと? ふざけるな。人間という存在自体をかなぐり捨てて、何が平等だ。そんなもの、化け物になれと言っているようなものだ」
「俺から言わせれば人間の方がよっぽど化け物だ。少しでも他人と違うってだけで平気で傷付ける。俺はお前とは違うってだけで、平気で嫌悪の対象にして攻撃する」
「それは違います。自分らしく精一杯生きていれば──」
「お前らみたいに! お前らみたいに……最初から生まれや顔や学力に恵まれた奴らが、綺麗ごと言ってんじゃねぇぞ!」
 シオンの言葉を蓮斗が遮る。蓮斗は美樹とシオンを交互に睨みながら声を荒げた。
「余裕ぶっこいて上からほざいてんじゃねぇぞ! あ? 自分らしく精一杯生きるだと? なんだお前? お前、世界的製薬会社の創業家の令嬢だろうが? こっちは知ってんだぞ! 生まれや顔や脳味噌に恵まれて、周りからちやほやされてるから、くだらねぇ奉仕精神とか博愛主義とかでいられるんだろうが? あ? 何がメイドだよ。わざわざロシアから来て愛想振りまきやがって。お前が家柄に恵まれず、金に困っていて、顔や頭が今みたいに良くなくても、今と同じことをしていたのかよ!?」
「ただの僻みにしか聞こえんな」と、美樹が静かに言った。「確かにシオンの出生は、世間的に見れば恵まれたものだったのかもしれない。だが、知った風な口で、自分だけが不幸だと喚くな。私もシオンも、道楽や人を見下すためにこんなことをしていると思うか? そんなくだらない自己満足で命を張れるものか。いいか、命を張るってことはな、それなりの理由と覚悟が必要なんだ。お前は生まれつき生まれつきというが、黙って寝ているだけで頭や身体が鍛えられるか? ろくな努力もせずに、薬物や人妖の力に頼っているお前には、何も言う権利は無いぞ」
 水を打ったような沈黙が流れる。
 雪は相変わらず壊れたドアから吹き込み、シャンデリアの灯りは風に揺らめきながら黒檀の床を照らした。
 誰も何も発しない。
 凍りついた空気は永久凍土の様に重苦しく、ロビーにその身を横たえていた。
「……もういいわ」
 しばらくして、蓮斗の背後から声が響いた。凍りついた空気がようやく溶け出した。
 冷子がつまらなそうな顔をして全員を一瞥した。
「蓮斗……あなた、もういいわ……」
 冷子が冷たく言い放ちながら指を鳴らすと、蓮斗の身体が震えるほど大きく「どくん」と脈打った。次の瞬間、腹の中で爆弾が破裂したような勢いで、蓮斗の腹が物凄い勢いで膨張した。ライダースのジッパーが音を立てて壊れ、中に着ていた薄手の赤いカットソーが限界まで伸びる。
「……え?」
 蓮斗は自分の膨張する腹を呆然と見下ろす。ベルトが音を立てて千切れ、カーゴパンツのボタンが弾け飛んだ。身体は脈打つ度に膨張する箇所が広がり、膨張は胴体から手足、指先へと面積を広げた。
「ああああああああああああああああ!」
 カブトムシの幼虫の様に変形した自分の指を見ながら、蓮斗は喉が裂けるほど絶叫した。そのまま頭を抱えてうずくまる。
 シオンが青ざめた顔で手を口元に当て、首を横に振りながら無意識に後ずさった。
「な……なに……なんですかこれは……?」
「わからん……あの女が何かしたらしいが……」
 美樹も震える声を隠せずに、ただ呆然と蓮斗の変形を見守った。
「いやだぁぁ……戻っちまう……もう太りたくない……太りたくない……また皆から……虐められ……」
 膨張は既に全身に広がっていた。蓮斗の顔は二倍ほどの大きさに膨らみ、声は風船を押し当てて喋っているように不明瞭になっていた。綺麗に染められた金髪は頭皮が膨張したせいで密度が下がり、所々地肌が見えている。
「人妖の適正を無くすことくらい簡単に出来るのよ。なんで私があなたのくだらない理想のために力を貸さなきゃならないの? 自分は特別な存在だとでも勘違いしていたのかしら?」
 冷子の声に蓮斗は顔を上げる。元の面影が皆無なほど変形していた。目は恐ろしい量の脂肪で塞がり、口や鼻も膨らんだ頬に押しやられ、数カ所小さな穴が開いている肉団子のように見えた。
「ぼおぉ……」
 蓮斗は何か言葉を発したらしいが、口腔が脂肪で塞がれて呻き声にしかならなかった。
 冷子は気にせずに薄笑いを浮かべている。
 蓮斗の狭まった視界の隅に、緋色の布が映り込んだ。蓮斗は顔の角度を変えて見上げようと試みるが、まともに動くことが出来ない。
「こいつを元に戻せ」
 美樹の声だ。
 蓮斗の歪んだ視界のピントが、一瞬だけ合った。
 自分に背を向けて、冷子に立ち塞っている美樹の姿が目に入った。緋色のスカートや襦袢に走る緋色のラインが、やけに鮮やかに見えた。
「あなたなら出来るはずです」
 蓮斗の視界に別の影が映る。
 白いガーターベルトの付いたストッキングに、フリルの付いた黒いスカート。二つに纏めた長い金髪。
「人間をここまで作り替えることが出来るのなら、逆に戻すことも出来るはずです。お願いします」
 シオンの声にはすがるような雰囲気があった。冷子がふんと短く息を吐く。
 蓮斗の思考はまだはっきりとしていたが、身体は四つん這いの体勢のまま動かすことが出来ない。その蓮斗をまるで庇う様に二人が背を向けて立っている。
 美樹の長い綺麗な黒髪が揺れて綺麗だった。
 印象に残っている、綺麗な長い黒髪。
 そして強気で凛とした性格。
 小学校の頃、いじめらていた自分を唯一助けてくれた女の子も、長い黒髪だった。
 まさか……な。
 そんな都合のいい話がある訳が無い。
 でも、もしそうだとしたら……。
 蓮斗の身体が脈打ち、瞼が更に膨張する。蓮斗の視界は完全に塞がり、何も見えなくなった。
 耳も塞がれているのか、彼女達の会話の声も、まるで轟轟と吹き荒ぶ激しい風の音のように不明確になった。
 そして、思考や意識までもが徐々に混濁していった。


 ──寒い──寒い──。
 俺は一体どうなっちまったんだ……?
 人妖に進化したら、全てが上手くいくはずじゃなかったのか?
 このクソッタレな人生に復讐ができるはずじゃなかったのか?
 冷子が裏切った……。
 人妖に取り入ったのが間違いだったのか……。
 いや、それしか方法が無かったじゃないか。
 突然この施設を放り出されてから、身寄りのない俺はヤクザの下働きになった。
 クソみたいな仕事をして小金をもらうだけのヤク中だった俺は、人妖に取り入らなければ野垂れ死ぬだけだった。
 人妖……ジンヨウ……。
 ガキの頃、施設の大人達が話していた聞きなれない言葉だ。意味を知ったのはずっと先のことだ。
 大人達は、俺達を人妖にするための実験をしていると言っていた。もちろん当時は意味がわからなかったが……。
 ヤクザの下で薬の売人をしている時、偶然客の女から人妖の噂を聞いた。
 もう薬は必要なくなった。それよりも良いものが見つかったと女は言った。
 なんのことか聞くと、ある男とのセックスにハマっていると、女は言った。
 どこぞのホストにでも入れ込んでいるのかと思ったら、その男は人間ではなく、人妖だと女は言った。
 俺は久しぶりに聞いた人妖という単語に心底驚いた。
 女は興奮した様子で、早口で捲し立てた。
 ハマってくると、キスだけでトぶ……。唾液や精液といった分泌液に妙な効果があるらしい。
 だから口やナカで出されでもしたら、脳が震えているのがわかるほど快楽の電撃が走る。
 しかも見た目は人間と変わらないが、超イケメンで、いつも最低五回は失神するまでイかされる。
 もう薬なんてどうでもいい。思い出しただけで濡れてきた。早く人妖に会いたい。もう薬はいらないから連絡しないでほしい。
 女が去った後、俺は放心していた。
 俺は生きた麻薬にされるためのモルモットだった訳だ。
 だったら、利用してやると思った。
 俺は人妖のことを調べ、苦労して冷子と接触して、殺されるのを覚悟で取り入ったのに……。
 こんなはずじゃなかった……。
 寒い……。
 くそ……寒いな……。
 何も見えないし、何も聞こえない。
 身体が上を向いているのか、下を向いているのかすらもわからない。
 酷い寒さだ……。
 あの時よりも寒い。
 俺がデブだった頃。
 集団で虐められ、ボロボロになって、泣きながら家に帰った。
 親は庇ってくれるのかと思ったら、「やり返すまで帰ってくるな」と、俺を家から締め出した。
 雨の降る中、真っ暗な公園の遊具の中で丸まり、寒さと絶望感と怒りに震えながら、独りで泣いた。
 あの時は世界の全てから裏切られたように感じた。
 寒い。
 寒い。
 寒い。
 やり返すまで帰ってくるなだと……?
 お前の言う通りやり返してやったぞ!
 言われた通り、俺はそいつらの腹をそいつの親の目の前で掻っ捌いて、中身を掻き回しながらマス掻いてやった!
 今まで俺が受けた苦痛をまとめて一括返済してやったのさ!
 テメェがやれって言ったくせに、たかが腹捌いて臭ぇ内臓ミンチにしてぶっ殺してやった程度でぐちゃぐちゃ喚きやがって!
 俺は殺される以上の仕打ちを受けてるんだよ!
 どうすりゃいいんだよ!?
 勝手なことばかり言いやがって!
 テメェがアイツらを殺してこいって言ったから殺したんだろうが!
 クソが!
 死ね!
 まだ三人しか「やり返して」ねぇんだよ! ふざけやがって! 俺はまだまだ殺さなきゃならねぇんだよ!
 死ね! 全員死ね! 苦しんでもがいて死ね!
 クラスの奴ら全員と担任を殺す──いや、唯一庇ってくれたあの女の子だけは見逃すつもりだったが……。
 その前に取っ捕まって、少年院ではなくこの施設に入れられた。
 思えば施設に入る前も出た後も最悪だった……。
 施設では訳の分からない薬打たれたり、検査や実験をされたりして、ゲロとクソを垂れ流しながら一晩中のたうち回ったことも何回もある。
 ……畜生。
 俺はいつも、誰かの食い物だった……。
 親からも、学校の奴らからも、教師からも、施設の大人等からも、人妖からも……俺は食われてばかりだ。
 やっと俺が食おうとすると、必ず誰かが邪魔をしてきやがる……。
 俺より少し後に施設に入ってきた双子の姉妹と、なんとなく話すようになった。
 あいつらだけは、俺を食おうとはしなかった。たぶんあいつらも、散々誰かに食われてきたんだろう。
 何年か経って、突然施設の中が慌ただしくなって、大人達がバタバタと荷物や資料をまとめて出て行きやがった。
 スポンサーだか経営者だか、とにかく施設の運営に関わる海外の偉い奴が急死して、権利者の間で揉めはじめたとか言っていたが……。
 パニックを起こした大人達の一部が、子供達を処分し始めた。
 連れて逃げる余裕は無いし、仮に保護された子供が施設のことを喋れば、立場が危うくなる奴なんて何人もいる。
 それまでも見せしめみたいに、適性の無い奴や問題を起こした子供を外の絞首台で処刑することはあったが、今回はニワトリをシメるみたいに片っ端から。
 止めようとした大人が銃を打って、子供を殺していた大人の何人かが倒れた。
 俺を含め、ガキの大半はどさくさに紛れて逃げ出すことに成功した。
 真冬の山の中を、手術着みたいな薄い服一枚と裸足で必死に逃げた。
 別に生き延びたくはなかったが、もうこれ以上誰かの食い物にされることにウンザリしていたんだ。
 あの時も、こんな風に寒かった……。
 寒い。
 寒い……。
 誰か、俺の部屋の暖炉に火を入れてくれよ……。
 薪は暖炉の横に置いてあるから……。
 誰か火を……。
 誰か……。
 ハイブランドの服も、豪華なメシも、肝心な時に役に立たないじゃないか……。
 誰か、俺の味方でいてくれよ……。
 俺に大丈夫だって言ってくれよ……。
 誰か。
 誰か……。


