2年くらい前に書き始めたまま放置していた「_LOVE GOD MURDER」を改題して、のんびりと完結させます。



[Plastic_Cell]


 雪が降っていた。
 夕方からしんしんと降り続いた雪は二十二時を過ぎても止まず、本来なら、手入れの行き届いたきめの細かい芝生で覆われたアナスタシア聖書学院のグラウンドを、まるで最高級のグレイグースの羽毛を敷き詰めた様に真っ白に覆い隠していた。
 その雪が全ての音を吸い尽くしてしまったかの様に、ほぼ完全な静寂がヨーロッパ調の敷地内を静かに漂っている。赤味の強い煉瓦造りの校舎の中は全ての灯りが消えており、等間隔に灯されたレトロなガス灯のあかりだけが、雪に霞みながら静かにゆらめいていた。
 男は裏門にいた警備員を昏倒させると、鍵束から裏門の通用口の鍵を探し出し、足早に学院内へと侵入した。
 男は二十代前半だろうか。
 顔の彫りが深く、目が落ち窪んで眼光がやけに目立っていた。金色に染め上げたボリュームのある髪の毛を、爆発させる様にきつめのパーマで逆立てている。男は黒いマットな光沢のあるタイトなレザーライダースのファスナーを首元まで締め、大きなポケットの着いた厚手の黒いデニム地のカーゴパンツのポケットに手を突っ込んで歩く。
 十年に一度の異常気象と言われた夏の暑さとはうってかわって、年が明けた一月の夜は凍てつく様に冷えきっていた。男は時折白い息を吐きながら新雪を踏みしめた。さくさくと乾いた音がドクターマーチンの靴底から男の耳に届く。
 学院の奥へと進むと、ようやく目当ての建物が見えてきた。煉瓦や自然石を基調とした敷地の中で、やや浮いた印象のコンクリートむき出しの五階建ての建物、通称S棟。
 S等は一階がプール、二階と三階が多目的コート、四階が武道場、五階がトレーニングジムというスポーツ専用に建設された建物で、授業や部活動以外にも体力向上やダイエット目的の生徒に幅広く利用されている。
 男はS棟の真下に到着すると、微かに明かりの漏れている一階部分を見上げた。高い天井付近の窓から漏れる明かりと、そこからわずかに見える、天井に写る水面の揺らめきが、ターゲットがまだ中に居ることを男に伝える。男は僅かに唇の端をつり上げるとS棟の中に侵入した。
 内部は空調が効いているのか、プールの湿気と相まって汗ばむほどの蒸し暑さだった。
 オリンピックでも使えそうな広い競泳用プールの左端のレーンを、一人の女性が綺麗なフォームのクロールで泳いでいる。
 女性はあっという間に向こう側の壁にたどり着くと、鮮やかなクイックターンですぐにこちらに向かって泳いで来る。
 女性ほとんどペースを落とさずに数回プールを往復すると、肩で息をしながらプールサイドに据え付けられたステンレス製の手すりにつかまり呼吸を整えた。わずかに見える横顔からは満足そうな色が伺えた。男が居ることには気付いていない。呼吸が落ち着き、プールサイドに登るためにステップに足をかける。
「手を貸そうか?」
 女性の肩がビクリ跳ね、反射的に男が伸ばした手を弾く。同時に男の肩に手を置いて側転する様に男の頭上を飛び越えプールサイドに上がった。女性が飛び上がった反動で舞い上がった水しぶきが、遅れて男のライダースジャケットの上に落ちた。
「へぇ……あれだけ泳いだ後なのに、なかなか良い動きするじゃないか? 鷹宮美樹?」
「……何だお前は? なぜ私の名前を知っている?」
 男は質問には答えず、まだ水の滴る美樹の身体をゆっくりと見回した。
 均整の取れた美しい身体だ。
 腰まである長い黒髪は濡れた烏の羽の様に艶々と輝いており、凛とした印象の整った顔立ちを引き立たせている。身体にぴったりとした競泳用の水着は身体のラインを余す所無く浮かび上がらせ、形の良いヒップから縦長の臍、そこから程よく僅かに割れた腹筋。水着の締め付けを押し返す胸。
 男は無意識に唇を舐めた。
「あれだけ速く泳げれば次回の大会で君の連覇は軽いだろうね。それにしてもこんな時間まで居残り練習とは、白鳥は水面下で必死に足を……ってやつかな?」
「ふざけたことを言うな! どうやって侵入したかは知らないが、どうせやましいことが目的だろう? 怪我をしないうちに帰った方がいいぞ……」
「噂通り口が悪いなぁ……。神社の巫女さんってのはそんなにぶっきらぼうでも勤まるものなのかい?」
