「ほらほらぁ…いくわよぉ…スゴいのがいくわよぉ…」

 

冷子はギリギリと拳を引き絞り、シオンの引き締まった腹部に狙いを定める。冷子のサディスティックな満面の笑みとは正反対に、シオンの顔は青ざめ、あきらめの色がにじむ。

 

「あ…ああ……や……やめ………」

 

 

胃を握りつぶされ、鳩尾を膝で突き上げられ、散々虐められて未だに痙攣の収まらない腹部に更なる打撃を加えられれば一体自分はどうなってしまうのか。不妊、内臓破裂、最悪…死亡。まだまだ若いシオンにとっては残酷すぎる現実が、目の前の冷子の拳から自分の身体に突き入れられると思うと、恐怖と絶望でいっぱいになった。

 

「ほらぁ…どこを狙ってほしいの?鳩尾?お臍?それとも子宮のあたりかしら?あはぁ…どこを攻撃しても、もしかしたらイっちゃうかもぉ…」

 

「わ………私は………」

 

「んふぅ~?なぁにぃ?」

 

度重なる衝撃によって、口内には唾液が通常よりも多くあふれるが、シオンはそれを飲み込むことが出来ず、唇の端を伝って地面や豊満な胸に落ちる。ただ喋るだけでも内蔵が悲鳴を上げるが、シオンは力を振り絞って冷子に語った。

 

「私は…げふっ……こ…この学校が好き……学校の…皆も……先生も………も……けほっ……もちろん……篠崎先生だって……」

 

「ふぅん……それで?」

 

「せ……先生と…この人たちを……す…救えなかったことが…心残りです…。絶対に……綾ちゃんや……他のみんなが……来てくれるはずですから……げほっ……先生も…酷いことはやめて……改心して下さい……」

 

「ふふ……ふふふ……あははははは!それがあなたの最期の言葉!?私を救いたいって?人妖の私を!?どこまでお人好しなのかしらぁ!?」

 

「お…お人好しでもいい……それでも…私は……皆に…幸せになってほしい……」

 

絞り出すようなシオンの言葉。もはや声は途切れ途切れの弱々しいものになっていたが、その目には意思の光が宿っていた。

 

「ふぅん…。おめでたい人ね。そんな考えではこの先利用されるだけよ?まぁ、ここで死んじゃえば関係ないけどねぇ…。それじゃあ…さようなら」

 

唸りを上げて冷子の拳がシオンの下腹に向けて放たれる。シオンは無表情で自分の腹部に吸い込まれて行く拳を見つめた。 骨同士がぶつかり、軋む音が石畳の上に響く。

 

メギィィィィ!!

 

「が……が……」

 

「!!?お…お前!?」

 

シオンの太ももに頬擦りしていた眼鏡が瞬間的に頭を持ち上げ、冷子の拳をその頭で受け止めていた。ミシミシという音が眼鏡の頭からシオンの耳に届く。

 

「くっ…はぁっ!!」

 

「あぐっ!?」

 

脳が考えるよりも先に、瞬間的にシオンの体が反応した。自由になった右足で冷子の顎を蹴り上げ、振り上げた足が戻るのを利用し、背後から羽交い締めにしている帽子の金的を蹴り上げた。自由になった手で手刀を作り、未だに左足に頬擦りをしているひげ面の首に振り下ろし、悶絶している帽子の鳩尾を突き上げた。

わずか数秒。体に染み付いた全く無駄のない動きで、一瞬のうちに冷子は蹴り飛ばされ、帽子とひげ面は失神して地面に伸びていた。シオンはあわてて冷子の全力の一撃を受け、石畳の上でビクビクと痙攣している眼鏡に駆け寄った。

 

「だ、大丈夫ですか!?な…なぜこんなことを…!?」

 

「あ…ああ……会長のお腹…スベスベだったなぁ……」

 

拳が離れた瞬間から、眼鏡の鼻や耳から大量の血が吹き出していた。シオンは無理に抱き起こさずに、小刻みに痙攣している眼鏡のズボンのベルトを緩め、横向きに寝かせてやる。

 

「そんな…大変…すぐ病院へ…」

 

「し…幸せだぁ…会長に…触れられて………会長も……幸せに……なってく…れ……」

 

眼鏡は糸の切れた人形のように全身の力が抜け、ぴくりとも動かなくなる。シオンは目に涙を浮かべ、何度も首を横に振る。

 

