情景描写&リハビリのための習作です。
ストーリー、腹パンチ分はほとんど無いため、暇つぶし程度に読んでいただければ有難いです。
門をくぐると、そこは、静かな庭だった。
町中では耳を塞いでも聞こえてくる車のタイヤがアスファルトを削る音も、人々がけたたましく話す声も、信号が青に変わっても発信しない車に腹を立ててクラクションを鳴らす音も、酔っぱらった学生やサラリーマンが必要以上に大きな声で話す声も、電車が線路を引っ掻く音も、横断歩道が青になったことを知らせるアラームも、携帯電話の着信音も聞こえず、ただ、庭の隅に植えられている楡の木の葉擦れの音だけが、微かに僕の耳に届いた。
空はどこまでも高く透き通った雲ひとつない青で、足下には所々隙間の空いた赤茶色のレンガ道が、奥の白い建物まで続いていた。そのレンガ道を浸食するように、春の陽光に背の伸びはじめた緑色の芝生が、朝方降った霧雨に濡れた身体を反射させて、まるで小さな鏡の破片をばらまいた様にきらきらと光っていた。
しばらくぼうっとその光の粒を眺めた後、僕は思い出したようにシャツの胸ポケットから小豆色のアメリカンスピリットを取り出して、傷だらけの真鍮のジッポーで火をつけた。赤ん坊の安らかな寝息の様にゆっくりと煙を吸い込むと、煙草の甘い香りが口内に広がった。
煙草をくわえたまま庭を見渡す。広い庭だ。楡の樹の側にある丸太で出来たブランコや、鉄パイプで作られたジャングルジムを見ていると、ここが小さめの幼稚園のように感じる。
煙草はまだ半分も減っていない。僕はゆっくりとレンガ道を進み、白い二階建ての建物を目指して歩き出す。外壁を漆喰で塗られた少しくたびれた感じのアパートメントだ。決して新しくはないが、ただ居住という機能のみに特化したありふれた物ではなく、そこそこに洒落た外観をしている。大きめのテラスには六人掛けの無垢材のダイニングテーブルが置かれ、テラスへ通じる窓は全て開け放たれている。僕はこのアパートメントの細部にいたるまで、はっきりと思い出すことが出来る。一階は全員が集まって食事のとれるダイニングキッチンと業務用の共同冷蔵庫、グリーンのソファが置かれた広いリビングルーム。五人が同時に使えるシャワールームがある。二階は十二畳ほどの個室が八部屋。
「おかえり……」
テラスの床を見ながらぼうっとしていた僕は、不意にかけられた声に必要以上に驚いて顔を上げた。長身の女性がテラスからレンガ道に降りてくる所だった。ネイビーのフレッドペリーのポロシャツにクロップド丈のデニムといったラフな格好。大人びた雰囲気だが、表情に若干あどけなさが残っている。歳は十代後半といったところか。彼女がテラスから庭に降りると、長く艶のある黒髪の毛先が小さく踊った。
「悪いけど、ここは禁煙なんだ。中に入るのはそれを吸い終わってからにしてくれ」
彼女は僕の目の前まで来ると、僕の胸ポケットから勝手に煙草を取り出して咥えた。僕が火をつけてやると、長く煙を吐き出しながら「ありがと」と小さな声で言った。
僕は若干混乱していた。僕は以前ここに住んでいたことは間違いない。だからこの建物は細部まで克明に思い出すことが出来る。しかし、ここの住人については、まるで磨りガラス越しに飾られた写真を見ている様に、おぼろげなイメージしか浮かんで来なかった。
「身体に悪い。未成年だろ?」
「固いこと言うな。それに、毎日は吸わない。それより久しぶりじゃないか? お前が出て行ってから、もう一年くらいになるか?」
僕は周りを見回した。さっと風が吹いて、楡の樹の葉が大きな音を立てる。