「まだ大丈夫だろう? こいつを元に戻せ」と、美樹が背後を親指で指しながら言った。眉間に皺を寄せてた美樹の顔は、シオンも見たことが無いような恐ろしい表情だった。美樹の親指の先には、見る影もないほど肥満体になった蓮斗が頭を抱えるようにしてうずくまっている。肌の色は青白く変色し、所々に血管が透けて見えた。塞がれた口腔の奥からモゴモゴとくぐもった不明瞭な声が聞こえる。何か言葉を発しているのか、ただ単に呻いているだけなのかはわからない。
 このような姿になって、蓮斗は今なにを思っているのだろうかとシオンは思った。いや、なにも思っていない方が良いのかもしれない。肥満を理由に酷い虐めを受けた蓮斗にとって、脂肪に覆われた今の姿は発狂するほど堪え難いものだろう。それならば、いっそ発狂し、なにも考えられなくなっていた方が幸せなのかもしれない。
「しつこいわね。まぁ、今なら戻すことも出来なくはないけれど……」
 冷子が呆れた様子で言った。美樹とシオンが溜めていた息を吐く。
「でも、こうなったらもう私でも無理よ」
 冷子が指を鳴らした。直後、蓮斗が硝子を引っ掻く様な悲鳴を上げた。
 美樹とシオンが同時に耳を塞ぐ。
 蓮斗は苦しみながら、芋虫の様な指で頭を強く抱えた。脂肪でぶよぶよになった頭皮に指が埋まり、一部が破れて血が滲む。
 美樹とシオンはなす術も無く、呆然とその様子を見守るしかなかった。
 蓮斗はもがき苦しむ様にしばらく身体を捩ると、やがてぴたりと動かなくなる。
 少しの沈黙。
 突如、蓮斗の背中に無数の瘤(こぶ)のようなものがボコボコと発生した。瘤は盛り上がり、分裂を繰り返して数を増やしながら、独立した生き物のように蠢いている。布の破れる音。蓮斗の伸び切った赤いカットソーが破れ、カタツムリの目の様なグロテスクな触手がわらわらと溢れた。シオンが「ひっ」と小さな悲鳴をあげる。
「うまくいったわね。皮膚の下にあるうちは脂肪に見えるかもしれないけれど、実際に増殖していたのは脂肪ではなく、私の触手の細胞に手を加えたもの……。人間を人妖に変態させる薬とカクテルにして、拒絶反応が起こらないように少量ずつこいつの体内に蓄積させておいたの。今、私の合図でこいつの脳に完全に浸透したわ。思考はもはや、見た目通りナメクジやカタツムリと変わらない。あとは本能の赴くまま、食欲に従って暴れるだけ暴れる醜い肉塊として、自滅するまで動き続ける。今は時間をかけて複数回細胞を注入することでしか変異させることはできないけれど、いずれ粘膜から吸収可能な噴霧式で即効性を持たせることができれば、一度に大量の人間を作り変えることができる。理想は感染性を持たせたウイルスタイプね……完成すれば最後の一匹になるまで人間同士で勝手に共食いを始めてくれるわ」
 顎に指を当てて満足そうに状況を分析する冷子に向かって、美樹が飛び出した。今の冷子には左腕が無い。防御の薄い左側へ、手甲の金属部分を冷子にぶち当てるように拳を突き出す。手応え。蒟蒻を殴った様な異様な手応え。冷子の左肩からズルリと灰色の太い触手が生え、美樹の攻撃を受け止めていた。
「な……に……」
 美樹が歯を食いしばる。
「急ごしらえさせるんじゃないわよ……」
 冷子は触手を美樹の上着に絡ませ、強引に身体を引きつけて右拳を美樹の腹に埋めた。ずぷんと鈍い音がして、美樹の背中が僅かに盛り上がる。
「ゔぶぅッ?!」
 美樹の両足が地面から浮き、身体がくの字に折れた。
「無駄よ。人間が私達に勝てるわけないでしょう?」
 冷子が美樹の腹に埋まった拳を捻る。ただ苦痛を与えるだけの行為に、美樹の身体は悲鳴を上げた。
「ぐぶぁッ……! ぎぃッ……」
 苦痛に耐えるように美樹が歯を食いしばる。次の一瞬、その顔が少しだけ笑った。両手で冷子の腕を掴む。怪訝な顔をした冷子の視界が一瞬暗くなった。シオンが美樹の背後から跳躍し、シャンデリアの灯りを遮っていた。シオンはフィギュアスケートのジャンプの様に錐揉みに状に回転し、冷子の首に巻き付く様な回し蹴りを放った。頚椎をしたたかに打ち抜かれ、冷子の身体がぐらりと傾く。美樹が手甲で冷子の顎を跳ね上げた。
「シオン!」
 美樹がシオンに向かってバレーボールのレシーブの様に手を伸ばした。シオンが軽く跳んで美樹の手のひらに足を乗せると、そのまま美樹の押し上げる力を利用して飛び上がる。羽の生えたような跳躍だった。シオンは膝を抱えたまま前方に宙返りし、勢いをつけたまま落下点を確かめる。宙返りで勢いをつけた踵落としはシオンの得意技だ。人妖とはいえ、脳天に食らえばほとんどの相手は失神してきた。
 今回も宙返りの勢いを殺さず、脚を伸ばして踵を冷子に振り下ろした……つもりだった。
 シオンの靴底は天井を向いたまま、逆さ吊りの体勢で固定された。まるで万力で足首を空中に固定されたようだ。一瞬事態が飲み込めず、無意識にスカートを手で押さえる。にやりと笑っている冷子と目が合った。逆さ吊りのまま自分の足首を見る。自分の足首に巻きついている触手がぬらぬらと光っていた。
 これは、蓮斗の背中から湧き出たものだ。
「シオン! 危ない!」
 美樹が叫び、視線を移す。風を切る音。蓮斗の触手が猛烈な勢いでシオンに伸びていた。
「え……おぶぅッ?!」
 不意打ちで、ドッヂボールほどの大きさの黒ずんだ先端が腹に減り込んだ。身体が折れ曲がり、痛々しいほど陥没した自分の腹部が目に入る。
「かはっ……! ぁ……」
 触手が引き抜かれ、シオンがなんとか呼吸をしようと口を開けた瞬間、再び不気味な風切り音が耳に届いた。背中にぞくりと悪寒が走る。次の瞬間、数本の触手がシオンの腹に連続して埋まった。
「ゔぶッ?! ごッ?! ゔぁッ!?」
 逆さ吊りの体勢のため、シオンの顔に自分の吐き出した唾液が降り掛かった。一瞬気を失い、スカートを押さえていた手がだらりと地面に向けて伸びる。
 触手はシオンの身体をハンマー投げの様に振り回し、壁に向かって叩きつけた。
 したたかに背中を打ち付けられた衝撃で、肺の中の空気が一気に押し出される。足に力が入らず、背中で壁をこするようにズルズルと尻餅を着いた。
 ふっ……と視界が暗くなる。シオンが顔を上げると、蓮斗の触手がわらわらと蠢きながら、シオンに向かってハンマーの様に振り下ろされようとしていた。
 シオンは無理な姿勢から転がるように逃れる。蓮斗の触手はそのまま振り下ろされロビーの床に大穴を開けた。
 あっ……と、シオンが短く叫んだ。
 触手の直撃は免れたものの、古い床には大穴が開き、シオンは今にも落下しそうな状態で穴の淵にかろうじて片手で掴まっている。
「シオン!」と、美樹が叫んだ。シオンの元に駆け寄ろうとするが、蓮斗の触手に阻まれる。
 風切り音。
 冷子の左肩から生えた触手が鞭のように伸びてシオンの手に当たり、シオンはそのまま地下に落ちていった。
 再び美樹がシオンの名を叫んだ。
 蓮斗はターゲットを美樹に変えたらしく、数本の触手を束にして美樹に放った。
 美樹は舌打ちしながらサッカーボールを蹴るようにして触手を弾く。
「そんな姿になってまでも、お前は私に執着するのか……」
 美樹が呆れるように言った。
 シオンは無事だろうか。一瞬だが、空いた穴からは病院か研究所のような空間が見えた。なぜ地下がそのような造りになっているのかは不明だが、深くはなさそうだ。落ちた程度で致命傷を負うほどシオンはヤワではない。視界の隅で、穴に飛び込む冷子の姿が見えた。
 蓮斗は触手を腕のように使って、膨れ上がった上半身を起こした。
 上着は完全に裂けて失われ、胴体の肉がスカートのように垂れ下がって足元を覆っている。脚部が完全に肉で隠れ、座っているのか立っているのかもわからない。両手は頭を抱えた状態のまま肉に取り込まれ、耳を塞いでいるように見えた。顔は二倍以上の大きさに膨れ上がり、額や頬の肉が垂れ下がって目と口がへの字型の裂け目のようになっている。裂け目の中に赤く光る瞳が見えた。
「蓮斗……」と、美樹がポツリと言った。「お前のことは大嫌いだ。久留美を誘拐し、暴行したことは許せん。だが、そんな目に逢う運命は少しむご過ぎるな……」
 蓮斗からは汚水が泡立つような音が聞こえた。肉に阻まれた呼吸音なのか、唸り声なのかはわからない。
「辛いだろう。太っていたことが嫌だったらしいな? それをもう一度同じ目に……。だが」
 美樹が上着の中に手を入れ、樹脂製の短いスティックを二本取り出した。美樹が強く振ると収納されていた中身が飛び出し、取っ手を起こすとトンファーの形になった。美樹は慣れた手つきでトンファーを回転させながら構えた。
「お前がまだ人間であったなら、アンチレジストはどんなクズだろうと救うために最大限の努力をした。だが、人妖か、それに準ずるモノになってしまったのなら、私達アンチレジストの討伐対象だ。観念しろ」

 蓮斗の背中から伸びた触手が蛇の群れように縦横無尽にうねり、美樹に向かって振り下ろされた。速くはない。美樹はジグザグに動いて躱しながら、徐々に距離を詰める。横に薙ぐような触手の攻撃を跳躍で回避し、蓮斗の顔面にトンファーを叩き込んだ。トンファーはぐにゃりと肉に埋まったが、ダメージは無いようだ。ならばと美樹はトンファーを握り直し、本体の短い部分で蓮斗の目を突いた。金属を切るような悲鳴が上がる。すかさずもう一方の目も突き、さらに眉間だった場所に一撃を打ち込んだ。ぶよぶよとした軟体動物のような肉の奥に、硬い骨の感触があった。
「肉の増殖に対して、骨が追いついていないようだな」と、美樹は距離を取りながら言った。トンファーを勢いよく振り、まとわりついた粘液を振り切る。「頭蓋骨の大きさや厚さは元のままのようだ。無茶なことを。その重量では脚の骨は今頃粉々だろうな
 蓮斗は触手を槍のようにして美樹に放った。美樹は最小限の動きで躱し、蓮斗の様子をうかがう。蓮斗のへの字に垂れた口から、苦しそうな喘ぎにも似た声が漏れている。蓮斗は何度か美樹に触手を飛ばしたが、いずれも力が無く、躱すのに苦労はしなかった。攻撃というよりかは、何かを探るような動きだ。美樹が不思議に思っていると、触手は奇妙な動きを見せた。美樹の後方の壁を探るように動き、火の消えた蝋燭を取ると、ビニールシャッターの様になった唇を押し上げて蝋燭を口に運んだ。
「なるほど……」
 美樹は蓮斗に向かって突進した。巫女装束の袖を翻しながら、高速でトンファーの柄を蓮斗の喉元に抉りこむ。まるで美樹自身が一本の槍になったような一撃に、蓮斗は悲鳴をあげて飲み込んだ蝋燭を吐き出した。
「こんな身体で動き回るには膨大なカロリーが必要だ。腹が減って仕方がないんだろう? 貴様ら人妖は異性との粘膜接触で養分を得るらしいが、もはや動けないその身体では難しい。放っておけば勝手に餓死する運命だ」
 触手が力の無い動きで美樹の足に絡まろうとしたので、美樹がブーツの底で踏みつけた。
「そして生憎、私は貴様に養分をやるつもりはない」
 美樹はトンファーを持ち替え、柄の長い部分で蓮斗の目を突くと、渾身の力で押し込んだ。耳を塞ぎたくなるような甲高い悲鳴が蓮斗の口から放たれる。
「最期に教えてやる……もう聞こえていないかも知れんがな」と、美樹は歯を食いしばってトンファーを押し込みながら言った。トンファーが蓮斗の脳に達するまでは、まだ距離がある。「蓮斗……お前はさっき私やシオンのことを、生まれや育ちが恵まれていたから博愛主義でいられて、アンチレジストのような人助けが出来ると言ったな? 違うぞ。私もシオンも家が少し複雑でな。私もお前のように小さい頃から施設に入っていて、実の親の顔もよく覚えていない。同じ頃にシオンも事情があって故郷のロシアに居られなくなり、独りで日本に来た。貴様も色々と気の毒だったとは思うがな……全てを人や環境のせいにして、中身を磨かずに外見だけを整えたり、薬物に頼ったりしていても何も解決はしないぞ。もっとも私も、シオンのようにいつもニコニコしていられるには、まだ時間がかかりそうだがな……!」
 蓮斗の腹のあたりが音も無く膨らみ、太い触手が生えた。美樹が気がつくと同時に、鞭のような速さで美樹の腹に埋まる。ぼぐんッ……という音とともに、美樹の黒いインナー部分が陥没した。
「ゔッ?! ぶぐぇッ……?!」
 美樹は後方に吹っ飛んで仰向けに倒れた。不意打ちを喰らい、視界が明滅する。天井のシャンデリアがぼやけて視界に映り、それを隠すように極太の触手が伸びてきて、美樹の腹を潰した。
「ごぶうッ!? ゔぁッ……! げろぉぉっ……」
 美樹は身体をよじり、背中を丸めて胃液を吐き出した。今までの弱り切った様子とは明らかに動きが違う。再び振り下ろされた触手を転がりながら避け、肩で息をしながら立ち上がった。蓮斗は目に刺さったままのトンファーを触手で引き抜き、フローリングの床に捨てた。
「なんだ……? 養分を補給したのか?」と、美樹が肩で息をしながら言った。すぐさま猛烈なスピードで触手が飛んでくる。美樹は屈んで避けるが、別の触手が美樹の足首に絡まり、蓮斗本体に向かって引きずられた。美樹は歯を食いしばり、触手を解こうとするが、粘液で滑って指を立てることすらできない。やがて美樹の身体に何本もの触手が巻きついた。
 この匂い……ガソリンか、と美樹は思った。バイクが趣味の美樹にとっては、親しみのある好きな匂いだ。
 見ると、蓮斗の背中から伸びたミミズの様な細い触手が、板張りの床の隙間に入り込んでいた。地下に保管されている燃料を吸い取っているのだろう。ガソリンや石油を分解し、養分にする微生物がいると美樹は過去に聞いたことはあったが、いくら飢餓状態とはいえ蓮斗がガソリンを吸収するとは。
 触手が美樹の顔の前に伸びた。先端が男性器の様な形をしている。次の瞬間、触手が伸びて美樹の半開きになった口から侵入し、喉奥まで押し込まれた。
「んぐぅッ?!」
 触手は素早く前後運動を繰り返し、美樹の口内と喉を嬲った。触手からは生臭い匂いとガソリンの匂いが染み出し、猛烈な吐き気に襲われる。美樹は失神しないように全身を硬直させて耐えた。やがて触手の先端が膨らみ、重油の様な粘液が美樹の口内に大量に放出された。蓮斗の口から溜息に似た音が聞こえた。一瞬拘束が緩み、美樹はスカートの中に忍ばせている小ぶりなナイフを取り出して触手を切りつけた。拘束が解け、美樹は転がるようにして距離を取ると、口内の粘液を憎々しげに吐き出す。
「もっと長い得物を持ってくるべきだったな……さて、どうしたものか」


