Яoom ИumbeR_55

Яoom ИumbeR_55は「男性→女性への腹パンチ」を主に扱う小説同人サークルです。

2023年10月

※過去作を読んでいなくても楽しめます。 ※ラフの状態ですので、製本時には内容が変わっている可能性があります。

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 壁際に設置された大型のマルチトレーニングマシンや懸垂台が無ければ、そこはジムというよりは高級ホテルのラウンジのように見えた。
 ダウンライトが埋め込まれた天井と床はマットな黒。四方の壁はダークブラウンの木目調で、一面のみ全面が鏡になっている。
 室内には二人の男がいた。
 一人は凍矢。黒い無地のハーフパンツとノースリーブのシャツを着て、まさにトレーナーという出立ちだ。もう一人はスーツを着込んだ中年男性。生地は高級そうだが、異様に突き出た腹の肉がシルエットを台無しにしている。
「たまには中野さんもいかがですか? ほとんど俺しか使っていないんで、マシンが泣いてるんですよ」
 凍矢が親指でマシンを指しながら冗談っぽく言うと、中野は苦笑しながら顔の前で手を振った。
「冗談言わないでくれよ凍矢くん。君に言うのもなんだが、私は運動する人間の心理が全く理解できないんだ。筋トレだったりマラソンだったり、自分から進んで辛い思いをする人間は全員マゾだと思っている。人生は短い。探究すべきは苦痛ではなく快楽だ。そうだろう? そのために高い金を払ってここの会員になっているんだからね。それにしても、この前の子は最高だったよ……。やはり十代の子は肌のハリが違うし、あらゆる部分がフレッシュだ。いくらプロにコスプレをさせたところで、こればかりは再現できんからな」
 凍矢は右手の人差し指と中指にはめているゴツいデザインの指輪をいじりながら頷いた。
「おっしゃる通りですよ。本物を知らなければ比較すら不可能だというのに、最初から類似品や紛い物で満足する人間は所詮その程度だと言うことです。もちろん中野さんをはじめ、ここの会員様にはそのような方は一人もおりませんがね。多少法に触れるリスクを取ってでも、本物を知ろうとする方ばかりです」
「ははは、当然だよ。我々のようないわゆる高額所得者は、共通言語として本物を知っておく必要があるからね。食事に酒、車にアート、もちろん女もな。それに、これは社会貢献も兼ねているんだろう? 家出した未成年たちの支援になっているのなら私も嬉しいよ。で、そろそろ今日支援させてもらえる子を紹介してもらいたいのだが──」
 その時、蹴破るような音を立ててジムのドアが開いた。
 凍矢と中野が同時に入口を見る。
「お取り込み中どうもー」と言って、白いバトルスーツを着た瑠奈がヘッドパーツを角のように立てて入ってきた。
「おお! こりゃまた今回はとびきり上玉だな。しかも白人にバニーガールの衣装とは、さすがは凍矢くんのチョイスだ」
「……なんだお前?」と、凍矢が低い声で言った。
 剣呑な雰囲気に中野の顔から笑みが消え、瑠奈と凍矢を交互に見る。
「お、おい……凍矢くんどういうことだ? この子が今日の相手じゃないのか? ちょっと待て、この子を見せられた後に他の子なんてあり得ないぞ。なぁ君、手違いだったら個人的に契約しよう。いくら欲しいんだ?」
 興奮した様子で近づいてきた中野の顎先を、瑠奈のつま先が弾いた。中野は屠殺された豚のようにその場に崩れ落ちた。
「……おい、いきなり出てきて人の客を蹴飛ばすなよ。まずは自己紹介くらいしたらどうだ?」
「アンチレジスト、真白瑠奈。沙織の友達って言った方がわかる?」
「……面倒くせぇな」と言って、凍矢は舌打ちをしながらため息をついた。
「は? なにそれ? 私さ、友達を傷つける奴がマジで許せないから手加減できないかもよ?」
「それはこっちのセリフだよ。大切な取引を潰されたんだからな。俺をそこら辺の人妖と同じだと思わない方がいいぞ。使役系って知ってるだろ? 今までアンチレジストの戦闘員は何人も返り討ちにして、廃人になるまで犯してきた。まぁこのバカの言う通り、お前はなかなか楽しめそうな身体してるけどな」
 凍矢は失神している中野を壁際に蹴り飛ばすと、拳を鳴らしながら瑠奈に向き合った。

 瑠奈の渾身の膝蹴りが凍矢の腹部にめり込むと、ようやく凍矢は亀のようにうずくまった。
「はっ……はぁ……はぁ……! なによこいつ……めちゃくちゃ強いじゃない……」
 瑠奈は失神した凍矢を見下ろしながら、顎を伝う汗を拭った。呼吸を整えながらしばらく観察していたが、起きる気配がないことを確認すると、背を向けてマルチトレーニングマシンに寄りかかった。体力が回復次第、早急に凛に連絡しなければならない。そもそも凛は自分がここにいることすら知らないのだ。
 突然、ヘッドパーツからビリッとした信号が脳に流れた。
 緊急警告だ。

 風を切る音。

 瑠奈は咄嗟に身を屈めた。

 今まで頭があった場所を、何かが高速で横切った。
 パキン……という乾いた音が頭上から響き、つま先から徐々に泥の中に埋まっていくような感覚があった。 
 瑠奈の背中を冷たい汗が流れた。

 この感覚はよく知っている。

 任務を終えてヘッドパーツを外した時にいつも感じる感覚。
 身体強化機能が解除された反動で、自分の身体が泥のように重く感じるのだ。まるで地球に帰還したばかりの宇宙飛行士が、重力に耐えられず歩けなくなるように。
「……よく避けられたな。完全に不意打ちを狙ったのによ」
 必死の形相の凍矢がバーベルを握りしめながら、折れたヘッドパーツの破片を踏み潰した。瑠奈はなんとか平静を装うように努めるが、凍矢の優れた嗅覚は瑠奈の動揺を機敏に察した。
「ん? どうした? 耳が折れただけなのに随分と動揺してるな」
 図星を突かれ、瑠奈は反射的に凍矢の顎を狙って蹴りを放った。凍矢は難なく躱す。その後も何発か蹴りを放つが、結果は同じだった。
「へぇ……」と言って、凍矢は嗜虐的な笑みを浮かべながらバーベルを捨てた。「よくわからんが、マジでそのウサギ耳が強さの秘密だったんだな」
 拳を鳴らしながら瑠奈と距離を詰める。
 瑠奈は後退りするものの、やがて背中が冷たいものに触れた。
 鏡張りの壁だった。

 ズブンッ……! という重い音が部屋に響いた。
 凍矢の鉄塊のような拳が、瑠奈の腹に手首まで埋まっていた。

「んぶぅッ?!」
 瑠奈はすぼめた唇から勢いよく唾液を吐き出すと、腹を抱えるようにして両膝を床に着いた。
「あ゙っ……?! おぇッ……! ゔぁッ……!」
「おいおい、まだ腹パン一発しか食らわせてねぇぞ。マジでただの女の子に戻っちまったのか?」
 凍矢が瑠奈の付け襟を掴んで強引に立たせると、すぐさま拳で腹を突き上げた。一般男性とは比べ物にならない威力の攻撃に瑠奈の内臓は掻き分けられ、床から両足が浮く。

「ゔぐぇッ?!」

「さっきまでの威勢はどうした? え? 手加減できないんだろ?」

 ゴリュッ……という嫌な音が響き、凍矢の拳が瑠奈の鳩尾を突き上げた。

「ひゅッ……!」
 一瞬、瑠奈は何をされたのか理解ができず真顔になった。
 恐る恐る自分の胴体に視線を落とすと、人体急所の鳩尾に、ありえない深さで拳がめり込んでいた。そして脳がその事実を認識すると、猛烈な苦痛が脳内で爆発する。
「あ……ごぷッ?! んお゙お゙お゙おッ!?」
「まだ寝るんじゃねぇぞ? 俺をここまで蹴り飛ばしてくれた女はお前が初めてだからな。たっぷりお礼をしてやるよ」
 凍矢は瑠奈を壁に磔にするように、重い拳を何発も瑠奈の腹に埋めた。
「ゔッ?! おぐッ! んぶぇッ?! ぐあッ! ゔぶッ!? お゙ッ?! ゔぐぇッ!?」

 乱打を撃ち込まれ、瑠奈は倒れ込むこともできずに悶えた。ようやく攻撃が止み、瑠奈が壁から崩れ落ちるように倒れかかると、凍矢は真下から腹を突き上げた。
「お゙ごッ?!」
 瑠奈の身体は紙のように宙に浮き、受け身も取れずにに床に落下した。弾みでヘッドパーツの本体が頭から外れ、床を滑って入り口近くの壁に当たって止まった。
「がはッ……! あ……ゔぁ……」
 瑠奈は仰向けに倒れながら、両手で腹を抱えながら悶えた。青い瞳は半分以上が瞼に隠れ、だらりと舌を垂らしながら喘いでいる。
 凍矢はあらためて瑠奈の全身を見回すと、下半身に血液が集まってくる気配を感じた。男の欲望を具現化したような女が際どいバニースーツを着て悶えている。中野に同意することは癪だが、確かにこれほどのレベルの女はそうそういないだろう。
 凍矢は瑠奈の腰を跨ぐように立つと、グロッキーになっている瑠奈の腹に容赦無く拳を突き下ろした。
 完全に弛緩した瑠奈の腹に大砲のような拳が撃ち込まれ、衝撃で部屋全体が揺れる。
「ゔああああああああああッ?!」
 途切れかけた意識を無理やり引き戻され、瑠奈は目を見開いて絶叫した。
「まだ寝るなって言っただろ? お礼がまだ終わってねぇんだよ」

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※過去作を読んでいなくても楽しめます。
※ラフの状態ですので、製本時には内容が変わっている可能性があります。

