久留美が「この学院に蓮斗という生徒はいますか!?」と生徒会長室に怒鳴り込んで来たのは一時間ほど前の事だ。かなり取り乱しており話の内容は終止脈絡を得ず、しきりに「蓮斗という生徒はいるか」と繰り返した。シオンがなだめ、何とか落ち着いて話を聞くと、昨日S棟のプールで鷹宮美樹に暴行を行った犯人の名前だと言う。シオンと鑑も暴行事件を調査している中、第一発見者の久留美にはいずれ話を聞くつもりだったので、いいタイミングと言えばそうだった。
趣味のいいウェッジウッドのカップから柔らかい湯気とともに、香しい紅茶の香りが立ち上る。三人はほぼ同時にカップに口をつけ、ほぅと息を吐いた。久留美はカップを丁寧にソーサーの上に戻すと、ぺこりと頭を下げた。
「すみません……取り乱してしまって……。ここに来た時も大騒ぎしてしまいましたし……」
「いえいえ、謝る事なんて全然無いですよ。親しい人があんな目に合ったんですもの、平常心を保っている方が難しいですよ」
シオンが左手を振ってなだめる。鑑も無言で頷きながらカップを置く。
「さっき紅茶を買いにいくついでに学生課に寄って生徒名簿を閲覧しましたが、『蓮斗』なる人物はウチにはいないようです。もっとも、名前からしてほぼ間違いなく偽名だと思いますが」
久留美が少しだけ肩を落とし、カチューシャに付いていつ小さな白いリボンを何ともなしにいじる。
何も出来ない自分に歯がゆさを感じ、悔しがっているのだろう。しきりに下唇を噛んでいる。シオンがゆっくりとした動作でポットから久留美、鑑のカップに紅茶を注ぎ足し、最後に自分のカップにも注いだ。鑑はシオンに軽く頭を下げると久留美に対して口を開いた。
「申し訳ありませんが、話の続きをうかがってよろしいですか? その蓮斗なる人物の名前は鷹宮さんから直接聞いたのですか?」
「ええ……直接といいますか……うわ言なんです。昨日は先輩を乗せた救急車に同乗した後、ずっと病室に付き添っていました。病室で先輩が目を覚まさない間、何回かその名前を口にしていて……。ただ、夜中に先輩が目を覚ました時にその人が犯人なのか聞いても、その名前は忘れろとしか言われなくて……」
「たぶん美樹さんは久留美ちゃんを巻き込みたくなかったのだと思います。久留美ちゃん、今回の件はおそらくただの変質者の犯行ではなく、久留美ちゃんが思っている以上に大事(おおごと)です。美樹さんのことは私達もよく知っているし、簡単にあんな目に遭うような人ではありません。どうか久留美ちゃんは今回の件には深追いせず、私たちに一任してくれませんか?」
「でも私、絶対に犯人を見つけたいんです! お願いです! 出来る事は何でもしますから、何か手伝わせて下さい!」
「久留美ちゃん、これは本当に危険なの。おそらく、ただの暴行事件では終わらない。久留美ちゃんの気持ちは痛いほど分かるけど、美樹さんもこれは危険な事だと十分承知しているから、久留美ちゃんに話をしなかった。美樹さんの思いを汲んではくれないかしら」
訴えかけるシオンに対し久留美が目に涙を溜めて何かを言おうとするが、「美樹の思いを汲んでほしい」と言われると二の句が継げなかった。
久留美は根が真面目で真っ直ぐな分、意志も固い。
美樹を思う気持ちが痛いほど分かる分、シオンや鑑にとっても久留美に「関わるな」と告げる事は辛かった。
シオンと鑑は、美樹の実力は以前から知っている。アンチレジストの戦闘員の中でも、数名しかいない上級戦闘員だ。打撃攻撃の戦闘能力はそれ専門のシオンや綾と比べるとやや劣るだろうが、美樹は銃器以外の殆どの武器や武具を使いこなせる。武器使用可能であれば戦闘能力はシオンや綾に匹敵、場合によってはそれ以上になるだろう。
「……わかりました。先輩の件、どうかお願いします」
久留美が肩を落として生徒会長室を出て行く。その姿はあまりに悲痛でシオンや鑑も胸が締め付けられる様な思いだった。
重い雰囲気を破る様に鑑が口を開く。
「仕方ありませんよ。この件は人妖が絡んでいる可能性が極めて高い。となれば我々アンチレジストで処理すべき問題です。一般人の水橋さんを巻き込む訳には……」
「……そうですよね。今日はこの後美樹さんをお見舞いに行きましょう。当日の状況を詳しく聞きたいですし。あと、昨日警備室の方に頼んで、当日の夜のS棟周辺の防犯カメラの映像を全て借りてきました。今朝に全部の映像をチェックし終わって、犯人らしき人物を捉えた映像が数秒ありましたので、プリントアウトしますね」
