細かい破片が、仰向けに倒れたシオンの顔にパラパラと降ってきた。
 階上から落ちた衝撃でショートした脳を回復させるために、シオンは目を瞑ってこめかみを揉む。ロング手袋やトップスなど、戦闘用メイド服は所々が破れて素肌が見えていたが、大きな怪我や傷は負っていない。頭上を見上げると、高い天井からは旧式の無影等が三本のアームを伸ばしていて、その奥のシオンの落ちてきた穴からは何かを叩きつけるような籠もった音が聞こえてきた。壁や床は薄い青緑色の樹脂で、まるで広い手術室のようだ。
 廊下の奥から、カツカツというパンプスの音が聞こえてきた。誰が向かって来ているのかは、もうわかっている。シオンは身構え、その人物が現れるのを待った。
「懐かしいわね……ここはグループホーム『CELLA』の実験室よ」と、言いながら冷子が部屋に入ってきた。ジャケットは既に脱いており、両方の袖が破れてノースリーブのようになったワイシャツが肌に貼り付いている。冷子自らが捥いだ左腕は既に触手が同じ形に再生させており、灰褐色の色でなければ普通の腕と見分けがつかなかった。「ここで被験者の子供たちに様々な薬物を与えて、人妖へ変化する過程を見ていたの。拒絶反応で暴れたり、蓮斗みたいに身体が変化してしまう子もいたから、実験室とは言えちょっと物々しい内装になっているけれど……」
 冷子が壁の所々に設置されている、拘束具を取り付けるためのフックを指差した。
「ホールに行く途中でここを通り、いろいろな資料を見ました……。孤児達を集めていたのは、人間を人妖化して増やす実験のためだったんですね」
「そうよ……。普通の孤児も少しはいたけれど、家庭に問題があって、犯罪者になる可能性が高い子供達を主に集めていたわ。世の中には自分の子供と縁を切りたがっている親は結構いるもので、貴女には想像もつかないでしょうけど、そういう子達は実験の失敗で死んでも誰も気がつかない、便利な存在だったわ」
「そこまでして……」と、シオンが言った。
「なぜ人妖を作ったのか……かしら? 簡単よ。前も言ったけれど、『食物を必要としない人間を作りたかった』。ただそれだけよ。人間の活動は様々だけど、その大部分が食糧を得るための活動であることは有史以前から続く真理でしょう? では、もし人間に食物を摂取しなくても活動ができるようになったらどうなると思う? 人間が最も恐れる飢えが無くなり、食物を奪い合うこともなくなる。人間は生物としての枷が外れて知識のみを追求する、より高次の存在になれるかもしれない……と、研究をスタートさせた人間は考えた。詳しいことは省くけれど、この研究の発端は先の大戦よりも前に遡るわ。各国が表の関係とは無関係に、人妖に関しては秘密裏に手を組んだり裏切ったりしながら、様々な実験を繰り返していた。そして、数十年前に異性の人間からであれば、粘膜接触で養分を吸収できる人妖の開発に成功した。私や、涼がそうね。彼はもういないけれど……」
「あなたも……元は人間だったんですか……?」
「馬鹿言わないでよ」と言いながら、冷子は苛立ったようにサイドの髪を後ろに梳いた。「私や涼は、試験管の中で人口受精させたばかりの卵細胞を遺伝子操作して、代理母に戻して造られたオリジナルの人妖……。人妖としての能力の他に、容姿や頭脳も遺伝子操作の際にイジられる。当時の最終目標のひとつである、人間から人妖に改造する手段を確立させたのも、研究を乗っ取った私たち人妖達よ。上の階で暴れている蓮斗みたいに、意図的に失敗させることもできるけれど」
「乗っ取った……?」と、シオンは息を飲みながら聞いた。
