Яoom ИumbeR_55

Яoom ИumbeR_55は「男性→女性への腹パンチ」を主に扱う小説サークルです。未成年の方、現実とフィクションの区別のつかない方は閲覧しないでください。

2021年02月

NOIZ7のコピー


 綾がベッドの上に身を起こそうとすると、ノイズに蹂躙された内臓が悲鳴を上げた。「うぶッ!?」とえずいて口元と腹を押さえ、ビデオの一時停止を押したように固まる。内臓がギュルギュルと音を立てて、捻れるように痛んだ。鷺沢がベッドに駆け寄り、綾の身体を支えた。
 医務室の中央では憔悴しきった男性戦闘員が丸椅子に座っている。美樹は壁に寄り掛かって腕を組み、スノウは部屋の隅の椅子に座ったまま、両手で頭を抱えていた。
「あの女は会議室に突然現れたんです……」と、男性戦闘員が何も無い床をじっと見つめたまま話し始めた。「現れたと言っても、ドアを開けて入ってきたのではありません。我々が着席して会議が始まるのを待っていると、まるで最初からずっとそこにいたかのように、いつの間にか部屋の隅の椅子に座っていたんです。もちろんざわつきましたが、如月シオン上級戦闘員が戻ってこられたと喜ぶ者もいました。その中の一人が駆け寄り、次の瞬間に崩れ落ちるように倒れたんです。なにが起きたのか、誰もわかりませんでした……」
「会議なんて予定されていなかっただろう」と鷺沢が険しい顔をして言った。
 戦闘員は首を振った。「ファーザーの声で放送がありました。本部に残っている戦闘員は、直ちに中央会議室に集合するようにと。半年振りのファーザーの指示に驚きましたが──」
 怪我人は男女合わせて十八名に及んでいて、そのほとんどは綾と同じように一撃で戦闘不能にされたそうだ。上級戦闘員ですら一撃で倒され、残った一般戦闘員やオペレーターは手も足も出ず、蜘蛛の子を散らすように逃げ隠れたらしい。男性戦闘員が医務室から出ていくと、不安そうに医務室を覗き込むオペレーターや一般戦闘員の姿が目に入った。鷺沢は廊下に出て、残った戦闘員は自分の持ち場で待機し、オペレーターはなるべく一箇所に固まるように指示した。
「──なにがどうなっているのか、話してもらうぞ」
 美樹がスノウに言った。問い詰めるのではなく、語りかけるような口調だった。「ノイズ・ラスプーチナと言ったな。あれはシオンなのか?」
 美樹の言葉に、スノウは黙って首を振った。
「あれは、お姉様じゃない……」
 暗い声でスノウが言った。
「じゃあ誰なんだ? お前のもう一人の姉か? それとも親戚か?」
 スノウはまた首を振った。なにかを言おうとして息を吸い込み、ため息を吐くのを繰り返した。やがて決意したように顔を上げた。
「もう全部話すわ……あれは以前お姉様の中にいた、もう一人の人格なのよ……」
 美樹と鷺沢は顔を見合わせた。綾も驚いた顔をしている。
「……なんだその安っぽい漫画みたいは話は」と、美樹が呆れたように言った。「あいつとの付き合いは二年になるが、そんな気配は全く無かったぞ」
「付き合って二年……? じゃあ美樹はお姉様の何を知っているの?」と言いながら、スノウは美樹を睨んだ。「おかしいと思わなかったの? お姉様ほど聡明で、自分で言うもの何だけど世界的企業の長女が、理由もなく遠く離れた日本で一人暮らししているわけないじゃない! それこそ安っぽい漫画みたいな設定だわ。お姉様に及ばない私ですら飛び級で大学を卒業しているのよ? お姉様ほどの人が今だに日本で高校に通っているなんて、アスクレピオスとラスプーチナ家にとってはとんでもない機会損失よ!」
 スノウは一気に捲し立てた後、下を向いて首を振った。
「──ごめんなさい。人が踏み込んでほしくない領域には踏み込まない……美樹は昨日言ってたわよね。知らなくて当然だわ……」
「その踏み込んでほしくない領域が、とんでもない機会損失を受け入れてまでシオンが日本にいる理由なんだな?」
 美樹の言葉に、スノウが頷いた。
「……お姉様はね……お父様を殺してしまったのよ」
 スノウが震えながら絞り出した言葉に、三人は絶句した。
 綾が呻きながらベッドから降りた。
 鷺沢と美樹が慌てて止めたが、綾は振り切って肩で息をしながらスノウを睨んだ。
「何よそれ……? シオンさんがそんなことするわけないでしょ!?」
「不幸な事故だったのよ!」
 スノウが叫んだ。目に涙を浮かべながら歯を食いしばっている。「お父様はとても忙しい方で、その日は半年ぶりに家に帰ってきたの。両手にプレゼントを抱えて、私達を驚かせようとこっそりと階段を上って来た。そして喜んだお姉様がお父様に抱きついたの……。お父様はバランスを崩して、階段からお姉様と一緒に落ちてしまった。お父様はお姉様を庇って、自分をクッションにして守ったんだけど、大理石の床に後頭部を強く打って……。不幸な事故よ……私はもちろん、家族は誰もお姉様を責めなかった……。対外発表では、お父様は一人で足を滑らせたことになっているわ……今でもね」
 医務室の中は水を打ったように静かになった。
 「綾の言う通りよ……私だってそう思ってる」とスノウがポツリと言った。「お姉様がそんなことするわけない……。あれは不幸な偶然が重なってしまった事故なのよ。私も家族ももちろん強いショックを受けたけれど、でもお姉様のせいにはしなかった……。何回も言うけれど、これは事故なのよ。でもお姉様だけはそう思わなかった……。自分がお父様を殺したんだと、お姉様は自分を許さなかった。お姉様はそれはもうひどく落ち込み、ベッドから起きられず、食事も摂れない状態になった。そして数日後に意識を失って倒れたの」
 冬の海のような沈黙はまだ部屋を支配している。
 スノウは涙を袖で拭うと、話を続けた。
「生まれた時から『良い子』『良い子』と周囲から言われ、期待され、自分自身もそうあろうと努力してきたお姉様が犯した最大のタブー。お姉様はそれを受け止めきれなかった……。そして、病院のベッドで目が覚めたお姉様は、事故のことはなにも覚えていなかった。何事もなかったかのように、いつもの明るいお姉様に戻っていて、なぜ自分が病院にいるのかすらわかっていなかった。私達家族はむしろ好都合だと思って、対外発表と同じ内容をお姉様に伝えた……。でも、なにも解決していなかったの……。お姉様はちゃんと覚えていた……お父様の死の記憶と真実を、別の人格に移しただけだった……」
「その移された人格というのが、さっき綾を襲った女か……」
 美樹の言葉に、スノウは苦い顔をして頷いた。
「……お姉様は自分の中に、自分ではない『悪い子』を造ってしまったの。それ以来、お姉様の様子が時々おかしくなった。『悪い子』のノイズが表に現れてくるようになった。私はお姉様じゃないってすぐにわかったわ。お母様はすぐに専門の医者を雇って、医者の提案でお姉様を、お父様の死を想起させるラスプーチナ家から遠ざけることに決めた。ラスプーチナ性ではなくお母様の如月性を名乗らせて、日本のお母様の実家に住まわせて、アナスタシア聖書学院の初等部に編入させたの。雇った医者が優秀だったみたいで、日本に行く前の段階でノイズはすっかり出てこなくなった。医者はノイズが消滅するのは時間の問題だけれど、念のために高校を卒業するまではお姉様は日本で暮らしたほうがいいと言ったわ。これがお姉様が日本にいる理由……」
 綾はやるせないような表情を浮かべままま壁を叩いた。「過去に何があったって、シオンさんはシオンさんじゃない……」
