本編続きのラフが書けましたので公開します。
雑ですが、お時間のある時に読んでいただけると幸いです。



 いま何時だろうか……と、シオンは思った。
 この施設に侵入したのが零時をまわったあたり。五本の鎖が不自然に垂れ下がったブランコのそばの入り口からこの研究所に入ってから一時間と少し。夜明けまでは、まだかなり時間がある。
『あれはやはり……』と、シオンが暗い目をしたままロシア語でポツリと呟いた。『ブランコなどではなく……』
 ──絞首台なのだろうか。
 最後の言葉は恐ろしくて声にならずに、シオンの腹の底に落ちていった。
 いったいこの施設は何なのだろう。
 人妖に関わる実験が行われていたのは間違いない。人間を人妖化する実験も行われていたのかもしれない。だが、いったい誰が主導していたのか。目的は何なのか……。冷子はこの施設を「私の庭」と呼ぶと同時に「利用価値がある」と言った。つまり冷子自身もこの施設の所有者ではないのだ。
 考えられる可能性のひとつは、人妖自身がこの施設を作ったということだ。人妖は社会のアッパークラスに入り込むことが珍しくない。大きな権力と財力を持った人妖がこの施設を作り、ほかの人妖と共に仲間を増やしていたと考えることが自然に感じるが……。
 考えがまとまらないうちに、シオンの目の前に研究所に似つかわしくない細工の施された大きな木製のドアが現れた。
 扉を開け、階段を急ぎ足で昇る。
 想像するより、冷子を倒して色々と聞き出した方が確実だ。
 シオンは警戒しながら突き当たりのドアを開けると、孤児院の玄関ホールの中に出た。今しがたシオンが出てきたドアは隠し扉になっているらしく、シオンの背後で閉まると同時に壁と一体化して、開ける方法がわからなくなった。
 広いホールの黒檀の床にシャンデリアの淡い光が反射しいている。孤児院にしては豪奢な造りで、円形の間取りに、中央から昇って壁に沿うような形の大きな階段がある。おそらく少し前に美樹が立ち回ったのだろう、玄関のドアがわずかに開いて雪が吹き込み、床や壁の一部が破損していた。   
 床を踏む音が頭上から聞こえた。
 シオンがロビー中央に移動すると、階段の上に人影が見えた。スタッズの付いた黒い生地のスーツがシャンデリアの暖かい光を反射して柔らかく光っている。
 篠崎冷子が、口元だけでうっすらと笑いながら立っていた。
「久しぶりねぇ如月会長? 相変わらず、はしたない痴女みたいな格好が似合っているわよ」
「こちらこそご無沙汰しております」と、シオンも笑みを浮かべながら答えた。「そちらのスーツ、ジョルジオ・アルマーニの新作ですね。私も同じものを持っています」
「あなたと服のセンスが被るなんて複雑ね……。あれから会長職は順調かしら? 夏からずっと休暇を取っているから、あなたの活躍がわからなくて残念だわ」
「ええ、お陰様で。あなたが居なくなってから失踪事件も起きなくなりましたし。今回の久留美ちゃんの件を除いて……ですが」
 シオンが皮肉を込めて冷子に言い放つと、冷子は、ふふ、と笑いながら階段を降りた。
 冷子もシオンもお互い微笑みを浮かべたまましばしの沈黙が流れる。冷子が人差し指で耳の後ろを掻いた。シオンが細めていた目を開くと、緑玉の様な瞳がシャンデリアの淡い光を浴びて暗く光り、顔に貼り付いていた笑みが消える。
「久留美ちゃんを返して下さい」
 滑らかだが普段よりもトーンの低いシオンの声は、ゆっくりと黒光りする床を広がって冷子の足に絡まった。
「いきなり核心を突くわね。交渉のセオリーを知らないの?」
「これは交渉ではなく警告ですので」
「警告? ふふ……いつから生徒会長は教師に警告できるほど偉くなったのかしら?」
「生徒に不利益を与える者を教師と認めることは出来ません。あなたに教師として復帰する気があるのであればの話ですが」
「それで?」
「久留美ちゃんを返して下さい」
「本人が帰りたがらないかもしれないわよ?」
「それは本人から直接聞きます」
「もう返したって言ったら?」