「ごめん……ちょっと混乱してるんだ。上手く思い出せなくて」
「まぁ、無理も無いか……。せっかく帰ってきたんだから、ゆっくり休めばいい。それに、急にふらっと出ていったものから、みんなかなり心配したんだぞ。食事の支度も最初はお前の分まで作っちゃって……」
煙草の火種を僕に向けながら彼女は言った。表情は凛としたままあまり変化は無いが、彼女の声にはやさしさが宿っていることは十分に理解出来た。僕は上手く声が出せなかった。言うべきことはたくさんあった気がしたが、それらは壁同士が引っ付いた喉の粘膜につっかえて身体の中に留まり、行き場無くふわふわと漂っていた。
僕はぼうっとしながらなにか喋ろうとしたものだから、咥えていた煙草を足下に落としてしまった。「あ、ごめん」と僕が言うと、「いや、いい」と言いながら黒髪の彼女が僕の落とした煙草を拾ってくれた。彼女は火種を指で弾いて消すと、吸い殻をまるで宝石の様に色々な角度から観察しなが、僕を見ずに言った。
「早くみんなに顔を見せてやれ。シオンにも綾にも……。もうすぐ昼だから、部屋には行かずにダイニングかリビングでくつろいでいた方がいいぞ」
開け放たれた窓を抜け、マットで靴底に付いた汚れを落とすと、磨き上げられたフローリングへ足を踏み入れた。ダイニングテーブルには日本人離れした容姿の少女が、テーブルの上に新聞を広げながら座っていた。小さいドレープの入った薄緑色のワンピースが彼女の長い金髪を映えさせている。
「あら? 美樹さんの言ってた通り……戻って来られたんですね。本当に久しぶりですねー。おかえりなさい」
読んでいた新聞を丁寧にたたみながら、彼女は柔らかい声で言った。僕は「ああ……」と曖昧に返事をしながら大型の冷蔵庫を開けて瓶に入ったコーラを取り出した。彼女が炭酸飲料を飲まないことはなんとなく知っていたが、一応勧めてみた。予想通り「大丈夫です」と言って軽く首を振った。僕は小気味良い破裂音を奏でながら栓を開け、コーラを一気に半分ほど飲んだ。冷蔵庫の近くの壁には一匹の蠅がとまっていた。蠅は何かを探すように少しうろうろしてから、近くの窓枠から飛び去って行った。
「およ? 本当に帰ってきたんだ。おかえり。ついでに冷蔵庫の中からトマトケチャップ取ってくれる? あ、シオンさん、お皿出してくれます?」
キッチンの中から明るい茶色の髪の少女が、パスタ用のトングを片手に顔を出した。黒いパーカーに、赤と黒のチェックのスカートを履いている。シオンは「はいはーい」と言いながらキッチンに入っていった。
冷蔵庫の中からハインツのトマトケチャップを持ってキッチンに入る。本格的なシステムキッチンだ。中には香ばしいニンニクの香りと、甘いグレープシードオイルの香りが充満し、自然と口の中に唾液が溢れてくる。大鍋にはぐつぐつとスパゲッティが茹でられており、茶髪の少女が慣れた手つきで一本掬って固さを確かめていた。
「綾ちゃん、これ、もう持ってく?」
「あ、ちょっと待って。粉チーズ忘れてた」
シオンが抱えているサラダボウルには色とりどりの野菜や豆類、カリッと揚がったベーコンが溢れんばかりに入っていた。綾がおろし金でチーズを削って野菜にかける。「シーザーサラダ?」と僕が聞くと「ううん、コブサラダ」と綾が言った。
「ごめん、ソース作ってくれる? 後はその手に持ってるケチャップ入れて混ぜるだけだから」
