鷹宮神社の境内にはうっすらと湿り気の無い粉雪が積もり、時折拭く風で頼りなく舞い上がっていた。二十二時。日が落ちてから数時間経ち、昼間に僅かながらに暖められた空気も、今では死に絶えた様に冷えきっている。
 微かに水を打つ音と祝詞の声。音は鷹宮神社の奥、竹薮のそばの井戸から聞こえた。髪を結い上げた美樹が白襦袢一枚の姿で黙々と祝詞を唱えながら、井戸の底につるべを落としては引き上げ、桶いっぱいに溜まった氷の様な水をかぶっている。
「高天原に神留座す神魯伎神魯美の詔以て……」
 見ているだけで皮膚に痛みを覚えるような光景だったが、美樹は顔色一つ変えることなく黙々と水行をこなした。祝詞を唱えながら冷水を浴びること十数回。終えると美樹は丁寧に井戸に蓋をし、桶を直すと両手を合わせた。
「行くか……」
 身体は芯まで冷えきっている。声は震え、消え入る様に小さい。しかし、頭は未踏の地の水源の様に澄み切っている。美樹は井戸に背を向けると、本殿横の離れにある自室に向かった。あらかじめ踏み石に置いておいたバスタオルで襦袢の上から身体を拭き、草履を揃えて部屋に入る。行水の一時間ほど前に火鉢に炭を入れていたため、柔らかい温かさにほっとする。行灯から橙色の灯りが弱々しく広がる十畳ほどの和室。多くの文庫本が入った本棚と、大きめの箪笥と姿見以外は、生活感があまり無い。食事は別室で摂ることが多かったし、好きなバイクや整備道具はまとめて車庫に置いてある。勉強も箪笥に立てかけてある書生机を必要に応じて出した。
 美樹は付書院の戸棚を開け、天板にテープで張り付けてある鍵を取り出すと、箪笥の一番下の施錠された引き出しを開けた。
 丁寧に畳まれた服を取り出す。
 美樹専用の、アンチレジストの戦闘服だ。
 アンチレジストの戦闘服は、季節を通して同じ服で戦うために特殊な繊維が用いられている。伸縮性や対衝撃性は一般的な高機能繊維と同じだが、特筆すべきは温度と湿度の調節効果だ。
 その生地は周囲の温度を感知し、身体から発散される水蒸気をエネルギーとして生地の無い場所も含め身体全体をヴェールで包む様に適正温度に保つ。そのため一見露出の多い戦闘服でも真冬でもコートを着ている様に温かく、真夏は裸でいるよりも涼しい。この繊維を用いてアンチレジストは戦闘員各々の戦闘スタイルや衣服の好みに合わせてカスタムメイドされたものを支給している。
 好みにもよるが、基本的に一般戦闘員のものは防御に特化した戦闘服が多い。関節部分などの急所の保護を目的としたサポーター類をはじめ、素材自体も厚手で露出の少ないものが好まれる。中にはフルフェイスのヘルメットを選択する者もいる。逆に上級戦闘員は極力自分の戦闘能力を高める為に、関節部分は露出、もしくはサポーターの無い薄手の素材を選択する場合が多い。当然、美樹は後者である。
 美樹は襦袢を脱いで全裸になり、あらためて丁寧に身体を拭くと、結っていた髪を解いて姿見の前で丁寧に梳いた。均整の取れた身体だ。女性らしい体つきだが、無駄な脂肪は一切付いていない。適切な運動により腕や脚、腹にはしなやかな筋肉が付いている。
 ふふ……と美樹は笑った。鷹宮の養子になってもう七年が経つ。あらためて見ると、あの頃に比べ自分の身体も変わったものだ。人の為に使おうと決めたこの身体は、美樹の意志に応える様に成長してくれている。
 美樹は児童養護施設で過ごした後に鷹宮家の養子に入った。今の家族は宮司を務める養父だけだ。実の母親は他界し、実の父親にはもう会う事も無いだろう。母親が存命の頃は、美樹の家は裕福とは言えないが、ごく普通の家だった。父親は工場で決まった時間に働き、母親も美樹が学校へ行っている間にパートに出た。よほどの事が無ければ、夕食は家族三人揃って食べた。しかし美樹が八歳の頃に両親が離婚し、美樹の親権と監護権は母親に定められた。離婚の理由は美樹には知る由もないが、幼い美樹でもおそらく父親に原因があることはなんとなく解った。簡単な裁判が終わり、美樹と母親は少し離れた土地へと引っ越し、美樹も転校を余儀なくされた。
