名称未設定-5のコピー



 ノイズが冷子の後頭部の髪を鷲掴みにして、その顔面をコンクリートの壁に叩きつけた。何度も打ち付けられたのだろう、コンクリートの壁は血まみれだ。冷子はダメージによる神経系の混乱が起きているのか、手足の形状が触手になったり人型を取り戻したりと目まぐるしく変形し続けている。頭部はかろうじて人型を保ったままだが、それはあくまでも人間の頭部と同じシルエットを保っているとうだけで痛々しいほどに原型をとどめていない。
 壁から冷子の顔が引き剥がされる。歯は全て折れ、鼻を中心として顔面が陥没し、左目はシオンのヘッドドレスの金属芯が刺さったままだ。
 ノイズが笑みを浮かべたまま冷子のボロボロになった顔を覗き込むと、冷子もかろうじて開いている目でノイズを見た。
 目の前のこの女は誰だ……と冷子は思った。さっきまでシオンだったはずなのに。死にかけていたはずなのに……。
「──なるほど、とても興味深い。なぜ人体が軟体動物のように変異できるのか、骨格がどのように変化しているのか、とても気になります。なによりこのビジュアルが素晴らしい。まさに化け物と言って差し支えない醜悪さ。不安と恐怖と嫌悪感を与えるには最適な姿ですね」
 目の前で行われている暴力をまるで意に介さないように、ノイズが笑みを浮かべたまま穏やかな口調で言った。
「ねぇ、少し剥がして中身を見てもいいですか? この頑丈さなら皮膚や筋肉の半分くらい失っても問題ないですよね? どの程度のダメージが致命傷になるのかも気になります。色々ゆっくりと調べて──」
 ノイズが言い終わる前に、上階の孤児院からひときわ重い衝撃が響いた。天井の欠片がノイズと冷子のすぐそばに落ち、壁にも大きなひびが入た。
「残念ながら、時間はあまり無さそうですね……」と、ノイズが言った。
 階上の轟音は巨大な蛇が暴れている様子を思わせた。
 原因はわからないが、崩落は時間の問題だろう。
「ぁ……あ……」と、冷子が声にならない声を出した。
「ん? なんですか?」
 ノイズが笑みを浮かべながら、冷子の口元に耳を近づけた。
「……あなた……誰なの? 如月さんは……?」
 冷子の瞳にノイズの姿が映る。ボロボロになったシオンのメイド服を着ているが、赤い毛がまだらに混ざったツインテールは両方とも解け、綺麗な緑色の瞳は下半分に血のような赤色が迫り上がっている。こんな人間は知らない。少なくとも先程まで対峙していたシオンではない。
 ノイズはくふっと静かに笑った。「ダメですよ。私の大切な人を傷つけるような『悪い子』には、教えてあげません──」
 ノイズは再び冷子の顔面を壁に叩きつけた。そして冷子の後頭部を目掛けて思い切り膝をぶち当てた。壁とノイズの膝に挟まれ、ベキリという音を立てて冷子の頭頂部が割れた。一瞬置いて、風船の空気が抜けるような音が冷子の喉から漏れ、そのままズルズルと床に倒れて動かなくなった。
「あら? 死んでしまったんです? 脳の破壊には耐えられないみたいですね」
 ノイズは動かなくなった冷子の身体をゴミをどかすように部屋の中央に蹴飛ばした。受け身も取らず、反応も無い。完全に絶命している。かろうじて人型を保っていた冷子の身体は溶けるように崩れ、とうとう内臓の寄せ集めのような形になった。頭部だった場所も今ではどこが目鼻だったのかもわからない。
 まぁ気持ち悪いとノイズが言い、かたわらに落ちていた冷子のボロ切れのようになった衣服を拾い上げた。擦り切れたポケットから数枚のカードキーが落ちる。この地下研究所の、冷子の個人的な研究室のようだ。
 その研究室は小さいながらも、建物に比べれば近代的な設備を備えていた。ノイズは棚のファイルに目を通し、デスクトップパソコンのスイッチを入れてデータをどこかへ送信した。ノイズはまるで料理を作るように鼻歌を歌いながらファイルを数冊見繕い、保管庫の中の試験管を保冷バッグに入れた。そして部屋を出る時には数種類の薬品を選んで部屋の角に投げた。瓶が割れて薬液が反応すると一瞬強く発光し、瞬く間に部屋全体が炎に包まれていった。


