美樹は境内裏の車庫の中で、養父の軽自動車に寄り添う様に停めてあるバイクに跨がり、エンジンをスタートさせた。身体の中心を震えさせる振動が心地よかった。美樹は数回スロットルを回してエンジンを吹かすと、境内裏のスロープから街道へ乗り、S区を目指してスピードを上げた。
 夜でも明るい市街地から郊外へ。一時間も走ると、等間隔に道路を照らしてた街灯の数も徐々に少なくなり、次第に木々が目立つ様になってきた。美樹は軽快にスロットルを上げて、あらかじめ調べておいた孤児院のある丘を登り始める。山道で不安ではあったが、幸い雪はほとんど積もっていない。美樹は右へ左へとハンドルを切りながら、蛇行する山道をスピードを上げて登り続けた。
 十五分ほど登ったところで、山道を塞ぐ様にそびえる大きな門が目に入った。美樹はスピードを緩め、門の側でバイクを降りる。
 三メートルを軽く超える赤錆びた門は、手前まで来ると威圧する様に美樹を見下ろした。
 鉄の一枚板で出来た門には「CELLA特別児童教育施設」と掘られた、緑青の浮いた銅製のプレートがはめ込まれていた。門は外界を拒絶する様に林道を塞いでいる。門のすぐ横には同じ高さのレンガ造りの壁が森の中の遥か奥まで続いていた。壁の終わりは闇に溶けていて見えない。
「まるで刑務所だな……」
 美樹は施設の壁と平行に移動し、林道の端の森の中へバイクを停めようとハンドルを切った。
 不意に破裂音が響いた。
 美樹のバイクの前輪が何かに掴まれた様に自由が利かなくなり、勢い余って後輪が持ち上がった。慌てて体勢を立て直して倒れない様に持ちこたえる。バイクを降りて前輪を見ると、タイヤの空気が完全に抜けていた。
 美樹はスタンドを立ててバイクの前輪周辺を見ると、目を疑った。レンガ造りの壁の下には、鉄製の剣山がまるで絨毯の様に敷き詰められていた。それは何処まで続いているか分からないが、おそらく壁の下全体に達しているだろう。
 その一本を触ってみた。
 錆び付いてはいるが、針の部分は禍々しいほど鋭利で、殺傷力は十分にあるように思えた。先ほど勢い余って前方に放り出されていたら、背中から串刺しになっていただろう。異様な光景に、しばし呼吸を忘れた。
 美樹は手近の気の側にバイクを停めると、ヘルメットを脱ぎ、ライダースをハンドルに掛ける。戦闘服の乱れを直すと、門を真下から見上げた。門からは、あらゆるものの侵入を拒絶する確かな意志が感じられる。門の上には、壁の下に敷かれた剣山と同様の針状の突起物が見えた。美樹はシオンの言葉を思い出した。『家庭環境や様々な事情により、精神的に深い傷を持つ子供達。その中でも反社会的行動をとる恐れのある子供と、反社会的行動をとってしまった子供達』を収容した施設。
「いくら問題のある子供だからといっても、これはやり過ぎだろう……。いや、本当に『それだけ』なのか? この施設はここまでして、一体何を外に出したくなかったんだ?」
 美樹は鉄の塊で出来た門に触れた。
 冷たい。
 閉鎖された異様な施設。
 そこへ呼び出した蓮斗。

「そんな所にいたら寒いよ。中に入った方が良い」

 不意に声がかかり、美樹は反射的に後方に飛び退いて身構えた。
 門が悲鳴を上げながら開き、中から真っ黒い服装をした蓮斗が現れた。
「バイクの音が聞こえたからさ……会えて嬉しいよ」
 美樹は飛びかかりたい衝動を堪えながら、無言でゆっくりと蓮斗に近づく。蓮斗は美樹から視線を離さずに後退りすると、門の中へ入る様に促した。
