目の前の痴態に思わず固まってしまったシオンだったが、はっと我に帰り冷子に向かって叫ぶ。注射を打たれた三人は再びシオンに向かって歩き出していた。
「うふふ……大丈夫よ。肉体的には何も問題ないもの。さぁ、如月さんを取り押さえなさい。手は出しちゃダメよ」
「なっ……こ、来ないで! 来ないで下さい!」
「だめよぉ……この子達はあなたを捕まえるまでは止まらないわ。どうしても止めたかったら殺すか、さっきみたいに気絶させるしかないわよ?」
 冷子は喜劇舞台でも見ているような様子で首を傾げ胸の下で腕を組みながら呟く。その間にもシオンと三人の距離は徐々に詰まっていく。
「くっ……し、仕方がありません……。なるべく傷つけずに……」
 眼鏡が抱きつくようにシオンに両手を広げて迫る。相変わらず隙だらけだ。シオンは相手が迫る勢いを利用し、右手を眼鏡の腹部に突き出す。
ドギュウッ!
「が……が………」
「ごめんなさい……どうか眠って……」
「が……が……へへ………へへへへへ………」
「!? な、なに……?」
「会長ぉ……会長がこんな近くにぃ……」
 シオンの攻撃は確かにクリーンヒットした。しかし、相手は怯むどころかまるで攻撃など無かったかのように抱きつこうとするのを止めない。
 残りの二人もシオンのすぐ側まで迫っていた。
「な…なんですかこれは……どうして……?」
「ちょうどあなたの裏に建っている研究棟。そこには最新鋭の設備があることはあなたも知っているでしょう? 私はそこで様々な薬を開発したの。チャームの効果を爆発的に上昇させたり、ここにいる子達みたいに大脳新皮質の働きを弱めたり。痛覚神経と脳を遮断したり……ね。身体能力も少しだけ強化してあるわ」
「そ……そんな……そんなこと……。あっ、や……やめ……くっ……」
 冷子が話をしている間も、三人の野球部員はシオンを押さえ込もうとその身体にまとわりついてくる。シオンも必死に抵抗するが、顎を跳ね上げようが脇腹に膝を入れようが相手は全く怯まず、ついには両足をひげ面と眼鏡に、両腕を後ろから帽子に羽交い締めにされ、全く身動きが取れない状態になる。
 三人はそれぞれ荒い息を吐きながら、眼鏡とひげ面は抱きすくめたシオンの太ももに頬擦りしたり、帽子はシオンの胸をこね回したりと思い思いの行動をとる。
「やめ……んあぁっ! や……やめて下さい! あうっ……! う……動けな……い」
「あらあら、愛されているわねぇ……顔が真っ赤よ。うふふふ……そういう顔はとても好き……。でもね、私は美しい女性が苦しんでる顔の方が、もっと好きなの……」
 気がつくと、冷子はシオンの目の前まで来ていた。男子部員は冷子の命令通り手は出してこないが、がっしりと体を押さえ込まれ振りほどくことができない。
「うふふふ……今度は直接だからもっと苦しいわよ? 頑張って耐えて、私を楽しませてねぇ……?」
「な……何を……うぐうっ!!」
 シオンの腹部には、手首まで冷子の拳が埋まっていた。
 先ほどの腕を鞭のようにした攻撃でも十分な威力であったが、今回のは桁が違いすぎる。シオンのなめらかな腹部は無惨につぶれ、内蔵が悲鳴を上げていた。
「げぶっ……!? あ……あぁ……うぐっ……」
「あらあら……まだ一発しか殴ってないのに瞳孔が収縮しちゃって……あはぁ……とっても素敵。美しい顔が苦痛に歪むのはね……。でも、まだまだいくわよ?」
ズギュウッ!! ドギュッ!!
「ごぶっ!? ぐふあぁぁ !! あ……す……すごい…力……」
「うふふ……私も身体強化の薬を使っているの。なかなかの威力でしょう? それにしても如月さん、綺麗な足してるわねぇ……汚い虫が二匹付いてるのが気になるけど……私の足も見てくれる?
グギィィィッ!!
「うぐうっ!!? は……はうぅ……」
 冷子の膝が、シオンの華奢な鳩尾へ吸い込まれるように突き刺さった。肺の中の空気が強制的に排出され、一瞬窒息状態に陥る。
「が……かはっ……! あ……はぁっ……!!」
「どうかしら? 私のもなかなかでしょう? ほらぁ……もっとよく見て……」
グギュッ! グギュウッ!! ドギュウッ!!
「ごふうっ!? あぐうっ!! うぶあぁぁっ!! え……えぅ……」
「うふふ……いい……いいわぁ……凄く感じちゃう……」
 冷子はうっとりとした表情でシオンを責め立てる。 
 シオンは何とか反撃の隙を探るものの、度重なる重い攻撃に一瞬で意識が飛ばれされ、小さな失神と覚醒を繰り返す。
「あらあら、顔色が悪いわよ? 悪いものが溜まっているときは、一度全部出すとスッキリするわよ」
スブウッ!!