フライパンの中には大きめのムール貝やエビ、綺麗に輪切りになったイカが白ワインとホールトマトで煮詰められていた。綾に言われた通りケチャップを入れる。量がわからないから目分量。適当にフライパンの中身を混ぜていると、綾が隣に立って鍋からフライパンの中にスパゲッティを入れはじめた。
「本当に久しぶりじゃない……? 半年ぶりくらいかな?」
綾は鍋の中に視線を落としながらも、僅かに微笑んでいるように見えた。
「向こうはどうだった? 結構大変だったんじゃない?」
「いや……どこも大して変わらないよ。ただ淡々と日々を過ごしているだけだったし。ただ、どう過ごすかは違いがあったかもしれないな。穏やかに過ごすか、乗り越えるか、それともやり過ごすかの違いはあったと思う。向こうは鳥のさえずりで目が覚めて、ロッキングチェアを揺らしながら読書をして一日が終わるわけではないんだ。生きて行くためには色々とやりたくないことや、ろくでもないことをしなければいけないし……」
「ふぅん……。でもここには優しい人しか居ないから、向こうよりは過ごしやすいでしょ?」
「まぁ……ね。でもここの空気は甘過ぎるから、長居すると出られなくなると思うんだ」
綾はゆっくりと鍋から視線を外し、僕の目を見つめてくる。髪の色と同じように薄い茶色の瞳だった。綾は何か秘密を打ち明ける時の子供の様に、何回か短く息を吸いながら口を動かした。
「……無理にここを出る必要は無いんじゃない? ここでみんなで、ゆっくり暮らして行けばいいんじゃないかな。部屋はたくさんあるし、アンタの部屋もそのままにしてあるしさ……」
綾は心配そうな顔を僕に向けた。その表情からは何かの祈りの様なものを僕は感じ取ることが出来たが、僕は何も言わなかった。
それは幸福な食事だった。綾の作ったペスカトーレは絶品だったし、美樹が地下のカーヴから選んだシャブリも料理とよく合った。僕と美樹はシャブリを、綾とシオンはアイスハーブティーを飲んでいた。程よく酔いが回り、僕は煙草を吹いたくなってテラスへ出た。ガーデンチェアに座って煙草を吸っていると、シオンがコーヒーを淹れてくれた。こんな幸せが永遠に続けばいいと、僕は安らかな気持ちで目を閉じた。
僕が目を覚ますと、周囲はつけっぱなしにした午前三時のテレビの様な耳障りなノイズに包まれていた。飲み過ぎてテレビをつけたまま寝てしまったのかと思い、僕は咄嗟にリモコンを探した。手のひらにざらざらとした感触が伝わり、時々柔らかい袋の様な物が触れる。アスファルトと、生ゴミを詰めたゴミ袋だった。ゴミ袋からは何かの腐った様な甘酸っぱい匂いが漂い、僕は吐気を催してそのまま胃の中の物を吐いた。わずかに形を残したスパゲッティの破片がアスファルトに広がった。
テレビの砂嵐に似たノイズの正体は雨だった
冷たく濁った雨を顔に受け続けているうちに、砂の舞い上がった海底の様な意識が徐々にはっきりしてきた。僕はどこかの路地裏のゴミ捨て場で寝ていた。起き上がる時に訳の分からない大声を発したため、路地裏に面している大通りを行き交う人がチラチラとこちらを見た。口の周りを汚している吐瀉物を、袖口や襟がぼろぼろになり、元の色が緑だったか茶色だったかわからなくなったトレンチコートの袖で拭うと、布越しに頬にまばらに生えた髭の感触が伝わってくる。
僕はよろけながら路地裏を出た。明日の食事を調達して来なければいけない。他の人間に先を越される前に、めぼしいレストランやコンビニエンスストアへ行かなければ。
「あの……大丈夫ですか……?」
一人の女の子が僕に話しかけてきた。少し怯える様な表情の女の子だ。まだ高校生くらいだろうか。明るめの茶髪の少女は、僕に夢で見た少女を思い起こさせた。