「寒いから早く中へ入ろう。その服はアンチレジストの戦闘服かい? ミニスカートの巫女装束に、インナーは競泳用水着みたいだね。美樹ちゃんらしくて良いと思うけど、とても寒そうだ。とりあえず中へ……」
「お前が先に歩け。後ろから不意打ちでもされたら面倒だ」
 蓮斗はやれやれとジェスチャーすると、門の中へ入って行った。数メートルの距離を置いて、美樹も後に続いて門をくぐる。
 門をくぐると、そこは、静かな庭だった。
 雪は庭のほぼ全てを覆い、それを切り裂く様に赤茶色の煉瓦道がかろうじて顔を出している。煉瓦道の脇には等間隔にガス灯が設置され、赤味を帯びた光を雪の上に落としていた。煉瓦道の続く敷地の奥には、うっすらと二階建ての建物のシルエットが浮かび上がっている。
 煉瓦道を慣れた様子で進む蓮斗に美樹が続いた。足下を見ると干涸びる様に枯れた芝が煉瓦にへばりついていた。歩きながら施設奥に目を凝らすと、鎖だけが垂れ下がっているブランコや、葉が一枚も無い立ち枯れになった楡の樹が風雪にじっと耐えている。
 建物の手前まで来ると蓮斗が歩きながら美樹を振り返る。
「今はもうボロボロだけど、遺棄される前はキリスト教系の結構立派な施設だったんだぜ。庭は柔らかい芝生で覆われてさ、あの二つの尖塔の上の十字架が夕日を浴びるとキラキラ輝いたもんさ。生活圏以外の窓のほとんどはステンドグラスだしね」
 美樹は蓮斗の言葉には応えず、黙って建物を見上げた。
 荒れはじめた庭と違い、建物の方はあまり痛んではいなかった。人が住む分には全く困らないだろう。
 蓮斗の言う通り、なかなかに洒落た感じだ。入り口のドアや、大きく二つ突き出た尖塔は見事なシンメトリーに配置されている。規模は比べ物にならないが、建築様式がどことなくアナスタシア聖書学院を思い出させた。ダークレッドを基調とした屋根や、外壁に使われているくすんだ漆喰の色。暗めな配色のステンドグラスに、建築家独特の癖の様な物が感じられた。
「さぁ着いたよ。汚い所だけど遠慮なくくつろいで……」
 蓮斗がテラスに上がり、真鍮のドアノブを捻りながら振り返った瞬間、美樹が後ろから強烈な掌底を見舞った。蓮斗は顎をしたたかに打ちぬかれ、観音開きの扉をたたき壊すほどの勢いで建物内に転がって行った。
 美樹が注意深く中に入る。
 玄関ホールは広い。
 手入れがされていないため所々痛んではいるが、見事な黒檀の床材が敷き詰められている。大きいがシンプルな装飾のシャンデリアが暖色系のガス灯の明かりを四方に振りまきながら、すきま風に晒されて微かに揺れている。玄関ホールのほぼ中央から伸びている階段は中央の踊り場で二手に別れて二階へと続いていた。
「げほっ……ふ……せっかちだなぁ。本番に入る前は、まず気の効いたトークで雰囲気を盛り上げるのが常識ってものだろう?」
 美樹は階段の側でうずくまっている蓮斗に無言で近づくと、横腹を蹴り上げた。爪先に鉄板の仕込まれた堅牢なコンバットブーツは蓮斗の腹筋を破壊し、内蔵に強烈なダメージを与える。
「ぶごっ!? ふ……ふひゃっ、ひゃっははは! 巫女さんとは思えない暴力っぷり……げぼっ……。大好きだよ、そういうギャップはね! あはははははは!」
 胃をやられたのか、蓮斗は粘ついたどす黒い血の塊をニスの剥げたフローリングの床に吐きながら笑った。立ち上がろうとするが、足元がおぼつかずに尻餅をつく。
