※過去作を読んでいなくても楽しめます。
※ラフの状態ですので、製本時には内容が変わっている可能性があります。
1話から読む
葵は夢中でジムの階段を駆け上がった。
途中、何度も涙で目の前が霞み、足がもつれて転びそうになったが、それでも足を止めなかった。地上に出てからも夢中で走り、どこかの裏路地に入って、雑多に積み上げられたゴミ袋の奥に座り込んだ。呼吸が整うにつれて瑠奈に言われた言葉が蘇り、葵は膝を抱えて泣いた。
自分なりに、自分を変えようと努力していたつもりだった。だが結局最後はいつも瑠奈に甘えていた。配達員に襲われた時も、警察に説明することが怖くて瑠奈を呼んだ。凍矢の裏取りをする時も、また沙織と会うことが怖くて瑠奈に任せた。勝手に駆けつけた凍矢との戦闘でも、太刀打ちできなかった。その挙句招いた結果が、唯一の親友に愛想を尽かされるという最悪の結末だ。
いや、遅かれ早かれ、いつかはこうなっていたのだ。
瑠奈のことを酷いとは全く思わない。
瑠奈と自分とでは、そもそも人間としての価値が違う。思えば当然のことなのに、なぜ自分は勘違いをしてしまったのだろう。瑠奈にコーヒーを美味しいと褒めてもらった時、瑠奈と一緒のベッドで明け方まで話をしている時、瑠奈がブイチューバーの活動を褒めてくれた時──もしかしたら自分にも少しは価値があるのではないかと、なぜ自分は勘違いをしてしまったのだろう。
「はは……馬鹿みたい……」
葵は涙を拭うと、ポケットから小さいカードのようなものを取り出した。戦闘員が常に携帯している小型の通信機だ。最後の仕事として、せめて凛に瑠奈の救援を要請しなければならない。
全てが終わったらアンチレジストもブイチューバーも全部やめて、これからは勘違いしないように、なるべく人に迷惑をかけないように、静かに生きていこう。
通信機と一緒に、小さい樹脂片がポケットから地面に落ちた。
「……あ」
葵が目を丸くする。
折れたカチューシャのように見えたが、それは紛れもなく瑠奈のヘッドパーツの破片だった。
葵はそれを発掘したばかりの貴重な化石のようにそっと拾い上げ、無意識に頭に装着した。
ピリッ……という小さな電流がヘッドパーツから流れたかと思うと、頭上から「葵」と声をかけられた気がした。
葵はハッとして顔を上げた。
目の前に、まるで透明なスクリーンに投影された立体映像のような瑠奈が立っていた。薄く発光する瑠奈は、葵から目を逸らして恥ずかしそうに頭を掻いた。
「あのさ……」と、瑠奈が言った。瑠奈が喋ると、その姿は擦り切れる寸前のビデオテープのように大きく歪んだ。
「さっきは酷いこと言って、ごめん……」
葵が首を振った。「そんなことないよ……。私の方こそ、いつまで経っても全然成長しなくて……」
「葵は十分頑張ってるよ」
「頑張ったって、結果が出てないから意味ないよ……」
「すぐに結果が出なくたって、その頑張れるってこと自体が、そもそもすごいことなの」
瑠奈は真剣な顔をして葵と向き合った。瑠奈の姿にさらに大きなノイズが走った。
「葵は苦手なことでも絶対に逃げずに、必死に正面から立ち向かってるじゃん。苦手なコミュニケーションだって克服するために講座受けたり、心理学勉強したり、最後にはブイチューバーにもなっちゃうなんて、本当にすごいよ。誰にでもできることじゃない」
「でも……」
「本当だよ。昔から葵はそうだった。あの時だって……小学校の教室で初めて私から話しかけられた時だって、逃げなかったでしょ? それまで一言も喋ったことがない、こんな訳わかんない外国からの転校生から、いきなり声掛けられた時にだってさ。私が葵の立場だったら驚いて逃げちゃうかもしれない……。だからさ、本当に感謝してるんだ。あの時、逃げないでくれてありがとう。もしあの時、葵に拒否られてたら、私は今とは全然違う人生になっていたと思うよ」
強いノイズが走り、瑠奈の姿が不鮮明になった。
「あ、ごめん。もう限界みたい」
ノイズが更に激しくなり、かろうじて瑠奈が人差し指を唇に当ててウインクをしている様子がわかった。