 割れた床の細かい破片が、仰向けに倒れたシオンの顔にパラパラと降ってきた。
 階上から落ちた衝撃でショートした脳を回復させるために、シオンは目を瞑ったままこめかみを揉む。服や手袋は所々が破れて素肌が見えていたが、大きな怪我や傷は負っていないようだ。天井の破片が目に入らないように注意しながら、ゆっくりと目を開ける。自分が落ちてきた穴の横に、旧式の無影灯が太いアームで固定されていた。自分の上に落下しなかったのは幸いだったと、シオンは思った。
 廊下の奥からカツカツとパンプスの音が聞こえてきた。誰が来るのかはもうわかっている。シオンは身構え、その人物が現れるのを待った。
「懐かしいわね……ここは実験室よ」と、言いながら冷子が部屋に入ってきた。ジャケットは脱ぎ捨てたようで、袖が破れてノースリーブになったワイシャツ一枚を羽織っている。冷子自らが捥(も)いだ左腕は触手によって再生させており、灰褐色の色でなければ普通の腕と見分けがつかなかった。「ここで被験者の子供たちに様々な薬物を与えて、人妖へ変化する過程を見ていたの。拒絶反応で暴れたり、蓮斗みたいに身体が変化してしまう子もいたから、実験室とは言えちょっと物々しい内装になっているけれど……」
 冷子が壁に設置されている拘束具を指差した。暴れてもいいように、両手足を固定してから実験をしたのだろう。シオンは拘束具を一瞥すると、冷子に視線を戻した。
「ホールに行く途中にここを通り、いろいろな資料を見ました……。孤児を集めていたのは、人妖化する実験のためだったんですね」
「そうよ。貴女には想像もつかないでしょうけれど、世の中には存在を望まれていない子供達が結構いるの。そういう子達は実験の失敗で死んでも誰も気がつかない、便利な存在だったわ」
「なぜそこまでして……」と、シオンが言った。
「簡単よ。前も言ったけれど、食物を必要としない人間を作りたかった、ただそれだけよ。人間は進化したけれど、生きるためには食事が必要であり、活動の大部分も食糧を得るために割かなければならない現状は、まだ動物としての枷が外れていない。では、もし人間が食物を摂取しなくても活動ができるようになったらどうなるか。動物が最も恐れる飢えが無くなり、食物を得るための活動を別のことに振り分けることができる。動物の枷から解放された人間は、知識のみを追求するより高次の存在になれる……と、研究をスタートさせた人間達は考えた。貴女が生まれるずっと前から、この実験は続いているの。各国が表の関係とは無関係に、人妖に関しては秘密裏に手を組んだり裏切ったりしながら、様々な実験を繰り返していた。やがて、異性の人間からであれば、粘膜接触で養分を吸収できる人妖の開発に成功した。私や、涼がそうね。彼はもういないけれど……」
「あなたも、元は人間だったんですか……?」
「馬鹿言わないでよ」と言いながら、冷子は苛立ったようにサイドの髪を後ろに梳いた。「私や涼は、試験管の中で人口受精させたばかりの卵細胞を遺伝子操作して、代理母に戻して造られたオリジナルの人妖……。人妖としての能力の他に、容姿や頭脳も遺伝子操作の際にイジられる。当時の最終目標のひとつである、人間から人妖に改造する手段を確立させたのも、研究を乗っ取った私たち人妖達よ。上の階で暴れている蓮斗みたいに、意図的に失敗させることもできるけれど」
「乗っ取った……?」と、シオンは息を飲みながら聞いた。
 冷子が言った。「人妖を生み出すことに成功した少し後、人間同士で内紛が起きたのよ。人妖には人間と同じく自我があるし、遺伝子操作で身体能力や知能指数が高く、おまけに異性の人間さえいれば食事の必要は無い。もし人妖達が自分達に牙を剥いたら勝ち目は無い。そうなる前に、人妖達は全員廃棄して研究を止めるべきだという意見が出始めた。自分達はとんでもない怪物を生み出してしまったのかもしれないと恐れたのね……。もちろん、人妖を兵器や労働力として研究していた組織は人妖の破棄に猛反発し、研究方針をめぐる争いは各地に飛び火して収集がつかなくなった。それと同時に、人妖研究に多大な援助をしていた最大手のパトロンからの資金が突然ストップしたことも、混乱に拍車をかけた。そして、多くの研究機関が自滅したり解散したりしているうちに、多くの人妖が研究所から逃げ出した……。私もその時に逃げたわ。勝手に造られて、研究所の人間から養分提供だとか言いながら犯されて、都合が悪くなったら殺されそうになるなんて……我ながら随分と酷い人生だったと思うわ」
 突然冷子の左腕が伸びてシオンの身体に巻き付いた。シオンを自分の身体に引きつけると、額が触れ合うほど顔を近づけながら言った。
「言っておくけれど、同情なんかするんじゃないわよ? 同情というのは関係の無い人間が自己満足のためにするもの……貴女、まだ自分が全く関係無いとでも思っているんでしょう? なんで私達が研究を乗っ取ることが出来たのか、まだ言っていなかったわよね?」
 冷子が聞いたことがないような低い声で言った。シオンは、初めて冷子の本当の声を聞いた気がした。
「人妖の研究には莫大な資金が必要なの……。ねぇ? わかるでしょう? 世界的製薬会社『アスクレピオス』の創業家、ラスプーチナ家のお嬢さん? 成果の出ていない段階の研究には、優秀なパトロンが必要不可欠なの。貴女の家は代々、人妖研究に莫大な資金を投じてきた。もちろん、研究が結実すればその何倍もの利益が返ってくることを見越してね。十数年ほど前、『アスクレピオス』総帥の貴女のお父様が突然死して、一時的に融資が途絶えた。でも数年前に突然、貴女の家は融資を再開した。私達はその混乱したタイミングで、頭の悪い人間に取って代わって過去の研究を引き継ぎ、研究途中だった人間を人妖化する方法を確立した。人間達の研究を紐解くだけで、方法の確立に大して時間がかからなかったわ。そして我々に敵対するアンチレジストにも、ラスプーチナ家はかなり融資をしている。まるで死の商人みたいね? 一方では人妖研究を進めさせ、もう一方では人妖討伐機関を運営しているんだから。どちらに転んでも、貴女の家は更なる富と名声を手に入れられる」
 シオンの頭にジリッとした痛みが走った。脳裏に、ハッキングして手に入れたアンチレジストの受取金リストが浮かぶ。確かに自分の生家の名前がトップに記載されていた。冷子はシオンの身体を物のように投げ捨て、シオンはしたたかに背中を壁に打ち付けた。
「……私の家が人妖研究に絡んでいることは知っています」と、シオンが痛みに耐えながら言った。「夏以来、アンチレジストに不信感を抱いた私は色々と調べました。その際に、ラスプーチナ家の投資案件リストも偶然手に入りました。人妖研究と、アチレジストにかなりの額を投資していることも……」
「なら話が早いわ……。責任を取って、貴女もこちら側に来なさい。嬲り倒して瀕死にしてから、人妖に改造してあげる。貴女はとびきり綺麗な人妖になるわよ?」
「それは私の責任の取り方ではありません」と、シオンが静かに首を振った。「他の人を犠牲にしなければ成り立たない存在には、私はなりたくはありません。廃人のようになってしまった人妖事件の被害者の姿を何人も見てきました。私の生家が人妖研究に関わっているのなら、私の手でそれを終わらせます。人妖を捕獲し、人間に戻す方法を探すのが私の責任の取り方です。人助けになればと始めたアンチレジストの活動ですが、思えば最初から神様が導いてくださったのかもしれません。贖罪なのか、試練なのか……」
「……いつまでも自分だけは、正義の味方でいられるなんて思わないことね」
 冷子の左腕が別の生き物のように伸びた。先端がソフトボールほどの大きさに膨らんだ触手が、シオンを目掛けて矢のように飛んだ。シオンは直前で回避し、背後の壁が大きく陥没する。冷子のもう一本の腕も触手化し、シオンを追うように伸びる。シオンは壁に向かって走り、触手が背中に触れる直前、壁を蹴って後方に宙返りして自分を追い越した触手に真上から膝を落とした。床とシオンの膝に挟まれた触手は、灰褐色から一瞬冷子の肌の色に戻る。冷子が舌打ちする音が聞こえた。その間にシオンは冷子との一気に距離を詰めた。体勢を低くしたまま走り、振り下ろされる鞭のような触手を躱しながら十分に近づくと、そのまま独楽のように回転して冷子に足払いをかける。冷子がバランスを崩すと同時に、シオンは冷子の頭と腰を抱えて右膝を冷子の腹に突き込んだ。
「ゔぶぇッ?!」
 冷子は濁った悲鳴をあげながら前屈みの体勢になる。シオンは冷子の身体から手を離さず、反動を利用して冷子の身体を持ち上げた。冷子の身体がフッと宙に浮く。シオンはそのまま裏投げの要領で後方に投げ、冷子の背中を地面に叩きつけた。
「ぐえぁッ?! ぐ……ぎ……ぎいぃぃぃぃぃッ!」
 冷子は歯を食いしばったまま、両腕の触手をロープの様にしてシオンの身体を抱きすくめた。シオンが冷子に覆いかぶさったまま抱き抱えられるような格好になり、お互いの鼻が触れそうな距離で身体が密着する。
「まともに戦えば強いじゃないの……顔を狙わないところにまだ甘さがあるけれど」と、冷子が苦痛に顔を歪めたまま言った。そのまま触手を解こうと踠(もが)ているシオンに自分の顔をぐいと近づけ、強引にシオンの唇を吸う。
「んぅッ?!」
 突然の感触にシオンは目を見開いた。冷子は触手でシオンの後頭部を押さえつけると、シオンの舌を強引に吸い、混ざり合った唾液と自分の舌をシオンの口内に押し込んだ。
「ぐぷっ……?! んむぅッ!」
 シオンと冷子の唇の間から、混ざり合った唾液が溢れる。不意に、シオンの背中をぞくりと寒気が駆け上がった。自分の口が徐々に大きく開いている。冷子の舌だ。自分の口内に侵入している冷子の舌が肥大化している。突然、ずりゅ……と冷子の舌が伸び、シオンの喉奥まで冷子の舌が突き込まれた。
「んぐぅッ?!」
 シオンは強引に触手を振り解き、冷子から離れた。激しくむせるシオンを眺めながら、冷子は人形のようにゆっくりと上体を起こす。灰色に触手化した五十センチほど舌が、冷子の口からブラブラと垂れ下がっている。あのまま突き込まれていたら窒息していたかもしれない。
「ひふははひれへらっはろ?(キスは初めてだったの?)」と、バケモノのような形相になった冷子が首を傾げながら言った。ぢゅるりと音を立てて、ゴムが収縮するように舌が冷子の口内に収まる。「残念だわ。もう少し味わっていたかったのに……」
「舌まで触手化できるなんて……」と言いながら、シオンが汗で貼りついた前髪を直した。「でも……無敵という訳ではないみたいですね」
「……どういう意味?」
 冷子は触手を飛ばした。シオンは屈んで回避し、次の攻撃に備える。もう一本の触手が自分目掛けて伸びてきた。これを待っていた。シオンはサイドステップで回避しながら、小脇ににかかえるようにして触手を掴む。シオンは抱えた触手目掛けて、「ふッ!」と気合を入れながら渾身の力で膝を蹴り上げた。ぐにゃりと変形した触手の色が、一瞬だけ灰褐色から肌色に戻る。シオンはその肌色の部分を目掛けて肘を落とした。
「がぁッ!」と、冷子が悲鳴をあげた。
「さっき気がつきました……。強い衝撃を受けると、その部分だけ触手化が一瞬解除されるみたいですね」
 シオンが蹴り上げた肌色の部分は確かに骨の感触があり、シオンの膝にはそれが折れる感触が伝わった。触手は逃げ帰るように冷子の右腕の形に戻る。折れた部分が真っ赤に腫れていていた。すかさず冷子は左手で右肩を掴む。
「また新しい腕を生やしますか?」と、シオンは冷子に向かって走りながら言った。「生えるまでの時間は、あなたにはありません」
 シオンは高く跳躍し、前方に宙返りした。何が来る? 得意の踵落としか? 冷子が身構える。腕を捥ぐのが先か? 攻撃を受けるのが先か? 攻撃を受けるのが先だ。避ける時間は無い。冷子は無事な左手を頭上に上げた。振り下ろされる踵を受けて、シオンがバランスを崩したところで反撃する。おそらく左腕も折れるだろうが、頭に食らったら確実に失神する。シオンの背中。エプロンを止めている腰のリボン。黒く短いスカートから伸びる太もも。エナメルの靴が振り下ろされる直前に、シオンと一瞬目が合った。
 衝撃。
「がぁッ!?」と、冷子が叫んだ。
 右肩?
 頭を狙うシオンの右足はフェイントで、シオンの左足が冷子の右肩に振り下ろされた。防ぐことができず、無防備な右肩の骨が砕ける音が聞こえた。冷子の頭上で、シオンが長く息を吸った。何だ? 次は何をする気だ? いつの間にか、シオンの右足が冷子の左肩に乗っている。逆向きの肩車のような体勢だ。シオンが冷子の頭を両手で押さえる。シルクの手袋の感触。シオンはそのままの体勢で、冷子の頭を太腿で強く挟んだ。まずい! 冷子がもがく。シオンはふっと息を鋭く吐くと、冷子の頭を挟んだままバク転するように後方に回転した。冷子の視界が回転し、頭が引っこ抜かれるように地面に吸い込まれ、激しい衝撃が冷子の脳天を叩いた。
「……終わりです」
 シオンが正座のような体勢で、肩で息をしながら言った。太腿の間の冷子の顔は、目を見開いたままだった。


 上階からは、重いものを床に叩きつけるような音が断続的に響いてくる。美樹と蓮斗の戦闘はまだ続いているのだろう。ひび割れた天井からは破片が断続的に降り落ちてくる。そのうち全体が崩落するのではないかと、シオンはわずかに不安になった。冷子を拘束してからオペレーターに回収の依頼をして、自分はできるだけ早く美樹の応援に行かねばならない。
 シオンは太腿の間にある、虚な目をした冷子から視線を外し、ゆっくりと前を向いた。
 瞬間、息を飲んだ。
 状況が理解できなかった。
 冷子が変わらない姿勢のまま立っている。
 頭は?
 確かに私の下にあるのに……?
 冷子の首の部分が灰色の細長いホースのように伸びて、シオンの肩越しに股の間の頭と繋がっている。冷子の身体が、早回しのビデオ映像のようにブルルッと震えた。途端に、タイトスカートから覗く脚や胸元の肌が灰色に変色する。ぞわりとした悪寒がシオンの背中に走った。咄嗟に視線を落とし、股の間の冷子の顔を見る。すでに顔全体がナメクジのようなマダラな灰色に変色していた。次の瞬間、巣穴に逃げむ海蛇のように、冷子の顔は一瞬でシオンの尻の下に引っ込んだ。冷子の頭は伸び切ったゴムが戻るように身体の方に吸い込まれていき、粘度の高い水面に投げ込まれた石のように「どぷん」と肩の間に沈んで見えなくなった。
 まずい。
 シオンが危機を察知して立ち上がろうとした瞬間、冷子のシャツを突き破って触手の群れがぞるるっと湧き出た。
「ひっ!? きゃああッ!」
 蛇の大群のような触手が、無茶苦茶な動きでシオンに襲いかかった。冷子の身体は跡形もなく崩壊して、主人を失ったスーツだけがボロ切れのように床に残されている。触手の塊は粘液を撒き散らしながらシオンの腕や足に絡みつきながら、ものすごい力でシオンを壁に叩きつけた。
「あぐッ?! な……なんですかこれ……?」
 両手足に絡みついている触手を見ながらシオンが言った。右脚を締め付けている触手の一部がカタツムリの目のように伸びて、シオンの顔の前で先端が膨らんだ。先端は徐々に卵形の球体になると、次第に冷子の顔の形になった。しかし形を保っているのが難しいらしく、目や鼻の形が泥のように流動的で定まらない。
「これだけは……使いたくなかったのよ……」と、冷子の顔のようなモノが言った。粘液の湖に湧き出る泡のような酷く不明瞭な声だった。「こうなると、元の姿に戻るのが大変なの。人体というのは不思議なものでね、自分の身体のことを自分以上にとてもよくわかっている。脳の記憶以上に、身体の記憶というのはとても強いのよ。だから、腕や脚みたいな身体の末端を触手化しただけだったら、その部分は脳が意識せずともすぐに元に戻る。身体の記憶を辿ってね。でも、元の身体が『コレ』だったらどうなると思う? 身体の記憶が書き換えられ、いくら脳が人間の姿を記憶していても、身体のほうが拒否してしまう。お前の元の身体は人間ではなく『コレ』だ、とね……」
 触手が寄り集まり、ボディビルダーの腕のような太さになった。シオンの瞳に怯えの色が浮かぶと同時に、撞木が鐘を突くようにシオンの腹部に突き刺さった。
「ゔっぶぅッ?! が……ごおぉぉぉぉッ!!」
 あまりの威力に胃液がこみ上げ、温かい液体がシオンの喉を逆流して床に落ちた。
 腕はさらに何本も増え、ガトリングガンの様にシオンの剥き出しの腹に埋まった。複数の極太な触手による一撃一撃が強烈なボディーブローを高速で喰らい、シオンの腹部が餅のように歪に潰れる。
「がぶッ!? ぐぇあッ!? おぼッ! ぶぐッ?! ごぇッ!」
 シオンの身体はガクガクと痙攣し、一瞬攻撃が止んだと思いきや鳩尾に強烈な一撃が突き刺さった。
「ゔっぶ!?」
 磔の状態になっているシオンは当然防御などできるはずもなく、電気ショックを受けたように身体が跳ねた。同時に触手の拘束が解かれ、シオンの身体は投げ捨てられたマリオネットのように床に崩れ落ちた。
「がっ……! ゔッ……ごぇっ……」
 シオンは海老のように身体を縮こませ、内臓からこみ上げてくる苦痛の波に耐えた。歯を食いしばってなんとか顔を上げると、霞んだ視線の先に、猫の死骸に集まった蛆虫のように蠢く触手が見えた。徐々に触手は境目を無くしてスライム状になると、床を這うようにシオンに接近した。スライムはそのままシオンの身体を飲み込む。温かい粘液のプールに溺れているような状態になり、シオンは一瞬天地がわからなくなった。息をすることもできず、顔から血の気がひいてくるのがわかる。
「このまま窒息させてもいいけれど……少し話をしましょうか?」と、不明瞭な冷子の声が聞こえた。直後、スライムはシオンを取り込んだまま移動し、シオンの背中を再び壁に叩きつけた。顔周辺の粘液が引くと同時にシオンは激しく咳き込む。
「私がまだアナスタシアに保健医として勤めている頃、よく男子学生と話をしたわ。養分補給のための相手だったけれど、みんな良い子だった……。でも、話を聞いてみると、全員が貴女のことが好きだった。酷いと思わない? 私を抱いた後にもかかわらず、貴女に対する好意や憧れを私に話すのよ? 如月会長は高嶺の花だとか別世界の存在だとか……私達人妖は完璧な存在として造られたはずなのに、なんで不完全な人間の貴女の方が私よりも優れていると皆思うの? 悔しくて悔しくて仕方がなかったわ」
 溶けたような灰色の顔がシオンに言った。表情は読み取れない。シオンは灰色の顔から目を逸らさず、黙って話の続きを待った。
「……それに私達試験管で造られた人妖の性器は、養分補給とチャームや老廃物を排出することのみを目的とした器官に作り替えられているから、生殖能力を持っていないの……。ねぇ、わかる? 私は涼が好きだったし、彼の子供が欲しかった。でも、彼が生きていようと死んでいようと、その願いが叶うことはない……。彼にも私にも生殖能力は無いのだから。貴女はいいわね、子供が産める身体で……」
 細い触手が、シオンの鳩尾から下腹部までをなぞった。冷子の背後で、天井の大きな石膏ボードが落下した。
「なぜ……なぜ私達が、人間が勝手に掲げた完璧な人間を作るなどという身勝手な目標のためにこんな出来損ないの身体で造られて、貴女みたいなただの人間が……私達以上に完璧だって思われるのよ!」
「完璧な人間なんて存在しません」と、シオンは言った。緑色の瞳で、灰色の泥のような冷子の眼窩らしい二つのくぼみを真っ直ぐに見つめている。「人は全員、なにかを抱えながら生きているんです。とても重い、その人にしか見えない荷物を背負って、歯を食いしばって坂を登っているんです。生まれながら完璧な存在なんて──」
 シオンの身体に巻き付いていた触手が一瞬で解け、そのままシオンの首に巻き付いた。
「がッ?! あがッ?!」
 シオンの両足が完全に浮き、絞首刑のように首に全体重がかかる。シオンは両手で首に巻き付いている触手を掴むが、密着した触手は全く解ける様子がない。
「自分への言い訳のつもり? ねぇ……知っているのよ? 貴女のお父様……ラスプーチナ家の当主を殺したのは、貴女なんでしょう?」
 ジリッ、とシオンの頭に痛みが走った。
「な……? な……にを……?」
 シオンは微かに首を振る。
「忘れたの? 全部調べたのよ。不幸な事故だったらしいわね? 国際的製薬グループの総帥として、世界中を飛び回っていた貴女のお父様が久し振りに家に帰ってきた。家族と使用人へのお土産をたくさん抱えてね。子供の貴女は喜んで、勢いよく階段の踊り場にいたお父様に抱きついた。そして、お父様は階段から落ちてしまった……。お父様は自分の身体をクッションにして貴女を守ったけれど、打ち所が悪くて命を落とした。そして、貴女は無傷で生き残った。表向きは一人で階段を踏み外したことによる事故ということになっているけれど、ロシアにいる私達の仲間が当時の関係者から聞き出したのよ。父親殺しとはまた、随分と重い荷物だこと」
「ち……がっ……」
 気道を塞がれているため、シオンは声を出すことができない。
「その様子だと、本当に覚えていないのかしら? 目の動きで嘘をついていないとわかるわ。優秀な割には、随分と都合のいい頭をしているわね?」と言いながら、冷子はシオンの首を締める力を強めた。「でもね、この状況を作ったのは全部貴女のせいなのよ? さっきも話したけれど、貴女がお父様を殺してくれたおかげで、人妖研究最大のパトロン、ラスプーチナ家からの融資が一時的にストップした。内紛が起こっていた各国の人妖研究機関は混乱を極め、融資再開と同時に私達人妖が研究の主導権を握ることができた。貴女には感謝するべきでしょうね? 我々人妖に多大な貢献をしてくれた一族の長女様だもの。その立場で人妖退治なんて笑わせるわ。メイドだとか奉仕だとか博愛だとか、気持ち悪い愛想を振りまいているのは無意識な罪滅ぼしのため? 貴女を好きだった人達が貴女の正体を知ったら、どんな顔をするかしらね?」
「く……あ……ぁ……」
 シオンは涙を流しながら、歯を食いしばって小さく首を振る。シオンの思考はすでにマッチ箱のように小さくなり、視界には明るいモヤがかかりはじめた。冷子の声は聞こえているが、頭の中で言葉と意味が結びつかない。言葉はシュレッダーにかけられたようにバラバラの断片になり、ノイズの洪水となってシオンの頭の中を満たした。
 かくん……とシオンの身体から力が抜けた。
 両手はだらりと床に伸び、目は半開きになったまま光が消えている。口はだらしなく開けたまま、唾液と涙が頬を伝って喉から胸へと垂れた。
「あ……く……くふぅっ……」
 シオンが肺の中の残りの空気を全て吐き出した。
「くふっ……くふ……くふふふふふふふふ……」
 突然、シオンの右手が別の生き物の様に自分の頭に伸びた。ヘッドドレスを毟るように掴み取ると、獲物に襲い掛かる蛇のような速さで冷子の顔に突き刺した。油断していた冷子が悲鳴をあげる。ヘッドドレスの中に仕込まれていた細長い棒状の金属が、冷子の左の眼窩だった部分に突き刺さっている。冷子の顔全体が、左目を中心に肌色に変色した。シオンの両手が冷子の顔を掴む。直後、ぐしゃり……と音がして、冷子の顔面にシオンの膝がめり込んだ。