 美樹の目が大きく見開かれる。
「君のことは結構知っているよ。鷹宮神社の一人娘……と言っても、住職とは血の繋がりは無くて養子縁組。アナスタシア聖書学院の水泳部のエースで、地区大会ではいつも優勝、全国大会でも上位。ぶっきらぼうだけど面倒見が良くて後輩からは慕われている。男にもかなり人気があるが、雰囲気や言動から近寄りがたく、あまり告白はされないし、されても一度もOKしたことは無い。成績はかなり良くて……」
「ストーカーかお前は?」
 美樹が男の言葉を遮る。正面を向いたまま後ずさり、立てかけてあったデッキブラシを掴んで男に向けて先端を突きつけながら語気を荒げた。
「生憎、私はそこらにいる女達の様に簡単に組み伏せられたりはしないぞ。早々に失せろ。金輪際私の前に姿を現さず、アナスタシアの敷居も跨ぐな!」
 突きつけたデッキブラシを薙刀を持つ要領で持ち替え、足を前後にやや大きめに開きながら構える。重心をしっかりと落とした理想的な構えだ。デッキブラシの先端は全く揺れず、射抜く様に男に向かって突き出されている。
「おお、怖い怖い。警備員呼ばずに自分でどうにかしちゃうんだ? 流石はアンチレジストの上級戦闘員。痴漢やストーカーの一人や二人懲らしめるくらい朝飯前だよね?」
 美樹は一瞬何か言おうとしたが、すぐさま男に向かってデッキブラシを振り下ろした。
 床を打つ硬い音がプール内に反響する。男は美樹の攻撃を軽々とバックステップでかわすが、デッキブラシはまるで生きているかの様に男を追跡した。
「うおっ!?」
 美樹はまるで床の上を滑る様に摺り足で移動する。男との距離を一気に縮めながら、地面すれすれの位置からデッキブラシの先端を男の顎を狙って振り上げた。
 男は仰け反って回避する。顎の数センチ手前をブラシの先端がかすめた。美樹は攻撃が外れたと分かるとすぐさま脳天にターゲットを変える。男は咄嗟に腕を上げて、唸りを上げて振り下ろされたデッキブラシをガードするが、先端が腕に当たった瞬間ミシリという嫌な音が響いた。
「痛ってぇ! こいつ……」
 男が痛みに歯を食いしばる。美樹は攻撃がガードされるや否や、すぐさまデッキブラシを手放して男に急接近し、寸分の狂いも無く顎を肘で跳ね上げた。
 男は悲鳴を上げる間もなく後方へ吹っ飛び、プールのほぼ中央に派手な音を立てて着水した。一瞬置いて、デッキブラシがからんと音を立ててプールサイドに落下した。
「ふん……この程度か……」
 美樹は足下に落ちていた黄色と黒のナイロンが交互に編まれたロープを掴むと、男を追ってプールに飛び込んだ。頭まで水に沈んだまま浮いて来ない男の髪の毛を掴んで無理矢理水面から引き上げる。まるで電柱の根元に放置された吐瀉物を見る様な目つきで男の顔を覗き込んだ。
「弱いな……。アンチレジストの名前を出したときは驚いたが……とんだ肩透かしだ。人妖でも無さそうだしな。警察に突き出す前に、せめて名前くらいは聞いてやる」
「うぅっ……は……蓮斗(はすと)だよ……。蓮の花の蓮に、北斗七星の斗……。もちろん、こんなふざけた名前は本名じゃないぜ……」
「ふん……どうでもいい」
 美樹の拳が正確に蓮斗の肝臓を射抜く。水中から肉を打つくぐもった音が響き、男が微かにうめき声を上げると、口から泡を吹いて全身の力が緩んだ。美樹が掴んでいた髪を離すと、ばしゃりと蓮斗の顔が水面に落ちる。
「ふぅ……とんだ邪魔が入った。教員に話すと色々と面倒だな。明日にでもシオンに生徒会長権限で警備強化を頼んでおくか。しかしこいつ、どこで私がアンチレジストの戦闘員だということを知ったんだ? 念のため縛り上げてオペレーターに連絡を……ッ!?」
 美樹が持って来たロープで蓮斗を縛り上げようとした瞬間、蓮斗は水面に顔を付けたまま掌底を美樹の顔面目掛けて放った。持ち前の反射神経で咄嗟にガードするが、蓮斗の手に掬われた水が美樹の顔にかかった。
「こいつ……まだ動けたのか……うっ!? あああっ!?」
 美樹が攻撃を加えようと拳を握りしめた所、突然目に激痛が走った。慌てて目を押さえるが、目を開けていられないほどの激痛が目の中で次々と爆発し、止めどなく涙があふれた。
「げほっ……流石は上級戦闘員だ……。たまたま落ちた所に消毒用の塩素剤があったんで、握りつぶして使わせてもらったよ。ラッキーだった……」