「葵、今まで本当にありが──」
再生中のテレビの電源コードを抜いたように、瑠奈の姿がきっぱりと消えた。
葵はしばらく瑠奈の消えた空間を見つめていたが、そこには何か温かいモヤのようなものが残っているように感じた。やがて葵は涙を拭うと、通信機のスイッチを押した。
ワンコールの途中で凛が出た。
「もしもし、あおっぴ? 瑠奈ちなんだけど──」
「申し訳ありません。二人とも命令違反をしています」
「え……? あおっぴ?」
「私も瑠奈も、凍矢のジムにいます。瑠奈がピンチなので、すぐに救援をお願いします。勝手なことを言って申し訳ありません」
葵が再びジムのドアを開けると、微かに漂う汗の匂いに混じって、獣じみた気配が身体にを包んだ。天井に埋め込まれたハイエンドのエアコンでも除去しきれないそれは、フロア中央のから漂っていた。
瑠奈はまさに今、服を脱がされようとしているところだった。
瑠奈はベンチプレス台に座らされ、背後から胸を鷲掴みにされていても、まるで魂が抜けたように抵抗も拒絶もしていなかった。両腕は脱力してだらりと垂れ、目からも光が消えている。もちろん声を発したり、自分から何かすることもない。
無反応な瑠奈に、凍矢は苛立っているようだった。
「おいおい、ダッチワイフじゃねぇんだぞ? 少しは反応しろや」
声をかけられても、瑠奈は反応しない。無視をしているというよりも、全く聞こえていない様子だった。業を煮やした凍矢が舌打ちをして瑠奈の胸の部分のスーツに手をかけた時、葵に気がついた。
「……なんだ、またお前かよ」凍矢が呆れたように立ち上がった。「こいつ見捨てて尻尾巻いて逃げたくせに、なんで戻ってきたんだ? 俺に犯されたくなったのか?」
瑠奈もゆっくりと顔を上げ、葵の姿を見ると目を丸くした。
葵は何かを振り切るようにギリッと歯を食いしばり、頭に付けている瑠奈のヘッドパーツの破片に触れた。
「わ……わ……」
「あ? まともに喋れねぇなら黙ってろよ」
凍矢があざ笑いながら立ち上がった。
「わ……私の親友に……酷いことをするな!」
一瞬、凍矢の動きが止まった。
叫ぶと同時に、葵は凍矢に突進した。凍矢が身構える。葵は素早く距離を詰め、凍矢が伸ばした腕をかいくぐると、その顎を掌底で突き上げた。
「……お?」
強烈に床を踏み込み、腰を落とした一撃だった。
凍矢が天井に埋め込まれたライトの眩しさに目を細める。
瑠奈のヘッドパーツから、冬の太陽のような暖かい熱が伝わってくる。その熱は葵の全身の筋肉を満遍なく解きほぐし、生まれ変わったような自信をもたらした。
葵は凍矢の右手首とティーシャツを掴むと、独楽のように素早く回転して凍矢の内股を跳ね上げた。凍矢の身体が水車のように回転し、背中から床に叩きつけられる。
回転の勢い余って葵は凍矢の上に仰向けに寝る。凍矢が背後から葵の身体に腕を回した。再び締め上げるつもりだったが、葵は身体を反転させて凍矢に向き合うと、マウントポジションから両腕をクロスさせてティーシャツの奥襟を掴み、凍矢の頭を胸に抱くようにして引き付けた。
「がッ?!」
十字締めが極まり、凍矢は両腕で葵を押し除けようとするが、葵も必死に凍矢の頭に覆い被さるようにして耐える。しばらく攻防が続いた後、凍矢の動きが徐々に弱くなると、やがて完全に意識を手放した。
「ぷはッ! はっ……はぁ……はぁ……」
葵がようやく顔を上げた。葵も息を止めていたのか、滝のような汗が顎を伝って凍矢の身体に落ちる。
「葵……」と言って、瑠奈が葵に近づいた。その顔は最初困惑した表情を浮かべていて、次に泣きそうになりながら、最後に笑った。
「あんた……ちゃんと喋れるじゃん?」
「……え? あれ? 本当だ」
葵も笑って、恥ずかしそうに頭を掻いた。その時、葵が装着していたヘッドパーツに大きなヒビが入り、役目を終えたことを悟ったように崩れて床に落ちた。
「また瑠奈に助けられちゃった……」
「なに言ってんの。助けられたのはこっちじゃん」
