いさあき(http://isaaki.web.fc2.com)さんの描かれたイラスト、「端境さん」で二次創作させていただきました。

こちらの絵はいさあきさんが描かれるイラストの中でも特に好きなものです。
「和服とマスク」「彼岸花と向日葵」「和傘と傷跡」など、どこかアンバランスで不穏な空気感。「端境さん」自体の美しいけれど虚ろでどこを見ているのかわからない表情。どのようにでも解釈ができるとても懐の深い絵なので、書いていてとても楽しかったです……。
今回は初めて文庫本サイズで書いてみたのですが、やはりイラストが無ければこちらの方が読みやすい気がしますね。
後半にいつも通りテキストを載せますが、文庫本サイズのPDFもダウンロードできるようにしてありますので、お好きな方でお読みください。
いさあきさん、ありがとうございました!
_PDFはこちらから
※リンクが開けない場合は下記URLをそのままコピーしてブラウザでお読みください
http://roomnumber55.com/端境.pdf
_テキストは「続きを読む」からご覧ください。

こちらの絵はいさあきさんが描かれるイラストの中でも特に好きなものです。
「和服とマスク」「彼岸花と向日葵」「和傘と傷跡」など、どこかアンバランスで不穏な空気感。「端境さん」自体の美しいけれど虚ろでどこを見ているのかわからない表情。どのようにでも解釈ができるとても懐の深い絵なので、書いていてとても楽しかったです……。
今回は初めて文庫本サイズで書いてみたのですが、やはりイラストが無ければこちらの方が読みやすい気がしますね。
後半にいつも通りテキストを載せますが、文庫本サイズのPDFもダウンロードできるようにしてありますので、お好きな方でお読みください。
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端境
好きな人がゐた
彼女との待ち合わせの二時間ほど前に、僕は三鷹駅に着いた。
大きな手土産を駅のロッカーに預けて、駅前に掲示されている地図で目的地の寺を確認する。駅から近くはないが歩けなくもないというくらいの距離だったので、僕は少し迷ったが歩いて行くことにした。夏の終わりにもかかわらず蒸し暑い日で、その上僕はかっちりとしたスーツを着ていたのでよほどタクシーを使おうか迷ったが、少しでもこの街の様子や雰囲気を知っておきたかったからだ。
もしかしたらこの街が、僕の第二の故郷になるのかもしれない。
今日は寺に行った後は彼女と合流して、結婚の許しをもらうために彼女の実家に挨拶に行く日だ。その場で意気投合して結婚の許しをもらえるかもしれないし、もしかしたら殴られるかもしれない(できれば前者の方になってもらいたい)。寺に行くのは彼女の実家に挨拶に行く前に、先に彼女の御先祖様に挨拶をするべきだろうと思ったからだ。それに少しだけ後押しをしてほしいという下心もあった。
「いいお寺なの。そんなに大きくはないけれど、有名な文豪のお墓もあるのよ」と、以前食事をした時に彼女は遠くを見るように言った。「そこだけ周りから切り取られたようにとても静かなの。まるで端境(はざかい)みたいな……」
「端境?」僕は飲んでいたビールを置いて聞き返した。「端境って、例えば秋口に商品の入れ替え時期で閑散としている……あの端境のこと?」
「端境は本来は結界や聖域に近い意味もあるのよ。あのお寺は……そうね、どこかあの世とこの世の境目みたいな雰囲気なの。墓地に入るととても静かで、柵の向こうはすぐに幹線道路なのに不思議と車の音が聞こえなくなるのよ。ただ、聖域というか……やっぱりあそこは端境だわ」
僕は彼女が言った言葉を頭の中で反芻した。その中の「端境」という言葉は他の単語が綺麗に僕の思考を流れ落ちた後でも、ずっと僕の頭の片隅に引っかかっているような気がした。
寺にたどり着く頃には僕はタクシーで来なかったことを心の底から後悔していた。スーツの上着を脱いで手に掛け、空いている手に持ったフェイスタオルでしきりに汗を拭う。その寺の敷地は長辺が極端に長い長方形で、入り口は駅から反対方向の一箇所のみ。もう随分前から寺の敷地の横を歩いているものの、入り口にはなかなかたどり着かなかった。背の高い生垣の内側は墓地らしいが、大きな木が等間隔に生えているということ以外は中の様子がわからない。地方の墓地と比べて閉鎖的で、彼女の言う通り確かに結界的な造りと言えなくもなかった。