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 アンチレジストのミーティングルームには葵と瑠奈と凛、そして春香の四人がいた。
 プロジェクターには防犯カメラの映像が投影されている。
 八台のカメラがいずれも新宿の同じ通りをそれぞれ別の角度から映していた。地面に座って話し込む多く若者や、それを遠巻きに監視する警察官。興味本位で覗きにくる通行人、沙織の運営するボランティアのテントも見えた。
「凍矢、たぶんこいつだね」と凛が言うと、椅子の上で胡座をかいていた瑠奈が身を乗り出した。
「マジ? もう見つかったの?」
「裏取りはまだだけどね。あおっぴと瑠奈ちが聞いてきてくれた条件に合う人はこいつ」
 凛がパソコンを操作すると、家出少女たちに囲まれた男性がアップになった。なるほど沙織の言う通り整った顔をした男性だ。艶のある豊かな黒髪にグレーのダメージデニム。黒い無地のティーシャツからは太い二の腕がのぞいている。ゴツいシルバーのネックレスやバングルは全て同じ高級ブランドのものだ。野生的な雰囲気を醸し出すその男性に、家出少女たちは明らかに羨望の眼差しを向けていた。
「凍矢の本業は会員制高級スポーツジムの経営者。ジムの情報はネット上にはほとんど出てなくて、会員にならないと連絡先や場所すらわからない。そして会員になるには会員からの紹介が必要。まぁジムは表向きで、実態は例の人妖が言った通り家出した未成年を使った違法な風俗店だけどね。客の希望に合わせて女の子はおろか、希望があれば男の子まで斡旋してるみたい」
 瑠奈が呆れ顔で頬杖をついた。
「マジで疑問なんだけどさ、なんで合法的なお店がたくさんあるのにあえて違法なことするわけ?」
「本物思考ってあるじゃない? プロじゃない人とか、本当の未成年とか、そういうのに価値を見出す人もいるんだと思うよ。たぶんだけど」と言って、凛が肩をすくめた。
「凍矢の画像データとジムの場所はみんなに共有しておくから、瑠奈ちとあおっぴは念の為に凍矢の面取りをお願いできる?」
「葵は今日予定があるから、この後私だけで沙織の所に行ってくるよ。突入は裏が取れ次第って感じ?」
「いや、万全の体制で挑みたいからもう少し時間をちょうだい。凍矢はかなり戦闘力があるみたいだし、汎用性を高めたヘッドパーツの試作品ももうすぐ試験運用ができそうだから、できればそれに適性のある一人をバックアップとして付けたいんだよね」
「バックアップなら葵でよくない? ヘッドパーツ付けなくても十分強いんだしさ」と、瑠奈が言った。「そういえば葵と一緒に任務したことなかったから、いい機会じゃん」
「いや、上級戦闘員同士が同一の任務に就くのは避けたいんだよね。縁起でもないけど、敵が強力すぎて二人同時に欠けるのは避けたいし。もちろん一人でも欠けることがないように支援することが私たちオペレーターの仕事だから」
「もしよかったら、私に行かせてください」と言って、春香が手を挙げた。「私みたいな一般戦闘員が、上級戦闘員のチームに入れていただけることは異例だと聞きました。色々と勉強させていただき、私も上級戦闘員を目指したいんです」
「私はヘッドパーツ頼みだからあまり参考にならないと思うけど、じゃあ春香ちゃんにお願いしようかな。私もバックアップがあった方が心強いし」

「よし……じゃあまとまったところで本日の最重要議題に移るよ」と言って、凛はテーブルの上で組んだ手に顎を乗せ、全員をゆっくりと見回した。物々しい雰囲気に他の三人が息を呑む。
「春香ちゃんの歓迎会をどこでやりますか!? それぞれ食べたいものを言ってください!」

 新宿の例の通りに着いた瑠奈は、思わずカバンを地面に落とした。
 ボランティアのテント周辺で複数の赤色灯が回転している。テント周りには立入禁止のテープが張られ、多くの野次馬が取り囲んでいた。通りの住人らしき女の子が何人か泣き崩れている。
 瑠奈がテープを越えようとすると、走ってきた警察官に止められた。
「離してください! 沙織の友人なんです!」
「だめです! 現場検証が終わるまで当事者以外は入れません!」
 押し問答を聞きつけて、テントから瑠奈と同じ制服を着た女の子が出てきた。ミルクティーのような色に染めた髪がほとんど包帯で隠れている。沙織の友人で、ボランティアメンバーの絢香(あやか)だった。絢香は瑠奈の姿を見ると、顔をくしゃくしゃにして駆け寄ってきた。
「瑠奈ち……。沙織が、沙織が……」
「……沙織がどうしたの?」
 非常線越しに絢香の手を握りながら、瑠奈は声の震えを必死に抑えた。
「わかんない……。ミーティング中にいきなり倒れて……頭から血が出て……他の子も次々と……」
「ちょっと待って……まさか……」
 最悪の事態が頭をよる。だが、絢香は口を結んで首を振った。
 絢香によると、沙織は意識が無い状態で集中治療室に入っているものの、なんとか踏ん張っているらしい。他のメンバーも病院で治療中だが命に別状はなく、絢香は最も軽症だったため応急処置のみ施され、搬送はこれからだそうだ。

「いったい何があったの?」と、瑠奈が聞いた。
「昼間にトーヤさんが来たの……。沙織と話をさせろって」
「……凍矢が?」
 絢香は頷いた。
「久し振りだったから沙織も喜んで対応したんだけど、二人きりで話をした後に、めっちゃ怒って帰ってきたの……。トーヤさん、自分が運営している家出した未成年の自立プログラムが軌道に乗ってきたから、私達が保護している子を定期的に連れて来いって沙織に言ったみたい。でもよく聞いたらただの売春斡旋で、沙織も怒ってすぐに追い返したって……。このボランティアを出来るようにしてやったのは誰のお陰だって言われたみたいだけど、それとこれとは話が別じゃん!」
 絢香は涙を拭って話を続けた。
「沙織が運営メンバーに緊急招集かけて、トーヤさんがまた来た時の対応マニュアルを作ってたんだけど、いきなり沙織が椅子から弾き飛ばされた様に倒れたの。たくさん血が出てたし、何が起きたのかわかんなかったし……ほかの子や私も……」

「凍矢にやられたの……?」
「わかんない……何も見えなかった。でも、殴られたんだと思う……すごい力だったけど……」
 瑠奈の表情がすっと変わった。
 普段はあっけらかんとした瑠奈の変化に、絢香も思わず戸惑いの色を浮かべる。
 瑠奈がスマートフォンの画面を絢香に向けた。
「……凍矢ってコイツで間違いない?」と、瑠奈が感情を抑えた声で聞いた。
「え? う、うん……この人がトーヤさん……」
「そっか。今から凍矢の所に行ってくる」

「え……瑠奈ち、なに言ってんの?」

「場所はわかってるから」

「まって……意味わかんない……」
「沙織が目を覚ましたら伝えて。仕返ししとくから、って」
 その時救急車が到着して、中から素早く隊員が降りて絢香を呼んだ。
「絢香もお大事に。後でお見舞いに行くから」と言って、瑠奈は踵を返した。背後で絢香が何か言った気がしたが、瑠奈は振り返らずに野次馬していたタクシーの後部座席のドアを強引に開けた。



【イベント参加告知】
11/12(日)綿商会館にて開催される『ABnormal Comic Day! 9』に参加します。

スペースは「B-14」
配布物は現在連載中の新作[ Alto_Luna ]の清書版です。
よろしくお願いします。

イベントURL
http://ippan-seiheki.com

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※過去作を読んでいなくても楽しめます。
※ラフの状態ですので、製本時には内容が変わっている可能性があります。

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 光沢のある黒いレオタードに、黒い猫耳のような小さなヘッドパーツ。
 一般戦闘員用のバトルスーツを身にまとった七森春香(ななもり はるか)は、廃墟になった市民プールの底に立たされていた。両手首はロープでスタート台に固定されて身動きが取れない。背中に感じる冷たくざらついたコンクリートの感触が不快だったが、それ以上に自分をこのように拘束した目の前の男の存在が猛烈に不快だった。
「まったく、今日はなんてラッキーな日だ。まさか春香ちゃんみたいな可愛い女の子と出会えるなんてね」
 その男は見た目同様に不快な声で言うと、春香の黒髪を恋人の様にくしゃっと撫でた。春香は悔し涙を浮かべながら男を睨み上げる。男はその視線を気にせずに、バトルスーツに浮き出た突起のひとつひとつを鼻が触れるほど顔を近づけて観察した。
 男の鼻息が春香の肌に触れ、全身が粟立つ。
「マジでキモいんだけど……今すぐ死んでくれる?」
 春香が吐き捨てるように言った。
 本当に嫌悪感の塊のような男だ。
 見た目も全く気にしていないのだろう。ぼさぼさの髪に無精髭を生やし、でっぷりと突き出た腹の肉は溶けた餅のようだ。唯一身につけている黒いビキニパンツの中央が高く隆起していることに気がつき、春香は汚物を直視した時のように反射的に目を逸らした。
「死んでくれなんて酷いじゃないか……せっかくボクの彼女にしてあげようと思ったのに」
 ぶぢゅっ……と音を立てて、男は蛇のような素早さで春香の唇を吸った。
「んむぅッ?!」
 一瞬何が起きたのかわからず、春香は大きく目を見開いた。そして自分が何をされたのかを理解すると、必死に身体を捩って抵抗した。男は春香の顔を両手で挟み込むように押さえると、膨れて死んだナマコのような舌を春香の口内にねじ込んだ。同時に勃起した男根を春香の腹部にぐりぐりと押しつけてくる。
「んむぅーッ!! んッ?! んんんんーッ!! んぐぇッ?!」
 ズグンッ……という音がプールの壁に反響し、激しく抵抗していた春香の動きがピタリと静止した。
 身体に貼り付くようなバトルスーツの生地を巻き込んで、春香の引き締まった腹にずんぐりと太った男の拳が手首までめり込んでいる。
 男は春香の腹に拳を埋めたまま、ゆっくりと春香の唇を解放した。あまりの衝撃に春香の瞳孔は完全に収縮しており、口は男に吸われていた時そのままに大きく開けた状態で固まっている。男の唇と春香の舌の間で糸を引いた唾液がプールの底に点々と落ちた。
「あ……あが……あ……」
「ぐひひひ……キスされながら腹パンされたのは初めてかい? もしかして、キスも初めてだったのかな?」
 男は再び素早く春香の口を吸い、舌を吸ったまま春香の引き締まった腹に何発も拳を埋めた。
「んぶッ?! んごぉッ?! んぶぅッ!! ぶぐぉッ? んぶぇッ!? んおおおおおッ!!」
 腹を殴られるたびに、春香の身体は電気ショックを受けたようにビクビクと跳ねた。
 背中が壁に密着しているため衝撃の逃げ場がなく、口も塞がれているため呼吸もままならない。男はようやく春香の唇を離すと、春香の鳩尾を鋭く突いた。
「ぷはッ! お゙ッ?!」
 突然急所を突かれ、ふっと春香の意識が遠ざかる。だが男は構わずに春香の下腹部、胃、鳩尾をランダムに殴り始めた。
「ゔぇぁッ!! お゙ッ?! ゔぐッ!! んぶッ?! ぐああああッ!」
「ぶふふふ……可愛い反応だねぇ。好き勝手に殴ってくれたお礼をたっぷりしてから、朝までレイプしてあげるからね」
 ぶぢゅん……という水っぽい音が響き、春香の子宮が潰れた。
「んお゙ッ?!」
 春香の口から濁った悲鳴が漏れる。
 男はそのまま正中線を上へとなぞるように春香の胃、鳩尾をピンポイントに殴り、すぐさま胃、子宮と下降しながら殴った。まるでエレベーターが各階に止まるように鳩尾、胃、子宮の三箇所をリズミカルに殴られ、拷問のような苦痛に春香は悶えた。
「ほらほらほらほら、こうやってお腹の違う場所を素早く殴られると、まるでお腹全体が潰れていくように感じるだろう?」
「お゙ッ?! ゔッ!? んぶッ! がッ!! ゔぇッ! お゙ぐッ?! ぶふッ! ゔあッ?! ゔぇッ! がッ! あッ! あがッ! あがああああッ!!」
 衝撃が強すぎてもはやどこを殴られているのか理解できず、春香はただ身体をガクガクと痙攣させながら天井を向いて唾液と悲鳴を吹き上げた。脳がパニックを起こしており、壊れた玩具のように頭を振りながら苦痛に悶える。
 男がようやく攻撃を止めると、春香は全身を脱力させて項垂れた。男が春香を拘束しているロープを解くと、もはや自力で立つことすら出来ずプールの底にぺたんと尻餅を着いた。
「ぶふふふ……春香ちゃんは本当に可愛いねぇ。ご褒美をあげようかな」
 男は春香の髪の毛を掴むと、春香の顔の前でビキニパンツをずり下げた。
 限界まで膨張した男根が跳ね上がり、べちっ……という音と立てて男の腹を打つ。朦朧とした春香は目の前のそれが何なのか一瞬理解できなかった。
「あ……え……? ひ、ひぃッ!?」
「ほら、大好きな彼氏のチンポだよ。好きなだけしゃぶっていいからね?」
「やっ……や……やだッ! やだぁッ! あ……んぐぅッ!? ん……んぐぉぉぉぉぉッ?!」
「おふぅ……喉が締まって気持ち良いよ春香ちゃん……」
 男が恍惚とした声を上げる傍らで、無理やり男根を捩じ込まれた春香は地獄のような嗚咽を漏らし続けた。張り出したカリ首が喉の粘膜を何の躊躇もなく擦り上げ、死を感じるほどの苦痛を与えている。
 男の昂りと反比例して、春香の意識が途切れかける。しかし春香が失神する直前、喉の奥深くまで捩じ込まれていた男根が忽然と消えた。新鮮な空気が肺を満たし、春香は激しく咽せながら顔を上げた。