「この程度で終わりだと思うなよ。久留美にどのような仕打ちをしたか知らんが、それなりの報いを受けてからアンチレジストへ突き出させてもらう。私は弱いもの虐めをしている奴が一番嫌いなんだ。早めに久留美を開放した方が、病院の天井を眺める退屈な時間が短くて済むぞ」
 瞬間、蓮斗のにやついた表情が消えて無表情になる。あまりの表情の変化に美樹は怪訝な顔をした。その顔には見覚えがあった。アナスタシア聖書学院の生徒会長室で見た写真。昔の太っていた頃の蓮斗のそれだった。
 蓮斗の顔にはすぐに表情が戻り、よろよろと立ち上がる。部屋の中に再び甲高い笑い声が響いた。
 美樹は僅かに乱れた上着の胸元を直すと、幽鬼の様にゆらゆらと蓮斗に近づきノーモーションで爪先を蓮斗の腹に埋めた。
 ぐちゅりという嫌な音がして、蓮斗が呻き声を上げながら前屈みになる。下がった顎をすかさず掌底で跳ね上げた。蓮斗の身体がふわりと浮き、背中から床に落ちる。美樹は蓮斗の逆立てた金髪を掴んで立たせると、額を中央の階段の真鍮で出来た手すりに打ち付けた。額が割れて、蓮斗の金髪が赤く染まる。
「いぎっ! ひ、ひひ……容赦ないなぁ……」
「口がきけるうちに喋れ。久留美はどこにいる?」
 美樹が蓮斗の髪を掴んだまま、耳元で囁く様に問いつめる。
「あははは、こ……こんな場面、前にもあったよね……あのプールの時さ」
「思い出したくもないがな。あまり深手を負わせるのは好きではないが、このまま久留美の居場所を吐かないのなら、腕くらいは折らせてもらうぞ」
「ははは……やさしいなぁ。案内してあげてもいいけど、このままじゃ動けないよ……どうする? 僕を倒した後、一部屋一部屋調べて行くかい……?」
 美樹は少しの間思案した後、蓮斗の身体を投げ捨てる様に解放した。蓮斗はよろけながら立ち上がると、美樹の前で両腕を広げる様なポーズをする。抵抗する気はないという意味に取れた。
 美樹は乱れた髪を手櫛で梳くと、戦闘服の襟を直す。レオタードの様なアンダーウェアが若干汗ばんで肌に貼り付いているが、戦闘服の繊維がすぐに蒸散させるだろう。
「……連れて行け」
 蓮斗はおどけた様子でわざとらしくお辞儀をした後、背中を向けて歩き出した。
 階段の裏手にまわる。くすんだ銀色の観音開きの扉がある。蓮斗がそのアルミで出来たやや周囲から浮いた印象の扉を開けると、地下へ下りる階段が現れた。壁や床はコンクリート打ちっぱなしで、天井には古ぼけた蛍光灯が埋め込まれている。美樹は一定の距離を保ったまま蓮斗の後に続いて階段を下りた。中腹まで降りたあたりで、背後で自動的に扉が閉まった。
 階段を降りきり、突き当たりにある扉を開けると、地下特有の湿気が美樹の身体を包んだ。真冬の外気で乾燥した美樹の長い髪がわずかに重くなる。水はけが悪いのか、廊下の隅に僅かに黒いカビが生えていた。
 地下にはふたつのドアがあり、蓮斗は奥のドアの鍵を開けて中に入った。注意深く美樹も室内に入る。蓮斗は入り口から遠くの壁に背中を付けて腕を組んでいる。部屋の壁には用途不明の様々な器具が置かれ、それらに取り囲まれる様に久留美が制服のまま仰向けに寝ていた。美樹が駆け寄り、抱え上げて呼びかけると、うっすらと目を開ける。
「久留美? 久留美! 大丈夫か? 気をしっかり持て!」
「あ……せ、先輩……?」
「迎えに来た。もう大丈夫だぞ……」
 美樹は静かに言うと、久留美の髪をそっと撫でた。