「証拠を見るまで信用することはできません。仮に久留美ちゃんを解放したことが事実であったとしても、あなたが危険因子であることに変わりはありません。すみませんが……」と、言いながらシオンは手袋を引いて位置を直した。「アンチレジストの戦闘員として、あなたを拘束します」
 冷子の射抜く様な視線がシオンの笑みの消えた顔を真っ直ぐに捉える。冷子は身に付けていたスーツの上着の肩口を掴むと、中に着ていたシャツごと袖を引き千切った。裏地のキュプラが、鼠が絞め殺された様な耳障りな悲鳴を上げる。両袖とも引き千切り、ジャケットがノースリーブの形になる。
「あなたと会うたびにスーツが台無しになるわ。あなた、そのふざけた格好で来たって事は、夏みたいに無様に負ける覚悟はできているんでしょう? 破廉恥なメイドさん?」
「ええ、もちろん。しかし負ける覚悟はできていても、負けるつもりはありませんが……」
 冷子は口を三日月のように歪めると右腕をぶらぶらと振った。右腕の振れ幅が大きくなると同時に徐々に振れ幅が増し、骨が無い軟体動物の触手のようにぐにゃぐにゃと変形したまま伸びる。肌の色が徐々に褪せ、ぬめぬめと粘液に濡れたなめくじの様なまだらな灰色へと変色した。手のひらが肥大化して指の股が消え、先端が丸みを帯びたソフトボールほどの大きさの塊になる。
「どうかしら? 少し改良したのよ。見た目は少しグロテスクになってしまったけれど、威力やスピードはかなり向上しているわ。試してみる?」
 シオンが無言で構え、冷子の攻撃を待つ。風を切る音。シオンの鼻先に冷子の右手の先端が迫る。シオンは中国拳法の様に前後に開脚して身体をかがめて攻撃を避けると、そのまま起き上がる勢いを利用して冷子に向かって距離を詰めた。反動で戻って来た冷子の腕を避け、シオンは膝を冷子の腹部に埋める。
「ふぐッ!?」
 冷子の整った顔が歪む。
 そのまま流れる様に背後に回り込み、膝の裏を蹴って跪かせる。冷子の身体の影から鎖分銅の様に右手の先端がシオンの顔面に迫る。とっさに避けて直撃は回避したが、頬をかすった時に触手の粘液が僅かに頬に付いた。本能的に手の甲で拭う。
 冷子が背後のシオンをタックルの要領で突き飛ばしてバランスを崩させると、左手をシオンの脇腹に埋めた。
「んぐぅッ?!」
 腕を伸ばさない状態での攻撃は凄まじい威力だった。
 砲丸が腹に落ちた様な感覚を憶え、一瞬シオンの身体から力が抜け落ちてよろける。そこに触手の様になった右腕がシオンの首に巻き付いた。
「あうっ! ぐっ……」
 シオンはとっさに腕を触手と首の間に挟み込み、締め上げられるのを防いだ。ぬめぬめとした粘液が白い手袋を汚す。冷子は残った左腕を円を描く様に回して、遠心力を使って先端をシオンの顔面に向けて飛ばした。シオンは不自然な体勢から必死に飛んできた先端を蹴って方向を変えて防ぐと、蹴りの回転の力を使って触手から頭を抜いた。
 お互いに間合いを取り、二人の呼吸音が静まり返ったホールに響く。
「ふふふ……楽しわねぇ。あなたのことは大嫌いだけど、簡単に死なない相手というのは面白いわ」と言いながら冷子が腕を軽く振ると、水分が抜ける様にして腕が元の形に戻った。汗で貼り付いた前髪を整えながら、赤く、蛇の様に縦に割れた瞳孔でシオンを上目遣いに見る。「あなた人間のくせに本当に面白いわね。学院にいる時から見ていたけれど、ヘタな人妖よりも優秀だわ。人妖の中にもたまに愚鈍な奴がいて……私そういうの許せないからすぐに殺したくなっちゃうのよ。ねぇ、何のために産まれてきたのか分からない存在なんて殺してもいいと思わない? 人妖としての特徴や特殊能力でもあれば実験材料として使えるんだけど、そういう奴らって総じて何も持っていないのよ。せめて運動がわりに楽しんで殺そうと思ってもあっさり死んでしまう、最期まで役立たずのクズ達……。あなたもそう思うでしょう? きっと周囲の人間に対してとても歯痒い思いをしているんじゃないかしら?」
「存在価値の無い人なんていません……」と、シオンがツインテールの片方を手櫛で梳きながら言った。「仮にそう見えたとしても、それはまだその人の価値に本人も周囲の人も気がついていないだけです」