「すごい悲鳴が聞こえて……。もし、体調が悪いんでしたら病院に……」
僕は無意識にその少女の腹に拳を埋めた。少女は「こひゅっ」という悲鳴とも吐息とも取れない声をあげて、身体をくの字に折り曲げた。柔らかい腹筋の感触を楽しみたくて、立て続けに少女の腹部に拳を埋めた。周囲からは悲鳴が上がり、サラリーマン風の男が怒号をあげながら僕の腕を掴んだ。僕は空いている方の手でサラリーマンの顔を殴った。マッチ棒を折る様な鼻骨が砕ける感触が僕の手に伝わり、ぬらぬらとした鼻血が僕の手を汚した。
うずくまるサラリーマンや少女を介抱する声や、僕を非難する声を無視して、僕は近くの雑居ビルの非常階段を上った。もう街の喧騒を聞くのはうんざりしていた。雨に濡れた非常階段はとても滑りやすく、おぼつかない足取りの僕は何度か転んで顔からスチール製の階段に落ちた。右の前歯が欠けたが痛みは感じなかったし、もともと歯はボロボロだったから気にしなかった。途中、踊り場で煙草を吸っていた休憩中の風俗嬢に挨拶をしたが、幽霊を見る様な目で見られただけだった。
屋上に付くと、僕は柵を乗り越えて煙草を取り出した、夢の中で見たものと同じ小豆色のアメリカンスピリットだ。取り出した側から雨に濡れて火が消えるので、僕は諦めて煙草の箱とライターを足下に捨てた。
足下には車のテールランプや、色とりどりの傘が見えた。小さく動く様々な色がとても哀しく思えて、僕は両手を広げてそこへ飛び込んで行った。
浮遊感、一瞬の自由。僕は今、世界で最も自由を与えられた一人なのだ。
彼女達はまた「おかえり」と言ってくれるだろうか。
地面が近づく様子がとても長い時間に思えて、僕はゆっくりと目を瞑った。この身体が地面と触れ合うと同時に、あの庭に帰って来られることを祈りながら。
ストーリー、腹パンチ分はほとんど無いため、暇つぶし程度に読んでいただければ有難いです。
門をくぐると、そこは、静かな庭だった。
町中では耳を塞いでも聞こえてくる車のタイヤがアスファルトを削る音も、人々がけたたましく話す声も、信号が青に変わっても発信しない車に腹を立ててクラクションを鳴らす音も、酔っぱらった学生やサラリーマンが必要以上に大きな声で話す声も、電車が線路を引っ掻く音も、横断歩道が青になったことを知らせるアラームも、携帯電話の着信音も聞こえず、ただ、庭の隅に植えられている楡の木の葉擦れの音だけが、微かに僕の耳に届いた。
空はどこまでも高く透き通った雲ひとつない青で、足下には所々隙間の空いた赤茶色のレンガ道が、奥の白い建物まで続いていた。そのレンガ道を浸食するように、春の陽光に背の伸びはじめた緑色の芝生が、朝方降った霧雨に濡れた身体を反射させて、まるで小さな鏡の破片をばらまいた様にきらきらと光っていた。
しばらくぼうっとその光の粒を眺めた後、僕は思い出したようにシャツの胸ポケットから小豆色のアメリカンスピリットを取り出して、傷だらけの真鍮のジッポーで火をつけた。赤ん坊の安らかな寝息の様にゆっくりと煙を吸い込むと、煙草の甘い香りが口内に広がった。
煙草をくわえたまま庭を見渡す。広い庭だ。楡の樹の側にある丸太で出来たブランコや、鉄パイプで作られたジャングルジムを見ていると、ここが小さめの幼稚園のように感じる。