 そこには春香と同じくらいの背丈の小柄な女の子が立っていた。年齢も同じくらいだろうか。女の子は白い差し色が入ったピンクのプリーツスカートとショートジャケットを羽織り、編み上げのスニーカーを履いている。一見チアリーダーの格好に見えたが、中にはセパレート型のスポーティなインナーを着ている。
 春香の着ている汎用型のレオタードタイプではない、上級戦闘員のみが着ることを許される特別仕様のバトルスーツだ。
 上級戦闘員の女の子は睨むような視線を春香に向けると、無言で手を伸ばした。春香は恐る恐るその手を掴む。
「も、申し訳ありません、賎妖だと思って油断しており……」
 不甲斐ない自分に怒っているのだと思い、春香はその手を握ったまま恐縮したように敬礼した。
「だ、だ……」女の子は睨むような視線はそのままに口を開いた。「だ……だい……だ、大丈夫……?」

 春香は女の子の手が震えていることにようやく気がついた。
「……は、はい。唾液は飲まされましたが、体液はまだです。意識ははっきりしていますので、チャームの影響は皆無か軽微だと思います」
 女の子は頷くと、プールサイドに設置されている梯子を指差した。
「わ、私、い、一ノ瀬……葵。や、休んでて……」

 春香はしばらく呆けたように葵を見つめていたが、やがて慌てた様子で葵の両肩を掴んだ。
「あ、葵さん。早くこのプールから出てください! このプールには──」
 春香が言い終わる前に、男が二人に突進してきた。葵は春香を突き飛ばし、男を手四つで受け止めた。

「ひひひひ……また可愛い子が出てきたな……。おおおっ?!」
 葵は鋭く息を吐くと、体をさばいて素早く男のバランスを崩した。前のめりに転びそうになる男の腕を極め、同時に足払いをかける。脇固めの体勢でプールの底に倒れ込むと同時に、ごきん……という音が男の肩のあたりから聞こえた。
「がああああああッ!?」
 男が肩を押さえながら悲鳴を上げてのたうちまわる。
 葵はすかさず手錠のようなものを取り出すが、男は強引に暴れて葵を突き飛ばした。
「くそっ……春香ちゃんとは大違いじゃないか……」男は抜けた肩を強引に嵌めると、葵を指差した。「だがな……君ももう手遅れだぞ。このプールに入って三分経ったからな」
 葵は怪訝な顔をして首を傾げる。その隣に春香が駆けてきて小声で話しかけた。
「葵さん、助けてくれてありがとうございます。私が少しでも時間を稼ぎますので、すぐにこのプールから出てください」

 葵は目を丸くして春香を見た。
「あの賎妖の汗には筋弛緩効果があります。その能力自体は珍しくはないのですが、あいつはこのプールの中で生活することで成分を濃縮していたんです。普通なら近距離で十五分以上浴びなければ効果が出ないのですが、このプールに入ると三分程度で効果が出てしまいます」
「だ、だ、大丈夫」と言いながら、葵は春香に親指を立てた。「私……力、あまり、か、関係ないから」

 葵は止める春香を制して、一人で男に近づいていった。男は下衆な笑みを浮かべ、再び葵に手四つを挑んだ。先ほどとは違い、組んだ瞬間葵の身体が一気に後方に押し下げられる。

「葵さんダメです! 逃げてください!」

 春香が叫ぶ。

 葵の身体がぐらりと後方に倒れた。
 だが次の瞬間、男の身体が空中で一回転した。

 巴投げが見事に決まり、プールの底に背中を強打した男が潰れた蛙のような悲鳴を上げる。男はなんとか起き上がり、すでに立ち上がって構えていた葵に再び掴みかかった。葵は掴みかかろうと伸ばした男の腕を取り、自分の身体を巻き付けるようにして男の下に潜り込んだ。
 男の両足が地面から浮いた。

 教科書に出てくるような綺麗な背負い投げだった。
 男は再び背中をコンクリートに強打し、過呼吸を起こして悶えた。葵は素早く男の片腕と頭を掴むと、男の頭に枕をするように自分の片足を滑り込ませ、そのまま首の上にまたがって体重を落とした。
 マウントポジションでの三角絞めを極められ、男はくぐもった悲鳴を漏らす。
 体重を利用しているため、筋力は重要ではない。体勢的に葵のスカートの中に男の顔が完全に隠れる形になったが、もちろん男にその状況を楽しむ余裕も無かった。
 一瞬で極められた男はしばらくバタバタと暴れたが、すぐに意識を手放した。

※過去作を読んでいなくても楽しめます。
※ラフの状態ですので、製本時には内容が変わっている可能性があります。

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 翌日の放課後、「葵、帰るよー」という声と共に教室のドアが勢いよく開いたので、窓際の席に座っていた葵はスマートフォンを落としそうになった。
「いい加減慣れなって」と、瑠奈が笑いながら教室に入ってきて、葵の前の席に座った。瑠奈は毎日のように葵を迎えにくるので、葵のクラスでも瑠奈はクラスメイトのように受け入れられている。残っていた生徒がすぐに瑠奈(と葵)の周りに集まってきた。
「瑠奈ち見たよー。またスナップされたでしょ?」と言いながら、一人の女子生徒がファッション雑誌を開いた。街頭で撮影した一般人を紹介するコーナーで、ストリート系のファッションに身を包み、ガードレールに座っている瑠奈の写真が一ページ丸々使って掲載されている。
「あれ? こんなに大きく載ったんだ。声かけられた時は載るかわからないって言われたんだけど」
「瑠奈ちが撮られたら載るに決まってるじゃん。載ってる他の子と比べてもさ……なんていうか、違うよね」
「ねぇ、本当に本格的に読モ(読者モデル)やる気ないの? 瑠奈なら絶対プロのモデルになれるって」
「ないない! モデルなんて興味ないもん」
と言って、瑠奈が笑いながら顔の前で手を振った。
 葵はそっと雑誌を覗きこんだ。
 確か二ヶ月ほど前に瑠奈と原宿を歩いていた時に撮られた写真だ。カメラマンは瑠奈と顔見知りらしく、探していたとまで言われていた。瑠奈を撮影した流れで葵も無理やり撮られてしまったが、気が動転しすぎてどのように撮影されたのか覚えていない。
 写真で見ると、瑠奈はポーズも表情も様になっていて本物のモデルのように見えた。まるでどこか遠くのキラキラとした違う世界の住人のように見える。
「あれ? これ一ノ瀬さんじゃない?」と、女子生徒が言った。
「え? マジ?」と言って、瑠奈も雑誌を覗き込んだ。「マジじゃん! 葵ほら!」
 瑠奈が指差した先には、直立不動の姿勢で道の真ん中に立つ葵の写真があった。
 ページの隅の小さいスペースだったが、それは間違いなく葵だった。
「一ノ瀬さんも素材良いもんね」という女子生徒の声が遠くに聞こえた。

 学校を出ると、二人は瑠奈の提案で新宿の繁華街に向かった。
 凛の言っていた家出した未成年がたむろしているホテル周辺の路地。そこで瑠奈の友人の沙織(さおり)が中心となって放課後と休日に保護ボランティアを運営している。家出した未成年と距離が近い沙織なら、凍矢の情報をなにか知っているかもしれない。
 葵は瑠奈が沙織のボランティアを時々手伝っていることは知っていたが、実際に沙織と会うのは初めてだった。
「なんだっけ、牛は牛連れ馬は馬連れだっけ? 同類の方が話が合うっていう意味のことわざ」
 肩がぶつかるほどの人混みを手を繋いで歩きながら、瑠奈は葵に言った。
「う、うん。あってる」
「沙織のボランティアも正にそれが狙いでさ。あそこに集まっている子は見た目は派手だけど、内面はすごく敏感で警戒心の強い子が多いんだよね。だから大人の男の人とか警察官とかが取り囲んで家に帰りなさいって声かけても、かえって逆効果になる時も多いんだ。だけど私たちみたいな同年代が『ちょっと話しない?』って声かけると、意外と向こうも本音で話してくれたりするんだよね」
「そ、そうなんだ……。話すだけでも、す、救われる時もあるよね……」
「いや、それだけじゃダメなんだ」と、瑠奈はまっすぐ前を見て言った。「いくらウンウンて話聞いても問題は無くならないじゃん? 沙織はその辺もちゃんと考えてるから、クラウドファンディングで資金を集めてシェルターを運営したり、企業に協力してもらって救援物資の配布をしたりしてる。結局、行動しないと意味がないから」
「……あ」 
 自分の少し前を歩く瑠奈の背中を、葵は直視することができなかった。
 ファッション誌に載った瑠奈の姿を見た時も感じたが、時々ふと瑠奈がとても遠い存在に感じることがある。事実、瑠奈は自分には持っていない多くのものを持っていると葵は感じていた。そして瑠奈の友人達も、自分とは違って周囲を巻き込みながら先へ先へと進んでいる気がする。
 瑠奈とは幼馴染であり、お互いが最初にできた友人同士だったことは間違いない。
 だが、今となってはそれに何の優位性があるのだろう。
 瑠奈は常に先へ先へと進んでいる。
 瑠奈自身に影響力があるので、周囲にも自然と影響力のある人間が集まってくる。
 それに引き換え、自分がしている活動といえばブイチューバーとして素顔を隠し、カウンセラーの真似事をしているだけだ。それは瑠奈が言う通り、確かに問題を無くしていることにはならないのかもしれない。
 瑠奈はなぜ今だに自分なんかに良くしてくれるのだろうか。
 あるとき瑠奈から急に「もういらない」と捨てられるのではないか。
 葵はそれがとても怖かった。