シオンがソファから立ち上がると、デスクの上のマッキントッシュを操作し、数枚の写真がワイヤレスで繋がったプリンタから吐き出された。
「全部チェックって……昨日は普通に授業に出てたじゃないですか……。いつ寝たんですか?」
鑑が半ば呆然としながら聞くが、シオンは笑顔になって「シャワーは浴びましたよ」と答えた。数枚の写真を手に取り、シオンがソファに座り直す。写真には金髪の男性が写っていた。背後から裏門の警備員を殴る場面と、S棟に入っていく場面だった。
学院都市の外れにあるアナスタシア総合病院は、アナスタシア聖書学院に次いで都市で生活する人々の誇りであり、心の支えでもあった。
外見は学院と同じく赤味の強い煉瓦を多用したレトロ調の建築で、清潔な施設に最新鋭の設備、膨大なベッド数を有する。一般病棟には他の都市からも多数の入院患者を受け入れていた。また、最上階は一般病棟とは区別され全て個室のみで構築されており、各界の要人や政治家など、いわゆるVIPも「体調不良」の時にこぞって愛用していた。
「ありがとうございましたー。カードでよろしいですか?」
「あ、ああ、はい。じゃあサインを……」
冬の日差しは弱々しいが、どこまでも柔らかくて穏やかだった。
シオンはタクシーから降りると、軽くブレザーの襟を直し、髪を手櫛で梳いた。シオンは戦闘時には長い髪が邪魔にならない様にツインテールに纏めているが、普段は櫛で梳いただけのナチュラルストレートにしていた。プラチナブロンドの髪が日差しに反射し、柔らかく光る。
シオンは振り返って運転手に軽く手を振り、病院の入り口に向かって歩きだした。
運転手は後部座席のドアを閉めるのも忘れ、微かに口を開けたままシオンの後ろ姿を見送り、現実感の無い人だなと溜息混じりに呟いた。
病院の外壁と同じ、ダークレッドのブレザー。
一目でアナスタシア聖書学院の生徒だと分かる。
アナスタシア聖書学院は生徒との信頼関係が出来ているため、校則は日本の一般的なそれと比べてかなり緩い。それは制服においても同じである。
アナスタシア聖書学院の制服は学院のカラーであるダークレッドを基調としたブレザーとチャコールのスラックス、もしくはスカートを「基本の制服」として定めている。この「基本の制服」は各種式典での着用を義務づけられるが、普段の学院生活では「基本」から大きく逸脱しない限りはある程度生徒が自由にコーディネート出来る上、「周囲を不快にしなければ」自由に改造、デザインが施せる。
ほとんどの生徒が数パターンのコーディネートを持っていることが普通だし、中にはブレザーに多数の安全ピンを留め、様々な布を縫い付けてパンク風にしたり、スラックスの膝から下をブリーチしてグラデーションにしたりしている生徒もいた。
シオンも上着こそベーシックなブレザーを着ているが、スカートはロキャロンのブラックスチュアートの生地を自ら墨で後染めし、自作したプリーツスカートを身につけていた。
広大なロビーを横切って総合受付に向かう。
派手な容姿のシオンはただでさえ目立つ。そのため、隠れる様にシオンの後を追ってロビーに入った久留美の姿は誰の目にも留らなかった。
「すみません。鷹宮美樹さんのお見舞いに来たのですが」
「鷹宮様のお見舞いですね。かしこまりました。では、こちらにサインと身分証を」
シオンが身分証を手渡し、流れる様な筆記体でサインを終える。
受付の女性がそれらを見ながら端末で照合を始めた。数秒経った後、顔を上げてシオンを見る。訓練された、全く隙の無い笑顔だ。まるで顔全体が漂白された様だ。もしかしたら寝る時もこの笑顔をしているのではないだろうかと、シオンは心の片隅で思った。
「如月シオン様。ただいま鷹宮様から入室許可を頂きました。以前如月様も神崎様、鑑様と3名で入院されておりましたね。では、鷹宮様のお部屋までご案内致しますので……」
「あっ、おかまいなく。大体の場所は分かりますので、部屋番号だけ教えて頂けますか?」
最上階までエレベーターで登り、シオンが目当ての部屋をノックすると、中からよく通る声で「どうぞ」と返事が返って来た。
扉を開けると一瞬ホテルの一室に来た様な感覚を覚える。応接セットの奥に備え付けられた病院専門のベッドだけがここが病室である事を主張していた。