「キリがないな……」と、美樹がポツリと言った。額や口の端が切れ、白衣(びゃくえ)には赤い花弁の様に血の赤が点々と落ちている。
 美樹は片手で調度品の燭台を三叉槍のように持ちながら、空いた方の手でポケットを探った。そして、ジッポーとタバコを久留美に預けたことを思い出して溜息をついた。
 体力の消耗は激しかった。
 美樹が切断しても切断しても蓮斗の触手は何回も生え変わった。燭台の先端は赤黒い血で濡れ、周囲には蓮斗の肉片が散らばっている。
 玄関ホール中には、蓮斗が階下から吸い上げたガソリンの匂いが充満していた。ガソリンを養分にすることはかなりの負担らしく、蓮斗は定期的に身悶えするように苦しみ、油の匂いのする吐瀉物を吐き続けた。蓮斗の身体は膨張を続け、もはや触手が不規則に生えた卵形の肉塊になっていた。目や口は完全に埋没し、血管が透けて見える灰色のぶよぶよとした肉の塊は、悪い夢に出てくる異世界の怪物を思わせた。
「……死ねないのか?」と、美樹は言った。おそらく再生能力が暴走し、無秩序に新陳代謝を繰り返しているのだろう。
 美樹が燭台を握り直し、再び蓮斗に襲い掛かった。蓮斗は悲鳴をあげ、削げて床に落ちた肉が嫌な匂いを放った。衣服に仕込んでいる釵(さい)や小刀も突き刺すが、ダメージはあるもののすぐさま回復して死ぬ様子はない。疲労から美樹の気が緩んだ瞬間、触手が美樹の胴体に巻きついた。そのまま野球ボールのように投げられ、壁に叩きつけられる。背骨が軋み、身体中の空気が強制的に吐き出された。
「かは……ッ!」
 壁からずり落ち、床にうつ伏せに倒れた。視界の隅に映り込んだドアからは、相変わらず雪が吹き込んでいる。音や痛みといった感覚は、自分の身体ではないように遠く感じた。
 ふと、シオンは大丈夫だろうかと思った。実力でいえば、シオンは間違いなくアンチレジストのトップだ。仮想敵とのトレーニングでは、難易度が最高レベルの相手でも難なく倒してしまう。しかもその明晰な頭脳で、敵の弱点把握と、どこをどう攻めれば効果的にダメージを与えられるかを瞬時に把握する才能も備えている。しかし持ち前の優しい性格から、敵に対しても無意識に手加減してしまう癖があった。弱点や、効果的にダメージを与える方法を瞬時に把握できるからこそ、その才能を逆に使い、あえてそこを攻めずに相手にとって最も苦痛の無い方法で攻撃するスタイルになっている。顔面を攻撃することもほとんど無い。そのため、時として攻撃は決め手を欠き、思わぬ苦戦を強いられることも多かった。冷子が階下に降りてから、どれくらいの時間が経ったのだろう。いつもの癖で手加減をして、窮地に立っていなければいいのだが。
 触手が伸びて、美樹の首と胴体に巻き付いた。そのまま足が床から離れるほどの高さに持ち上げられると、今度は床に叩きつけられた。もう痛みは感じない。再び持ち上げられると、蓮斗の顔が、縦に割れたザクロの様に大きく開いた。褐色の粘膜の中に、人間の歯が無数に生えている。無理やり口を開けているせいで、蓮斗のどこかの骨がパキパキと音を立てた。食べる気か……と美樹は思った。身体はまともに動きそうもない。
「……まぁいい。食え」
 美樹は微かに笑いながら、燭台を床に捨てた。
「お前は私だ、蓮斗。私も少し道を間違えていたら、お前みたいになっていたのかもしれない。私が全てを恨んで、お前みたいな化物にならなかったのは、無数にある未来の可能性のひとつに過ぎない。施設に入って今の親に拾われていなければ、どうせ子供の頃に死んでいたか、お前みたいになっていただろう。誰にも望まれずに生まれた私には、最初から何も無いのだから……」
「そんなことありません!」
 不意に大声が聞こえ、美樹は雪が吹き込んでいるドアに視線を移した。桃色の髪の毛に、白いリボンが見える。
「……久留美?」
「なんでそんな悲しいこと言うんですか! 私や、水泳部や学院のみんなが、どれほど先輩に憧れているのか、なんでわからないんですか! 見た目は少し怖いですけれど、悩みにも親身に相談に乗ってくれて、いつも助けてくれて、すごく格好良くて……そんな先輩が好きだって、私さっき言ったのに、もう忘れちゃったんですか!?」
 久留美は目を瞑って叫ぶと、美樹の元に走った。ドアの外には、思い詰めたような顔をしたシオンの運転手、山岡の姿が見えた。蓮斗が久留美の方を向く。触手の何本かが、久留美に向かって伸びた。
「やめろ!」
 美樹が叫んだ。胴体に巻き付いた触手は緩む気配はない。美樹は本能的に右腕に嵌っている金属製の手甲を外した。
「うおぉぉぉぉ!!」
 美樹は絶叫し、渾身の力で手甲を蓮斗の口内に投げつけた。
 突如体内に侵入した異物に蓮斗が怯む。拘束が緩んだ隙に美樹は触手から抜け出し、久留美の元に走った。
「馬鹿! なぜ戻ってきたんだ!?」
「ごめんなさい……これを見ていたら、もう先輩と会えない気がして……山岡さんに無理を言って……」
 久留美が震える手で、美樹のショートホープとジッポーライターを差し出した。美樹は何回かタバコと久留美の顔を見た後に、そうか、と言って久留美の頭をくしゃっと撫で、タバコとライターを受け取った。美樹の背後から、蓮斗がゆっくりと近づいてくる。
「……走れるか?」と、美樹は蓮斗に背中を向けたまま言った。
「大丈夫です。見た目よりも体力があること、先輩も知ってますよね?」
 久留美が小さくガッツポーズを作った。美樹が微かに笑いながら頷く。
「よし、行くぞ」
 美樹は久留美の手を引きながら、アーチ状の階段を駆け上がった。蓮斗の触手を躱しながら、吹き抜けの二階部分へと移動する。美樹と久留美はバルコニーから階下の蓮斗を見下ろした。
「先輩……いったい何と戦っているんですか……?」
 久留美の身体が小刻みに震えている。落ち着いてようやく事態を把握したのか、異形の怪物に少なからずショックを受けてるようだ。
「蓮斗だ。信じられんと思うが……」
「……えっ? あれが……蓮斗さん?」
 久留美が両手で口を覆った。
「詳細は省くが、奴はもう元には戻れない……。気の毒だとは思うが、楽にしてやろう」
 久留美が美樹を見上げながら、不安げな表情で頷いた。キィンという鋭い金属音を立てて、美樹は片手で器用にジッポーに火をつけた。ショートホープを口に咥え、火を灯す。長い時間をかけて吸い込み、天井に向けて煙を吐いた。久留美はそれを、いつまでも見つめていたいと思った。
「合図をしたら、すぐに私に掴まれ」と、美樹が言った。
 蓮斗がバルコニーの二人に向かって、ゆっくりと触手を伸ばしはじめた。
 美樹が紫煙を長く吐きながら、火のついたタバコを人差し指と中指で弾いた。タバコはまるで意志の強い蛍のように、赤い残像を残して蓮斗に向かってまっすぐ降りていった。
「掴まれ!」
 美樹が言うと同時に、低い着火音が響いた。
 蓮斗から滲み出たガソリンにタバコの火が引火し、火柱が天井に向かって伸びる。
 久留美は夢中で美樹の胸に飛び込んだ。美樹はそのまま久留美を抱き抱え、背後の窓を破って屋外に飛んだ。
 池の底から響くような蓮斗の悲鳴がホールに反響する。
 美樹が久留美を庇ったまま、屋外の地面に背中から落下した。分厚く積もった雪がクッションになり、思ったほど衝撃は強くなかった。
 建物内部は真っ赤に燃え上がり、ステンドグラスが割れて蓮斗の悲鳴が外まで響いてきた。美樹と久留美は炎に照らされたまま、しばし茫然とその光景を眺めていた。蓮斗の悲鳴は徐々に小さくなり、やがて炎が建物を舐める音だけが残った。
「……あれ? 山岡さんは?」と、言いながら久留美が周囲を見回した。どこかに避難したのか、姿が見えない。火はホールの天井に燃え移り、太い梁が燃える音が聞こえてきた。
 美樹はハッと気がついた。シオンがまだ中にいる。建物が崩れる前に連れ出さないと危ない。美樹は久留美にすぐに戻ると言いながら、燃え盛る建物の中に入った。

 シオンの落ちた穴周辺の炎は薄く、美樹は迷うことなく飛び込んだ。階下まで炎が回っていないのは幸いだった。レトロな作りの上物に比べて、穴の真下の部屋は遺棄された広い手術室のような作りで、不気味に静まり返っていた。
「……なんだ、これは?」
 着地した瞬間、美樹は目の前の光景に戸惑い、そのままの姿勢で静止した。
 リノリウムの床に、灰色の内臓のようなものがぶちまけられている。それはぬらぬらと光って、今まさに動物から引きづり出したかのように新しかった。
 美樹は注意しながら近づくと、それは内臓ではなく、触手の塊だった。死んでいるのだろうか、ぴくりとも動かない。所々が肌色に変色していて、その部分だけ人間の皮膚のような質感になっていた。
 肌色の部分は、例外なく硬いものがぶつかったような跡があり、折れたり曲がったりしていた。中から骨が飛び出している箇所もあった。先端が人の頭ほどの大きさに膨らんでいる部分は特に損傷が酷かった。それは、なにか硬いものを何回もぶつけられたように全体がボコボコと窪んで、元の形がわからなくなるほど酷く歪な形をしていた。人の顔のようにも見えたが、崩れ過ぎていて確証が持てない。
 肉塊のそばにハンカチほどの大きさの白い布が落ちていたので、美樹はそれを拾い上げた。上質なシルクで、細かいフリルと織り模様が施されている。
 シオンのヘッドドレスだった。
「まさか、これは……冷子か?」
 美樹が触手の塊を見ながら、呟くように言った。いや、おかしい。損傷が激しすぎる。シオンと闘っていたはずだが、シオンがこれほどえげつない攻撃をするはずが無い。
 直後、天井が崩れる音が聞こえた。
 美樹はヘッドドレスをスカートのポケットにしまい、落ちてきた穴を通って地上に急いだ。ホールには動かなくなった蓮斗がいた。炎は勢いが止まらず、中心の蓮斗は焦げた泥団子のように見えた。火が回った床の一部が崩れ、先ほどまで美樹がいた部屋の真上の床が崩落した。地下の触手の塊も炎に包まれたことだろう。炎は天井にも延焼し、建物全体がいつ崩れてもおかしくない状況だ。
 建物を出ると、美樹は久留美の手を引いて、自分のバイクが止めてある門まで急いだ。
「寒いと思うが、少し我慢してくれ」と、言いながら美樹はバイクに掛けてあった自分のライダースジャケットを久留美に着せた。
 久留美はバイクに跨った美樹の後ろに座り、しっかりと美樹の腰に腕を回した。バイクのエンジンが低音の唸りを上げる。美樹は久留美にヘルメットを被せると、雪煙を巻き上げながらバイクを走らせた。


 長い金髪が吹雪に踊っている。
 レクサスの後部座席のドアに手をかけながら、山岡が腰を九十度に曲げて待機している。
「……お待ちしておりました」
 山岡が言った。その声は寒さと緊張で微かに震えている。
「ノイズ・ラスプーチナ様……」
 山岡がタイミングを見計らって後部座席を開け、客人が乗り込むのと確認すると、細心の注意を払いながら静かにドアを閉めた。自分も素早く運転席に乗り込む。
「……実際にお会いするのは、初めてかしら?」
 運転席の座席を足先でなぞられている感触があり、山岡の背中がぞくりと粟立った。震える手でギアを入れ、アクセルを吹かす。
「行き先は……そうね──」
 氷の上を流れる冷気のような声だった。
 かしこまりました、と山岡は絞り出すように言った。背後で孤児院の建物が崩れ落ちる音が聞こえた。


 モスクワからの飛行機は、定刻を少し遅れて成田空港に到着した。
 ビジネスクラスの優先対応を受けながら、ゴシックアンドロリータのワンピースを着た少女がゲートを通過した。つまらなそうにチュッパチャプスをコロコロと咥えながら、黒いスカートのポケットに両手を突っ込み、ジト目で周囲を見回しながら歩いている。厚底の靴を履いているが背は低く、まだ子供と言っても差し支えない雰囲気だ。
「……国は狭いのに、空港は大きいのね」と、少女はロシア語で呟いた。
 赤いリボンでツーサイドアップに結ったプラチナブロンドの髪が歩くたびに揺れ、エメラルドグリーンの瞳は強気な印象を放っている。その目立つ姿に、すれ違う乗客の多くが振り返っている。上から下まで西洋人形のような完璧な格好だが、なぜか片方のリボンだけがやけに古ぼけていた。
「待っててね……お姉様」
 少女は自分にしか聞こえない声で囁くと、タクシー乗り場に向かって足を速めた。

DL発売に向けて、推敲を進めております。
イラストも完成しているため、今月末から来月上旬の登録を目指しますので、興味があればよろしくお願いいたします。



 強い北風が激しいノックのように窓を打っていた。
 窓には板が打ち付けているため、蓮斗の部屋は日光が入らず常に薄暗い。どこで買い集めてきたのか、状態の良いアンティークの調度品が所狭しと置かれている。
 天井からは様々な形の小さなランプが何個も吊り下がり、棚にはビンテージのマイセンや、真鍮でできた動物の置物がきちんとバランスを考えて飾られていた。
 暖炉にくべられた木がパチリと爆ぜる。蓮斗とテーブルを挟んで座る冷子が耳にかかった髪を直した。
 蓮斗は咳払いをすると、小さなビニールパックから微かにピンク色がかった細かい結晶を取り出して、スプーンの上に載せた。滅菌袋を破って注射器を取り出し、テーブルの上の生理食塩水を慎重に吸い上げる。スプーンの上の結晶に垂らすと、結晶は数秒で溶けた。
 蓮斗の喉がごくりと鳴る。
 一滴も残らないようにスプーンの中の液体を吸いあげ、左腕の静脈に慎重に突き刺した。部屋中に病的なまでに設置された多数のキャンドルに照らされ、蓮斗の顔には濃い陰影が浮かんでいる。血管を圧迫していないため、注射器内に血液が勢いよく逆流した。蓮斗は落ち着いて自分の血液と混ざり合い、どす黒く変色した液体を静脈へ押し込んだ。
 注射器を抜いた蓮斗が天井を向いて、止めていた息を一気に吐き出すと、冷子が呆れた様に声をかけた。
「何度見ても分からないわ。そんなモノのどこがいいのか」
「こんなモノでしか手に入らない快楽もあるんですよ……」と、言いながら蓮斗は椅子の背もたれに深く身体を預けた。
「快楽ねぇ……ねぇ、あなた達って何でそんなに快楽を求めるの? 快楽なんて、たかが脳内物質の一時的な増加に過ぎないのに。あなたみたいに薬に頼ってまで快楽を求める人間達を見ると、真性のマゾヒストなんじゃないかって本気で疑うわ」
「僕たち人間はコンプレックスの塊なんですよ。人間は生物学的に見れば、この地球上で最も弱い部類の生き物です。生身で本気でやり合ったとしたら、ペットの犬にすら勝てないんじゃないかな。薬や酒による快楽はそのコンプレックスを一時的に忘れさせてくれるし、現実的にそのコンプレックスを少しでも埋めるためには、必要以上に『所有』が必要なんです。服とか金とか、毛皮や牙の替わりにね」
「ふぅん」
 興味が無さそうに冷子が立ち上がる。事実全く興味が無いのだろう。蓮斗は薬が効いてきたのか、焦点の定まらない目を天井に向けて、ぶつぶつとなにかを呟いていた。
「ところで、 鷹宮美樹は本当に来るんでしょうね? あなたの面倒くさい作戦に乗ってやっているんだから、ヘマは許さないわよ。こっちは早急に事を運んで、邪魔なアンチレジストを潰したいんだから。鷹宮美樹を捕まえて、拷問でも何でもしてアジトの場所を吐かせて乗り込む。そしてトップの正体を突き止めて処分する。涼の仇を取る為にね。トップさえいなくなれば、後は烏合の衆よ。残った戦闘員や職員は一人ずつ殺せばいい」
 蓮斗は開いた口から垂れている涎を手の甲で拭うと、テーブルの上のコーラを一息に飲んだ。
「その点は抜かりなく……。今朝、鷹宮神社に手紙を置いておきました。美樹ちゃんが律義な人間であれば、あと数時間で、髪の毛を逆立てて乗り込んでくるはずですよ。そのためにこんなクソッタレな薬まで使って体力を絞り出しているんです。いつだって、例えば今日死んでも悔いが無いように生きたいですからね。酷い死に方は御免ですけど」
 冷子は鼻を鳴らすと、胸ポケットから栄養ドリンクのような茶色い瓶を取り出し、蓮斗に投げて寄越した。中にはとろりとした液体が入っている。
「今日死んでも悔いが無いのなら、これをあげるわ。あなたが欲しがっていた経口摂取タイプの薬剤。飲めば数秒で特定の神経のみを壊死させる事が出来る。簡単に言えば痛みだけを消すことができる薬よ」
 蓮斗は礼を言うと、瓶をカーゴパンツのポケットに仕舞った。
 冷子はクローゼットを開けて自分の着ているジャケットを丁寧に掛けた。スカートとシャツも脱いで別のハンガーに掛け、蓮斗の頭を正面から抱く様に跨がった。冷子の「食事」の相手をするために、蓮斗は静かに目を閉じた。