「アスクレピオスから分析結果が届いたわ」
 会議室に入ってくるなり、スノウは険しい顔をしながら言った。
 三神の電波ジャック事件から二ヶ月。スノウは来日予定を無期限に延長して日本に留まっている。ホテルに滞在しながらリモートで本業の仕事をこなし、空いた時間はアンチレジストで戦闘訓練に参加したり、アスクレピオスに協力を仰いでサンプル分析の協力を行なったりしている。電波ジャック事件にノイズが関わっていることは間違いない。訓練を積んで来たるべき戦闘に備えながら、アンチレジストに全面的に協力することがノイズにたどり着く近道だとスノウは判断した。
 会議室にはスノウが気を許す面々──美樹と綾、鷺沢と朝比奈が座っている。特に朝比奈とは歳が近いためか気が合うらしく、しばしば言い合いになりながらも朝比奈がスノウの訓練に付き合ったり、スノウが朝比奈を食事に誘ったりしているようだ。
 スノウがタブレットを操作すると、大型ディスプレイに電子顕微鏡で撮影した映像が映し出された。
 四人がディスプレイに注目する。
 月面着陸船のような形状の物体が液体内をゆらゆらと漂っている。人工物のように見えるが、電子顕微鏡で見なければならないほどの人工物などあるわけがない。
「なんだこれは? バクテリオファージか? こんなものがレイズモルトの中に入っていたのか?」
 美樹の言葉にスノウが頷いた。
「ええ。ただ、見た目は近いけれど、こいつは全くの別物よ」
「あの……」と、綾が言いづらそうに小さく手を挙げていった。「ごめん、バクテリオファージってなに?」
「ああ、バクテリオファージというのは、細菌にのみ感染するウイルスみたいなものよ」と、スノウが言った。「見ての通り人工物のような不思議な形状をしているけれど、自然界にはごくありふれた存在で、食べ物や私たちの皮膚にもたくさん付着しているわ。細菌専門なだけあって人間には無害。食べたり飲んだりしても全く問題はないし、むしろ食品添加物として抗ウイルス効果も期待されているの」
「へぇ、初めて知ったわ」と、綾が自分の手のひらを見ながら感心したように言った。「じゃあ、ウイスキーの中にいても問題はないの?」
 スノウが首を振った。
「本来はアルコール濃度の高い蒸留酒の中では生存できないはずよ。アルコール耐性のある微生物もいないわけではないけれど、まだ発見数も少ないし。それにさっきも言ったけれど、これは形状は似ているけれどバクテリオファージとは全くの別物。これを見て」
 スノウが動画を再生した。
 それまではゆらゆらと漂っていただけの微生物が突然痙攣したように震えると、一瞬で全身に棘のようなものが無数に生えた。頭部もドリルのように変形し、先ほどとは打って変わって活発に動きはじめた。会議室の中にいる全員が息を飲んだ。
 スノウが話を続けた。「この微生物はバクテリオファージに酷似しているにも関わらず、細菌には全く関心を示さない。それに特定の条件を与えるとこのような攻撃的なフォルムに変形して活性化するわ。各所に手配して入手した数十本のレイズモルトを全部分析して、人工チャームが入ったものが約三分の一。そしてこのバクテリオファージみたいな微生物が入ったボトルは一本だけ。三神が電波ジャックで言っていた、人妖に変異できる、いわゆる『当たり』のボトルがこれでしょうね。そしてこの微生物は活性化した状態でも細菌には全く関心を示さず、試しに人間の細胞を投入したら恐ろしい速さで飛び付いて、細胞壁に穴を開けて何らかの遺伝子情報を投入したわ。投入した遺伝子情報は解析中だけれど、この微生物が人間を人妖に作り替える鍵だと思って間違いない。活性化の条件はもう気付いていると思うけれど、電波ジャック事件の時に流れたあのノイズ混じりのラフマニノフ、ピアノ協奏曲第二番。あのノイズの中の特殊な周波数が、おそらくは活性化のスイッチになっていると思うわ」
「まるでリモコン爆弾ですね」と鷺沢が淡々とした声で言った。「この微生物もノイズが造ったんですか……?」
「リモコン爆弾、まさにその通りね」とスノウが言った。「ただ、いくらお姉様の頭脳とはいえ、さすがにこんなものを数ヶ月でイチから造るのは不可能よ。ベースとなる微生物が既に存在していて、ノイズはそれをリモコン爆弾化したんだと思う。人体実験するわけにはいかないから、この微生物が一匹でも体内に入れば人妖に変異するのか、それともボトル一本分飲まないと効果がないのかはまだわからないけれど、もし私が同じものを造るとしたらウイスキーの常識的に考えて、約三十から六十ミリリットルの飲用で作用するように調整するでしょうね。私達の目の前で人妖に変異した男性隊員達も、おそらくそれくらいの摂取量だったはず。いずれにせよ、ノイズ自身は全く表に出ることなく人妖を増やすことに成功しているわ。チャーム入りのレイズモルトで多くの人を中毒に近い状態にさせて、この微生物入りのボトルも混ぜておく。そして電波ジャック事件を起こして一斉に発動させた。恐ろしいことよ……」
「ベースは冷子が造っていた薬かもしれないな。薬と称していたが、正体はこの微生物か」と、美樹が言った。「シオンと入れ替わったノイズが孤児院の地下研究所で冷子の研究を見つけていたとしたらタイミングが合う。地下研究所は孤児院と一緒に全焼しているが、その前にデータを持ち出して研究を続けたとしたら……」
「問題はどこで研究を続けたのかよ。それなりの設備が必要だし、こんな重要な研究は冷子も絶対にバックアップを取っているはず。ひとつあるでしょ? お姉様と冷子それぞれに縁があって、それなりの設備が揃っている場所が」と言いながら、スノウが真剣な顔をして身を乗り出した。
「──アナスタシア聖書学院の研究棟か」と、美樹が真剣な顔をして言った。
 突然警告音が鳴り、室内全員の腰が浮いた。人妖関連の事件が発生したときに鳴るブザーだ。綾がスマートフォンに表示された内容を見て、「また『人間卒業オフ』か……」と呆れたようなため息をついた。


次回は約2週間後に更新予定です。
※こちらの文章はラフ書きになりますので、製本時には大きく内容が変わる可能性があります。