 その路地は昼間でもホテルの陰になって薄暗かった。
 本来は車道のはずだが、入り口には区のマークが描かれた緑色のバリケードが設けられ、歩行者天国の状態になっている。バリケードの脇を抜けて路地に入ると、明らかに十代と思しき若者があちこちに車座になって談笑していた。酩酊した様子で寝転んでいる若者も何人もいる。確かにこの状態で車を入れるわけにはいかない。
 その異様な雰囲気に飲まれてしまった葵の手を引いて、瑠奈は路地の中央に設置されたテントに入った。
 テントの中は広く、人で溢れていた。
 量販店で売っている白い丸テーブルとパステルカラーの椅子が何組も置かれ、それぞれのテーブルにはピンク色の腕章を付けたスタッフと、路地の住人らしい若者が話をしていた。スタッフも一緒に手を叩いて談笑しているテーブルもあれば、泣いている女の子をスタッフも涙を浮かべながら慰めているテーブルもあった。
 スタッフは全員、いわゆるギャルと呼ばれる女の子だった。
「おーす瑠奈ちー。おつかれー」
 入口近くの「受付」と書かれた長テーブルでパソコンを操作していた一際派手なギャルが立ち上がり、瑠奈と葵に笑顔を向けた。サロンで焼いた肌に一際派手なメイクを施し、きつめに巻いた銀髪の毛先のみを水色に染めている。よく見ると気崩してはいるものの自分たちと同じ制服を着ていた。
「今日どしたの? 可愛い彼女連れちゃってさ」
 そのギャルに視線を向けられた葵は、まるで空腹の肉食獣に睨まれたリスのようにビクッと身体を強張らせた。
「沙織また髪色変えた?! めっちゃかわいい!」と言いながら、瑠奈は笑顔で沙織と指を絡めた。
「へへー、ありがと。青は落ちやすいから、その前に見せられてよかった。でも髪めっちゃ痛んだよー。瑠奈ちみたいに天然の金髪ならブリーチも一回で済むのにね」
「私は逆に黒髪に憧れるけどね。クールでカッコいいじゃん。あ、そうだ沙織、紹介するわ。この子が葵。私の女なんだから手ぇ出さないでよ?」
「おー、あおぴ! やっと会えた!」と言いながら沙織は大きな目をさらに大きく開いて、葵のと目線を合わせるように屈んだ。「はじめまして。瑠奈ちからいつも話聞いてるよ」
「葵、この子がさっき話した沙織。ここのボランティアチームのリーダーで、こんな見た目だけどすごくしっかり者だから」
「しっかり者の沙織でーす」と言いながら、沙織は葵に向かって踊るように両手を振った。葵はただ怯えていた。
「お? あおぴ顔色悪いけど大丈夫? ちょっと座る? テーブルは満席だけど受付の中だったらまだ椅子あるから」
 沙織は怯える葵の手を引いて強引に受付の中に引き入れた。瑠奈はその様子を見てクスクス笑いながら二人の後に続き、葵を中心にして並んで座った。
 テーブルクロスで目隠しをした長机の下にはたくさんの箱が置かれていた。食料や飲み物、携帯電話の充電ケーブル、生理用品や常備薬などが見えた。企業からの援助で、困っている子に無料で配るのだと沙織は説明した。先ほどまで沙織が操作していたパソコンには、支援者に提出するものらしい細かい収支報告書が作りかけのまま表示されていた。

「──あのさ、ちょっと変なこと聞いていい?」
 しばらく雑談した後に、瑠奈が小声で切り出した。
「ん? なに? あ、ちょっと待って! スポンサー企業から電話入っちゃった!」と言って、沙織がスマートフォンを耳に当てた。「はい、牧村でございます。あ、いつも大変お世話になっております。はい……あ、はい、活動報告書は予定通り明日にはお出しできるかと思います。いえいえ、とんでもございません」
 沙織のあまりの豹変ぶりに、葵は思わず口を開けた。
「ええ……御社のホームページにですか? ありがとうございます。ぜひお願いいたします。ええ、とんでもございません。私共の活動が広く認知されればこちらとしても大変助かりますので、ぜひ御社のPRとしてお使いいただければ……ええ……今夜までにですか? はい、かしこまりました。では今夜までに仕上げてメールにてお送りいたしますので、明日の朝にはご確認いただけるかと思います。ええ……とんでもございません。こちらこそありがとうございます。はい、失礼致します──」
 沙織は何度もお辞儀をしながら通話を切ると、「ごめーん! なんの話だっけ?」と元の様子で言った。
「びっくりした? 沙織、この見た目で秘書検定準一級持ってんの」と、瑠奈が葵に言った。
「このボランティア始めようと思った時に取ったんだよねー」と言って、沙織が葵に向けてピースサインを作った。「スポンサーのおかげで私達は活動できてるわけだしさ、礼儀はちゃんとするのが最低限の誠意じゃん? てか瑠奈ち、なんの話だっけ?」
「ああ、えーとね……その、マジで変なことなんだけど、家出してきた子の中にはさ……身体売ってる子もいるの?」
「んー、まぁそりゃね……」と言いながら、沙織はほんの少し顔を曇らせて背もたれに身体を預けた。「いないわけ、ないよね。でも理由はそれぞれでさ、お金に困ってる子もいるし、人の温もりや、単純に気持ち良さを求めてる子もいる。中にはまるで自分自身を罰しているかように、徹底的に自分の好みじゃない人を選んでる子もいる。アタシらも止めはするんだけど、あくまでも個人のことだからね……。どうしてもって場合はコレ渡してるんだ」
 沙織はカウンターの奥に隠すように置かれているダンボールを指差した。隙間からコンドームの箱が見えた。
「で、なんで急にそんなこと?」と沙織が言った。

「いや、ちょっと嫌な噂聞いてさ」

「……嫌な噂?」

 沙織が真剣な表情になった。
「うん。この辺の女の子を使って、無許可の風俗店を経営してる人がいるみたいなんだよね。ちょっと私たちのバイト先にも関わる話でさ、もし何か知ってたら教えてもらおうかなと思って」
 沙織は顎に手を当てて、しばらく目を閉じて考えると「もしかして、トーヤさんかな?」と小さい声で言った。 
 葵と瑠奈が身を乗り出した。
「今、凍矢って言った?」と、瑠奈が聞いた。「ビンゴなんだけど……」
「え? マジで? いや、アタシも確信があるわけじゃないし、正直信じたくないんだけどさ……」沙織が声をひそめた。「ここにいる子達って一見仲良さそうに見えるけど、お互い本名すら知らないような関係だからさ、ちょっと揉めるとすぐに大ごとになるんだよね。喧嘩なんて日常茶飯事だし、救急車もしょっちゅう来るし、最初はこんな風にボランティアなんかとても出来ないくらい混沌としててさ。ただ、半年くらい前にトーヤって名乗る男の人が仕切り始めてから、少しずつ安定しだしたんだ。三十代前半くらいで、爽やかイケメンって感じなのに筋肉すごくてさ。他の人と同じように素性がわからない人なんだけど、男女問わず『兄貴』や『お兄ちゃん』なんて慕われてね。いわゆる『買い』の人も追っ払ってくれたし、アタシのボランティアもちゃんと受け入れるようにみんなと話つけてくれたんだ。でも数ヶ月前、十人以上の女の子と一緒に行方不明になっちゃったんだよね」
 沙織はそこまで話すと、一息つくように紙パックに入ったリンゴジュースを飲んだ。葵と瑠奈は無言で話の続きをまった。
「ここでは昨日まで普通に話してた子が翌日いなくなることなんて珍しくないし、深追いしないことが暗黙の了解って感じだから、詳しいことはわからないんだ。ただ、溶け込むのが異様に早かったことと、複数の女の子が同じタイミングでいなくなったことを考えると、トーヤさんは家出少女を闇風俗に落とす専門のスカウトマンだったんじゃないかって言ってる人もいる。家出した未成年が集まる場所はここ以外にもたくさんあるしね。それ以外に気になることもあるし……」

「気になること?」と、瑠奈が聞いた。
「防犯カメラがね、トーヤさんがいなくなる直前から今まで何回も壊されてるの。区が設置してるやつだから、そう簡単に壊せるはずはないんだけど。だからトーヤさんの失踪直前の様子とか目撃情報とか、肝心の映像が無いんだよね」
「こ……こ……こわ……こ……ひ……」
 葵が必死に喋ろうとするが、緊張しすぎて言葉が出てこないようだ。
「ん? あおぴ声めっちゃ可愛くね? てかどっかで聞いたことのある声な気がする……」と沙織が言った。
 瑠奈が慌てて割って入った。
「防犯カメラを壊した犯人は映ってるんじゃないのか、って言いたいんでしょ?」

 葵は必死に頷いた。
「いや、それが映ってないんだよね」と言いながら、沙織は肩をすくめた。「どんなトリックか知らないけどさ、いきなりガシャーンよ。他のカメラには音にびっくりして飛び上がる子が何人も映ってるんだけど、犯人らしき人はどこにも」
 その時、葵と瑠奈のスマートフォンに凛から「急で申し訳ないが、今から会えないか」と通知が届いた。
 緊急の呼び出しのようで、二人は沙織に断ってから待ち合わせ場所を指定してほしいと返事をした。
 沙織と一緒にテントを出ると、沙織が道路の一角を指差して「あおぴ、あれ見える?」と小声で言った。オーバーサイズの服を着た未成年の女の子二人に、濃い色のスーツを着た男が話しかけている。
「あれ『買い』の人。トーヤさんがいなくなってからめっちゃ増えてさ……。ちょっと対処してくるから、あおぴもまた遊びに来てね」
 そう言うと沙織は「すみませーん、企業ボランティアの方ですかー?」と周囲に聞こえるように言いながら男に近づいていった。男は明らかに狼狽えていた。葵は沙織の後ろ姿を憧れの眼差しで見つめた。

 凛に指定された場所は渋谷駅から徒歩数分の場所にオープンした小さいカフェで、葵と瑠奈の学校からも歩いて行ける距離だった。車がすれ違えないほどの細い坂の途中にそのカフェはあった。夜七時でも十人ほどの若者が列を作っていて、少し離れた場所に黒いワンピースを着た凛が立っていた。凛は葵と瑠奈に気がつくと小さい身体をぴょんぴょんと跳ねさせながら「こっちこっち」と言った。
 凛がスタッフに声をかけると、三人はすぐに店内に案内された。
 内装は業者に頼まず、スタッフが自分たちで仕上げたようだ。
 天井の配管は剥き出しで床も化粧板が敷かれておらず、壁はコンクリートに白いペンキを垂れるほど分厚く塗っただけだ。テーブルや椅子は端材を組み合わせたような粗末なもので、どこか海外の学校で長く使われていたような雰囲気があった。床面積の三分の一ほどを巨大な焙煎機が占めていた。
 三人はカウンターでそれぞれ豆を選び、クロワッサンも一緒に注文した。代金は全て凛が出してくれた。瑠奈はスタッフにコーヒー豆の特徴や焙煎方法などを聞き、葵は抽出する様子を食い入るように見ながら瑠奈と店員の会話に聞き耳を立てた。質問もしたかったが、声をかけられなかった。
 コーヒーとクロワッサンを受け取ると、三人は予約席と書かれたプレートの置かれているテーブルに着いた。
「急に呼び出してごめんね」と、凛が言った。

 葵は首を振った。
「だ、大丈夫。ここ……すごく来たかったから……。予約も、で、できなくて……」
「……そうじゃん! 何かおかしいなと思ってたけどここ予約できない店だよね?」と、瑠奈が思い出したように言った。「並んでる人からすごく視線感じるなと思ったけど、そういえば葵と来ようとした時にホームページに予約できませんって書いてあったよ」
「あおっぴがコーヒー好きだから、ねじ込んだ。方法は聞かないで」
 凛は無表情のまま両腕を曲げて力こぶを作るポーズをした。葵と瑠奈は思わず吹き出した。
「で、本題なんだけど」と、凛は声を潜めて言った。「昨日、瑠奈ちが倒してくれた人妖の件なんだけど……」
「ああ、あいつ凍矢のこと何か喋ったの? 半分くらいは口から出まかせかなと思ってたけど」
「いや……あの人妖、今朝死んでたんだよね……」
 コーヒーカップを口元まで運んだ瑠奈の手が止まった。