「違うよ。必死に逃がそうとしてくれたし、凍矢に勝てたのもこのヘッドパーツのおかげだし。それに──」と言って、葵はイタズラっぽい笑みを浮かべた。「喋れるようになるためのショック療法も、この通りすごく効いたしね」
瑠奈は「うぅ」と呻いて両手で顔を覆った。耳まで真っ赤になっている。
「あと十年はこのネタで擦られそう……」
「たぶんもっと長く擦るかな。へへ」
瑠奈は顔を覆っていた両手を外すと、大粒の涙を流しながら葵を抱きしめて声を殺して泣いた。
「ちょっと、どうしたの?」と言って、葵は瑠奈の頭を撫でた。
「ごめん……酷いこと言って……」
「大丈夫だよ。ちゃんとわかってるから……。ね、とりあえず帰ろう?」
葵も泣きそうになるのを堪えて笑った。
瑠奈も立ち上がって涙を拭う。
「……うん」
「凛さんには連絡してあるから。もうすぐ来ると思うし」
「……めっちゃ怒られるだろうね」
「だろうね。その時は一緒に──」
突然、ドグリュッ……! という異様な音を立てて、葵の身体がくの字に折れた。
なにが起こったのか分からず、彼女達の表情が凍りつく。
葵は恐る恐る衝撃のあった箇所に視線を落とした。
目に見えない硬いものが腹部にめり込み、剥き出しの腹に大きなクレーターができている。
「ん゙ッ?!」
葵は突然込み上げてきた猛烈な吐き気に両手で口を押さえると、支えが無くなったように両膝を床に着け、そのまま額を床に打ちつけた。四つん這いの姿勢でうずくまり、ビクビクと激しく痙攣しながら嗚咽を漏らしている。
「ゔぇっ……?! ぐっ……がはッ……?!」
「え……? 葵……?」
なにが起きたのか理解できない。
凍矢は失神したまま微動だにしていない。
瑠奈が素早く周囲を見回した瞬間、グジュッ……という音を立てて瑠奈の鳩尾のあたりが大きく陥没した。
「ふぅッ?!」
一瞬で瑠奈の瞳孔が収縮する。
その直後、絶望的なダメージが脳内を駆け巡った。
「ゔぶッ?! ぐぶぇッ!!」
人体急所を不意打ちされ、瑠奈はたまらずに片膝を着いた。ガクガクと震えながらも必死に歯を食いしばり、倒れ込むことをなんとか耐えて周囲に注意を向ける。葵もようやく顔を上げたが、とても動ける状態ではない。
「……まったく。本当に私の部下は使えない奴ばかりだな。交渉失敗の尻拭いをして帰ってきたら、今度は小娘二人にKOされているとは」
声のした方に視線を送っても、何も見えない。だが突然、凍矢の身体が弾き飛ばされたように吹っ飛んで、派手な音を立ててダンベルラックに突っ込んだ。凍矢は衝撃で目を覚ますと、勢いよくその場で土下座した。
「す、すみませんでした! 凍矢さん!」
凍矢は切れた唇から血が流れているもの構わず、震えながら額を床に擦り付けている。その先の空間に一瞬ノイズが走ると、虚空から男が現れた。
スキンヘッドで全裸の中年男性。
腕や足が丸太のように太く、腹回りもでっぷり突き出ている。まるで引退したプロレスラーかボディビルダーのような体格の男だった。
「亜冷(あれい)、わかっているな? 次に何かヘマをしたら君は終わりだ。この前アンチレジストに捕まったバカと同じ目に遭わせるぞ? もちろん君が大切にしている例の女も一緒にだ」
「……はい! すみません!」
自分の首を絞める仕草をする凍矢に、亜冷は怯え切った様子で床に額をつけながら叫んだ。凍矢は視線をゆっくりと葵と瑠奈に向ける。
「まぁ、女運は相変わらず良いみたいだな。二人ともタイプは違うが、かなりの上玉じゃないか。客に出すのが惜しいくらいだよ──プレイルームに運べ」
【新作告知】
こちらの葵ちゃんと瑠奈ちゃんが主役の新作[Alto_Luna] が完成しました。
下記イベントで配布させていただきます。
短編読切のため1冊で楽しめる内容です。
よろしくお願いします。
_イベント
2023/11/12 ABCD!9 綿商会館
http://www.ippan-seiheki.com
_スペース
B-14 / Яoom ИumbeR_55
_新刊
[Alto Luna]
B5/小説63p/挿絵4シーン(差分多数)
¥1,000-