「ごぶうっ!! ああぁ……そ……そこはぁ……」
「あらぁ……如月さん、ずいぶん胃が小さいのねぇ……? それじゃあ………治療してあげるわぁ!」
グギュウゥッ!!
「うぶぅっ!? う……うう……うぐぇぇぇぇぇぁぁ!!!」
 冷子が力任せにシオンの胃を握りつぶすと、シオンの口から強制的に逆流させられた胃液が勢いよく飛び出し、地面にびしゃりと落ちた。あまりのサディスティックな猛攻にシオンはビクビクと痙攣し、慎ましげな口からは舌が垂れ下がり、瞳は半分が上まぶたに隠れ白目を向いている。
「あははははは! 最高よぉ、あなた! 凄くいい顔してるわぁ! 私ももう感じすぎて……。死なないように頑張るのよ!」
 冷子が、もう何度目分からないが拳を脇に引き絞り、シオンの華奢な腹部に狙いを定める。シオンは薄れ行く意識の中で、諦めに近い感情を抱いていた。
「ほらほらぁ……いくわよぉ……スゴいのがいくわよぉ……」
 冷子はギリギリと拳を引き絞り、シオンの引き締まった腹部に狙いを定める。冷子のサディスティックな満面の笑みとは正反対に、シオンの顔は青ざめていた。
「あ…ああ……や……やめ………」
 胃を握りつぶされ、鳩尾を膝で突き上げられ、未だに痙攣の収まらない腹部に更なる打撃を加えられれば、一体自分はどうなってしまうのか。
 不妊、内臓破裂、最悪……死亡。まだまだ若いシオンにとっては残酷すぎる現実が、目の前の冷子の拳から自分の身体に突き入れられようとしていると思うと、恐怖と絶望でいっぱいになった。
「ほらぁ……どこを狙ってほしいの? 鳩尾? お臍? それとも子宮のあたりかしら? あはぁ……どこを攻撃しても、もしかしたらイっちゃうかもぉ……」
「わ………私は………」
「んぅ? なぁにぃ?」
 度重なる衝撃によって、口内には唾液が通常よりも多くあふれるが、シオンはそれを飲み込むことが出来ず、唇の端を伝って地面や豊満な胸に落ちる。
 ただ喋るだけでも内蔵が悲鳴を上げるが、シオンは力を振り絞って冷子に語った。
「私は……げふっ……こ……この学校が好き……学校の…皆も……先生も。も……けほっ……もちろん……篠崎先生だって……」
「ふぅん……それで?」
「せ……先生と……この人たちを……す……救えなかったことが……心残りです……。絶対に……綾ちゃんや……他のみんなが……来てくれるはずですから……げほっ……先生も……酷いことはやめて……改心して下さい……」
「ふふ……ふふふ……あははははは! それがあなたの最期の言葉!? 私を救いたいって? 人妖の私を!? どこまでお人好しなのかしらぁ!?」
「お……お人好しでもいい……それでも……私は……皆に……幸せになってほしい……から……」
 絞り出すようなシオンの言葉。
 もはや声は途切れ途切れの弱々しいものになっていたが、その目には意思の光が宿っていた。
「ふぅん……。おめでたい人ね。そんな考えではこの先利用されるだけされて、捨てられるだけよ? まぁ、ここで死んじゃえば関係ないけど……。それじゃあ……さようなら」
 唸りを上げて冷子の拳がシオンの下腹に向けて放たれる。
 シオンは無表情で自分の腹部に吸い込まれて行く拳を見つめた。 骨同士がぶつかり、軋む音が石畳の上に響く。
メギィィィィ!!