「……え?」
「収容所に運び入れた時点でもまだ失神してたから、今朝から取り調べる予定だったんだ。でも、今朝ドアを開けたら床に倒れてたみたい」
「……私、そんなに強くやっちゃったっけ?」
 瑠奈の顔が青くなった。凛はすぐに首を振る。
「瑠奈ちの攻撃が原因じゃない。首にシーツが巻かれてた。検死も終わって、死因も縊死で特定されたから」
「じゃあ……自殺ってこと?」と瑠奈が言った。

 凛はまた首を振った。
「いや、そもそも収容所は自殺ができないようになってる。壁も床も分厚いウレタン製で、窓も外からしか開かない。もちろんロープをかけられる突起や窓枠も無いし、内側にはドアノブも無い。まぁ世の中に絶対は無いから、思いつかないような方法でシーツをどこかに引っ掛けた可能性も無くはないけど、私は他殺だと思ってる」
「じ、じ、自分で、く、首を絞めたってことは?」と、葵が恐る恐る聞いた。
「それも無理。自分で自分の首を絞めても、死ぬ前に失神して力が緩むから最後まで締めきれない。監視カメラの映像も解析中だれど、さすがに個室の中まではね……」
 葵と瑠奈は顔を見合わせた後、沙織から聞いた情報を凛に話した。
 凛は一通り話を聞くと、テーブルの上で手を組み、そこに額を乗せてしばらく目を瞑って考え込んだ。
「色々と調べてくれてありがとう」と凛は顔を上げて言った。「今回はちょっと気味が悪いね……。昨日言った通り、凍矢が見つかったら瑠奈ちにお願いすると思うから、今夜中にヘッドパーツのメンテナンスはしておくね。持ってるなら今見せてくれる?」
 瑠奈は鞄からヘッドパーツを取り出して凛に渡した。凛は小型のパソコンを取り出してヘッドパーツとケーブルで繋ぎ、簡単な検査を始めた。
「うん、このままでも使えなくはないけど、衝撃で少しダメージ受けてる箇所がある。一度分解して掃除してから──ん?」
 パソコンの画面に現れたポップアップを見ると、凛は顔を顰めながら「あのバカ……」と小声て呟いて乱暴にパソコンを閉じた。
「ごめん、あおっぴ、悪いけど今から出動できない?」と凛が言った。「任務中の一般戦闘員が劣勢になってて、最悪なことに担当オペレーターが逃げ出したみたい」


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「──で、さっきの配達員がまた来て、サービスの品を渡し忘れたって言うんですよ。その時点で怪しいなんて思わないじゃないですか。それでドアを開けたら、いきなり突き飛ばされたんです」

「……どのようにして対処されたんですか?」
「こう、馬乗りになって組み伏せられたので、下からブリッジの要領で相手の体勢を崩して、怯んだ隙に背後から絞め技で落としました。この場合は正当防衛が成立しますよね?」
 瑠奈は葵の部屋の玄関先で、訪れた二人の警察官(初老の男性と若い男性だった)に身振り手振りで説明した。
 警察官たちはメモを取り終わると、お互いの顔を見合わせた。
「うーむ」と、若い警察官のひとりがペンで眉間のあたりを掻いた。「状況はわかりました。確認ですが、あなたは実際に被害に遭われた葵さんではないんですね?」
「そうです」

「もう一度、お名前を確認してもよろしいですか?」
「真白瑠奈です。真っ白と書いて真白(ましろ)。瑠璃色の瑠に、奈良県の奈です」

「失礼ですが、国籍は日本でしょうか?」
「はい、六歳の時に帰化しました。出身はアメリカで、ルナ・ホワイトという名前でした。帰化した時の苗字や漢字は父が決めました」
「なるほど。で、そちらに隠れている方が──」
 瑠奈の背後に隠れていた葵の身体がビクッと跳ねた。怯えたリスのようにひょこっと顔だけを出して、睨むように若い警察官を見る。
「こっちが葵です。一ノ瀬葵」と、瑠奈が葵の頭をポンポンと叩きながら言った。「昔からすごい人見知りで、知らない人が相手だと、こんな風にまともに喋れなくなっちゃうんですよ。私はこのマンションの別の部屋に住んでいて秒で来れるので、よくヘルプに来るんです」

 警察官はまたお互いに顔を見合わせた。

 奇妙な組み合わせの二人だ。
 瑠奈は、自分たちは同じ高校に通っている幼馴染の友人で、このマンションでそれぞれ一人暮らしをしていると説明した。ここは一等地というほどではないが、都内では比較的地価の高いエリアのタワーマンションだ。家族と同居ならともかく、女子高生がこんな場所で一人暮らしなどするだろうか。

 見た目も良くも悪くも対照的だ。
 瑠奈は一言でいえばギャル風で、背が高くピンクのメッシュが入った金髪に碧眼。制服は着崩していて、左耳にはピアスが五個も開いている派手な見た目。明らかに遊んでいる雰囲気だ。
 もう一方の葵は容姿は整っているものの、背も低く地味な見た目。おとなしいどころか、まともに会話すらできない様子でずっと瑠奈の背後で怯えている。
「葵さん?」
 若い警察官の背後で話を聞いていた初老の警察官が、子供に語りかけるように言った。
 葵はまたビクッと跳ねた。
「今の瑠奈さんのお話、間違いないですか?」
 葵は震えながら、なんとか頷いた。
「随分と怯えているみたいですが、もしかして誰かに脅されていませんか? 今なら我々がいるので、正直に話していただいても大丈夫ですよ」
「……まぁ、そうなるよね」と言って、瑠奈はため息混じりにこめかみを押さえた。
 葵は慌てて首を振った。
「いや、前にこういうことがあったんですよ」と、若い警察官が言った。「ある高校生のカップルが、別れ話のもつれから彼女さんが彼氏さんを刺してしまい、気の毒にも彼氏さんが亡くなってしまったんです。ところが、あろうことか彼女さんは自分がいじめていた同級生の女の子を脅して、罪を被せようとしたんです。いじめられっ子の女の子が彼氏さんから襲われたことにして、正当防衛を主張したんですよ。上手くいけばいじめられっ子は正当防衛が認められるし、認められなくても彼女さん自身は罪には問われないと考えた。もちろんそんな浅はかな嘘はすぐにバレましたしたけどね」
 葵は首が折れそうな勢いで首を振った。
「もちろんあなた達の関係がそうだと言っているわけでないんですよ」と、初老の警察官がフォローした。「ただ、今の段階では、我々はあらゆる可能性を考えなければならないんです。たとえば落ちていた財布を交番に届けてくれた人に対しても、その人が盗んだ可能性はゼロではないので、一応は調べます。可能性がゼロに近くても、証明ができなければ可能性としては残ってしまうんです。申し訳ありませんが、どうかご理解ください。よろしければ、まずはお二人がどのような経緯でご友人になられたのか、教えていただいてもよろしいですか?」
 葵と瑠奈は顔を見合わせて頷いた。
「ちょっと恥ずかしいんですけど……」と言って、瑠奈は本当に恥ずかしそうに頭を掻いた。「私、英語苦手だったんですよ」
「……元々はアメリカにいらっしゃったんですよね?」と、若い警察官が言った。
 瑠奈が頷いた。「そうですね……。私の父は生粋のアメリカ人なんですけど、絵に描いたような日本かぶれだったんです。普段着は和服。家も日本人の職人に依頼した日本家屋。床も全部畳敷で、掘り炬燵はあっても椅子はありませんでした。父は仕事の時はさすがにスーツを着て英語を喋っていましたけど、家での会話は全て日本語です。ママはそんな父に呆れて、私が物心つく頃に出ていってしまいました。父は私のためにベビーシッターを雇ってくれたんですけど、その方も日本出身で、家の中では日本語を話すように父から求められていたそうです。そんな環境で育ったので、私がプリスクール──日本で言う幼稚園みたいな所なんですけど、そこで同級生とまともにコミュニケーションが取れなかったんですよ。周囲の子が何を喋っているのか、半分も理解できなかったんです。そのうち私はプリスクールに行くのを嫌がるようになり、やがて本当に行かなくなりました」

 警察官は頷きながらメモを取り、話の続きを待った。
「父は私が言語によるコミュニケーションが困難な状態に陥っていることに気がつき、同時にその原因が自分にあることを知りました。ひどくショックだったそうで、父は──たぶん皆さんも聞いたことのある証券会社のマネジャーなんですけど、すぐに日本支社への異動を申し出て、私と二人で日本に移住することを決めました。今でも時々お酒を飲むと、当時のことを私に謝ります。まぁ、今考えれば虐待に当てはまるとは思うんですけど、父に悪気が全く無かったことは私もわかっていますし、日本に来てから父は積極的に英語を教えてくれて、今ではアメリカの親族とも問題なくコミュニケーションが取れているので、別に恨んだりはしていないです」
「なるほど。それで六歳の時に日本に来られたんですね」
「ええ。来日してからは少し引きこもっていたんですけど、あるタイミングで都内の小学校に編入しました。ただ土地にも慣れていませんでしたし、コミュニケーションに対するトラウマも強く残っていましたし、この通り見た目が周囲と違うので、アメリカにいる時よりも更に萎縮していました。でもしばらくすると、後ろの席の子も私と同じように全然喋らないことに気がついたんです」

 瑠奈は葵を振り返り、目を合わせた。
「それが葵との出会いです。休み時間になっても二人ともずっと無言で座っていました。ある日の昼休みに偶然二人きりになるタイミングがあって、思い切って私から葵に声をかけました。葵はびっくりしていましたけど、たぶん葵も私に同じ匂いを感じていたのか、少しずつ喋ってくれました。私も自分の言葉が同年代の子に初めて通じたことが嬉しくて、徐々に葵以外の子にも話しかけるようになりました。だから、私が人と喋れるようになったきっかけをくれたのは葵なんです。あの時、葵が後ろの席にいなかったら、たぶん私は今とはかなり違った人生を歩んでいたと思います」
 葵は何度も頷き、瑠奈の影から姿を表すと、ぎゅっと拳を握った。
「ほ……本当……です。わ、私も……る、瑠奈には……た、た、た、助けて……も、もらってばかりで……」
 初めて聞いた葵の声はひどく震えていたが、同時にとても聞きやすく可愛らしい声をしていたので、警察官二人はまた顔を見合わせた。

 葵の部屋のリビングは小洒落たカフェのような内装だった。
 床は無垢のウォルナットで、漆喰の壁には三枚の小さな抽象画が掛けられていた。部屋の中央にはニスが擦り込まれた縦長のダイニングテーブルと、木目調のイームズのシェルチェアが二脚、向かい合って置かれている。スポットライトが照らすテーブルの中央には小さなパキラの鉢が置かれ、ブラウンが基調となった内装に緑を添えていた。
 葵はカウンターキッチンの中で業務用のグラインダーで豆を挽き、銅製のドリッパーとケトルを使って丁寧にコーヒーを淹れた。その流れは完璧で、所作には無駄なところや演出めいたところはなにも無かった。なおかつ、葵はコーヒーを淹れるという行為を心の底から楽しんでいるように見えた。そして瑠奈も椅子に胡座をかいて座りながら、流れるようにコーヒーを淹れる葵の姿を楽しそうに見つめていた。
 葵は出来上がったコーヒーをテーブルに置いて瑠奈の対面に座ると、申し訳なさそうに頭を下げた。
「ご、ごめんね……。助けてもらった上に、う、疑いまでかけられちゃって……」
「いいっていいって。いつものことじゃん」瑠奈は手をひらひらさせてあっけらかんと笑った。「疑いも晴れたし、犯人も捕まったし、オールオッケーでしょ」
 瑠奈の言う通り、あまりにもチグハグな二人の関係に疑問を持たれることは珍しいことではない。
 先ほどの警察官二人は瑠奈の話を信じ、やがて警視庁のデータベースから配達員に過去にも逮捕歴があることが判明し、疑いは完全に晴れた。
「それよりもこれ見て。凛が作ったヘッドパーツの完成品。今日の任務で初めて使ったんだけど、試作品とは大違いの性能でさ」
 瑠奈はカバンからヘッドパーツを取り出して葵に見せた。折り畳まれたアンテナ部分が伸びると、ウサギの耳のような形になる。
「もう無敵状態っていうかさ。蹴り入れた相手がオモチャみたいに吹っ飛んじゃって、危うくビルの屋上から落としちゃうところだったんだから」
「それは……すごいね」
「葵ももう一度試してみたら? 完成品ならもしかしたら適性があるかもしれないし」
「うーん……私は効果が出ないB判定じゃなくて、装備すらできないC判定だったから……」
 葵は瑠奈から受け取ったヘッドパーツをしばらく眺め、確かめるように頭に装着した。
 途端、嵐の海に浮かぶ船のように景色が揺れ始めた。 
「おぉう……」