 久留美はまだ朦朧としているようだが、幸い外傷は無さそうだった。髪を撫でる心地いい感触に久留美の顔がふっと緩む。
 メキリと音を立てて、美樹の右腕に衝撃が走った。鉄パイプが二の腕に食い込んでいた。
「ぐうっ!?」
 美樹は痛みに耐えながらも無事な左手で久留美を寝かせると、片膝を着いたまま蓮斗に向き合う。右肘から先の感覚が無い。鉄パイプが地面を走る様に美樹に向かって唸りを上げ、直角に曲がった継手部分が美樹の腹ににずぶりと食い込んだ。
「ごぶぅっ!? んぐっ……お……っ」
 レオタードむき出しの部分が痛々しく陥没すると、固く冷たい金属の感触が美樹の腹部を中心に全身を駆け巡った。
「何でてめぇはそんなに弱ぇんだよ……」
 美樹が振り返ると、何の感情も読み取れないほど無表情になった蓮斗と目が合った。

 猛烈な感情が腹の底からこみ上げ、気がついたらドアの影に隠しておいた鉄パイプを掴んでいた。
 美樹が苦し気に蓮斗を見上げてくる。
 久留美を背に庇いながら、左手で鉄パイプで殴られた腹を押さえ、しきりに右手を握ったり開いたりして自分の怪我の状態を確かめていた。
 蓮斗は自分が痛いほど勃起していることに気がついた。
 ああそうか、これは『あれ』と同じ場面だ。
 確か十歳よりも前の頃。
 あの頃の自分はまるでサンドバッグだった。
 毎日毎日、何人もの人間に打ちひしがれ、ひたすら頭を抱えてうずくまっていた。そうしていればいつかは終わるのだ。どんなに痛くても、反応すれば向こうは調子に乗る。殴られても蹴られても、髪の毛を引き抜かれても反応をしないただのサンドバッグになっていれば、いつかはこの仕打ちは終わるのだ。
 その日もそう思って、ひたすら心を殺して、何人もの上履きの底を腕と後頭部に感じながら、ひたすら教室の隅で頭を抱えていた。
 気がつくと、腕にぶつかる靴底の感触が無くなっていた。耳を澄ます。高い声で静止する声が聞こえた。
 恐る恐る顔を上げる。
 女の子が自分を庇っていた。
 何と言っていたのかは憶えていないが、数人の男子生徒に向かって必死に止める様に説得している。
 蓮斗は無性に怖くなり、そっと女の子の背後から逃げた。
 教室の入り口まで逃げても、まだ女の子と男子生徒は口論していた。
 不意に、一人の男子生徒が怒声を上げながら女の子の腹を殴った。
 女の子は大きく「うっ」と呻くと、両手で腹を押さえてうずくまった。その声はとても良く通り、自分の耳から脳にダイレクトに届いた。うずくまる女の子は下を向いたまま、時折背中をびくつかせている。長い綺麗な黒髪が揺れて綺麗だ。
 その様子がなぜかとても印象的に思えて、家に帰ってから何度もその場面を思い出して自慰をした。
 久留美の弱々しい姿は、あの頃の自分に似ていた。しかも自分の様に無様に逃げなかったことが、更に苛立たせた。

「ごめん、ちょっと嫌なことを思い出したんだ」
 蓮斗が逆立てた金髪を弄りながら、鉄パイプで凝りをほぐす様に自分の肩を叩く。
「せ……先輩……?」
「大丈夫だ……」
 久留美は朦朧とした意識の中でも美樹を気遣い、立ち上がろうとする素振りを見せる。美樹は久留美に手で「寝ていろ」と指示を出した。
 美樹は左手でまだ痛む腹を押さえて立ち上がる。強打を受けた右腕は幸い折れてはいないようだったが、まだ痺れて感覚がなく、自分の意志に反してだらりと垂れ下がったままだ。
 蓮斗はポケットの釦を外し、中から栄養ドリンクの様な小さめの瓶を取り出すと、キャップを開けて中身を一気に飲み干した。
