心臓が早鐘のように打ち、 全身の血液がはげしく身体を巡る。もう少しで職員用駐車場が見えるが、冷子の悲鳴は断続的に続いていた。
「お願い……間に合って……」
シオンが駐車場に到着する。
肩で息をしながら辺りを見回すと、奥の方にもつれ合うような人影が数人見えた。駆け寄ると、冷子の赤いアルファ・ロメオの前で、三人の男子生徒に詰め寄られている冷子の姿があった。
「ちょっと……何なのあなた達は? やめ……やめなさい!」
「篠崎先生! 大丈夫ですか!?」
「き、如月さん!? あなた、なんでここに?」
「説明は後です! それより……」
シオンが冷子を背に庇いながら振り返る。
三人の男子生徒はアナスタシアの野球部のユニフォームを着ており、二人は坊主頭で一人は帽子をかぶっていた。
シオンも名前こそ知らないものの、壮行会や生徒会の視察で何度か見たことのある顔だった。しかし、その顔は酷くうつろな顔をしており、三人ともぶつぶつとうわ言のようなことを呟いていた。
「皆さん、もう門限は過ぎています。早く帰宅してください」
シオンが静かに男子学生達に呼びかけるものの、その声は全く耳に入っていない様子だった。
「あぁ………会長だぁ………」
「やべぇ…………マジで………可愛い………」
「………すげぇ……なんだ……あの格好………」
それぞれひげ面だったり眼鏡をかけていたり帽子をかぶっていたりと特徴はあったが、三人とも同じような虚ろな表情でじりじりとシオン達に近づいて来た。
異様な雰囲気を察し、シオンが冷子に声をかける。
「こ、これは一体……男性型の人妖って、まさかこの三人のこと…? 篠崎先生はすぐにこの場を離れてください。この場は私がなんとかしますので。あと、このことは内密にしてください」
「な、何を言っているの!? 如月さんを置いて行くなんて、そんなことできるわけ無いでしょう! 私も説得してみる!」
二人がやり取りをしている間に、帽子をかぶった生徒がいきなり奇声を上げて二人に突進して来た。シオンが冷子を突き飛ばし、男子学生が振り下ろした右腕の手首を両手で掴んで受け止める。
「がぁぁ……がぁぁぁ……」
「くっ……凄い力………」
「き、如月さん!?」
思わぬ事態に冷子が声をかけるが、その声に反応し、残りの眼鏡とひげ面が冷子の方向に向きを変えた。元々厳しいトレーニングを積んで鍛えている野球部員相手では、おそらく冷子が逃げたところで追いつかれてしまうだろう。
「先生……早く……車の中に入ってください! 私は……大丈夫ですから……」
ギリギリとシオンの腕が力で圧されはじめる。白い手袋が悲鳴を上げ、ぎちぎちと嫌な音が鳴り始める。
「先生……早く!」
その声に冷子は自分の車へ駆け出し、中に入ってドアをロックした。それを見届けるとシオンは腕の力を抜くと同時に足払いをかけて帽子を転倒させた。
「がぎゃぁぁぁ!!」
帽子にとっては一瞬の出来事で、急に目の前からシオンの姿が消え、勢い余って前方につんのめった所に足払いをかけられて顔面をしたたかに石畳へ打ち付けた。その悲鳴を聞いて、残りの二人もシオンに方向に向きを変えた。
「よし、このままこっちに来て。可哀想だけど、しばらく眠ってもらいます」
シオンが三人に対し身構える。
一対三と圧倒的に不利な状況だが戦闘に関する専門的な訓練を受けているシオンと、鍛えてはいるが戦闘には素人の野球部員ではまだ自分に分があると思った。
「しぃぃぃぃぃっ!!」
「おぉぉぉぉぉぉ!!」
眼鏡とひげ面が同時に駆け寄る。シオンに対し突きや蹴りを繰り出してくるが、やはり素人の動き。鮮やかにシオンに捌かれてしまう。
「ふっ……やあっ!」
眼鏡がシオンの顔面に向けて拳を繰り出すが、シオンはそれを左手で受け流すと右手で顎を押しながら、右足で眼鏡の右足を後ろに払う。柔道の大外刈りのような技をかけられ、眼鏡は悲鳴を上げながら後頭部を地面に打ち付けた。
「おおおおお!!」
ひげ面もシオンの腹をめがけ膝蹴りを繰り出すが、バックステップでそれをかわすと逆にひげ面の腹に膝蹴りを見舞った。
「はぁっ!」
「ぐげぇぇぇぇぇ!」
一撃を見舞うとすぐに離れる。
相手が人妖の可能性もあるが、生徒である以上深手は負わせたくない。なんとか昏倒させてアンチレジストに三人を保護してもらうのが一番だろうとシオンは考えた。
「あなた達、何があったかは知りませんけど、もうすぐ私の仲間が来てくれるはずですからおとなしくしてください。あなた達を傷つけたくはありません」
ひげ面はわずかに苦しそうな表情を浮かべているが倒れることは無く、先に倒した二人もよろよろと立ち上がる。三人はシオンの呼びかけには反応を見せず、再び何事かを呟きながらシオンに近づき始めた。
「お願い、あなた達とは戦いたくないの! おとなしく……」
「会長ぉ……やべぇ……こんなに近くで見れるなんて……」
「やっぱ……すげぇ身体してんなぁ………ヤリてぇ……」
「ああぁ……犯してぇ……滅茶苦茶に……犯してぇ……」
シオンが視線を下に向けると、三人の股間部分は既に大きく隆起しており、シオンは小さく悲鳴を上げた。獣のように欲望をむき出しにして近づく三人に、本能的に身の危険を感じる。
「せ……説得が通じない……? 申し訳ないけど、本気で気絶させるしか……」
三人が同時に駆け寄り、帽子とひげ面が真っ先に襲ってくる。シオンはすぐに体勢を整える。相変わらず素人の動きだ。攻撃の先を読んで受け流そうとするが、二人が攻撃する一瞬早く、シオンの視界が真っ赤に染まった。
「!!? なっ……ああっ!? な……何……これ!?」
一瞬のことで何が起こったか分からずシオンは慌てて両手で目を押さえるが、すぐに激しい痛みがシオンを襲い、目を開けていられなくなった。
赤色の残像がまだまぶたの裏で明滅する。獣のような声と衝撃がシオンに届いたのはその直後だった。
「がぁぁぁぁ!!」
「おおおおおおお!!」
ズギュッ!!