ようやくたどり着いた山門を抜け、本堂にお参りを済ませてから事務所で彼女の家の墓の場所を聞く。どうやら墓地の一番奥にあるらしい。方丈の横の狭い通路を抜けて、無縁仏の慰霊碑の脇を通って墓地へと踏み入れると、温度も湿度も下がったような気がして濡れたシャツの背中がひんやりと冷たくなった。
打ち水がされた石畳の上を沈香の香りが柔らかく漂っている。
車の音がほとんど聞こえなくなり、葉擦れの音に混じってヒグラシがどこか遠くで鳴いていた。
いずれも古くからあるだろう墓石はまるで頭を下げて黙祷を捧げる老兵の様に、木漏れ日を浴びながら静かな時間の流れの中に佇んでいる。
僕は一言も発さずに、教えられた通り墓地の奥へと進んだ。自分の足音がやけに大きく響いて軽く目眩がする。沈香の香りが強くなった。誰かが上等な線香を炊いたのだろう。僕は線香を持って来なかったことを少し後悔した。
突き当たりの角を曲がると、紅い色が目に入った。
その紅色は、主に灰色と緑と茶色で構成された墓地において宙に浮かんだ真新しい傷の様にくっきりと浮かび上がって見えた。
それは暗い紅色をした和傘だった。その傘の持ち主はお参りするでもなく墓の階段に座り、香炉に背中を預ける様にして俯いている。花立てにはやや季節外れの萎れかけた向日葵が挿さっていた。僕は訝しげに眉をひそめたままゆっくりと近づいた。その人は男性で、今時珍しくしっかりと仕立てられた着物を着ていた。羽織や帯に至るまで乱れは全く無いが、なぜか草履を履いておらず素足は泥で汚れていた。傍には彼岸花の挿さった手桶と柄杓があったが、男は彼岸花を生けるでもなく、その存在を忘れてしまったかの様にただ俯いている。男の背後にある墓石を見ると、彼女の苗字が刻まれていた。
「すみません」と僕は男に声をかけた。「岩沢さんの、ご親族の方でしょうか?」
男は本当にゆっくりとした動作で顔を上げた。それは一日のエネルギーを使い切る大仕事の様な動作だった。虚ろな目が、僕かもしくは僕の背後の空間を見つめている。格好に似合わない大きめのマスクで口を覆ってはいたが、顔つきも整っているように見えた。年齢も自分とそう変わらないだろう。しかし、ようやく男の全体像が把握できたと同時に僕はぎょっとした。和傘を持っている男の左手首には痛々しい切傷の痕が何本も走っていた。ろくに手当てをしなかったのだろう。傷はミミズ腫れや青黒い色素となってくっきりと残っている。右手首にも真新しい包帯が巻かれていた。おそらくあの下にも自傷の痕があるのだろう。
僕の動揺を男が悟ったのかはわからないが、男は僕から目を逸らしながらマスクの中で微かに口を動かした。
「……すみません」溜息と聞き間違えるような声で男は言った。「すぐに退きますので……本当に申し訳ありません」
「いえ、その……」
「……怪しい者ではありません」
怪しむなという方が無理だが、豹変して襲ってくる感じではない。僕が面食らっていると男は難儀そうに腰を上げて、傘を引き摺るようにして墓地の入り口へ向かって歩き出した。男が彼岸花と手桶を残していったことに気がついたのは、男の姿が見えなくなった後だった。
※
「それで、その後どうなったの?」と彼女は僕の横の布団でうつ伏せになり、興味深そうに頬杖を付きながら言った。
僕は結婚の許しをもらえた安心感から、脱力したように仰向けに寝ながら天井を見上げていた。おそらく彼女の御先祖様が味方をしてくれたのだろう。彼女の父親とは思いの外話が弾み、酒が深くなった頃合いで彼女の父親が泣き笑いの状態でよろしく頼むと言われ、僕はつられて泣き、その様子を見て彼女は爆笑した。飲み過ぎて泊まっていくことになり、明日の朝一で職場に休暇申請の電話をしなければならなくなったのは予想外ではあったが、結果を考えれば些細なことだ。
「どうもこうもないさ。追いかけるわけにもいかないから、気を取り直して予定通りお参りを済ませたよ。残された彼岸花は捨てるには忍びないし、かといってお墓に生けるのも気持ちが悪いから、結局お寺の事務所に事情を話して預けちゃったよ」
「まぁ」
「仕方ないさ。それに、君も心当たりがないんだろう?」