「おえっ……まっず。ったく、冷子さん少しは味にも気を使ってほしいなぁ」
 蓮斗は顔をしかめて口元を拭いながら、空になった瓶をちり紙でも捨てる様に背後に放り投げた。瓶は固い音を立てて二、三回バウンドした後、壁に跳ね返って止まった。
「冷子……シオンを襲った女性タイプの人妖か。なぜ貴様が人妖と関係を持っている知らんが、後でじっくり聞かせてもらう……何を飲んだ?」
「今にわかるよ」
 蓮斗がゆっくりと美樹に近づくと、大きなモーションで鉄パイプを振り下ろした。美樹は素早くそれを避け、流れる様にバックナックルを放つが、蓮斗がしゃがんでそれをかわす。拳が空気を切る音が、美樹の繰り出す拳の速さを示している。美樹がバックナックルの勢いを殺さずに回し蹴りを放と、蓮斗のこめかみにヒットした。蓮斗は一瞬ぐらつきながらも、美樹の脚を掴み、鉄パイプを捨てて美樹の腹部に拳を埋めた。ぐじゅりと音がして、美樹の腹に拳が陥没する。
「ぐぷっ?!」
 美樹の目が見開き、「う」の言葉を発する様に開かれた口から粘度の高い唾液が飛び出る。
 普段の美樹であれば難なくガードが出来たであろうが、片腕が言うことを聞かず、片足立ちでバランスを崩した今の状況では蓮斗の攻撃をガードすることは難しかった。美樹は足首を掴んでいる蓮斗の手を振りほどくと、呼吸を停めて腹の底からこみ上げて来る吐き気を押さえながら、蓮斗の鳩尾に拳を放つ。
「…………」
 美樹の拳は確実に蓮斗の鳩尾に深々と食い込んでいた。人体急所を突かれ、その身体には恐ろしい苦痛が駆け巡っているはずだが、当の蓮斗は涼しい顔をしている。
 美樹は一瞬顔をしかめると、続けざまに顎先、鼻先、果ては金的まで攻撃するが、蓮斗は鼻から血を流しながらもニヤニヤとした笑みを崩さなかった。
「お前……なぜ……」
「ああ、いいね。その混乱した表情、そそるよ」
 ずん……という重い衝撃が美樹の全身を駆け抜けた。この感覚には覚えがある。美樹はおそるおそる視線を下に移すと、自分の鳩尾に蓮斗の拳が半分ほど埋まっていた。急所を突かれた後のことは予想がついた。苦痛。嗚咽。凄まじい吐き気。
「うぐっ!? ぐあぁぁぁぁ!」
 一瞬置いて美樹の身体を苦痛が駆け巡る。
 たまらずに両膝を着き、口内に大量に溢れた唾液を吐き出した。唾液は口から糸を引いて床に垂れ、コンクリートの床に染みを作った。
「冷子さんに頼んで、痛覚を遮断する薬を作ってもらったんだ。コールドトミーとか言ってたかな? なんでも、脳の痛覚を感知する器官を壊死させるとか何とか……。これで俺は一生痛みを感じなくなるんだってさ」
「けぽっ……く、狂ってるな……。痛みは身体の危険を伝えるための大切な信号だ。それに、たとえ痛みを消してもダメージは残るぞ……」
「だから? 俺は今を楽しめればそれで良いんだ。昔からずっとそうだった。我慢して我慢して……ずっと我慢してたんだから、そろそろ好き勝手してもいいだろ?」
 蓮斗は美樹の奥襟を掴んで立ち上がらせると、抉る様に美樹の腹部を突き上げた。レオタードが薄い生地を巻き込む様に陥没し、温かく水っぽい感触が蓮斗の拳を包んだ。心地よさに蓮斗の顔には笑みが浮かび、変わりに美樹の顔は苦痛に歪んだ。
「うあっ!? ぐ……あぁ……ぐぷっ!?」
