「ファウスト?」
 柔らかい女性の声が部屋に響くと、暖炉の中で燃えている白樺の薪がパチリと音を立てて弾けた。
 部屋の壁は清潔感のある漆喰が丁寧に塗られていた。ダークブラウンのフローリング。磨き抜かれた紫檀の無垢材で出来たリビングテーブル。それを挟む様にスリーシーターのソファが向かい合わせて二脚置かれている。ソファに張られた柔らかい印象のモスグリーンのモケットファブリックが、暗色の床の色と調和して、暖かみのある雰囲気を醸し出している。部屋の奥に設置されたリブングテーブルと同じ紫檀の無垢材で出来た大きめな執務机と、その上に置かれた二十七インチのマッキントッシュが無ければ、小さな趣味の良い喫茶店の様だ。
 入り口側のソファには女性が一人、奥のソファには男性と女性が真ん中を一人分空けて座っている。入り口から一番奥の上座に座っている、腰まである長い金髪の女性が、緑色の瞳を輝かせながら 手のひらを胸の前でぱんと合わせた。
「ファウストってあれですよねー。ゲーテの書いた戯曲のファウスト。家に原本がありましたので、子供の頃から何回も読んでますよ。『Verweile doch.Du bist so schon』ああ、なんて美しい言葉……」
 間延びした若干幼さの残る声だった。うっとりとストーリーを思い出す様に、大きめのアーモンド型の目が細くなる。女性はファウストの中の一文を口に出したが、ドイツ語の原文のため、入り口側のソファに座っている女性の頭には「?」マークが浮かんでいた。
「あの……もしかして如月会長ってファウストを原文で読んでいるんですか?」
 水橋久留美が右手を上げながらおずおずと声をかける。のんびりとした幼い印象の顔立ちで、身体も同年代のそれよりは一回りほど小さい。ショートカットに切り揃えた髪に、白いリボンをカチューシャの様に留めている。
「ええ、ファウストは全て韻文なので、原文で読んだ方が本来の言葉の響きや意味を理解しやすいんですよ。あ、それと久留美ちゃん、私の事は改まらずに下の名前で読んで下さっていいですよ?」
「はぁ……。いえ、当然の様に仰ってますけど、ただでさえ難解なファウストを原文ですらすら読める方が……。ちなみに、きさ……シオン会長って何カ国語喋れるんですか……?」
「ええと……母国語はロシア語ですけど、母が日本人なので、物心ついた頃から日本語は話していましたね。あとは子供の頃に習った英語、ドイツ語、フランス語と中国語は特に不自由していないですね。イタリア語は勉強を始めたばかりですので、まだ日常会話と新聞が読める程度ですけど」
 シオンは人差し指を口に当てて思い出す様に呟く。久留美はしばらくぽかんと口を開けていたが、はっと我に帰りテーブルに身を乗り出しながら早口でまくしたてた。
「十分というか凄過ぎますよ! 確かにアナスタシアでは入学条件に『母国語の高いレベルでの習熟と、その他に一つ以上の言語を習得していること』とありますけど、殆ど皆、日本語と英語だけで精一杯で……七カ国語もマスターしてる人なんて会長だけですよ!」
「そ、そうですか? 習っていたのが子供の頃だったので、勉強するというよりは自然と身に付いてしまって……」
 久留美が感心を通り越して呆れた様にため息をつくと、違う方向からも大きく溜息をつく音が聞こえた。シオンの横に座っている副生徒会長、鑑が眼鏡を直しながら呆れた様に言う。
「確かに母国語を完全に認識する前の幼少期には、あらゆる言語を抵抗無く素直に受け入れられるという研究結果もありますが、それでも二、三カ国語が限界だそうです。それに、習得したとしても日常会話レベルがほとんどで、会長みたいに専門用語に溢れた論文翻訳のアルバイトが出来る様にはとてもなりません」
「え……シオン会長ってそんなこまでしているんですか?」
 久留美が呆れた様な声を出す。
「会長のケースはおそらく、元々会長自身の能力が高い上に、意図的な英才教育を受けたのでしょう。というか、いつ突っ込もうかと思いましたが、鷹宮さんを襲った容疑者の名前はファウストではなく蓮斗ですよ。会長も呑気に雑談している場合ではなく、水橋さんに鷹宮さんを発見したときの状況を聞いて、容疑者を見つけなければ次の事件が起こるとも限りませんよ」
「あ、ああ……そうだったわね。久留美ちゃんも今回は大変だったけれど、もう大丈夫かしら? 大好きな先輩があんな事になって、とてもショックだったと思うけれど……?」
「あ……ええ。なんかシオン会長を見てたら、なんだか元気が出てきちゃって……」
 そういうと久留美は右手でポリポリと頭を掻いて、「あの噂って本当だったんですね」と小声で呟いた。
 シオンの顔がふと真剣になる。
「よかったです……。では、申し訳ないですが、そろそろ本題に移ってもよろしいですか?」
