2020年05月

後編の推敲が終わりました。
最終的な推敲を行い、今月中にDL販売の登録をします。


シオン尻餅ダウン修正フルのコピー



 冷子が床に手をついたまま激しく咳き込んだ。
「大丈夫ですか?」と、蓮斗が冷子を振り返って言った。声色にはやや馬鹿にしたような響きがあった。
「……うるさいっ。邪魔するんじゃないわよ」
「負けそうだったところを助けたのに随分だなぁ……。冷子さんがあそこまで追い詰められるなんて意外ですよ。多分僕が来なかったら一分も経たずに──」
 薄笑いを浮かべたまま話し続ける蓮斗の眼前に、冷子の軟体化した腕が鞭のような音を立てて伸びた。濡らしたタオルを弾いたような湿った破裂音に、蓮斗の体が一瞬固まる。蓮斗は、ひひ、と笑いながら両手を上げて後ろに下がった。
 シオンは今まで写真でしか見たことがなかった蓮斗を見定めようと努めた。写真で見た印象よりもさらに細く見える。肥満体型の頃の面影は皆無だ。顔は所々引きつったような不自然さがあった。おそらく数回にわたる整形手術の影響だろう。身振り手振りでよく話し、表情は落ち着かない。そして派手な髪型やこだわりの強すぎる服装は、根底にある強いコンプレックスと自身の無さ、自分の中の知られたくないものを隠そうとする人によく見られる傾向だ。中身が乏しい商品ほど、外箱は派手な場合が多い。過剰に目が潤んでいて呂律もわずかに怪しい。薬物依存症によく見られる症状だ。
 蓮斗が負った心の傷は、想像以上に深いものなのだろうとシオンは思った。
 自分はいじめられた経験は無いが、いじめとは存在の否定だとシオンは考えている。そして自分を見てほしいという欲求は、人間が本質的に持っている欲求だ。いじめはその欲求を否定させる。見ないでほしい、放っておいてほしいという本能とは矛盾する欲求が生まれ、結果的に心が歪み、傷ついてしまう。蓮斗は、ギリギリでここに立っているのかもしれない。繰り返す整形手術、極度の痩身、ブランドものの服、違法な薬物というプロテクターで自分を守りながら。
「悪かったわね、横槍が入って」と、冷子がシオンを見ずに言った。「落とし前は、これで許して頂戴」
 冷子はおもむろに左腕を掴むと、唸り声をあげながら右手に力を込めた。めりめりという音がして、指が二の腕の筋肉に食い込む。
「なっ……なにを……や、やめてください!」
 シオンが頭を振って駆け出そうとするが、その前に冷子が一層低い声で唸る。ブチブチという何本もの繊維がちぎれる音と共に、左腕が冷子の肩関節から脱臼する音が響いた。シオンは耳を塞いでしゃがみ込む。冷子の左腕が肩から完全に抜け、おびただしい量の血液がロビーの床にぶちまけられる。蓮斗がひゅうと口笛を吹いた。
「な、なんて……なんてことを……」
 あまりの光景にシオンは目に涙を浮かべ、両手を口に当てながら震えている。
「……そんなに大袈裟なもんじゃないわよ。腕一本再生するくらい訳ないわ」
 呼吸を乱しながら冷子が言った。左肩の傷口はナメクジの様な粘液質の表皮に覆われ、既に止血されている。
「随分と怯えちゃって。調べた通りだなぁ」と、蓮斗がシオンを見ながら言った。「人が傷つくことが極端に嫌いって本当なんだ。シオンちゃんの闘っている映像を何本か見たけどさ、おかしいと思ったんだよね。基本的に大振りで一撃必殺狙い。どう考えても理詰めや搦め手を使ってじわじわと追い詰める頭脳戦の方が得意なはずなのに、実際の戦闘スタイルは脳筋かよっていうほど大雑把だから、なんか変だなぁと思ったんだよ。なるほど、なるべく苦しめないように最短で勝負決めちゃおうって魂胆ね。僕とは正反対だなぁ。そうなったのもやっぱりアレかな? 君のことは色々調べさせてもらったけどさ、昔──」
 蓮斗が言い終わる前に、玄関の方で轟音が響いた。蝶番が壊れ、扉の一枚板がゆっくりとロビーの床に向かって倒れる。開けっ放しになった扉から、風に舞った雪が吹き込んできた。
 雪の光を背負い、巫女服の袖を揺らしながら鷹宮美樹がロビーに入ってきた。
 三人の視線が一斉に美樹に集中する。
「扉を壊してすまないな。驚かすつもりは無かったんだが──」と言いながら、美樹が蓮斗を睨みつけた。「貴様の声が聞こえたので、少しイラついてしまった」
「美樹さん……」と床に座り込んだままシオンが言った。美樹がシオンの側まで来て手を差し伸べ、シオンはその手をとって立ち上がった。シオンは頬を手で擦りながら「大丈夫です、大丈夫……」と視線を床に落としながら言った。美樹が勇気付けるようにシオンの肩を叩く。冷子が蓮斗を睨みつけた。
「ちょっと……なんでこいつが生きてるのよ? 始末したからこっちに来たんじゃないの?」
「いやぁ、その手違いというか……実は寸でのところで逃げられまして、あの双子もいつの間にか消えていて誰も捕まえることができず──」
 蓮斗が言い終わる前に、冷子が変形させない状態の右腕を蓮斗の顔面に向けて払った。首が折れるほどの勢いで蓮斗の頭が揺れるが、蓮斗は悲鳴をあげることもなくバランスを崩した程度で持ち直す。両方の鼻からは大量の血が垂れていた。
「あら?」と冷子が言った。蓮斗の顔を覗き込む。
 蓮斗の瞳孔は冷子のそれと同じ様に縦に裂けていた。
 瞳孔の内部が微かに赤みがかって見える。冷子はジャケットの内ポケットから鏡を取り出し、蓮斗に手渡した。蓮斗は自分の目を覗き込むと、何度も小さく頷きながら「やった……やったぞ」と言った。
「最終段階ってとこかしら……違和感は無い?」
「違和感どころかすこぶる順調です。痛みや疲労は日が経つにつれてほとんど感じなくなってきていますし、射精できる回数も増えました。久留美ちゃんと遊んでいる時は、お腹を殴りながら一晩で八回出したこともあります。睡眠欲もほとんど無くなりました」
 興奮気味に早口で捲したてる蓮斗を、冷子は手で制した。
「拒絶反応も無いみたいだし、ここまでくれば成功よ。あと数時間もすれば異性との粘膜接触で養分を吸収出来るし、老廃物もほとんど生成されなくなる。分泌する体液は異性を魅了する効果のある、いわゆるチャームに変化する。食事も排泄も必要無いし、疲労物質やわずかに生成される老廃物は体液と同時に体外へ排出されるから睡眠も必要無い。ようこそ、こちら側へ」
「ありがとうございます……ようやく人妖になれるんですね……。食事の必要がなくなるのは少し残念ですが」
「おい、なんの話だ……。人妖になれるだと? どういうことだ?」
 美樹が眉間に皺を寄せながら、蓮斗と冷子を交互に見た。シオンは地下で見た資料を思い出し、背筋が寒くなった。
「そのまんまの意味さ。俺はやっと人妖に進化できたんだよ。ずっと夢見ていたんだ……人間というクソッタレな存在から解放される日をな。なんでも順位付けして、余計なことばかり気にしながら、人の顔色をうかがってせこせこと生きるしかない卑屈なクズどもから──」と言いながら、蓮斗が興奮した様子でポケットからシガーケースのようなものを取り出した。開いて注射器を取り出し、鎖骨のあたりに針を打ち込む。雑に中の薬液を注入すると、ケースごと注射器を床に叩きつけた。「こいつは適正のある人間を人妖に進化させる薬だ。今は定期的に注射するしかないが、冷子さんのおかげで近いうちに、飛沫を吸い込んだだけで効果が発揮できるように改良される。俺はこいつを大量生産して、まずは日本中の人間を人妖にする。適正の無い奴はどうなるか知らねぇけどな」
 蓮斗の瞳は紅い光を放ちはじめた。冷子がその背後で興味無さげに頭を掻いている。
「日本は理想郷になるのさ。だってそうだろう? 飢えが無くなり、ただセックスしていれば生きられる存在に全員が進化するんだ。いまの世の中を見てみろ。容姿や収入、生まれや育ちで一生が決まっちまう世界だ。運悪くクソッタレな親の元に産まれちまったら、惨めな劣等感を抱えながら一生をジメジメとした日陰で泥水をすすりながら耐えなきゃならない。俺はそんな世界をぶち壊してやりたいのさ。考えてもみろ。セックスしてりゃあ飲み食いが必要なくなるんだぞ? 価値観が全部ひっくり返る。みんな同じだ。顔が良いとか悪いとか、金持ちとか貧乏とかで差別されなくなる世界だ。最高じゃないか」
「そ、そんな……」
「そんなことさせるか!」
 言葉に詰まったシオンの横で美樹が叫んだ。蓮斗を矢で射抜くように睨みつけた。
「日本中の人間を人妖にするだと……? 貴様、人間を何だと思っている?」
「自分勝手な最低の屑さ。街を歩いてると、色んな奴がいるよな? 俺はそいつら全員が何を考えてるのか想像するだけで、頭がおかしくなりそうだよ。でもさ、結局は全員何を食うか、誰とヤルかしか考えてないんだよ。それが満たされないから、自分より下の奴を作って、そいつを貶めて自尊心を保とうとするのさ。だったら、俺がその不安を取り除いていやる。お前らの仲間だったあの双子の生い立ちを聞いたことはあるか? 可哀想に、変態趣味の馬鹿親のせいでサイコになっちまった……。あいつらがいまだにソーセージと生卵を食べられない理由を考えてみろよ」
「屑はお前だろ?」と、美樹が冷たく蓮斗に言い放った。「人妖になれば人間全員が平等になれるだと? ふざけるな。人間という存在自体をかなぐり捨てて、何が平等だ。そんなもの、化け物になれと言っているようなものだ」
「俺から言わせれば人間の方がよっぽど化け物だ。少しでも他人と違うってだけで平気で傷付ける。俺はお前とは違うってだけで、平気で嫌悪の対象にして攻撃する」
「それは違います。自分らしく精一杯生きていれば──」
「お前らみたいに! お前らみたいに……最初から生まれや顔や学力に恵まれた奴らが、綺麗ごと言ってんじゃねぇぞ!」
 シオンの言葉を蓮斗が遮る。蓮斗は美樹とシオンを交互に睨みながら声を荒げた。
「余裕ぶっこいて上からほざいてんじゃねぇぞ! あ? 自分らしく精一杯生きるだと? なんだお前? お前、世界的製薬会社の創業家の令嬢だろうが? こっちは知ってんだぞ! 生まれや顔や脳味噌に恵まれて、周りからちやほやされてるから、くだらねぇ奉仕精神とか博愛主義とかでいられるんだろうが? あ? 何がメイドだよ。わざわざロシアから来て愛想振りまきやがって。お前が家柄に恵まれず、金に困っていて、顔や頭が今みたいに良くなくても、今と同じことをしていたのかよ!?」
「ただの僻みにしか聞こえんな」と、美樹が静かに言った。「確かにシオンの出生は、世間的に見れば恵まれたものだったのかもしれない。だが、知った風な口で、自分だけが不幸だと喚くな。私もシオンも、道楽や人を見下すためにこんなことをしていると思うか? そんなくだらない自己満足で命を張れるものか。いいか、命を張るってことはな、それなりの理由と覚悟が必要なんだ。お前は生まれつき生まれつきというが、黙って寝ているだけで頭や身体が鍛えられるか? ろくな努力もせずに、薬物や人妖の力に頼っているお前には、何も言う権利は無いぞ」
 水を打ったような沈黙が流れる。
 雪は相変わらず壊れたドアから吹き込み、シャンデリアの灯りは風に揺らめきながら黒檀の床を照らした。
 誰も何も発しない。
 凍りついた空気は永久凍土の様に重苦しく、ロビーにその身を横たえていた。
「……もういいわ」
 しばらくして、蓮斗の背後から声が響いた。凍りついた空気がようやく溶け出した。
 冷子がつまらなそうな顔をして全員を一瞥した。
「蓮斗……あなた、もういいわ……」
 冷子が冷たく言い放ちながら指を鳴らすと、蓮斗の身体が震えるほど大きく「どくん」と脈打った。次の瞬間、腹の中で爆弾が破裂したような勢いで、蓮斗の腹が物凄い勢いで膨張した。ライダースのジッパーが音を立てて壊れ、中に着ていた薄手の赤いカットソーが限界まで伸びる。
「……え?」
 蓮斗は自分の膨張する腹を呆然と見下ろす。ベルトが音を立てて千切れ、カーゴパンツのボタンが弾け飛んだ。身体は脈打つ度に膨張する箇所が広がり、膨張は胴体から手足、指先へと面積を広げた。
「ああああああああああああああああ!」
 カブトムシの幼虫の様に変形した自分の指を見ながら、蓮斗は喉が裂けるほど絶叫した。そのまま頭を抱えてうずくまる。
 シオンが青ざめた顔で手を口元に当て、首を横に振りながら無意識に後ずさった。
「な……なに……なんですかこれは……?」
「わからん……あの女が何かしたらしいが……」
 美樹も震える声を隠せずに、ただ呆然と蓮斗の変形を見守った。
「いやだぁぁ……戻っちまう……もう太りたくない……太りたくない……また皆から……虐められ……」
 膨張は既に全身に広がっていた。蓮斗の顔は二倍ほどの大きさに膨らみ、声は風船を押し当てて喋っているように不明瞭になっていた。綺麗に染められた金髪は頭皮が膨張したせいで密度が下がり、所々地肌が見えている。
「人妖の適正を無くすことくらい簡単に出来るのよ。なんで私があなたのくだらない理想のために力を貸さなきゃならないの? 自分は特別な存在だとでも勘違いしていたのかしら?」
 冷子の声に蓮斗は顔を上げる。元の面影が皆無なほど変形していた。目は恐ろしい量の脂肪で塞がり、口や鼻も膨らんだ頬に押しやられ、数カ所小さな穴が開いている肉団子のように見えた。
「ぼおぉ……」
 蓮斗は何か言葉を発したらしいが、口腔が脂肪で塞がれて呻き声にしかならなかった。
 冷子は気にせずに薄笑いを浮かべている。
 蓮斗の狭まった視界の隅に、緋色の布が映り込んだ。蓮斗は顔の角度を変えて見上げようと試みるが、まともに動くことが出来ない。
「こいつを元に戻せ」
 美樹の声だ。
 蓮斗の歪んだ視界のピントが、一瞬だけ合った。
 自分に背を向けて、冷子に立ち塞っている美樹の姿が目に入った。緋色のスカートや襦袢に走る緋色のラインが、やけに鮮やかに見えた。
「あなたなら出来るはずです」
 蓮斗の視界に別の影が映る。
 白いガーターベルトの付いたストッキングに、フリルの付いた黒いスカート。二つに纏めた長い金髪。
「人間をここまで作り替えることが出来るのなら、逆に戻すことも出来るはずです。お願いします」
 シオンの声にはすがるような雰囲気があった。冷子がふんと短く息を吐く。
 蓮斗の思考はまだはっきりとしていたが、身体は四つん這いの体勢のまま動かすことが出来ない。その蓮斗をまるで庇う様に二人が背を向けて立っている。
 美樹の長い綺麗な黒髪が揺れて綺麗だった。
 印象に残っている、綺麗な長い黒髪。
 そして強気で凛とした性格。
 小学校の頃、いじめらていた自分を唯一助けてくれた女の子も、長い黒髪だった。
 まさか……な。
 そんな都合のいい話がある訳が無い。
 でも、もしそうだとしたら……。
 蓮斗の身体が脈打ち、瞼が更に膨張する。蓮斗の視界は完全に塞がり、何も見えなくなった。
 耳も塞がれているのか、彼女達の会話の声も、まるで轟轟と吹き荒ぶ激しい風の音のように不明確になった。
 そして、思考や意識までもが徐々に混濁していった。


