窓際に置かれた観葉植物には、うっすらと埃が積もっていた。冬の弱い朝日中で、それはまるで薄く積もった雪のように見える。
壁に掛けられた時計は丁寧に時を刻んでいた。 一秒一秒、確実に現在を過去へと押しやっている。
出窓から外を覗くと、灰色の雲が強い風に押されて北へと流されてゆくのが見えた。枯れた芝生と高い塀。
僕はメガネを外してTシャツの裾でレンズを拭くと、部屋の中央に目をやった。ピッ……ピッ……という定期的な電子音は、この小さく白い部屋には不釣り合いに思えた。姉を乗せたベッドのシーツは、今朝取り替えた時と同じく皺ひとつ付いていない。それは、姉が身動き一つしていないことの証拠だった。部屋は独特の匂いがした。漂白剤のような匂いに、かすかに排泄物の匂いが混ざっている。中央のベッドには、異様なほど小柄な姉が寝ていた。
小柄?
首から下のブランケットは正方形に膨らんでいる。
姉はどちらかといえば、女性にしては大柄だった。身長は百七十センチを超えている。その姉が小柄だと?
姉は無表情で目を瞑り、少しだけ開いた唇からわずかに白い前歯が覗いている。
その首から下は正方形。
姉には、四肢が無かった。
あの日、僕が発見した時、姉の四肢は失われていた。あのすらりと伸びた脚や、優しいぬくもりを感じる腕が無くなっていた。失われてしまっていた。傷口からは生暖かい血が未開の地の水源の様に流れていた。僕はそれを必死に押さえ、目を閉じた姉の名を呼び続けた。
その表情は一ヶ月たった今でも変わらなかった。身体中を管まみれにして、姉は静かに眠っていた。鼻から通されたチューブにつながる人工呼吸器からは、定期的に空気の漏れる音が聞こえた。
「延命治療?」と僕が聞いた。医者は神妙な顔をして頷いた。
「お姉さんはもはや自力で生命維持活動を行うことはできません。私達にできることは、その命を伸ばす手段を提供するだけです。残念ながら……」医者は目を逸らしながら僕に言った。「身体的な損傷に加え、精神的なショックも相まって、お姉さんの容態は深刻です。原因はわかりませんが、身体が生き続けることを諦めているような……」
「……詩的な表現ですね」
「そうとしか思えません。手の施せるところは施しました。あとは……お姉さんの生きるための意志にかけるだけです」医者は壁にかかっているレントゲンを見た。「両手足の欠損以外は、目立った外傷はありません。壊死や感染症は見受けられず、栄養状態も良好です。しかし、自発呼吸は止まっており、心臓もペースメーカー無しではすぐに細動を起こしてしまう」
「生きるのではなく……生かされていると?」
「……そうです。緊急で人工呼吸器を取り付けた時に説明しましたが、あれは本人の意思に関係なく、強制的に肺に空気を送り込むものです」
「……つまり?」
「意識のある人間なら、そのすさまじい苦痛からすぐに外してしまいます」
「そんなもの……」僕は言った。視線の先には力なく握られた僕の手があった。「機械と同じじゃないですか」
医師は何も言わず、軽く咳払いをするとシャウカステンの電源を切った。僕の嗚咽を遮るように部屋から出て行くと、代わりに看護婦が僕の肩に手を置いた。見事な役割分担だ。おそらくこの様な状況は過去に何千、何万と繰り返されてきたのだろう。僕はその中の不特定多数のひとつに過ぎないのかもしれない。
僕は迷った末、医師に延命治療の延長を依頼した。少しでも姉が回復するのであれば、その望みに賭けたかったからだ。施設で育った僕と姉は、お互いたった一人の肉親だ。離れられるわけがない。そんなこと……想像すらできない。まだ僕と姉が物心つく前、雪が降りしきる真冬に僕たちは施設の入り口に棄てられた。僕たちを産んだ人間は、安物のベビーカーに僕たちを折り重ねるように押し込み、申し訳程度の毛布をかぶせて何処かへと消えた。職員が見つけた時は、僕たちは瀕死だったらしい。僕はともかく、僕に覆いかぶさっていた姉は凍傷で右足の小指と薬指を切断した。もっとも、その足ももう無いのだけれど。
姉は、完璧だったはずだった。
指さえ失わなければ、姉は完璧に美しいままでいられたはずなのに。
「いいのよ」と姉が言った。僕ははっとして姉を見る。姉の口は閉じられたままだ。「いいのよ。好きにしても」
「出来ないよ」
姉は相変わらず口を閉じたまま僕に語りかけた。その声は人工呼吸器の音に混じって消え入りそうなほど小さかった。
「我慢が出来ないのでしょう? 私が美しくないことが。何を迷っているの? 私たちはずっと一緒だったじゃない。また元のようにひとつになるだけよ」
「でも、そしたら姉さんが……」
「私は構わないわ。だって、本当ならあの冬の日に死んでいたんですもの」
「でも……」