ドムゥッ!!!
「ごぶっ……ぐぅっ!?」
両手で目を押さえ、がら空きになっているシオンの腹部に左右から帽子とひげ面の膝がめり込んだ。力任せの蹴りだったが、それは正確にシオンの下腹部と鳩尾を襲い、凄まじい苦痛がシオンを襲った。
「あ……ぐううっ……」
視界はなんとか見えるようになり始めたが、まだどちらが前後かも分からない。よろけながら向きを変え、この場を離れようとするが、シオンが向きを変えた先は眼鏡の正面だった。
「しぃぃぃぃ!!」
ズムゥッ!!
「ぐふぅぅっ!? あ……あぐ……」
眼鏡の放った渾身のボディブローがシオンのむき出しの腹にクリーンヒットし、シオンの美しい金髪が揺れる。一瞬目の前が暗くなるが、直後に背中に蹴りを受け前のめりに地面に倒れる。
「あ……きゃあぁぁぁ!」
アスファルトの上に倒れ込み、肘まである白手袋の数カ所が破れる。やっと視界が戻り、倒れたままの姿勢で振り返ると三人はすぐ後ろまで近づいて来ていた。
「はぁ……はぁ…………犯してぇ……」
「ああぁ……や……やっちまうかぁ……」
「鎮めてくれよぉ……会長ぉ……」
「くっ……!」
このままではまずい。
シオンはようやく痛みと明滅の治まった目で辺りを見回し、鈍痛が残る腹を押さえながらひとまず駐車場を離れようとする。
足下がアスファルトから石畳へ変わり、研究棟の方向へ移動する。幸い野球部員三人はターゲットをシオンに定めたらしく、冷子には目もくれずに無表情でシオンを追いかけてきた。
「よかった、三人とも私を追って来てる。このままこっちへ来て」
鍛えられた野球部員三人は俊足を生かし、シオンとの差をぐんぐん縮める。研究棟前の広場の前には中央広場に比べると小振りではあるが同じようなデザインの噴水があり、シオンは噴水を背にして三人と対峙する。
「はは……日本の諺で言う背水の陣ってやつですね……。でも、先ほどは不意をつかれましたけど、今度は本当におとなしくしてもらいます!」
シオンの声は相変わらず三人には届いていないようだった。しきりにぶつぶつとうわ言を呟きながら、シオンに攻撃をしようとじりじりと近づいてくる。
「この三人、明らかに様子がおかしいですね……。人妖だったら何らかのコンタクトをとってくるはずですが、私の声も聞こえてないみたいですし……。もしかして、誰かに操られてる?」
シオンが考えを巡らせていると、三人はそれぞれ雄叫びをあげながらシオンに襲いかかってきた。しかし、三人同時の攻撃とはいえ、単調でストレートな攻撃はシオンに軽々と捌かれてしまう。
「さっきのようには……いきません!」
「ぐがぁぁぁぁ!」
シオンのすらりと伸びた足から放たれた回し蹴りはそのまま眼鏡の脇腹にヒットし、よろめいた所へ膝蹴りを追撃する。眼鏡はうめき声を上げて倒れ、同時に後ろから羽交い締めにしようと近づいたひげ面の腹へ後ろ蹴りを放った。
「ぐぼぉおおおっ!!」
シオンの履いている靴のヒールが根元までひげ面の鳩尾に吸い込まれ、前方に倒れ込む勢いを殺さずに空気投げを放つ。ひげ面はゆっくりしたモーションで前方に一回転し、背中から石畳へ落下した。
「はぁ……はぁ……残るは、あなただけですよ。無駄な抵抗はせずに、おとなしくしていただければ、危害は加えません」
さすがのシオンも全力疾走後の三人同時の相手にかなり息が上がっているが、それでも残りの一人を倒すことくらいは雑作も無いことだった。極力生徒に危害を加えたくないシオンは説得を試みるものの、やはりその声は届くことは無かった。
「ああああぁ……会長ぉ……俺……こんなに……会長が好きなのに……なんで分かってくれないんだぁ………俺のものにしてぇ……してぇよぉ……」
「くっ……だ、ダメですか……仕方ないけどここは……」
シオンが意を決して構えるが、同時にシオンの真後ろ、噴水の影から柔らかい声が響いた。
「あらあら……まったく……情けないったらないわねぇ……」
シオンがビクリとして振り返ると、車に隠れてるはずの篠崎冷子がゆっくりとした動作で噴水を半周周り、シオンに数メートルの距離まで近づいてきた。
「え……? な、何で先生がここに……?」