「が……が……」
「!? お……お前!?」
 シオンの太ももに頬擦りしていた眼鏡が、瞬間的に頭を持ち上げ、冷子の拳をその頭で受け止めていた。ミシミシという音が眼鏡の頭からシオンの耳に届く。
「くっ……はぁっ!」
「あうっ!?」
 脳が考えるよりも先に、瞬間的にシオンの体が反応した。自由になった右足で冷子の顎を蹴り上げ、振り上げた足が戻るのを利用し、背後から羽交い締めにしている帽子の金的を蹴り上げた。自由になった手で手刀を作り、未だに左足に頬擦りをしているひげ面の首に振り下ろし、悶絶している帽子の鳩尾を突き上げた。
 わずか数秒。体に染み付いた全く無駄のない動きで、一瞬のうちに冷子は蹴り飛ばされ、帽子とひげ面は失神して地面に伸びていた。
 シオンは冷子の全力の一撃を受け、石畳の上でビクビクと痙攣している眼鏡に駆け寄った。
「だ、大丈夫ですか!? な……なぜこんなことを…!?」
「あ……ああ……」
 拳が離れた瞬間から、眼鏡の鼻や耳から大量の血が吹き出していた。シオンは無理に抱き起こさずに、小刻みに痙攣している眼鏡のズボンのベルトを緩め、横向きに寝かせてやる。
「そんな……大変……すぐ病院へ……」
「し……幸せだぁ……会長に…触れられて………会長も……幸せに……なってく……れ……」
 眼鏡は糸の切れた人形のように全身の力が抜け、ぴくりとも動かなくなる。シオンは目に涙を浮かべ、何度も首を横に振る。
「あ……ああ……嘘……嘘ですよね……?」
「失神しているだけよ」
 背後から冷子の声が聞こえ、シオンは素早く振り向く。冷子はまるで汚いものに触れたかのようにハンカチで拳を拭いながら近づいてくる。
「まったく、最後の最後まで使えないゴミ虫共だわ。利用価値のない奴らは全員死ねばいいのに……。残念ながら頭蓋骨も折れてないし、あなたの取った行動は応急処置としては完璧ね。その姿勢なら血や吐瀉物が喉に詰まることも無い。医者の私が言うから間違いないわ」
「篠崎先生……!」
 今まで抱いたことの無いほどの黒い感情が、シオンの中を駆け巡る。全身の細胞がこいつは敵だと伝えてくる。絶対に倒さなければならない。気付いた時にはシオンは冷子に向かって突進していた。
「はぁぁぁぁ!」
「らしくないわね……」
ゴギュッ!!
「うぶぅっ!? し……しまっ……」
 冷子の「伸びる腕」が、我を忘れて突進していたシオンの腹に突き刺さる。一瞬で勢いを止められ体がぐらついた所を、冷子がじりじりと距離をつめながら攻撃する。
ヒュヒュン!! ドギュッ! ズムッ! グジュッ!!
「あ……がぶっ! うぐうっ! ごぶっ!! あ…ああ……」
「うふふふ……つかまえたぁ……」
 気がつくと、冷子はシオンの目の前まで迫り、がっしりと髪を掴まれ、無理矢理顔を上げさせられる。
「あうっ…! 痛……」
「んふふ……さっきのお返しよ……」
 伸びる腕の何倍もの破壊力のある直接の攻撃。小振りだが石の様に固い拳がシオンの滑らかな腹部に吸い込まれた。布地の一切無いむき出しの生腹に手首まで拳が埋まり、背骨がメキリと音を立てる。
ズギュウウッ!!
「ぐああぁぁぁ!!!」
 二つに纏められた長い金髪をなびかせながら、シオンは数メートル後ろへ跳ね飛ばされ研究棟の外壁へ背中を痛打し、腹を両手でかばうようにしながら地面に両膝をつく。
「ああぐっ……げぶっ!? うぁぁ……」
 腹部と背中への衝撃から、たまらずこみ上げたものを地面へ吐き出す。その間もまるで苦しむシオンを楽しげに観察するように、ゆっくりと冷子が近づく。
「ま……まずい……離れないと……」
 力の差は歴然であった。
 このままでは劣勢になる一方と悟ったシオンは一度体勢を立て直すために何とかこの場を離れようと、よろよろと立ち上がる。
 冷子の近づく速度は変わらない。
 壁に手をつきながら建物に沿って移動すると、鉄製の、装飾の施された研究棟の入り口があった。
「あははは! 如月さん、今度は鬼ごっこかしら? そんなに遅いとすぐ捕まえられちゃうわよ?」
 まるで傷ついた獲物をじわじわと追いつめる残酷なハンターのように、背後から冷子の声が近づく。追いつかれるのもこのままでは時間の問題である。シオンは祈るような気持ちで研究棟の扉に手をかけると、意外なことに軽く扉が開いた。
「えっ!? な……なんで? 開いてるわけが……?     で、でも……チャンス……なの?」
 この研究棟は下層階はともかく、上層階には民間企業や外部研究所のトップシークレットの研究が数多く行われている。
 仮に夜中に不心得者が侵入しデータなどを奪われでもしたら、アナスタシアの信用はガタ落ちになるため、この研究所のセキュリティは特に厳重との話だった。鍵を閉め忘れるなんてことはあり得ない。
 シオンの頭に様々な考えが浮かんだが、このまま闇雲に逃げ回っているよりはいくらかは事態が好転するはずである。
 シオンは意を決して研究棟の中に入った。
「うふふ……やっぱり入ったわね。如月さん、罠というのはね、奥に行けば行くほど脱出が難しくなるのよ?」
 冷子は満足げにシオンを見送ると、携帯電話でどこかに電話をし始めた。