「くっ……!」

 

このままではまずい。シオンはようやく痛みと残像の収まった目で辺りを見回し、鈍痛が残る腹を押さえながらひとまず駐車場を離れようとする。足下がアスファルトから石畳へ変わり、研究棟の方向へ移動する。幸い野球部員3人はターゲットをシオンに定めたらしく、冷子を襲うことは無く無表情でシオンを追いかけていた。

 

「よかった、3人とも私を追って来てる。このままこっちへ来て」

 

鍛えられた野球部員3人は俊足を生かし、シオンとの差をぐんぐん縮める。研究棟前の広場の前には中央広場に比べると小振りではあるが同じようなデザインの噴水があり、シオンは噴水を背にして3人と対峙する。

 

「はは…日本のことわざで言えば背水の陣ってやつですかね。でも、先ほどは不意をつかれましたけど、今度は本当におとなしくしてもらいます!」

 

シオンの声は相変わらず3人には届いていないようだった。しきりにぶつぶつとうわ言を呟きながら、シオンに攻撃をしようとじりじりと近づいてくる。

 

「この3人、明らかに様子がおかしいですね…。人妖だったら何らかのコンタクトをとってくるはずですが、私の声も聞こえてないみたいですし…。もしかして、誰かに操られてる?」

 

シオンが考えを巡らせていると、3人はそれぞれ雄叫びをあげながらシオンに襲いかかってきた。しかし、3人同時の攻撃とはいえ、単調でストレートな攻撃はシオンに軽々と捌かれてしまう。

 

「さっきのようには…いきません!」

 

「ぐがぁぁぁぁ!」

 

シオンのすらりと伸びた足から放たれた回し蹴りはそのまま眼鏡の脇腹にヒットし、よろめいた所へ膝蹴りを追撃する。眼鏡はうめき声を上げて倒れ、同時に後ろから羽交い締めにしようと近づいたひげ面の腹へ後ろ蹴りを放った。

 

「ぐぼぉおおおっ!!」

 

シオンの履いている靴のヒールが根元までひげ面の鳩尾に吸い込まれ、前方に倒れ込む勢いを殺さずに空気投げを放つ。ひげ面はゆっくりしたモーションで前方に一回転し、背中から石畳へ落下した。

 

「はぁ…はぁ…残るは、あなただけですよ。無駄な抵抗はせずに、おとなしくしていただければ、危害は加えません」

 

さすがのシオンも全力疾走後の3人同時の相手に幾分息が上がっているが、それでも残りの1人を倒すことくらいは雑作も無いことだった。極力生徒に危害を加えたくないシオンは説得を試みるものの、やはりその声は届くことは無かった。

 

「ああああぁ…会長ぉ……俺……こんなに……会長が好きなのに……なんで分かってくれないんだぁ………俺のものにしてぇ……してぇよぉ……」

 

「くっ……だ、ダメですか……仕方ないけどここは…」

 

シオンが意を決して構えるが、同時にシオンの真後ろ、噴水の影から柔らかい声が響いた。

 

「あらあら…まったく…情けないったらないわねぇ……」

 

そこにいたのは、シオンが先ほど車に隠れるように頼んだ篠崎冷子だった。ゆっくりとした動作で噴水を半周周り、シオンに数メートルの距離まで近づく。

 

「え…?し、篠崎先生!?」

 

「まったく…鍛えてるからあなた1人くらいどうにでもなると思ったんだけど、てんで使えないのね。それともあなたが強すぎるのかしら?」

 

「うそ…本当に篠崎先生?え…なんで?この人たちに何をしたんですか…?」

 

「簡単よ。脳の大脳新皮質の働きを鈍くする薬を作って注射しただけ。この子達があまりにもあなたのことが好きみたいだったから、邪魔な理性を無くして素直にしてあげただけよ。うふふ…」

 

目の前に居る冷子の信じられない言葉に、シオンは酷く混乱した。薬?注射?理性を無くす?何を言ってるのか分からない。なぜ篠崎先生がこんな真似を?中央広場で言われた「悪ふざけ」にしては度が過ぎている。

 

「あまりにも使えないからこんな玩具まで使って手助けしてあげたのに、結局逃げられるしね」

 

冷子はそういうとポケットからレーザーポインターを取り出し、噴水の中へ投げ入れた。プレゼンテーションの時に指し棒の変わりに使うものだが、その光線は強力で人体の網膜に多大な影響を及ぼし、最悪失明に至るほどの威力があり一時期社会問題になったほどだ。先ほど急にシオンの目を襲った激痛は、おそらく車の中から冷子がこれを使ったためだろう。