「大丈夫ですか美樹さん。すみません、来るのが遅くなってしまって。今回は大変でしたね……」
「シオンか……。悪かったな、迷惑をかけた……くっ……」
ライトブルーのパジャマを着た美樹は読んでいた本をサイドテーブルに置きながら起き上がろうとしたが、腹部を押さえて小さなうめき声を上げた。シオンが慌てて駆け寄る。
「あっ……ちゃんと寝ていないとダメですよ」
「大丈夫だ……医者によると内臓へのダメージはほとんど残っていないらしい。筋肉痛みたいなものだ……。それより、今回の件について話がしたい。お前の事だから、もう犯人の写真くらいは手に入れてるんだろう?」
「ええ……おそらくこの人ではないかと……。先走って申し訳ありませんが、鑑君にはアンチレジストの本部で人物の特定をお願いしています」
シオンがプリントアウトした数枚の写真を美樹に手渡すと、それを見た美樹の顔がわずかに強張った。
「こいつで間違いない……鑑にはそのまま調査を続けてもらってくれ。情けない話だが、隙をつかれてこのザマだ。なによりこいつは……」
「人間……」
美樹の深く黒い瞳がシオンの緑色の瞳を見上げる。一瞬の静寂が二人を包み、冷たい風が窓を打つ音だけが部屋に響いた。
シオンは胸の下で自分の身体を抱く様に腕を組むと、視線を足下に落とした。
「流石だな。どうしてわかった?」
「美樹さんがここまで追いつめられた事を知って、私も最初は半年前に戦った使役系の人妖、涼と同じクラスの人妖が現れたのかと思いました。しかし、男性タイプの人妖であれば、その行動目的は人間の女性を自らの栄養供給源として『継続的に』自分に魅入らせる事にあります。誠心学園やアナスタシア聖書学院で起きた連続生徒失踪事件の様に。しかし今回の蓮斗なる人物の行動には継続性が見られない。暴行そのものが目的の様に思います」
「お前の言う通り、確かにこいつは自分を人間だと名乗った。しかし、人妖と接触がある事は間違いない。何故こいつが人妖に取り入っているのか、何故人妖はこいつと接触を持っているかは分からないが、間違いなく言えるのはこいつはとんでもないサディストだ。私を縛り上げ、ナックルを嵌めた拳で腹を滅茶苦茶にやられた……そしてかなり興奮していた……。ところで、久留美は大丈夫だったか? ショックを受けていないといいんだが……」
シオンが大丈夫だと頷くと、美樹はようやくほっとした様にため息をついた。
「ジンヨウ? アンチレジスト? 先輩達は何を話しているの……?」
個室のドアに耳を付けて中の話をうかがっていた久留美は目を丸くした。美樹やシオンの口から発せられた聞き慣れない単語は所々意味が分からなかったが、何か大きなモノに美樹やシオンが対峙している事は理解出来た。
「えと……美樹先輩やシオン会長がアンチレジストって言う組織に所属して……その……ジンヨウっていうものと戦うために? 一体どういう……」
「何してるんだい? そんな所で」
「ひゃ! ひゃいっ!? す、すみません! わわわ私、先輩のお見舞いに……」
急に背後から声をかけられ、久留美が床から三十センチほど飛び上がった。油が切れた蝶番の様に、ギギギという擬音が聞こえそうなほどぎこちなく後ろを振り返ると、そこには長身で細身の医師が立っていた。
白衣にマスクをしており表情は分からないが、髪の毛が全て金色に染められていたのが若干異様に見えた。
「お見舞い? 怪しいなぁ……知り合いだったら盗み聞きなんてしないんじゃないのか?」
医師が壁に片手をつき、久留美に覆い被さる様に質問する。
有無を言わさぬ雰囲気に久留美が気圧されそうになるが、小さな身体が震えそうになるのを必死に堪える。
「あ、あの、違うんです。今先輩達が大事な話をしてるから、少し外で待ってて……」
「ふーん。大事な話ねぇ? もしかして、美樹ちゃんの容態のことかな。結構ヤバい状態なんだけど、本人から聞いた?」
「えっ……?」
「知らないのか? まぁ美樹ちゃんは人に心配をかけたがらないからなぁ。あんな事になるなんて可哀想に……」
「な、何があったんですか!? 先輩は大丈夫なんですか!? お願いします。先輩を助けて下さい!」
久留美が必死な形相で医師の白衣を掴む。医師はマスクの下で口元に満面の笑みを浮かべていたが、久留美は全く気付かなかった。