「私達くらいの歳で和服を着て、両手にリストカットの痕がある親戚はいないわね」
「何だったんだろうな。まぁ、少なくともまともな精神状態の人じゃないさ。明日にはまた別の墓地で同じことをやっているかもよ?」
「そうかしらね……」
「そうとも。ああいう類の人間には関わらない方が身のためさ。特に自傷行為のある人間は他人を傷つけることを厭わないかもしれないだろ」
「でも、何か事情あると思うわ。精神の病気や強いショックで一時的に突飛な行動を取っているのかもしれないし、もしかしらら苦しんでいるのかもしれないじゃない」
「だからと言って、僕達にできることはなにも無いよ」
「……ねぇ、私も一時期本当に酷かった時があるのよ。家族に手を握ってもらわないと眠れないし、トイレに行くのだって本当に辛い時期があったの。心の病というのは本当に辛いのよ。自分でも気がつかないけれど、その時は自分が世界で一番ダメで、出来損ないで、いない方が世の中にとって有意義に違いないと心の底から信じてしまうの。この世の不幸は全て自分の責任だと思って悲観に暮れる状況が想像できる? あなたには冗談の様に聞こえるかもしれないけれど、世の中から戦争や飢餓が無くならないのは自分のせいなんだって本気で思うのよ。少なくとも飢餓は自分が食べなければ別の誰かが食べられるようになるって思うの」
「わかる気がするよ」と、僕は彼女を見ずに言った。
「わかっていないわ。あなたはそれがどこか遠くの世界の出来事のように思っているでしょう? ねぇ、そういう状態ってしかるべき理由があれば誰でもなるの。事故に遭って足に障害を負った人となんら変わらないのよ。だからそういう時に障害を持った人達が頑張る番組を観ると本当に辛いの。この人たちが頑張っているのになぜお前はダメなんだ、頑張っていないんだって言われているみたいに」
「わかった、悪かったよ」と僕は天井から落ちてくるボールを受け止めるように手を出しながら言った。「君がそういう状態だったというのは意外だったから、少し驚いたんだ。それに、彼に対してももう少し考えるべきだった。もしまた彼に会うことがあったら事情を聞いてみるよ。ただ、今日は多分僕の人生の中で最高の日なんだ。君と結婚できることになって本当に嬉しいから、できればその気持ちにもう少し浸っていたいんだ。正直言って彼の話題で余韻に水をされるのが嫌だったから、冷たい言い方になってしまったのは謝るよ」
「……そうね。私も今日が人生で一番最高の日よ。今のところはね」
「今のところは?」
「子供が出来たら、今日が人生で二番目に良い日になるじゃない」
「それもそうだな」と言って僕は笑った。彼女も「変な話をしてごめんなさい」と言って笑っていた。
三鷹駅までは彼女と彼女の父親が車で送ってくれた。二人と別れる前に彼女の父親は土産としてぼた餅を手渡しながら、「娘をよろしく頼むよ」と言って僕の手を強く手を握った。僕も同じ強さで握り返した。絶対に離さないぞと僕は思った。彼女の父親の運転する車が見えなくなるまで見送ると、僕は鞄の中に忍ばせていた香水をスラックスを捲って足首に振りかけた。全国展開しているドラッグストアで買ったもので、それが夏向きの香りかどうかはわからないし、そもそも僕は香水に関して造詣が深くない。ただなんとなく人気があるのなら不快な香りではないのだろうということと、もうすぐ中年の域に達しているのに香水のひとつも持っていないことに若干の後ろめたさを感じたから買ったものだ。お守りがわりに持ち歩き、仕事や個人的な用事で大きな出来事が起こった時に気持ちの切り替えにつけるようにしている。今日は人生における一大イベントが大成功ののちに幕を閉じたのだから、香水をつけるには絶好の機会だ。微かな茶と樹木を思わせる香りは僕に昨日の出来事を思い起こさせた。
あの男は今頃何をしているのだろうか。
彼女は今日も実家で過ごすらしいので、特に予定の無い僕はタクシーに乗り、昨日行った寺の名前を告げた。
その男は昨日と同じ姿勢で彼女の家族の墓の階段に座っていた。相変わらず大きめのマスクをして、薄灰色の着物を上品に羽織り、左手に紅色の和傘を持ち、手桶に指した彼岸花を傍に置いている。花立の向日葵は昨日よりも更に萎れかけていた。男は僕に気がつくと、昨日と同じように僕か、あるいは僕の背後の空間を見た。
