「止まって下さい綾さん! 一人で乗り込むのは危険です! 貴女にまで何かあったら……!」
 背後からオペレーターの必死な叫び声が聞こえるが、綾は聞こえない振りをして研究棟を目指し、疾風のように駆けて行った。シオンの行動が追えなくなってから三時間が経過していた。任務終了予定時刻よりも大幅に過れている。当初、音声通信が途絶えた後もシオンの動きのみは追えたものの、駐車場から広場まで移動し、研究棟に入ったと同時に解析不能に陥った。おそらく研究棟全体が何らかの傍受対策を施されているのだろう。
 綾の勘と今までの経験が警鐘を鳴らしていた。とても嫌な予感がする。居ても立ってもいられずにアンチレジストのロッカールームで学校の制服から戦闘服に着替え、アジトを飛び出そうとした時に綾専属のオペレーター、衣笠紬(きぬがさ つむぎ)と出くわした。訳を聞いた紬の呼びかけで五人が自主的にシオン救出に名乗りを上げた。
「待っててシオンさん……。すぐに助けに行くから……ッ!?」
 研究棟付近の噴水広場に、野球部のユニフォームを着た生徒が三人倒れていた。眼鏡をかけた学生は耳から血を流している。
「ちょ……ちょっと大丈夫!?」
  慌てて綾が眼鏡をかけた学生の元に駆け寄る。失神こそしているものの、呼吸や心音は正常だった。全員命に別状は無いらしい。ほっとして通信機のスイッチを入れる。
「こちら綾、救じ……」
「なにしてるんですか綾さん! 勝手に行ってしまって……いくら強いからって、もしものことがあったらどうするんです!?」
 綾の言葉を遮り、耳がキーンと鳴るほどの紬の怒声がイヤホンを付けている右耳から左耳へ抜ける。綾は目の前がチカチカして倒れている眼鏡の足につまずき、べしゃりと見事に転んだ。
「わわっ……ちょっ! 痛った!?」 
「えっ? だ……大丈夫ですか!?」
「もう! 急に大声出すからびっくりしたじゃない! 踏み台にしたことは謝るわ。事件が解決したらお説教も聞くから。研究棟前の広場で怪我人三人を発見。救助を要請します」
「怪我人? 容態は大丈夫ですか?」
「失神しているけど、呼吸や心音は大丈夫みたい。本当に、ここで一体何があったのよ……。とにかく私は研究棟に向かうから、救助の方は任せたわよ。研究棟は何があるか分からないから、貴女達は下で待機していて欲しいの。もし二時間して私が戻らなかったら、ファーザーに連絡して……」 
「あ……ちょっと綾さ……」
 綾は一方的に通信を切った後、改めて研究棟を見上げる。厳しい選考基準をパスした者のみが入学を許されるアナスタシア聖書学院。建物から地面の石畳に至るまで中性ヨーロッパ調に統一された広大な敷地において、現代的な造りの研究棟は周囲の景観から明らかに浮いていた。月の光を浴びて不気味に光る様は、まるで悪魔の根城のようにも見える。
 研究棟はドアが開いており、綾はすんなり中に入ることが出来た。注意して一歩一歩進むが、人の気配は無い。廊下を曲がると、まるで中に招き入れる様にエレベーターが待機していた。中の姿見には、赤い塗料のようなものを急いで拭った跡がある。
 ごくりと綾が固唾を飲む音が廊下全体に響いた気がした。綾は意を決してエレベーターに入る。扉がまるで獲物を体内に取り込む食虫植物の様にゆっくりと締まった。
  
「うわ、酷い臭い。涼、アンタ張り切り過ぎ。ねぇ冷子、またシャワー入れてあげた方がいいんじゃない?」
「やぁよ、面倒くさい。それより早くここを離れるわよ」
「あなたが如月シオンさんですか……モニターで見るよりもずっと綺麗ですね……」
「貴女達は……木附由里さんと……由羅さん……? 何故ここに……?」
 彼女達のことはアンチレジストの会議で報告を受けた。数ヶ月前、廃工場での任務に失敗し、肥満体の人妖に散々責め立てられる映像を見たことがある。その双子が、目の前で人妖と親しげに話をしている。シオンは事態が飲み込めなかった。
「シオンさんに良いニュースですよ。神崎綾さんがもうすぐこちらに来てくれます。エレベーターに乗ると自動的にこの階に着くようにセットしておきましたから……」
「ちょっ、由里!? あんたいつの間にそんなことしたの!? ヤバいじゃん!?」
「大丈夫だよ由羅……その前にここを出ればいいだけから。隠し通路は知っている人にしか分からないしね……」