 ──寒い──寒い──。
 俺は一体どうなっちまったんだ……?
 人妖に進化したら、全てが上手くいくはずじゃなかったのか?
 このクソッタレな人生に復讐ができるはずじゃなかったのか?
 冷子が裏切った……。
 人妖に取り入ったのが間違いだったのか……。
 いや、それしか方法が無かったじゃないか。
 突然この施設を放り出されてから、身寄りのない俺はヤクザの下働きになった。
 クソみたいな仕事をして小金をもらうだけのヤク中だった俺は、人妖に取り入らなければ野垂れ死ぬだけだった。
 人妖……ジンヨウ……。
 ガキの頃、施設の大人達が話していた聞きなれない言葉だ。意味を知ったのはずっと先のことだ。
 大人達は、俺達を人妖にするための実験をしていると言っていた。もちろん当時は意味がわからなかったが……。
 ヤクザの下で薬の売人をしている時、偶然客の女から人妖の噂を聞いた。
 もう薬は必要なくなった。それよりも良いものが見つかったと女は言った。
 なんのことか聞くと、ある男とのセックスにハマっていると、女は言った。
 どこぞのホストにでも入れ込んでいるのかと思ったら、その男は人間ではなく、人妖だと女は言った。
 俺は久しぶりに聞いた人妖という単語に心底驚いた。
 女は興奮した様子で、早口で捲し立てた。
 ハマってくると、キスだけでトぶ……。唾液や精液といった分泌液に妙な効果があるらしい。
 だから口やナカで出されでもしたら、脳が震えているのがわかるほど快楽の電撃が走る。
 しかも見た目は人間と変わらないが、超イケメンで、いつも最低五回は失神するまでイかされる。
 もう薬なんてどうでもいい。思い出しただけで濡れてきた。早く人妖に会いたい。もう薬はいらないから連絡しないでほしい。
 女が去った後、俺は放心していた。
 俺は生きた麻薬にされるためのモルモットだった訳だ。
 だったら、利用してやると思った。
 俺は人妖のことを調べ、苦労して冷子と接触して、殺されるのを覚悟で取り入ったのに……。
 こんなはずじゃなかった……。
 寒い……。
 くそ……寒いな……。
 何も見えないし、何も聞こえない。
 身体が上を向いているのか、下を向いているのかすらもわからない。
 酷い寒さだ……。
 あの時よりも寒い。
 俺がデブだった頃。
 集団で虐められ、ボロボロになって、泣きながら家に帰った。
 親は庇ってくれるのかと思ったら、「やり返すまで帰ってくるな」と、俺を家から締め出した。
 雨の降る中、真っ暗な公園の遊具の中で丸まり、寒さと絶望感と怒りに震えながら、独りで泣いた。
 あの時は世界の全てから裏切られたように感じた。
 寒い。
 寒い。
 寒い。
 やり返すまで帰ってくるなだと……?
 お前の言う通りやり返してやったぞ!
 言われた通り、俺はそいつらの腹をそいつの親の目の前で掻っ捌いて、中身を掻き回しながらマス掻いてやった!
 今まで俺が受けた苦痛をまとめて一括返済してやったのさ!
 テメェがやれって言ったくせに、たかが腹捌いて臭ぇ内臓ミンチにしてぶっ殺してやった程度でぐちゃぐちゃ喚きやがって!
 俺は殺される以上の仕打ちを受けてるんだよ!
 どうすりゃいいんだよ!?
 勝手なことばかり言いやがって!
 テメェがアイツらを殺してこいって言ったから殺したんだろうが!
 クソが!
 死ね!
 まだ三人しか「やり返して」ねぇんだよ! ふざけやがって! 俺はまだまだ殺さなきゃならねぇんだよ!
 死ね! 全員死ね! 苦しんでもがいて死ね!
 クラスの奴ら全員と担任を殺す──いや、唯一庇ってくれたあの女の子だけは見逃すつもりだったが……。
 その前に取っ捕まって、少年院ではなくこの施設に入れられた。
 思えば施設に入る前も出た後も最悪だった……。
 施設では訳の分からない薬打たれたり、検査や実験をされたりして、ゲロとクソを垂れ流しながら一晩中のたうち回ったことも何回もある。
 ……畜生。
 俺はいつも、誰かの食い物だった……。
 親からも、学校の奴らからも、教師からも、施設の大人等からも、人妖からも……俺は食われてばかりだ。
 やっと俺が食おうとすると、必ず誰かが邪魔をしてきやがる……。
 俺より少し後に施設に入ってきた双子の姉妹と、なんとなく話すようになった。
 あいつらだけは、俺を食おうとはしなかった。たぶんあいつらも、散々誰かに食われてきたんだろう。
 何年か経って、突然施設の中が慌ただしくなって、大人達がバタバタと荷物や資料をまとめて出て行きやがった。
 スポンサーだか経営者だか、とにかく施設の運営に関わる海外の偉い奴が急死して、権利者の間で揉めはじめたとか言っていたが……。
 パニックを起こした大人達の一部が、子供達を処分し始めた。
 連れて逃げる余裕は無いし、仮に保護された子供が施設のことを喋れば、立場が危うくなる奴なんて何人もいる。
 それまでも見せしめみたいに、適性の無い奴や問題を起こした子供を外の絞首台で処刑することはあったが、今回はニワトリをシメるみたいに片っ端から。
 止めようとした大人が銃を打って、子供を殺していた大人の何人かが倒れた。
 俺を含め、ガキの大半はどさくさに紛れて逃げ出すことに成功した。
 真冬の山の中を、手術着みたいな薄い服一枚と裸足で必死に逃げた。
 別に生き延びたくはなかったが、もうこれ以上誰かの食い物にされることにウンザリしていたんだ。
 あの時も、こんな風に寒かった……。
 寒い。
 寒い……。
 誰か、俺の部屋の暖炉に火を入れてくれよ……。
 薪は暖炉の横に置いてあるから……。
 誰か火を……。
 誰か……。
 ハイブランドの服も、豪華なメシも、肝心な時に役に立たないじゃないか……。
 誰か、俺の味方でいてくれよ……。
 俺に大丈夫だって言ってくれよ……。
 誰か。
 誰か……。


「まだ大丈夫だろう? こいつを元に戻せ」と、美樹が背後を親指で指しながら言った。眉間に皺を寄せてた美樹の顔は、シオンも見たことが無いような恐ろしい表情だった。美樹の親指の先には、見る影もないほど肥満体になった蓮斗が頭を抱えるようにしてうずくまっている。肌の色は青白く変色し、所々に血管が透けて見えた。塞がれた口腔の奥からモゴモゴとくぐもった不明瞭な声が聞こえる。何か言葉を発しているのか、ただ単に呻いているだけなのかはわからない。
 このような姿になって、蓮斗は今なにを思っているのだろうかとシオンは思った。いや、なにも思っていない方が良いのかもしれない。肥満を理由に酷い虐めを受けた蓮斗にとって、脂肪に覆われた今の姿は発狂するほど堪え難いものだろう。それならば、いっそ発狂し、なにも考えられなくなっていた方が幸せなのかもしれない。
「しつこいわね。まぁ、今なら戻すことも出来なくはないけれど……」
 冷子が呆れた様子で言った。美樹とシオンが溜めていた息を吐く。
「でも、こうなったらもう私でも無理よ」
 冷子が指を鳴らした。直後、蓮斗が硝子を引っ掻く様な悲鳴を上げた。
 美樹とシオンが同時に耳を塞ぐ。
 蓮斗は苦しみながら、芋虫の様な指で頭を強く抱えた。脂肪でぶよぶよになった頭皮に指が埋まり、一部が破れて血が滲む。
 美樹とシオンはなす術も無く、呆然とその様子を見守るしかなかった。
 蓮斗はもがき苦しむ様にしばらく身体を捩ると、やがてぴたりと動かなくなる。
 少しの沈黙。
 突如、蓮斗の背中に無数の瘤(こぶ)のようなものがボコボコと発生した。瘤は盛り上がり、分裂を繰り返して数を増やしながら、独立した生き物のように蠢いている。布の破れる音。蓮斗の伸び切った赤いカットソーが破れ、カタツムリの目の様なグロテスクな触手がわらわらと溢れた。シオンが「ひっ」と小さな悲鳴をあげる。
「うまくいったわね。皮膚の下にあるうちは脂肪に見えるかもしれないけれど、実際に増殖していたのは脂肪ではなく、私の触手の細胞に手を加えたもの……。人間を人妖に変態させる薬とカクテルにして、拒絶反応が起こらないように少量ずつこいつの体内に蓄積させておいたの。今、私の合図でこいつの脳に完全に浸透したわ。思考はもはや、見た目通りナメクジやカタツムリと変わらない。あとは本能の赴くまま、食欲に従って暴れるだけ暴れる醜い肉塊として、自滅するまで動き続ける。今は時間をかけて複数回細胞を注入することでしか変異させることはできないけれど、いずれ粘膜から吸収可能な噴霧式で即効性を持たせることができれば、一度に大量の人間を作り変えることができる。理想は感染性を持たせたウイルスタイプね……完成すれば最後の一匹になるまで人間同士で勝手に共食いを始めてくれるわ」
 顎に指を当てて満足そうに状況を分析する冷子に向かって、美樹が飛び出した。今の冷子には左腕が無い。防御の薄い左側へ、手甲の金属部分を冷子にぶち当てるように拳を突き出す。手応え。蒟蒻を殴った様な異様な手応え。冷子の左肩からズルリと灰色の太い触手が生え、美樹の攻撃を受け止めていた。
「な……に……」
 美樹が歯を食いしばる。
「急ごしらえさせるんじゃないわよ……」
 冷子は触手を美樹の上着に絡ませ、強引に身体を引きつけて右拳を美樹の腹に埋めた。ずぷんと鈍い音がして、美樹の背中が僅かに盛り上がる。
「ゔぶぅッ?!」
 美樹の両足が地面から浮き、身体がくの字に折れた。
「無駄よ。人間が私達に勝てるわけないでしょう?」
 冷子が美樹の腹に埋まった拳を捻る。ただ苦痛を与えるだけの行為に、美樹の身体は悲鳴を上げた。
「ぐぶぁッ……! ぎぃッ……」
 苦痛に耐えるように美樹が歯を食いしばる。次の一瞬、その顔が少しだけ笑った。両手で冷子の腕を掴む。怪訝な顔をした冷子の視界が一瞬暗くなった。シオンが美樹の背後から跳躍し、シャンデリアの灯りを遮っていた。シオンはフィギュアスケートのジャンプの様に錐揉みに状に回転し、冷子の首に巻き付く様な回し蹴りを放った。頚椎をしたたかに打ち抜かれ、冷子の身体がぐらりと傾く。美樹が手甲で冷子の顎を跳ね上げた。
「シオン!」
 美樹がシオンに向かってバレーボールのレシーブの様に手を伸ばした。シオンが軽く跳んで美樹の手のひらに足を乗せると、そのまま美樹の押し上げる力を利用して飛び上がる。羽の生えたような跳躍だった。シオンは膝を抱えたまま前方に宙返りし、勢いをつけたまま落下点を確かめる。宙返りで勢いをつけた踵落としはシオンの得意技だ。人妖とはいえ、脳天に食らえばほとんどの相手は失神してきた。
 今回も宙返りの勢いを殺さず、脚を伸ばして踵を冷子に振り下ろした……つもりだった。
 シオンの靴底は天井を向いたまま、逆さ吊りの体勢で固定された。まるで万力で足首を空中に固定されたようだ。一瞬事態が飲み込めず、無意識にスカートを手で押さえる。にやりと笑っている冷子と目が合った。逆さ吊りのまま自分の足首を見る。自分の足首に巻きついている触手がぬらぬらと光っていた。
 これは、蓮斗の背中から湧き出たものだ。
「シオン! 危ない!」
 美樹が叫び、視線を移す。風を切る音。蓮斗の触手が猛烈な勢いでシオンに伸びていた。
「え……おぶぅッ?!」
 不意打ちで、ドッヂボールほどの大きさの黒ずんだ先端が腹に減り込んだ。身体が折れ曲がり、痛々しいほど陥没した自分の腹部が目に入る。
「かはっ……! ぁ……」
 触手が引き抜かれ、シオンがなんとか呼吸をしようと口を開けた瞬間、再び不気味な風切り音が耳に届いた。背中にぞくりと悪寒が走る。次の瞬間、数本の触手がシオンの腹に連続して埋まった。
「ゔぶッ?! ごッ?! ゔぁッ!?」
 逆さ吊りの体勢のため、シオンの顔に自分の吐き出した唾液が降り掛かった。一瞬気を失い、スカートを押さえていた手がだらりと地面に向けて伸びる。
 触手はシオンの身体をハンマー投げの様に振り回し、壁に向かって叩きつけた。
 したたかに背中を打ち付けられた衝撃で、肺の中の空気が一気に押し出される。足に力が入らず、背中で壁をこするようにズルズルと尻餅を着いた。
 ふっ……と視界が暗くなる。シオンが顔を上げると、蓮斗の触手がわらわらと蠢きながら、シオンに向かってハンマーの様に振り下ろされようとしていた。
 シオンは無理な姿勢から転がるように逃れる。蓮斗の触手はそのまま振り下ろされロビーの床に大穴を開けた。
 あっ……と、シオンが短く叫んだ。
 触手の直撃は免れたものの、古い床には大穴が開き、シオンは今にも落下しそうな状態で穴の淵にかろうじて片手で掴まっている。
「シオン!」と、美樹が叫んだ。シオンの元に駆け寄ろうとするが、蓮斗の触手に阻まれる。
 風切り音。
 冷子の左肩から生えた触手が鞭のように伸びてシオンの手に当たり、シオンはそのまま地下に落ちていった。
 再び美樹がシオンの名を叫んだ。
 蓮斗はターゲットを美樹に変えたらしく、数本の触手を束にして美樹に放った。
 美樹は舌打ちしながらサッカーボールを蹴るようにして触手を弾く。
「そんな姿になってまでも、お前は私に執着するのか……」
 美樹が呆れるように言った。
 シオンは無事だろうか。一瞬だが、空いた穴からは病院か研究所のような空間が見えた。なぜ地下がそのような造りになっているのかは不明だが、深くはなさそうだ。落ちた程度で致命傷を負うほどシオンはヤワではない。視界の隅で、穴に飛び込む冷子の姿が見えた。
 蓮斗は触手を腕のように使って、膨れ上がった上半身を起こした。
 上着は完全に裂けて失われ、胴体の肉がスカートのように垂れ下がって足元を覆っている。脚部が完全に肉で隠れ、座っているのか立っているのかもわからない。両手は頭を抱えた状態のまま肉に取り込まれ、耳を塞いでいるように見えた。顔は二倍以上の大きさに膨れ上がり、額や頬の肉が垂れ下がって目と口がへの字型の裂け目のようになっている。裂け目の中に赤く光る瞳が見えた。
「蓮斗……」と、美樹がポツリと言った。「お前のことは大嫌いだ。久留美を誘拐し、暴行したことは許せん。だが、そんな目に逢う運命は少しむご過ぎるな……」
 蓮斗からは汚水が泡立つような音が聞こえた。肉に阻まれた呼吸音なのか、唸り声なのかはわからない。
「辛いだろう。太っていたことが嫌だったらしいな? それをもう一度同じ目に……。だが」
 美樹が上着の中に手を入れ、樹脂製の短いスティックを二本取り出した。美樹が強く振ると収納されていた中身が飛び出し、取っ手を起こすとトンファーの形になった。美樹は慣れた手つきでトンファーを回転させながら構えた。
「お前がまだ人間であったなら、アンチレジストはどんなクズだろうと救うために最大限の努力をした。だが、人妖か、それに準ずるモノになってしまったのなら、私達アンチレジストの討伐対象だ。観念しろ」

 蓮斗の背中から伸びた触手が蛇の群れように縦横無尽にうねり、美樹に向かって振り下ろされた。速くはない。美樹はジグザグに動いて躱しながら、徐々に距離を詰める。横に薙ぐような触手の攻撃を跳躍で回避し、蓮斗の顔面にトンファーを叩き込んだ。トンファーはぐにゃりと肉に埋まったが、ダメージは無いようだ。ならばと美樹はトンファーを握り直し、本体の短い部分で蓮斗の目を突いた。金属を切るような悲鳴が上がる。すかさずもう一方の目も突き、さらに眉間だった場所に一撃を打ち込んだ。ぶよぶよとした軟体動物のような肉の奥に、硬い骨の感触があった。
「肉の増殖に対して、骨が追いついていないようだな」と、美樹は距離を取りながら言った。トンファーを勢いよく振り、まとわりついた粘液を振り切る。「頭蓋骨の大きさや厚さは元のままのようだ。無茶なことを。その重量では脚の骨は今頃粉々だろうな
 蓮斗は触手を槍のようにして美樹に放った。美樹は最小限の動きで躱し、蓮斗の様子をうかがう。蓮斗のへの字に垂れた口から、苦しそうな喘ぎにも似た声が漏れている。蓮斗は何度か美樹に触手を飛ばしたが、いずれも力が無く、躱すのに苦労はしなかった。攻撃というよりかは、何かを探るような動きだ。美樹が不思議に思っていると、触手は奇妙な動きを見せた。美樹の後方の壁を探るように動き、火の消えた蝋燭を取ると、ビニールシャッターの様になった唇を押し上げて蝋燭を口に運んだ。
「なるほど……」
 美樹は蓮斗に向かって突進した。巫女装束の袖を翻しながら、高速でトンファーの柄を蓮斗の喉元に抉りこむ。まるで美樹自身が一本の槍になったような一撃に、蓮斗は悲鳴をあげて飲み込んだ蝋燭を吐き出した。
「こんな身体で動き回るには膨大なカロリーが必要だ。腹が減って仕方がないんだろう? 貴様ら人妖は異性との粘膜接触で養分を得るらしいが、もはや動けないその身体では難しい。放っておけば勝手に餓死する運命だ」
 触手が力の無い動きで美樹の足に絡まろうとしたので、美樹がブーツの底で踏みつけた。
「そして生憎、私は貴様に養分をやるつもりはない」
 美樹はトンファーを持ち替え、柄の長い部分で蓮斗の目を突くと、渾身の力で押し込んだ。耳を塞ぎたくなるような甲高い悲鳴が蓮斗の口から放たれる。
「最期に教えてやる……もう聞こえていないかも知れんがな」と、美樹は歯を食いしばってトンファーを押し込みながら言った。トンファーが蓮斗の脳に達するまでは、まだ距離がある。「蓮斗……お前はさっき私やシオンのことを、生まれや育ちが恵まれていたから博愛主義でいられて、アンチレジストのような人助けが出来ると言ったな? 違うぞ。私もシオンも家が少し複雑でな。私もお前のように小さい頃から施設に入っていて、実の親の顔もよく覚えていない。同じ頃にシオンも事情があって故郷のロシアに居られなくなり、独りで日本に来た。貴様も色々と気の毒だったとは思うがな……全てを人や環境のせいにして、中身を磨かずに外見だけを整えたり、薬物に頼ったりしていても何も解決はしないぞ。もっとも私も、シオンのようにいつもニコニコしていられるには、まだ時間がかかりそうだがな……!」
 蓮斗の腹のあたりが音も無く膨らみ、太い触手が生えた。美樹が気がつくと同時に、鞭のような速さで美樹の腹に埋まる。ぼぐんッ……という音とともに、美樹の黒いインナー部分が陥没した。
「ゔッ?! ぶぐぇッ……?!」
 美樹は後方に吹っ飛んで仰向けに倒れた。不意打ちを喰らい、視界が明滅する。天井のシャンデリアがぼやけて視界に映り、それを隠すように極太の触手が伸びてきて、美樹の腹を潰した。
「ごぶうッ!? ゔぁッ……! げろぉぉっ……」
 美樹は身体をよじり、背中を丸めて胃液を吐き出した。今までの弱り切った様子とは明らかに動きが違う。再び振り下ろされた触手を転がりながら避け、肩で息をしながら立ち上がった。蓮斗は目に刺さったままのトンファーを触手で引き抜き、フローリングの床に捨てた。
「なんだ……? 養分を補給したのか?」と、美樹が肩で息をしながら言った。すぐさま猛烈なスピードで触手が飛んでくる。美樹は屈んで避けるが、別の触手が美樹の足首に絡まり、蓮斗本体に向かって引きずられた。美樹は歯を食いしばり、触手を解こうとするが、粘液で滑って指を立てることすらできない。やがて美樹の身体に何本もの触手が巻きついた。
 この匂い……ガソリンか、と美樹は思った。バイクが趣味の美樹にとっては、親しみのある好きな匂いだ。
 見ると、蓮斗の背中から伸びたミミズの様な細い触手が、板張りの床の隙間に入り込んでいた。地下に保管されている燃料を吸い取っているのだろう。ガソリンや石油を分解し、養分にする微生物がいると美樹は過去に聞いたことはあったが、いくら飢餓状態とはいえ蓮斗がガソリンを吸収するとは。
 触手が美樹の顔の前に伸びた。先端が男性器の様な形をしている。次の瞬間、触手が伸びて美樹の半開きになった口から侵入し、喉奥まで押し込まれた。
「んぐぅッ?!」
 触手は素早く前後運動を繰り返し、美樹の口内と喉を嬲った。触手からは生臭い匂いとガソリンの匂いが染み出し、猛烈な吐き気に襲われる。美樹は失神しないように全身を硬直させて耐えた。やがて触手の先端が膨らみ、重油の様な粘液が美樹の口内に大量に放出された。蓮斗の口から溜息に似た音が聞こえた。一瞬拘束が緩み、美樹はスカートの中に忍ばせている小ぶりなナイフを取り出して触手を切りつけた。拘束が解け、美樹は転がるようにして距離を取ると、口内の粘液を憎々しげに吐き出す。
「もっと長い得物を持ってくるべきだったな……さて、どうしたものか」