 美樹は養父の軽自動車に寄り添うように停めてあるバイクに跨がり、エンジンをスタートさせた。身体の中心を震えさせる振動が心地よかった。美樹は数回スロットルを回してエンジンを吹かすと、境内裏のスロープから国道に乗り、スピードを上げた。
 市街地から郊外へ進むに連れ、明かりの数が徐々に減っていく。美樹は軽快にスピードを上げて、あらかじめ調べておいた孤児院のある丘を登り始める。幸いなことに、雪はほとんど積もっていない。美樹は右へ左へとハンドルを切りながら、蛇行する山道をスピードを上げて登り続けた。
 十五分ほど登ったところで、外界を拒絶するようにそびえる大きな門が目に入った。美樹はスピードを緩め、門の側でバイクを降りる。
 三メートルを軽く超える赤錆びた門は、威圧する様に美樹を見下ろしていた。
 鉄の一枚板で出来た門には「セラ特別児童養護施設」と掘られた緑青の浮いた銅製のプレートがはめ込まれていた。門の左右には同じ高さのレンガ造りの壁が、森の中の遥か奥まで続いている。壁は施設をぐるりと取り囲んでいるようで、終わりは闇に溶けていて見えない。
「……まるで刑務所だな」と、美樹が白い息を吐きながらつぶやいた。
 美樹はバイクを停めようと、森の中へハンドルを切った。不意に、破裂音が響いた。美樹のバイクの前輪が何かに掴まれた様に動かなくなり、勢い余って後輪が持ち上がる。美樹は慌てて体勢を立て直して、倒れない様に持ちこたえた。バイクを降りて前輪を見ると、タイヤの空気が完全に抜けている。
 美樹はスタンドを立ててバイク降りると、目を疑った。レンガ造りの壁に沿って、鉄製の剣山が敷き詰められている。剣山は壁から三メートルほどの幅で、森の奥まで絨毯のように続いていた。
 美樹はその一本に触ってみた。
 錆び付いてはいるが、針の部分は禍々しいほど鋭利で、殺傷力は十分にある。先ほど勢い余って前方に放り出されていたら、背中から串刺しになっていただろう。万が一壁を乗り越えられた際の保険だろうか。
 美樹は気持ちを切り替えて門のそばにバイクを停めると、ヘルメットを脱ぎ、ライダースジャケットをハンドルに掛けた。巫女装束に似た戦闘服の乱れを直す。門からは、あらゆるものの侵入を拒絶する確かな意志が感じられた。門の上には、壁の下に敷かれた剣山と同様の、針状の突起物が見えた。美樹はシオンの言葉を思い出した。『家庭環境や様々な事情により、精神に深い傷を持つ子供達。その中でも反社会的行動をとる恐れのある子供と、既に反社会的行動をとってしまった子供達を収容した施設』。

「そんな所にいたら寒いよ。早く中に入った方が良い」
 不意に声がかかり、美樹は反射的に後方に飛び退いて身構えた。
 門が悲鳴のような音を立てて開き、中から真っ黒い服装をした蓮斗が現れた。
「バイクの音が聞こえたからさ……また会えて嬉しいよ」
 美樹は飛びかかりたい衝動を堪えながら、無言で蓮斗との距離を詰める。蓮斗は美樹から視線を離さずに後ずさりすると、門の中へ入る様に促した。
「早く建物の中へ入ろう。その服はアンチレジストの戦闘服かい? ミニスカートの巫女装束に、インナーは競泳用水着みたいだね。美樹ちゃんらしくて良いと思うけれど、とても寒そうだ。さあ、早く中へ……」
「貴様が先に行け。後ろから不意打ちでもされたら面倒だ」
 蓮斗はやれやれとジェスチャーすると、美樹に背中を向けて歩き始めた。数メートルの距離を置いて、美樹も続いて門をくぐる。
 門の中は、殺風景な庭だった。鎖だけが垂れ下がっているブランコや、立ち枯れになった楡の樹が風雪にじっと耐えている。
 雪が地面のほぼ全てを覆い、それを切り裂くように赤茶色の煉瓦道がかろうじて顔を出している。煉瓦道の脇には等間隔にガス灯が設置され、赤味を帯びた光を雪の上に落としていた。その明かりの先に、うっすらと二階建ての建物のシルエットが浮かび上がっている。
 蓮斗は煉瓦道を慣れた様子で進んだ。美樹は蓮斗と一定の距離を保って歩く。建物の輪郭がはっきりしてくる所まで来ると、蓮斗が歩きながら美樹を振り返った。
「今はもうボロボロだけど、遺棄される前は結構立派な施設だったんだ。庭は柔らかい芝生で覆われていて、庭木も、あの楡の木の他にもたくさん生えていた。建物の屋根を見てごらん。二つの尖塔に大小の十字架があるだろう? あの十字架は昔は真っ白でね、夕方になると西日を浴びてキラキラと輝いて見えたんだ。ステンドグラスもたくさんあって、時間が過ぎるごとに光の当たり方が変わって、色味が刻々と変わって見えるんだ。とても綺麗だったよ」
 美樹は蓮斗の言葉には応えず、黙って建物を見上げた。
 荒れはじめた庭と違い、建物の方はあまり痛んではいなかった。人が住むには全く困らないだろう。
 蓮斗の言う通り、なかなかに洒落た建物だ。入り口のドアや、大きく二つ突き出た尖塔は見事なシンメトリーに配置されている。規模は比べ物にならないが、建築様式がどことなくアナスタシア聖書学院に似ていた。ダークレッドを基調とした屋根や、外壁に使われているくすんだ漆喰の色。暗めな配色のステンドグラスに、建築家独特の癖の様な物が感じられた。
「ようこそ。汚い所だけど、遠慮なくくつろいで……」
 蓮斗がテラスに上がり、真鍮のドアノブを捻りながら振り返った瞬間、美樹が背後から強烈な掌底を見舞った。蓮斗は顎をしたたかに打ちぬかれ、観音開きの扉をたたき壊すほどの勢いで建物内に転がって行った。
 美樹が注意深く中に入る。
 玄関ホールは広い。
 手入れがされていないため所々痛んではいるが、壁は上質な漆喰で、特に床材の黒檀は目を見張るものがある。今では条約で取引が制限されている希少材が、ごく当たり前に使われていた時代のものだろう。見上げるようなホールの天井からは、大きいがシンプルな装飾のシャンデリアが暖色系の明かりを四方に振りまきながら、すきま風に晒されて微かに揺れている。玄関ホールのほぼ中央から伸びている階段は、中央の踊り場で二手に別れて二階へと続くクラシックなデザインだ。
「げほっ……はは……せっかちだなぁ。本番に入る前は、まず気の効いたトークで雰囲気を盛り上げるのが常識ってものだろう?」
 美樹は階段の側でうずくまっている蓮斗に無言で近づくと、脇腹を蹴り上げた。爪先に鉄板の仕込まれた堅牢なコンバットブーツは蓮斗の腹筋を破壊し、内蔵に強烈なダメージを与える。
「ぶごっ!? ひひ……み……巫女さんとは思えない暴力……げぼっ……。大好きだよ、そういうギャップは」
 胃をやられたのか、蓮斗は粘ついたどす黒い血の塊を床に吐いた。立ち上がろうとするが、足元がおぼつかずに尻餅をつく。美樹はよろける蓮斗に近づき、胸ぐらを掴むと額が付きそうな距離で蓮斗の目を覗き込んだ。
「この程度で終わりだと思うなよ。久留美にどのような仕打ちをしたか知らんが、それなりの報いを受けてからアンチレジストへ突き出させてもらう。私は弱いもの虐めをしている奴が一番嫌いなんだ。早めに久留美を開放した方が、病院の天井を眺める退屈な時間が短くて済むぞ」
 次の瞬間、蓮斗のにやついた表情が消えて無表情になった。凍りついた宇宙の果てのような、何も無い表情だった。急激な表情の変化に美樹は怪訝な顔をし、同時に思い出した。アナスタシア聖書学院の生徒会長室でシオンに見せられた写真。子供の頃の、太っていた頃の蓮斗のそれだった。
「久留美はどこにいる?」と、美樹は聞いた。
 蓮斗の表情はすぐ元に戻り、再び笑い出した。
 美樹は蓮斗の金色に逆立った髪の毛を掴んで無理やり立ち上がらせると、腹に膝を打ち込んだ。ぐちゅりという嫌な音がして、蓮斗が呻き声を上げながら前屈みになり、その際に下がった顎を掌底で跳ね上げた。衝撃で蓮斗の身体が浮き、背中から床に落ちる。美樹は再び蓮斗の金髪を掴むと、額を真鍮で出来た階段の手すりに打ち付けた。額が割れて、蓮斗の金髪が赤く染まる。
「いぎっ! ひ、ひひ……容赦ないなぁ……」
「口がきけるうちに喋れ。久留美はどこにいる?」と、美樹が蓮斗の髪を掴んだまま、耳元で凄んだ。淡々としているが、震え上がるような低く静かな声だった。「必要以上に痛ぶるのは好きではないんだが、貴様がこのまま久留美の居場所を吐かないのなら、指から折らせてもらうぞ? その後は手首、前腕、肘、二の腕、そして肩を外す。鎖骨を折ったら、次は肋骨だ。居場所を話したら、すぐに失神させてやる」
「ははは……やさしいなぁ美樹ちゃんは。案内するよ。居場所を話したって、この施設の構造は美樹ちゃんにはわからないだろう? それに鍵のかかった場所もある。僕を失神させるのは久留美ちゃんと再開してからでも遅くはないだろう?」
 美樹は少しの間思案した後、蓮斗の身体を投げ捨てる様に解放した。蓮斗はよろけながら立ち上がると、美樹の前で両腕を広げる様なポーズをする。抵抗する気はないという意味に取れた。
「……行け」と、美樹は蓮斗を睨みながら言った。
 蓮斗はわざとらしくお辞儀をした後、背中を向けて歩き出した。
 中央階段の裏手にまわると、観音開きの扉があった。蓮斗が鍵を開けると地下へ下りる階段が現れた。壁や床はコンクリート打ちっぱなしで、天井には古ぼけた蛍光灯が埋め込まれている。美樹は一定の距離を保ったまま、蓮斗の後に続いて階段を下りた。中腹まで降りたあたりで、背後で自動的に扉が閉まった。
 階段を降りきると再び扉があり、開けると地下特有の湿気が美樹の身体を包んだ。真冬の外気で乾燥した美樹の長い髪がわずかに重くなる。水はけが悪いのか、廊下の隅に黒いカビが生えていた。
 地下にはふたつの部屋があり、蓮斗は奥のドアの鍵を開けて中に入った。注意深く美樹も室内に入る。蓮斗は美樹から離れるように、入り口とは反対方向の壁に背中を付けて腕を組んだ。部屋には用途不明の様々な器具が置かれ、それらに取り囲まれる様に久留美が制服のまま仰向けに寝ていた。美樹が駆け寄り、抱え上げて呼びかけと、久留美はうっすらと目を開けた。
「久留美? 久留美! 大丈夫か?」
「あ……せ、先輩……?」と、眠そうに久留美が言った。
「迎えに来た。もう大丈夫だぞ」
 美樹は静かに言うと、久留美の髪をそっと撫でた。
 久留美はまだ朦朧としているようだが、幸い外傷は無さそうだった。髪を撫でる心地いい感触に久留美の顔がふっと緩む。
 メキリと音を立てて、美樹の右腕に衝撃が走った。蓮斗が鉄パイプを美樹の二の腕に振り下ろしていた。
「ぐうっ!?」
 美樹は痛みに耐えながらも無事な左手で久留美を寝かせると、片膝を着いたまま蓮斗に向き合う。右肘から先が痺れて感覚が鈍い。再び鉄パイプが振るわれ、直角に曲がった継手部分が美樹の腹ににずぶりと食い込んだ。
「ごぶぅっ!? んぐっ……お……っ」
 レオタードむき出しの部分が痛々しく陥没すると、固く冷たい金属の感触が美樹の腹部を中心に全身を駆け巡った。
「久留美ちゃんはいいよな……助けてくれる人がいてさ」
 蓮斗は何の感情も読み取れないほど無表情になっていた。
「先輩!?」
「大丈夫だ……」
 立ち上がろうとする久留美を手で制しながら、美樹は痛む腹を押さえて立ち上がる。強打を受けた右腕は折れてはいないようだが、いまだに感覚が戻らない。蓮斗はカーゴパンツのポケットから栄養ドリンクのような瓶を取り出すと、キャップを開けて中身を一気に飲み干した。
「おえっ……まっず。ったく、少しは味にも気を使ってほしいな」
 蓮斗は顔をしかめて口元を拭いながら、空になった瓶を背後に放り投げた。瓶は固い音を立ててバウンドした後、壁に跳ね返って止まった。
「それも人妖が作った薬か? なぜ人間の貴様が人妖に取り入っている?」
 蓮斗は答えず、ゆっくりと美樹に近づくと、大振りなモーションで鉄パイプを振り下ろした。美樹は素早くそれを避け、間髪入れずにバックナックルを放つ。蓮斗はしゃがんで躱すが、美樹がバックナックルの勢いを殺さずに回し蹴りを放と、避けきれずに頬にヒットした。蓮斗は一瞬ぐらつきながらも、美樹の脚を掴み、鉄パイプを捨てて美樹の腹部に拳を埋めた。ぐじゅりと音がして、美樹の腹に拳が陥没する。
「ぐぷっ?!」
 美樹の目が見開き、小さく開いた口から唾液が飛び出る。
 普段の美樹であれば難なく防御したであろうが、片腕が言うことを聞かず、片足立ちでバランスを崩した今の状況では蓮斗の攻撃をガードすることは難しかった。美樹は左手で蓮斗の奥襟を掴むと、腹の底からこみ上げて来る吐き気を押さえながら、蓮斗の鳩尾に膝を打ち込んだ。
 蓮斗の口から空気が漏れる男が聞こえる。人体急所を突かれ、その身体には恐ろしい苦痛が駆け巡っているはずだが、蓮斗は表情を崩さない。美樹は一瞬顔をしかめると、続けざまに攻撃を放った。蓮斗は顎や鼻を撃ち抜かれ、鼻から血を流しながらもニヤニヤとした笑みを崩さなかった。
「貴様……なにをした……?」
「ああ、いいね。その混乱した表情、そそるよ」
 ずん……という重い衝撃が美樹の全身を駆け抜けた。この感覚には覚えがある。美樹はおそるおそる視線を下に移すと、自分の鳩尾に蓮斗の拳が半分ほど埋まっていた。
「うぐっ!? ぐあっ!」
 一瞬置いて美樹の身体を苦痛が駆け巡る。
 たまらずに両膝を着き、口内に大量に溢れた唾液を吐き出した。唾液は口から糸を引いて床に垂れ、コンクリートの床に染みを作った。
「さっき飲んだ薬だよ。コールドトミーって知ってる? 冷子さんに頼んで、痛覚を遮断する薬を作ってもらったんだ。身体から脳へ痛覚を伝達する神経を壊死させるらしい」
「けほっ……い、痛みは身体の危険を伝えるための大切な信号だ。それに、たとえ痛みを消してもダメージは消えんぞ……」
「だから? 俺は今を楽しめればそれで良いんだ。昔から我慢して我慢して……痛い思いもたくさんしてきた。そろそろ好き勝手させてもらってもいいだろ?」
 蓮斗は美樹の奥襟を掴んで立ち上がらせると、抉る様に美樹の腹部を突き上げた。薄い生地を巻き込む様に美樹の腹部が陥没し、温かく水っぽい感触が蓮斗の拳を包んだ。心地よさに蓮斗の顔には笑みが浮かび、変わりに美樹の顔は苦痛に歪んだ。
「ゔあっ!? ぐ……あぁ……ぐぷっ!?」
 腹部に拳を突き込んだまま、更に美樹の奥へと押し込む。美樹が歯を食いしばって蓮斗の突き飛ばし、ようやく感覚が戻った右手で顎を突き上げた。蓮斗の顔が仰け反り、天井を向いたまま身体が宙に浮く。一瞬の滞空の後、背中から地面に落下した。ダメージを感じている様子は無い。顎を跳ね上げられる直前まで、蓮斗の視線は一瞬も美樹から離れなかった。
 蓮斗の攻撃自体は大振りで単調だ。決して苦戦する相手ではない。しかし、ダメージが通らずに長期戦になれば、こちらも消耗してくる。ダメージによる戦意喪失が望めない以上、確実に失神させるほか無い。顎や頭への衝撃も鈍いようだ。頸動脈を締めて確実に落とす方がいい。
 蓮斗がネックスプリングの要領で跳ね起きると、凝りをほぐす様に首を鳴らしながら血の塊を吐き出す。血塊はかつんと固い音がをたてて床に跳ね返った。赤黒く染まった奥歯だ。
「厄介なものだな……とんだ相手に好かれたものだ」
 美樹が軽口を言うと、蓮斗も血に染まった前歯を剥き出しにして笑う。
「俺は一途なんだ。惚れた女の為なら死んでも尽くすさ……」