煙草はまだ半分も減っていない。僕はゆっくりとレンガ道を進み、白い二階建ての建物を目指して歩き出す。外壁を漆喰で塗られた少しくたびれた感じのアパートメントだ。決して新しくはないが、ただ居住という機能のみに特化したありふれた物ではなく、そこそこに洒落た外観をしている。大きめのテラスには六人掛けの無垢材のダイニングテーブルが置かれ、テラスへ通じる窓は全て開け放たれている。僕はこのアパートメントの細部にいたるまで、はっきりと思い出すことが出来る。一階は全員が集まって食事のとれるダイニングキッチンと業務用の共同冷蔵庫、グリーンのソファが置かれた広いリビングルーム。五人が同時に使えるシャワールームがある。二階は十二畳ほどの個室が八部屋。
「おかえり……」
テラスの床を見ながらぼうっとしていた僕は、不意にかけられた声に必要以上に驚いて顔を上げた。長身の女性がテラスからレンガ道に降りてくる所だった。ネイビーのフレッドペリーのポロシャツにクロップド丈のデニムといったラフな格好。大人びた雰囲気だが、表情に若干あどけなさが残っている。歳は十代後半といったところか。彼女がテラスから庭に降りると、長く艶のある黒髪の毛先が小さく踊った。
「悪いけど、ここは禁煙なんだ。中に入るのはそれを吸い終わってからにしてくれ」
彼女は僕の目の前まで来ると、僕の胸ポケットから勝手に煙草を取り出して咥えた。僕が火をつけてやると、長く煙を吐き出しながら「ありがと」と小さな声で言った。
僕は若干混乱していた。僕は以前ここに住んでいたことは間違いない。だからこの建物は細部まで克明に思い出すことが出来る。しかし、ここの住人については、まるで磨りガラス越しに飾られた写真を見ている様に、おぼろげなイメージしか浮かんで来なかった。
「身体に悪い。未成年だろ?」
「固いこと言うな。それに、毎日は吸わない。それより久しぶりじゃないか? お前が出て行ってから、もう一年くらいになるか?」
僕は周りを見回した。さっと風が吹いて、楡の樹の葉が大きな音を立てる。
「ごめん……ちょっと混乱してるんだ。上手く思い出せなくて」
「まぁ、無理も無いか……。せっかく帰ってきたんだから、ゆっくり休めばいい。それに、急にふらっと出ていったものから、みんなかなり心配したんだぞ。食事の支度も最初はお前の分まで作っちゃって……」
煙草の火種を僕に向けながら彼女は言った。表情は凛としたままあまり変化は無いが、彼女の声にはやさしさが宿っていることは十分に理解出来た。僕は上手く声が出せなかった。言うべきことはたくさんあった気がしたが、それらは壁同士が引っ付いた喉の粘膜につっかえて身体の中に留まり、行き場無くふわふわと漂っていた。
僕はぼうっとしながらなにか喋ろうとしたものだから、咥えていた煙草を足下に落としてしまった。「あ、ごめん」と僕が言うと、「いや、いい」と言いながら黒髪の彼女が僕の落とした煙草を拾ってくれた。彼女は火種を指で弾いて消すと、吸い殻をまるで宝石の様に色々な角度から観察しなが、僕を見ずに言った。
「早くみんなに顔を見せてやれ。シオンにも綾にも……。もうすぐ昼だから、部屋には行かずにダイニングかリビングでくつろいでいた方がいいぞ」
開け放たれた窓を抜け、マットで靴底に付いた汚れを落とすと、磨き上げられたフローリングへ足を踏み入れた。ダイニングテーブルには日本人離れした容姿の少女が、テーブルの上に新聞を広げながら座っていた。小さいドレープの入った薄緑色のワンピースが彼女の長い金髪を映えさせている。
「あら? 美樹さんの言ってた通り……戻って来られたんですね。本当に久しぶりですねー。おかえりなさい」