「まったく……鍛えてるからあなた一人くらいどうにでもなると思ったんだけど、てんで使えないのね。それともあなたが強すぎるのかしら?」
「うそ……本当に篠崎先生? こ、この人たちに何をしたんですか……?」
「簡単よ。脳の大脳新皮質の働きを鈍くする薬を作って注射しただけ。この子達があまりにもあなたのことが好きみたいだったから、邪魔な理性を無くして素直にしてあげただけよ」
目の前に居る冷子の信じられない言葉に、シオンは酷く混乱した。薬? 注射? 理性を無くす? 何を言ってるのか分からない。なぜ篠崎先生がこんな真似を? 中央広場で言われた「悪ふざけ」にしては度が過ぎている。
「あまりにも使えないからこんな玩具まで使って手助けしてあげたのに、結局逃げられるしね」
冷子はそういうとポケットからレーザーポインターを取り出し、噴水の中へ投げ入れた。プレゼンテーションの時に指し棒の変わりに使うものだが、その光線は強力で人体の網膜に重大なダメージを負わせることも可能で、一時期社会問題になったほどだ。
「……篠崎先生……嘘……誰なんですか? 本当の篠崎先生はどこに行ったんですか!?」
信じたくないという気持ちがシオンの唇を震わせる。しかし、冷子の口から出た言葉はシオンに残酷な現実を突きつけつものだった。
「嫌だわ、ちゃあんとここにいるじゃない。私が篠崎冷子よ。冷たい子供で冷子。人妖は冷たさを感じる名前を付けることが決まりなの」
シオンの顔が絶望に染まる。
疑惑が確信へ。一般市民が人妖の存在を知るわけが無い。冷子が人妖であることはこれで確定した。
しかし、オペレーターは確かに男性型の人妖と言っていなかったか? それに中央公園でシオンと冷子が会話しているときも、オペレーターからは何の連絡も無かった。
「うふふ……こんなにのんびり会話をしていていいのかしら? そこの男の子があなたに告白したいらしいわよ?」
「えっ? なっ!?」
シオンが振り向く一瞬前に、帽子はシオンを羽交い締めにしていた。一瞬だけ顔が見えたが、焦点の合っていない目と、はぁはぁと荒い息を吐き続ける口からは絶えず涎が垂れていた。
「あああああ……会長ぉぉぉぉぉ……好きだぁぁぁ……」
「いやっ……! ちょ……離して下さ……んはぁっ!!」
帽子がシオンの豊満な胸をデタラメに揉みし抱く。必死に身体をよじって抵抗するが、不利な体勢で力任せに抱きつかれていることと、基礎的な筋力の差でなかなか振りほどくことができない。
その間も帽子はシオンをがっしりと抱きすくめながらも、乱暴に胸をこね回すのをやめず、さらには髪の毛の香りを嗅いだり首筋を舐め回したりと欲望の限りを尽くした。
「やらぁっ…! ほ、ほんとうにやめ…;あうぅっ……離して…」
「あらあら、若いっていいわねぇ;…ずいぶん積極的でストレートな愛情表現だこと。でもあなた、全然美しくないわ。愛の表現はもっと美しくしなきゃダメよ」
一瞬、ナイフが空気を切り裂く様な音が聞こえ、シオンの右頬を何かがかすめたかと思うと、無我夢中でシオンの首筋を舐め回していた帽子の身体が猛スピードで後方に吹っ飛んでいた。
「え……? あっ……何、今の……?」
「うふふ、見えなかったかしら? あまりにも見るに耐えないものだから消えてもらったの」
シオンが後方を振り返ると、帽子は鼻から血を流しながらビクビクと小刻みに痙攣していた。
目にも留まらない何かが冷子から放たれ、一瞬で帽子の顔面にヒットしたのだろう。しかし次の瞬間、再び風を切る音とともにシオンの腹部を中心に激痛が走った。
ヒュッ……ズギュウッ!!
「あっ……ぐぅっ!? げぶうぅぅぅ!!」
「こんな風にね……少し強すぎたかしら?」
冷子の両手は腰に当てられたまま微動だにしていない。しかもシオンとの距離は二メートルほどあるので手の届くはずが無いのだが、シオンの下腹部のあたりにははっきりと拳の形が残り、その奥にあるシオンの小さい胃は無惨に潰されていた。
「ぐむっ!! ううぅ……」
必死に両手で口を押さえ身体の中から逆流してくるものを堪えるが、再び独特の空気音を聞いたときには既に攻撃が終わっていた。
ヒュヒュッ……ズギュッ! グチュウッ!!