 冷子が言った。「不完全とはいえ人妖を生み出すことに成功した少し後に、人間同士で内紛が起きたのよ。人妖には人間と同じく自我があるし、ただでさえ身体能力や頭脳が高く、おまけに異性の人間さえいれば食事の必要は無い。もし人妖達が自分達に牙を剥いたらどうなるか……。そうなる前に、人妖達は全員廃棄して研究を止めるべきだという意見が出始めた。自分達はとんでもない怪物を生み出してしまったのかもしれないと恐れたのね……。もちろん、人妖を兵器や労働力として研究していた他国の組織は人妖の破棄に猛反発し、研究方針をめぐる争いは各地に飛び火して収集がつかなくなった。それと同時に、人妖研究に多大な援助をしていた最大手のパトロンからの資金が突然ストップしたことも、混乱に拍車をかけた。そして、多くの研究機関が自滅したり解散したりしているうちに、多くの人妖が研究所から逃げ出した……。私もその時に逃げた。勝手に造られて、研究所の人間から養分提供だとか言いながら酷い扱いをされて、挙句勝手に殺されそうになるなんて……我ながら随分と酷い人生だったと思うわ」
「冷子さん……あなたは……」
 シオンが半歩進み出ると、突然冷子の左腕が伸びてシオンの身体に巻き付いた。不意打ちでシオンの上半身は完全に簀巻きの様な状態にされ、勢いよくシオンを自分の身体に引きつけると、額が触れ合うほど顔を近づけながら言った。
「あうっ?! くっ……」
「言っておくけれど、同情なんかするんじゃないわよ……? 同情というのは関係の無い人間がするものよ。貴女、まだ自分が関係無いとでも勘違いしているんでしょう? なんで私達が研究を乗っ取ることが出来たのか、まだ言っていなかったわよね?」
 冷子が聞いたことがないような低い声で言った。シオンは、初めて冷子の本当の声を聞いた気がした。
「人妖の研究には莫大な資金が必要なの……。ねぇ? わかるでしょう? ラスプーチナ家のお嬢さん? 成果の出ていない段階の研究には、優秀なパトロンが必要不可欠なの。貴女のご先祖は薬作りが得意で、一族は今でも世界規模の大手製薬会社として富を築き続けている。貴女の家は代々、人妖研究に莫大な資金を投じてきた。もちろん、研究が結実すればその何倍もの利益が返ってくることを見越してね。さっきも言ったけれど、十年ほど前に貴女のお父様が亡くなってから一時的に融資は途絶えた。でも数年前から突然、何があったか知らないけれど、貴女の家は大きな融資を再開した。私達はそのタイミングで頭の悪い人間に取って代わって過去の研究を引き継ぎ、人間を人妖化する方法を確立した。そして、アンチレジストの創設と運営についても、ラスプーチナ家はかなり絡んでいる。まるで死の商人みたいね? 一方では人妖研究を進めさせ、一方では人妖を悪しきものとして処理しているんだから。どちらに転んでも、貴女の家は更なる名声を手に入れられる」
 シオンの頭にジリッとした痛みが走った。脳裏に、数日前にハッキングして手に入れたアンチレジストの受取金リストが浮かぶ。自分がかつて住んでいた家の名前がトップに記載されていた。冷子はシオンの身体を物のように投げ捨て、シオンはしたたかに背中を壁に打ち付けた。倒れる寸前で、かろうじて壁を背にして立っている。
「資金の流れを見てから……私の家が人妖研究に絡んでいることは想像がついていました」と、シオンが痛みを歯を食いしばって耐えながら言った。「だからこそ……私には、私の使命を果たす責任があるんです。人妖を……人間に戻す方法もあるはずです。そのためには、人妖を一時的に捕獲するしかない……」
「それが身勝手だと言っているのよ……。誰が人間に戻してくれなんて頼んだの? 貴女も味わってみればわかるわ。嬲り倒して瀕死にしてから、人妖に改造してあげる。貴女はとびきり綺麗な人妖になるわよ……?」