_サンプル
http://roomnumber55.com/archives/cat_244460.html
※ラフの状態ですので、製本時には内容が変わっている可能性があります。
1話から読む
葵は夢中でジムの階段を駆け上がった。
途中、何度も涙で目の前が霞み、足がもつれて転びそうになったが、それでも足を止めなかった。地上に出てからも夢中で走り、どこかの裏路地に入って、雑多に積み上げられたゴミ袋の奥に座り込んだ。呼吸が整うにつれて瑠奈に言われた言葉が蘇り、葵は膝を抱えて泣いた。
自分なりに、自分を変えようと努力していたつもりだった。だが結局最後はいつも瑠奈に甘えていた。配達員に襲われた時も、警察に説明することが怖くて瑠奈を呼んだ。凍矢の裏取りをする時も、また沙織と会うことが怖くて瑠奈に任せた。勝手に駆けつけた凍矢との戦闘でも、太刀打ちできなかった。その挙句招いた結果が、唯一の親友に愛想を尽かされるという最悪の結末だ。
いや、遅かれ早かれ、いつかはこうなっていたのだ。
瑠奈のことを酷いとは全く思わない。
瑠奈と自分とでは、そもそも人間としての価値が違う。思えば当然のことなのに、なぜ自分は勘違いをしてしまったのだろう。瑠奈にコーヒーを美味しいと褒めてもらった時、瑠奈と一緒のベッドで明け方まで話をしている時、瑠奈がブイチューバーの活動を褒めてくれた時──もしかしたら自分にも少しは価値があるのではないかと、なぜ自分は勘違いをしてしまったのだろう。
「はは……馬鹿みたい……」
葵は涙を拭うと、ポケットから小さいカードのようなものを取り出した。戦闘員が常に携帯している小型の通信機だ。最後の仕事として、せめて凛に瑠奈の救援を要請しなければならない。
全てが終わったらアンチレジストもブイチューバーも全部やめて、これからは勘違いしないように、なるべく人に迷惑をかけないように、静かに生きていこう。
通信機と一緒に、小さい樹脂片がポケットから地面に落ちた。
「……あ」
葵が目を丸くする。
折れたカチューシャのように見えたが、それは紛れもなく瑠奈のヘッドパーツの破片だった。
葵はそれを発掘したばかりの貴重な化石のようにそっと拾い上げ、無意識に頭に装着した。
ピリッ……という小さな電流がヘッドパーツから流れたかと思うと、頭上から「葵」と声をかけられた気がした。
葵はハッとして顔を上げた。
目の前に、まるで透明なスクリーンに投影された立体映像のような瑠奈が立っていた。薄く発光する瑠奈は、葵から目を逸らして恥ずかしそうに頭を掻いた。
「あのさ……」と、瑠奈が言った。瑠奈が喋ると、その姿は擦り切れる寸前のビデオテープのように大きく歪んだ。
「さっきは酷いこと言って、ごめん……」
葵が首を振った。「そんなことないよ……。私の方こそ、いつまで経っても全然成長しなくて……」
「葵は十分頑張ってるよ」
「頑張ったって、結果が出てないから意味ないよ……」
「すぐに結果が出なくたって、その頑張れるってこと自体が、そもそもすごいことなの」
瑠奈は真剣な顔をして葵と向き合った。瑠奈の姿にさらに大きなノイズが走った。
「葵は苦手なことでも絶対に逃げずに、必死に正面から立ち向かってるじゃん。苦手なコミュニケーションだって克服するために講座受けたり、心理学勉強したり、最後にはブイチューバーにもなっちゃうなんて、本当にすごいよ。誰にでもできることじゃない」
「でも……」
「本当だよ。昔から葵はそうだった。あの時だって……小学校の教室で初めて私から話しかけられた時だって、逃げなかったでしょ? それまで一言も喋ったことがない、こんな訳わかんない外国からの転校生から、いきなり声掛けられた時にだってさ。私が葵の立場だったら驚いて逃げちゃうかもしれない……。だからさ、本当に感謝してるんだ。あの時、逃げないでくれてありがとう。もしあの時、葵に拒否られてたら、私は今とは全然違う人生になっていたと思うよ」
強いノイズが走り、瑠奈の姿が不鮮明になった。
「あ、ごめん。もう限界みたい」