「やっぱりダメかぁ」瑠奈は身を乗り出して葵の頭からヘッドパーツを外すと、コーヒーカップを持って天井を見つめた。「凛が言ってたけど、汎用化が当面の課題なんだって。なんで私だけここまで適性があるのかもよくわからないみたい。葵は今の状態でも十分強いから、装着できたら私の比じゃないくらい強くなると思うんだけど……てかこのコーヒー美味っ?! また新しい豆?」

 瑠奈は予想外の宝物を見つけた時のように目を見開いた。
 カップからは熟したプラムやオレンジのような香りが立ち昇り、砂糖もミルクも入れていないブラックコーヒーにもかかわらず、ほのかにサトウキビのような甘さを感じる。
「エルサルバドル、サンタ・コネホ農園のパカマラ。樹上完熟のウォッシュド」と言いながら、葵もコーヒーに口をつけた。そして満足そうに小さく頷いた。完璧なものが完璧な場所に納まっていることを喜んでいるように見えた。
「葵は絶対カフェ開いた方がいいって。こんなに美味しいコーヒー私だけが飲んだらもったいないよ」と、瑠奈が真剣な顔で言った。
「む、無理だよ。接客なんてできないし」
「私が接客すれば解決するじゃん」と言って、瑠奈はにこりと笑った。「ていうか葵さ、どんどん喋れるようになってるよね? 去年までは私と喋る時ですらこんなにスムーズじゃなかったのに。やっぱりブイチューバーの効果かな? 登録者数、すごいことになってるよね?」

「あ、あれは事故みたいなもので……たまたまネットニュースに……」
 葵は恥ずかしそうに顔を赤らめた。

 その日、二人は途切れることなく話を続け、瑠奈はそのまま葵の部屋に泊まった。あらためてデリバリーを頼み、日付が変わって少し経った頃に同じベッドに入った。
「ピ、ピアスって痛くないの……?」
 葵が仰向けに寝ている瑠奈の形の良い左耳にそっと触れた。左耳のピアスは全て外され、その小さな空洞の羅列はまるで意味のある星座のように見えた。
「んー? 葵もピアス開けてみたいの? 私が開けてあげよっか?」
 瑠奈が悪戯っぽく言うと、葵は慌てて首を振った。
「付けてる時は全然痛くないよ。開ける時もちゃんとすれば痛みも血もほとんど出ないしね。ただココとココを繋ぐ長いピアス──インダストリアルって言うんだけど、付けたまま寝ちゃうと寝返りの時に引っかかって痛い時はあるかな」
「やっぱり痛いんだ……」
「でもね、こっちは寝る時も外してないんだ。引っかかることもないし」
 瑠奈も葵に向かい合うように横向きになると、右耳にひとつだけ付いている小さな青い花のピアスを小指で指した。

「それ……私が高校の入学祝いで買ったやつ……」
「そ。こっちはね、ずっと付けっぱなし」


B0400

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 真白瑠奈(ましろ るな)に蹴り飛ばされた大柄な男は映画のワイヤーアクションのように吹っ飛び、配管ダクトに背中を強打してうずくまった。
「助けを呼んでも誰も来ない──だったっけ?」
 瑠奈は倒れた男を見下ろしながら、綺麗な歯並びを見せて笑った。

 雑居ビルの屋上。
 男の背後に浮かぶ大きな満月が瑠奈の目に反射し、暗く青い光を反射している。
「そのセリフ、そのまま返すわ。仲間の人妖がいるなら呼べば? 探し出して倒す手間が省けるから」
 男はうずくまったまま、ファッションモデルのように立っている瑠奈を睨みつけた。
 四角い顔が怒りで真っ赤になるが、どう足掻いても瑠奈に勝ないことはわかっている。
 まさか人妖の俺が……人間よりも優れた身体能力を持つ俺が、アンチレジストの戦闘員とはいえ、こんな小娘に手も足も出ないとは夢にも思わなかった。
 そしてこのような危機的状況であるにもかかわらず、男は瑠奈の姿を見て生唾を飲み込んだ。
 釣り落とした魚は大きいと言うが、釣り落とすどころか勝手に網に入ってきたマグロに噛みつかれたような気分だ。

 二時間ほど前、男は新しい女を探すために夜の繁華街を彷徨っていた。
 今の養分であり金づるの女は駆け出しのグラビアアイドルだったが、いよいよ使い物にならなくなってきた。捕食のための性行為は男が徹底的に自分好みに調教し、金はグラビア撮影だけでは稼げないので高級風俗店に入れて貢がせている。だが最近は生気を吸いすぎたのかすっかり痩せてしまい、グラビアも風俗店も売上が悪くなっている。言動もやや要領を得なくなってきたので、廃人になるのも時間の問題だった。
 しばらく街を徘徊した後、男の足は自然と都内の有名なナンパスポット、通称「釣り堀」と呼ばれる公園に向いた。
 誰がいつ決めたのかは知らないが、「釣り堀」には明確なルールがある。
 ただの公園から「釣り堀」になるのは夜の九時から翌朝の四時まで。ナンパ目的の男は中央広場を囲むように配置されたベンチで待機する。ベンチが埋まっている時は立っていてもいいが、決して広場の中に入ってはいけない。広場の中央には大きなポールライトが一本だけ立っていて、女がその下で五秒以上立ち止まれば、それは「ナンパしてほしい」の合図となる。立ち止まらない女はただの通行人で声掛けは厳禁。レベルの高い女がライトの下で立ち止まると、まさに練り餌を放り込んだ釣り堀ように男が群がることから、いつからか「釣り堀」と呼ばれるようになった。
 ベンチは全て埋まっていた。
 近くのベンチでは飲んだ後らしい冴えないサラリーマン風の男が二人、落ち着きのない様子でスマートフォンと広場の中央を交互に見ている。
 見ているだけでイラつくような奴らだ。
 男が肩で風を切って近づくと、気がついた一人がもう一人を連れ立ってすぐにいなくなった。
 適者生存というやつだ、と男は思った。
 狩猟時代から男の価値は強さだと決まっている。弱い男に生存価値は無いし、子孫を残す権利もない。女だって、誰が好き好んで弱い男を選ぶものか。 
「せーんぱーい! こんな所で何やってるんですかー?」
 男が椅子に座るや否や、いきなり見知らぬ女が甘えた声を出しながら腕に抱きついてきた。驚いて振り解こうとしたが、女の姿を見て思いとどまる。
 紺のブレザーに付いているエンブレムは、都内の有名私立高校のものだ。
 垢抜けたショートカットの金髪は所々に蛍光ピンクのメッシュが入っていて、気が強そうなくっきりとした二重まぶたには髪の毛と同じ金色のまつ毛がくるりと上を向いている。カラーコンタクトとは違うナチュラルな青い目。左耳にはピアスが五つも開いているのに、右耳は青い花を模したシンプルなピアスがひとつだけ。
 白人のようだが、在日期間が長いのか、それとも日本で生まれ育ったのか、雰囲気が日本人とほどんと変わらない不思議な女だ。だが透き通るような白く細やかな肌や、プロポーションがアジア人とはまるで違う。シャツは第二ボタンまでが開けられ、緩く締められたネクタイの間から谷間が見えていた。チェックのプリーツスカートからはむっちりとした太ももが伸び、思わず生唾を飲み込んだ。
 この派手な女は何だ?

 なぜいきなり抱きついてきた?
「あれ? 人違いかな?」とわざとらしい声を上げながら、女はイタズラっぽい笑みを浮かべて首を傾げた。言葉とは裏腹に、ますます男の腕に胸を押しつけてくる。「ごめんなさい。 知り合いの先輩に似てたから、つい抱きついちゃった。ヤバい雰囲気とか、太い腕とか、そっくりだったから……」
 女はデコレーションした爪の先で男の太い二の腕をなぞりながら、右目でウインクした。

 ……もしかして逆ナンか? 

 「立ちんぼ」の雰囲気でもないし、美人局だとしても人妖の俺に敵うわけがない。男を返り討ちにした後、ゆっくりと女をいただくだけだ。男にとっては何の損も無い。
 男は女の胸や太ももに視線を走らせると、口角を上げた。
「お前、名前は?」と、男が聞いた。 
「瑠奈。可愛い名前でしょ?」

「日本人なのか?」
「今はね。六歳の時にアメリカから帰化したから。ねぇ、お兄さんの名前も教えて?」
「後で教えてやるよ。とりあえず移動だ。ここは成立したらすぐに立ち去るのがルールだからな」
 男が立ち上がっても、瑠奈は男の腕に抱きついたままだ。周囲の男達から嫉妬と落胆が混ざった視線が注がれる。舌打ちの音すら聞こえてきた。

 心地いい優越感が込み上げてくる。
 白人のギャルとは大当たりもいい所だ。どうせ遊びまくって他の男の手垢がベタベタついているだろうが、この身体を抱けるのなら文句は無い。人妖の体液にはチャームと呼ばれる催淫効果と魅了効果がある。さっさとホテルに連れ込んで唾液でも精液でも飲ませれば奴隷にできる。

「その先輩と俺、どっちがイケてるんだ?」と男が聞いた。
「うーん、どうだろう。まだ会ったばかりだし……」と言いながら、瑠奈は笑みを浮かべて爪の先で男の首筋を素早くなぞった。蠱惑的な仕草にぞくりとする。
「じゃあ比べてみろよ。そこに良い場所があるぜ」
 男は瑠奈の手を掴み、公園の裏手のラブホテルを親指で指した。
「どうせそれが目的だろ? 自慢じゃねぇけどな、俺のはスゲェぞ。ほとんどの女は泣き叫ぶか失神するからな」

「ちょっと、何考えてるの?」と言って、瑠奈は笑いながら男の唇に人差し指を当てて制した。「その前にさ、一緒に月を見に行かない?」

「……あ? 月?」
「そう。お、つ、き、さ、ま。今日はスーパームーンなんだって。私、誰も来ない月見スポット知ってるんだよね」

 瑠奈は男の手を引いて勝手に歩き出した。

 月見?
 なんのつもりだ?