「あ……ああ……嘘……嘘ですよね…?」

 

「失神しているだけよ」

 

背後から冷子の声が聞こえ、シオンは素早く振り向く。冷子はまるで汚いものに触れたかのようにハンカチで拳を拭いながら近づいてくる。

 

「まったく、最後の最後まで使えないゴミ虫共だわ。利用価値のない奴らは全員死ねばいいのに…残念ながら頭蓋骨も折れてないし、あなたの取った行動は応急処置としては完璧ね。その姿勢なら血や吐瀉物が喉に詰まることも無い。医者の私が言うから間違いないわ」

 

「先生…!!」

 

今まで抱いたことの無いほどの黒い感情が、シオンの中を駆け巡る。全身の細胞がこいつは敵だと伝えてくる。絶対に倒さなければならない。気付いた時にはシオンは冷子に向かって突進していた。

 

「はぁぁぁぁ!!」

 

「あらあら…らしくないわね…」

 

ゴギュッ!!

 

「うぶぅっ!!?……し…しまっ…」

 

冷子の「伸びる腕」が、我を忘れ突進していたシオンの腹に突き刺さる。一瞬で勢いを止められ体がぐらついた所を、冷子がじりじりと距離をつめながら攻撃する。

 

ヒュヒュン!!…ドギュッ!ズムッ!グジュッ!!

 

「あ…がぶっ!うぐうっ!ごぶっ!!……あ…ああ……」

 

「うふふふ……つかまえたぁ」

 

気がつくと、冷子はシオンの目の前まで迫り、がっしりと髪を掴まれ、無理矢理顔を上げさせられる。

 

「あうっ…!痛…」

 

「んふふ…さっきのお返しよ…」

 

伸びる腕の何倍もの破壊力のある直接の攻撃。小振りだが石のように固い拳がシオンの滑らかな腹部に吸い込まれた。布地の一切無いむき出しの生腹に手首まで拳が埋まり、背骨がメキリと音を立てる。

 

ズギュウウッ!!

 

「ぐぼああぁぁぁ!!!」

 

2つに纏められた長い金髪をなびかせながら、シオンは数メートル後ろへ跳ね飛ばされ研究棟の外壁へ背中を痛打し、腹を両手でかばうようにしながら地面に両膝をつく。

 

「ああぐっ…げぶっ!?……うぁぁ……」

 

腹部と背中への衝撃から、たまらずこみ上げたものを地面へ吐き出す。その間もまるで苦しむシオンを楽しげに観察するように、ゆっくりと冷子が近づく。

 

「ま…まずい……、離れないと……」

 

力の差は歴然であった。このままでは劣勢になる一方と悟ったシオンは一度体勢を立て直すために、何とかこの場を離れようと、よろよろと立ち上がる。冷子の近づく速度は変わらない。壁に手をつきながら建物に沿って移動すると、鉄製の、装飾の施された研究棟の入り口があった。下層階は生徒達の特別教室になっているが、当然今は施錠されているはずである。

 

「あははは!如月さん、今度は鬼ごっこかしら?そんなに遅いんじゃすぐ捕まえちゃうわよ?」

 

まるで傷ついた獲物をじわじわと追いつめる残酷なハンターのように、背後から冷子の声が近づく。追いつかれるのもこのままでは時間の問題である。シオンは祈るような気持ちで研究棟の扉に手をかけると、意外なことに軽く扉が開いた。

 

「えっ!?な…なんで?開いてるわけが……?で、でも…チャンス…なの?」

 

この研究棟は下層階はともかく、上層階には民間企業や外部研究所のトップシークレットの研究が数多く行われている。仮に夜中に不心得者が侵入しデータなどを奪われでもしたら、アナスタシアの信用はガタ落ちになるため、この研究所のセキュリティは特に厳重との話だった。鍵を閉め忘れるなんてことはあり得ない。

シオンの頭に様々な考えが浮かんだが、このまま闇雲に逃げ回っているよりはいくらかは事態が好転するはずである。シオンは意を決して研究棟の中に入った。

 

「あらあら…やっぱり入ったわね。うふふふ…如月さん、罠というのはね、奥に行けば行くほど脱出が難しくなるのよ?」

 

冷子は満足げにシオンを見送ると、携帯電話でどこかに電話をし始めた。