ノイズが更に激しくなり、かろうじて瑠奈が人差し指を唇に当ててウインクをしている様子がわかった。
「葵、今まで本当にありが──」
再生中のテレビの電源コードを抜いたように、瑠奈の姿がきっぱりと消えた。
葵はしばらく瑠奈の消えた空間を見つめていたが、そこには何か温かいモヤのようなものが残っているように感じた。やがて葵は涙を拭うと、通信機のスイッチを押した。
ワンコールの途中で凛が出た。
「もしもし、あおっぴ? 瑠奈ちなんだけど──」
「申し訳ありません。二人とも命令違反をしています」
「え……? あおっぴ?」
「私も瑠奈も、凍矢のジムにいます。瑠奈がピンチなので、すぐに救援をお願いします。勝手なことを言って申し訳ありません」
葵が再びジムのドアを開けると、微かに漂う汗の匂いに混じって、獣じみた気配が身体にを包んだ。天井に埋め込まれたハイエンドのエアコンでも除去しきれないそれは、フロア中央のから漂っていた。
瑠奈はまさに今、服を脱がされようとしているところだった。
瑠奈はベンチプレス台に座らされ、背後から胸を鷲掴みにされていても、まるで魂が抜けたように抵抗も拒絶もしていなかった。両腕は脱力してだらりと垂れ、目からも光が消えている。もちろん声を発したり、自分から何かすることもない。
無反応な瑠奈に、凍矢は苛立っているようだった。
「おいおい、ダッチワイフじゃねぇんだぞ? 少しは反応しろや」
声をかけられても、瑠奈は反応しない。無視をしているというよりも、全く聞こえていない様子だった。業を煮やした凍矢が舌打ちをして瑠奈の胸の部分のスーツに手をかけた時、葵に気がついた。
「……なんだ、またお前かよ」凍矢が呆れたように立ち上がった。「こいつ見捨てて尻尾巻いて逃げたくせに、なんで戻ってきたんだ? 俺に犯されたくなったのか?」
瑠奈もゆっくりと顔を上げ、葵の姿を見ると目を丸くした。
葵は何かを振り切るようにギリッと歯を食いしばり、頭に付けている瑠奈のヘッドパーツの破片に触れた。
「わ……わ……」
「あ? まともに喋れねぇなら黙ってろよ」
凍矢があざ笑いながら立ち上がった。
「わ……私の親友に……酷いことをするな!」
一瞬、凍矢の動きが止まった。
叫ぶと同時に、葵は凍矢に突進した。凍矢が身構える。葵は素早く距離を詰め、凍矢が伸ばした腕をかいくぐると、その顎を掌底で突き上げた。
「……お?」
強烈に床を踏み込み、腰を落とした一撃だった。
凍矢が天井に埋め込まれたライトの眩しさに目を細める。
瑠奈のヘッドパーツから、冬の太陽のような暖かい熱が伝わってくる。その熱は葵の全身の筋肉を満遍なく解きほぐし、生まれ変わったような自信をもたらした。
葵は凍矢の右手首とティーシャツを掴むと、独楽のように素早く回転して凍矢の内股を跳ね上げた。凍矢の身体が水車のように回転し、背中から床に叩きつけられる。
回転の勢い余って葵は凍矢の上に仰向けに寝る。凍矢が背後から葵の身体に腕を回した。再び締め上げるつもりだったが、葵は身体を反転させて凍矢に向き合うと、マウントポジションから両腕をクロスさせてティーシャツの奥襟を掴み、凍矢の頭を胸に抱くようにして引き付けた。
「がッ?!」
十字締めが極まり、凍矢は両腕で葵を押し除けようとするが、葵も必死に凍矢の頭に覆い被さるようにして耐える。しばらく攻防が続いた後、凍矢の動きが徐々に弱くなると、やがて完全に意識を手放した。
「ぷはッ! はっ……はぁ……はぁ……」
葵がようやく顔を上げた。葵も息を止めていたのか、滝のような汗が顎を伝って凍矢の身体に落ちる。
「葵……」と言って、瑠奈が葵に近づいた。その顔は最初困惑した表情を浮かべていて、次に泣きそうになりながら、最後に笑った。
「あんた……ちゃんと喋れるじゃん?」
「……え? あれ? 本当だ」
葵も笑って、恥ずかしそうに頭を掻いた。その時、葵が装着していたヘッドパーツに大きなヒビが入り、役目を終えたことを悟ったように崩れて床に落ちた。
「また瑠奈に助けられちゃった……」
「なに言ってんの。助けられたのはこっちじゃん」