 割れた床の細かい破片が、仰向けに倒れたシオンの顔にパラパラと降ってきた。
 階上から落ちた衝撃でショートした脳を回復させるために、シオンは目を瞑ったままこめかみを揉む。服や手袋は所々が破れて素肌が見えていたが、大きな怪我や傷は負っていないようだ。天井の破片が目に入らないように注意しながら、ゆっくりと目を開ける。自分が落ちてきた穴の横に、旧式の無影灯が太いアームで固定されていた。自分の上に落下しなかったのは幸いだったと、シオンは思った。
 廊下の奥からカツカツとパンプスの音が聞こえてきた。誰が来るのかはもうわかっている。シオンは身構え、その人物が現れるのを待った。
「懐かしいわね……ここは実験室よ」と、言いながら冷子が部屋に入ってきた。ジャケットは脱ぎ捨てたようで、袖が破れてノースリーブになったワイシャツ一枚を羽織っている。冷子自らが捥(も)いだ左腕は触手によって再生させており、灰褐色の色でなければ普通の腕と見分けがつかなかった。「ここで被験者の子供たちに様々な薬物を与えて、人妖へ変化する過程を見ていたの。拒絶反応で暴れたり、蓮斗みたいに身体が変化してしまう子もいたから、実験室とは言えちょっと物々しい内装になっているけれど……」
 冷子が壁に設置されている拘束具を指差した。暴れてもいいように、両手足を固定してから実験をしたのだろう。シオンは拘束具を一瞥すると、冷子に視線を戻した。
「ホールに行く途中にここを通り、いろいろな資料を見ました……。孤児を集めていたのは、人妖化する実験のためだったんですね」
「そうよ。貴女には想像もつかないでしょうけれど、世の中には存在を望まれていない子供達が結構いるの。そういう子達は実験の失敗で死んでも誰も気がつかない、便利な存在だったわ」
「なぜそこまでして……」と、シオンが言った。
「簡単よ。前も言ったけれど、食物を必要としない人間を作りたかった、ただそれだけよ。人間は進化したけれど、生きるためには食事が必要であり、活動の大部分も食糧を得るために割かなければならない現状は、まだ動物としての枷が外れていない。では、もし人間が食物を摂取しなくても活動ができるようになったらどうなるか。動物が最も恐れる飢えが無くなり、食物を得るための活動を別のことに振り分けることができる。動物の枷から解放された人間は、知識のみを追求するより高次の存在になれる……と、研究をスタートさせた人間達は考えた。貴女が生まれるずっと前から、この実験は続いているの。各国が表の関係とは無関係に、人妖に関しては秘密裏に手を組んだり裏切ったりしながら、様々な実験を繰り返していた。やがて、異性の人間からであれば、粘膜接触で養分を吸収できる人妖の開発に成功した。私や、涼がそうね。彼はもういないけれど……」
「あなたも、元は人間だったんですか……?」
「馬鹿言わないでよ」と言いながら、冷子は苛立ったようにサイドの髪を後ろに梳いた。「私や涼は、試験管の中で人口受精させたばかりの卵細胞を遺伝子操作して、代理母に戻して造られたオリジナルの人妖……。人妖としての能力の他に、容姿や頭脳も遺伝子操作の際にイジられる。当時の最終目標のひとつである、人間から人妖に改造する手段を確立させたのも、研究を乗っ取った私たち人妖達よ。上の階で暴れている蓮斗みたいに、意図的に失敗させることもできるけれど」
「乗っ取った……?」と、シオンは息を飲みながら聞いた。
 冷子が言った。「人妖を生み出すことに成功した少し後、人間同士で内紛が起きたのよ。人妖には人間と同じく自我があるし、遺伝子操作で身体能力や知能指数が高く、おまけに異性の人間さえいれば食事の必要は無い。もし人妖達が自分達に牙を剥いたら勝ち目は無い。そうなる前に、人妖達は全員廃棄して研究を止めるべきだという意見が出始めた。自分達はとんでもない怪物を生み出してしまったのかもしれないと恐れたのね……。もちろん、人妖を兵器や労働力として研究していた組織は人妖の破棄に猛反発し、研究方針をめぐる争いは各地に飛び火して収集がつかなくなった。それと同時に、人妖研究に多大な援助をしていた最大手のパトロンからの資金が突然ストップしたことも、混乱に拍車をかけた。そして、多くの研究機関が自滅したり解散したりしているうちに、多くの人妖が研究所から逃げ出した……。私もその時に逃げたわ。勝手に造られて、研究所の人間から養分提供だとか言いながら犯されて、都合が悪くなったら殺されそうになるなんて……我ながら随分と酷い人生だったと思うわ」
 突然冷子の左腕が伸びてシオンの身体に巻き付いた。シオンを自分の身体に引きつけると、額が触れ合うほど顔を近づけながら言った。
「言っておくけれど、同情なんかするんじゃないわよ? 同情というのは関係の無い人間が自己満足のためにするもの……貴女、まだ自分が全く関係無いとでも思っているんでしょう? なんで私達が研究を乗っ取ることが出来たのか、まだ言っていなかったわよね?」
 冷子が聞いたことがないような低い声で言った。シオンは、初めて冷子の本当の声を聞いた気がした。
「人妖の研究には莫大な資金が必要なの……。ねぇ? わかるでしょう? 世界的製薬会社『アスクレピオス』の創業家、ラスプーチナ家のお嬢さん? 成果の出ていない段階の研究には、優秀なパトロンが必要不可欠なの。貴女の家は代々、人妖研究に莫大な資金を投じてきた。もちろん、研究が結実すればその何倍もの利益が返ってくることを見越してね。十数年ほど前、『アスクレピオス』総帥の貴女のお父様が突然死して、一時的に融資が途絶えた。でも数年前に突然、貴女の家は融資を再開した。私達はその混乱したタイミングで、頭の悪い人間に取って代わって過去の研究を引き継ぎ、研究途中だった人間を人妖化する方法を確立した。人間達の研究を紐解くだけで、方法の確立に大して時間がかからなかったわ。そして我々に敵対するアンチレジストにも、ラスプーチナ家はかなり融資をしている。まるで死の商人みたいね? 一方では人妖研究を進めさせ、もう一方では人妖討伐機関を運営しているんだから。どちらに転んでも、貴女の家は更なる富と名声を手に入れられる」
 シオンの頭にジリッとした痛みが走った。脳裏に、ハッキングして手に入れたアンチレジストの受取金リストが浮かぶ。確かに自分の生家の名前がトップに記載されていた。冷子はシオンの身体を物のように投げ捨て、シオンはしたたかに背中を壁に打ち付けた。
「……私の家が人妖研究に絡んでいることは知っています」と、シオンが痛みに耐えながら言った。「夏以来、アンチレジストに不信感を抱いた私は色々と調べました。その際に、ラスプーチナ家の投資案件リストも偶然手に入りました。人妖研究と、アチレジストにかなりの額を投資していることも……」
「なら話が早いわ……。責任を取って、貴女もこちら側に来なさい。嬲り倒して瀕死にしてから、人妖に改造してあげる。貴女はとびきり綺麗な人妖になるわよ?」
「それは私の責任の取り方ではありません」と、シオンが静かに首を振った。「他の人を犠牲にしなければ成り立たない存在には、私はなりたくはありません。廃人のようになってしまった人妖事件の被害者の姿を何人も見てきました。私の生家が人妖研究に関わっているのなら、私の手でそれを終わらせます。人妖を捕獲し、人間に戻す方法を探すのが私の責任の取り方です。人助けになればと始めたアンチレジストの活動ですが、思えば最初から神様が導いてくださったのかもしれません。贖罪なのか、試練なのか……」
「……いつまでも自分だけは、正義の味方でいられるなんて思わないことね」
 冷子の左腕が別の生き物のように伸びた。先端がソフトボールほどの大きさに膨らんだ触手が、シオンを目掛けて矢のように飛んだ。シオンは直前で回避し、背後の壁が大きく陥没する。冷子のもう一本の腕も触手化し、シオンを追うように伸びる。シオンは壁に向かって走り、触手が背中に触れる直前、壁を蹴って後方に宙返りして自分を追い越した触手に真上から膝を落とした。床とシオンの膝に挟まれた触手は、灰褐色から一瞬冷子の肌の色に戻る。冷子が舌打ちする音が聞こえた。その間にシオンは冷子との一気に距離を詰めた。体勢を低くしたまま走り、振り下ろされる鞭のような触手を躱しながら十分に近づくと、そのまま独楽のように回転して冷子に足払いをかける。冷子がバランスを崩すと同時に、シオンは冷子の頭と腰を抱えて右膝を冷子の腹に突き込んだ。
「ゔぶぇッ?!」
 冷子は濁った悲鳴をあげながら前屈みの体勢になる。シオンは冷子の身体から手を離さず、反動を利用して冷子の身体を持ち上げた。冷子の身体がフッと宙に浮く。シオンはそのまま裏投げの要領で後方に投げ、冷子の背中を地面に叩きつけた。
「ぐえぁッ?! ぐ……ぎ……ぎいぃぃぃぃぃッ!」
 冷子は歯を食いしばったまま、両腕の触手をロープの様にしてシオンの身体を抱きすくめた。シオンが冷子に覆いかぶさったまま抱き抱えられるような格好になり、お互いの鼻が触れそうな距離で身体が密着する。
「まともに戦えば強いじゃないの……顔を狙わないところにまだ甘さがあるけれど」と、冷子が苦痛に顔を歪めたまま言った。そのまま触手を解こうと踠(もが)ているシオンに自分の顔をぐいと近づけ、強引にシオンの唇を吸う。
「んぅッ?!」
 突然の感触にシオンは目を見開いた。冷子は触手でシオンの後頭部を押さえつけると、シオンの舌を強引に吸い、混ざり合った唾液と自分の舌をシオンの口内に押し込んだ。
「ぐぷっ……?! んむぅッ!」
 シオンと冷子の唇の間から、混ざり合った唾液が溢れる。不意に、シオンの背中をぞくりと寒気が駆け上がった。自分の口が徐々に大きく開いている。冷子の舌だ。自分の口内に侵入している冷子の舌が肥大化している。突然、ずりゅ……と冷子の舌が伸び、シオンの喉奥まで冷子の舌が突き込まれた。
「んぐぅッ?!」
 シオンは強引に触手を振り解き、冷子から離れた。激しくむせるシオンを眺めながら、冷子は人形のようにゆっくりと上体を起こす。灰色に触手化した五十センチほど舌が、冷子の口からブラブラと垂れ下がっている。あのまま突き込まれていたら窒息していたかもしれない。
「ひふははひれへらっはろ?(キスは初めてだったの?)」と、バケモノのような形相になった冷子が首を傾げながら言った。ぢゅるりと音を立てて、ゴムが収縮するように舌が冷子の口内に収まる。「残念だわ。もう少し味わっていたかったのに……」
「舌まで触手化できるなんて……」と言いながら、シオンが汗で貼りついた前髪を直した。「でも……無敵という訳ではないみたいですね」
「……どういう意味?」
 冷子は触手を飛ばした。シオンは屈んで回避し、次の攻撃に備える。もう一本の触手が自分目掛けて伸びてきた。これを待っていた。シオンはサイドステップで回避しながら、小脇ににかかえるようにして触手を掴む。シオンは抱えた触手目掛けて、「ふッ!」と気合を入れながら渾身の力で膝を蹴り上げた。ぐにゃりと変形した触手の色が、一瞬だけ灰褐色から肌色に戻る。シオンはその肌色の部分を目掛けて肘を落とした。
「がぁッ!」と、冷子が悲鳴をあげた。
「さっき気がつきました……。強い衝撃を受けると、その部分だけ触手化が一瞬解除されるみたいですね」
 シオンが蹴り上げた肌色の部分は確かに骨の感触があり、シオンの膝にはそれが折れる感触が伝わった。触手は逃げ帰るように冷子の右腕の形に戻る。折れた部分が真っ赤に腫れていていた。すかさず冷子は左手で右肩を掴む。
「また新しい腕を生やしますか?」と、シオンは冷子に向かって走りながら言った。「生えるまでの時間は、あなたにはありません」
 シオンは高く跳躍し、前方に宙返りした。何が来る? 得意の踵落としか? 冷子が身構える。腕を捥ぐのが先か? 攻撃を受けるのが先か? 攻撃を受けるのが先だ。避ける時間は無い。冷子は無事な左手を頭上に上げた。振り下ろされる踵を受けて、シオンがバランスを崩したところで反撃する。おそらく左腕も折れるだろうが、頭に食らったら確実に失神する。シオンの背中。エプロンを止めている腰のリボン。黒く短いスカートから伸びる太もも。エナメルの靴が振り下ろされる直前に、シオンと一瞬目が合った。
 衝撃。
「がぁッ!?」と、冷子が叫んだ。
 右肩?
 頭を狙うシオンの右足はフェイントで、シオンの左足が冷子の右肩に振り下ろされた。防ぐことができず、無防備な右肩の骨が砕ける音が聞こえた。冷子の頭上で、シオンが長く息を吸った。何だ? 次は何をする気だ? いつの間にか、シオンの右足が冷子の左肩に乗っている。逆向きの肩車のような体勢だ。シオンが冷子の頭を両手で押さえる。シルクの手袋の感触。シオンはそのままの体勢で、冷子の頭を太腿で強く挟んだ。まずい! 冷子がもがく。シオンはふっと息を鋭く吐くと、冷子の頭を挟んだままバク転するように後方に回転した。冷子の視界が回転し、頭が引っこ抜かれるように地面に吸い込まれ、激しい衝撃が冷子の脳天を叩いた。
「……終わりです」
 シオンが正座のような体勢で、肩で息をしながら言った。太腿の間の冷子の顔は、目を見開いたままだった。