「まぁ立ち話も何だから、向こうで話そうか? 結構重い話だから、覚悟しておいた方がいいよ」
ただならぬ雰囲気を感じ、久留美が無言で頷く。
美樹の病室に背を向け、強張った顔で医師の後に付いて歩く。途中、自分と同い年くらいのセーラー服を来た少女が向こう側から早足で歩いて来た。違う学校の制服だが、美樹の病室に向かっているようだ。
その少女はすれ違う際に自分と医師に対し軽く頭を下げた。久留美は反射的に頭を下げたが、医師は気に留めた様子も無く正面を見つめて歩き続けた。
「ごめんなさい遅れちゃって! 美樹さん、大丈夫ですか?」
「ああ、綾か。遠くからすまないな。私はこの通り元気だ」
「綾ちゃん久しぶりー。元気だった?」
「あ、シオンさんもいる。今日は鑑さんは一緒じゃないんです?」
綾が悪戯っぽくシオンをからかう。軽い雑談の後、美樹が綾に対して今回の経緯の説明を始めた。
「あの、先輩は大丈夫なんですか?」
久留美が連れて来られたのは、予備のベッドやシーツが置かれているリネン室だった。ベッド数の多い総合病院らしく、リネン室はかなりの広さだ。 業者に受け渡す前の使用済みのシーツがうずたかく積み上げられ、その横には糊の利いた届いたばかりの真っ白なシーツが寸分の狂いも無くぴたりと折り畳まれた状態で置かれている。
「まるで壁みたいだな。折り目のズレが全く無い。神経質過ぎて俺の好みじゃないな……」
金髪の医師がシーツを触りながら感想を漏らす。美樹の様子が気になる久留美は思わず声を荒げた。
「先生! 先輩は大丈夫なんですか!? 先輩の容態が悪いのなら、早く良くなる方法を教えて下さい」
「そうだなぁ、君のその白いニーソックスは俺の好みだよ。君の小さな身体によく似合ってる。この神経質なシーツとは大違いだよ」
ゆっくりと医師が振り返ると、久留美の身体を爪先から舐め回す様に見つめた。
黒いローファーから健康的な脚が白いニーソックスに包まれて伸び、僅かな素肌が覗いた後に黒と緑を基調としたブラックウォッチのプリーツスカートに隠れた。
医師のその視線に久留美は背中に薄ら寒い物を感じ、思わず後ずさる。
「な、何を訳の分からない事を……? 先輩が大変だって言うから付いて来たのに、変な事をするつもりなら人を呼びます!」
「あーわかったわかった。今教えるから。まず美樹ちゃんがあんな風になった原因はさ……」
ずぐん……と重い振動が久留美の体内に響いた。
「えぅ…………?」
医師が久留美に近づくと同時に、右の拳を久留美の腹部に埋めた。ブレザーの金ボタンがメキリと音を立ててひしゃげ、久留美の華奢な腹部にめり込んでいた。
「俺がこうやって美樹ちゃんをイジメちゃったからなんだよね」
「あ……ぐぷっ!? うあぁぁぁぁぁ!!」
同年代より一回り小さな久留美の身体は、拳を支点に軽々と持ち上げられ、両足が完全に地面から離れた。人に腹を殴られるという初めての経験に、久留美の脳は一瞬でパニックに陥った。
「あ……ああああっ! げぽっ……。う……うあぁ……」
「へぇ、凄くいい顔するね? 気が変わったよ。久留美ちゃんとはゆっくり楽しみたいな。美樹ちゃんともまた会いたいし、悪いけど、一緒に来てもらうよ」
「な……何で……私の名前……? ま、まさか……先生が……先輩を……」
久留美が全て言い終わる前に、一瞬だけ引き抜かれた拳が再び久留美の体内にめり込んだ。重い音を立てて骨張った拳が鳩尾に突き刺さる。あまりの衝撃に久留美は限界まで舌を伸ばして喘ぎ、舌先から唾液が糸を引いて地面に落ちた。
「やべぇ……予想以上だな……。あと、俺は先生じゃなくて蓮斗って言う名前だ。じゃ、寝ろよ?」
「あ…………うそ……いや……」
蓮斗は久留美の身体を、重量挙げをする様にうつ伏せの姿勢のまま頭の上に抱え上げた。手を離す。重力に従い、久留美の身体がうつ伏せの姿勢のまま落下する。そのスピードを利用し、久留美の柔らかい腹を膝で突き上げた。
落下スピード。自分の体重。蓮斗の膝を突き上げる力が全て久留美の腹部に集約し、とてつもない衝撃が久留美の全身に広がった。ぐじっ……という嫌な音が狭い室内に響く。内臓がひしゃげ、様々な危険信号が久留美の脳内を駆け巡る。
「えごぉぉっ!?」
普段の久留美からは想像がつかない様な濁った悲鳴が響いた。限界まで見開いた目は黒目が半分隠れ、口からは大量の唾液が強制的に吐き出された。溺れる人間が空気を求める様に何度か口を開閉した後、電池が切れた様に体全体が弛緩した。