「買ってるのよ、あなたのことは。その胸糞悪い性格以外はね。ねぇ、あなた人妖になってみない? その顔と身体なら別にチャームなんて使わなくても餌には困らないでしょうし、その姿が保てて食事の必要も無くなり、人間では絶対に得られない身体能力や特殊能力を得ることができる。デメリットは全く無い話だと思うけれど?」
「……私が人妖に?」と、シオンは動揺を抑えながらいった。やはり人間の人妖化は可能なのだろうか。
「簡単よ」と冷子が言った。「身体と頭の仕組みをちょっとイジるだけで、ベースは一緒だもの。ここに来るまでにちらっと見てきたでしょう? もともとここはそのための実験施設で、過去からの研究を引き継ぐと同時に適正のある人間の保護と人妖化も行われてきたの」
「凄惨な事件を起こした子供達を集めていたのも、それが目的ですか」
 蓮斗の犯行調書が脳裏に蘇り、シオンの頭にチリッとした痛みが走った。微かな吐き気も込み上げる。
「そうよ。自分のためなら平気で人の命を奪える──言い換えれば自分のためなら他人をどの様な形でも躊躇いなく利用できる、自分と他人との境界をはっきりと線引きできる人間。あなたみたいに下らない博愛主義なんて持っていると、人間を餌だと割り切れずに人妖化した後に面倒臭いことになるのよ。人妖の中にも餌に情が移ってしまう出来損ないがいて、餌と一緒に駆け落ちみたいなことを試みた奴もいたわ。あなたを人妖化する時はそのあたりの処置も必要ね」
「……そんな利己主義の塊の様な存在になってまで、特殊な能力を得たくはありません」と言いながらシオンは片足を引き、両手でスカートの裾を軽く摘んだたまま深くお辞儀をした。「──失礼いたします」
 けたたましい音を立ててシオンの立っていた場所の床が割れる。シオンはお辞儀の姿勢から強く床を踏み込んで跳躍し、前方に宙返りしながら冷子の脳天を目掛けて踵を落とした。冷子は背後に跳躍して避ける。シオンの踵がぶつかった床が割れる。シオンは踵を叩きつけた勢いを利用してそのまま前方に突進して冷子を追う。冷子は右腕を軟体化させ、鞭の様に横に弾いた。シオンは低空の姿勢になって躱し、そのまま独楽の様に回転して冷子の足を横に薙いだ。
「ぐぅっ?!」
 くるぶしの部分にシオンの踵が当たり、冷子が呻く。体勢を崩した冷子にシオンが膝を抱える様にして飛び込み、冷子の喉に脛を当てて後方に倒した。後頭部を打ち、「がっ」と冷子が短い悲鳴を上げる。シオンは冷子の喉を自分の左の脛と床の間にギロチンの様に挟み、右膝を冷子の胸に乗せて固めた。衝撃で元の状態に戻った冷子の両手首も、冷子の頭の上で床につけて押さえ込む。冷子は重心を押さえられているため容易には立ち上がれず、シオンは肩で息をしたまま冷子を見下す。顎から垂れたシオンの汗が冷子のシャツに落ちて染みを作った。
「あなた、本当に強いのね──」と冷子が微かに笑いながら言った。「その性格の甘さでいつも力を出しきれないんでしょう? リミッターが無くなったら恐ろしいわね」
「……あなたが恐ろしいという言葉を使うなんて意外ですね」と、シオンは言った。「このまま失神してもらいます。なるべく苦しまないようにしますので、アンチレジストの本部でまた会いましょう。聞きたいことが山ほどあるので……」
 シオンは冷子の重心を極めたまま、喉を押さえている足をずらして冷子の頚動脈を締めた。冷子は平静を装いながらも歯を食い縛る。効いている。シオンが左足に更に体重をかけた瞬間、視界が一気に横に流れた。同時に、顎から頭にかけて、顔の右部分に強い衝撃が走る。
「ぐあッ?!」
 一瞬体が宙に浮き、左肩から床に着地した。不意打で受け身が取れず、体全体に痛みが走る。
「へぇ……実物は初めて見るけれど、本当に人形みたいだな」
 金髪をオールバックに撫で付けた真っ黒い格好をした痩身の男が、蹴りの姿勢から直りながら言った。
「……あなたは」とシオンが上体を起こしながら言った。「蓮斗……さん」
「初めまして──と言ってもお互いもう知ってるから、初対面って感じがしないね」と言いながら、蓮斗は口角を吊り上げた。