「!!? ぐふっ!? ぐぇあぁぁぁ!!!」
鳩尾と臍、人体急所である正中線への同時攻撃。あまりの攻撃にシオンはたまらず堪えていた逆流を吐き出し、透明な胃液が勢い良く飛び出した。
「がふっ!? あ……あうぅ……」
「あらあら……あなたみたいな可愛いコでも嘔吐したりするのねぇ……。でも素敵よ。その苦しんでる顔は何物にも代え難く美しいわ……」
冷子は両方の手のひらを自分の頬に当てながら、シオンをうっとりした表情で見つめる。表情こそ穏やかなものの、その目は既に瞳孔が縦に裂け、冷酷な赤い光を放つ人妖のものに変わっていた。
「げふっ……あ……あぁ……」
腹部に定期的に波打つ鈍痛。身体の奥からこみ上げてくる不快感。
シオンは両手で腹をかばうように押さえながら、地面に両膝を着いて冷子を見上げる。月の光を後方から浴びて青白いシルエットの中に、赤く光る目だけが異様な存在感を放っていた。
(何なのあれ? 私、何で攻撃されたの?)
「あらあら、まあまあ……上目遣いで口から涎垂らしちゃって、すごくエッチな顔になってるわよ? そんなに痛かったかしら? これでも加減したつもりだったんだけれど……。まぁいいわ。楽しみましょう?」
再び空気を切り裂く音が聞こえてくる。シオンは咄嗟に右方向へ転がるように離脱する。
「あははは! ほらほら、逃げてるだけじゃどうにもならないわよ?」
冷子の攻撃方法が分からない以上、不用意に近づくのは危険だ。連続して襲い来る攻撃を右へ左へと何とかかわすが、このままでは無駄に体力を奪われるだけである。
シオンが噴水を背にした所を攻撃され、必死によけると噴水の水が勢いよくはじけた。
「あら、惜しかったわねぇ。もう一回あなたが嘔吐く所が見たかったのに……」
「くっ……このままじゃいずれ……。あ、あれは……?」
シオンは意を決し、空気を切り裂く何かをサイドステップで紙一重でかわすと、重りの付いた鞭のような物体が一瞬目の前で静止した。
シオンは機敏な動きでそれを掴む。
「えっ……う……な……何これ!?」
「あら……流石。凄い反射神経ねぇ……」
それは、冷子の腕だった。
形状こそ腕だったが、それはまるで軟体動物のように二メートルほどぐにゃりと伸びており、先端にはしっかりと拳が握られていた。
嫌悪感から反射的にシオンが手を離すと、冷子の「腕」はまるで伸びたゴムが縮むように一瞬で元の形状に戻った。
「もうバレちゃったわね。さすがは上級戦闘員ってとこかしら?戦力が未知数の相手に不用意に近づかずに攻撃できるように、ちょっと骨やら筋肉やらを弄ってみたんだけど、攻撃力がガタ落ちなのよね。やっぱり直接攻撃するに限るわ」
どこをどう弄ればこういう風になるのかわからないが、人妖の強靭な身体と冷子の医師としての才能がこのような腕を作ったのだろうか。
冷子は拳を握ったり開いたりしながら、サディスティックな視線をシオンに向けてくる。
「攻撃で噴水の水がはじけた後、篠崎先生の腕が濡れていたのでまさかと思いましたが……こんなことって……」
シオンは改めて目の前に存在するものが化物であることを認識する。
今まで幾分なりとも世話になった先生が人妖であることを心のどこかで否定していたが、その人外そのものの腕を見た瞬間に心は決まっていた。
「篠崎先生……いえ、篠崎冷子! 対人妖組織アンチレジストの戦闘員として、あなたを退治します!」
「うふふふ……勇ましいわねぇ……。美しい……とても気高くて美しいわぁ……。でもね如月さん。こちらとしても簡単に退治されるわけにはいかないのよ………あなた達! いつまで寝ているの!?」
その声にびくりと反応し、先ほど倒したはずの野球部員達がヨロヨロと起きだした。帽子にいたってはまだ気を失っていたが、ゾンビのようにフラフラとシオンに近づいてくる。
「なっ? こ……これは一体……?」
「凄いでしょう? 意思の力は肉体を凌駕するのよ。この子達に施したチャームの力は絶対。何があっても私の命令通りに動くわ……」
「チ、チャーム? チャームって、男性型の人妖しか……」
「女性型でもチャームは使えるのよ。それも男性型より強力な……ね。粘膜を触れ合わせて相手に直接送り込むからかしら?まぁ、この子達みたいに童貞君の相手は結構かったるいし、面倒くさいけど……」
「なっ……そ、そんなことを……」
シオンは耳まで赤くなりながら冷子の話を聞く。
綾の話ではチャームはせいぜい「相手を魅了する」程度のものだ。安定的にエネルギーを補給するためだろう。しかし、冷子の行っているそれは洗脳や傀儡に近い。
「あらあら、真っ赤になっちゃって。如月さんてそんなに挑発的な身体してる割にはウブなのねぇ? こんなこと、したことなぁい?」
冷子は跪いている野球部員達を満足げに三人を見下ろすと、それぞれディープキスをしたり、股間をまさぐったりした。
「うふふふ。素直でいい子よ……。あらあら……こんなにしちゃって。まぁ目の前に憧れの如月さんがあんな格好でいるのだから無理も無いわねぇ。さぁみんな……お注射の時間よ」
冷子は足で部員達の勃起した股間を小突きながら、胸ポケットから白いケースを取り出し、中の注射器を三人の部員達の首筋に突き刺した。
「な、何してるんですか!? もうこれ以上その人たちに危害は……」
「お願い……間に合って……」
シオンが駐車場に到着する。
肩で息をしながら辺りを見回すと、奥の方にもつれ合うような人影が数人見えた。駆け寄ると、冷子の赤いアルファ・ロメオの前で、三人の男子生徒に詰め寄られている冷子の姿があった。