「ヤバいな……予想以上だ。後でたっぷり……」
蓮斗は興奮した息を整えながら新品のシーツを広げると、気絶している小柄な久留美の身体を包みはじめた。
趣味のいいウェッジウッドのカップから柔らかい湯気とともに、香しい紅茶の香りが立ち上る。三人はほぼ同時にカップに口をつけ、ほぅと息を吐いた。久留美はカップを丁寧にソーサーの上に戻すと、ぺこりと頭を下げた。
「すみません……取り乱してしまって……。ここに来た時も大騒ぎしてしまいましたし……」
「いえいえ、謝る事なんて全然無いですよ。親しい人があんな目に合ったんですもの、平常心を保っている方が難しいですよ」
シオンが左手を振ってなだめる。鑑も無言で頷きながらカップを置く。
「さっき紅茶を買いにいくついでに学生課に寄って生徒名簿を閲覧しましたが、『蓮斗』なる人物はウチにはいないようです。もっとも、名前からしてほぼ間違いなく偽名だと思いますが」
久留美が少しだけ肩を落とし、カチューシャに付いていつ小さな白いリボンを何ともなしにいじる。
何も出来ない自分に歯がゆさを感じ、悔しがっているのだろう。しきりに下唇を噛んでいる。シオンがゆっくりとした動作でポットから久留美、鑑のカップに紅茶を注ぎ足し、最後に自分のカップにも注いだ。鑑はシオンに軽く頭を下げると久留美に対して口を開いた。
「申し訳ありませんが、話の続きをうかがってよろしいですか? その蓮斗なる人物の名前は鷹宮さんから直接聞いたのですか?」
「ええ……直接といいますか……うわ言なんです。昨日は先輩を乗せた救急車に同乗した後、ずっと病室に付き添っていました。病室で先輩が目を覚まさない間、何回かその名前を口にしていて……。ただ、夜中に先輩が目を覚ました時にその人が犯人なのか聞いても、その名前は忘れろとしか言われなくて……」
「たぶん美樹さんは久留美ちゃんを巻き込みたくなかったのだと思います。久留美ちゃん、今回の件はおそらくただの変質者の犯行ではなく、久留美ちゃんが思っている以上に大事(おおごと)です。美樹さんのことは私達もよく知っているし、簡単にあんな目に遭うような人ではありません。どうか久留美ちゃんは今回の件には深追いせず、私たちに一任してくれませんか?」
「でも私、絶対に犯人を見つけたいんです! お願いです! 出来る事は何でもしますから、何か手伝わせて下さい!」
「久留美ちゃん、これは本当に危険なの。おそらく、ただの暴行事件では終わらない。久留美ちゃんの気持ちは痛いほど分かるけど、美樹さんもこれは危険な事だと十分承知しているから、久留美ちゃんに話をしなかった。美樹さんの思いを汲んではくれないかしら」
訴えかけるシオンに対し久留美が目に涙を溜めて何かを言おうとするが、「美樹の思いを汲んでほしい」と言われると二の句が継げなかった。
久留美は根が真面目で真っ直ぐな分、意志も固い。
美樹を思う気持ちが痛いほど分かる分、シオンや鑑にとっても久留美に「関わるな」と告げる事は辛かった。
シオンと鑑は、美樹の実力は以前から知っている。アンチレジストの戦闘員の中でも、数名しかいない上級戦闘員だ。打撃攻撃の戦闘能力はそれ専門のシオンや綾と比べるとやや劣るだろうが、美樹は銃器以外の殆どの武器や武具を使いこなせる。武器使用可能であれば戦闘能力はシオンや綾に匹敵、場合によってはそれ以上になるだろう。
「……わかりました。先輩の件、どうかお願いします」
久留美が肩を落として生徒会長室を出て行く。その姿はあまりに悲痛でシオンや鑑も胸が締め付けられる様な思いだった。
重い雰囲気を破る様に鑑が口を開く。
「仕方ありませんよ。この件は人妖が絡んでいる可能性が極めて高い。となれば我々アンチレジストで処理すべき問題です。一般人の水橋さんを巻き込む訳には……」
「……そうですよね。今日はこの後美樹さんをお見舞いに行きましょう。当日の状況を詳しく聞きたいですし。あと、昨日警備室の方に頼んで、当日の夜のS棟周辺の防犯カメラの映像を全て借りてきました。今朝に全部の映像をチェックし終わって、犯人らしき人物を捉えた映像が数秒ありましたので、プリントアウトしますね」
シオンがソファから立ち上がると、デスクの上のマッキントッシュを操作し、数枚の写真がワイヤレスで繋がったプリンタから吐き出された。