 由里はのんびりした様子で持っていたタオルでシオンの身体を拭く。その後ろでパタパタと慌てながら由羅が端末を操作すると、遠くで重い物が動く音がした。どこかの扉が開いたらしい。
 対照的な二人に半ば呆れながら、冷子が涼に声をかける。
「さぁ涼、すぐ出発するから服を来て頂戴」
「綾か……」
「え……?」
「……私はしばらくここに残りましょう。綾には仮死体験などという貴重な体験をさせていただいたお礼がしたいですからね」
 涼の目は興奮のためか、人妖特有の縦に切れた瞳孔が赤い光を放って爛々と輝いている。表面的にはいつもの落ち着いた柔らかい笑みを浮かべていたが、長い付き合いの冷子にはその奥にどす黒いマグマの様な怒りが沸き立っていることが理解できた。
「ちょっと! 気持ちは分かるけど、今はここを離れるのが先決でしょう!? 今は綾って娘一人かもしれないけど、数が増えたら厄介になるわよ。それに、あの娘を殺すならいつだって……」
「いえ、私ももう我慢が出来ないのですよ。後で新しいアジトの場所を連絡して下さい。出来れば時間をかけて嬲りたいのですが……明日の朝までにはそちらに向かいますよ」
 冷子は説得を諦めて双子と共に部屋を出る。冷子が出て数分後、綾が扉を壊す勢いで部屋に飛び込んできた。

「シオンさん! 大丈夫!?」
 綾は目の前に広がっている光景に言葉を失った。
 床一面に、まるで白いペンキをぶちまけた様に白濁の粘液が水たまりを作っており、その中心にはどろどろになりながら呆然と座り込むシオンと、その正面で仁王立ちになり、顔だけをこちらに向けている涼の姿があった。
 シオンは綾が視界に入るとゆっくりと顔を向け、安堵のためか緑色の瞳からは一筋の涙が流れた。
「綾ちゃん……。私……汚れちゃった……」
「…………ッ!」
 綾はわなわなと震えながら涼に刺す様な視線を向ける。涼はにやりと笑うとシオンの頭を掴んで男根を口内にねじ込んだ。
「んぐっ!? うむぅぅぅっ!?」 
「なっ!? やめろっ!」
 綾が涼に突進すると、涼はあっさりとシオンの口から男根を引き抜き後ろに下がる。挑発のための行為だったらしいが、綾は完全に頭に血が登っている。今にも飛びかかりそうになる気持ちを堪えながら、シオンの肩に手を置く。
「シオンさん、もう大丈夫……。待ってて、すぐにあいつをぶちのめすから!」
 綾のはめている革製のグローブがぎりぎりと軋む。
 シオンは下を向いたままぽろぽろと涙を零すと、自分の肩に置かれている綾の手をそっと外した。
「シオンさん……?」
「ご、ごめんんなさい……。私……汚れちゃったから……綾ちゃんに会わせる顔が無いの……」 
「何言ってるのシオンさん……。『汚された』の間違いでしょ!? あんな下衆にやられたことなんて気にしないで!」
「違うの……。さ……されてるうちに私……だんだん気持ちよくなって……。自分がこんなにエッチだったなんて知らなくて……」 
 シオンは細い肩を振るわせながら泣いていた。綾は自分の服にチャームや精液が付くこともかまわずに正面からシオンをしっかりと抱きしめた。一瞬ビクリとしたシオンだったが、抱きしめられているうちに安心したのか、遠慮がちに綾の背中に手を回した。
「大丈夫……大丈夫だから。シオンさんは絶対に汚れてなんか無い……。もしそうだったら、こういう風に抱きしめられる訳無いでしょう? 絶対に大丈夫……」
 綾も目に涙を浮かべながら立ち上がり、手の甲で涙を拭うと、涼に向き合った。
「許さない……絶対に許さないから……。もう謝っても、絶対に許さないから!」
「許さないのはこちらも同じですよ」
 涼が脇腹の刺し傷を撫でながら呟く。
「私は貴女のおかげで大変な目に遭いましてね。行き倒れて、使役している賤妖に助けられるなどという無様な醜態を晒し、挙句の果てに蘇生までの間胸くそ悪い人間の身体を借りていたのです。生き恥を晒すとはこういうことを言うのでしょうね」 
「自分で撒いた種でしょう? なに人のせいにしてるのよ。こっちだって色々されたんだから……お互い様よ」
「何を馬鹿な。下賎な人間が高貴な存在の人妖に支配されるのは自然の摂理でしょう?」