「到着しましたが……本当に行かれるのですか?」
 シオンはドアを開けてくれた運転手に「ええ」と短く返事をすると、後部座席から降りて分厚い鉄の門を見上げた。運転手は何か言いたげに口を開いたが、諦めたようにシオンの背中を見つめたまま黙って後部座席のドアを閉めた。
 雪はほとんど止んでいた。
 孤児院の門や塀の上には錆の浮いた剣山が、氷のように冷えたまま微動だにせずに立ち尽くしている。
 シオンがぬめるような光沢のある黒いカシミヤのロングコートを脱いで運転手に手渡すと、さっと風が吹いてシオンのツインテールに纏めた金髪がなびいた。見てるこちらが寒くなりそうなデザインの、メイド服を基調としたセパレートタイプの戦闘服が露になり、初老の運転手は目のやり場に困り視線を逸らした。
「では山岡さん、終わりましたら連絡しますので」
「あの、本当によろしいのですか? 年配の勘と言いますか、何やら厭な予感がするのです。出来ることならこの場で待たせていただいても……ッ!?」
 シオンが白い手袋に包まれた人差し指を山岡の唇に当てて言葉を遮る。シオンは片目を閉じて、穏やかな笑みを浮かべている。現実感の欠如した美しい顔が間近に迫り、山岡はどぎまぎと視線を泳がせた。
「本当に大丈夫です。それに今日は任務ではなく、ただの私の暴走……。勝手に戦闘服を持ち出して、勝手に美樹さんに加勢するんですから、組織にバレる前になるべく早く解決して無事に戻ることを最優先にします。必ず帰りますので、ご心配なさらずに」
 シオンは走り去る車を見送ると、あらためて門を見上げた。それは門というよりは、壁に近かった。あらゆるものの侵入を拒み、あらゆるものの脱出を許さない鉄の一枚板を見ていると、自由という言葉が遠い異国の少数民族の言語の様に思えた。上空では灰のような重い雲が立ち込めている。またすぐ雪になるのだろう。
「セラ……CELLA……ラテン語ですね。小部屋、神像安置室、広い意味で聖域。子供達にとっての聖域という意味で付けられたのでしょうか?」
 シオンが門に嵌め込まれているプレートを読んでつぶやいた。自分のシオンという名前にも、聖域という意味がある。この施設を作った人間は、どのような思いを込めてセラという名前を付けたのだろうか。
「美樹さん……久留美ちゃん……」
 シオンは自分にしか聞こえない声量で呟くと、扉を押し開けて施設の中へと入って行った。


 美樹の放った回し蹴りが綺麗な弧を描いて蓮斗の顔面をしたたかに打った。どろりとした鼻血がミミズのように蓮斗の鼻から這い出る。蓮斗は怯むことなく大振りの前蹴りを放った。重そうなブーツが空を切る。美樹は難無く蓮斗の蹴りを躱すと、背後から蓮斗の首に蛇のような素早さで自分の腕を巻き付けた。頸動脈のみを締め上げられ、蓮斗の視界に銀色のオーロラが降りてくる。顔が徐々に膨張する様な錯覚。耳の奥できいんと耳鳴りが鳴り響いている。
 あと数秒で失神すると蓮斗は思った。
 蓮斗は痙攣の始まった手でカーゴパンツのポケットに手を突っ込んだ。硬い感触が指先に触れる。栄養ドリンクに似た瓶のキャップを片手で器用に開けると、中身を背後にぶちまけた。美樹が驚いて手を離す。残りの薬剤を口に含み、霧状にして美樹の顔に吹きかけた。薬剤を吸い込み、美樹は軽く咽せた。南国の花の様な重く甘い香り。瞬間、チリッとした刺激が脳の表面を駆け巡った。
「先輩……」
 背後から久留美の声が聞こえた。振り返る。美樹の上着の袖を掴みながら久留美が立っている。
「先輩……蓮斗さんを傷つけちゃ……嫌です……」
 久留美は甘えるような声を出すと、背後から美樹の胴体に腕を回して抱き着いた。突然の事に美樹が狼狽する。
「く、久留美? なにを言っている? 手を放せ!」
「大丈夫ですよ先輩……。蓮斗さん、とても良い人ですから。それに、蓮斗さんがお腹を殴ってくれると、すごく気持ち良くなれるんです……」と、久留美は熱に浮かされた様に呟いた。「こんな感情……私、初めてなんです。先輩も早く、蓮斗さんに気持ち良くしてもらってください。大丈夫です、痛いのは最初だけですから」
「馬鹿なことを言うな! 目を醒ませ!」
 美樹が身じろぎしている最中、蓮斗が音も無く近づいた。
「……ッ、貴様! 久留美に何を……」
 美樹が言い終わる前に、ぐじゅっ、と水っぽい音が美樹の身体を通って鼓膜に届いた。蓮斗の拳が、美樹の薄い生地に包まれた腹部に埋まっている。
「ぐぼっ!」と、美樹が悲鳴を上げた。不意打ちを受けた腹は蓮斗の拳を柔らかく包み、温かい粘液の様に絡み付いた。美樹の視界がぐらつき、猛烈な吐気がこみ上げる。同時に、拳を打ち込まれた場所からどくんと脈打つ様な感覚がこみ上げて来た。
「……ッ?! くあぁっ?!」
 美樹がびくりと痙攣しながら、身体を折り曲げるようにして悶えた。叫んだ瞬間に粘度の増した唾液の飛沫が舞う。
 殴られた下腹部が脈打つような感覚があった。下腹部にもうひとつ心臓が発生し、脈打つような信号を脳に送っている。それは温かく、柔らかくて甘い信号だった。泥の中を裸でのたうつような、極めて官能的な感覚を美樹ははっきりと感じた。
 美樹は焦点のズレた目で下腹部を見下ろした。
 アンダーウェアの生地を巻き込んで、蓮斗の骨張った拳が深くめり込んでいた。それを認識した瞬間、どくん……と拳のめり込んでいる腹部のあたりが脈打った。雷のような快感が美樹の背骨を駆け上がり、頭蓋骨の中で破裂する様子がはっきりとイメージ出来た。
「んぅッ?! くはぁぁぁッ!」
 美樹は訳もわからずに沸き上がって来た快感に身体を捩らせた。腹部を殴られた苦痛と同時に発生した快感。頭の中を沸騰した嵐が吹き荒れている中、二発目の鉄槌が鳩尾に撃ち込まれた。
「んぶぅッ?! んぶ……ッ……んあぁぁぁぁ!」
「あははは、気持ちいいでしょ? 頬染めちゃって、可愛いなぁ」
「ぎ……ぐぅッ……ぎざま……」美樹がびくびくと痙攣しながら、涙の溢れる目で蓮斗を睨みつける。食いしばった歯の隙間から荒い息が漏れていた。「何を……んくッ……私に……何をした……?」
「あはぁ……先輩……すごく気持ち良さそう……。気持ち良いですよね? 蓮斗さんにお腹殴られると……」久留美がとろんとした笑みを浮かべながら美樹の首筋に舌を這わせると、美樹の身体がビクリと跳ねた。堪えていた息を美樹が吐き出すタイミングで、蓮斗の膝が撃ち込まれる。
「ぐぼぉっ?!」
 膝を腹に打ち込まれた衝撃で美樹の目が見開かれ、舌が口から飛び出す。
 美樹は戸惑っていた。
 臍や鳩尾、胃の辺りを責められる度に、じんわりと熱を持った葛湯の様な甘くとろみのある液体が子宮のあたりに沸き上がるのを感じていた。あくまでもイメージではるが、その液体は腹部周辺を責められる度に子宮の中に溜まってゆく。ぐじゅり……ぐじゅり……と蓮斗は容赦なく美樹の腹を責めた。久留美は美樹の背後から抱き着きながら、苦痛と快感に耐える美樹の顔をうっとりと眺めている。
 美樹の中で、今まで感じたことの無い感情が芽生えていた。
 子宮を殴られたい。
 この子宮に溜まった液体を、どうにかして欲しい。
「くぅッ……! 蓮……斗……」美樹が泣きそうな顔になりながら蓮斗を睨んだ。「うッ……はぁ……ぐぅッ……!」
 子宮を殴って欲しい。その骨張った拳で潰して欲しい。
 自分の意志に反した逆らいようの無い欲求。美樹は必死に頭を振ってその甘い欲望の濁流に飲まれないように耐えた。
「へぇ……頑張るんだな。早く久留美ちゃんみたいに堕ちちゃえばいいのに」
「そうですよ先輩……一緒に気持ち良くなりましょう? 我慢する必要なんて無いんです。先輩は今までずっと頑張ってきたんですから、もう素直になってもいいんですよ?」
「くっ……もう一度聞くぞ……私になにをした……?」
「オーダーメイドしたチャームを使わせてもらったのさ。人妖の分泌するチャームを培養して、腹部が性感帯になるようにカスタムした特製のね。俺に殴られてすごく気持ち良いでしょ? チャームには誰も逆らえない。もうすぐ美樹ちゃんも、久留美ちゃんみたいに自分からお腹を殴って下さいってお願いするようになるんだよ」
「ふざけるなッ! そんなものに……私が屈するものか!」
 美樹は自分に言い聞かせるように叫んだ。
 蓮斗はその様子を鼻で笑うと、軽い動作で拳を引き絞った。
 ぐぽんッ……と蓮斗の拳が、美樹の子宮を抉った。
 それは待ちかねた刺激だった。美樹は次の瞬間、子宮に溜まった温かく甘い液体が、まるで水風船が破裂したように体内にまき散らされるのを感じた。それは細胞の隙間を強烈な快感の爪で引っ掻きながら体中に広まった。爪先から脳天まで快感が広がり、美樹の視界は星が散った様に明滅した。
「ふぐあぁぁぁぁッ! はぐッ……くふッ……あああッ!」
 美樹は身体を仰け反らせ、絶叫しながら快感に耐えた。絶頂の波が絶えず身体を駆け巡り、痙攣する身体を歯を食いしばって必死に抑えた。蓮斗が美樹に近づき、再び拳を引き絞った。拳が腹部に当たる瞬間、美樹は自分が無意識に腹筋を緩めたことに気がついた。自分は、快感に負けてしまったのかと、美樹は底の無い暗い穴に落ちる様な気持ちになった。


 シオンが錆び付いた門をくぐると、高い壁に阻まれて風の音が聞こえなくなった。建物に通じる煉瓦道には二人分の足跡がかすかに残っていて、建物の窓からはかすかに明かりが漏れていた。
「おかしいですね……」と、シオンは二つに結った長い金髪を手櫛で梳きながら首をかしげた。
 シオンは透き通るような緑色の瞳で建物を見据えた。特殊繊維で出来た戦闘服のおかげで見た目に反し寒さはほとんど感じないものの、背中に甲虫が何匹も這い上がっているようなちくちくとした違和感を感じていた。
 特別養護孤児院「CELLA」は写真で見た通り、シンメトリーの美しい外観だった。建物自体の痛みもほとんど無い。
 殺人か、それに準ずる罪を犯した子供のみを保護していたこの施設は、数年前まで世間から隠されるようにこの森の中で確かに運営されていたのだ。誰の目にも触れることなく。幼くして殺人という罪を犯した蓮斗や木附姉妹、その他の子供達と一緒に。
 シオンは美樹と別れた後も、様々な手法や、時にはそれなりの金を使って蓮斗の犯行やCELLAについて調査を継続していた。
 CELLAの運営は専門に設立された国営組織が管理していた。表向きは孤児院としていたが、内部は非公開で、近隣住民との接触は皆無だったという。もっとも施設以外は特に何も無い山の上という立地もあり、近隣住民はさして施設の存在を気にもしていなかったようだ。電話番号もホームページも公開されず、子供達を乗せたバスや生活必需品を積んだトラックが時折出入りする以外は外界からは遮断されている。そしていつの間にか閉鎖した後、職員や住人の子供達はまるで夜逃げをするように静かにいなくなっていた。
 すべての物事には理由がある、という言葉をシオンは信じていた。どのような些細な現象も、すべてその結末に至るまでの原因と理由があり、偶然というものは突き詰めていけば存在しないことなのだとシオンは考えていた。いくら凶悪犯罪を犯した子供が入所しているとはいえ、オープンな更生保護施設や自立支援施設はたくさんある。なぜCELLAだけが隠すようにひっそりと運営され、ひっそりと閉鎖されたのか。そこに至るまでには何らかの理由があり、何らかの目的のがあったはずだ。
 シオンは周囲を見回しながら、建物に向かって歩いた。
 庭の隅ではブランコの鎖が風に吹かれ、その奥では葉の落ちた楡の木が無言で立っていた。
 ぴたりとシオンの足が止まる。門をくぐってからずっと感じていた違和感の正体を探るように建物を見上げた。小さめの教会のような外観。シオンは白い手袋に包まれた人差し指と親指で細い顎を挟みながら考えた。
「やはり、小さ過ぎますね……」と、シオンがつぶやいた。
 シオンは「CELLA」に収容されていた孤児のリストを思い出し、そこから同時期に住んでいたであろう人数をざっと計算した。ビルのような建物に比べ、洋館は装飾性は高いが居住面積はずっと少なくなる。建物の大きさからして、部屋数は決して多くないはずだ。それに保護している子供の性質から考えて、子供一人当たりの占有面積は通常の施設よりも広くとる必要がある。対応に当たる職員も一般の孤児院に比べ多いはずだ。この大きさでは狭過ぎて収容できなかったはずだ。
 きぃ……と背後でブランコが鳴いた。
 シオンが振り返り、さくさくと雪を踏みながらブランコのそばまで移動した。
 変わった形のブランコだ。
 公園でよく見る三角形の支柱ではなく、巨大な鉄棒のような形をしている。まるで大きなホッチキスの針が地面に刺さっているように見えた。
 支柱から渡された横木からは五本の鎖が垂れ下がり、風に揺れていた。
 ……五本?
 シオンは嫌なものが腹の底から湧き上がるのを感じ、頭を振った。楡の木のそばへと移動する。木の根元には風雨に曝された大きな木箱が三つ、楡の木に寄りかかる様に置かれていた。その一つを開けてみる。底板は無く、直接地面が見える。中身は空だったが、木屑のような匂いに混じってかすかに腐敗臭がした。
 堆肥を作るコンポストだろうか。
 三つある箱のひとつには小さな鍵が付いていた。シオンはペンライトを取り出して鍵を観察する。見た目は簡素だが、どうやらカード式らしい。
 シオンは周囲を確認し、脇を締め、右足を一歩分後ろに引いて構えた。両足を捻るように動かし、つま先に鉄板の入ったエナメルのストラップシューズで地面を踏みしめる。右肩を勢い良く後方に引き、捻ったゴムが元に戻るように反動をつけて身体全体を回す。防御を考えないため、右足を蹴り上げるのと同時に右手を後方へ一気に引いた。
「ふッ!」と、シオンがすぼめた唇から力強く息を吐き出す。
 木の砕ける重い音が凍てついた空気を震わせ、重い蓋は紙のように宙を舞った。
 シオンは構えを解いて箱の中を覗き込む。
 取っ手の付いた鉄板が見えた。蓋は意外なほど簡単に開き、人一人がやっと通れるほどの階段があった。
「やはり」と、シオンが言った。階段から建物までの距離は約百メートル。おそらく敷地全体に地下空間が広がっているのだろう。地表の建物はあくまでも飾りで、この地下空間こそが「CELLA」の本体だ。
 扉を開けたことに反応して、自動的に蛍光灯が階段を照らした。
 シオンは前髪を掻き上げると、慎重に階段を下り始めた。こつこつと自分の足音が冷たい壁に反響する。この先に何が待ち受けているのかわからないが、すべて受け入れようと思った。どのような形であれ、それが真実なのだから。