読んでいた新聞を丁寧にたたみながら、彼女は柔らかい声で言った。僕は「ああ……」と曖昧に返事をしながら大型の冷蔵庫を開けて瓶に入ったコーラを取り出した。彼女が炭酸飲料を飲まないことはなんとなく知っていたが、一応勧めてみた。予想通り「大丈夫です」と言って軽く首を振った。僕は小気味良い破裂音を奏でながら栓を開け、コーラを一気に半分ほど飲んだ。冷蔵庫の近くの壁には一匹の蠅がとまっていた。蠅は何かを探すように少しうろうろしてから、近くの窓枠から飛び去って行った。
「およ? 本当に帰ってきたんだ。おかえり。ついでに冷蔵庫の中からトマトケチャップ取ってくれる? あ、シオンさん、お皿出してくれます?」
キッチンの中から明るい茶色の髪の少女が、パスタ用のトングを片手に顔を出した。黒いパーカーに、赤と黒のチェックのスカートを履いている。シオンは「はいはーい」と言いながらキッチンに入っていった。
冷蔵庫の中からハインツのトマトケチャップを持ってキッチンに入る。本格的なシステムキッチンだ。中には香ばしいニンニクの香りと、甘いグレープシードオイルの香りが充満し、自然と口の中に唾液が溢れてくる。大鍋にはぐつぐつとスパゲッティが茹でられており、茶髪の少女が慣れた手つきで一本掬って固さを確かめていた。
「綾ちゃん、これ、もう持ってく?」
「あ、ちょっと待って。粉チーズ忘れてた」
シオンが抱えているサラダボウルには色とりどりの野菜や豆類、カリッと揚がったベーコンが溢れんばかりに入っていた。綾がおろし金でチーズを削って野菜にかける。「シーザーサラダ?」と僕が聞くと「ううん、コブサラダ」と綾が言った。
「ごめん、ソース作ってくれる? 後はその手に持ってるケチャップ入れて混ぜるだけだから」
フライパンの中には大きめのムール貝やエビ、綺麗に輪切りになったイカが白ワインとホールトマトで煮詰められていた。綾に言われた通りケチャップを入れる。量がわからないから目分量。適当にフライパンの中身を混ぜていると、綾が隣に立って鍋からフライパンの中にスパゲッティを入れはじめた。
「本当に久しぶりじゃない……? 半年ぶりくらいかな?」
綾は鍋の中に視線を落としながらも、僅かに微笑んでいるように見えた。
「向こうはどうだった? 結構大変だったんじゃない?」
「いや……どこも大して変わらないよ。ただ淡々と日々を過ごしているだけだったし。ただ、どう過ごすかは違いがあったかもしれないな。穏やかに過ごすか、乗り越えるか、それともやり過ごすかの違いはあったと思う。向こうは鳥のさえずりで目が覚めて、ロッキングチェアを揺らしながら読書をして一日が終わるわけではないんだ。生きて行くためには色々とやりたくないことや、ろくでもないことをしなければいけないし……」
「ふぅん……。でもここには優しい人しか居ないから、向こうよりは過ごしやすいでしょ?」
「まぁ……ね。でもここの空気は甘過ぎるから、長居すると出られなくなると思うんだ」
綾はゆっくりと鍋から視線を外し、僕の目を見つめてくる。髪の色と同じように薄い茶色の瞳だった。綾は何か秘密を打ち明ける時の子供の様に、何回か短く息を吸いながら口を動かした。
「……無理にここを出る必要は無いんじゃない? ここでみんなで、ゆっくり暮らして行けばいいんじゃないかな。部屋はたくさんあるし、アンタの部屋もそのままにしてあるしさ……」
綾は心配そうな顔を僕に向けた。その表情からは何かの祈りの様なものを僕は感じ取ることが出来たが、僕は何も言わなかった。