 瑠奈は男の手を引きながら裏路地から雑居ビルに入り、古いエレベーターを使って屋上に出た。
 そんなに高いビルではないが、なるほど確かに見晴らしがよく、他のビルや通りからは死角になってる。
 ドアが閉まると同時に、男は瑠奈の背後から抱きついて胸を鷲掴みにした。

「ちょ、ちょっと待って! 待ってってば!」
「今さら待てるかよ。外でヤルのが好きなんだろ? 早く壁に両手つけてケツ向けろ」
 瑠奈は予想外に抵抗するが、男は構わず胸を揉み続けて瑠奈の首筋を舐め上げた。
「だから待ってってば! 制服汚れるとまずいんだって! せっかく良いの着てきたんだから、ちょっと準備させて」

「……あ? 準備?」

 男が瑠奈の首から顔を離した。
「あれ? 言わなかったっけ? 私コスプレが趣味でさ、色んな衣装着るのが好きなの」
「コスプレ?」

「うん。実は今日はさ、制服の下にバニーガールの衣装着てるんだよね」
「ほぉ……」
 男の鼻の下が伸びた。
 遊び慣れしていると思ったが、ここまで好き物だとは思わなかった。

「俺もバニーガールは好きだ」
「気が合うじゃん。じゃあ準備してきてもいい? ちゃんと耳も付けてくるから」
「ここで脱げよ。見ててやる」
「ダメだって。こういうのはお互いインパクトが大事なの。すぐに着替えるからちょっと待ってて」
 瑠奈はカバンを掴むと屋上から出て行った。
 美人局ならここで男が出てくるタイミングだが、ちゃんとドアの内側で服を脱いでいる気配がある。
 男の期待が最高潮に達した時、瑠奈が「おまたせー」と明るく言いながら勢いよくドアを開けた。そして、瑠奈の姿を見た男は時間が止まったように固まった。
 確かにバニーガールだ。

 近未来のバニーガールはこんな感じなのかもしれない。
 純白のレオタードはヘソ下から胸元のあたりまでが半透明の素材になっている。エナメルのような純白のロングブーツと同素材のロンググローブ。衣装全体には所々に金色の装飾が控えめに施され、頭には薄紫色に発光するウサギ耳のようなヘッドパーツが二本伸びていた。

「どう? 気に入ってくれた?」
 瑠奈が口角を上げて首を傾げた。だが、目つきが声をかけられた時とは別人のように鋭くなっている。

「私専用の対人妖バトルスーツ……可愛いでしょ?」


「ま、待て……待ってくれ……」
 男が強打した背中を庇うようによろよろと立ち上がり、瑠奈を押し留めるように両手を突き出した。
「勝てないのは十分わかった……頼むから見逃してくれ。もちろんタダとは言わねぇ。このエリアを仕切ってる人妖の情報を教えてやる。仕切ってるのは凍矢(とうや)さんって人だ。家出少女を囲ってモグリの風俗店を経営して、めちゃくちゃ稼いでる。二週間……いや、十日以内に情報を集めて、あんたに教えるよ。だから見逃してくれ」
 瑠奈は口角を上げながら「ふぅん」と声を発し、思案するように首を傾げる。
 男は瑠奈の死角になるように尻のポケットに手を入れた。
 瑠奈のヘッドパーツがピクリと動く。
「あ……あとはオマケに俺の仲間も売ってやるよ。普段から情報交換してる仲間がいる。俺が一声かけりゃすぐに集まってくるバカな奴らさ。あんたは待ち伏せして捕まえるなり、ぶちのめすなりすればいい」
「友達を売る……ってこと?」
 瑠奈のヘッドパーツがまた動いた。左右対称にぴんと立ち、まるで角のように見える。
「まぁ、そんなところだ。だから俺だけは……」
 男がゆっくりと瑠奈に近づいた。そしてポケットから腕を抜いた瞬間、狙い澄ましたように男の手首を瑠奈が蹴り上げた。
 男が握っていたスタンガンが瑠奈の背後に落下する。
「ごめんねー。怪しい動きするとわかっちゃうんだよね」瑠奈がヘッドパーツを指でトントンと叩いた。顔は笑っているが、眉間には皺が寄っている。「あとさ……。私、友達を大切にしない奴がマジで許せないんだよね」

 瑠奈は失神した男の背中に胡座をかいて座っていた。
 心地良い夜風が瑠奈の髪を撫でた。正面には大きな満月が浮かび、瑠奈の鼻歌に合わせてヘッドパーツが踊るように動いている。
 わずかな時間でもスーパームーンを堪能できてよかったと瑠奈は思った。オペレーターの天宮凛(あまみや りん)はもう間も無く回収班を引き連れて到着するだろう。
 ふと、手の中のスマートフォンが震えた。
 表示された名前を見ると、瑠奈のヘッドパーツが嬉しそうに跳ねた。
「ほーい、どうしたー?」
 スマートフォンの画面と左耳のピアスが当たってカチリと音が鳴る。
「うん……うん……今? 大丈夫だよ。ちょうど任務終わって凛と回収班を待ってるところ。うん……葵、落ち着いて。ゆっくりでいいよ…………はぁ!? 暴漢に襲われた!?」
 瑠奈が勢いよく立ち上がった。
 同時に屋上のドアが開いて、黒い作業服を着た三人の男と、真っ黒いワンピースを着た小学生のような体格の女が入ってきた。

 回収班と天宮凛だ。
 瑠奈が通話したまま四人に目配せし、足元の男を指差した。凛は頷くと回収班に指示を与え、三人の男は慣れた手つきで担架とベルト、そして寝袋のようなものを準備し始めた。

 瑠奈は四人から距離をとって小声で通話を続けた。
「ちょ、ちょっと大丈夫なの? え? もう倒した? 投げてから締め落とした? その……何もされなかったの……? ああ……よかった……。まだ警察呼んでないんだよね? うん、大丈夫。説明は任せて。すぐに行くから」
 瑠奈はスマートフォンを切ると、回収作業を手伝っている凛の肩を叩いた。振り向いた凛に祈るように両手を合わせて片目を瞑る。
「ごめん! 葵がちょっとトラブっちゃって同乗できないかも」
「おりょ、そりゃ大変」
 凛は無表情のまま抑揚の無い口調で言うと、タブレットを素早く操作した。
「オッケー。車をもう一台手配したから、到着次第あおっぴの所に行ってあげて。同乗はしなくて大丈夫。予備の拘束テープも一緒に巻いておけば、このクラスの人妖なら目を覚ましても解けないはずだから」 
「ごめんね。安全のために戦闘員も同乗した方がいいんだけど……」
「とんでもない。それよりもすごかったじゃん? 攻撃、一発も貰ってなかったよね。やっぱり試作品とは違う?」
 凛は相変わらず無表情のままで、自分の頭に両手でウサギの耳を表すジェスチャーをした。
 天宮凛。
 オペレーターとして最も優秀な隊員の一人で、バトルスーツや武器などの開発も手掛けている。
 瑠奈のヘッドパーツを作ったのも彼女だ。
 服装はいつも黒いワンピース。冬になるとその上に黒いコートを羽織る。髪型は常に濡れているような艶のある黒髪を姫カットにしていて、恐ろしい頻度で美容院に行っているのか、誰も凛の髪が伸びたり短くなったりした時を見たことがない。
 そんな凛が可愛いポーズをしたので、瑠奈は無意識に凛の頭を撫でた。
「ちょっとお姉さーん? 私二十歳だよ? 年上だよ? 子供扱いしちゃダメ」
 凛は抗議するが、ウサギ耳のジェスチャーを続けたまま瑠奈の手を払おうとはしない。
「ごめん、なんか可愛かったからつい」と、瑠奈がニヤけながら言った。「でも凛が作ってくれたこの新型、本当にすごいよ。試作品でも体重が半分になったと思ったのに、今日はまるで羽が生えたみたい。攻撃の威力も上がってるしね」
「あの蹴り、すごかったよね。目の錯覚かと思った」
「力を加減しないと柵を飛び越しちゃいそうだったからね。相手が攻撃に移る前のわずかな動きも察知できるし、人妖が気の毒になってくるよ」
 瑠奈のヘッドパーツがひょこっと動いた。
 ふーむ、と言って凛は腕を組む。
「まさかここまでの効果が出るとはね。ヘッドパーツはアンテナの役割に加えて、脳に微弱な電流を流して身体能力の強化と感覚神経を増幅させる効果があるんだけど、ほかの戦闘員でのテストでは適合出来ても能力の上昇率はせいぜい数パーセント。なんで瑠奈ちにだけそこまでの効果が出るのか正直わからない。いずれにせよ今後は汎用化とダウンサイジングが課題かな。まだ適性のあるごく少数の戦闘員しか装備できないし、適性があっても瑠奈ちみたいに爆発的な効果が出るわけでもない。そもそも壊されたら終わりだしね。そんなマトになりやすい大きさの外部パーツじゃなくて、本当は脳に直接埋め込むのがベストなんだけど」

「怖いこと言わないでよ……」

「壊される方が怖いじゃん」
「あ、怖いと言えばさ」瑠奈が顔を曇らせて頭を掻いた。「あの男、この近辺を仕切ってる人妖を知っているみたい。凍矢っていう個体名で、家出した女の子を使って無許可の風俗店を経営してるんだって。まぁ命乞いのための出まかせかもしれないし、それ以上のことを聞く前に倒しちゃったんだけど」
「うーん、出まかせとは言えないかもしれない。この近くのホテル周りに集まってる家出した未成年が社会問題になってるでしょ? 実は半年くらい前から、その子達の失踪件数がものすごく上がってるんだよね。もしその人妖が絡んでるとしたら……」
 凛も顔を曇らせて言った。普段は無表情でもネガティブな感情だけは表に出るらしい。
「了解、目を覚ましたら色々と聞いてみる。もし本当だったら、その人妖の対処は瑠奈ちにお願いするかもしれない。あおっぴは優秀だけど、ヘッドパーツの適性はなかったから」
「オーケー。凍矢の情報がわかったら教えて。ただ、今日みたいな囮捜査はナシでお願いね。すごく恥ずかしかったんだから」
「えー、むしろノリノリだったでしょ? 遊んでるギャルなんて瑠奈ちのキャラにピッタリじゃん。私はあそこまでおっぱい押し付けろなんて指示は出してないけど?」
 凛は悪巧みをするような表情を浮かべながら肩をすくめた。やはりネガティブな表情だけは表に出るらしい。

瑠奈 キャラ紹介

※過去作を読んでいなくても楽しめます。
※ラフの状態ですので、製本時には内容が変わっている可能性があります。
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予告
「じ、じゃあ……次のお悩み相談で最後にします。今日も来てくれて、ど、どうもありがとう」
 夜ノ森メルル(よのもり めるる)がたどたどしくお礼を言うと、画面の左端を流れるコメントの速度がさらに加速した。