 そうだな、と美樹も暗い顔で言った。
「だが、少しわからないな」と、美樹は腕を組んで言った。「今の話だと、日本に来る前にノイズはほとんど消滅しかかっていたんだろう? シオンが高校卒業まで日本に滞在するのはあくまでも保険的な措置で、問題はほぼ解決していたはずだ。さっきも言ったが、私はこの二年間、シオンがそんな問題を抱えているなどとは微塵も思わなかった。お前だって来日するたびにシオンの家に泊まったんだろう? シオンにおかしいところがあればすぐに気が付いたはずだ。なぜ消えたはずのノイズが存在しているんだ?」
 スノウは、わからないと言って首を振った。「私にも、正直お姉様になにが起きているのかわからないの……。そもそもこんなに長い時間ノイズが出現し続けていることすらあり得なかった。子供の頃ですら、長くても一時間程度しか出現しなかった……。私は来日前からあらゆる可能性を考えたけれど、でもあれはノイズで間違いないわ。あの恐ろしい笑顔は子供の頃に見たままだったし、ノイズは『良い子』と『悪い子』という区別にとてもこだわっていたから……」
「なるほど。そういえば私にも『悪い子』だとか言ってきたな……」と言いながら、美樹は目を瞑って鼻筋を揉んだ。
「私がノイズの出現に気が付いたのは二週間くらい前。アスクレピオスの財務システムにハッキングがあったの。気がついたのは私だけ。大型の投資案件に紛れ込ませた不正融資で、融資先は日本のレイズ社だった。アスクレピオスの中では話題にすら上がっていなかった会社よ。詳しく調べたら、半年前お姉様が行方不明になった直後から不正融資は始まっていて、多くの国や衛星を経由していたけれど、どうやらお姉様の部屋のパソコンからアクセスされているみたいだった。私は誰にも言わず、社内でレイズ社との業務提携の稟議を通して日本に来た。業務提携するつもりなんて最初から無かったわ。私がレイズ社に接触すれば、お姉様といずれ会えるかもしれないと思って……。レイズ社が予想以上に提携に乗り気で、中身が乏しい会社だったのは計算外だったけどね」
「しかし、ノイズは一体なにをしようとしているんでしょうか? そんなウイスキーメーカーに資金提供しても、ノイズ自身にメリットは無い気がしますが」
 鷺沢の言葉に、スノウも首を振った。
「私にもわからない……。ただ、これだけははっきり言える」
 スノウが顔を上げて、全員を見回しながら震える声で言った。
「ノイズの頭脳と身体はお姉様と同じなの……ノイズが何の考えも無しに動いているとは思えない。絶対に何か意味と計算があって行動しているはず……。今日、私達の前に姿を現したのも、そもそも私に不正融資を発見させたのも、計算があっての行動だと思う」
「如月上級戦闘員と同じ……」と、鷺沢が顎に手を当てて言った。「会議室では私を含め、誰もノイズの動きを把握できませでした。あれは全員の死角を一瞬で把握し、共通する死角の中を移動しているんです。如月上級戦闘員の桁外れな頭脳と身体能力が合わさらないと出来ない芸当です。また、如月上級戦闘員は今まで相手を必要以上に傷つけることがないように、相手の急所をあえて外して一撃で倒す戦闘スタイルでした。でもそれは逆に言えば、相手の急所を一瞬で把握できる能力があるからこそ可能なんです。先ほど神崎上級戦闘員が倒された時のように、その気になれば相手に最大限の苦痛を与えることが出来るということに他なりません」
「仮にノイズと戦闘になったら、本気になったシオンが頭脳と能力とフル活用して、手加減無しに襲ってくるということか……」と、美樹がこめかみを揉みながらがら首を振った。「心強い味方ほど、敵に回ると恐ろしいものだな」
「まだ敵に回ったと決まった訳じゃないじゃないですか」と、綾が言った。
 その時、微かに地鳴りのような音が聞こえた。
 全員が無意識に天井を見上げた。
 一瞬置いて、緊急事態を告げる警報が鳴り響いた。
 鷺沢が通路に走った。
 ドアの向こうでは戦闘員達が慌ただしく走っている。
 鷺沢が一人を呼び止めて事情を聞いた。首都高側の入り口に、何者かが車で突っ込んだらしいと男性の戦闘員は言った。「緊急用のシャッターが下されているので、中に入っては来られないはずです。しかし警備担当の報告によると、ロータリーには体当たりした車がまだ残っているそうです」
 鷺沢はすぐにスマートフォンから館内放送を通じて指示を出した。綾はベッドから降りて、パジャマのまま戦闘用のグローブをはめている。「まだ無理だ」と制止する美樹に対して「寝ていられない!」と首を振り、吸入器を口に咥えて緊急用の噴霧式麻酔薬を吸った。
 スノウも医務室を出ようとして走った。
「お前はここにいろ!」と、美樹がスノウの肩を掴んだ。
 警報は相変わらずけたたましく鳴り響いている。
「来たのはノイズの関係者で間違いない! ノイズ本人だっているかもしれない! ノイズがいるということは、お姉様だってそこにいるのよ!」
 スノウが険しい顔をして美樹を振り返りながら言った。素直に言うことを聞くとは思えない勢いだった。仕方なく、スノウを含めた四人で首都高側の入り口に向かった。閉鎖されているシャッターの内側には、十人ほどの戦闘員が待機していた。
「報告します」と、紺色の競泳水着のような戦闘服に、太ももや二の腕までを覆う黒いサポーターを身につけた小柄な女の子が、敬礼しながら鷺沢の前に歩み出た。背中まである黒髪で、背はスノウと同じく150センチほどしかない。顔つきは身体のイメージ通り幼いが、表情は責任感に満ちている。
「朝比奈(あさひな)戦闘員」と、鷺沢は言った。
「はい。この中では私が最もランクが高いので、僭越ながらこの持ち場は私が取りまとめをしています。不審車両は二台。まだシャッターの外で待機しています」
 ハキハキとした口調で朝比奈が報告した。下手したら中学生に見える容姿からは想像できないほどの責任感のある口調だった。
 鷺沢が頷いて、その場の全員を見回した。「よし、これからシャッターを開ける。表に出るのは私と鷹宮上級戦闘員、そして朝比奈戦闘員だ。他の人間は内側で待機。神崎上級戦闘員、どうだ?」
「いけます」と、綾が答えて、拳と掌を合わせた。「麻酔が効いているだけだ、無理はするな」と鷺沢が言った。
「私も出る」と、スノウが進み出た。何かを言いかけた美樹を手をあげて制した。「わかってる。でも行かせて。私はお姉様が帰ってくるのなら、なんだってするわ」
 何かあったらすぐにシャッターを閉じろと鷺沢が言って、一人が通れるギリギリの幅で両開きのシャッターが開かれた。
 車から見て左から朝比奈、鷺沢、美樹、スノウ、綾の順番で横並びになる。
 黒塗りの車が二台停まっていて、車種は最新式のトヨタのセンチュリーとクラウンだった。クラウンにはプッシュバンパーが取り付けられている。こちらが体当たりした車体なのだろう。運転手はまだ乗っているらしいが、車内が暗くよくわからない。やがてセンチュリーの助手席が開き、黒いスーツを着た男が降りて後部座席を開けた。
 ドアの開いた後部座席から、ひときわシワだらけのスーツを着た男が難儀そうに降りてきた。
 かなりの肥満体で、清潔感がない容姿をしていた。
「まさか、賎妖か?」と、鷺沢が眉を潜めて言った。
 後部座席から降りた男が、両手を広げて歩み寄ってきた。
 鷺沢達が身構える。
「あっ」と、スノウが声を出した。
 車から降りてきたのは、三神の秘書を勤めている自らを「豚」と名乗った男だった。