 美樹の母親が体調を崩して入院したのは引っ越してから半年後の事だ。病状は重く、美樹は急遽父親の元に戻された。元の家から距離のある転校先の学校に通い続ける事は大変だったが、それ以上に美樹を苦しめたのは父親の変化だった。家には既に美樹の知らない女性が居た。異分子である美樹に女性は辛く当たり、父親も女性の肩を持った。時には美樹に何も持たせずに一晩外に放り出す事もあった。美樹の存在は、父親の第二の人生に対しては邪魔者でしかなかったのだ。しかし関係は長続きしないらしく、短期間で何人もの女性を部屋に連れ込み、その度に美樹は疎まれた。
 母親が他界したのは入院してから半年後、離婚してから一年後のことだ。電話の受話器を戻すと父親は無表情で、美樹に向かって「死んだぞ」と言った。「誰が?」と震える声で美樹が聞くと、母親の名前を言った。
 父親は母親の死により、何かの「たが」が外れたのだろう。父親は美樹に対して性的な暴力を振るうようになった。一線は越えなかったと思うが、母親が他界してから養護院に入れられるまでの記憶を美樹はほとんど持っていない。何かのきっかけによりフラッシュバックする事も無いが、自分が男性に対してあまり興味を抱けなくなったのはその事が原因だろうと思っている。
 美樹が十歳の頃、父親は強姦罪で逮捕され、美樹は養護施設に預けれた。その頃の美樹は全てに於いて無感動になり、特に男性に対しての敵意は凄まじかった。施設に入所してから一年後、美樹が十一歳の時に鷹宮神社の宮司に引き取られても敵意は変わらず、たびたび脱走を試みた。
 美樹の養父は六十代の独り身だった。父親から鷹宮神社を受け継ぎ、数人の通いの職員を遣う以外は境内の裏の離れで一人で暮らしていた。養父は美樹を養子にすると、まずは名前を「美樹」に改名した。鷹宮神社の力強く美しい神木の様に育つように、そして、過去を忘れ、一から人生を歩めるようにと。そして離れの一室を美樹の部屋として与えた。美樹も最初こそ抵抗したものの、養父の「楽に生きればいい。私に心なんて開かなくてもちゃんと食べさせるし、好きな事は出来るだけさせてやる。だから、出来るだけ楽に生きるんだ。そして、出来るだけ人の為に生きるんだ。そして人には優しくしてやれ。人間どうしたって生きて行かなきゃならないんだ。人に優しくしていれば、それだけ優しさが帰って来る。そうすりゃ楽に生きられる。楽に生きられるってことは、楽しく生きられるってことだ。本当だよ」と言う言葉は美樹の乾き切った心にじんわりと染み込んで行った。
 あれから七年。豊かな表情を作るのはまだ苦手だが、養父のお陰で人並みの生活を送れている。まだ恩を返し切れていないのだ。久留美の救出を諦める事は、養父の教えを裏切る事だ。ここで立ち止まるわけにはいかない。
 美樹は綺麗に畳まれた巫女装束を基調とした戦闘服に手を合わせた。
 まずは身体にフィットした光沢のある黒いノースリーブレオタードを身に付ける。水泳部で着用している水着に似たそれも、組織の開発した特殊繊維で作られている。肩紐に指を入れてレオタードのたるみを直すと、白地で太腿の途中まである長いソックスを穿いた。ゴム口には緋色のリボンがスティッチ状に縫われている。
 緋色の短いプリーツスカートを履き、緋色の裏地の付いた白い襦袢を羽織る。襦袢は胸の下あたりまでのショート丈。美樹は作務衣を着る要領で内側と外側に付いた紐で裾を留めた。帯は用いない。激しい戦闘においては締め付けは邪魔になるからだ。袖口は巫女装束や振袖の様に袋状になっており、袖口にはソックスと同じように緋色のリボンが縫われている。
 美樹は姿見の前に立つと、両手で襦袢の中に入った髪の毛をふわりとかき出した。自然と身体が昂揚してくる。髪をポニーテールに結い上げると、全身の着衣の乱れを直した。
 姿見の中の自分はまるで巫女と「くのいち」を足して割ったような姿だ。昼間にこの格好のまま出歩くわけにはいかないが、美樹はなかなか気に入っていた。上級戦闘員の戦闘服にしては身体を覆う部分が多かったが、防御にやや不安のある自分には合っていると思った。
 太腿に黒い革製のレッグホルスターを装着し、握り部分が折りたたみ式になっている樹脂製のトンファーを挿す。同じく革製のオープンフィンガーグローブを装着すると、軽くその場でジャンプしてみた。
 衣服を身に付けていることが不安になるほど軽い。そして生地に使われた特殊繊維の効果で、先ほどまで感じていた寒さが嘘の様に消えていた。