「なら言い方を変えるわ。返してちょうだい。私の美しい身体を。見て。今ではこんなに不完全になってしまった」姉は相変わらず身体のどの部分も動かさず、美しい屍体の様にベッドに横たわっている。人工呼吸器の音が嫌にはっきりと僕の耳に届いた。「もう一度綺麗になりたいのよ。それが目的だったのでしょう? あなたもそれを望んでいるのなら、こんな中途半端なことはやめなさいよ」
「…………わかったよ」
僕は自分にしか聞こえない声で呟くと、仰向けで姉のベッドの下に潜り込んだ。そこには、あの日姉の四肢を切断したノコギリがガムテープで貼り付けてある。ベリベリと音を立ててそれを外す。ベッドの下から這い出て、あらためてそれを見た。丁寧に姉の血を洗い流していたため、錆などは浮いていない。
「本当にいいの?」僕は聞いた。姉の目と口は閉じられたままだ。
「いいと言っているでしょう?」
僕は姉の首にノコギリの刃を当てると、首に押し付けるように力を入れて引いた。ぶち……ぶち……という繊維の切れる音。姉は美しく痩せていたが、それでも女性特有の皮下脂肪がある。僕は何度かTシャツで刃を拭きながら、ごりごりと姉の首の骨を削った。
「がんばって、もう少しよ。ほら、また切れなくなってきたわ」
姉が応援してくれる。
僕は三十分以上かけてようやく姉の首を切断した。人工呼吸器は相変わらず強制的に姉の口から空気を送り込んでいる。赤い喉元からぶくぶくと気持ちの悪い血泡が溢れていた。姉は血塗れの顔で目を見開き、口元に管を通されたまま行き場のない空気を送り込まれている。まるで破れたボールに一生懸命空気を送り込んでいるような滑稽さを感じて、僕はそれが姉の頭部でなければ笑い転げていたかもしれない。
死んだ瞬間から、姉からは、美しさの名残すら失われていた。
美しさの名残……。
凍傷で右足の小指と薬指を失った姉には、まだ美しさの名残があった。
「だからバランスをとったのよ」僕が言った。その声は不思議と姉と同じ声だった「指がなければ、足が無ければいい。でも、右足を切断すると、左足が邪魔になった。左足を切断すると、今度は腕が邪魔になった。シンメトリーにならなかったのよ」
僕は姉の声で姉に話し続けた。姉は「その通りだわ」と言った。
「でもやっぱりダメだったじゃない! 首を切断しても、やっぱり美しくないわ! もう……最後の手段しかないじゃない! 姉さん一人でシンメトリーになれないのなら、僕が手伝ってあげるわ。最初に戻るだけよ。初めから、僕たちはひとつだったのだから……」
僕はベッドに登り、姉の横に座った。ベッドは姉から流れ出た液体で暖かかった。僕はノコギリの刃を自分の左腕に当て、力を込めて引いた。
ごり……ごり……ごり……とすん。
左腕がベッドの上に力無く落ちた。次は左脚に取り掛かる。姉は相変わらず「がんばって、がんばって」と声をかけてくれた。僕は次第に朦朧としてきた意識を頭を振ってごまかし、なんとか左脚を切断した。
ごり……ごり……ごり……ごり……。
それはとても、文字通り骨の折れる作業だったが、なんとかやり遂げることができた。姉の応援のおかげだ。僕は準備していた針と糸を取り出すと、震える手で姉の左肩と左の股関節に僕の左腕と左脚を縫い付ける。僕の右手は氷のように冷たくなっていた。それは僕に棄てられた日の寒さを思い出させた。霞む頭と震える手で姉に僕の手足を縫い付ける作業は過酷を極めたが、大好きな姉のために気持ちを奮い立たせた。
僕は短く速い呼吸をしながら、姉の右隣に仰向けで横になった。姉の失った右手脚に僕の左側の傷口をくっつける。傷口を通して姉の血液と僕の血液が混ざり合い、ようやく本当にひとつになれた気がした。今の僕たちの姿を想像する。お互いが失った部分同士を補い、その姿はとても美しく完璧に見えるはずだ。僕は安堵からか、とても眠くなった。
「まだよ」と姉が言った。「わかってるよ」と僕が言った。
僕は最後の力を売り絞って、僕の喉にノコギリの刃を当てた。
壁に掛けられた時計は丁寧に時を刻んでいた。 一秒一秒、確実に現在を過去へと押しやっている。
出窓から外を覗くと、灰色の雲が強い風に押されて北へと流されてゆくのが見えた。枯れた芝生と高い塀。
僕はメガネを外してTシャツの裾でレンズを拭くと、部屋の中央に目をやった。ピッ……ピッ……という定期的な電子音は、この小さく白い部屋には不釣り合いに思えた。姉を乗せたベッドのシーツは、今朝取り替えた時と同じく皺ひとつ付いていない。それは、姉が身動き一つしていないことの証拠だった。部屋は独特の匂いがした。漂白剤のような匂いに、かすかに排泄物の匂いが混ざっている。中央のベッドには、異様なほど小柄な姉が寝ていた。
小柄?