「ちょっと……何なのあなた達は? やめ……やめなさい!」
「篠崎先生! 大丈夫ですか!?」
「き、如月さん!? あなた、なんでここに?」
「説明は後です! それより……」
シオンが冷子を背に庇いながら振り返る。
三人の男子生徒はアナスタシアの野球部のユニフォームを着ており、二人は坊主頭で一人は帽子をかぶっていた。
シオンも名前こそ知らないものの、壮行会や生徒会の視察で何度か見たことのある顔だった。しかし、その顔は酷くうつろな顔をしており、三人ともぶつぶつとうわ言のようなことを呟いていた。
「皆さん、もう門限は過ぎています。早く帰宅してください」
シオンが静かに男子学生達に呼びかけるものの、その声は全く耳に入っていない様子だった。
「あぁ………会長だぁ………」
「やべぇ…………マジで………可愛い………」
「………すげぇ……なんだ……あの格好………」
それぞれひげ面だったり眼鏡をかけていたり帽子をかぶっていたりと特徴はあったが、三人とも同じような虚ろな表情でじりじりとシオン達に近づいて来た。
異様な雰囲気を察し、シオンが冷子に声をかける。
「こ、これは一体……男性型の人妖って、まさかこの三人のこと…? 篠崎先生はすぐにこの場を離れてください。この場は私がなんとかしますので。あと、このことは内密にしてください」
「な、何を言っているの!? 如月さんを置いて行くなんて、そんなことできるわけ無いでしょう! 私も説得してみる!」
二人がやり取りをしている間に、帽子をかぶった生徒がいきなり奇声を上げて二人に突進して来た。シオンが冷子を突き飛ばし、男子学生が振り下ろした右腕の手首を両手で掴んで受け止める。
「がぁぁ……がぁぁぁ……」
「くっ……凄い力………」
「き、如月さん!?」
思わぬ事態に冷子が声をかけるが、その声に反応し、残りの眼鏡とひげ面が冷子の方向に向きを変えた。元々厳しいトレーニングを積んで鍛えている野球部員相手では、おそらく冷子が逃げたところで追いつかれてしまうだろう。
「先生……早く……車の中に入ってください! 私は……大丈夫ですから……」
ギリギリとシオンの腕が力で圧されはじめる。白い手袋が悲鳴を上げ、ぎちぎちと嫌な音が鳴り始める。
「先生……早く!」
その声に冷子は自分の車へ駆け出し、中に入ってドアをロックした。それを見届けるとシオンは腕の力を抜くと同時に足払いをかけて帽子を転倒させた。
「がぎゃぁぁぁ!!」
帽子にとっては一瞬の出来事で、急に目の前からシオンの姿が消え、勢い余って前方につんのめった所に足払いをかけられて顔面をしたたかに石畳へ打ち付けた。その悲鳴を聞いて、残りの二人もシオンに方向に向きを変えた。
「よし、このままこっちに来て。可哀想だけど、しばらく眠ってもらいます」
シオンが三人に対し身構える。
一対三と圧倒的に不利な状況だが戦闘に関する専門的な訓練を受けているシオンと、鍛えてはいるが戦闘には素人の野球部員ではまだ自分に分があると思った。
「しぃぃぃぃぃっ!!」
「おぉぉぉぉぉぉ!!」
眼鏡とひげ面が同時に駆け寄る。シオンに対し突きや蹴りを繰り出してくるが、やはり素人の動き。鮮やかにシオンに捌かれてしまう。
「ふっ……やあっ!」
眼鏡がシオンの顔面に向けて拳を繰り出すが、シオンはそれを左手で受け流すと右手で顎を押しながら、右足で眼鏡の右足を後ろに払う。柔道の大外刈りのような技をかけられ、眼鏡は悲鳴を上げながら後頭部を地面に打ち付けた。
「おおおおお!!」
ひげ面もシオンの腹をめがけ膝蹴りを繰り出すが、バックステップでそれをかわすと逆にひげ面の腹に膝蹴りを見舞った。
「はぁっ!」
「ぐげぇぇぇぇぇ!」
一撃を見舞うとすぐに離れる。
相手が人妖の可能性もあるが、生徒である以上深手は負わせたくない。なんとか昏倒させてアンチレジストに三人を保護してもらうのが一番だろうとシオンは考えた。
「あなた達、何があったかは知りませんけど、もうすぐ私の仲間が来てくれるはずですからおとなしくしてください。あなた達を傷つけたくはありません」
ひげ面はわずかに苦しそうな表情を浮かべているが倒れることは無く、先に倒した二人もよろよろと立ち上がる。三人はシオンの呼びかけには反応を見せず、再び何事かを呟きながらシオンに近づき始めた。
「お願い、あなた達とは戦いたくないの! おとなしく……」
「会長ぉ……やべぇ……こんなに近くで見れるなんて……」
「やっぱ……すげぇ身体してんなぁ………ヤリてぇ……」
「ああぁ……犯してぇ……滅茶苦茶に……犯してぇ……」
シオンが視線を下に向けると、三人の股間部分は既に大きく隆起しており、シオンは小さく悲鳴を上げた。獣のように欲望をむき出しにして近づく三人に、本能的に身の危険を感じる。
「せ……説得が通じない……? 申し訳ないけど、本気で気絶させるしか……」
三人が同時に駆け寄り、帽子とひげ面が真っ先に襲ってくる。シオンはすぐに体勢を整える。相変わらず素人の動きだ。攻撃の先を読んで受け流そうとするが、二人が攻撃する一瞬早く、シオンの視界が真っ赤に染まった。
「!!? なっ……ああっ!? な……何……これ!?」
一瞬のことで何が起こったか分からずシオンは慌てて両手で目を押さえるが、すぐに激しい痛みがシオンを襲い、目を開けていられなくなった。
赤色の残像がまだまぶたの裏で明滅する。獣のような声と衝撃がシオンに届いたのはその直後だった。
「がぁぁぁぁ!!」
「おおおおおおお!!」
ズギュッ!!