 上階からは、重いものを床に叩きつけるような音が断続的に響いてくる。美樹と蓮斗の戦闘はまだ続いているのだろう。ひび割れた天井からは破片が断続的に降り落ちてくる。そのうち全体が崩落するのではないかと、シオンはわずかに不安になった。冷子を拘束してからオペレーターに回収の依頼をして、自分はできるだけ早く美樹の応援に行かねばならない。
 シオンは太腿の間にある、虚な目をした冷子から視線を外し、ゆっくりと前を向いた。
 瞬間、息を飲んだ。
 状況が理解できなかった。
 冷子が変わらない姿勢のまま立っている。
 頭は?
 確かに私の下にあるのに……?
 冷子の首の部分が灰色の細長いホースのように伸びて、シオンの肩越しに股の間の頭と繋がっている。冷子の身体が、早回しのビデオ映像のようにブルルッと震えた。途端に、タイトスカートから覗く脚や胸元の肌が灰色に変色する。ぞわりとした悪寒がシオンの背中に走った。咄嗟に視線を落とし、股の間の冷子の顔を見る。すでに顔全体がナメクジのようなマダラな灰色に変色していた。次の瞬間、巣穴に逃げむ海蛇のように、冷子の顔は一瞬でシオンの尻の下に引っ込んだ。冷子の頭は伸び切ったゴムが戻るように身体の方に吸い込まれていき、粘度の高い水面に投げ込まれた石のように「どぷん」と肩の間に沈んで見えなくなった。
 まずい。
 シオンが危機を察知して立ち上がろうとした瞬間、冷子のシャツを突き破って触手の群れがぞるるっと湧き出た。
「ひっ!? きゃああッ!」
 蛇の大群のような触手が、無茶苦茶な動きでシオンに襲いかかった。冷子の身体は跡形もなく崩壊して、主人を失ったスーツだけがボロ切れのように床に残されている。触手の塊は粘液を撒き散らしながらシオンの腕や足に絡みつきながら、ものすごい力でシオンを壁に叩きつけた。
「あぐッ?! な……なんですかこれ……?」
 両手足に絡みついている触手を見ながらシオンが言った。右脚を締め付けている触手の一部がカタツムリの目のように伸びて、シオンの顔の前で先端が膨らんだ。先端は徐々に卵形の球体になると、次第に冷子の顔の形になった。しかし形を保っているのが難しいらしく、目や鼻の形が泥のように流動的で定まらない。
「これだけは……使いたくなかったのよ……」と、冷子の顔のようなモノが言った。粘液の湖に湧き出る泡のような酷く不明瞭な声だった。「こうなると、元の姿に戻るのが大変なの。人体というのは不思議なものでね、自分の身体のことを自分以上にとてもよくわかっている。脳の記憶以上に、身体の記憶というのはとても強いのよ。だから、腕や脚みたいな身体の末端を触手化しただけだったら、その部分は脳が意識せずともすぐに元に戻る。身体の記憶を辿ってね。でも、元の身体が『コレ』だったらどうなると思う? 身体の記憶が書き換えられ、いくら脳が人間の姿を記憶していても、身体のほうが拒否してしまう。お前の元の身体は人間ではなく『コレ』だ、とね……」
 触手が寄り集まり、ボディビルダーの腕のような太さになった。シオンの瞳に怯えの色が浮かぶと同時に、撞木が鐘を突くようにシオンの腹部に突き刺さった。
「ゔっぶぅッ?! が……ごおぉぉぉぉッ!!」
 あまりの威力に胃液がこみ上げ、温かい液体がシオンの喉を逆流して床に落ちた。
 腕はさらに何本も増え、ガトリングガンの様にシオンの剥き出しの腹に埋まった。複数の極太な触手による一撃一撃が強烈なボディーブローを高速で喰らい、シオンの腹部が餅のように歪に潰れる。
「がぶッ!? ぐぇあッ!? おぼッ! ぶぐッ?! ごぇッ!」
 シオンの身体はガクガクと痙攣し、一瞬攻撃が止んだと思いきや鳩尾に強烈な一撃が突き刺さった。
「ゔっぶ!?」
 磔の状態になっているシオンは当然防御などできるはずもなく、電気ショックを受けたように身体が跳ねた。同時に触手の拘束が解かれ、シオンの身体は投げ捨てられたマリオネットのように床に崩れ落ちた。
「がっ……! ゔッ……ごぇっ……」
 シオンは海老のように身体を縮こませ、内臓からこみ上げてくる苦痛の波に耐えた。歯を食いしばってなんとか顔を上げると、霞んだ視線の先に、猫の死骸に集まった蛆虫のように蠢く触手が見えた。徐々に触手は境目を無くしてスライム状になると、床を這うようにシオンに接近した。スライムはそのままシオンの身体を飲み込む。温かい粘液のプールに溺れているような状態になり、シオンは一瞬天地がわからなくなった。息をすることもできず、顔から血の気がひいてくるのがわかる。
「このまま窒息させてもいいけれど……少し話をしましょうか?」と、不明瞭な冷子の声が聞こえた。直後、スライムはシオンを取り込んだまま移動し、シオンの背中を再び壁に叩きつけた。顔周辺の粘液が引くと同時にシオンは激しく咳き込む。
「私がまだアナスタシアに保健医として勤めている頃、よく男子学生と話をしたわ。養分補給のための相手だったけれど、みんな良い子だった……。でも、話を聞いてみると、全員が貴女のことが好きだった。酷いと思わない? 私を抱いた後にもかかわらず、貴女に対する好意や憧れを私に話すのよ? 如月会長は高嶺の花だとか別世界の存在だとか……私達人妖は完璧な存在として造られたはずなのに、なんで不完全な人間の貴女の方が私よりも優れていると皆思うの? 悔しくて悔しくて仕方がなかったわ」
 溶けたような灰色の顔がシオンに言った。表情は読み取れない。シオンは灰色の顔から目を逸らさず、黙って話の続きを待った。
「……それに私達試験管で造られた人妖の性器は、養分補給とチャームや老廃物を排出することのみを目的とした器官に作り替えられているから、生殖能力を持っていないの……。ねぇ、わかる? 私は涼が好きだったし、彼の子供が欲しかった。でも、彼が生きていようと死んでいようと、その願いが叶うことはない……。彼にも私にも生殖能力は無いのだから。貴女はいいわね、子供が産める身体で……」
 細い触手が、シオンの鳩尾から下腹部までをなぞった。冷子の背後で、天井の大きな石膏ボードが落下した。
「なぜ……なぜ私達が、人間が勝手に掲げた完璧な人間を作るなどという身勝手な目標のためにこんな出来損ないの身体で造られて、貴女みたいなただの人間が……私達以上に完璧だって思われるのよ!」
「完璧な人間なんて存在しません」と、シオンは言った。緑色の瞳で、灰色の泥のような冷子の眼窩らしい二つのくぼみを真っ直ぐに見つめている。「人は全員、なにかを抱えながら生きているんです。とても重い、その人にしか見えない荷物を背負って、歯を食いしばって坂を登っているんです。生まれながら完璧な存在なんて──」
 シオンの身体に巻き付いていた触手が一瞬で解け、そのままシオンの首に巻き付いた。
「がッ?! あがッ?!」
 シオンの両足が完全に浮き、絞首刑のように首に全体重がかかる。シオンは両手で首に巻き付いている触手を掴むが、密着した触手は全く解ける様子がない。
「自分への言い訳のつもり? ねぇ……知っているのよ? 貴女のお父様……ラスプーチナ家の当主を殺したのは、貴女なんでしょう?」
 ジリッ、とシオンの頭に痛みが走った。
「な……? な……にを……?」
 シオンは微かに首を振る。
「忘れたの? 全部調べたのよ。不幸な事故だったらしいわね? 国際的製薬グループの総帥として、世界中を飛び回っていた貴女のお父様が久し振りに家に帰ってきた。家族と使用人へのお土産をたくさん抱えてね。子供の貴女は喜んで、勢いよく階段の踊り場にいたお父様に抱きついた。そして、お父様は階段から落ちてしまった……。お父様は自分の身体をクッションにして貴女を守ったけれど、打ち所が悪くて命を落とした。そして、貴女は無傷で生き残った。表向きは一人で階段を踏み外したことによる事故ということになっているけれど、ロシアにいる私達の仲間が当時の関係者から聞き出したのよ。父親殺しとはまた、随分と重い荷物だこと」
「ち……がっ……」
 気道を塞がれているため、シオンは声を出すことができない。
「その様子だと、本当に覚えていないのかしら? 目の動きで嘘をついていないとわかるわ。優秀な割には、随分と都合のいい頭をしているわね?」と言いながら、冷子はシオンの首を締める力を強めた。「でもね、この状況を作ったのは全部貴女のせいなのよ? さっきも話したけれど、貴女がお父様を殺してくれたおかげで、人妖研究最大のパトロン、ラスプーチナ家からの融資が一時的にストップした。内紛が起こっていた各国の人妖研究機関は混乱を極め、融資再開と同時に私達人妖が研究の主導権を握ることができた。貴女には感謝するべきでしょうね? 我々人妖に多大な貢献をしてくれた一族の長女様だもの。その立場で人妖退治なんて笑わせるわ。メイドだとか奉仕だとか博愛だとか、気持ち悪い愛想を振りまいているのは無意識な罪滅ぼしのため? 貴女を好きだった人達が貴女の正体を知ったら、どんな顔をするかしらね?」
「く……あ……ぁ……」
 シオンは涙を流しながら、歯を食いしばって小さく首を振る。シオンの思考はすでにマッチ箱のように小さくなり、視界には明るいモヤがかかりはじめた。冷子の声は聞こえているが、頭の中で言葉と意味が結びつかない。言葉はシュレッダーにかけられたようにバラバラの断片になり、ノイズの洪水となってシオンの頭の中を満たした。
 かくん……とシオンの身体から力が抜けた。
 両手はだらりと床に伸び、目は半開きになったまま光が消えている。口はだらしなく開けたまま、唾液と涙が頬を伝って喉から胸へと垂れた。
「あ……く……くふぅっ……」
 シオンが肺の中の残りの空気を全て吐き出した。
「くふっ……くふ……くふふふふふふふふ……」
 突然、シオンの右手が別の生き物の様に自分の頭に伸びた。ヘッドドレスを毟るように掴み取ると、獲物に襲い掛かる蛇のような速さで冷子の顔に突き刺した。油断していた冷子が悲鳴をあげる。ヘッドドレスの中に仕込まれていた細長い棒状の金属が、冷子の左の眼窩だった部分に突き刺さっている。冷子の顔全体が、左目を中心に肌色に変色した。シオンの両手が冷子の顔を掴む。直後、ぐしゃり……と音がして、冷子の顔面にシオンの膝がめり込んだ。


「キリがないな……」と、美樹がポツリと言った。額や口の端が切れ、白衣(びゃくえ)には赤い花弁の様に血の赤が点々と落ちている。
 美樹は片手で調度品の燭台を三叉槍のように持ちながら、空いた方の手でポケットを探った。そして、ジッポーとタバコを久留美に預けたことを思い出して溜息をついた。
 体力の消耗は激しかった。
 美樹が切断しても切断しても蓮斗の触手は何回も生え変わった。燭台の先端は赤黒い血で濡れ、周囲には蓮斗の肉片が散らばっている。
 玄関ホール中には、蓮斗が階下から吸い上げたガソリンの匂いが充満していた。ガソリンを養分にすることはかなりの負担らしく、蓮斗は定期的に身悶えするように苦しみ、油の匂いのする吐瀉物を吐き続けた。蓮斗の身体は膨張を続け、もはや触手が不規則に生えた卵形の肉塊になっていた。目や口は完全に埋没し、血管が透けて見える灰色のぶよぶよとした肉の塊は、悪い夢に出てくる異世界の怪物を思わせた。
「……死ねないのか?」と、美樹は言った。おそらく再生能力が暴走し、無秩序に新陳代謝を繰り返しているのだろう。
 美樹が燭台を握り直し、再び蓮斗に襲い掛かった。蓮斗は悲鳴をあげ、削げて床に落ちた肉が嫌な匂いを放った。衣服に仕込んでいる釵(さい)や小刀も突き刺すが、ダメージはあるもののすぐさま回復して死ぬ様子はない。疲労から美樹の気が緩んだ瞬間、触手が美樹の胴体に巻きついた。そのまま野球ボールのように投げられ、壁に叩きつけられる。背骨が軋み、身体中の空気が強制的に吐き出された。
「かは……ッ!」
 壁からずり落ち、床にうつ伏せに倒れた。視界の隅に映り込んだドアからは、相変わらず雪が吹き込んでいる。音や痛みといった感覚は、自分の身体ではないように遠く感じた。
 ふと、シオンは大丈夫だろうかと思った。実力でいえば、シオンは間違いなくアンチレジストのトップだ。仮想敵とのトレーニングでは、難易度が最高レベルの相手でも難なく倒してしまう。しかもその明晰な頭脳で、敵の弱点把握と、どこをどう攻めれば効果的にダメージを与えられるかを瞬時に把握する才能も備えている。しかし持ち前の優しい性格から、敵に対しても無意識に手加減してしまう癖があった。弱点や、効果的にダメージを与える方法を瞬時に把握できるからこそ、その才能を逆に使い、あえてそこを攻めずに相手にとって最も苦痛の無い方法で攻撃するスタイルになっている。顔面を攻撃することもほとんど無い。そのため、時として攻撃は決め手を欠き、思わぬ苦戦を強いられることも多かった。冷子が階下に降りてから、どれくらいの時間が経ったのだろう。いつもの癖で手加減をして、窮地に立っていなければいいのだが。
 触手が伸びて、美樹の首と胴体に巻き付いた。そのまま足が床から離れるほどの高さに持ち上げられると、今度は床に叩きつけられた。もう痛みは感じない。再び持ち上げられると、蓮斗の顔が、縦に割れたザクロの様に大きく開いた。褐色の粘膜の中に、人間の歯が無数に生えている。無理やり口を開けているせいで、蓮斗のどこかの骨がパキパキと音を立てた。食べる気か……と美樹は思った。身体はまともに動きそうもない。
「……まぁいい。食え」
 美樹は微かに笑いながら、燭台を床に捨てた。
「お前は私だ、蓮斗。私も少し道を間違えていたら、お前みたいになっていたのかもしれない。私が全てを恨んで、お前みたいな化物にならなかったのは、無数にある未来の可能性のひとつに過ぎない。施設に入って今の親に拾われていなければ、どうせ子供の頃に死んでいたか、お前みたいになっていただろう。誰にも望まれずに生まれた私には、最初から何も無いのだから……」
「そんなことありません!」
 不意に大声が聞こえ、美樹は雪が吹き込んでいるドアに視線を移した。桃色の髪の毛に、白いリボンが見える。
「……久留美?」
「なんでそんな悲しいこと言うんですか! 私や、水泳部や学院のみんなが、どれほど先輩に憧れているのか、なんでわからないんですか! 見た目は少し怖いですけれど、悩みにも親身に相談に乗ってくれて、いつも助けてくれて、すごく格好良くて……そんな先輩が好きだって、私さっき言ったのに、もう忘れちゃったんですか!?」
 久留美は目を瞑って叫ぶと、美樹の元に走った。ドアの外には、思い詰めたような顔をしたシオンの運転手、山岡の姿が見えた。蓮斗が久留美の方を向く。触手の何本かが、久留美に向かって伸びた。
「やめろ!」
 美樹が叫んだ。胴体に巻き付いた触手は緩む気配はない。美樹は本能的に右腕に嵌っている金属製の手甲を外した。
「うおぉぉぉぉ!!」
 美樹は絶叫し、渾身の力で手甲を蓮斗の口内に投げつけた。
 突如体内に侵入した異物に蓮斗が怯む。拘束が緩んだ隙に美樹は触手から抜け出し、久留美の元に走った。
「馬鹿! なぜ戻ってきたんだ!?」
「ごめんなさい……これを見ていたら、もう先輩と会えない気がして……山岡さんに無理を言って……」
 久留美が震える手で、美樹のショートホープとジッポーライターを差し出した。美樹は何回かタバコと久留美の顔を見た後に、そうか、と言って久留美の頭をくしゃっと撫で、タバコとライターを受け取った。美樹の背後から、蓮斗がゆっくりと近づいてくる。
「……走れるか?」と、美樹は蓮斗に背中を向けたまま言った。
「大丈夫です。見た目よりも体力があること、先輩も知ってますよね?」
 久留美が小さくガッツポーズを作った。美樹が微かに笑いながら頷く。
「よし、行くぞ」
 美樹は久留美の手を引きながら、アーチ状の階段を駆け上がった。蓮斗の触手を躱しながら、吹き抜けの二階部分へと移動する。美樹と久留美はバルコニーから階下の蓮斗を見下ろした。
「先輩……いったい何と戦っているんですか……?」
 久留美の身体が小刻みに震えている。落ち着いてようやく事態を把握したのか、異形の怪物に少なからずショックを受けてるようだ。
「蓮斗だ。信じられんと思うが……」
「……えっ? あれが……蓮斗さん?」
 久留美が両手で口を覆った。
「詳細は省くが、奴はもう元には戻れない……。気の毒だとは思うが、楽にしてやろう」
 久留美が美樹を見上げながら、不安げな表情で頷いた。キィンという鋭い金属音を立てて、美樹は片手で器用にジッポーに火をつけた。ショートホープを口に咥え、火を灯す。長い時間をかけて吸い込み、天井に向けて煙を吐いた。久留美はそれを、いつまでも見つめていたいと思った。
「合図をしたら、すぐに私に掴まれ」と、美樹が言った。
 蓮斗がバルコニーの二人に向かって、ゆっくりと触手を伸ばしはじめた。
 美樹が紫煙を長く吐きながら、火のついたタバコを人差し指と中指で弾いた。タバコはまるで意志の強い蛍のように、赤い残像を残して蓮斗に向かってまっすぐ降りていった。
「掴まれ!」
 美樹が言うと同時に、低い着火音が響いた。
 蓮斗から滲み出たガソリンにタバコの火が引火し、火柱が天井に向かって伸びる。
 久留美は夢中で美樹の胸に飛び込んだ。美樹はそのまま久留美を抱き抱え、背後の窓を破って屋外に飛んだ。
 池の底から響くような蓮斗の悲鳴がホールに反響する。
 美樹が久留美を庇ったまま、屋外の地面に背中から落下した。分厚く積もった雪がクッションになり、思ったほど衝撃は強くなかった。
 建物内部は真っ赤に燃え上がり、ステンドグラスが割れて蓮斗の悲鳴が外まで響いてきた。美樹と久留美は炎に照らされたまま、しばし茫然とその光景を眺めていた。蓮斗の悲鳴は徐々に小さくなり、やがて炎が建物を舐める音だけが残った。
「……あれ? 山岡さんは?」と、言いながら久留美が周囲を見回した。どこかに避難したのか、姿が見えない。火はホールの天井に燃え移り、太い梁が燃える音が聞こえてきた。
 美樹はハッと気がついた。シオンがまだ中にいる。建物が崩れる前に連れ出さないと危ない。美樹は久留美にすぐに戻ると言いながら、燃え盛る建物の中に入った。

 シオンの落ちた穴周辺の炎は薄く、美樹は迷うことなく飛び込んだ。階下まで炎が回っていないのは幸いだった。レトロな作りの上物に比べて、穴の真下の部屋は遺棄された広い手術室のような作りで、不気味に静まり返っていた。
「……なんだ、これは?」
 着地した瞬間、美樹は目の前の光景に戸惑い、そのままの姿勢で静止した。
 リノリウムの床に、灰色の内臓のようなものがぶちまけられている。それはぬらぬらと光って、今まさに動物から引きづり出したかのように新しかった。
 美樹は注意しながら近づくと、それは内臓ではなく、触手の塊だった。死んでいるのだろうか、ぴくりとも動かない。所々が肌色に変色していて、その部分だけ人間の皮膚のような質感になっていた。
 肌色の部分は、例外なく硬いものがぶつかったような跡があり、折れたり曲がったりしていた。中から骨が飛び出している箇所もあった。先端が人の頭ほどの大きさに膨らんでいる部分は特に損傷が酷かった。それは、なにか硬いものを何回もぶつけられたように全体がボコボコと窪んで、元の形がわからなくなるほど酷く歪な形をしていた。人の顔のようにも見えたが、崩れ過ぎていて確証が持てない。
 肉塊のそばにハンカチほどの大きさの白い布が落ちていたので、美樹はそれを拾い上げた。上質なシルクで、細かいフリルと織り模様が施されている。
 シオンのヘッドドレスだった。
「まさか、これは……冷子か?」
 美樹が触手の塊を見ながら、呟くように言った。いや、おかしい。損傷が激しすぎる。シオンと闘っていたはずだが、シオンがこれほどえげつない攻撃をするはずが無い。
 直後、天井が崩れる音が聞こえた。
 美樹はヘッドドレスをスカートのポケットにしまい、落ちてきた穴を通って地上に急いだ。ホールには動かなくなった蓮斗がいた。炎は勢いが止まらず、中心の蓮斗は焦げた泥団子のように見えた。火が回った床の一部が崩れ、先ほどまで美樹がいた部屋の真上の床が崩落した。地下の触手の塊も炎に包まれたことだろう。炎は天井にも延焼し、建物全体がいつ崩れてもおかしくない状況だ。
 建物を出ると、美樹は久留美の手を引いて、自分のバイクが止めてある門まで急いだ。
「寒いと思うが、少し我慢してくれ」と、言いながら美樹はバイクに掛けてあった自分のライダースジャケットを久留美に着せた。
 久留美はバイクに跨った美樹の後ろに座り、しっかりと美樹の腰に腕を回した。バイクのエンジンが低音の唸りを上げる。美樹は久留美にヘルメットを被せると、雪煙を巻き上げながらバイクを走らせた。