「全部チェックって……昨日は普通に授業に出てたじゃないですか……。いつ寝たんですか?」
鑑が半ば呆然としながら聞くが、シオンは笑顔になって「シャワーは浴びましたよ」と答えた。数枚の写真を手に取り、シオンがソファに座り直す。写真には金髪の男性が写っていた。背後から裏門の警備員を殴る場面と、S棟に入っていく場面だった。
学院都市の外れにあるアナスタシア総合病院は、アナスタシア聖書学院に次いで都市で生活する人々の誇りであり、心の支えでもあった。
外見は学院と同じく赤味の強い煉瓦を多用したレトロ調の建築で、清潔な施設に最新鋭の設備、膨大なベッド数を有する。一般病棟には他の都市からも多数の入院患者を受け入れていた。また、最上階は一般病棟とは区別され全て個室のみで構築されており、各界の要人や政治家など、いわゆるVIPも「体調不良」の時にこぞって愛用していた。
「ありがとうございましたー。カードでよろしいですか?」
「あ、ああ、はい。じゃあサインを……」
冬の日差しは弱々しいが、どこまでも柔らかくて穏やかだった。
シオンはタクシーから降りると、軽くブレザーの襟を直し、髪を手櫛で梳いた。シオンは戦闘時には長い髪が邪魔にならない様にツインテールに纏めているが、普段は櫛で梳いただけのナチュラルストレートにしていた。プラチナブロンドの髪が日差しに反射し、柔らかく光る。
シオンは振り返って運転手に軽く手を振り、病院の入り口に向かって歩きだした。
運転手は後部座席のドアを閉めるのも忘れ、微かに口を開けたままシオンの後ろ姿を見送り、現実感の無い人だなと溜息混じりに呟いた。
病院の外壁と同じ、ダークレッドのブレザー。
一目でアナスタシア聖書学院の生徒だと分かる。
アナスタシア聖書学院は生徒との信頼関係が出来ているため、校則は日本の一般的なそれと比べてかなり緩い。それは制服においても同じである。
アナスタシア聖書学院の制服は学院のカラーであるダークレッドを基調としたブレザーとチャコールのスラックス、もしくはスカートを「基本の制服」として定めている。この「基本の制服」は各種式典での着用を義務づけられるが、普段の学院生活では「基本」から大きく逸脱しない限りはある程度生徒が自由にコーディネート出来る上、「周囲を不快にしなければ」自由に改造、デザインが施せる。
ほとんどの生徒が数パターンのコーディネートを持っていることが普通だし、中にはブレザーに多数の安全ピンを留め、様々な布を縫い付けてパンク風にしたり、スラックスの膝から下をブリーチしてグラデーションにしたりしている生徒もいた。
シオンも上着こそベーシックなブレザーを着ているが、スカートはロキャロンのブラックスチュアートの生地を自ら墨で後染めし、自作したプリーツスカートを身につけていた。
広大なロビーを横切って総合受付に向かう。
派手な容姿のシオンはただでさえ目立つ。そのため、隠れる様にシオンの後を追ってロビーに入った久留美の姿は誰の目にも留らなかった。
「すみません。鷹宮美樹さんのお見舞いに来たのですが」
「鷹宮様のお見舞いですね。かしこまりました。では、こちらにサインと身分証を」
シオンが身分証を手渡し、流れる様な筆記体でサインを終える。
受付の女性がそれらを見ながら端末で照合を始めた。数秒経った後、顔を上げてシオンを見る。訓練された、全く隙の無い笑顔だ。まるで顔全体が漂白された様だ。もしかしたら寝る時もこの笑顔をしているのではないだろうかと、シオンは心の片隅で思った。
「如月シオン様。ただいま鷹宮様から入室許可を頂きました。以前如月様も神崎様、鑑様と3名で入院されておりましたね。では、鷹宮様のお部屋までご案内致しますので……」
「あっ、おかまいなく。大体の場所は分かりますので、部屋番号だけ教えて頂けますか?」
最上階までエレベーターで登り、シオンが目当ての部屋をノックすると、中からよく通る声で「どうぞ」と返事が返って来た。
扉を開けると一瞬ホテルの一室に来た様な感覚を覚える。応接セットの奥に備え付けられた病院専門のベッドだけがここが病室である事を主張していた。
「大丈夫ですか美樹さん。すみません、来るのが遅くなってしまって。今回は大変でしたね……」
「シオンか……。悪かったな、迷惑をかけた……くっ……」