ドムゥッ!!!
「ごぶっ……ぐぅっ!?」
両手で目を押さえ、がら空きになっているシオンの腹部に左右から帽子とひげ面の膝がめり込んだ。力任せの蹴りだったが、それは正確にシオンの下腹部と鳩尾を襲い、凄まじい苦痛がシオンを襲った。
「あ……ぐううっ……」
視界はなんとか見えるようになり始めたが、まだどちらが前後かも分からない。よろけながら向きを変え、この場を離れようとするが、シオンが向きを変えた先は眼鏡の正面だった。
「しぃぃぃぃ!!」
ズムゥッ!!
「ぐふぅぅっ!? あ……あぐ……」
眼鏡の放った渾身のボディブローがシオンのむき出しの腹にクリーンヒットし、シオンの美しい金髪が揺れる。一瞬目の前が暗くなるが、直後に背中に蹴りを受け前のめりに地面に倒れる。
「あ……きゃあぁぁぁ!」
アスファルトの上に倒れ込み、肘まである白手袋の数カ所が破れる。やっと視界が戻り、倒れたままの姿勢で振り返ると三人はすぐ後ろまで近づいて来ていた。
「はぁ……はぁ…………犯してぇ……」
「ああぁ……や……やっちまうかぁ……」
「鎮めてくれよぉ……会長ぉ……」
「くっ……!」
このままではまずい。
シオンはようやく痛みと明滅の治まった目で辺りを見回し、鈍痛が残る腹を押さえながらひとまず駐車場を離れようとする。
足下がアスファルトから石畳へ変わり、研究棟の方向へ移動する。幸い野球部員三人はターゲットをシオンに定めたらしく、冷子には目もくれずに無表情でシオンを追いかけてきた。
「よかった、三人とも私を追って来てる。このままこっちへ来て」
鍛えられた野球部員三人は俊足を生かし、シオンとの差をぐんぐん縮める。研究棟前の広場の前には中央広場に比べると小振りではあるが同じようなデザインの噴水があり、シオンは噴水を背にして三人と対峙する。
「はは……日本の諺で言う背水の陣ってやつですね……。でも、先ほどは不意をつかれましたけど、今度は本当におとなしくしてもらいます!」
シオンの声は相変わらず三人には届いていないようだった。しきりにぶつぶつとうわ言を呟きながら、シオンに攻撃をしようとじりじりと近づいてくる。
「この三人、明らかに様子がおかしいですね……。人妖だったら何らかのコンタクトをとってくるはずですが、私の声も聞こえてないみたいですし……。もしかして、誰かに操られてる?」
シオンが考えを巡らせていると、三人はそれぞれ雄叫びをあげながらシオンに襲いかかってきた。しかし、三人同時の攻撃とはいえ、単調でストレートな攻撃はシオンに軽々と捌かれてしまう。
「さっきのようには……いきません!」
「ぐがぁぁぁぁ!」
シオンのすらりと伸びた足から放たれた回し蹴りはそのまま眼鏡の脇腹にヒットし、よろめいた所へ膝蹴りを追撃する。眼鏡はうめき声を上げて倒れ、同時に後ろから羽交い締めにしようと近づいたひげ面の腹へ後ろ蹴りを放った。
「ぐぼぉおおおっ!!」
シオンの履いている靴のヒールが根元までひげ面の鳩尾に吸い込まれ、前方に倒れ込む勢いを殺さずに空気投げを放つ。ひげ面はゆっくりしたモーションで前方に一回転し、背中から石畳へ落下した。
「はぁ……はぁ……残るは、あなただけですよ。無駄な抵抗はせずに、おとなしくしていただければ、危害は加えません」
さすがのシオンも全力疾走後の三人同時の相手にかなり息が上がっているが、それでも残りの一人を倒すことくらいは雑作も無いことだった。極力生徒に危害を加えたくないシオンは説得を試みるものの、やはりその声は届くことは無かった。
「ああああぁ……会長ぉ……俺……こんなに……会長が好きなのに……なんで分かってくれないんだぁ………俺のものにしてぇ……してぇよぉ……」
「くっ……だ、ダメですか……仕方ないけどここは……」
シオンが意を決して構えるが、同時にシオンの真後ろ、噴水の影から柔らかい声が響いた。
「あらあら……まったく……情けないったらないわねぇ……」
シオンがビクリとして振り返ると、車に隠れてるはずの篠崎冷子がゆっくりとした動作で噴水を半周周り、シオンに数メートルの距離まで近づいてきた。
「え……? な、何で先生がここに……?」