 涼がゆっくりと二人に歩み寄る。綾は身体をシオンの前に移動させて、庇うように涼に対峙する。
「どこまで思い上がっているの? 生物に優劣なんて無いわよ!」
「ふふ……貴女方はいつもそうだ。自分のしていることは棚に上げて、他の人が同じことをすれば我慢が出来ない。生物に優劣が無い? では例えば人里に熊が出た場合、観光地に猿が出た場合、人間はどのような手段を取っているのですか? 猟銃を持って追いかけ回して嬲り殺すのが常でしょう?」 
「そ……それは……」
「違います」
 静かだがよく通る声が室内に響く。綾の足下に座り込んでいたシオンが、よろよろと立ち上がり涼に向き合う。
「……確かに私達は時々自分勝手な行動を取るかもしれませんが、それでも様々な生き物と共存しようと努力もしています。浜辺に打ち上げられたイルカやクジラを助けたり、さっき貴方がおっしゃった人里に出てきた動物だって、麻酔で眠らせて山に帰したりもしています。全てが最悪の選択ではないんです」
 シオンは隣の部屋のケージに入れられた動物達の死体を思い出し、涙がこみ上げてきた。振り払うかのように強く頭を振る。金髪のツインテールが揺れ、弱々しい蛍光灯の光を浴びてキラキラと輝いた。
「……まぁいいでしょう。こちらの計画も順調に進んでいます。今は神崎綾……貴女にお礼をすることに集中しましょうか?」
 涼の目がギラリと光を放つと、綾に向かって突進した。一瞬で距離が縮まり、綾の顔面を目掛け拳を放つ。
「あ、綾ちゃん!? 危ない!」
「うわっ!?」
 綾は反射的に身体を反らし、涼の重い拳を紙一重で避ける。風圧で綾の右頬がヒリヒリと痛んだ。まともに食らっていれば鼻骨どころか頬骨や眼底骨にまで深刻なダメージを負っていただろう。
「くっ……はぁっ!」
 涼の腹部を狙って裏拳を放つ。固い音がして、オープンフィンガーグローブを付けた綾の拳が埋まる。
「ぐぶっ!」
「やああっ!」
 裏拳が入ると同時に、下がった涼の顎を目掛けてアッパーを放つ。綾の身体は頭で考えるより先に行動し、最善の選択をして相手を攻撃する。その選択が間違うことはほぼ無い。綾をアンチレジストの上級戦闘員たらしめる持って産まれた素質だ。
 しかし、涼も文字通り人間離れした生物だ。基礎的な筋力はもちろん、反射神経や動体視力も人間のそれを上回っている。涼は掌で綾の拳を受けると、そのまま手首を掴んだ。
「くっ……!」 
「ふうぅ……なかなか効きましたよ……。やはりまだ私の身体は本調子では無いらしい」
 涼の拳が、綾のショート丈のセーラー服から覗く腹部目掛けて放たれる。綾は咄嗟に腹筋を固めてダメージを堪えるが、全くのノーダメージという訳ではない。固い皮を打つ音が周囲に響く。
「うぐっ!? くぅっ……」
「綾ちゃん!?」
「ほぅ……強くなりましたね。威力が落ちているとはいえ、私の一撃を耐えるとは」
「うくっ……あ……当たり前でしょ? アンタと違って……寝ていた訳じゃないんだから……」
 涼は綾の手首を解放し、一旦距離を取って構える。
「いくら鍛えても私の身体と人間の身体とではスペックが違います。先ほどシオンさんのお相手をした時、私は鑑という人間の身体を借りていたのですが、愚鈍で筋力も瞬発力も劣る人間の身体には歯がゆい思いをしましたよ。用済みになりましたので、捨て置いてありますがね」
 鑑の名を聞いてシオンがピクリと反応する。背後でシオンが拳を握る気配が綾にも伝わった。
「シオンさん。悪いけど、ここは私に任せてくれる?」
「綾ちゃん……?」
「こいつとの決着は私自身で着けたいの。それに残念だけどシオンさんは今までの戦闘で疲労がかなり溜まってる。無理しても結果は見えてるわ。詳しくは知らないけど、鑑さんの分もあいつには身体で払ってもらう。もちろんシオンさんの分もね!」
 そう言うと綾はシオンに歯を見せて笑い、拳で掌を叩く様にぱんと合わせた。
「あり得ないけど、もし私がピンチになったら助けにきて。でもそれまでは休んで私に任せて欲しいの。気持ちを無視するようだけど、どうかお願い……」
「綾ちゃん……分かったわ。その代わり、危なくなったらすぐに助けに入るから」
 綾は力強く頷くと、表情を引き締めて涼に向き合う。足元を確かめる様にローファーで地面を擦り、グローブを深く嵌め直した。