NOIZの前編はあと2〜3話程度を予定しているのですが、今後のストーリーを調整する必要が出てきたため、更新ペースが少しゆっくりになります。
お待たせして申し訳ありませんが、どうか飽きずに読んでいただければ嬉しいです。
よろしくお願いいたします。

姉妹2のコピー

 スノウの所有するロシア製の高級車「アウルス」は静かに首都高を疾走した。
 前方を走る鷺沢の乗った車を追いながら、助手席の美樹が運転手に細かい指示を出している。
 後部座席には綾とスノウが座っている。空間は十分な広さがあり、座り心地は恐ろしく快適で、まるでリビングがそのまま移動しているようだ。しかしスノウはずっと親指の爪を噛みながら身をかがめ、険しい顔をしている。
「大丈夫?」と綾がスノウに聞いた。「車出してもらってなんだけど、私達を下ろしたらすぐにホテルに帰ったほうがいいわ。別にあんたが嫌いとか、意地悪とかで言っているんじゃないの。単純に危険なのよ。アンチレジストの本部に何者かが侵入したなんて前代未聞だし、鷺沢さんの話だと結構な被害も出ているみたい。もし強力な敵がいたら、私や美樹さんでも守れないかもしれない。悪いことは言わないから、本部に着いたらすぐに帰ること。わかった?」
 綾も美樹も、それぞれセーラー服と巫女服を模した戦闘服に着替えている。
 本部に侵入した敵がまだ居座っているとしたら戦闘は避けられない。それ以前に厳重にセキュリティがかけられているアンチレジスト本部に侵入できる敵とは、一体何者なのか。
 スノウは「わからない」と言って首を振った。顔色が悪い。「あまり見くびらないで。私やお姉様は一般人に比べて狙われる危険性が高いから、いざとなったら自分で自分の身を守れる術は子供の頃から身につけている。こう見えても結構強いのよ? 信じられないのなら一度手合わせしてみる?」
「強がってる場合じゃないでしょ? 相手は人妖かもしれないのよ? 誘拐犯なんかとは訳が違う、人間離れした怪物なのよ?」
 スノウは追い詰められたような表情のまま、何も言わずに窓の外に視線を移した。
 車は首都高の地下トンネルに入り、緊急車両用と書かれているシャッターの前で停まった。鷺沢が車から降りて、隣に埋め込まれたパネルに手をかざすと、自動でシャッターが開いた。内部はオレンジ色の照明が等間隔に配置されたトンネルが続いている。しばらく走るとロータリーのような場所に出て、その先はコンクリートの壁で行き止まりになっている。マイクロバスのような車と、数台の乗用車以外は何も無い。
 美樹が「着いたぞ。アンチレジストの本部だ」と言って助手席から降りた。どう見ても行き止まりだ。スノウも戸惑いながら車から降りる。
 鷺沢が壁の一部に掌を当てると、壁の中央が左右に開いて入り口が現れた。先ほどのシャッターと同じ仕組みだ。
 四人が中に入る。
 内部もこれといった装飾はなく、外壁と同じコンクリート剥き出しの壁が一直線に伸びている。左右にはグレーに塗装された鉄製の扉が多数あるだけだ。
 荒らされた様子はないが、静まり返っている。
 綾と美樹が視線を合わせて頷いた。綾が先頭に、美樹が最後尾に立って、鷺沢とスノウを挟むように一列になって進んだ。
「まるで一昔前の生物研究所みたい……」と、スノウがしんがりを歩く美樹を振り返って言った。
「一昔前どころか本当に古い」と、美樹が言った。「だが、今回のような場合には役に立つ。内部は一本道で、見ての通り極力遮蔽物を無くしている。敵が隠れられないようにな。出入口は今入ってきた所と、この通路の突き当たりの二箇所のみで、一本のチューブのような構造だ。だからこの隊列が襲われたときに最も対処しやすい」
「車が随分と少ないように思えたけど?」と、スノウが言った。
「隊員の多くは地上の隠し通路から入っている。地下鉄の駅やビルの中に直通している通路があって、ロータリーの手前に出られる。私も車で来たのは久しぶりだ」
「ドアの中の設備は新しいんですよ」と、鷺沢が言った。「ここまで閉塞感があると職員のメンタルにも影響しますから、会議室やトレーニングルームの内装には気を使っています」
 静かに、と先頭を歩く綾が言った。
 微かに呻き声のようなものが聞こえてくる。
「中央会議室だな」と、美樹が言った。視線の先に木製のドアがある。
 綾が慎重にドアを開けた。
 三十人ほどが入れそうな会議室だが、コンピューターが床の上に落ち、椅子や机が散乱している。倒れている戦闘員やオペレーターの姿が目に入った。四人がそれぞれ駆け寄って介抱すると、いずれも致命傷ではないようだ。
 突然、天井に埋め込まれたスピーカーが起動した。
 ──遅かったな。
 機械加工された男性の声。
 聞き慣れた声だ。
「ファーザー?」と鷺沢がつぶやいた。
 四人は無言で天井を見上げた。
 ──アンチレジストがここまで不甲斐無いとは思わなかった。人妖相手に、よく今まで持ち堪えられたものだ。
 鷺沢が天井に向かって叫んだ。「ファーザー、どこにいるんです?! みんなあなたを待っていたのに、そんな他人事みたいに……」
 ファーザーは低い声で笑った。
 スノウはガタガタと震えている。
 異様な怖がり方だ。
 歯がガチガチと鳴り、その音は近くにいた綾にまで聞こえた。綾が気がついて、スノウの手を握った。
「どうしたの? 大丈夫?」
 綾が問いかけても、スノウは戦慄したままだ。こんなスノウの姿を見たのは初めてだった。美樹と鷺沢もスノウのただならぬ様子に気が付き、近くに駆け寄った。美樹が屈んでスノウに目の高さを合わせて「どうした?」と聞いた。