 階段を降りた先には金属製のドアがあった。中に入ると、かすかなカビと湿気の匂いが鼻を突く。ジリジリと音を立てる古い蛍光灯に照らされて、漂白されたような白い壁や薄い緑色の床が浮かび上がった。病院のような作りで、遺棄される直前まで衛生的に保たれていたらしい。廊下を歩きながら、美樹や久留美は無事だろうかとシオンは思った。この奇妙な施設の調査も進めたいが、まずは二人と合流しなければならない。そして人妖と行動を共にしている蓮斗の目的や経緯を、できれば本人から直接聞かねばならない。どのような理由から人妖に協力しているのか。他にも協力者はいるのか。そしておそらく、冷子もこの施設にいるはずだ。やらねばならないことは多い。
 蓮斗か……。自分や美樹とほとんど歳は変わらないが、十歳の子供があんな恐ろしい犯行を行えるものだろうか。
 独自に入手した凄惨な現場写真や事件の調書を調べている間、シオンは何度も吐きそうになり、酷い目眩を感じてソファに倒れ込んだ。シオンは物心がついた頃──ちょうど父と死別した頃から、死を連想させる事象に対して強い恐怖を感じるようになった。父親の死はシオンの記憶からすっぽりと抜け落ちてしまっているが、おそらくその際に何らかのショックを受けたことが原因だろうとシオン自身は思っている。いつかカウンセリングを受けるべきかと思うのだが、なかなか踏み出せずに今になってしまった。だから、凄惨な殺人事件を起こした蓮斗の犯行記録は、シオンにとっては耐え難いものだった。
 しかし、必死な思いでシオンは資料を読み込んだ。資料によると、事件は蓮斗が六歳の頃、肥満体型を理由にイジメられ始めたことに端を発している。イジメは最初は遊びの延長のような軽いものだったらしいが、次第に内容はエスカレートしていった。蓮斗は何度か担任教師に相談をしたが、教師は首謀者の肩を持ち取り合わなかった。首謀者の家が生活保護を受けていることに同情したらしい。両親と蓮斗の仲も良好とは言えず、蓮斗が八歳になる頃には、イジメはクラス全体を巻き込んだ大きなものになっていた。味方のいない蓮斗はあるとき、学校で飼育していたウサギを生きたまま焼却炉に放り込み、教師から厳しく叱責される。また、学校に呼び出された蓮斗の両親はその日、雪が降る夜に蓮斗を家から放り出した。
 蓮人は自分をイジメていたクラスメイト達が全く咎を受けず、ウサギを殺した自分だけが糾弾されたことに猛烈な理不尽を感じた。また、ウサギを殺したことを弱いものイジメの最低な行為と教師や両親から罵られたが、それでは今自分がクラスメイトから受けているイジメは何故許されているのだろうか。
 蓮斗は身体の底から黒いものが湧き上がってくるのを感じながら、寒さと空腹に耐えかねてショッピングセンターで途方に暮れていた。その時、目の前をイジメの首謀者が母親と共に通った。家族と楽しそうに笑う首謀者を見た瞬間、蓮斗は「口から内臓が飛び出すほどの憎悪」を感じたと調書に書いてあった。
 蓮斗は公衆トイレの個室で凍えながら一夜を明かすと、自宅に忍び込んで包丁と金属バッドを持ち出して学校へと向かった。授業には出席せず、放課後に首謀者が一人になったところを見計らって、背後からバットで殴り昏倒させると、グラウンドの隅にある体育倉庫の中に主謀者を拘束して監禁した。夜、学校から完全に人がいなくなったことを確認すると、蓮斗は首謀者を裸にし、腹部を内臓が破裂するほどバットでめった打ちにした後、まるで解剖するように喉から性器までを一文字に包丁で裂き、内臓を引きづり出した後にバットで頭を割って殺害した。腹を裂かれた時か、頭を割られた時か、どのタイミングで首謀者が絶命したのかはわからなかった。その後の警察の調査で、首謀者の露出した内臓から蓮斗の精液が検出された。
 蓮斗は首謀者の身体を焼却炉に押し込むと、血まみれのまま学校の近くに住むクラスメイトの家に侵入した。そこは母子家庭で、布団を並べて寝ている親子をバットで殴り昏倒させると、二人の手足をロープで縛り、母親の目の前でクラスメイトの腹部を滅多刺しにして殺害した。母親の狂ったような悲鳴を聞いて近所の住人が警察に通報。警官が駆けつけた時、蓮斗は四方に内臓を飛び散らせた無残な姿のクラスメイトの横で、同じように腹の裂かれた母親の内臓を一心不乱に掻き回していた。母親とクラスメイトの内臓からも、蓮斗の精液が検出された。
「ゔっ……げほっ……」
 シオンは眩暈を覚えて、口元を押さえて片膝を着いた。このタイミングで思い出さなければよかった。フラッシュの様に明滅する凄惨なイメージを頭を振って払拭する。なぜ幼い子供がここまで歪み、凶行に及んだのか。こうなってしまう前に、周囲は誰も助けなかったのか。蓮斗の味方はひとりもいなかったのか。
 シオンはふらふらと立ち上がり、目を閉じて大きく息を吐いた。しっかりしなければ。まずは目の前の状況に集中するべきだ。
 シオンは慎重に薄暗い廊下を進んだ。
 やはり地下施設はかなり広く、部屋数もかなりある。廊下から部屋の中を覗けるように大きな窓が嵌まっている。ほとんどの部屋には数台のパイプベッドが置かれているだけで、装飾などは無かった。しばらく歩くと、コンピューターが置かれたナースステーションのような部屋があった。中に入る。強盗にでも入られたかのように、ファイルや紙の資料が散乱していた。シオンは足元に落ちているファイルを手に取って中を見る。顔写真付きの履歴書のような紙が多くファイリングされていた。
 シオンは手早くファイルをめくる。
 いた。
 蓮斗だ。
 この施設で保護された後に撮影されたのだろう。脂肪で膨れた頬と二重顎の蓮斗が、写真の中からどんよりとした視線をシオンに送っていた。書類には神経質そうな細かい文字がびっしりと書き込まれていた。
「な……え……?」シオンは思わずファイルを顔に近づけた。「人妖適性……?」
 書類には蓮斗の細かい身体情報や経歴、蓮斗の起こした事件の調書の他に「人妖適性」なる見慣れない所見が書かれていた。

 ──施術に対する身体的適性は中からやや低い。しかし、いわゆるサイコパスであり精神的適性は高い。親や周囲から拒絶されたことによる極端な自信の喪失からか、自分に興味を抱かせるために作り話をしたり、高価な物品や装飾品へ執着したりする傾向が見られる。また、自身や他者の生命や身体に対して、尊厳や執着は感じていない。これらの精神的傾向は人体実験や薬物投与への抵抗感の少なさに加え、人妖化後に異性を餌として補給する際、有利に働くものと思われる。

 なに……これ?
 人妖化?
 施術?
 人妖は人為的に造り出せるということなのだろうか。
 ならば、人妖とは未知の怪物などではなく、何者かが何らかの理由と意図の元に生み出したミュータントではないか。アンチレジストはこのことを知っているのだろうか?
 不意に、虫の羽音のような音とともにブラウン管のモニターが点いた。粗いノイズ混じりの画面に、見慣れた顔が映る。
「なにをぐずぐずしているの? 早こっちに来なさいな」
 うねるような画面の中に、スーツを着た女性が映っている。女性は退屈そうに椅子に座り、アームレストに片肘をついたまま呆れたような視線を送っていた。
「冷子……さん……」
「私の庭を荒らさないでくれるかしら? この施設は古いけれど、まだまだ利用価値があるの。学園の研究棟以上にね」
「……この施設は何なんですか?」
「直接会って教えてあげるわ。廊下を進んだ先にあるドアを開ければロビーに出られる。決着が着いてから好きに調べればいいわ。貴女が生きていられたらだけど……」
 ブツンと言う音と共にモニターが切れた。モニターは戸惑ったシオンの顔を嘲るように反射した。

 遠くの方で話し声が聞こえて、美樹はゆっくりと目を覚ました。
 地下室の空気は淀んでいた。
 窓は無く、汗や体液の臭いが混じった湿気が重く立ち込めている。天井には大型の換気扇が埋め込まれていたが、今は稼働していないようだ。
 ぼんやりした意識でも、後ろ手に南京錠の付いた腕輪がはめられていることがわかった。霞む視界の隅に、久留美の薄桃色の髪の色が映った。
「ゔぁッ……あ……はずと……さん……ッ……」久留美の声が聞こえ、美樹は顔を上げた。次第に明瞭になってきた視界の隅で、久留美は釣り針にかかった魚の様に顎を上げ、天井を見ながら呻いた。「も……無理……でず……ッ」
 ひび割れた白いタイルと薄汚れたコンクリートで造られた地下室はそれなりの広さで、所狭しと拷問器具が置かれている。久留美は壁に背中を付けて立ち、自分からシャツを捲り上げて、白魚の様に滑らかな身体を蓮斗に晒していた。そして久留美の華奢な腹部を、蓮斗は拳で嬲る様にグズグズとこね回していた。
 久留美の苦しそうな息遣いには、少なからず女としての悦びの色が混じっていた。おそらく、自分に浴びせたものと同じ人口チャームを使っているのだろうと、美樹は思った。チャームの効果とはいえ、美樹は初めて苦痛が快感に変わる感覚を味わった。一時はその感覚に流されそうになったが、時間の経過と、普段からの精神鍛錬により、今ではかなり効果が薄れてきた。だが、久留美は自分とは違い、ごく一般的な少女だ。数日間の監禁による恐怖は耐え難い精神的苦痛を感じただろう。監禁や誘拐などの被害者は、閉鎖空間で長時間に強いストレスに曝されると、しばしば加害者に対して好意を抱いたり、加害者に気に入られたりするような行動をとることがある。少しでも犯人に気に入られて、自分に危害を加えられる可能性を少なくするための生存戦略的な行動だ。それに加え、違法な薬物のような人口チャームの効果で久留美が正気を失ってしまうのも無理はない。蓮斗のサディスティックな欲望を満足させるための人形として、いつ終わるとも知れない恐怖と苦痛に耐え続けるよりは、たとえ正気を失ってでも偽りの快楽に押し流されてしまった方が楽だ。人間とはそういうものだと美樹は思った。そしてその行動は悪ではない。
 美樹は顔を上げた。
 蓮斗も久留美も、まだ美樹が目覚めたことに気がついていない。
「久留美ちゃん……まだ頑張れる?」
 優しそうな声で蓮斗が久留美の耳元で囁いた。久留美は立っているのもやっとな様子で膝をガクガクと震わせながら頷く。まるで二回目の性交に挑む恋人同士の様だ。
 蓮斗は久留美を優しく床に座らせると、久留美を背後から抱きしめるように自分も腰を下ろした。乱雑に散らかった器具の中から、黒い十字架のような器具を取り出して久留美に見せる。
「ひ、ひッ?!」
 その禍々しい器具を見た瞬間、久留美は思わず悲鳴を上げた。それはエナメルを巻きつけた馬の男根に、取っ手を付けたような形をしていた。先端は子供の頭ほどのリアルな亀頭が施され、久留美を睨みつけるように反り返っている。
「は……蓮斗さん……ま、まさか……」
 恐怖のあまり久留美の歯がガチガチと鳴る。久留美は男性経験は無いが、一般的な男性器の大きさは把握しているつもりだった。しかし、蓮斗の持つ凶暴すぎる器具は明らかに規格を超えていた。こんなもので貫かれたら命に関わるのではないか。
「大丈だよ。心配しているようなことはしないから」と、蓮斗が久留美の耳を舐める様にして囁く。「でも、こっちには挿れちゃうけどね」
 蓮斗が久留美のヘソにディルドの亀頭をあてがう。久留美の肩が恐怖からびくりと跳ねた。蓮斗は取っ手を両手で握ると、力を込めて自分の身体に向けて引き付けた。ぐぽりと音がして、蓮斗の身体とディルドに挟まれた久留美の腹部に凶悪な鬼頭が埋まった。
「ぐぷッ?! がッ?! あああッ!」
 蓮斗がディルドを引く力を強めると、華奢な久留美の腹部に黒光りしている暴力が更にめり込む。胃を潰され、久留美の喉の奥から濁った悲鳴が漏れた。
「げぅッ?! げあぁッ! ばずど……ざんっ……おなが……ぐる……じ……」
「いいよ……もっと気持ちよくなって……」
 久留美が限界だと訴えるように必死に首を振るが、蓮斗は興奮をますます昂らせている。蓮斗は押し込んでいたディルドを一瞬引き抜くと、リズミカルに久留美の腹部にディルドを押し込み始めた。ピストン運動のように久留美の腹部にぐぽぐぽと黒い先端が埋まる。M字型に足を開いてめくり上がったスカートから覗く久留美のショーツが、分泌液で徐々に透けていった。
「ゔあッ!? ごッ! がぁッ! やらッ! はずッ……はずど……! ざんッ! はすと……さんッ!」
 久留美が背後を振り返り、蓮斗に向かって舌を突き出した。蓮斗はその唇を吸う。久留美は目を閉じ、貪る様に舌を絡ませている。
 その隙を、美樹は見逃さなかった。
 美樹は束ねた髪の毛の中から、黒い針金を一本取り出した。全身に隠した武器のうちのひとつで、緋色のリボンで留めて髪の毛の中に隠している。美樹はそれを器用に南京錠の鍵穴に差し込んだ。無骨に見える鍵ほど中の仕組みは単純だ。美樹は一分もかからずに両手を自由にした。二人はまだ唇を吸いあっている。美樹は素早く跳ね起き、蓮斗に向かって突進した。