「悪い意味と受け取ってほしくはないのですが」と僕は男に向かって言った。「少なくとも墓に座ることは決して行儀がいいとは言えないですし、僕はこの墓の関係者です。できればどいていただけるとありがたいのですが」
「……夏の日は」と男は言った。声は小さいが、綺麗な発声法だった。「いえ、すみません。ご迷惑をおかけしました」
男はゆっくりと立ち上がり、昨日と同じように傘の先を引き摺って墓地の入口向けて歩き出した。
「ちょっと待って下さい」
僕は男の手首を握りながら言った。男はかくんと力が抜けたように歩を止めた。「一体なんなんですか? この家の家族も、あなたなんて知らないって言っていますよ。関係無いならできればもうここに来ないでくれませんか。百歩譲っても、他の墓に座っていて下さい。そうすれば僕は一切声をかけないし、見て見ぬ振りをしますから」
男はゆっくりと僕を振り返った。相変わらずその目は僕を見て、同時に僕を見ていなかった。
「……貴方は、このお墓に縁のある方でしょうか?」と男は言った。
「ごく近い将来そうなります。この墓は僕の婚約者の家族のもので、昨日結婚の許しを貰えました。昨日も今日も彼女の御先祖に挨拶をしに来たのに、あなたがいるお陰でそれができない。はっきり言って迷惑なんですよ」
さっと風が吹いて、沈香の香りがふわりと漂ってきた。男は相変わらず僕かあるいは僕の背後の空間を見ながらマスクの中で口を動かした。
「……夏は残酷です。春以上に草花は育って、虫たちはけたたましく鳴く。こんなにも生命が溢れている季節は、私にあの人がもういないことを容赦なく思い起こさせます」
「……なんの話ですか?」と僕はいらだちを隠さずに言った。男は目を伏せる。男の視線を追うと、男の汚れた素足があった。僕はいたたまれない気持ちになり、握っていた男の手首を離した。おそらくその手首には、昨日見たときと同じ様な切り傷が何本も走っているのだろう。「……お茶でも飲みましょう。奢りますよ」と自分でも意外な言葉が勝手に口から溢れた。この男に興味が湧いたのか、あるいはあまりにも哀れに思えたのかもしれないし、昨日彼女から言われた言葉が原因かもしれない。
男は相変わらず自分の足を見ながら「……すみません。帰らなければいけないので」と言った。
「なら家に行ってもいいですか? ちょうどぼた餅を持っています。勝手なことを言っているのはわかっていますが、他人の墓に座り込むなんてなんて普通じゃない。このお墓に座っていたのも何かの縁だ。話くらいは聞かせてもらってもいいでしょう?」
自分でも驚くほどの強引さだった。
男は僕と目を合わさずにゆっくりとした動作で背中を向けると、墓地の入口に向かって歩き出した。拒否をされている様子ではないので、僕は勝手に男の後について歩いた。山門をくぐり、駅とは反対方向に向かって歩く。男はゆっくりとした足取りで進み、僕は一定の距離を置いて男の後に続いた。会話は全く無い。しばらくすると男は住宅地の中に入り、小さな神社の裏側にある古民家の門をくぐった。板張りの壁に、黒く分厚い瓦屋根の平屋で、そこだけ過去から切り取ってきた様な家だ。男は玄関の引き戸を開け(男は鍵をかけていなかった)、上がり框から続く廊下のすぐ左にある部屋に入った。そこが茶の間らしい。上がり框には男の足に付いていた泥がそのまま足跡になっていたので、僕はそれを避けて靴を脱いで男の後に続いた。
茶の間は八畳ほどの広さで、赤茶色の天然木のちゃぶ台が中央に置かれていた。部屋の奥には床の間と、その横に仏壇。男は仏壇を見るように下座に座っていたので、僕は失礼と言いながら上座に座った。男はまるで今朝からずっとその姿勢でいたみたいに、ちゃぶ台の一点をじっと見つめている。追い返す風でもないが、歓迎している風でもない。おそらくその様子は僕がいてもいなくてもほとんど変わらないのだろう。しばらく無言が続いた後、男は思い出したように立ち上がって部屋を出て行った。もやもやした気持ちで待っていると、盆を持って戻って来た。盆の上には湯呑みと、干菓子を載せた木の皿がひとつずつ乗っていた。
「粗茶ですが」と、男は湯呑みと干菓子を僕の前に置きながらマスクの中で静かに言った。