首から下のブランケットは正方形に膨らんでいる。
姉はどちらかといえば、女性にしては大柄だった。身長は百七十センチを超えている。その姉が小柄だと?
姉は無表情で目を瞑り、少しだけ開いた唇からわずかに白い前歯が覗いている。
その首から下は正方形。
姉には、四肢が無かった。
あの日、僕が発見した時、姉の四肢は失われていた。あのすらりと伸びた脚や、優しいぬくもりを感じる腕が無くなっていた。失われてしまっていた。傷口からは生暖かい血が未開の地の水源の様に流れていた。僕はそれを必死に押さえ、目を閉じた姉の名を呼び続けた。
その表情は一ヶ月たった今でも変わらなかった。身体中を管まみれにして、姉は静かに眠っていた。鼻から通されたチューブにつながる人工呼吸器からは、定期的に空気の漏れる音が聞こえた。
「延命治療?」と僕が聞いた。医者は神妙な顔をして頷いた。
「お姉さんはもはや自力で生命維持活動を行うことはできません。私達にできることは、その命を伸ばす手段を提供するだけです。残念ながら……」医者は目を逸らしながら僕に言った。「身体的な損傷に加え、精神的なショックも相まって、お姉さんの容態は深刻です。原因はわかりませんが、身体が生き続けることを諦めているような……」
「……詩的な表現ですね」
「そうとしか思えません。手の施せるところは施しました。あとは……お姉さんの生きるための意志にかけるだけです」医者は壁にかかっているレントゲンを見た。「両手足の欠損以外は、目立った外傷はありません。壊死や感染症は見受けられず、栄養状態も良好です。しかし、自発呼吸は止まっており、心臓もペースメーカー無しではすぐに細動を起こしてしまう」
「生きるのではなく……生かされていると?」
「……そうです。緊急で人工呼吸器を取り付けた時に説明しましたが、あれは本人の意思に関係なく、強制的に肺に空気を送り込むものです」
「……つまり?」
「意識のある人間なら、そのすさまじい苦痛からすぐに外してしまいます」
「そんなもの……」僕は言った。視線の先には力なく握られた僕の手があった。「機械と同じじゃないですか」
医師は何も言わず、軽く咳払いをするとシャウカステンの電源を切った。僕の嗚咽を遮るように部屋から出て行くと、代わりに看護婦が僕の肩に手を置いた。見事な役割分担だ。おそらくこの様な状況は過去に何千、何万と繰り返されてきたのだろう。僕はその中の不特定多数のひとつに過ぎないのかもしれない。
僕は迷った末、医師に延命治療の延長を依頼した。少しでも姉が回復するのであれば、その望みに賭けたかったからだ。施設で育った僕と姉は、お互いたった一人の肉親だ。離れられるわけがない。そんなこと……想像すらできない。まだ僕と姉が物心つく前、雪が降りしきる真冬に僕たちは施設の入り口に棄てられた。僕たちを産んだ人間は、安物のベビーカーに僕たちを折り重ねるように押し込み、申し訳程度の毛布をかぶせて何処かへと消えた。職員が見つけた時は、僕たちは瀕死だったらしい。僕はともかく、僕に覆いかぶさっていた姉は凍傷で右足の小指と薬指を切断した。もっとも、その足ももう無いのだけれど。
姉は、完璧だったはずだった。
指さえ失わなければ、姉は完璧に美しいままでいられたはずなのに。
「いいのよ」と姉が言った。僕ははっとして姉を見る。姉の口は閉じられたままだ。「いいのよ。好きにしても」
「出来ないよ」
姉は相変わらず口を閉じたまま僕に語りかけた。その声は人工呼吸器の音に混じって消え入りそうなほど小さかった。
「我慢が出来ないのでしょう? 私が美しくないことが。何を迷っているの? 私たちはずっと一緒だったじゃない。また元のようにひとつになるだけよ」
「でも、そしたら姉さんが……」
「私は構わないわ。だって、本当ならあの冬の日に死んでいたんですもの」
「でも……」