 長い金髪が吹雪に踊っている。
 レクサスの後部座席のドアに手をかけながら、山岡が腰を九十度に曲げて待機している。
「……お待ちしておりました」
 山岡が言った。その声は寒さと緊張で微かに震えている。
「ノイズ・ラスプーチナ様……」
 山岡がタイミングを見計らって後部座席を開け、客人が乗り込むのと確認すると、細心の注意を払いながら静かにドアを閉めた。自分も素早く運転席に乗り込む。
「……実際にお会いするのは、初めてかしら?」
 運転席の座席を足先でなぞられている感触があり、山岡の背中がぞくりと粟立った。震える手でギアを入れ、アクセルを吹かす。
「行き先は……そうね──」
 氷の上を流れる冷気のような声だった。
 かしこまりました、と山岡は絞り出すように言った。背後で孤児院の建物が崩れ落ちる音が聞こえた。


 モスクワからの飛行機は、定刻を少し遅れて成田空港に到着した。
 ビジネスクラスの優先対応を受けながら、ゴシックアンドロリータのワンピースを着た少女がゲートを通過した。つまらなそうにチュッパチャプスをコロコロと咥えながら、黒いスカートのポケットに両手を突っ込み、ジト目で周囲を見回しながら歩いている。厚底の靴を履いているが背は低く、まだ子供と言っても差し支えない雰囲気だ。
「……国は狭いのに、空港は大きいのね」と、少女はロシア語で呟いた。
 赤いリボンでツーサイドアップに結ったプラチナブロンドの髪が歩くたびに揺れ、エメラルドグリーンの瞳は強気な印象を放っている。その目立つ姿に、すれ違う乗客の多くが振り返っている。上から下まで西洋人形のような完璧な格好だが、なぜか片方のリボンだけがやけに古ぼけていた。
「待っててね……お姉様」
 少女は自分にしか聞こえない声で囁くと、タクシー乗り場に向かって足を速めた。

DL発売に向けて、推敲を進めております。
イラストも完成しているため、今月末から来月上旬の登録を目指しますので、興味があればよろしくお願いいたします。



 強い北風が激しいノックのように窓を打っていた。
 窓には板が打ち付けているため、蓮斗の部屋は日光が入らず常に薄暗い。どこで買い集めてきたのか、状態の良いアンティークの調度品が所狭しと置かれている。
 天井からは様々な形の小さなランプが何個も吊り下がり、棚にはビンテージのマイセンや、真鍮でできた動物の置物がきちんとバランスを考えて飾られていた。
 暖炉にくべられた木がパチリと爆ぜる。蓮斗とテーブルを挟んで座る冷子が耳にかかった髪を直した。
 蓮斗は咳払いをすると、小さなビニールパックから微かにピンク色がかった細かい結晶を取り出して、スプーンの上に載せた。滅菌袋を破って注射器を取り出し、テーブルの上の生理食塩水を慎重に吸い上げる。スプーンの上の結晶に垂らすと、結晶は数秒で溶けた。
 蓮斗の喉がごくりと鳴る。
 一滴も残らないようにスプーンの中の液体を吸いあげ、左腕の静脈に慎重に突き刺した。部屋中に病的なまでに設置された多数のキャンドルに照らされ、蓮斗の顔には濃い陰影が浮かんでいる。血管を圧迫していないため、注射器内に血液が勢いよく逆流した。蓮斗は落ち着いて自分の血液と混ざり合い、どす黒く変色した液体を静脈へ押し込んだ。
 注射器を抜いた蓮斗が天井を向いて、止めていた息を一気に吐き出すと、冷子が呆れた様に声をかけた。
「何度見ても分からないわ。そんなモノのどこがいいのか」
「こんなモノでしか手に入らない快楽もあるんですよ……」と、言いながら蓮斗は椅子の背もたれに深く身体を預けた。
「快楽ねぇ……ねぇ、あなた達って何でそんなに快楽を求めるの? 快楽なんて、たかが脳内物質の一時的な増加に過ぎないのに。あなたみたいに薬に頼ってまで快楽を求める人間達を見ると、真性のマゾヒストなんじゃないかって本気で疑うわ」
「僕たち人間はコンプレックスの塊なんですよ。人間は生物学的に見れば、この地球上で最も弱い部類の生き物です。生身で本気でやり合ったとしたら、ペットの犬にすら勝てないんじゃないかな。薬や酒による快楽はそのコンプレックスを一時的に忘れさせてくれるし、現実的にそのコンプレックスを少しでも埋めるためには、必要以上に『所有』が必要なんです。服とか金とか、毛皮や牙の替わりにね」
「ふぅん」
 興味が無さそうに冷子が立ち上がる。事実全く興味が無いのだろう。蓮斗は薬が効いてきたのか、焦点の定まらない目を天井に向けて、ぶつぶつとなにかを呟いていた。
「ところで、 鷹宮美樹は本当に来るんでしょうね? あなたの面倒くさい作戦に乗ってやっているんだから、ヘマは許さないわよ。こっちは早急に事を運んで、邪魔なアンチレジストを潰したいんだから。鷹宮美樹を捕まえて、拷問でも何でもしてアジトの場所を吐かせて乗り込む。そしてトップの正体を突き止めて処分する。涼の仇を取る為にね。トップさえいなくなれば、後は烏合の衆よ。残った戦闘員や職員は一人ずつ殺せばいい」
 蓮斗は開いた口から垂れている涎を手の甲で拭うと、テーブルの上のコーラを一息に飲んだ。
「その点は抜かりなく……。今朝、鷹宮神社に手紙を置いておきました。美樹ちゃんが律義な人間であれば、あと数時間で、髪の毛を逆立てて乗り込んでくるはずですよ。そのためにこんなクソッタレな薬まで使って体力を絞り出しているんです。いつだって、例えば今日死んでも悔いが無いように生きたいですからね。酷い死に方は御免ですけど」
 冷子は鼻を鳴らすと、胸ポケットから栄養ドリンクのような茶色い瓶を取り出し、蓮斗に投げて寄越した。中にはとろりとした液体が入っている。
「今日死んでも悔いが無いのなら、これをあげるわ。あなたが欲しがっていた経口摂取タイプの薬剤。飲めば数秒で特定の神経のみを壊死させる事が出来る。簡単に言えば痛みだけを消すことができる薬よ」
 蓮斗は礼を言うと、瓶をカーゴパンツのポケットに仕舞った。
 冷子はクローゼットを開けて自分の着ているジャケットを丁寧に掛けた。スカートとシャツも脱いで別のハンガーに掛け、蓮斗の頭を正面から抱く様に跨がった。冷子の「食事」の相手をするために、蓮斗は静かに目を閉じた。


 美樹は養父の軽自動車に寄り添うように停めてあるバイクに跨がり、エンジンをスタートさせた。身体の中心を震えさせる振動が心地よかった。美樹は数回スロットルを回してエンジンを吹かすと、境内裏のスロープから国道に乗り、スピードを上げた。
 市街地から郊外へ進むに連れ、明かりの数が徐々に減っていく。美樹は軽快にスピードを上げて、あらかじめ調べておいた孤児院のある丘を登り始める。幸いなことに、雪はほとんど積もっていない。美樹は右へ左へとハンドルを切りながら、蛇行する山道をスピードを上げて登り続けた。
 十五分ほど登ったところで、外界を拒絶するようにそびえる大きな門が目に入った。美樹はスピードを緩め、門の側でバイクを降りる。
 三メートルを軽く超える赤錆びた門は、威圧する様に美樹を見下ろしていた。
 鉄の一枚板で出来た門には「セラ特別児童養護施設」と掘られた緑青の浮いた銅製のプレートがはめ込まれていた。門の左右には同じ高さのレンガ造りの壁が、森の中の遥か奥まで続いている。壁は施設をぐるりと取り囲んでいるようで、終わりは闇に溶けていて見えない。
「……まるで刑務所だな」と、美樹が白い息を吐きながらつぶやいた。
 美樹はバイクを停めようと、森の中へハンドルを切った。不意に、破裂音が響いた。美樹のバイクの前輪が何かに掴まれた様に動かなくなり、勢い余って後輪が持ち上がる。美樹は慌てて体勢を立て直して、倒れない様に持ちこたえた。バイクを降りて前輪を見ると、タイヤの空気が完全に抜けている。
 美樹はスタンドを立ててバイク降りると、目を疑った。レンガ造りの壁に沿って、鉄製の剣山が敷き詰められている。剣山は壁から三メートルほどの幅で、森の奥まで絨毯のように続いていた。
 美樹はその一本に触ってみた。
 錆び付いてはいるが、針の部分は禍々しいほど鋭利で、殺傷力は十分にある。先ほど勢い余って前方に放り出されていたら、背中から串刺しになっていただろう。万が一壁を乗り越えられた際の保険だろうか。
 美樹は気持ちを切り替えて門のそばにバイクを停めると、ヘルメットを脱ぎ、ライダースジャケットをハンドルに掛けた。巫女装束に似た戦闘服の乱れを直す。門からは、あらゆるものの侵入を拒絶する確かな意志が感じられた。門の上には、壁の下に敷かれた剣山と同様の、針状の突起物が見えた。美樹はシオンの言葉を思い出した。『家庭環境や様々な事情により、精神に深い傷を持つ子供達。その中でも反社会的行動をとる恐れのある子供と、既に反社会的行動をとってしまった子供達を収容した施設』。

「そんな所にいたら寒いよ。早く中に入った方が良い」
 不意に声がかかり、美樹は反射的に後方に飛び退いて身構えた。
 門が悲鳴のような音を立てて開き、中から真っ黒い服装をした蓮斗が現れた。
「バイクの音が聞こえたからさ……また会えて嬉しいよ」
 美樹は飛びかかりたい衝動を堪えながら、無言で蓮斗との距離を詰める。蓮斗は美樹から視線を離さずに後ずさりすると、門の中へ入る様に促した。
「早く建物の中へ入ろう。その服はアンチレジストの戦闘服かい? ミニスカートの巫女装束に、インナーは競泳用水着みたいだね。美樹ちゃんらしくて良いと思うけれど、とても寒そうだ。さあ、早く中へ……」
「貴様が先に行け。後ろから不意打ちでもされたら面倒だ」
 蓮斗はやれやれとジェスチャーすると、美樹に背中を向けて歩き始めた。数メートルの距離を置いて、美樹も続いて門をくぐる。
 門の中は、殺風景な庭だった。鎖だけが垂れ下がっているブランコや、立ち枯れになった楡の樹が風雪にじっと耐えている。
 雪が地面のほぼ全てを覆い、それを切り裂くように赤茶色の煉瓦道がかろうじて顔を出している。煉瓦道の脇には等間隔にガス灯が設置され、赤味を帯びた光を雪の上に落としていた。その明かりの先に、うっすらと二階建ての建物のシルエットが浮かび上がっている。
 蓮斗は煉瓦道を慣れた様子で進んだ。美樹は蓮斗と一定の距離を保って歩く。建物の輪郭がはっきりしてくる所まで来ると、蓮斗が歩きながら美樹を振り返った。
「今はもうボロボロだけど、遺棄される前は結構立派な施設だったんだ。庭は柔らかい芝生で覆われていて、庭木も、あの楡の木の他にもたくさん生えていた。建物の屋根を見てごらん。二つの尖塔に大小の十字架があるだろう? あの十字架は昔は真っ白でね、夕方になると西日を浴びてキラキラと輝いて見えたんだ。ステンドグラスもたくさんあって、時間が過ぎるごとに光の当たり方が変わって、色味が刻々と変わって見えるんだ。とても綺麗だったよ」
 美樹は蓮斗の言葉には応えず、黙って建物を見上げた。
 荒れはじめた庭と違い、建物の方はあまり痛んではいなかった。人が住むには全く困らないだろう。
 蓮斗の言う通り、なかなかに洒落た建物だ。入り口のドアや、大きく二つ突き出た尖塔は見事なシンメトリーに配置されている。規模は比べ物にならないが、建築様式がどことなくアナスタシア聖書学院に似ていた。ダークレッドを基調とした屋根や、外壁に使われているくすんだ漆喰の色。暗めな配色のステンドグラスに、建築家独特の癖の様な物が感じられた。
「ようこそ。汚い所だけど、遠慮なくくつろいで……」
 蓮斗がテラスに上がり、真鍮のドアノブを捻りながら振り返った瞬間、美樹が背後から強烈な掌底を見舞った。蓮斗は顎をしたたかに打ちぬかれ、観音開きの扉をたたき壊すほどの勢いで建物内に転がって行った。
 美樹が注意深く中に入る。
 玄関ホールは広い。
 手入れがされていないため所々痛んではいるが、壁は上質な漆喰で、特に床材の黒檀は目を見張るものがある。今では条約で取引が制限されている希少材が、ごく当たり前に使われていた時代のものだろう。見上げるようなホールの天井からは、大きいがシンプルな装飾のシャンデリアが暖色系の明かりを四方に振りまきながら、すきま風に晒されて微かに揺れている。玄関ホールのほぼ中央から伸びている階段は、中央の踊り場で二手に別れて二階へと続くクラシックなデザインだ。
「げほっ……はは……せっかちだなぁ。本番に入る前は、まず気の効いたトークで雰囲気を盛り上げるのが常識ってものだろう?」
 美樹は階段の側でうずくまっている蓮斗に無言で近づくと、脇腹を蹴り上げた。爪先に鉄板の仕込まれた堅牢なコンバットブーツは蓮斗の腹筋を破壊し、内蔵に強烈なダメージを与える。
「ぶごっ!? ひひ……み……巫女さんとは思えない暴力……げぼっ……。大好きだよ、そういうギャップは」
 胃をやられたのか、蓮斗は粘ついたどす黒い血の塊を床に吐いた。立ち上がろうとするが、足元がおぼつかずに尻餅をつく。美樹はよろける蓮斗に近づき、胸ぐらを掴むと額が付きそうな距離で蓮斗の目を覗き込んだ。
「この程度で終わりだと思うなよ。久留美にどのような仕打ちをしたか知らんが、それなりの報いを受けてからアンチレジストへ突き出させてもらう。私は弱いもの虐めをしている奴が一番嫌いなんだ。早めに久留美を開放した方が、病院の天井を眺める退屈な時間が短くて済むぞ」
 次の瞬間、蓮斗のにやついた表情が消えて無表情になった。凍りついた宇宙の果てのような、何も無い表情だった。急激な表情の変化に美樹は怪訝な顔をし、同時に思い出した。アナスタシア聖書学院の生徒会長室でシオンに見せられた写真。子供の頃の、太っていた頃の蓮斗のそれだった。
「久留美はどこにいる?」と、美樹は聞いた。
 蓮斗の表情はすぐ元に戻り、再び笑い出した。
 美樹は蓮斗の金色に逆立った髪の毛を掴んで無理やり立ち上がらせると、腹に膝を打ち込んだ。ぐちゅりという嫌な音がして、蓮斗が呻き声を上げながら前屈みになり、その際に下がった顎を掌底で跳ね上げた。衝撃で蓮斗の身体が浮き、背中から床に落ちる。美樹は再び蓮斗の金髪を掴むと、額を真鍮で出来た階段の手すりに打ち付けた。額が割れて、蓮斗の金髪が赤く染まる。
「いぎっ! ひ、ひひ……容赦ないなぁ……」
「口がきけるうちに喋れ。久留美はどこにいる?」と、美樹が蓮斗の髪を掴んだまま、耳元で凄んだ。淡々としているが、震え上がるような低く静かな声だった。「必要以上に痛ぶるのは好きではないんだが、貴様がこのまま久留美の居場所を吐かないのなら、指から折らせてもらうぞ? その後は手首、前腕、肘、二の腕、そして肩を外す。鎖骨を折ったら、次は肋骨だ。居場所を話したら、すぐに失神させてやる」
「ははは……やさしいなぁ美樹ちゃんは。案内するよ。居場所を話したって、この施設の構造は美樹ちゃんにはわからないだろう? それに鍵のかかった場所もある。僕を失神させるのは久留美ちゃんと再開してからでも遅くはないだろう?」
 美樹は少しの間思案した後、蓮斗の身体を投げ捨てる様に解放した。蓮斗はよろけながら立ち上がると、美樹の前で両腕を広げる様なポーズをする。抵抗する気はないという意味に取れた。
「……行け」と、美樹は蓮斗を睨みながら言った。
 蓮斗はわざとらしくお辞儀をした後、背中を向けて歩き出した。
 中央階段の裏手にまわると、観音開きの扉があった。蓮斗が鍵を開けると地下へ下りる階段が現れた。壁や床はコンクリート打ちっぱなしで、天井には古ぼけた蛍光灯が埋め込まれている。美樹は一定の距離を保ったまま、蓮斗の後に続いて階段を下りた。中腹まで降りたあたりで、背後で自動的に扉が閉まった。
 階段を降りきると再び扉があり、開けると地下特有の湿気が美樹の身体を包んだ。真冬の外気で乾燥した美樹の長い髪がわずかに重くなる。水はけが悪いのか、廊下の隅に黒いカビが生えていた。
 地下にはふたつの部屋があり、蓮斗は奥のドアの鍵を開けて中に入った。注意深く美樹も室内に入る。蓮斗は美樹から離れるように、入り口とは反対方向の壁に背中を付けて腕を組んだ。部屋には用途不明の様々な器具が置かれ、それらに取り囲まれる様に久留美が制服のまま仰向けに寝ていた。美樹が駆け寄り、抱え上げて呼びかけと、久留美はうっすらと目を開けた。
「久留美? 久留美! 大丈夫か?」
「あ……せ、先輩……?」と、眠そうに久留美が言った。
「迎えに来た。もう大丈夫だぞ」
 美樹は静かに言うと、久留美の髪をそっと撫でた。
 久留美はまだ朦朧としているようだが、幸い外傷は無さそうだった。髪を撫でる心地いい感触に久留美の顔がふっと緩む。
 メキリと音を立てて、美樹の右腕に衝撃が走った。蓮斗が鉄パイプを美樹の二の腕に振り下ろしていた。
「ぐうっ!?」
 美樹は痛みに耐えながらも無事な左手で久留美を寝かせると、片膝を着いたまま蓮斗に向き合う。右肘から先が痺れて感覚が鈍い。再び鉄パイプが振るわれ、直角に曲がった継手部分が美樹の腹ににずぶりと食い込んだ。
「ごぶぅっ!? んぐっ……お……っ」
 レオタードむき出しの部分が痛々しく陥没すると、固く冷たい金属の感触が美樹の腹部を中心に全身を駆け巡った。
「久留美ちゃんはいいよな……助けてくれる人がいてさ」
 蓮斗は何の感情も読み取れないほど無表情になっていた。
「先輩!?」
「大丈夫だ……」
 立ち上がろうとする久留美を手で制しながら、美樹は痛む腹を押さえて立ち上がる。強打を受けた右腕は折れてはいないようだが、いまだに感覚が戻らない。蓮斗はカーゴパンツのポケットから栄養ドリンクのような瓶を取り出すと、キャップを開けて中身を一気に飲み干した。
「おえっ……まっず。ったく、少しは味にも気を使ってほしいな」
 蓮斗は顔をしかめて口元を拭いながら、空になった瓶を背後に放り投げた。瓶は固い音を立ててバウンドした後、壁に跳ね返って止まった。
「それも人妖が作った薬か? なぜ人間の貴様が人妖に取り入っている?」
 蓮斗は答えず、ゆっくりと美樹に近づくと、大振りなモーションで鉄パイプを振り下ろした。美樹は素早くそれを避け、間髪入れずにバックナックルを放つ。蓮斗はしゃがんで躱すが、美樹がバックナックルの勢いを殺さずに回し蹴りを放と、避けきれずに頬にヒットした。蓮斗は一瞬ぐらつきながらも、美樹の脚を掴み、鉄パイプを捨てて美樹の腹部に拳を埋めた。ぐじゅりと音がして、美樹の腹に拳が陥没する。
「ぐぷっ?!」
 美樹の目が見開き、小さく開いた口から唾液が飛び出る。
 普段の美樹であれば難なく防御したであろうが、片腕が言うことを聞かず、片足立ちでバランスを崩した今の状況では蓮斗の攻撃をガードすることは難しかった。美樹は左手で蓮斗の奥襟を掴むと、腹の底からこみ上げて来る吐き気を押さえながら、蓮斗の鳩尾に膝を打ち込んだ。
 蓮斗の口から空気が漏れる男が聞こえる。人体急所を突かれ、その身体には恐ろしい苦痛が駆け巡っているはずだが、蓮斗は表情を崩さない。美樹は一瞬顔をしかめると、続けざまに攻撃を放った。蓮斗は顎や鼻を撃ち抜かれ、鼻から血を流しながらもニヤニヤとした笑みを崩さなかった。
「貴様……なにをした……?」
「ああ、いいね。その混乱した表情、そそるよ」
 ずん……という重い衝撃が美樹の全身を駆け抜けた。この感覚には覚えがある。美樹はおそるおそる視線を下に移すと、自分の鳩尾に蓮斗の拳が半分ほど埋まっていた。
「うぐっ!? ぐあっ!」
 一瞬置いて美樹の身体を苦痛が駆け巡る。
 たまらずに両膝を着き、口内に大量に溢れた唾液を吐き出した。唾液は口から糸を引いて床に垂れ、コンクリートの床に染みを作った。
「さっき飲んだ薬だよ。コールドトミーって知ってる? 冷子さんに頼んで、痛覚を遮断する薬を作ってもらったんだ。身体から脳へ痛覚を伝達する神経を壊死させるらしい」
「けほっ……い、痛みは身体の危険を伝えるための大切な信号だ。それに、たとえ痛みを消してもダメージは消えんぞ……」
「だから? 俺は今を楽しめればそれで良いんだ。昔から我慢して我慢して……痛い思いもたくさんしてきた。そろそろ好き勝手させてもらってもいいだろ?」
 蓮斗は美樹の奥襟を掴んで立ち上がらせると、抉る様に美樹の腹部を突き上げた。薄い生地を巻き込む様に美樹の腹部が陥没し、温かく水っぽい感触が蓮斗の拳を包んだ。心地よさに蓮斗の顔には笑みが浮かび、変わりに美樹の顔は苦痛に歪んだ。
「ゔあっ!? ぐ……あぁ……ぐぷっ!?」
 腹部に拳を突き込んだまま、更に美樹の奥へと押し込む。美樹が歯を食いしばって蓮斗の突き飛ばし、ようやく感覚が戻った右手で顎を突き上げた。蓮斗の顔が仰け反り、天井を向いたまま身体が宙に浮く。一瞬の滞空の後、背中から地面に落下した。ダメージを感じている様子は無い。顎を跳ね上げられる直前まで、蓮斗の視線は一瞬も美樹から離れなかった。
 蓮斗の攻撃自体は大振りで単調だ。決して苦戦する相手ではない。しかし、ダメージが通らずに長期戦になれば、こちらも消耗してくる。ダメージによる戦意喪失が望めない以上、確実に失神させるほか無い。顎や頭への衝撃も鈍いようだ。頸動脈を締めて確実に落とす方がいい。
 蓮斗がネックスプリングの要領で跳ね起きると、凝りをほぐす様に首を鳴らしながら血の塊を吐き出す。血塊はかつんと固い音がをたてて床に跳ね返った。赤黒く染まった奥歯だ。
「厄介なものだな……とんだ相手に好かれたものだ」
 美樹が軽口を言うと、蓮斗も血に染まった前歯を剥き出しにして笑う。
「俺は一途なんだ。惚れた女の為なら死んでも尽くすさ……」