「な……なんで」と、スノウが震える声で言った。
 スノウは両手で頭を抱える。「なんでファーザーシステムが起動しているの……? こっちから操作できなくなったはずなのに……」
「……なんだと?」と美樹が言った。
 スノウは小刻みに首を振った。歯が鳴らないように、必死に歯を食いしばっている。
 ──あら? スノウもいるの?
 スノウの顔から、ふっと表情が消えた。
 突然地面が消えて、自分が奈落に落ちていくのを理解した瞬間のような顔をしていた。
 突然ファーザーが女性のような口調になったので、スノウ以外の三人は目を見合わせた。
 スピーカーに一瞬ノイズが走り、プツンと音を立てて通話が途切れた。
 会議室は水を打ったように静かになった。
 事態が把握できない。
 今のは一体何なんだ。
 やがて、コツコツという足音が廊下に響いてきた。
 こちらに向かってくる。
 誰も口を開かず、押し黙ったまま会議室の入り口を凝視した。
 人影が現れた。
「……シオンさん?」
 綾が呟くように言った。
 その人は、胸元の大きく開いた黒いドレスを着ていた。ぬめるような光沢の、最高級のシルクが使用されていることがひと目でわかる。赤いエナメルのヒールから黒いガーターベルトの付いたストッキングが伸び、ドレスの中に続いている。深紅のジャケットを半脱ぎにして腕に掛け、両手には黒いレースの手袋をはめていた。そして、所々に血のような赤い毛がマダラに混ざった長い金髪を、ツインテールにまとめている。
「お前……なにをしている?」
 美樹が幽霊を見たような口調で言った。
「や……やっぱりあんたの仕業だったのね!」
 突然スノウが叫んだ。三人が驚いてスノウを振り返る。スノウは両手を血が出るほど握り込み、歯をむき出しにしてドレスの女性を睨んでいた。
「あら? どうしたのスノウ? そんなに怖い顔をして?」
 女性は歌を歌うような柔らかい口調で言った。スノウの取り乱した様子など意に介さず、人差し指で自分の唇を撫でながら首を傾げている。「久しぶりの姉妹の再会なんだから、もう少し喜んでもいいんじゃないかしら?」
「お前は私のお姉様じゃない!」
 スノウは喉が裂けそうなほどの勢いで叫んだ後、憎々しげに食いしばった歯の隙間から「……ノイズ・ラスプーチナ」と絞り出すように言った。
「ノイズ・ラスプーチナ? シオンじゃないのか?」
 美樹がスノウからノイズに視線を移した。服装や髪の色以外はシオンそっくりだが、表情や雰囲気がまるで違う。ノイズはゆっくりと室内に入ってきた。
「シオンさん何やってるの?! みんな心配してたのよ!」と言いながら、綾がノイズに近づいた。
「綾!? ダメ!」とスノウが叫ぶ。
 ノイズの姿が一瞬で消えた。
 四人が呆気に取られる暇もなく、ゴリュッ……という嫌な音が室内に響いた。
 再び姿を現したノイズは綾のセーラー服のリボンを掴み、前屈みになった綾の腹に膝を打ち込んでいた。
「──ぐぷっ!?」と、綾の口から水っぽい音が漏れた。
 ノイズは「くふっ」と小さく笑うと、綾の腹に打ち込んだ膝を別の生き物のようにねじり、胃と肝臓をすり潰すように掻き回した。ぐぢゅり……という厭な音と共に、綾の身体が電気に打たれたようにビクンと痙攣した。
「ぎゅぶえッ?! げぅッ?! ゔぶっ……う……うぶえろおぉぉぉぉ……!!」
 綾は膝から崩れ落ち、額を床にしたたかに打ち付けた。そのまま床にエビのように丸まり、白目を剥いたまま嘔吐した。一瞬で急所という急所を同時に潰されたことによる凄まじい苦痛が身体中を駆け巡り、両手で腹を抱えたまま痙攣している。
「まぁ汚い。人前で嘔吐するなんて、私だったら恥ずかしくて生きていけません」
 ノイズは笑みを浮かべたまま口元に手を当て、蔑みの混ざった視線で綾を見下ろした。
 再びノイズの姿が消え、スノウの前に表れた。横切られたはずの美樹と鷺沢にはノイズの姿は見えず、風だけが美樹と鷺沢の髪を揺らした。
 ノイズは中腰になって、真っ青になったスノウの顔に鼻が触れ合うほど自分の顔を近づけた。
「そんなに怖い顔しないで? 大丈夫、スノウの大好きなシオンは、ちゃんと『良い子』にしているわ」
 ノイズが至近距離でスノウの目を覗き込んで首を傾げた。顔は満面の笑みだが、目は全く笑っていない。綺麗なエメラルドグリーンの瞳の下半分は、内出血したように赤色がせり上がっている。シオンと同じく顔の造形が異様に整っているだけに、背筋が凍るような不気味さがあった。
 スノウは恐怖を振り切り、ノイズに向けて蹴りを放った。体幹と重心を固めた、美樹や鷺沢が見ても唸るような見事な蹴りだった。攻撃が当たる前にノイズの姿が消え、スノウの蹴りは空を切った。
 ノイズは机の上に姿を現した。 
 下着が見えるのも構わずしゃがみこんで、「危ないじゃない?」と言いなら自分の小指を蠱惑的に舐めている。
「あら? あなた……」とノイズが嬉しそうな顔をして、スノウから美樹に視線を移した。「良い目をしているわね? 目の奥底が暗いわ。『悪い子』の目……過去になにがあったの?」
 何が嬉しいのか、ノイズは限界まで口元を釣り上げた。
「許さない……絶対に許さない!」と、スノウが叫んだ。
 スノウが美樹の横をすり抜け、ノイズに飛びかかった。跳躍して前転し、ゴシックロリータのスカートを翻してノイズ目掛けて踵落としを仕掛ける。シオンの得意技だ。派手な音を立てて机が割れたが、ノイズの姿は既に消えていた。ノイズはそのまま姿を表さず、床に転がった綾が苦しげに呻く声だけが残った。