それは幸福な食事だった。綾の作ったペスカトーレは絶品だったし、美樹が地下のカーヴから選んだシャブリも料理とよく合った。僕と美樹はシャブリを、綾とシオンはアイスハーブティーを飲んでいた。程よく酔いが回り、僕は煙草を吹いたくなってテラスへ出た。ガーデンチェアに座って煙草を吸っていると、シオンがコーヒーを淹れてくれた。こんな幸せが永遠に続けばいいと、僕は安らかな気持ちで目を閉じた。
僕が目を覚ますと、周囲はつけっぱなしにした午前三時のテレビの様な耳障りなノイズに包まれていた。飲み過ぎてテレビをつけたまま寝てしまったのかと思い、僕は咄嗟にリモコンを探した。手のひらにざらざらとした感触が伝わり、時々柔らかい袋の様な物が触れる。アスファルトと、生ゴミを詰めたゴミ袋だった。ゴミ袋からは何かの腐った様な甘酸っぱい匂いが漂い、僕は吐気を催してそのまま胃の中の物を吐いた。わずかに形を残したスパゲッティの破片がアスファルトに広がった。
テレビの砂嵐に似たノイズの正体は雨だった
冷たく濁った雨を顔に受け続けているうちに、砂の舞い上がった海底の様な意識が徐々にはっきりしてきた。僕はどこかの路地裏のゴミ捨て場で寝ていた。起き上がる時に訳の分からない大声を発したため、路地裏に面している大通りを行き交う人がチラチラとこちらを見た。口の周りを汚している吐瀉物を、袖口や襟がぼろぼろになり、元の色が緑だったか茶色だったかわからなくなったトレンチコートの袖で拭うと、布越しに頬にまばらに生えた髭の感触が伝わってくる。
僕はよろけながら路地裏を出た。明日の食事を調達して来なければいけない。他の人間に先を越される前に、めぼしいレストランやコンビニエンスストアへ行かなければ。
「あの……大丈夫ですか……?」
一人の女の子が僕に話しかけてきた。少し怯える様な表情の女の子だ。まだ高校生くらいだろうか。明るめの茶髪の少女は、僕に夢で見た少女を思い起こさせた。
「すごい悲鳴が聞こえて……。もし、体調が悪いんでしたら病院に……」
僕は無意識にその少女の腹に拳を埋めた。少女は「こひゅっ」という悲鳴とも吐息とも取れない声をあげて、身体をくの字に折り曲げた。柔らかい腹筋の感触を楽しみたくて、立て続けに少女の腹部に拳を埋めた。周囲からは悲鳴が上がり、サラリーマン風の男が怒号をあげながら僕の腕を掴んだ。僕は空いている方の手でサラリーマンの顔を殴った。マッチ棒を折る様な鼻骨が砕ける感触が僕の手に伝わり、ぬらぬらとした鼻血が僕の手を汚した。
うずくまるサラリーマンや少女を介抱する声や、僕を非難する声を無視して、僕は近くの雑居ビルの非常階段を上った。もう街の喧騒を聞くのはうんざりしていた。雨に濡れた非常階段はとても滑りやすく、おぼつかない足取りの僕は何度か転んで顔からスチール製の階段に落ちた。右の前歯が欠けたが痛みは感じなかったし、もともと歯はボロボロだったから気にしなかった。途中、踊り場で煙草を吸っていた休憩中の風俗嬢に挨拶をしたが、幽霊を見る様な目で見られただけだった。
屋上に付くと、僕は柵を乗り越えて煙草を取り出した、夢の中で見たものと同じ小豆色のアメリカンスピリットだ。取り出した側から雨に濡れて火が消えるので、僕は諦めて煙草の箱とライターを足下に捨てた。
足下には車のテールランプや、色とりどりの傘が見えた。小さく動く様々な色がとても哀しく思えて、僕は両手を広げてそこへ飛び込んで行った。
浮遊感、一瞬の自由。僕は今、世界で最も自由を与えられた一人なのだ。
彼女達はまた「おかえり」と言ってくれるだろうか。
地面が近づく様子がとても長い時間に思えて、僕はゆっくりと目を瞑った。この身体が地面と触れ合うと同時に、あの庭に帰って来られることを祈りながら。