 ──こちらこそありがとう!
 ──メルルちゃんの声は本当に可愛くて癒されるよ。明日も仕事頑張れそう。
 ──始めて来たけどギャップがめちゃくちゃ可愛い! チャンネル登録しました!
 メルルは自分の姿をアニメキャラクターに変換して動画配信サイトで配信する、いわゆるブイチューバーだ。
 見た目は一言で言えば「地雷系チアリーダー」
 ピンクのインナーカラーが入った黒髪に、目の下には赤黒い隈のようなメイク。白を差し色としたピンクのプリーツスカートにショートジャケット。両手にはピンク色のポンポンを持ち、左手首には包帯が巻かれているという、なんともチグハグな見た目のキャラクターだった。
 本人の表情も固く、視線はずっと泳いでいて、瞳にも光が無い。
 だがその突飛なキャラクターに反して配信の雰囲気は温かく、ゆっくりでいいよ、頑張れ、などと応援するようなコメントで溢れていた。
「メ、メルルさんはじめまして。『ねころん』と言います。ち、中学三年生の女子です。私は人に嫌われることがとても怖く、い、いつも相手に合わせた行動や返答をしてしまいます。そ、そのおかげで学校では、いわゆる人気者のグループに所属できているのですが、グループの子とは本音で会話したことが一度もありません。や、やりたくないことでも……たとえば休日に派手な場所に遊びに行ったり、遅くまで学校に残っておしゃべりをしたりすることは本当は嫌なんですけど、一度も断ったことがありません。正直、精神的にかなり無理をしているのですが、ひ、ひとりぼっちになる方がもっと怖いので、これからも無理してでも相手に合わせて、今の状態を続けた方がいいのでしょうか……? 『ねころん』さんからのご相談でした。あ、ありがとうございました」
 メルルはメールの内容を読み終わると、お礼を言うように遠慮がちにポンポンを振った。
「ね、『ねころん』さんの不安はとても自然なことです。私たちは全員、数の大小や関係性の強弱はあっても、共同体……つまり他の誰かと繋がった社会の中で生活しています。『ねころん』さんの場合で言うと、家族やクラスメイト、学校の先生、近所の人、塾に通っていればそこの人間関係が、小さな共同体にあたります。き、共同体は人が生きていく上で不可欠なので、共同体から嫌われたり、追放されたりすることは、お、多くの人にとって、とても強いストレスになります。で、でも、同時に全員に好かれるということも不可能です。『ねころん』さんがいくら話を合わせる努力をしても、合わない人は必ずいます。ぎ、逆に相手からいくら好意を寄せられても、『ねころん』さんが好きになれない相手も必ずいます。そ、それを踏まえて今の『ねころん』さんの状態なのですが、まず共同体には選べる共同 体と選べない共同体があって……」
 メルルは心理学や一般論を交え、真摯にアドバイスをした。話し方こそたどたどしいが、メルルの声質は柔らかく語り口もゆっくりなので聞こえやすい。そして難しい用語などは都度分かりやすい言葉に言い換え、例えを用いて解説した。
 最後に同意するコメントや反論のコメントも適度に拾いながら回答を終えると、エンディングのBGMに切り替えた。
「あ、あの……最近寒くなってきたから、みんなも体調に気をつけてね……。それじゃあ……おつメルル……」
 遠慮がちにポンポンを振り続けるメルルの前に黒いカーテンが引かれ、白いウサギが跳ねるアニメーションに変わった。メルルの姿が見えなくなっても、好意的なコメントがしばらく流れ続けた。 

 一ノ瀬葵(いちのせ あおい)は配信ツールが切れたことを確認すると、両手で丁寧にヘッドセットを外した。
 耳当ての部分がぐっしょりと汗で濡れていて、喉もカラカラに乾いている。
 葵はすっかり冷えてしまったコーヒーを一息で飲むと、力尽きたように机に突っ伏した。まるでフルマラソンを完走した直後のような疲労感だ。葵は頬を机につけたまま器用にアルコールティッシュで耳当てを拭くと、顔を上げて動画配信サイトのダッシュボードを見た。
 
 ホスト名     :夜ノ森メルル

 チャンネル登録者数:四万三千人
 収益化      :可能(銀行口座が登録されていません)

「……ま、また増えてる」
 葵はポツリと呟くと、電池が切れたように再びデスクに突っ伏した。
 頬に当たるデスクの冷たさが心地良く、ものの数秒で瞼が閉じる。だが眠りの沼に落ちる寸前、インターホンが葵の意識を掴んだ。
 鉛のように重い身体を引き摺ってモニターを見ると、マンションのエントランスに料理宅配サービスのパックパックを背負った男が立っていた。そういえば配信前に夕食を注文していたことを忘れていた。
 葵はオートロックを解除し、洗面台で軽く身支度を整えると、玄関の呼び鈴が押されるのを待ってドアを開けた。色黒の肌に、ベースボールキャップから長い茶髪を垂らした配達員が白い歯を見せた。
「お待たせしました、一ノ瀬様。『マルヴァローザ』のボロネーゼとチキンサラダで間違いないですか?」

 葵は固まったように動かず、配達員の目を睨むように見つめた。
「あの、一ノ瀬葵さんですよね?」
 葵は返事をせず、配達員を凝視しながら、こくりと頷いた。
「お代はキャッシュレスでいただいていますので、このままのお渡しになります」
 商品を受け取っても無言で配達員を凝視する葵に、配達員の顔から徐々に笑顔が消える。

「あの……なにか俺、失礼しちゃいましたかね?」
 配達員がやや苛立った声で聞いた。葵が無言で首を振ると、配達員はなにも言わず乱暴にドアを閉めた。葵は配達員が遠ざかるのを待ってから音を立てないように鍵を閉め、丁寧にパソコンの前に料理を置くと、両手で顔を覆ってベットに仰向けに倒れ込んだ。

 またやってしまった……。
 せっかく届けてくれたのに、なぜ自分は「ありがとうございました」の一言すら言えないのだろう。
 メルルの配信では偉そうにアドバイスしておきながら、本来の自分はコミュニケーションどころか、配達員にお礼すら言えない極度の対人恐怖症だ。家族と、ごく数人の親しい友人を除いては、笑うどころか何かを言おうとしても言葉が出てこない。挙げ句の果てに相手の目をじっと見る癖があり、いつも怖がられる。たとえ人生で二度と会わないかもしれない配達員が相手でもだ。
 原因はわからない。
 生まれつきと言えばそれまでだが、人間関係において過去に決定的な出来事やトラウマがあったわけでもなく、かといって自分に自信が無さすぎて萎縮しているわけでもない。事実、葵は側から見ても別段コンプレックスに感じなければならない所は無い。同年代に比べて背が低く、発育に乏しいところはあるが、顔はむしろ整っている方だ。性格も根暗や卑屈というわけではなく、むしろ人見知りな性格を埋め合わせるように、積極的に一人でできる趣味やスポーツに取り組んでいる。
 ブイチューバーとしての活動もそのひとつだ。
 今までコミュニケーション講座や話し方講座に数多く応募したのだが、講師とは対面はもちろん画面越しですらまともに喋ることができなかった。前述のじっと目を見る癖で、怒り出す講師もいた。
 そのように思い悩んでいた最中、ブイチューバーという存在を知った。お互いの顔が見えなければ、少しはまともに人と会話できるかもしれないと思った。
 葵は思い立つと行動が早い。すぐに配信ツールと機材を購入し、アバターは出来合いで売られていた「夜ノ森メルル」をチアガールが好きだからという理由で購入した。
 配信当初は多くても十人前後が見てくれる程度で、葵もぎこちないながらも対面よりはリラックスして話せることが楽しかった。自分も対人恐怖症なのだ、というリスナーの悩みに応えているうちに徐々に登録者数が増えていったが、このままのんびりと続けていければと思っていた。
 しかし数ヶ月経ったある時、ネットニュースに「地雷系チアガールのカウンセラー?」という見出しで紹介され、一気に広まってしまったのだ。

 再びチャイムが鳴ったので、葵は反射的にベッドから身体を起こした。
 もう荷物もデリバリーも頼んでいないはずだ。訝しがりながらドアスコープを覗くと、先ほどの配達員が立っていて、「すみません。店からもらったサービスの品を渡し忘れまして」と言いながらバックパックを掲げた。サービスの品など渡さなくてもわからないのに、わざわざ戻ってきてくれたようだ。 
 ドアを開けると、葵は大きく息を吸い込んだ。

「……あ、あ」

 声が震える。

 がんばれ! 今度こそちゃんとお礼を言うんだ!
 葵は自分を鼓舞しながら、両手をぎゅっと握りしめた。

「あ、あり……が……」
「これ、サービスの品です」と言いながら、配達員がバックパックから手を引き抜いた。
 そして葵の胸を力任せに突き飛ばした。
 葵は完全に不意を突かれ、勢いよく廊下に倒れ込んだ。咄嗟に受け身をとり頭こそ打たなかったものの、目の前に星が飛ぶ。配達員が素早くドアの中に入り、鍵を閉めるのが視界の隅に映った。
「……いきなりガンつけられてムカついたけどさ、お前よく見ると結構可愛い顔してんじゃん?」
 配達員は土足のまま廊下に上がると、葵の腹に杭を打つように拳を突き込んだ。
「ゔぐッ?!」
「一人暮らしだろ? こんな広いマンション住んで、良いとこのお嬢ちゃんか?」
 配達員は続けざまに葵の腹を殴った。軽い脳震盪を起こしていたため防御することができず、先ほど飲んだコーヒーの味が喉までせり上がってきた。配達員は葵の両手首を掴んで強引に身体を開かせると、葵の身体に覆い被さった。
「終わってから通報しても無駄だぜ。バイト先に伝えてある住所も名前もデタラメだからな。ベッド行くか? 俺はここでもいいけどな」
 配達員の興奮した息が葵の顔にかかる。葵も肩で息をしながら、配達員の目をじっと見つめた。配達員は気がついていないが、葵は呼吸のタイミングを配達員に合わせている。
「だからガンつけてんじゃねぇよ。ムカつく女だな。ま、突っ込んでやれば大人しくなるだろうがよ」
「……じ」

「あ?」

「じ……人……妖……?」

 葵は配達員の目をじっと見つめたまま聞いた。
 配達員は言葉の意味が理解できない様子だったが、ようやく思い当たったように目を開いた。
「ジンヨウ……? ああ、あの都市伝説のことか。人間と同じ姿で、セックスで人間から養分を吸い取って廃人にするバケモンだろ? お前そんなもん信じてんのかよ」
 配達員が徐々に顔を近づける。
 葵は唇が触れ合う直前、配達員が息を吐いたタイミングで素早くベルトを掴み、思い切りブリッジした。配達員は葵の身体を飛び越えて顔面から床に落下する。葵は素早く身体を起こして悶絶している配達員の背後にまわり込み、襟を掴んで頸動脈を絞め上げた。
 配達員は短い悲鳴を上げ、十秒も経たないうちに意識を手放した。
 葵は呼吸が整うと、配達員の手足をガムテープで拘束した。その間も配達員は起きる気配がない。

 弱すぎる。
 今まで戦ってきた人妖は身体能力の差こそあれ、ここまで弱い個体はいなかった。能力を底上げするバトルスーツも身につけずに、こんなに簡単に倒せるはずがない。
 葵は複雑な気分で所属する人妖討伐組織「アンチレジスト」から支給されたカード型の端末を配達員の首に押し当てた。
 青いランプが点灯する。
 やはり人妖ではなく、ただの人間だ。

「……困ったな」と、葵は溜息まじりに呟いた。

 人妖なら倒せば終わりだ。
 あとはアンチレジストの回収班に連絡して処理をお願いすればいい。
 だが暴漢となると警察に連絡して事情を説明する必要がある。警察に対して自分がまともに経緯を説明できるとは思えない。しどろもどろになり、むしろ怪しまれて警察署に連行される未来が見える。違う。私はなにもやってない。首は絞めたが。
 筆談? 過去にもう試した。相手が目の前にいると手が震えて読める字が書けない。
 アンチレジストに助けを求める? いや、個人のトラブルに組織を使うわけにはいかない。
 葵が頭を抱えて悶々としていると、配達員がモゾモゾと起き出したのでまた首を絞めた。

 やはり瑠奈(るな)にお願いするしかないか……。
 葵は強烈な自己嫌悪に陥りながら、スマホを手に取った。


葵 キャラ紹介

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