「今更ですが、強引に上がり込んですみません」僕はぼた餅の箱をちゃぶ台に乗せながら言った。男は恭しく両手で箱を持ち、少し自分の方に寄せた。僕は「あなたのお茶は?」と訊いた。
「……あまり飲食をしないので」
「そうですか……」
会話が途切れた。僕は手持ち無沙汰になり、拝むような動作をしてから茶を飲んだ。茶葉の甘みがしっかりと出ている。高級品ではないが、正しい手順で淹れられた煎茶だ。干菓子も上品な甘さで質の良いものだった。
「その手首の傷ですが」と、僕は迷ったが思い切って訊くことにした。「自分で……したものですか?」
男は何も言わず、三秒ほど目を閉じた。頷いた様に僕は感じた。しばらくしてから「悲しくなると、つい……」と男は小さな声で言った。
「大切な人を亡くされた?」と僕は訊いた。
男は小さく頷き、包帯の巻かれた右手で僕の背後を指差した。振り返って仏壇を見ると、位牌と伏せられた遺影があった。
「まだ信じられないので、遺影を見るのが辛いのです。未だにどうしていいのかわかりません……」男はため息の様な声で言った。「婚約者でした……一緒に幸せになれると信じていました。ですが入籍の直前に事故で……。私のせいなんです。私と出会わなければ、彼女は今でも生きていたはずなんです。彼女には本当に悪いことをしました。神様は、僕がどうすればより悲しむのかを知っています。僕を殺さずに、彼女を殺せば僕が更に悲しむと思って、彼女を殺したのです。僕にとって悲しみや不幸というものは、いつも傍にありました。それは真夜中の切り立った崖の様に、巧妙に姿を隠しながらも常に口を開けています。そして僕はその崖に落ちてしまい、あまつさえ彼女の手も引っ張ってしまったのです……」
男は僕の後ろの伏せられた遺影を見た。「彼女と一緒なら幸せになれると思っていました。彼女ももしかしたら、そう思っていたのかもしれません。でも、世の中にはどんなに頑張っても幸せになれない人間が一定数いるのです。私がそうです。私は幸せだなんて思ってはいけなかった。夏の終わりに蝉が一斉に死んで、替わりに鈴虫が鳴き始める様に、私の幸せはある一定のラインを超えると全て悲しみに変わってしまうのです。それも大切な人を巻き込んで……」
「……考えすぎだと思いますよ。確かに不幸な話です。とてもお気の毒だとは思います。ただ、そんな風になっているあなたを見て、彼女は喜ぶでしょうか? 僕の彼女も昔、酷い状態になったらしいです。世の中の全ての不幸を自分のせいだと本気で信じていたらしい。あなたも同じ状態ではないでしょうか」と、僕はつっかえながら言った。僕はなんとか励ますつもりで言葉をつないだが、それらはコーヒーに入れられたプラスチックの粉の様にいつまでも溶けずに空間を漂った。
「……すみませんが、お引き取りいただけるでしょうか」と男は申し訳なさそうに言った。「誰かと話をしたのは久し振りです。話を聞いていただけてありがとうございます。ですが、このままでは貴方まで私の不幸に巻き込んでしまうかもしれない。私は今後死ぬまで誰とも関わらない方が良いのです。あなたを私の不幸に巻き込みたくはありません。どうか気を悪くしないでください……」
それが男と交わした最後の言葉だった。
僕は茶と菓子の礼を言い、男を残して家を出た。時刻は午後五時を回っており、日はやや傾きはじめている。季節は着実に秋へと進んでいるようだ。石を飲み込んだような気持ちのまま大通りへ出る。なんでもいいから酒を飲みたくなった。できれば度数の強いやつがいい。どうせこの後は何も予定が無いし、駅前に行けば飲む場所には困らないだろう。歩きながら男のことを考えた。あの虚ろな目。あれは誰の助けも求めていない目だ。男は全てを自分のせいにして、同時に他人に対して一切の期待をしていない。ただ時が過ぎて、全てが終わるのを静かに待っているだけだ。男の言っていた不幸話は実際に起こったことなのか、それともただの妄想なのかはわからないが、彼が酷い状態にあることは確かだ。彼女の言葉が蘇る。もしかしたら僕もしかるべき理由があれば、あの男のような状態になるのだろうか。
墓地の横を通った時、駐車場に見覚えのある車が停まっていることに気がついた。彼女の家の車だ。僕が駐車場に入と同時に、彼女が墓地の入口から出てきた。閉門時間が迫っているのだろう、他にも老夫婦や家族連れが何組か出てきた。彼女は僕に気が付くと驚いたような顔をして手を振りながら、もう一方の手を口の端に当てて「なんでここにいるの?」と聞いた。狭い駐車場だが、僕と彼女の位置はそれなりに距離がある。