 腹部に拳を突き込んだまま、更に美樹の奥へと押し込む。美樹が歯を食いしばって蓮斗の突き飛ばし、ようやく動く様になった右手の掌底で顎を突き上げる。腰を落とした重い一撃。蓮斗の顔が仰け反り、切れ長の顎が天井を向きながら身体が宙に浮く。一瞬の滞空の後、背中から地面に落下した。ダメージを感じている様子は無い。顎を跳ね上げられている直前まで、蓮斗の視線は一瞬も美樹から離れなかった。
 蓮斗の攻撃自体は単調だ。決して苦戦する相手ではない。しかし、ダメージが通らずに長期戦になればこちらも消耗してくる。ダメージによる戦意喪失が望めない以上、確実に失神させるほか無い。頭への衝撃では効果が薄いことは先ほどの回し蹴りで実証された。頸動脈を締めて落とす方法が確実だ。
 蓮斗がネックスプリングの要領で首を支点に跳ねる様に起き上がると、凝りをほぐす様に首を鳴らした。蓮斗が血の塊を吐き出す。血塊はかつんと固い音がをたてて床に跳ね返る。赤黒く染まった蓮斗の奥歯が美樹の足下に転がった。
「厄介なものだな……とんだ相手に好かれたものだ」
 美樹が軽口を言うと、蓮斗も血に染まった前歯を剥き出しにして笑う。
「俺は一途なんだ。惚れた女の為なら死んでも尽くすさ……」


「到着しましたが……本当によろしいのですか?」
 シオンはドアを開ける運転手に「ええ」と短く返事をすると、後部座席から降りて分厚い鉄製の門を見上げた。運転手は他にも何か言いたげに口を開いたが、諦める様にシオンの背中を見つめたまま、黙って後部座席のドアを閉めた。
 雪はほとんど止んでいた。孤児院の門や塀の上には錆の浮いた剣山が、氷の様に冷えたまま微動だにせずに立ち尽くしている。
 光沢のあるきめの細かいメルトン地のロングコートを脱いで運転手に手渡すと、さっと風が吹いてシオンのツインテールに纏めた金髪がなびいた。見てるこちらが寒くなりそうなメイド服を基調としたセパレートタイプの戦闘服が露になり、初老の運転手は目のやり場に困り視線を足下に落とした。
「では山岡さん、終わりましたら連絡しますので」
「あの、本当によろしいのですか? 老人の勘と言いますか、何やら厭な予感がするのです。出来ることならこの場で待たせていただいても……ッ!?」
 シオンが白い手袋に包まれた人差し指の腹を山岡の唇に当てて言葉を遮る。シオンは片目を閉じて、穏やかな笑みを浮かべている。現実感の欠如した美しい顔が間近に迫り、山岡はどぎまぎと視線を泳がせた。
「本当に大丈夫です。それに、今日は任務ではなく、いうなれば私のただの暴走……。すぐに解決して帰りますので、ご心配なさらずに」
 山岡はただ頷くしか無く、オールバックに撫で付けた髪を掻きながら運転席に戻って行った。
 シオンは走り去るレクサスを見送ると、門の正面に立った。灰の塊の様な雲が、早足に門の上の空を滑っている。
 それは門というよりは、壁に近かった。あらゆるものの侵入を拒む様な、また、あらゆるものの脱出を許さない様な鉄の一枚板を見ていると、自由という言葉が遠い異国の少数民族の言語の様に思えた。閂が外されて僅かに門が開いている。
「CELLA……神聖な場所……子供達にとっての聖域という意味で付けられたのでしょうか?」
 シオンが門に嵌め込まれているプレートを読んでつぶやいた。自分のシオンという名前にも、聖域という意味がある。この施設を作った人は、どのような思いを込めてセラという名前を付けたのだろうか。
「美樹さん……久留美ちゃん……」
 シオンは自分にしか聞こえない声量で呟くと、扉を僅かに押して施設の中へと入って行った。