「到着しましたが……本当に行かれるのですか?」
 シオンはドアを開けてくれた運転手に「ええ」と短く返事をすると、後部座席から降りて分厚い鉄の門を見上げた。運転手は何か言いたげに口を開いたが、諦めたようにシオンの背中を見つめたまま黙って後部座席のドアを閉めた。
 雪はほとんど止んでいた。
 孤児院の門や塀の上には錆の浮いた剣山が、氷のように冷えたまま微動だにせずに立ち尽くしている。
 シオンがぬめるような光沢のある黒いカシミヤのロングコートを脱いで運転手に手渡すと、さっと風が吹いてシオンのツインテールに纏めた金髪がなびいた。見てるこちらが寒くなりそうなデザインの、メイド服を基調としたセパレートタイプの戦闘服が露になり、初老の運転手は目のやり場に困り視線を逸らした。
「では山岡さん、終わりましたら連絡しますので」
「あの、本当によろしいのですか? 年配の勘と言いますか、何やら厭な予感がするのです。出来ることならこの場で待たせていただいても……ッ!?」
 シオンが白い手袋に包まれた人差し指を山岡の唇に当てて言葉を遮る。シオンは片目を閉じて、穏やかな笑みを浮かべている。現実感の欠如した美しい顔が間近に迫り、山岡はどぎまぎと視線を泳がせた。
「本当に大丈夫です。それに今日は任務ではなく、ただの私の暴走……。勝手に戦闘服を持ち出して、勝手に美樹さんに加勢するんですから、組織にバレる前になるべく早く解決して無事に戻ることを最優先にします。必ず帰りますので、ご心配なさらずに」
 シオンは走り去る車を見送ると、あらためて門を見上げた。それは門というよりは、壁に近かった。あらゆるものの侵入を拒み、あらゆるものの脱出を許さない鉄の一枚板を見ていると、自由という言葉が遠い異国の少数民族の言語の様に思えた。上空では灰のような重い雲が立ち込めている。またすぐ雪になるのだろう。
「セラ……CELLA……ラテン語ですね。小部屋、神像安置室、広い意味で聖域。子供達にとっての聖域という意味で付けられたのでしょうか?」
 シオンが門に嵌め込まれているプレートを読んでつぶやいた。自分のシオンという名前にも、聖域という意味がある。この施設を作った人間は、どのような思いを込めてセラという名前を付けたのだろうか。
「美樹さん……久留美ちゃん……」
 シオンは自分にしか聞こえない声量で呟くと、扉を押し開けて施設の中へと入って行った。


 美樹の放った回し蹴りが綺麗な弧を描いて蓮斗の顔面をしたたかに打った。どろりとした鼻血がミミズのように蓮斗の鼻から這い出る。蓮斗は怯むことなく大振りの前蹴りを放った。重そうなブーツが空を切る。美樹は難無く蓮斗の蹴りを躱すと、背後から蓮斗の首に蛇のような素早さで自分の腕を巻き付けた。頸動脈のみを締め上げられ、蓮斗の視界に銀色のオーロラが降りてくる。顔が徐々に膨張する様な錯覚。耳の奥できいんと耳鳴りが鳴り響いている。
 あと数秒で失神すると蓮斗は思った。
 蓮斗は痙攣の始まった手でカーゴパンツのポケットに手を突っ込んだ。硬い感触が指先に触れる。栄養ドリンクに似た瓶のキャップを片手で器用に開けると、中身を背後にぶちまけた。美樹が驚いて手を離す。残りの薬剤を口に含み、霧状にして美樹の顔に吹きかけた。薬剤を吸い込み、美樹は軽く咽せた。南国の花の様な重く甘い香り。瞬間、チリッとした刺激が脳の表面を駆け巡った。
「先輩……」
 背後から久留美の声が聞こえた。振り返る。美樹の上着の袖を掴みながら久留美が立っている。
「先輩……蓮斗さんを傷つけちゃ……嫌です……」
 久留美は甘えるような声を出すと、背後から美樹の胴体に腕を回して抱き着いた。突然の事に美樹が狼狽する。
「く、久留美? なにを言っている? 手を放せ!」
「大丈夫ですよ先輩……。蓮斗さん、とても良い人ですから。それに、蓮斗さんがお腹を殴ってくれると、すごく気持ち良くなれるんです……」と、久留美は熱に浮かされた様に呟いた。「こんな感情……私、初めてなんです。先輩も早く、蓮斗さんに気持ち良くしてもらってください。大丈夫です、痛いのは最初だけですから」
「馬鹿なことを言うな! 目を醒ませ!」
 美樹が身じろぎしている最中、蓮斗が音も無く近づいた。
「……ッ、貴様! 久留美に何を……」
 美樹が言い終わる前に、ぐじゅっ、と水っぽい音が美樹の身体を通って鼓膜に届いた。蓮斗の拳が、美樹の薄い生地に包まれた腹部に埋まっている。
「ぐぼっ!」と、美樹が悲鳴を上げた。不意打ちを受けた腹は蓮斗の拳を柔らかく包み、温かい粘液の様に絡み付いた。美樹の視界がぐらつき、猛烈な吐気がこみ上げる。同時に、拳を打ち込まれた場所からどくんと脈打つ様な感覚がこみ上げて来た。
「……ッ?! くあぁっ?!」
 美樹がびくりと痙攣しながら、身体を折り曲げるようにして悶えた。叫んだ瞬間に粘度の増した唾液の飛沫が舞う。
 殴られた下腹部が脈打つような感覚があった。下腹部にもうひとつ心臓が発生し、脈打つような信号を脳に送っている。それは温かく、柔らかくて甘い信号だった。泥の中を裸でのたうつような、極めて官能的な感覚を美樹ははっきりと感じた。
 美樹は焦点のズレた目で下腹部を見下ろした。
 アンダーウェアの生地を巻き込んで、蓮斗の骨張った拳が深くめり込んでいた。それを認識した瞬間、どくん……と拳のめり込んでいる腹部のあたりが脈打った。雷のような快感が美樹の背骨を駆け上がり、頭蓋骨の中で破裂する様子がはっきりとイメージ出来た。
「んぅッ?! くはぁぁぁッ!」
 美樹は訳もわからずに沸き上がって来た快感に身体を捩らせた。腹部を殴られた苦痛と同時に発生した快感。頭の中を沸騰した嵐が吹き荒れている中、二発目の鉄槌が鳩尾に撃ち込まれた。
「んぶぅッ?! んぶ……ッ……んあぁぁぁぁ!」
「あははは、気持ちいいでしょ? 頬染めちゃって、可愛いなぁ」
「ぎ……ぐぅッ……ぎざま……」美樹がびくびくと痙攣しながら、涙の溢れる目で蓮斗を睨みつける。食いしばった歯の隙間から荒い息が漏れていた。「何を……んくッ……私に……何をした……?」
「あはぁ……先輩……すごく気持ち良さそう……。気持ち良いですよね? 蓮斗さんにお腹殴られると……」久留美がとろんとした笑みを浮かべながら美樹の首筋に舌を這わせると、美樹の身体がビクリと跳ねた。堪えていた息を美樹が吐き出すタイミングで、蓮斗の膝が撃ち込まれる。
「ぐぼぉっ?!」
 膝を腹に打ち込まれた衝撃で美樹の目が見開かれ、舌が口から飛び出す。
 美樹は戸惑っていた。
 臍や鳩尾、胃の辺りを責められる度に、じんわりと熱を持った葛湯の様な甘くとろみのある液体が子宮のあたりに沸き上がるのを感じていた。あくまでもイメージではるが、その液体は腹部周辺を責められる度に子宮の中に溜まってゆく。ぐじゅり……ぐじゅり……と蓮斗は容赦なく美樹の腹を責めた。久留美は美樹の背後から抱き着きながら、苦痛と快感に耐える美樹の顔をうっとりと眺めている。
 美樹の中で、今まで感じたことの無い感情が芽生えていた。
 子宮を殴られたい。
 この子宮に溜まった液体を、どうにかして欲しい。
「くぅッ……! 蓮……斗……」美樹が泣きそうな顔になりながら蓮斗を睨んだ。「うッ……はぁ……ぐぅッ……!」
 子宮を殴って欲しい。その骨張った拳で潰して欲しい。
 自分の意志に反した逆らいようの無い欲求。美樹は必死に頭を振ってその甘い欲望の濁流に飲まれないように耐えた。
「へぇ……頑張るんだな。早く久留美ちゃんみたいに堕ちちゃえばいいのに」
「そうですよ先輩……一緒に気持ち良くなりましょう? 我慢する必要なんて無いんです。先輩は今までずっと頑張ってきたんですから、もう素直になってもいいんですよ?」
「くっ……もう一度聞くぞ……私になにをした……?」
「オーダーメイドしたチャームを使わせてもらったのさ。人妖の分泌するチャームを培養して、腹部が性感帯になるようにカスタムした特製のね。俺に殴られてすごく気持ち良いでしょ? チャームには誰も逆らえない。もうすぐ美樹ちゃんも、久留美ちゃんみたいに自分からお腹を殴って下さいってお願いするようになるんだよ」
「ふざけるなッ! そんなものに……私が屈するものか!」
 美樹は自分に言い聞かせるように叫んだ。
 蓮斗はその様子を鼻で笑うと、軽い動作で拳を引き絞った。
 ぐぽんッ……と蓮斗の拳が、美樹の子宮を抉った。
 それは待ちかねた刺激だった。美樹は次の瞬間、子宮に溜まった温かく甘い液体が、まるで水風船が破裂したように体内にまき散らされるのを感じた。それは細胞の隙間を強烈な快感の爪で引っ掻きながら体中に広まった。爪先から脳天まで快感が広がり、美樹の視界は星が散った様に明滅した。
「ふぐあぁぁぁぁッ! はぐッ……くふッ……あああッ!」
 美樹は身体を仰け反らせ、絶叫しながら快感に耐えた。絶頂の波が絶えず身体を駆け巡り、痙攣する身体を歯を食いしばって必死に抑えた。蓮斗が美樹に近づき、再び拳を引き絞った。拳が腹部に当たる瞬間、美樹は自分が無意識に腹筋を緩めたことに気がついた。自分は、快感に負けてしまったのかと、美樹は底の無い暗い穴に落ちる様な気持ちになった。