※こちらの文章はラフ書きになります。製本時には大きく内容が変わる可能性があります。

NOIZ7

イラストレーターさんが「イラストの息抜きにイラストを描く」というのが最近わかった気がします。
少し前から本編を書く前に筆鳴らしとして、頭を空っぽにして落書きしてから書くようにしています。
現在書いている本編に合わせて、シオンさんとスノウのネタが多めです。

スクリーンショット 2021-02-18 12.14.02


【コンプレックス】
 スノウがまた会見でやらかしたらしい。
 シオンは自室で頭を抱えながら、ひっきりなしにスマートフォンに流れてくるニュースの見出しを目で追った。
「『私の言う通りにしろ』と威圧的。ロシアの大手製薬会社アスクレピオス創業家の令嬢」
「『プランは全て私が考える』と一喝。提携先立場無し」
 名誉のために言うが、スノウは有能なのだ。
 事実スノウの発案で業務提携した企業のほとんどは最初こそ反発するものの、結果的に当初の目論見以上の成果を挙げ、円満に感謝されて終わることがほどんとである。失敗した提携は決まって相手がスノウに反発し、勝手にプランを書き換えた場合に限っている。
 それに身内の贔屓目ではなく、可愛いところもあるのだ。
 少なくとも姉である自分は慕ってくてれいるようで、来日するたびに自分の所に泊まりに来ては猫のように甘えてくる。好きなゴスロリブランドをに一緒に行くと、子供のようにはしゃぐ。そして私が料理を作ろうとすると「お姉様は休んでて! ここは私がやるから!」と気を使ってくれる健気な面もあるのだ。
 本人からはニュースになっていることなど知ってかしらずか、あと一時間ほどで着きますと可愛い絵文字付きのメールがきた。

「あのねスノウ、発言する時は相手がどう思うか考えてから発言しないと……」
 シオンの声に応える代わりに、スノウはシオンの腰に手を回し、身体に顔を押し付けた。ソファに座ったシオンに膝枕をされたまま抱きついているスノウの姿を見たら、先ほど記者会見でコテンパンにやられた相手企業の役員はなんて思うだろう。
 無意識にシオンもスノウの頭を撫でてしまう。これではまるで甘えている犬だ。
「見えない……」とスノウが静かな声で言った。
「え?」と、シオンが戸惑った声で言った。
「お姉様の顔が見えない! その胸で!」
 胴体の方に顔を向けているスノウが言った。確かにシオンからもスノウの顔が見えない。
「お姉様が私に来るはずだった栄養を全部持っていったのよ……。それに性格だって、本当はお姉様みたいに誰からも好かれる性格になりたかったわ……」
 スノウがさらに強く抱きついた。
 こうやって甘えてくる時は、なにか嫌なことがあったのだろう。
 本社の人間に会見を咎められたのかもしれない。ここは姉として慰めないわけにはいかない。甘えられるだけの存在ではなく、頼れる姿を見せなければ。
「大丈夫よ。スノウは今のままでもとても魅力的だもの」
 本当? と言ってスノウが顔を上げた。うん、可愛い。
「性格や体型なんて簡単に変わるものではないし、自分だけの力ではどうにもならないわ。周囲の環境やサポートがとても重要なの。スノウの責任じゃないわ」
 スノウが起き上がってシオンの横に座った。
「そう……なのかな?」
 スノウが俯いたままポツリと言った。可愛い。
「そうよ。だからまずはちゃんと栄養を摂って、しっかり休息することが大切なの。あまり根を詰めずに、今日くらいはゆっくり休んでね」
「……うん」
 スノウが頷いて、シオンが微笑んだ。
「そうと決まったら、まずはしっかり栄養と摂らないとね!」
「……えっ?」
 スノウの表情があからさまに変わった。
 顔色が悪いスノウに反して、シオンはニコニコしている。「いつも疲れているのにスノウが料理を作ってくれるから、今日はその前に私が頑張って作ったんだから!」
 シオンが胸の前で力強く両手を握った。
 いや……あの……と言い淀むスノウを尻目に、シオンはキッチンに入るとゲル状になった紫色の物体をトレイに乗せて運んできた。しかも表面が真っ黒に焦げている。
 絶句するスノウに、シオンがニコニコしながら言った。
「頑張ってグラタン作ったのよ! タマネギを買い忘れて紫キャベツを使ったからちょっと色が悪いけれど、栄養満点の納豆もちゃんと入って──」
 スノウは意識が遠のくのを感じながら、明日の仕事が全てキャンセルになった場合のスケジュールを考え始めた。