 シオンの顔がさっきまでののんびりした顔から、凛としたものに変わる。一瞬でこの部屋の空気が、真冬の禅寺の様に張りつめた。久留美はその雰囲気に押され、無意識に浮かせていた腰をぽすんと音を立ててソファに降ろした。
 アナスタシアの生徒にとっては、いつものシオンのイメージだった。腰まである金髪を颯爽となびかせて廊下を歩き、生徒総会や大きな行事の際には良く通る声で壇上から堂々と演説する。決して冷たい雰囲気は無いが、あまりに完璧な仕事ぶりと人間離れしたその美貌は時に現実感を失わせ、生徒達は少なからず近寄りがたい印象を抱いている。一部生徒の中には「如月会長は実際に話すと、呆れるほどのんびりしている」と噂する者もいるが、殆ど都市伝説の様に扱われていた。
「久留美ちゃん、貴女が美樹さんをとても慕っているのは知っています。ショックな場面をもう一度思い出す事はとても辛いかもしれないけど、美樹さんのことを話してもらえないかしら? こんな事をお願いするのは申し訳ないけれど、学院の安全のために協力して欲しいんです」
 シオンが久留美に訴えかける。その真摯な目線に久留美はこくりと頷くと、テーブルの下でぎゅっと組んだ自分の小さな手を見ながら話し始めた。
「えと……うまく言えないかもしれないですけど……昨日は早朝練習をしようと朝の七時頃にプールのあるS棟に入りました。更衣室で水着に着替えて、準備体操をしようとプールサイドに向かった時、梯子に縛られている美樹先輩を見つけて……美樹先輩の身体には……あの……」
 久留美が言い澱みながら鑑をちらりと見る。鑑は真剣にメモを取っていたためその視線には気付かなかったが、シオンがすぐに財布からカードを取り出して鑑に渡した。
「鑑君。悪いけど紅茶が切れているの。買ってきてくれる?」
「え? 今ですか? 話を聞き終わってからでも……まぁ、購買部までひとっ走り行けばそんなに時間は……。ダージリンでいいですか?」
 鑑が書きかけのメモをシオンに渡しながら生徒会長室から出て行く。久留美はいささかほっとした様で話し始めた。
「す、すみません。男の人の前だと、少し話し難くて……」
「大丈夫ですよ。話せる所までで大丈夫ですから」
「はい……美樹先輩の顔や身体には……その……男の人の……体液だと思うんですけど……その……たくさん付いていました……。私も実際に見た事は無いんですけど、たぶん、前に友達とふざけて見たエッチなビデオと同じ感じだったので、間違いないと思います」
「体液? 久留美ちゃん、変な質問だけど、その時ドキドキしたり、頭がぼうっとしたりしなかった? うまく言えないけど、体液じゃない可能性もあるの」
 シオンはメモに「チャーム?」と素早く書いたが、久留美が首を振るとすぐ横に「可能性低」と書いた。
 久留美のぽつりぽつりと話す声に、シオンは真剣に耳を傾けた。
 変わり果てた美樹の姿を見つけた久留美はあまりの事態に悲鳴を上げたものの、すぐに我に帰り美樹の元に駆け寄った。美樹は梯子に両手足を縛り付けられたまま失神していたが、呼吸や脈拍は問題なかった。震える手で両手足のロープを解き、自分が持ってきたタオルを敷いてプールサイドに寝かせる。濡れた美しい黒髪が艶々と光りながら顔に貼り付いていた。唇は紫色に変色し、普段から色白の肌は透き通る様な青白さになっていた。
 まるで美しい死体の様だった。
 幽玄、と言うのであろうか。この世の物とは思えない美しさを目の前にして、久留美はしばし時間を忘れて見とれていた。
「その後は、夢中で警備員室まで走りました。救急車が来て……先輩が運ばれて……。運ばれる時に先輩目を開けたんです! そして、小さな声で『私は大丈夫だから、お前は心配するな』って笑ってくれて……。何で先輩があんな酷い目に合わなければならないんですか!? 先輩が何をしたんですか!? こんな……酷い……うっ……うぅ……」
 久留美の力一杯握りしめられた小さな手に涙がぽたぽたと落ちた。美樹には水泳部に入部した時から色々と面倒を見てくれた。美樹を知る人間は、美樹の言動はぶっきらぼうで表情は厳しいが、その奥には他人への優しさと気遣いで溢れている事を知っていた。何故美樹の様な素晴らしい人があの様な惨い目に遭わなければならないのかと思うと、久留美の瞳にはやるせなさと悔しさで自然と涙があふれた。
 シオンが静かにソファから立ち上がると久留美の横に座り、久留美の頭を自分の胸に抱え込む様に抱きしめた。ほんのりと甘く優しい香りがする。久留美はシオンに美樹と同じ優しさを感じ取り、いつの間にかシオンに抱きついて大声で泣いていた。シオンは細く長い指でそっと久留美の髪を撫で続けた。
 扉をノックし、鑑が紅茶葉の入った缶を持って会長室に入る。二人の様子に驚いた顔をしたが、シオンが無言で人差し指を立てて唇に当てると状況を把握し、足音を立てない様に奥の給湯室に入ると、ポットと三つのカップを用意して薬缶を火にかけた。