 シオンが錆び付いた門をくぐると、高い壁に阻まれて風の音が聞こえなくなった。建物に通じる煉瓦道には二人分の足跡がかすかに残っていて、建物の窓からはかすかに明かりが漏れていた。
「おかしいですね……」と、シオンは二つに結った長い金髪を手櫛で梳きながら首をかしげた。
 シオンは透き通るような緑色の瞳で建物を見据えた。特殊繊維で出来た戦闘服のおかげで見た目に反し寒さはほとんど感じないものの、背中に甲虫が何匹も這い上がっているようなちくちくとした違和感を感じていた。
 特別養護孤児院「CELLA」は写真で見た通り、シンメトリーの美しい外観だった。建物自体の痛みもほとんど無い。
 殺人か、それに準ずる罪を犯した子供のみを保護していたこの施設は、数年前まで世間から隠されるようにこの森の中で確かに運営されていたのだ。誰の目にも触れることなく。幼くして殺人という罪を犯した蓮斗や木附姉妹、その他の子供達と一緒に。
 シオンは美樹と別れた後も、様々な手法や、時にはそれなりの金を使って蓮斗の犯行やCELLAについて調査を継続していた。
 CELLAの運営は専門に設立された国営組織が管理していた。表向きは孤児院としていたが、内部は非公開で、近隣住民との接触は皆無だったという。もっとも施設以外は特に何も無い山の上という立地もあり、近隣住民はさして施設の存在を気にもしていなかったようだ。電話番号もホームページも公開されず、子供達を乗せたバスや生活必需品を積んだトラックが時折出入りする以外は外界からは遮断されている。そしていつの間にか閉鎖した後、職員や住人の子供達はまるで夜逃げをするように静かにいなくなっていた。
 すべての物事には理由がある、という言葉をシオンは信じていた。どのような些細な現象も、すべてその結末に至るまでの原因と理由があり、偶然というものは突き詰めていけば存在しないことなのだとシオンは考えていた。いくら凶悪犯罪を犯した子供が入所しているとはいえ、オープンな更生保護施設や自立支援施設はたくさんある。なぜCELLAだけが隠すようにひっそりと運営され、ひっそりと閉鎖されたのか。そこに至るまでには何らかの理由があり、何らかの目的のがあったはずだ。
 シオンは周囲を見回しながら、建物に向かって歩いた。
 庭の隅ではブランコの鎖が風に吹かれ、その奥では葉の落ちた楡の木が無言で立っていた。
 ぴたりとシオンの足が止まる。門をくぐってからずっと感じていた違和感の正体を探るように建物を見上げた。小さめの教会のような外観。シオンは白い手袋に包まれた人差し指と親指で細い顎を挟みながら考えた。
「やはり、小さ過ぎますね……」と、シオンがつぶやいた。
 シオンは「CELLA」に収容されていた孤児のリストを思い出し、そこから同時期に住んでいたであろう人数をざっと計算した。ビルのような建物に比べ、洋館は装飾性は高いが居住面積はずっと少なくなる。建物の大きさからして、部屋数は決して多くないはずだ。それに保護している子供の性質から考えて、子供一人当たりの占有面積は通常の施設よりも広くとる必要がある。対応に当たる職員も一般の孤児院に比べ多いはずだ。この大きさでは狭過ぎて収容できなかったはずだ。
 きぃ……と背後でブランコが鳴いた。
 シオンが振り返り、さくさくと雪を踏みながらブランコのそばまで移動した。
 変わった形のブランコだ。
 公園でよく見る三角形の支柱ではなく、巨大な鉄棒のような形をしている。まるで大きなホッチキスの針が地面に刺さっているように見えた。
 支柱から渡された横木からは五本の鎖が垂れ下がり、風に揺れていた。
 ……五本?
 シオンは嫌なものが腹の底から湧き上がるのを感じ、頭を振った。楡の木のそばへと移動する。木の根元には風雨に曝された大きな木箱が三つ、楡の木に寄りかかる様に置かれていた。その一つを開けてみる。底板は無く、直接地面が見える。中身は空だったが、木屑のような匂いに混じってかすかに腐敗臭がした。
 堆肥を作るコンポストだろうか。
 三つある箱のひとつには小さな鍵が付いていた。シオンはペンライトを取り出して鍵を観察する。見た目は簡素だが、どうやらカード式らしい。
 シオンは周囲を確認し、脇を締め、右足を一歩分後ろに引いて構えた。両足を捻るように動かし、つま先に鉄板の入ったエナメルのストラップシューズで地面を踏みしめる。右肩を勢い良く後方に引き、捻ったゴムが元に戻るように反動をつけて身体全体を回す。防御を考えないため、右足を蹴り上げるのと同時に右手を後方へ一気に引いた。
「ふッ!」と、シオンがすぼめた唇から力強く息を吐き出す。
 木の砕ける重い音が凍てついた空気を震わせ、重い蓋は紙のように宙を舞った。
 シオンは構えを解いて箱の中を覗き込む。
 取っ手の付いた鉄板が見えた。蓋は意外なほど簡単に開き、人一人がやっと通れるほどの階段があった。
「やはり」と、シオンが言った。階段から建物までの距離は約百メートル。おそらく敷地全体に地下空間が広がっているのだろう。地表の建物はあくまでも飾りで、この地下空間こそが「CELLA」の本体だ。
 扉を開けたことに反応して、自動的に蛍光灯が階段を照らした。
 シオンは前髪を掻き上げると、慎重に階段を下り始めた。こつこつと自分の足音が冷たい壁に反響する。この先に何が待ち受けているのかわからないが、すべて受け入れようと思った。どのような形であれ、それが真実なのだから。

 階段を降りた先には金属製のドアがあった。中に入ると、かすかなカビと湿気の匂いが鼻を突く。ジリジリと音を立てる古い蛍光灯に照らされて、漂白されたような白い壁や薄い緑色の床が浮かび上がった。病院のような作りで、遺棄される直前まで衛生的に保たれていたらしい。廊下を歩きながら、美樹や久留美は無事だろうかとシオンは思った。この奇妙な施設の調査も進めたいが、まずは二人と合流しなければならない。そして人妖と行動を共にしている蓮斗の目的や経緯を、できれば本人から直接聞かねばならない。どのような理由から人妖に協力しているのか。他にも協力者はいるのか。そしておそらく、冷子もこの施設にいるはずだ。やらねばならないことは多い。
 蓮斗か……。自分や美樹とほとんど歳は変わらないが、十歳の子供があんな恐ろしい犯行を行えるものだろうか。
 独自に入手した凄惨な現場写真や事件の調書を調べている間、シオンは何度も吐きそうになり、酷い目眩を感じてソファに倒れ込んだ。シオンは物心がついた頃──ちょうど父と死別した頃から、死を連想させる事象に対して強い恐怖を感じるようになった。父親の死はシオンの記憶からすっぽりと抜け落ちてしまっているが、おそらくその際に何らかのショックを受けたことが原因だろうとシオン自身は思っている。いつかカウンセリングを受けるべきかと思うのだが、なかなか踏み出せずに今になってしまった。だから、凄惨な殺人事件を起こした蓮斗の犯行記録は、シオンにとっては耐え難いものだった。
 しかし、必死な思いでシオンは資料を読み込んだ。資料によると、事件は蓮斗が六歳の頃、肥満体型を理由にイジメられ始めたことに端を発している。イジメは最初は遊びの延長のような軽いものだったらしいが、次第に内容はエスカレートしていった。蓮斗は何度か担任教師に相談をしたが、教師は首謀者の肩を持ち取り合わなかった。首謀者の家が生活保護を受けていることに同情したらしい。両親と蓮斗の仲も良好とは言えず、蓮斗が八歳になる頃には、イジメはクラス全体を巻き込んだ大きなものになっていた。味方のいない蓮斗はあるとき、学校で飼育していたウサギを生きたまま焼却炉に放り込み、教師から厳しく叱責される。また、学校に呼び出された蓮斗の両親はその日、雪が降る夜に蓮斗を家から放り出した。
 蓮人は自分をイジメていたクラスメイト達が全く咎を受けず、ウサギを殺した自分だけが糾弾されたことに猛烈な理不尽を感じた。また、ウサギを殺したことを弱いものイジメの最低な行為と教師や両親から罵られたが、それでは今自分がクラスメイトから受けているイジメは何故許されているのだろうか。
 蓮斗は身体の底から黒いものが湧き上がってくるのを感じながら、寒さと空腹に耐えかねてショッピングセンターで途方に暮れていた。その時、目の前をイジメの首謀者が母親と共に通った。家族と楽しそうに笑う首謀者を見た瞬間、蓮斗は「口から内臓が飛び出すほどの憎悪」を感じたと調書に書いてあった。
 蓮斗は公衆トイレの個室で凍えながら一夜を明かすと、自宅に忍び込んで包丁と金属バッドを持ち出して学校へと向かった。授業には出席せず、放課後に首謀者が一人になったところを見計らって、背後からバットで殴り昏倒させると、グラウンドの隅にある体育倉庫の中に主謀者を拘束して監禁した。夜、学校から完全に人がいなくなったことを確認すると、蓮斗は首謀者を裸にし、腹部を内臓が破裂するほどバットでめった打ちにした後、まるで解剖するように喉から性器までを一文字に包丁で裂き、内臓を引きづり出した後にバットで頭を割って殺害した。腹を裂かれた時か、頭を割られた時か、どのタイミングで首謀者が絶命したのかはわからなかった。その後の警察の調査で、首謀者の露出した内臓から蓮斗の精液が検出された。
 蓮斗は首謀者の身体を焼却炉に押し込むと、血まみれのまま学校の近くに住むクラスメイトの家に侵入した。そこは母子家庭で、布団を並べて寝ている親子をバットで殴り昏倒させると、二人の手足をロープで縛り、母親の目の前でクラスメイトの腹部を滅多刺しにして殺害した。母親の狂ったような悲鳴を聞いて近所の住人が警察に通報。警官が駆けつけた時、蓮斗は四方に内臓を飛び散らせた無残な姿のクラスメイトの横で、同じように腹の裂かれた母親の内臓を一心不乱に掻き回していた。母親とクラスメイトの内臓からも、蓮斗の精液が検出された。
「ゔっ……げほっ……」
 シオンは眩暈を覚えて、口元を押さえて片膝を着いた。このタイミングで思い出さなければよかった。フラッシュの様に明滅する凄惨なイメージを頭を振って払拭する。なぜ幼い子供がここまで歪み、凶行に及んだのか。こうなってしまう前に、周囲は誰も助けなかったのか。蓮斗の味方はひとりもいなかったのか。
 シオンはふらふらと立ち上がり、目を閉じて大きく息を吐いた。しっかりしなければ。まずは目の前の状況に集中するべきだ。
 シオンは慎重に薄暗い廊下を進んだ。
 やはり地下施設はかなり広く、部屋数もかなりある。廊下から部屋の中を覗けるように大きな窓が嵌まっている。ほとんどの部屋には数台のパイプベッドが置かれているだけで、装飾などは無かった。しばらく歩くと、コンピューターが置かれたナースステーションのような部屋があった。中に入る。強盗にでも入られたかのように、ファイルや紙の資料が散乱していた。シオンは足元に落ちているファイルを手に取って中を見る。顔写真付きの履歴書のような紙が多くファイリングされていた。
 シオンは手早くファイルをめくる。
 いた。
 蓮斗だ。
 この施設で保護された後に撮影されたのだろう。脂肪で膨れた頬と二重顎の蓮斗が、写真の中からどんよりとした視線をシオンに送っていた。書類には神経質そうな細かい文字がびっしりと書き込まれていた。
「な……え……?」シオンは思わずファイルを顔に近づけた。「人妖適性……?」
 書類には蓮斗の細かい身体情報や経歴、蓮斗の起こした事件の調書の他に「人妖適性」なる見慣れない所見が書かれていた。

 ──施術に対する身体的適性は中からやや低い。しかし、いわゆるサイコパスであり精神的適性は高い。親や周囲から拒絶されたことによる極端な自信の喪失からか、自分に興味を抱かせるために作り話をしたり、高価な物品や装飾品へ執着したりする傾向が見られる。また、自身や他者の生命や身体に対して、尊厳や執着は感じていない。これらの精神的傾向は人体実験や薬物投与への抵抗感の少なさに加え、人妖化後に異性を餌として補給する際、有利に働くものと思われる。

 なに……これ?
 人妖化?
 施術?
 人妖は人為的に造り出せるということなのだろうか。
 ならば、人妖とは未知の怪物などではなく、何者かが何らかの理由と意図の元に生み出したミュータントではないか。アンチレジストはこのことを知っているのだろうか?
 不意に、虫の羽音のような音とともにブラウン管のモニターが点いた。粗いノイズ混じりの画面に、見慣れた顔が映る。
「なにをぐずぐずしているの? 早こっちに来なさいな」
 うねるような画面の中に、スーツを着た女性が映っている。女性は退屈そうに椅子に座り、アームレストに片肘をついたまま呆れたような視線を送っていた。
「冷子……さん……」
「私の庭を荒らさないでくれるかしら? この施設は古いけれど、まだまだ利用価値があるの。学園の研究棟以上にね」
「……この施設は何なんですか?」
「直接会って教えてあげるわ。廊下を進んだ先にあるドアを開ければロビーに出られる。決着が着いてから好きに調べればいいわ。貴女が生きていられたらだけど……」
 ブツンと言う音と共にモニターが切れた。モニターは戸惑ったシオンの顔を嘲るように反射した。

 遠くの方で話し声が聞こえて、美樹はゆっくりと目を覚ました。
 地下室の空気は淀んでいた。
 窓は無く、汗や体液の臭いが混じった湿気が重く立ち込めている。天井には大型の換気扇が埋め込まれていたが、今は稼働していないようだ。
 ぼんやりした意識でも、後ろ手に南京錠の付いた腕輪がはめられていることがわかった。霞む視界の隅に、久留美の薄桃色の髪の色が映った。
「ゔぁッ……あ……はずと……さん……ッ……」久留美の声が聞こえ、美樹は顔を上げた。次第に明瞭になってきた視界の隅で、久留美は釣り針にかかった魚の様に顎を上げ、天井を見ながら呻いた。「も……無理……でず……ッ」
 ひび割れた白いタイルと薄汚れたコンクリートで造られた地下室はそれなりの広さで、所狭しと拷問器具が置かれている。久留美は壁に背中を付けて立ち、自分からシャツを捲り上げて、白魚の様に滑らかな身体を蓮斗に晒していた。そして久留美の華奢な腹部を、蓮斗は拳で嬲る様にグズグズとこね回していた。
 久留美の苦しそうな息遣いには、少なからず女としての悦びの色が混じっていた。おそらく、自分に浴びせたものと同じ人口チャームを使っているのだろうと、美樹は思った。チャームの効果とはいえ、美樹は初めて苦痛が快感に変わる感覚を味わった。一時はその感覚に流されそうになったが、時間の経過と、普段からの精神鍛錬により、今ではかなり効果が薄れてきた。だが、久留美は自分とは違い、ごく一般的な少女だ。数日間の監禁による恐怖は耐え難い精神的苦痛を感じただろう。監禁や誘拐などの被害者は、閉鎖空間で長時間に強いストレスに曝されると、しばしば加害者に対して好意を抱いたり、加害者に気に入られたりするような行動をとることがある。少しでも犯人に気に入られて、自分に危害を加えられる可能性を少なくするための生存戦略的な行動だ。それに加え、違法な薬物のような人口チャームの効果で久留美が正気を失ってしまうのも無理はない。蓮斗のサディスティックな欲望を満足させるための人形として、いつ終わるとも知れない恐怖と苦痛に耐え続けるよりは、たとえ正気を失ってでも偽りの快楽に押し流されてしまった方が楽だ。人間とはそういうものだと美樹は思った。そしてその行動は悪ではない。
 美樹は顔を上げた。
 蓮斗も久留美も、まだ美樹が目覚めたことに気がついていない。
「久留美ちゃん……まだ頑張れる?」
 優しそうな声で蓮斗が久留美の耳元で囁いた。久留美は立っているのもやっとな様子で膝をガクガクと震わせながら頷く。まるで二回目の性交に挑む恋人同士の様だ。
 蓮斗は久留美を優しく床に座らせると、久留美を背後から抱きしめるように自分も腰を下ろした。乱雑に散らかった器具の中から、黒い十字架のような器具を取り出して久留美に見せる。
「ひ、ひッ?!」
 その禍々しい器具を見た瞬間、久留美は思わず悲鳴を上げた。それはエナメルを巻きつけた馬の男根に、取っ手を付けたような形をしていた。先端は子供の頭ほどのリアルな亀頭が施され、久留美を睨みつけるように反り返っている。
「は……蓮斗さん……ま、まさか……」
 恐怖のあまり久留美の歯がガチガチと鳴る。久留美は男性経験は無いが、一般的な男性器の大きさは把握しているつもりだった。しかし、蓮斗の持つ凶暴すぎる器具は明らかに規格を超えていた。こんなもので貫かれたら命に関わるのではないか。
「大丈だよ。心配しているようなことはしないから」と、蓮斗が久留美の耳を舐める様にして囁く。「でも、こっちには挿れちゃうけどね」
 蓮斗が久留美のヘソにディルドの亀頭をあてがう。久留美の肩が恐怖からびくりと跳ねた。蓮斗は取っ手を両手で握ると、力を込めて自分の身体に向けて引き付けた。ぐぽりと音がして、蓮斗の身体とディルドに挟まれた久留美の腹部に凶悪な鬼頭が埋まった。
「ぐぷッ?! がッ?! あああッ!」
 蓮斗がディルドを引く力を強めると、華奢な久留美の腹部に黒光りしている暴力が更にめり込む。胃を潰され、久留美の喉の奥から濁った悲鳴が漏れた。
「げぅッ?! げあぁッ! ばずど……ざんっ……おなが……ぐる……じ……」
「いいよ……もっと気持ちよくなって……」
 久留美が限界だと訴えるように必死に首を振るが、蓮斗は興奮をますます昂らせている。蓮斗は押し込んでいたディルドを一瞬引き抜くと、リズミカルに久留美の腹部にディルドを押し込み始めた。ピストン運動のように久留美の腹部にぐぽぐぽと黒い先端が埋まる。M字型に足を開いてめくり上がったスカートから覗く久留美のショーツが、分泌液で徐々に透けていった。
「ゔあッ!? ごッ! がぁッ! やらッ! はずッ……はずど……! ざんッ! はすと……さんッ!」
 久留美が背後を振り返り、蓮斗に向かって舌を突き出した。蓮斗はその唇を吸う。久留美は目を閉じ、貪る様に舌を絡ませている。
 その隙を、美樹は見逃さなかった。
 美樹は束ねた髪の毛の中から、黒い針金を一本取り出した。全身に隠した武器のうちのひとつで、緋色のリボンで留めて髪の毛の中に隠している。美樹はそれを器用に南京錠の鍵穴に差し込んだ。無骨に見える鍵ほど中の仕組みは単純だ。美樹は一分もかからずに両手を自由にした。二人はまだ唇を吸いあっている。美樹は素早く跳ね起き、蓮斗に向かって突進した。