「なら言い方を変えるわ。返してちょうだい。私の美しい身体を。見て。今ではこんなに不完全になってしまった」姉は相変わらず身体のどの部分も動かさず、美しい屍体の様にベッドに横たわっている。人工呼吸器の音が嫌にはっきりと僕の耳に届いた。「もう一度綺麗になりたいのよ。それが目的だったのでしょう? あなたもそれを望んでいるのなら、こんな中途半端なことはやめなさいよ」
「…………わかったよ」
僕は自分にしか聞こえない声で呟くと、仰向けで姉のベッドの下に潜り込んだ。そこには、あの日姉の四肢を切断したノコギリがガムテープで貼り付けてある。ベリベリと音を立ててそれを外す。ベッドの下から這い出て、あらためてそれを見た。丁寧に姉の血を洗い流していたため、錆などは浮いていない。
「本当にいいの?」僕は聞いた。姉の目と口は閉じられたままだ。
「いいと言っているでしょう?」
僕は姉の首にノコギリの刃を当てると、首に押し付けるように力を入れて引いた。ぶち……ぶち……という繊維の切れる音。姉は美しく痩せていたが、それでも女性特有の皮下脂肪がある。僕は何度かTシャツで刃を拭きながら、ごりごりと姉の首の骨を削った。
「がんばって、もう少しよ。ほら、また切れなくなってきたわ」
姉が応援してくれる。
僕は三十分以上かけてようやく姉の首を切断した。人工呼吸器は相変わらず強制的に姉の口から空気を送り込んでいる。赤い喉元からぶくぶくと気持ちの悪い血泡が溢れていた。姉は血塗れの顔で目を見開き、口元に管を通されたまま行き場のない空気を送り込まれている。まるで破れたボールに一生懸命空気を送り込んでいるような滑稽さを感じて、僕はそれが姉の頭部でなければ笑い転げていたかもしれない。
死んだ瞬間から、姉からは、美しさの名残すら失われていた。
美しさの名残……。
凍傷で右足の小指と薬指を失った姉には、まだ美しさの名残があった。
「だからバランスをとったのよ」僕が言った。その声は不思議と姉と同じ声だった「指がなければ、足が無ければいい。でも、右足を切断すると、左足が邪魔になった。左足を切断すると、今度は腕が邪魔になった。シンメトリーにならなかったのよ」
僕は姉の声で姉に話し続けた。姉は「その通りだわ」と言った。
「でもやっぱりダメだったじゃない! 首を切断しても、やっぱり美しくないわ! もう……最後の手段しかないじゃない! 姉さん一人でシンメトリーになれないのなら、僕が手伝ってあげるわ。最初に戻るだけよ。初めから、僕たちはひとつだったのだから……」
僕はベッドに登り、姉の横に座った。ベッドは姉から流れ出た液体で暖かかった。僕はノコギリの刃を自分の左腕に当て、力を込めて引いた。
ごり……ごり……ごり……とすん。
左腕がベッドの上に力無く落ちた。次は左脚に取り掛かる。姉は相変わらず「がんばって、がんばって」と声をかけてくれた。僕は次第に朦朧としてきた意識を頭を振ってごまかし、なんとか左脚を切断した。
ごり……ごり……ごり……ごり……。
それはとても、文字通り骨の折れる作業だったが、なんとかやり遂げることができた。姉の応援のおかげだ。僕は準備していた針と糸を取り出すと、震える手で姉の左肩と左の股関節に僕の左腕と左脚を縫い付ける。僕の右手は氷のように冷たくなっていた。それは僕に棄てられた日の寒さを思い出させた。霞む頭と震える手で姉に僕の手足を縫い付ける作業は過酷を極めたが、大好きな姉のために気持ちを奮い立たせた。
僕は短く速い呼吸をしながら、姉の右隣に仰向けで横になった。姉の失った右手脚に僕の左側の傷口をくっつける。傷口を通して姉の血液と僕の血液が混ざり合い、ようやく本当にひとつになれた気がした。今の僕たちの姿を想像する。お互いが失った部分同士を補い、その姿はとても美しく完璧に見えるはずだ。僕は安堵からか、とても眠くなった。
「まだよ」と姉が言った。「わかってるよ」と僕が言った。
僕は最後の力を売り絞って、僕の喉にノコギリの刃を当てた。