ライトブルーのパジャマを着た美樹は読んでいた本をサイドテーブルに置きながら起き上がろうとしたが、腹部を押さえて小さなうめき声を上げた。シオンが慌てて駆け寄る。
「あっ……ちゃんと寝ていないとダメですよ」
「大丈夫だ……医者によると内臓へのダメージはほとんど残っていないらしい。筋肉痛みたいなものだ……。それより、今回の件について話がしたい。お前の事だから、もう犯人の写真くらいは手に入れてるんだろう?」
「ええ……おそらくこの人ではないかと……。先走って申し訳ありませんが、鑑君にはアンチレジストの本部で人物の特定をお願いしています」
シオンがプリントアウトした数枚の写真を美樹に手渡すと、それを見た美樹の顔がわずかに強張った。
「こいつで間違いない……鑑にはそのまま調査を続けてもらってくれ。情けない話だが、隙をつかれてこのザマだ。なによりこいつは……」
「人間……」
美樹の深く黒い瞳がシオンの緑色の瞳を見上げる。一瞬の静寂が二人を包み、冷たい風が窓を打つ音だけが部屋に響いた。
シオンは胸の下で自分の身体を抱く様に腕を組むと、視線を足下に落とした。
「流石だな。どうしてわかった?」
「美樹さんがここまで追いつめられた事を知って、私も最初は半年前に戦った使役系の人妖、涼と同じクラスの人妖が現れたのかと思いました。しかし、男性タイプの人妖であれば、その行動目的は人間の女性を自らの栄養供給源として『継続的に』自分に魅入らせる事にあります。誠心学園やアナスタシア聖書学院で起きた連続生徒失踪事件の様に。しかし今回の蓮斗なる人物の行動には継続性が見られない。暴行そのものが目的の様に思います」
「お前の言う通り、確かにこいつは自分を人間だと名乗った。しかし、人妖と接触がある事は間違いない。何故こいつが人妖に取り入っているのか、何故人妖はこいつと接触を持っているかは分からないが、間違いなく言えるのはこいつはとんでもないサディストだ。私を縛り上げ、ナックルを嵌めた拳で腹を滅茶苦茶にやられた……そしてかなり興奮していた……。ところで、久留美は大丈夫だったか? ショックを受けていないといいんだが……」
シオンが大丈夫だと頷くと、美樹はようやくほっとした様にため息をついた。
「ジンヨウ? アンチレジスト? 先輩達は何を話しているの……?」
個室のドアに耳を付けて中の話をうかがっていた久留美は目を丸くした。美樹やシオンの口から発せられた聞き慣れない単語は所々意味が分からなかったが、何か大きなモノに美樹やシオンが対峙している事は理解出来た。
「えと……美樹先輩やシオン会長がアンチレジストって言う組織に所属して……その……ジンヨウっていうものと戦うために? 一体どういう……」
「何してるんだい? そんな所で」
「ひゃ! ひゃいっ!? す、すみません! わわわ私、先輩のお見舞いに……」
急に背後から声をかけられ、久留美が床から三十センチほど飛び上がった。油が切れた蝶番の様に、ギギギという擬音が聞こえそうなほどぎこちなく後ろを振り返ると、そこには長身で細身の医師が立っていた。
白衣にマスクをしており表情は分からないが、髪の毛が全て金色に染められていたのが若干異様に見えた。
「お見舞い? 怪しいなぁ……知り合いだったら盗み聞きなんてしないんじゃないのか?」
医師が壁に片手をつき、久留美に覆い被さる様に質問する。
有無を言わさぬ雰囲気に久留美が気圧されそうになるが、小さな身体が震えそうになるのを必死に堪える。
「あ、あの、違うんです。今先輩達が大事な話をしてるから、少し外で待ってて……」
「ふーん。大事な話ねぇ? もしかして、美樹ちゃんの容態のことかな。結構ヤバい状態なんだけど、本人から聞いた?」
「えっ……?」
「知らないのか? まぁ美樹ちゃんは人に心配をかけたがらないからなぁ。あんな事になるなんて可哀想に……」
「な、何があったんですか!? 先輩は大丈夫なんですか!? お願いします。先輩を助けて下さい!」
久留美が必死な形相で医師の白衣を掴む。医師はマスクの下で口元に満面の笑みを浮かべていたが、久留美は全く気付かなかった。
「まぁ立ち話も何だから、向こうで話そうか? 結構重い話だから、覚悟しておいた方がいいよ」
ただならぬ雰囲気を感じ、久留美が無言で頷く。
美樹の病室に背を向け、強張った顔で医師の後に付いて歩く。途中、自分と同い年くらいのセーラー服を来た少女が向こう側から早足で歩いて来た。違う学校の制服だが、美樹の病室に向かっているようだ。