 美樹の突進に蓮斗は素早く反応し、久留美と一緒に真横に跳んだ。蓮斗の異様な反応の速さに、普段は表情変化に乏しい美樹でも目を見開いた。美樹の手甲をはめた拳が鋭い音を立てて空を切る。視界の隅で蓮斗と目が合った。蓮斗は軽く口角を上げると、久留美の背中を突き飛ばした。自分の胸に飛び込んできた久留美を美樹はとっさに受け止める。
「久留美!」と、美樹が久留美の顔を覗き込みながら叫んだ。
「えっ? あ……? は、蓮斗さん、なんで……?」
 久留美は熱病にでも冒されているように蓮斗に手を伸ばした。
「時間だ……」と、蓮斗が貼り付けたような笑顔で美樹に言った。「ようやく、夢が叶うんだ……」
 蓮斗は身体を美樹の方向に向けたまま扉の方へ後ずさると、ポケットから茶色い小瓶を取り出して静かに床に置いた。
「チャームの解毒剤だ。久留美ちゃんに飲ませてあげてくれ」
「なっ……そんなもの誰が信じるか!」と、美樹が吠える。
「嘘じゃない。俺は自分を好きになってくれるものが好きなんだ。ま、久留美ちゃんをそのままにしておきたいのなら、使わなくてもいいけどね」
 蓮斗は薬瓶を蹴って美樹の方に転がすと、扉から素早く出ていった。部屋には美樹と久留美だけが忘れ物のように残された。
「久留美! しっかりしろ!」
 美樹はハッと気がつき、久留美に再度声をかける。
「あ……先輩?」と、久留美がゆっくりと美樹の顔を見る。定まらなかった瞳の焦点がようやく美樹の顔で定まる。「先輩……蓮斗さんは……? もっとお腹……苦しくしてほしいんです。先輩でもいいです……私のお腹……虐めてください……」
 美樹の顔にさっと寒気が走ったと同時に、かつん、と美樹のブーツに薬瓶が当たった。美樹は迷ったが、意を決して瓶を手に取った。
「久留美……これを飲め……」と、美樹は瓶のキャップを開けて久留美に差し出した。もう迷ってはいられなかった。今まで人妖に敗北した戦闘員やオペレーターが後遺症に苦しむ様子を何人も見てきた。後遺症は薬物である程度は抑えられるとはいえ、対症療法でしかなく、身体への負担も少なくはない。久留美にあのような辛い思いはさせられないし、仮にもしこの解毒剤が本物であれば、分析すれば後遺症に苦しんでいる人々も助かるかもしれない。
 美樹はキャップに少しだけ中身を移し、瓶を久留美に差し出した。久留美は素直にこくこくと瓶の中身を少しずつ飲み込んでゆく。飲み終えたところで美樹は瓶の口を拭き、キャップに注いだ薬液をビンに戻して蓋を閉めた。無事に戻れたら解析班に渡そう。
 久留美の瞳に、徐々に光が戻ってきた。寝ぼけた子供が完全に覚醒したように、不思議そうに美樹の姿を見た。
「久留美?」と美樹が聞いた。
「先輩? 私……何を……? 私……病院で……それから……私……先輩……先輩!」
 久留美が美樹の首に腕を回す。胸に顔を付けて泣いている久留美の頭を、美樹がゆっくりと撫でた。
「大丈夫だ……落ち着け……」
「私……どうしていたんですか……? 私……先輩を……」
「説明は後だ……とにかく今は安全な場所に行くぞ」と、美樹が言いながら久留美の手を引いて立ち上がる。久留美が戦闘服姿の美樹に気がついて、ぎょっとした表情になった。
「……先輩……あの……その格好は?」
「……その説明も後だ」
「いえ、かっこいいです……なんだか、すごく強そうで……」
 久留美がうっとりと溜息をつきながら言った。どうやら本心から言っているらしい。どうやって説明するか悩みのタネは増えたが、少なくとも戦闘服姿のシオンがここにいなくて良かったと美樹は思った。自分以上にしっかりしたイメージのシオンが露出度の高いメイド姿で現れたら、久留美への説明が更にややこしくなるだろう。
 美樹は久留美の手を引いて玄関ホールに戻った。
 蓮斗の姿は見えない。
 雪が強くなり、開け放した玄関から吹き込んでいた。
 美樹と久留美は身をかくするようにして、壁伝いに玄関へと向かった。久留美を連れて戦闘になるのはまずい。無事に玄関を出て、石畳を走る。門の扉は開いていた。ふと、門の外に小さな灯りが見えた。ハザードを出した車だ。警戒しながら近づくと、黒塗りのレクサスから初老の男性が降りてきた。
「鷹宮様?」
 初老の男性は驚いたように声をかけた。美樹も知った顔で、シオンの運転手をしている男性、山岡だ。美樹も何回か学院に送ってもらったことがある。
「……山岡さん? なぜここに?」と、美樹が聞いた。
「シオン様をここまでお送りしました……。お止めしたのですが、どうしてもと言われ……。私はシオン様から帰るように言われたのですが、心配で居ても立っても居られず、ここで待たせていただいております」
 シオンには待機命令が出ていたはずだ。命令を無視して独断で乗り込んで来たのかと、美樹は背後の建物を振り返りながら思った。自分がここに来ることは伝えていないが、シオンの鋭い勘はごまかせなかったらしい。
「山岡さん……すみませんが、久留美を預かっていただけませんか? あと、これを……」と、美樹は久留美に飲ませた薬瓶を山岡に手渡した。「もし私が戻らなかったら、組織の人間に渡してください。その際にチャームの解毒剤と伝えていただければ」
「……承知しました。さ、こちらに」
 山岡が後部座席のドアを開けて久留美を促す。久留美は戸惑いながらも「先輩」と振り返って声をかけた。「あの……私、事情はなにもわからないですけど……先輩たちのこと、本当に好きですから! シオン会長も、美樹先輩も!」
 久留美は泣いていた。
 強いな……と美樹は思った。訳のわからない事件に巻き込まれ、本来であれば全てを恨んでもいいはずなのに。いつの間にか後輩は大きく成長していたらしい。美樹はポケットからショートホープとジッポーライターを取り出して、タバコに火をつけた。
「久留美、預かっておいてくれ」と、言いながら美樹はタバコとライターを渡し、二人に煙がかからないように雪の降る空に向けて煙を吐き出した。戻ったら吸うと言い残し、美樹は建物に向かって走った。


「あれはやはり……ブランコなどではなく」
 通路を歩きながら、シオンが暗い目をしたままロシア語で呟いた。脳裏には、楡の木のそばの、五本の鎖が垂れ下がったブランコが浮かんでいる。
 ──絞首台なのだろうか。
 最後の言葉は恐ろしくて声にならずに、シオンの腹の底に落ちていった。
 絞首台がある児童養護施設がどこにある。
 ここが人妖に関わる何らかの研究が行われていたのは間違いない。人間を人妖化する実験も行われていたのだろう。だが、いったい誰が主導していたのか。冷子はこの施設を「私の庭」と呼んでいた。人妖は能力の高さのため、社会のアッパークラスに入り込むことも多い。大きな権力と財力を持った人妖がこの施設を作り、仲間を増やす目的で研究していたとも考えられるが……。
 考えがまとまらないうちに、シオンの目の前に細工の施された木製のドアが現れた。周囲の病院のような内装に反し、そのドアだけ周囲からひどく浮いている。
 扉を開け、階段を昇る。
 想像を巡らせるよりも、冷子から直接聞き出した方が確実だ。もちろん素直に話してくれるはずもないため、戦闘は避けられないだろう。階段を登り切ったところには再びドアがあり、開けると玄関ホールに出た。背後でドアが閉まる。今しがたシオンが出てきたドアは隠し扉になっているらしく、閉まると同時に壁と一体化して、開ける方法がわからなくなった。
 黒光りする黒檀の床に、高い天井から吊り下げられたシャンデリアの淡い光が反射しいている。
 簡素な外観に反して、内装は豪奢な造りだとシオンは思った。左右対象のネオバロック調の内装で、三階までが吹き抜けになっている。漆喰の壁には小さめのステンドグラスが嵌っていて、中央の大階段が二階部分で壁に沿うように枝分かれしている。子供の頃に暮らしていたサンクトペテルブルクの実家にも、同じような大階段があったなとシオンは思った。
 二階の扉が開き、床を踏む音が頭上から聞こえてきた。
 スパンコールがあしらわれた上質な黒いスーツを着た篠崎冷子が、大階段を足元を確かめるようにゆっくりと降りてくる。
「久しぶりねぇ如月会長? 相変わらず、はしたない痴女みたいな格好が似合っているわよ」と玲子が口元だけでうっすらと笑った。
「こちらこそ、ご無沙汰しております」と、シオンも笑みを浮かべながら答えた。
「あれから学院はどうかしら? 夏からずっと休暇を取っているから、あなたの活躍がわからなくて残念だわ」
「お陰様で、冷子さんが居なくなってから失踪事件は起きなくなりました。今回の久留美ちゃんの件を除いて……ですが」
 シオンが皮肉を込めて冷子に言い放つと、冷子は、ふふ、と笑った。
 冷子もシオンも互いに微笑みを浮かべたまま微動だにしない。シャンデリアの光が映し出す二人の影だけが揺らめいている。冷子が人差し指で耳の後ろを掻いた。シオンが細めていた目を開くと、緑玉の様な瞳が暗く光り、顔から笑みが消える。
「久留美ちゃんを返してください」
 普段よりもトーンの低いシオンの声は、黒光りする床を広がって冷子の足に絡まった。
「いきなり核心を突くわね。交渉のセオリーを知らないの?」と、冷子が呆れた声を出した。
「これは交渉ではなく、警告ですので」
「警告? ふふ……いつから生徒会長は教師に警告できるほど偉くなったのかしら?」
「生徒に不利益を与える者を教師と認めることは出来ません。あなたに復職する気があればの話ですが。少なくとも、久留美ちゃんの無事を確認するまでは交渉の余地はありません」
「本人が帰りたがらないとしたら?」
「それは本人から直接聞きます」
「もう返したって言ったら?」
「信用することはできません。仮に久留美ちゃんを解放したことが事実であったとしても、あなたが危険因子であることに変わりはありません。いずれににせよ……」と、言いながらシオンは左手の中指を口に咥えた。そのまま音を立てずにシルクの長手袋を抜き取ると、冷子の足元に放った。「アンチレジストの戦闘員として、あなたを拘束します」
 冷子の射抜く様な視線が、シオンの笑みの消えた顔を真っ直ぐに捉える。冷子は踏み出してシオンの手袋を踏みつけると、自分のジャケットの肩口を掴んでシャツごと袖を引き千切った。裏地のキュプラが、鼠が絞め殺された様な耳障りな悲鳴を上げる。両袖とも引き千切り、ジャケットがノースリーブの形になる。シオンは左手に予備の手袋を嵌め直した。
「貴女と会うたびにスーツが台無しになるわ。あなた、そのふざけた格好で来たって事は、夏みたいに無様に負ける覚悟はできているんでしょうね? 破廉恥なメイドさん?」
「ええ、もちろん。しかし負ける覚悟はできていても、負けるつもりはありません」
 冷子は口を三日月のように歪めると右腕をぶらぶらと振った。右腕の振れ幅が大きくなり、骨が無い軟体動物の触手のようにぐにゃぐにゃと伸びる。肌の色が徐々に、ぬめぬめと粘液に濡れたなめくじの様なまだらな灰色へと変色した。手のひらが肥大化して指の股が消え、丸みを帯びてボウリングの玉のような塊になる。
「どうかしら? 少し改良したのよ。見た目は少しグロテスクになってしまったけれど、威力やスピードはかなり向上しているわ。試してみる?」
 シオンが無言で構える。風を切る音。シオンの鼻先に冷子の右手が迫る。シオンは中国拳法のように前後に開脚して身体をかがめて攻撃を避けると、そのまま起き上がる勢いを利用して冷子に向かって距離を詰めた。伸びたゴムが戻る要領で帰って来た冷子の腕を避け、シオンは膝を冷子の腹部に埋める。
「ふぐッ!?」
 冷子の整った顔が歪む。
 そのまま流れる様に背後に回り込み、膝裏を蹴って跪かせる。いまだに暴れている冷子の右手がシオンの顔面に迫る。とっさに避けて直撃は回避したが、頬をかすった時に触手の粘液が僅かに頬に付いた。本能的に手の甲で拭う。
 冷子が背後のシオンをタックルの要領で突き飛ばしてバランスを崩させると、左手をシオンの脇腹に埋めた。
「んぐぅッ?!」
 触手化していない状態での攻撃は凄まじい威力だった。
 砲丸が腹に落ちた様な感覚を憶え、身体から力が抜け落ちる。直後に冷子の触手がシオンの首に巻き付いた。
「ぐっ……!」
 シオンはとっさに腕を触手と首の間に挟み込み、頸動脈が締め上げられるのを防いだ。ぬめぬめとした粘液が白い手袋を汚す。冷子は左腕を鞭のようにしならせてシオンの顔面に放った。シオンは不自然な体勢でもサッカーボールを蹴る要領で防ぎ、触手から頭を抜いた。
 お互いに間合いを取り、二人の呼吸音が静まり返ったホールに響く。
「ふふふ……楽しわねぇ。貴女のことは大嫌いだけど、簡単に死なない相手というのは面白いわ」と言いながら冷子が腕を軽く振ると、空気が抜けるようにして腕が元の形に戻った。汗で貼り付いた前髪を整えながら、赤く光る瞳孔でシオンを見る。「人間なのが惜しいわね。学院にいる時から見ていたけれど、人間のくせにヘタな人妖より優秀だわ。人妖の中にもたまに愚鈍な奴がいて……私そういうの許せないからすぐに殺ちゃうのよ。せめて実験材料にでも使おうとするんだけど、そういう奴らって基礎データすら陳腐なのよね。せめて運動がわりに遊んで殺そうと思ってもあっさり死んでしまうし、本当に何のために生まれてきたのか理解に苦しむわ。ねぇ、貴女を優秀な存在だと見込んで聞くんだけど、自分よりも劣っている存在なんて殺してもいいと思わない? 貴女、それでよく我慢が出来ていると思うわ。学院の経営にも協力しているし、研究棟の企業へのリース交渉だって今では貴女がまとめているのよね? 教師も生徒も、アンチレジストとやらの仲間も、貴女からすれば歯痒くて使えない奴らばかりでしょう? いっそ居ない方がいいっていつも思っているんじゃないの?」
「存在価値の無い人なんていません」と、シオンがツインテールの片方を手櫛で梳きながら、きっぱりと言った。「仮にそう見えたとしても、それはまだ、その人の価値に本人も周囲も気がついていないだけです」
「失望させないでくれる? 貴女のことは買っているのよ。その胸糞悪い性格以外はね。ねぇ、あなた人妖になってみない? その顔と身体なら遺伝子操作は必要ないでしょうし、食事の必要も無くなり、人間では絶対に得られない身体能力や特殊能力を得ることができる。デメリットは全く無いと思うけれど?」
「……私を人妖に?」と、シオンは動揺を抑えながらいった。やはり人間の人妖化は可能なのだろうか。
「簡単よ。身体と頭の仕組みをちょっとイジるだけで、ベースは一緒だもの。ここに来るまでにちらっと見てきたでしょう? もともとここはそのための実験施設で、過去からの研究を引き継ぐと同時に、適正のある人間の保護と人妖化の施術も行われてきたの」
「適正? 凄惨な事件を起こした子供に、人妖としての適性があるということですか?」
 蓮斗の犯行調書が脳裏に蘇り、シオンの頭にチリッとした痛みが走った。微かな吐き気も込み上げる。
「そうよ。自分のためなら平気で人の命を奪える──言い換えれば自分のためなら他人を躊躇いなく利用できる、自分と他人との境界をはっきりと線引きできる人間。あなたみたいに下らない博愛主義なんて持っていると、人間を餌だと割り切れずに面倒なことになるのよ。人妖の中にも餌に情が移ってしまう出来損ないがいて、餌と一緒に駆け落ちみたいなことを試みた奴もいたわ。あなたを人妖化する時はそのあたりの処置も必要だから、洗脳は必要ね」
「……そんな利己主義の塊になってまで、特殊な能力を得たくはありません」
 シオンは片足を引いて両手で短いスカートの裾を掴み、深々とお辞儀をした。綺麗なカーテシーだが、シオンを包む雰囲気が変わり、周囲の気温が下がる。
「──失礼いたします」と、シオンが床を見たまま言った。
 冷子の背中がぞくっと粟立つ。
 けたたましい音を立ててシオンの立っていた場所の床が割れた、シオンの姿が消えた。シオンはカーテシーの姿勢から強く床を踏み込んで跳躍し、前方に宙返りしながら冷子の脳天を目掛けて踵を落とした。冷子は背後に跳躍して避ける。シオンの踵がぶつかった床が割れた。シオンは踵を叩きつけた勢いを利用してそのまま前方に突進して冷子を追う。速い。冷子は右腕を軟体化させ、鞭のように弾いた。シオンは低空の姿勢になって躱し、そのまま独楽のように回転して冷子の足を横に薙いだ。
「ぐぅっ?!」
 くるぶしの部分にシオンの踵が当たり、冷子が呻く。体勢を崩した冷子の懐にシオンが飛び込み、後方に押し倒した。後頭部を打ち、冷子が短い悲鳴を上げる。シオンは冷子の喉を自分の脛と床の間に挟み、右膝を冷子の胸に乗せて重心を極めた。冷子は起き上がれず、シオンは肩で息をしたまま冷子を見下す。顎から垂れたシオンの汗が冷子のシャツに落ちて染みを作った。
「貴女、本当に強いのね──」と冷子が微かに笑いながら言った。「でも、まだ本気じゃないんでしょう? 性格の甘さでいつも力を出しきれない。今回もそうよね? リミッターが無くなったら恐ろしいわ」
 シオンは喉を押さえている足で冷子の頚動脈を締めた。冷子は平静を装いながらも、徐々に視線が泳ぎはじめ、顔が紅潮してく。あと三十秒もしないうちに、冷子の意識は途切れるだろう。シオンは左足に更に体重をかけた。
 瞬間、世界が回転した。
 まるでドッジボールがぶつかったように、顔の右部分に強い衝撃が走った。
「ぐあッ?!」
 一瞬体が宙に浮き、左肩から床に着地した。不意打で受け身が取れず、体全体に痛みが走る。
「へぇ……写真やビデオでは何回も見たけれど、実物は本当に人形みたいだな」
 白に近い金髪をオールバックに撫で付けた、真っ黒い格好をした痩身の男が、蹴りの姿勢から直りながら言った。
「……あなたが、蓮斗さんですか?」とシオンが上体を起こしながら言った。
「初めまして──と言ってもお互いもう知ってるから、初対面って感じがしないね」と言いながら、蓮斗は口角を吊り上げた。

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