【ロシア人美人コスプレイヤーKZさん】
「へぇ〜、コスプレって文化が日本にはあるんだ……」
 風呂から上がったスノウがソファに寝転びながら呟いた一言に、シオンはぎくりと背中を硬直させた。トレイに載せているティーポットとカップが小刻みに震えている。
「うわ! すご! こんなに人だかりができるの?! お姉様、見て見て!」
 平静を装ってコーナーソファに座ったシオンに、スノウが目を輝かせながらタブレットの画面を見せてきた。こう言う時は子供っぽく可愛いのだが、シオンは内心焦っている。そ、そうね……とつい素っ気ない返事をしながら、スノウの画面を盗み見た。コスプレイヤーを取り囲むカメラマンが黒山の人だかりになっている。前回のコミックマーケットに参加している人気コスプレイヤーを特集したネット記事だ。
 そして視界の隅に見つけてしまった。
 関連記事で表示されている、「話題沸騰! 人気ロシア人コスプレイヤー・KZさんインタビュー ”コスプレはもはや世界的文化” 自身が日本のアニメに衝撃を受けた日を語る」という記事を。
 これはまずい。
 いや、コスプレが人気なのはまずくないが、人気ロシア人コスプレイヤー・KZさんのくだりが非常にまずい。
 スノウは俄然興味が出たらしく、ケーキを食べながら「コミケっていうイベントがあるのね!」などと言っている。まずい。次のコミケに連れて行ってくれなどと言われると非常に困る。なぜならその日シオンはヴァ○パイアシリーズのモ○ガンになる予定なのだ。
「ス、スノウは行っても面白くないかもしれないわよ」と、シオンが言った。声が少し震えている。「私と違ってスノウは漫画やアニメは見ないし、そういうのは元ネタが分からないと……」
「うーん、でもこの人達すごく楽しそうなのよね。楽しそうな人達を見るのは好きだから……」と、スノウが言った。「ほら、私達の国ってなんか硬いじゃない? もしロシアで開催できれば、そういうイメージも少しは薄まると思うし、なにより潜在的な需要があるのかも……」
 まずい、スノウがビジネスの顔になってきた。
 母国開催するなどと言い出したら、需要調査として日本のコスプレイベントのために来日する外国人の数を調査するだろう。カメラマンはもちろん、自らコスプレ参加している外国人も調査するはずだ。人気ロシア人コスプレイヤー・KZさんなど真っ先にスノウの目に留まる。
「……よかったら、今度一緒に行ってみる?」と、シオンが言った。
「えっ? いいの?!」
 スノウが目を輝かせた。
 やむを得ない。
 コスプレをしていた程度でスノウがシオンを嫌いになることはありえないが、どうせバレるのなら、バレ方というものがある。それに吸血鬼は、相手を噛むことで仲間を増やすと言うではないか。
 そう、モリガ○には、リ○スという妹がいるのだ。
 体型的にもピッタリだろう。
 呑気に喜ぶスノウを見て、シオンは犬歯を見せて笑った。


【前衛芸術】
「や……やっと出来ました……」
 シオンがヘナヘナとキッチンの床に座り込んだ。肩で息をしながら、近くにあったミネラルウォーターを煽るように飲む。床には黒いチョコレートの破片や、爆発して飛び散ったクリームが散乱していた。とりえあえず大きな破片はひょいひょいと手でつまみ、クリームは布巾で簡単い拭いた。あとはフラーバとルンバに任せればいい。
 呼吸が整い、ようやく立ち上がると、ゴムでひとつに留めた長い金髪を解く。
「素晴らしい……。これで、もう料理下手なんて言わせないですよ……。ふふ……ふ……」
 シオンにしては珍しく、まるでマッドサイエンティストのような邪悪な笑みを浮かべている。
 システムキッチンの上には、便宜上チョコレートケーキと呼ばれるべき物体が置かれていた。
 その物体はチョコレートケーキのような色と大きさをしているが、形状はなんとも名状し難く破壊的であった。茶色いレンガのような物体は所々が爆発したように弾け、白いクリーム状の液体がものすごい勢いで叩きつけられいる。叩きつけ方もなんとも邪悪である。現在ではすっかり見なくなったが、昭和のバラエティ番組などで「パイ投げ」と称し、皿に盛られたクリームを相手の顔目掛けて投げ合うことがあったが、このクリームの叩きつけ方はまさにそれだ。
 夫婦喧嘩をした陶芸家が、自らの作品に八つ当たりをしたのなら、もしかしたらこんな作品ができるのかもしれない。その物体の前に「妻への怒り」と作品名の書かれたプレートを置けば、何人かの専門家はあるいは感動するだろう。もしくは新進気鋭な前衛芸術家の作品のようにも見える。サザビーズに出品したのなら、あるいは数億円の値がつくのかもしれない。
 しかしシオンはその物体を丁寧に梱包し(梱包は至極綺麗であった)、綾と美樹に電話をかけた。チョコレートケーキを作ったので、一緒に食べませんか? などと訳のわからない言っている。この部屋には「妻への怒り」、もしくは前衛芸術作品はあるが、チョコレートケーキなど無いなずなのに。
 一時間ほどして、美樹と綾が部屋に現れた。
 綾はお守りを両手で握りしめ、目に涙を溜めて内股になって震えている。美樹はなぜか白装束を着て、虚空を見つめて祝詞を唱えていた。まさかこの格好でバイクに乗ってきたのだろうか。
 キッチンの方ではルンバとフラーバが喧嘩するように床を掃除している。