その少女はすれ違う際に自分と医師に対し軽く頭を下げた。久留美は反射的に頭を下げたが、医師は気に留めた様子も無く正面を見つめて歩き続けた。
「ごめんなさい遅れちゃって! 美樹さん、大丈夫ですか?」
「ああ、綾か。遠くからすまないな。私はこの通り元気だ」
「綾ちゃん久しぶりー。元気だった?」
「あ、シオンさんもいる。今日は鑑さんは一緒じゃないんです?」
綾が悪戯っぽくシオンをからかう。軽い雑談の後、美樹が綾に対して今回の経緯の説明を始めた。
「あの、先輩は大丈夫なんですか?」
久留美が連れて来られたのは、予備のベッドやシーツが置かれているリネン室だった。ベッド数の多い総合病院らしく、リネン室はかなりの広さだ。 業者に受け渡す前の使用済みのシーツがうずたかく積み上げられ、その横には糊の利いた届いたばかりの真っ白なシーツが寸分の狂いも無くぴたりと折り畳まれた状態で置かれている。
「まるで壁みたいだな。折り目のズレが全く無い。神経質過ぎて俺の好みじゃないな……」
金髪の医師がシーツを触りながら感想を漏らす。美樹の様子が気になる久留美は思わず声を荒げた。
「先生! 先輩は大丈夫なんですか!? 先輩の容態が悪いのなら、早く良くなる方法を教えて下さい」
「そうだなぁ、君のその白いニーソックスは俺の好みだよ。君の小さな身体によく似合ってる。この神経質なシーツとは大違いだよ」
ゆっくりと医師が振り返ると、久留美の身体を爪先から舐め回す様に見つめた。
黒いローファーから健康的な脚が白いニーソックスに包まれて伸び、僅かな素肌が覗いた後に黒と緑を基調としたブラックウォッチのプリーツスカートに隠れた。
医師のその視線に久留美は背中に薄ら寒い物を感じ、思わず後ずさる。
「な、何を訳の分からない事を……? 先輩が大変だって言うから付いて来たのに、変な事をするつもりなら人を呼びます!」
「あーわかったわかった。今教えるから。まず美樹ちゃんがあんな風になった原因はさ……」
ずぐん……と重い振動が久留美の体内に響いた。
「えぅ…………?」
医師が久留美に近づくと同時に、右の拳を久留美の腹部に埋めた。ブレザーの金ボタンがメキリと音を立ててひしゃげ、久留美の華奢な腹部にめり込んでいた。
「俺がこうやって美樹ちゃんをイジメちゃったからなんだよね」
「あ……ぐぷっ!? うあぁぁぁぁぁ!!」
同年代より一回り小さな久留美の身体は、拳を支点に軽々と持ち上げられ、両足が完全に地面から離れた。人に腹を殴られるという初めての経験に、久留美の脳は一瞬でパニックに陥った。
「あ……ああああっ! げぽっ……。う……うあぁ……」
「へぇ、凄くいい顔するね? 気が変わったよ。久留美ちゃんとはゆっくり楽しみたいな。美樹ちゃんともまた会いたいし、悪いけど、一緒に来てもらうよ」
「な……何で……私の名前……? ま、まさか……先生が……先輩を……」
久留美が全て言い終わる前に、一瞬だけ引き抜かれた拳が再び久留美の体内にめり込んだ。重い音を立てて骨張った拳が鳩尾に突き刺さる。あまりの衝撃に久留美は限界まで舌を伸ばして喘ぎ、舌先から唾液が糸を引いて地面に落ちた。
「やべぇ……予想以上だな……。あと、俺は先生じゃなくて蓮斗って言う名前だ。じゃ、寝ろよ?」
「あ…………うそ……いや……」
蓮斗は久留美の身体を、重量挙げをする様にうつ伏せの姿勢のまま頭の上に抱え上げた。手を離す。重力に従い、久留美の身体がうつ伏せの姿勢のまま落下する。そのスピードを利用し、久留美の柔らかい腹を膝で突き上げた。
落下スピード。自分の体重。蓮斗の膝を突き上げる力が全て久留美の腹部に集約し、とてつもない衝撃が久留美の全身に広がった。ぐじっ……という嫌な音が狭い室内に響く。内臓がひしゃげ、様々な危険信号が久留美の脳内を駆け巡る。
「えごぉぉっ!?」
普段の久留美からは想像がつかない様な濁った悲鳴が響いた。限界まで見開いた目は黒目が半分隠れ、口からは大量の唾液が強制的に吐き出された。溺れる人間が空気を求める様に何度か口を開閉した後、電池が切れた様に体全体が弛緩した。
「ヤバいな……予想以上だ。後でたっぷり……」
蓮斗は興奮した息を整えながら新品のシーツを広げると、気絶している小柄な久留美の身体を包みはじめた。