「違うよ。必死に逃がそうとしてくれたし、凍矢に勝てたのもこのヘッドパーツのおかげだし。それに──」と言って、葵はイタズラっぽい笑みを浮かべた。「喋れるようになるためのショック療法も、この通りすごく効いたしね」
瑠奈は「うぅ」と呻いて両手で顔を覆った。耳まで真っ赤になっている。
「あと十年はこのネタで擦られそう……」
「たぶんもっと長く擦るかな。へへ」
瑠奈は顔を覆っていた両手を外すと、大粒の涙を流しながら葵を抱きしめて声を殺して泣いた。
「ちょっと、どうしたの?」と言って、葵は瑠奈の頭を撫でた。
「ごめん……酷いこと言って……」
「大丈夫だよ。ちゃんとわかってるから……。ね、とりあえず帰ろう?」
葵も泣きそうになるのを堪えて笑った。
瑠奈も立ち上がって涙を拭う。
「……うん」
「凛さんには連絡してあるから。もうすぐ来ると思うし」
「……めっちゃ怒られるだろうね」
「だろうね。その時は一緒に──」
突然、ドグリュッ……! という異様な音を立てて、葵の身体がくの字に折れた。
なにが起こったのか分からず、彼女達の表情が凍りつく。
葵は恐る恐る衝撃のあった箇所に視線を落とした。
目に見えない硬いものが腹部にめり込み、剥き出しの腹に大きなクレーターができている。
「ん゙ッ?!」
葵は突然込み上げてきた猛烈な吐き気に両手で口を押さえると、支えが無くなったように両膝を床に着け、そのまま額を床に打ちつけた。四つん這いの姿勢でうずくまり、ビクビクと激しく痙攣しながら嗚咽を漏らしている。
「ゔぇっ……?! ぐっ……がはッ……?!」
「え……? 葵……?」
なにが起きたのか理解できない。
凍矢は失神したまま微動だにしていない。
瑠奈が素早く周囲を見回した瞬間、グジュッ……という音を立てて瑠奈の鳩尾のあたりが大きく陥没した。
「ふぅッ?!」
一瞬で瑠奈の瞳孔が収縮する。
その直後、絶望的なダメージが脳内を駆け巡った。
「ゔぶッ?! ぐぶぇッ!!」
人体急所を不意打ちされ、瑠奈はたまらずに片膝を着いた。ガクガクと震えながらも必死に歯を食いしばり、倒れ込むことをなんとか耐えて周囲に注意を向ける。葵もようやく顔を上げたが、とても動ける状態ではない。
「……まったく。本当に私の部下は使えない奴ばかりだな。交渉失敗の尻拭いをして帰ってきたら、今度は小娘二人にKOされているとは」
声のした方に視線を送っても、何も見えない。だが突然、凍矢の身体が弾き飛ばされたように吹っ飛んで、派手な音を立ててダンベルラックに突っ込んだ。凍矢は衝撃で目を覚ますと、勢いよくその場で土下座した。
「す、すみませんでした! 凍矢さん!」
凍矢は切れた唇から血が流れているもの構わず、震えながら額を床に擦り付けている。その先の空間に一瞬ノイズが走ると、虚空から男が現れた。
スキンヘッドで全裸の中年男性。
腕や足が丸太のように太く、腹回りもでっぷり突き出ている。まるで引退したプロレスラーかボディビルダーのような体格の男だった。
「亜冷(あれい)、わかっているな? 次に何かヘマをしたら君は終わりだ。この前アンチレジストに捕まったバカと同じ目に遭わせるぞ? もちろん君が大切にしている例の女も一緒にだ」
「……はい! すみません!」
自分の首を絞める仕草をする凍矢に、亜冷は怯え切った様子で床に額をつけながら叫んだ。凍矢は視線をゆっくりと葵と瑠奈に向ける。
「まぁ、女運は相変わらず良いみたいだな。二人ともタイプは違うが、かなりの上玉じゃないか。客に出すのが惜しいくらいだよ──プレイルームに運べ」
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こちらの葵ちゃんと瑠奈ちゃんが主役の新作[Alto_Luna] が完成しました。
下記イベントで配布させていただきます。
短編読切のため1冊で楽しめる内容です。
よろしくお願いします。
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