 美樹の突進に蓮斗は素早く反応し、久留美と一緒に真横に跳んだ。蓮斗の異様な反応の速さに、普段は表情変化に乏しい美樹でも目を見開いた。美樹の手甲をはめた拳が鋭い音を立てて空を切る。視界の隅で蓮斗と目が合った。蓮斗は軽く口角を上げると、久留美の背中を突き飛ばした。自分の胸に飛び込んできた久留美を美樹はとっさに受け止める。
「久留美!」と、美樹が久留美の顔を覗き込みながら叫んだ。
「えっ? あ……? は、蓮斗さん、なんで……?」
 久留美は熱病にでも冒されているように蓮斗に手を伸ばした。
「時間だ……」と、蓮斗が貼り付けたような笑顔で美樹に言った。「ようやく、夢が叶うんだ……」
 蓮斗は身体を美樹の方向に向けたまま扉の方へ後ずさると、ポケットから茶色い小瓶を取り出して静かに床に置いた。
「チャームの解毒剤だ。久留美ちゃんに飲ませてあげてくれ」
「なっ……そんなもの誰が信じるか!」と、美樹が吠える。
「嘘じゃない。俺は自分を好きになってくれるものが好きなんだ。ま、久留美ちゃんをそのままにしておきたいのなら、使わなくてもいいけどね」
 蓮斗は薬瓶を蹴って美樹の方に転がすと、扉から素早く出ていった。部屋には美樹と久留美だけが忘れ物のように残された。
「久留美! しっかりしろ!」
 美樹はハッと気がつき、久留美に再度声をかける。
「あ……先輩?」と、久留美がゆっくりと美樹の顔を見る。定まらなかった瞳の焦点がようやく美樹の顔で定まる。「先輩……蓮斗さんは……? もっとお腹……苦しくしてほしいんです。先輩でもいいです……私のお腹……虐めてください……」
 美樹の顔にさっと寒気が走ったと同時に、かつん、と美樹のブーツに薬瓶が当たった。美樹は迷ったが、意を決して瓶を手に取った。
「久留美……これを飲め……」と、美樹は瓶のキャップを開けて久留美に差し出した。もう迷ってはいられなかった。今まで人妖に敗北した戦闘員やオペレーターが後遺症に苦しむ様子を何人も見てきた。後遺症は薬物である程度は抑えられるとはいえ、対症療法でしかなく、身体への負担も少なくはない。久留美にあのような辛い思いはさせられないし、仮にもしこの解毒剤が本物であれば、分析すれば後遺症に苦しんでいる人々も助かるかもしれない。
 美樹はキャップに少しだけ中身を移し、瓶を久留美に差し出した。久留美は素直にこくこくと瓶の中身を少しずつ飲み込んでゆく。飲み終えたところで美樹は瓶の口を拭き、キャップに注いだ薬液をビンに戻して蓋を閉めた。無事に戻れたら解析班に渡そう。
 久留美の瞳に、徐々に光が戻ってきた。寝ぼけた子供が完全に覚醒したように、不思議そうに美樹の姿を見た。
「久留美?」と美樹が聞いた。
「先輩? 私……何を……? 私……病院で……それから……私……先輩……先輩!」
 久留美が美樹の首に腕を回す。胸に顔を付けて泣いている久留美の頭を、美樹がゆっくりと撫でた。
「大丈夫だ……落ち着け……」
「私……どうしていたんですか……? 私……先輩を……」
「説明は後だ……とにかく今は安全な場所に行くぞ」と、美樹が言いながら久留美の手を引いて立ち上がる。久留美が戦闘服姿の美樹に気がついて、ぎょっとした表情になった。
「……先輩……あの……その格好は?」
「……その説明も後だ」
「いえ、かっこいいです……なんだか、すごく強そうで……」
 久留美がうっとりと溜息をつきながら言った。どうやら本心から言っているらしい。どうやって説明するか悩みのタネは増えたが、少なくとも戦闘服姿のシオンがここにいなくて良かったと美樹は思った。自分以上にしっかりしたイメージのシオンが露出度の高いメイド姿で現れたら、久留美への説明が更にややこしくなるだろう。
 美樹は久留美の手を引いて玄関ホールに戻った。
 蓮斗の姿は見えない。
 雪が強くなり、開け放した玄関から吹き込んでいた。
 美樹と久留美は身をかくするようにして、壁伝いに玄関へと向かった。久留美を連れて戦闘になるのはまずい。無事に玄関を出て、石畳を走る。門の扉は開いていた。ふと、門の外に小さな灯りが見えた。ハザードを出した車だ。警戒しながら近づくと、黒塗りのレクサスから初老の男性が降りてきた。
「鷹宮様?」
 初老の男性は驚いたように声をかけた。美樹も知った顔で、シオンの運転手をしている男性、山岡だ。美樹も何回か学院に送ってもらったことがある。
「……山岡さん? なぜここに?」と、美樹が聞いた。
「シオン様をここまでお送りしました……。お止めしたのですが、どうしてもと言われ……。私はシオン様から帰るように言われたのですが、心配で居ても立っても居られず、ここで待たせていただいております」
 シオンには待機命令が出ていたはずだ。命令を無視して独断で乗り込んで来たのかと、美樹は背後の建物を振り返りながら思った。自分がここに来ることは伝えていないが、シオンの鋭い勘はごまかせなかったらしい。
「山岡さん……すみませんが、久留美を預かっていただけませんか? あと、これを……」と、美樹は久留美に飲ませた薬瓶を山岡に手渡した。「もし私が戻らなかったら、組織の人間に渡してください。その際にチャームの解毒剤と伝えていただければ」
「……承知しました。さ、こちらに」
 山岡が後部座席のドアを開けて久留美を促す。久留美は戸惑いながらも「先輩」と振り返って声をかけた。「あの……私、事情はなにもわからないですけど……先輩たちのこと、本当に好きですから! シオン会長も、美樹先輩も!」
 久留美は泣いていた。
 強いな……と美樹は思った。訳のわからない事件に巻き込まれ、本来であれば全てを恨んでもいいはずなのに。いつの間にか後輩は大きく成長していたらしい。美樹はポケットからショートホープとジッポーライターを取り出して、タバコに火をつけた。
「久留美、預かっておいてくれ」と、言いながら美樹はタバコとライターを渡し、二人に煙がかからないように雪の降る空に向けて煙を吐き出した。戻ったら吸うと言い残し、美樹は建物に向かって走った。


「あれはやはり……ブランコなどではなく」
 通路を歩きながら、シオンが暗い目をしたままロシア語で呟いた。脳裏には、楡の木のそばの、五本の鎖が垂れ下がったブランコが浮かんでいる。
 ──絞首台なのだろうか。
 最後の言葉は恐ろしくて声にならずに、シオンの腹の底に落ちていった。
 絞首台がある児童養護施設がどこにある。
 ここが人妖に関わる何らかの研究が行われていたのは間違いない。人間を人妖化する実験も行われていたのだろう。だが、いったい誰が主導していたのか。冷子はこの施設を「私の庭」と呼んでいた。人妖は能力の高さのため、社会のアッパークラスに入り込むことも多い。大きな権力と財力を持った人妖がこの施設を作り、仲間を増やす目的で研究していたとも考えられるが……。
 考えがまとまらないうちに、シオンの目の前に細工の施された木製のドアが現れた。周囲の病院のような内装に反し、そのドアだけ周囲からひどく浮いている。
 扉を開け、階段を昇る。
 想像を巡らせるよりも、冷子から直接聞き出した方が確実だ。もちろん素直に話してくれるはずもないため、戦闘は避けられないだろう。階段を登り切ったところには再びドアがあり、開けると玄関ホールに出た。背後でドアが閉まる。今しがたシオンが出てきたドアは隠し扉になっているらしく、閉まると同時に壁と一体化して、開ける方法がわからなくなった。
 黒光りする黒檀の床に、高い天井から吊り下げられたシャンデリアの淡い光が反射しいている。
 簡素な外観に反して、内装は豪奢な造りだとシオンは思った。左右対象のネオバロック調の内装で、三階までが吹き抜けになっている。漆喰の壁には小さめのステンドグラスが嵌っていて、中央の大階段が二階部分で壁に沿うように枝分かれしている。子供の頃に暮らしていたサンクトペテルブルクの実家にも、同じような大階段があったなとシオンは思った。
 二階の扉が開き、床を踏む音が頭上から聞こえてきた。
 スパンコールがあしらわれた上質な黒いスーツを着た篠崎冷子が、大階段を足元を確かめるようにゆっくりと降りてくる。
「久しぶりねぇ如月会長? 相変わらず、はしたない痴女みたいな格好が似合っているわよ」と玲子が口元だけでうっすらと笑った。
「こちらこそ、ご無沙汰しております」と、シオンも笑みを浮かべながら答えた。
「あれから学院はどうかしら? 夏からずっと休暇を取っているから、あなたの活躍がわからなくて残念だわ」
「お陰様で、冷子さんが居なくなってから失踪事件は起きなくなりました。今回の久留美ちゃんの件を除いて……ですが」
 シオンが皮肉を込めて冷子に言い放つと、冷子は、ふふ、と笑った。
 冷子もシオンも互いに微笑みを浮かべたまま微動だにしない。シャンデリアの光が映し出す二人の影だけが揺らめいている。冷子が人差し指で耳の後ろを掻いた。シオンが細めていた目を開くと、緑玉の様な瞳が暗く光り、顔から笑みが消える。
「久留美ちゃんを返してください」
 普段よりもトーンの低いシオンの声は、黒光りする床を広がって冷子の足に絡まった。
「いきなり核心を突くわね。交渉のセオリーを知らないの?」と、冷子が呆れた声を出した。
「これは交渉ではなく、警告ですので」
「警告? ふふ……いつから生徒会長は教師に警告できるほど偉くなったのかしら?」
「生徒に不利益を与える者を教師と認めることは出来ません。あなたに復職する気があればの話ですが。少なくとも、久留美ちゃんの無事を確認するまでは交渉の余地はありません」
「本人が帰りたがらないとしたら?」
「それは本人から直接聞きます」
「もう返したって言ったら?」
「信用することはできません。仮に久留美ちゃんを解放したことが事実であったとしても、あなたが危険因子であることに変わりはありません。いずれににせよ……」と、言いながらシオンは左手の中指を口に咥えた。そのまま音を立てずにシルクの長手袋を抜き取ると、冷子の足元に放った。「アンチレジストの戦闘員として、あなたを拘束します」
 冷子の射抜く様な視線が、シオンの笑みの消えた顔を真っ直ぐに捉える。冷子は踏み出してシオンの手袋を踏みつけると、自分のジャケットの肩口を掴んでシャツごと袖を引き千切った。裏地のキュプラが、鼠が絞め殺された様な耳障りな悲鳴を上げる。両袖とも引き千切り、ジャケットがノースリーブの形になる。シオンは左手に予備の手袋を嵌め直した。
「貴女と会うたびにスーツが台無しになるわ。あなた、そのふざけた格好で来たって事は、夏みたいに無様に負ける覚悟はできているんでしょうね? 破廉恥なメイドさん?」
「ええ、もちろん。しかし負ける覚悟はできていても、負けるつもりはありません」
 冷子は口を三日月のように歪めると右腕をぶらぶらと振った。右腕の振れ幅が大きくなり、骨が無い軟体動物の触手のようにぐにゃぐにゃと伸びる。肌の色が徐々に、ぬめぬめと粘液に濡れたなめくじの様なまだらな灰色へと変色した。手のひらが肥大化して指の股が消え、丸みを帯びてボウリングの玉のような塊になる。
「どうかしら? 少し改良したのよ。見た目は少しグロテスクになってしまったけれど、威力やスピードはかなり向上しているわ。試してみる?」
 シオンが無言で構える。風を切る音。シオンの鼻先に冷子の右手が迫る。シオンは中国拳法のように前後に開脚して身体をかがめて攻撃を避けると、そのまま起き上がる勢いを利用して冷子に向かって距離を詰めた。伸びたゴムが戻る要領で帰って来た冷子の腕を避け、シオンは膝を冷子の腹部に埋める。
「ふぐッ!?」
 冷子の整った顔が歪む。
 そのまま流れる様に背後に回り込み、膝裏を蹴って跪かせる。いまだに暴れている冷子の右手がシオンの顔面に迫る。とっさに避けて直撃は回避したが、頬をかすった時に触手の粘液が僅かに頬に付いた。本能的に手の甲で拭う。
 冷子が背後のシオンをタックルの要領で突き飛ばしてバランスを崩させると、左手をシオンの脇腹に埋めた。
「んぐぅッ?!」
 触手化していない状態での攻撃は凄まじい威力だった。
 砲丸が腹に落ちた様な感覚を憶え、身体から力が抜け落ちる。直後に冷子の触手がシオンの首に巻き付いた。
「ぐっ……!」
 シオンはとっさに腕を触手と首の間に挟み込み、頸動脈が締め上げられるのを防いだ。ぬめぬめとした粘液が白い手袋を汚す。冷子は左腕を鞭のようにしならせてシオンの顔面に放った。シオンは不自然な体勢でもサッカーボールを蹴る要領で防ぎ、触手から頭を抜いた。
 お互いに間合いを取り、二人の呼吸音が静まり返ったホールに響く。
「ふふふ……楽しわねぇ。貴女のことは大嫌いだけど、簡単に死なない相手というのは面白いわ」と言いながら冷子が腕を軽く振ると、空気が抜けるようにして腕が元の形に戻った。汗で貼り付いた前髪を整えながら、赤く光る瞳孔でシオンを見る。「人間なのが惜しいわね。学院にいる時から見ていたけれど、人間のくせにヘタな人妖より優秀だわ。人妖の中にもたまに愚鈍な奴がいて……私そういうの許せないからすぐに殺ちゃうのよ。せめて実験材料にでも使おうとするんだけど、そういう奴らって基礎データすら陳腐なのよね。せめて運動がわりに遊んで殺そうと思ってもあっさり死んでしまうし、本当に何のために生まれてきたのか理解に苦しむわ。ねぇ、貴女を優秀な存在だと見込んで聞くんだけど、自分よりも劣っている存在なんて殺してもいいと思わない? 貴女、それでよく我慢が出来ていると思うわ。学院の経営にも協力しているし、研究棟の企業へのリース交渉だって今では貴女がまとめているのよね? 教師も生徒も、アンチレジストとやらの仲間も、貴女からすれば歯痒くて使えない奴らばかりでしょう? いっそ居ない方がいいっていつも思っているんじゃないの?」
「存在価値の無い人なんていません」と、シオンがツインテールの片方を手櫛で梳きながら、きっぱりと言った。「仮にそう見えたとしても、それはまだ、その人の価値に本人も周囲も気がついていないだけです」
「失望させないでくれる? 貴女のことは買っているのよ。その胸糞悪い性格以外はね。ねぇ、あなた人妖になってみない? その顔と身体なら遺伝子操作は必要ないでしょうし、食事の必要も無くなり、人間では絶対に得られない身体能力や特殊能力を得ることができる。デメリットは全く無いと思うけれど?」
「……私を人妖に?」と、シオンは動揺を抑えながらいった。やはり人間の人妖化は可能なのだろうか。
「簡単よ。身体と頭の仕組みをちょっとイジるだけで、ベースは一緒だもの。ここに来るまでにちらっと見てきたでしょう? もともとここはそのための実験施設で、過去からの研究を引き継ぐと同時に、適正のある人間の保護と人妖化の施術も行われてきたの」
「適正? 凄惨な事件を起こした子供に、人妖としての適性があるということですか?」
 蓮斗の犯行調書が脳裏に蘇り、シオンの頭にチリッとした痛みが走った。微かな吐き気も込み上げる。
「そうよ。自分のためなら平気で人の命を奪える──言い換えれば自分のためなら他人を躊躇いなく利用できる、自分と他人との境界をはっきりと線引きできる人間。あなたみたいに下らない博愛主義なんて持っていると、人間を餌だと割り切れずに面倒なことになるのよ。人妖の中にも餌に情が移ってしまう出来損ないがいて、餌と一緒に駆け落ちみたいなことを試みた奴もいたわ。あなたを人妖化する時はそのあたりの処置も必要だから、洗脳は必要ね」
「……そんな利己主義の塊になってまで、特殊な能力を得たくはありません」
 シオンは片足を引いて両手で短いスカートの裾を掴み、深々とお辞儀をした。綺麗なカーテシーだが、シオンを包む雰囲気が変わり、周囲の気温が下がる。
「──失礼いたします」と、シオンが床を見たまま言った。
 冷子の背中がぞくっと粟立つ。
 けたたましい音を立ててシオンの立っていた場所の床が割れた、シオンの姿が消えた。シオンはカーテシーの姿勢から強く床を踏み込んで跳躍し、前方に宙返りしながら冷子の脳天を目掛けて踵を落とした。冷子は背後に跳躍して避ける。シオンの踵がぶつかった床が割れた。シオンは踵を叩きつけた勢いを利用してそのまま前方に突進して冷子を追う。速い。冷子は右腕を軟体化させ、鞭のように弾いた。シオンは低空の姿勢になって躱し、そのまま独楽のように回転して冷子の足を横に薙いだ。
「ぐぅっ?!」
 くるぶしの部分にシオンの踵が当たり、冷子が呻く。体勢を崩した冷子の懐にシオンが飛び込み、後方に押し倒した。後頭部を打ち、冷子が短い悲鳴を上げる。シオンは冷子の喉を自分の脛と床の間に挟み、右膝を冷子の胸に乗せて重心を極めた。冷子は起き上がれず、シオンは肩で息をしたまま冷子を見下す。顎から垂れたシオンの汗が冷子のシャツに落ちて染みを作った。
「貴女、本当に強いのね──」と冷子が微かに笑いながら言った。「でも、まだ本気じゃないんでしょう? 性格の甘さでいつも力を出しきれない。今回もそうよね? リミッターが無くなったら恐ろしいわ」
 シオンは喉を押さえている足で冷子の頚動脈を締めた。冷子は平静を装いながらも、徐々に視線が泳ぎはじめ、顔が紅潮してく。あと三十秒もしないうちに、冷子の意識は途切れるだろう。シオンは左足に更に体重をかけた。
 瞬間、世界が回転した。
 まるでドッジボールがぶつかったように、顔の右部分に強い衝撃が走った。
「ぐあッ?!」
 一瞬体が宙に浮き、左肩から床に着地した。不意打で受け身が取れず、体全体に痛みが走る。
「へぇ……写真やビデオでは何回も見たけれど、実物は本当に人形みたいだな」
 白に近い金髪をオールバックに撫で付けた、真っ黒い格好をした痩身の男が、蹴りの姿勢から直りながら言った。
「……あなたが、蓮斗さんですか?」とシオンが上体を起こしながら言った。
「初めまして──と言ってもお互いもう知ってるから、初対面って感じがしないね」と言いながら、蓮斗は口角を吊り上げた。

テーブルクロスや挿絵などを描いていただいているハーパーさんに、次回作からメインで登場するシオンさんの妹、スノウのイメージイラストを描いていただきました。
文章も鋭意制作中ですので、今しばらくお待ちください。

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以前からDL販売のご要望をいただいていたおりました、2016年冬コミで出したセルフ二次創作【Mezzanine】の作品登録が完了しました。
リョナ、腹パン要素無しですが、興味があればよろしくお願いします。
※内容は二次創作のため、本編とは無関係となります。キャラクターに発生した出来事はフィクションです。

_作品仕様
イラスト:14枚(LOLICEPT / sisyamo2% / 聖シロー)
 詳細:基本CG6枚(それぞれ射精差分あり)、表紙背表紙1枚、キャラ紹介1枚
テキスト:19枚(PDF形式)
 ※テキストはノベルゲーム形式のシナリオを加筆して小説形式にしたものですので、雰囲気を盛り上げるオマケ程度としてお楽しみください。


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