 

「……篠崎先生…あなた…本当に篠崎先生ですか…?」

 

信じたくないという気持ちがシオンの唇を震わせる。しかし、冷子の口から出た言葉はシオンに残酷な現実を突きつけつものだった。

 

「嫌だわ、名前を忘れちゃったの?篠崎冷子よ。冷たい子供で冷子。人妖は冷たさを感じる名前を付けることが決まりなの」

 

シオンの顔が絶望に染まる。疑惑が確信へ。一般市民が人妖の存在を知るわけが無い。冷子が人妖であることはこれで確定した。しかし、オペレーターは確かに男性型の人妖と言っていなかったか?それに中央公園でシオンと冷子が会話しているときも、オペレーターからは何の連絡も無かった。

 

「うふふ…こんなにのんびり会話をしていていいのかしら?そこの男の子があなたに告白したいらしいわよ?」

 

「えっ?なっ!?」

 

シオンが振り向く一瞬前に、帽子はシオンを羽交い締めにしていた。一瞬だけ顔が見えたが、焦点の合っていない目と、はぁはぁと荒い息を吐き続ける口からは絶えず涎が垂れていた。

 

「あああああ…会長ぉぉぉぉぉ……好きだぁぁぁ……」

 

「いやっ…!ちょ……離して下さ……んはぁっ!!」

 

帽子がシオンの豊満な胸をデタラメに揉みし抱く。必死に身体をよじって抵抗するが、不利な体勢で力任せに抱きつかれていることと、基礎的な筋力の差でなかなか振りほどくことができない。

その間も帽子はシオンをがっしりと抱きすくめながらも、乱暴に胸をこね回すのをやめず、さらには髪の毛の香りを嗅いだり首筋を舐め回したりと欲望の限りを尽くした。

 

「やらぁっ…!ほ、ほんとうにやめ…あうぅっ……離して…!!」

 

「あらあら、若いっていいわねぇ…ずいぶん積極的でストレートな愛情表現だこと。でもあなた、全然美しくないわ。愛の表現はもっと美しくしなきゃダメよ」

 

一瞬ナイフのように風を切る音が聞こえ、シオンの右頬を何かがかすめたかと思うと、無我夢中でシオンの首筋を舐め回していた帽子の身体が猛スピードで後方に吹っ飛んでいた。

 

「え…?あっ……何、今の…?」

 

「うふふ、見えなかったかしら?あまりにも見るに耐えないものだから消えてもらったの」

 

シオンが後方を振り返ると、帽子は鼻から血を流しながらビクビクと小刻みに痙攣していた。目にも留まらない何かが冷子から放たれ、一瞬で帽子の顔面にヒットしたのだろう。しかし次の瞬間、再び風を切る音とともにシオンの腹部を中心に激痛が走った。

 

ヒュッ……ズギュウッ!!

 

「あぅっ……ぐっ!?げぶうぅぅぅ!!」

 

「こんな風にね…少し強すぎたかしら?」

 

冷子の両手は腰に当てられたまま微動だにしていない。しかもシオンとの距離は2メートルほどあるので手の届きようが無いのだが、シオンの下腹部のあたりにははっきりと拳の形が残り、その奥にあるシオンの小さい胃は無惨に潰されていた。

 

「ぐむっ!!…ううぅ……」

 

必死に両手で口を押さえ身体の中から逆流してくるものを堪えるが、再び独特の空気音を聞いたときには既に攻撃が終わっていた。

 

ヒュヒュッ……ズギュッ!グチュウッ!!

 

「!!??ぐふっ!?ぐぇあぁぁぁ!!!」

 

鳩尾と臍、人体急所である正中線への同時攻撃。あまりの攻撃にシオンはたまらず堪えていた逆流を吐き出し、透明な胃液が勢い良く飛び出した。

 

「がふっ!?……あ…あうぅ……」

 

「あらあら…あなたみたいな可愛いコでも嘔吐したりするのねぇ…。でも素敵よ。その苦しんでる顔は何物にも代え難く美しいわ…」

 

冷子は両方の手のひらを自分の頬に当て、両腕で腹をかばいながらも倒れずにいるシオンをうっとりした表情で見つめる。表情こそ穏やかなものの、その目は既に瞳孔が縦に裂け、冷酷な赤い光を放つ人妖のものに変わっていた。