予告


 シオンのマンションを訪れた翌日、綾と美樹は指定された午後六時にスノウの宿泊しているホテルを訪れた。
 海外の要人が宿泊するホテルで、スノウの滞在しているスイートフロアには着物を着た専属のアテンダントがいて、綾と美樹をエレベーターから部屋まで案内してくれた。ドアをノックすると、会見に同席していたスノウの秘書がドアを開けて出迎え、お待ちしておりましたと流暢な日本語で言った。
 室内は家族向けのマンションのように広く、歴史を感じる英国調のインテリアでまとめられていた。秘書がリビングに案内すると、スノウは相変わらずゴシックロリータの服を着て、執務机で真剣な顔をしながらパソコンを操作していた。パソコンの隣には部屋の雰囲気にそぐわないカラフルなチュッパチャプスのホイールディスプレイが置かれていて、スノウが既に食べたのか、三分の一ほどが無くなっている。
「そこに座ってて」とスノウがパソコンのディスプレイを見たままぶっきらぼうに言い、ロシア語で秘書になにやら指示を出した。秘書が二人にソファを勧めると同時に、ルームサービスが三人分の紅茶を持って部屋に入ってきた。紅茶の他に小皿が二つあり、イチジクのジャムと小さなスプーンが添えられている。シオンが好きだった組み合わせだと綾は思い、胸が詰まるような感覚を覚えた。
 秘書が一礼して別室に移動すると、三人はしばらく無言になり、スノウがキーボードを叩くカタカタという音だけが広いリビングに響いた。スノウは真剣に仕事をしているらしく、時々何か呟きながら画面を見つめ、英語で二本、ロシア語で一本、電話をかけた。ディスプレイから覗くスノウの真剣な顔が青白い光に照らされている。まるで人形が座っているように見えた。シオンも人間離れした現実感が無い容姿をしていたが、スノウも同様に、どこか遠い世界の存在のように思えた。
「電話の内容を聞くに、海外支社の財務諸表を照合しているらしいな」と、スノウの英語を聞き取った美樹が綾に耳打ちした。「相手を雑に扱うポーズをすることは主導権を握るための常套手段だが、どうやら本当に急用らしい。急かさない方がいいだろう」
 しばらくして、スノウが椅子に座ったまま伸びをした。仕事が終わったらしい。スノウはまるでマニ車のようにチュッパチャプスのホイールディスプレイを回し、くじ引きをするように一本を引き出して、慣れた手つきで包み紙を解いて口に咥えた。一日の仕事を終える際に毎回行うルーティンなのか、あまりにも滑らかな動作だった。スノウはチュッパチャプスを口に咥えたままソファに歩み寄り、「悪かったわね。こっちから呼んだのに待たせちゃって」と二人に言った。
 スノウは二人に向かい合って座ると、背もたれに身体を預けてストレッチをするように背中をそらしながら、親指と人差し指で目頭を揉んだ。
「随分と疲れているみたいだな」と、美樹が言った。
 スノウは首を振った。「別にいつも通りよ。やることをやるだけ。まぁ、確かに少し立て込んではいるけどね……」
 強がってはいるが、スノウは明らかに疲労の色が見て取れた。綾と美樹も十分に若いが、スノウはそれよりもはるかに若く、身体も小さいのだ(本人に言うと怒るはずだが)。世界的企業の中枢に属し、海外で商談をまとめるなど、その小さな身体にかかっている重圧はいかほどのものかと二人は思った。もちろんそれに見合うはずの収入は得ているはずだが、スノウの年齢からすればそれは大して重要ではないのかもしれない。
「ウイスキーの業務提携の話は順調なのか?」
 美樹の言葉に、スノウは紅茶を飲みながら首を振った。
「順調もなにも、昨日決裂したわ」
 まるで一度も訪れたことがない店の閉店を告げるような、あっさりとした口調でスノウが言った。あまりの興味の無さに綾が驚いた。
「えっ? そのために日本に来たんでしょ?」
「別に。最初からウイスキー事業なんて興味が無いし。あの程度の利益が見込める商談なんていくらでも作れるわ」
 スノウはカップをソーサーに戻すと、小皿のジャムをスプーンで掬って口に運んだ。そして真剣な顔をして二人に向き合った。
「あの男はむしろ、あんた達の方が関係があるんじゃない? アンチレジストとして監視対象にした方がいいと思うわ」
「どういうことだ?」と、美樹が身を乗り出して聞いた。
 部屋がノックされ、スノウの秘書が顔を出して「お見えになりました」と言った。
「ちょうど良かった」とスノウが言った。
 綾と美樹が注目する中、聡明な雰囲気の女性がリビングに入ってきた。女性はスリットの入ったタイトスカートのスーツを着て、ショートカットの髪を軽く染めている。元上級戦闘員で、オペレーターのリーダーを務めている鷺沢(さぎさわ)だ。現在は行方不明になったファーザーの代わりに代理で総指揮を執っているアンチレジストの重要人物だ。
 鷺沢は驚いている綾と美樹に目で挨拶し、スノウの前に進み出た。
「はじめまして。アンチレジストでオペレーターのリーダーを務めている、鷺沢です。現在、指揮官であるファーザーに代わり、私が臨時で指揮をとっています。ご実家のラスプーチナ家、およびアスクレピオス社からは長年多額の寄付をいただき、感謝しております」
 鷺沢はスノウに対して丁寧に頭を下げた。
 スノウは気まずそうに髪を手櫛で梳いた。「そんなに畏(かしこ)まらなくても構わないわ。べつに私が偉いわけじゃないし」
 綾と美樹は顔を見合わせた。アスクレピオスから資金提供があることは昨日スノウの口から聞いていたが、鷺沢のここまでの平身低頭さから察するに、その額はかなり膨大なことは容易に想像がついた。
 さて、と言いながらスノウは三人に向き合った。「本当はこんな回りくどいことはしたくないんだけど、説明するよりも見てもらった方が早いわ」
 スノウが指を鳴らすと、秘書がキッチンワゴンを押してリビングに入ってきた。ワゴンの上にはウイスキーのボトルが二本とチューリップ形のテイスティンググラスが八脚、紙コップが四つ、小ぶりな三角フラスコが二つ乗っている。ウイスキーのラベルは青と赤の二種類があり、それぞれに凝った書体でレイズモルトのロゴが書かれている。
「これ二本で六十万円だって。青い方がスタンダードラインの『ブルーラベル』で、赤い方がリミテッドラインの『レッドラベル』。都内のバーで未開封のボトルを買ってきたの」