「まったく……鍛えてるからあなた一人くらいどうにでもなると思ったんだけど、てんで使えないのね。それともあなたが強すぎるのかしら?」
「うそ……本当に篠崎先生? こ、この人たちに何をしたんですか……?」
「簡単よ。脳の大脳新皮質の働きを鈍くする薬を作って注射しただけ。この子達があまりにもあなたのことが好きみたいだったから、邪魔な理性を無くして素直にしてあげただけよ」
目の前に居る冷子の信じられない言葉に、シオンは酷く混乱した。薬? 注射? 理性を無くす? 何を言ってるのか分からない。なぜ篠崎先生がこんな真似を? 中央広場で言われた「悪ふざけ」にしては度が過ぎている。
「あまりにも使えないからこんな玩具まで使って手助けしてあげたのに、結局逃げられるしね」
冷子はそういうとポケットからレーザーポインターを取り出し、噴水の中へ投げ入れた。プレゼンテーションの時に指し棒の変わりに使うものだが、その光線は強力で人体の網膜に重大なダメージを負わせることも可能で、一時期社会問題になったほどだ。
「……篠崎先生……嘘……誰なんですか? 本当の篠崎先生はどこに行ったんですか!?」
信じたくないという気持ちがシオンの唇を震わせる。しかし、冷子の口から出た言葉はシオンに残酷な現実を突きつけつものだった。
「嫌だわ、ちゃあんとここにいるじゃない。私が篠崎冷子よ。冷たい子供で冷子。人妖は冷たさを感じる名前を付けることが決まりなの」
シオンの顔が絶望に染まる。
疑惑が確信へ。一般市民が人妖の存在を知るわけが無い。冷子が人妖であることはこれで確定した。
しかし、オペレーターは確かに男性型の人妖と言っていなかったか? それに中央公園でシオンと冷子が会話しているときも、オペレーターからは何の連絡も無かった。
「うふふ……こんなにのんびり会話をしていていいのかしら? そこの男の子があなたに告白したいらしいわよ?」
「えっ? なっ!?」
シオンが振り向く一瞬前に、帽子はシオンを羽交い締めにしていた。一瞬だけ顔が見えたが、焦点の合っていない目と、はぁはぁと荒い息を吐き続ける口からは絶えず涎が垂れていた。
「あああああ……会長ぉぉぉぉぉ……好きだぁぁぁ……」
「いやっ……! ちょ……離して下さ……んはぁっ!!」
帽子がシオンの豊満な胸をデタラメに揉みし抱く。必死に身体をよじって抵抗するが、不利な体勢で力任せに抱きつかれていることと、基礎的な筋力の差でなかなか振りほどくことができない。
その間も帽子はシオンをがっしりと抱きすくめながらも、乱暴に胸をこね回すのをやめず、さらには髪の毛の香りを嗅いだり首筋を舐め回したりと欲望の限りを尽くした。
「やらぁっ…! ほ、ほんとうにやめ…;あうぅっ……離して…」
「あらあら、若いっていいわねぇ;…ずいぶん積極的でストレートな愛情表現だこと。でもあなた、全然美しくないわ。愛の表現はもっと美しくしなきゃダメよ」
一瞬、ナイフが空気を切り裂く様な音が聞こえ、シオンの右頬を何かがかすめたかと思うと、無我夢中でシオンの首筋を舐め回していた帽子の身体が猛スピードで後方に吹っ飛んでいた。
「え……? あっ……何、今の……?」
「うふふ、見えなかったかしら? あまりにも見るに耐えないものだから消えてもらったの」
シオンが後方を振り返ると、帽子は鼻から血を流しながらビクビクと小刻みに痙攣していた。
目にも留まらない何かが冷子から放たれ、一瞬で帽子の顔面にヒットしたのだろう。しかし次の瞬間、再び風を切る音とともにシオンの腹部を中心に激痛が走った。
ヒュッ……ズギュウッ!!
「あっ……ぐぅっ!? げぶうぅぅぅ!!」
「こんな風にね……少し強すぎたかしら?」
冷子の両手は腰に当てられたまま微動だにしていない。しかもシオンとの距離は二メートルほどあるので手の届くはずが無いのだが、シオンの下腹部のあたりにははっきりと拳の形が残り、その奥にあるシオンの小さい胃は無惨に潰されていた。
「ぐむっ!! ううぅ……」
必死に両手で口を押さえ身体の中から逆流してくるものを堪えるが、再び独特の空気音を聞いたときには既に攻撃が終わっていた。
ヒュヒュッ……ズギュッ! グチュウッ!!