 目を瞑り、足の裏から空気を吸う様にゆっくりを息を吸い込む。そして吸い込んだ空気の塊を丹田に押し込む様に意識を集中し、吸った時の倍近い時間をかけてゆっくりと息を吐き出す。数回繰り返した後、静かに目を開く。
「行くか……久留美、待っていろ。すぐに助ける」
 美樹は箪笥からライダースジャケットを取り出して羽織ると、編み上げのコンバットブーツを履いて外に出た。
 雪は止んでいた。境内の石畳には足跡一つ無い雪が一面降り積もっている。
 暗くて静かで、美しい光景だった。
 美樹はライダースのポケットから潰れかけたショートホープとジッポーを取り出して火をつけた。養父のいるもうひとつの離れを見る。早寝の養父らしく部屋の灯りは消えていた。美樹はゆっくりと煙を吸い込み、蜂蜜に似た甘さを楽しむ様に長い時間をかけて吐いた。空気が冷えきっているため、自分の吐く息の白さと合わせて普段よりも煙量が多く感じる。時間をかけて短い煙草を吸い終わると、美樹は少し迷った後に養父の寝ている離れの踏み石に火の消えた煙草を置き、自分にしか聞こえない声で「行ってきます」と呟いた。



「Боже мой…………Боже мой!!」
 固い音を立てて、カップが漆喰の塗られた壁に叩き付けられた。ブルーの絵が入った薄造りのカップはドライフラワーが崩れる様に簡単に四散し、漆喰の壁には蜂蜜を塗った様に紅茶の垂れる跡が残った。
「……か……б……бо……か、神様……」
 シオンは両手で頭を抱え、会長室の執務机に両肘を着いた。白に近い金髪にディスプレイの青みがかった光が反射している。悪い夢から覚めようとする様に首を振る。一瞬でカラカラに乾いた喉の粘膜が貼り付き、思わず咳き込んだ。
「はっ……はぁ……は……」
 呼吸を乱しながらディスプレイを見ないように立ち上がる。ふらつきながら深紅のブレザーと自分で墨染めしたグリーンチェックのスカートを脱ぎ捨てた。給湯スペースの奥のシャワー室に向かいながら下着を取り、シャワーコックを全開にした。冷たい水がレインシャワーから飛び出し、思わず身体が跳ねた。
 吐水が徐々に水から湯に変わる。混乱していた精神が湯に溶かされる様に、徐々に平静を取り戻して行くのがわかった。
 シオンは久留美の捜索と蓮斗の調査をする傍ら、アンチレジストについての調査も進めていた。自分も所属しているとはいえ、あの組織はあまりにも謎がありすぎる。豊潤な資金源や構成員の正確な人数、そしてトップであるファーザーの素性。アンチレジストに対する調査は警察の内部資料を盗み出す以上に大変だった。しかし今日、ハッキングソフトがひとつの答えを出した。そしてそれはシオンを大きく混乱させた。
 頭からシャワーを浴びながら、こめかみを揉んで乱れた心を落ち着かせる。まだ調査が必要だ。自分はまだ氷山の一角を見ただけだ。今は久留美の救出を第一に考えなければ。
 シオンはシャワーから出るとタオルで全身を押さえる様に水を拭き、部屋の姿見で自分の身体を点検した。異常は無い。肌はつるりとキメが細かく、左右のバランスも良好だ。怪我や手術の跡も無い。しかし、シオンは自分の身体があまり好きではなかった。大嫌いというわけではないが、どちらかといえば好きではないという程度に。胸は同年代のそれよりも大きく育ち過ぎて、まるでフィクションの中に登場する娼婦の様だと思っていた。髪の色も肌の色も色素が薄過ぎてどこかに消えてしまいそうだ。そして日本人の要素が全く見られない。自分はどこか間違った存在ではないかと、シオンは常に思っていた。
 新しい下着を付け、髪にタオルを巻き付けたまま割れたカップを片付ける。汚れた壁を拭きながら、カップを叩き付けるなんてどうかしていると思った。ここまで心が乱れた事は今まであっただろうか。まだ、そうと決まった訳ではないのに。偶然の可能性の方が高いはずだ。改姓した人が多いとはいえ、元々はありふれた姓であり、まだその姓のを名乗る人は多く残っている。アンチレジストの送金者リストのトップに記載された姓。ラスプーチナ。まだあの国にはその姓の人は大勢いるはずだ。自分の生家と同じ姓を持つ人は、何人もいるはずだ。しかし、自分の生家と同じ姓で、同様かそれ以上の財力を持つ家系を、シオンは思いつく事が出来なかった。