 ボトルの説明をするスノウを三人が無言で見つめた。一体なにをするつもりなのだろうと綾は思った。ほぼ未成年しかいない中、まさかこの出会いに乾杯というわけではあるまい。スノウはスタンダードラインのブルーラベルを手に取り、慣れた手つきでテイスティンググラスと三角フラスコに中身を注いだ。
「綾、飲んでみる?」と、スノウが意地悪そうな顔で言った。
 綾が首を振った。「飲まないわよ。というか飲めるわけないでしょ」
「じゃあ鷺沢。香りだけ試してみて」
 鷺沢がグラスを手に取り、香りを嗅いだ後に顔をしかめた。
「……これは本物ですか?」と鷺沢が言った。
 スノウが頷いた。「本物で間違いないわ。偽造防止のセキュリティラベルも確認できた」
「……ウイスキーは好きでよく飲むんですが、これは溶剤やゴムみたいな、どちらかと言えばネガティヴな香りが強い気がします。アルコールもかなり立っていて、私はあまり好みではないです」
 スノウに促されて美樹も香りを嗅ぎ、似たような感想を述べた。スノウが真剣な顔で何回か頷いた。
「じゃあ、ここからが本題」と言って、ポケットから小さなビニールパックを取り出して三人に見せた。ピンク色の粉薬のようなものが入っている。
「これが何だか、わかるわよね?」と、スノウがビニールパックを振りながら言った。
「チャームの検出薬だ」と、美樹が答えた。
「そう。あんた達もよく使っているでしょ? 人妖が異性の人間を魅了するために分泌する体液、チャームに反応して青く変色する検出薬」
「……なんでのスノウが持ってるのよ?」と、綾が腕組みをしながら聞いた。
「なんでも何も、これウチの機密部署が作っているんだもの。こういった特殊薬の開発と製造、そしてその効果を秘密裏に実地検証できる環境は、我々製薬会社にとって非常に重要なの」
「アスクレピオスにとってアンチレジストは実験場というわけか。多額の寄付もそのためか?」と、美樹が言った。
「もちろん」と、スノウが言った。「でも悪く取らないでほしいわ。あんた達もこのチャーム検出薬を便利に使っているでしょ? 持ちつ持たれつってやつよ。残念だけど、純粋な意味での寄付は世の中にそう多くはないわ。多額の寄付をする代わりに、それなりのリターンは求めている。優先的な情報提供、プロモーションにブランディング、イメージアップや節税。なんらかの見返りや費用対効果があるからこそ、多くの企業や成功者は寄付という名目の広告宣伝費を支払うのよ。ウチとアンチレジストの関係は、プロモーションというよりはビジネスパートナーに近いわ。人妖やチャームのデータは新薬開発に随分と役に立っている。アンチレジストとの提携は、どこかのウイスキーメーカーとの提携とは比べるものバカらしくなるほど我々にとって有益なのよ」
 スノウがブルーラベルの入った三角フラスコに検出薬を入れた。円を描くように振って攪拌し、白いテーブルクロスを背後にかざす。ウイスキーの色に変化は見られない。
 スノウは「セーフね」と言うと、何の迷いもなくテイスティンググラスの中身を一気に口に流し込んだ。鷺沢以下三人がぎょっとした表情になる。綾は「ちょっ!」と言ってスノウに手を伸ばした。たっぷりダブルの量はあったはずだ。スノウは目を瞑ったまま、しばらく口の中でウイスキーを転がしている。徐々に眉間にシワが寄り、そのまま紙コップを引っ掴むと口の中のウイスキーを勢いよく吐き出した。
「ブリャーチ……変なものは入っていないけれど、香りも味も最悪ね」
 スノウが険しい顔をしながら、袖で口元を拭った。「あちこちから粗悪な原酒を仕入れて、なにも考えずに混ぜただけという感じ。アルコールの刺激と、新聞紙を燃やしたような嫌な煙たさが目立つ。苦味と雑味の主張が強いのに変な甘さもあって気持ち悪いわ。こんなものを作るあいつも信じられないし、有り難がって買う奴はもっと信じられない」
「飲んで大丈夫なの……?」と、綾が呆れたように聞いた。
「飲んでないわ。ちゃんと吐き出したじゃない」
「でも……」
「テイスティングくらいするわよ。仮にも業務提携を提案したのは私なんだし。未成年だから味見はできないけれど良いものです──なんて無責任な仕事は私はしないわ。たとえ決裂した交渉であってもね」
 スノウは話しながらレッドラベルの封を開け、ブルーラベルと同様にテイスティンググラスと三角フラスコに注いだ。スノウが香りを嗅ぎ、顔をしかめる。
「さっきのに比べたら多少はマシだけど、こっちも大したことないわね」
 スノウはレッドラベルの入った三角フラスコにチャーム検出薬を入れた。一見変化が無いように見えたが、白いテーブルクロスに透かすと液体の縁が薄く青みがかっている。
「そんな……」と、鷺沢が呟くように言った。
「これは飲まない方がいいわ」と、スノウが言った。「ごく微量だけどチャームの反応が出ている。この濃度なら依存レベルまで相手を魅了することはないでしょうけれど、製造過程でチャームが混入するなんてあり得ない。あの男が意図的に添加していることは間違いないわ。レイズモルトの味は飲むに値しないけれど、なぜか異様な人気を得ている理由はこれよ」
 スノウは三角フラスコを親指と人差し指で摘んで、顔の横で振った。「レイズモルトは珍しく、一般的にウイスキーとは縁遠いと言われている女性から爆発的な人気になった。やがて、男性が女性の気を引くためにレイズモルトを買い漁り始めた。雑誌でも特集が組まれ、『個性的な味』なんて言われながら一気に知名度が広がった。ものは言い様ね。実際はチャームの依存性で中毒症状が起きているだけなのに」
「あのレイズ社の社長が人妖だったのか……」と、美樹が言った。
「すぐに動かないと。こんなに広範囲にチャームが広がっているなんて前代未聞ですよ」
 綾の視線に鷺沢が頷いた。同時に鷺沢の携帯が震えた。緊急用の回線だ。鷺沢は「失礼」と言って通話ボタンを押した。電話に出た鷺沢の表情がみるみる変わっていく。まるで親しい者の死を突然知らされたような顔になった。
「どうしたんですか……?」と、綾が不安そうな表情で言った。
 鷺沢は通話の切れた携帯を見つめていた。「アンチレジストの本部が……何者かに襲われたみたい」

※こちらの文章はラフ書きになります。製本時には大きく内容が変わる可能性があります。

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