「!!? ぐふっ!? ぐぇあぁぁぁ!!!」
鳩尾と臍、人体急所である正中線への同時攻撃。あまりの攻撃にシオンはたまらず堪えていた逆流を吐き出し、透明な胃液が勢い良く飛び出した。
「がふっ!? あ……あうぅ……」
「あらあら……あなたみたいな可愛いコでも嘔吐したりするのねぇ……。でも素敵よ。その苦しんでる顔は何物にも代え難く美しいわ……」
冷子は両方の手のひらを自分の頬に当てながら、シオンをうっとりした表情で見つめる。表情こそ穏やかなものの、その目は既に瞳孔が縦に裂け、冷酷な赤い光を放つ人妖のものに変わっていた。
「げふっ……あ……あぁ……」
腹部に定期的に波打つ鈍痛。身体の奥からこみ上げてくる不快感。
シオンは両手で腹をかばうように押さえながら、地面に両膝を着いて冷子を見上げる。月の光を後方から浴びて青白いシルエットの中に、赤く光る目だけが異様な存在感を放っていた。
(何なのあれ? 私、何で攻撃されたの?)
「あらあら、まあまあ……上目遣いで口から涎垂らしちゃって、すごくエッチな顔になってるわよ? そんなに痛かったかしら? これでも加減したつもりだったんだけれど……。まぁいいわ。楽しみましょう?」
再び空気を切り裂く音が聞こえてくる。シオンは咄嗟に右方向へ転がるように離脱する。
「あははは! ほらほら、逃げてるだけじゃどうにもならないわよ?」
冷子の攻撃方法が分からない以上、不用意に近づくのは危険だ。連続して襲い来る攻撃を右へ左へと何とかかわすが、このままでは無駄に体力を奪われるだけである。
シオンが噴水を背にした所を攻撃され、必死によけると噴水の水が勢いよくはじけた。
「あら、惜しかったわねぇ。もう一回あなたが嘔吐く所が見たかったのに……」
「くっ……このままじゃいずれ……。あ、あれは……?」
シオンは意を決し、空気を切り裂く何かをサイドステップで紙一重でかわすと、重りの付いた鞭のような物体が一瞬目の前で静止した。
シオンは機敏な動きでそれを掴む。
「えっ……う……な……何これ!?」
「あら……流石。凄い反射神経ねぇ……」
それは、冷子の腕だった。
形状こそ腕だったが、それはまるで軟体動物のように二メートルほどぐにゃりと伸びており、先端にはしっかりと拳が握られていた。
嫌悪感から反射的にシオンが手を離すと、冷子の「腕」はまるで伸びたゴムが縮むように一瞬で元の形状に戻った。
「もうバレちゃったわね。さすがは上級戦闘員ってとこかしら?戦力が未知数の相手に不用意に近づかずに攻撃できるように、ちょっと骨やら筋肉やらを弄ってみたんだけど、攻撃力がガタ落ちなのよね。やっぱり直接攻撃するに限るわ」
どこをどう弄ればこういう風になるのかわからないが、人妖の強靭な身体と冷子の医師としての才能がこのような腕を作ったのだろうか。
冷子は拳を握ったり開いたりしながら、サディスティックな視線をシオンに向けてくる。
「攻撃で噴水の水がはじけた後、篠崎先生の腕が濡れていたのでまさかと思いましたが……こんなことって……」
シオンは改めて目の前に存在するものが化物であることを認識する。
今まで幾分なりとも世話になった先生が人妖であることを心のどこかで否定していたが、その人外そのものの腕を見た瞬間に心は決まっていた。
「篠崎先生……いえ、篠崎冷子! 対人妖組織アンチレジストの戦闘員として、あなたを退治します!」
「うふふふ……勇ましいわねぇ……。美しい……とても気高くて美しいわぁ……。でもね如月さん。こちらとしても簡単に退治されるわけにはいかないのよ………あなた達! いつまで寝ているの!?」
その声にびくりと反応し、先ほど倒したはずの野球部員達がヨロヨロと起きだした。帽子にいたってはまだ気を失っていたが、ゾンビのようにフラフラとシオンに近づいてくる。
「なっ? こ……これは一体……?」
「凄いでしょう? 意思の力は肉体を凌駕するのよ。この子達に施したチャームの力は絶対。何があっても私の命令通りに動くわ……」
「チ、チャーム? チャームって、男性型の人妖しか……」
「女性型でもチャームは使えるのよ。それも男性型より強力な……ね。粘膜を触れ合わせて相手に直接送り込むからかしら?まぁ、この子達みたいに童貞君の相手は結構かったるいし、面倒くさいけど……」
「なっ……そ、そんなことを……」
シオンは耳まで赤くなりながら冷子の話を聞く。
綾の話ではチャームはせいぜい「相手を魅了する」程度のものだ。安定的にエネルギーを補給するためだろう。しかし、冷子の行っているそれは洗脳や傀儡に近い。
「あらあら、真っ赤になっちゃって。如月さんてそんなに挑発的な身体してる割にはウブなのねぇ? こんなこと、したことなぁい?」
冷子は跪いている野球部員達を満足げに三人を見下ろすと、それぞれディープキスをしたり、股間をまさぐったりした。
「うふふふ。素直でいい子よ……。あらあら……こんなにしちゃって。まぁ目の前に憧れの如月さんがあんな格好でいるのだから無理も無いわねぇ。さぁみんな……お注射の時間よ」
冷子は足で部員達の勃起した股間を小突きながら、胸ポケットから白いケースを取り出し、中の注射器を三人の部員達の首筋に突き刺した。
「な、何してるんですか!? もうこれ以上その人たちに危害は……」