「ぐっ……ひ……卑怯者! くっ……目が……」
「ははっ……げほっ……どこ向いてんだよ?」
「くっ……こ……この!」
 美樹が音を頼りに必死に居場所を探ろうとするが、水音が壁全体に反響し、ほとんど状況が把握出来ない。
「ははははっ。ほらほら、こっちだって!」
「ひ……卑怯者! 男なら、正々堂々と勝負しろ!」
 当てずっぽうに拳を放つが、いずれも空しく空を切る。視界は何とかぼやけて見えるくらいには回復したが、それでも正確に男の位置を把握することは難しかった。不意に、美樹の背中に硬いものが触れた。いつの間にかプールの壁まで移動していたらしい。プールサイドへ上がるためのステップが無く、自分の頭上まで壁がそびえている。おそらくここは飛び込み台の真下なのだろう。
「うっ……いつの間に…………そこか!」
 パシャリと水音がしたとこを目掛け渾身の一撃を放つが、拳には全く手応えが無く、代わりに手首の辺りをがっしりと掴まれた。
「あっ?」
「やっとつかまえた……さて……楽しませてもらうよ?」
 美樹は必死に抵抗したが、蓮斗は落ち着いて正面に回り込むと、美樹にのど輪を食らわせ、力任せに背後の壁に美樹の背中を叩き付けた。後頭部をしたたかに打ち、美樹は小さなうめき声を上げるが、歯を食いしばりながら、いまだかすむ目で必死に蓮斗を睨みつける。
「恥を知れ……この下衆が!」
「いいねぇ……強気であればあるほど、屈服させたときの快感が強いからね。特に君みたいな綺麗で強気な女の心をへし折った時なんて、本当にたまらないよ」
「寝言は寝て言え! 誰がお前なんかに!」
「本当に寝言かな? 美樹ちゃんがいつまで保つか試してみようか? ほら?」
 ぐずっ、という湿った音が、背骨を伝わって美樹の脳内に届く。
「馬鹿なことを————ぐぷっ……!? あ……?」
 美樹は強烈な圧迫感を腹部に感じ、その衝撃で言葉になるはずだった空気を全て吐き出してしまった。
 ゆっくりと水中の自分の身体を見下ろす。無駄な贅肉の無い引き締まった腹部に、競泳用の薄い水着の生地を巻き込んで蓮斗の拳が深々と突き刺さった。
「あ……あぁ…………。ぐふっ?! うぐっ!」
「へぇ……以外とお腹は柔らかいんだね?」
「あ……ぉ……」
 蓮斗は再び拳を引き絞ると、美樹の小さめの臍のあたりに拳を埋める。ぐじゅりと美樹の腹部が水着を巻き込んで陥没し、くぐもった悲鳴が美樹の口から漏れた。
「うぐぅっ!」
「ほら……まだいくよ?」
 施設内にごつごつと重い音が反響する。蓮斗の拳が美樹の腹にめり込む度に美樹の身体がビクリと跳ね、大きな水しぶきがプールサイドを濡らした。
「うぅっ! ぐふっ! がぶぅっ! あ……あぐっ……」
 まだ完全に視力の回復しない美樹は攻撃を全て正面から喰らい、鍛え上げられた腹筋を固める暇もなく、すべての拳が深々と体内に突き刺さった。
 蓮斗の攻撃は容赦がなく、美樹に呼吸はおろかまともに悲鳴を上げる暇すら与えずに、腹に拳を突き込み続けた。美樹の瞳孔は点の様に小さく収縮し、ガクリと頭を垂れた際に長い髪がはらはらと水中に落ちた。
「あれー? さっきまでの威勢はどうしたの?」
 蓮斗は美樹の髪を掴んで顔を正面から覗き込む。美樹は悔しそうに目に涙を溜めながら蓮斗を睨み上げたが、度重なる衝撃で頬は上気してほんのりと赤くなり、食いしばった歯は苦痛でガチガチと音を立てて震え、口の端からは一筋の唾液が垂れていた。
「へぇ……結構色っぽい表情するじゃん? 俺は大好きだよ、そういう顔」
「お……お前みたいな変態に……喜ばれても……嬉しくな……ぐぶぅッ!」
 蓮斗は渾身のボディブローを美樹の鳩尾に埋め、更に身体の奥へと拳を捻り込んで、美樹の心臓に直接ダメージを与える。
 ズグッ……グチッ……。
「がふぅっ……ぁ……うぐっ!?」
 蓮斗が鳩尾から拳を引き抜くと、陥没が収まらないうちに更に拳を突き入れた。美樹の目が一瞬で白目を剥き、バシャリと水面に顔を付ける。すぐさま蓮斗が美樹の髪を掴んで水面から顔を上げさせるが、失神したのか両目を閉じたまま反応が無い。
「まぁ変態であることは認めるよ。さて、変態は変態らしく、こういう機会は楽しまないとね」
 蓮斗は美樹が持って来たナイロン製のロープをつかむと、美樹を横抱きにかかえたままプールサイドに向かって進んだ。