「ああ、ちょっとね」と、僕は彼女に向かって早足で歩きながら言った。自然と顔がほころぶ。なんという幸運の偶然だろう。途中すれ違った老夫婦と会釈をし合うと、僕の足はさらに早くなった。「近くに仕事関係の知人が住んでいるから寄っていたんだ。せっかくだから君の家族のお墓にお参りしてから帰ろうと思ってね」
男と茶を飲んだことは伏せることにした。もう彼との関わりは終わりだ。僕にはこの幸せを噛みしめる権利があるし、これ以上男のことを考えなければならない義務もない。
「お参りするなら言ってくれればよかったのに」と、彼女は笑顔を見せながら言った。「せっかくだから一緒に行きましょうよ。揃って挨拶した方がご先祖様も喜ぶわ」
僕は「それは良いね」と言った。
なんて穏やかな気分なのだろう。まるで新しい人生が始まったようだ。そしてその人生は素晴らしいものになるに違いない。
背後から甲高い摩擦音がした。
振り返った。
車。
音を立てて僕に向かってくる。
一瞬フロントガラスの中が見えた。先ほどすれ違った老夫婦。悲鳴をあげるように口を開けた男性がハンドルにしがみついている。
一瞬時間が止まった様に動けなくなった。
自分の身体を引っ張る様に咄嗟に横に飛ぶ。
ごとんという重い音と共に左の足首に衝撃が走った。躱せたものの、踏み切った左足の先をタイヤが乗り上げたらしい。おそらく折れているのだろうが、あまりのことに感覚が追いつかず痛みはなかった。
そうだ、彼女は?
上体だけを動かして彼女のいたあたりを見る。
車はそこに向かって突っ込んで行った。
悲鳴。
彼女のものだ。
神様。
紅……。
彼女に向かって突進して行った車は大きな音を立てて植え込みに突っ込んで止まった。
事務所の中にいた職員が飛び出して車に向かって走り、運転席から老夫婦を引き摺り出した。駐車場にいた人達も水を打たれた様に呆気にとられていたが、はっと気がつくと駆け足で車や彼女のいた場所に走った。おい大丈夫か、しっかりしろという声が聞こえた。彼女の姿は人集りに遮られて見えない。僕はでたらめに彼女の名前を呼びながら、文字通り這って行った。頬が熱い。自分が泣いているのがわかった。人垣の前まで来て声をあげた。おい、どいてくれ。その人の家族だ。這いつくばる僕の姿を見て、人垣が分かれた。
彼女がいた。
縁石に寄りかかる様に座り込み、頭を抱えて号泣していた。僕が彼女の名前を呼ぶと、彼女は僕の方を向いて一瞬表情を無くした。
無事だったとわかり、僕は呻きながら彼女の側まで這った。途中、何か硬いものに触れた。
ぼろぼろに壊れた、紅色の和傘だった。
※
「アクセルとブレーキを踏み間違えらたしいです」と病室に来た中年の警察官は言った。「残念ながらよくあることです。本人はブレーキを踏んでいるつもりでも、実際に踏んでいるのはアクセルだから車はどんどん加速する。パニックになってさらにアクセルを踏み込む……。あの夫婦は免許を返上すると言っています」
「賢明な判断ですね」と僕はギプスで固められた左足を見ながら言った。「ニュースではよく聞くけれど、まさか自分の身に起こるとは……」
「そういうものですよ。通り魔に刺される、車に轢かれる、ひったくりに遭う……。ほとんどの人が、急な話だが明日の正午にロケットで月に行ってくれと言われるくらい自分には起こり得ない出来事だと思っていますが、決してそんなことはありません。宝くじで一等が当たる確率よりも、宝くじを買いに行く途中で交通事故に遭う確率の方が高い。ほとんどの人は事が起きてから後悔するんです」
警察官はバインダーに挟んだ書類にいくつか書き込みをすると、お大事にと言いながら出て行った。
「あなたが一番重症だったらしいわね」と彼女は軽く笑いながら言った。
「そうらしい。他の人は大体打撲で、車を運転していた夫婦も退院したみたいだし」と僕も釣られて笑った。「この程度で済んで良かった。あの時は本当にもしかしたら……って思ったよ。もし君がいなくなっていたら、僕はこの病院の屋上から飛び降りていたさ」
彼女はふっと下を向きながら「そんなこと言わないで」と呟いた。それから迷う様に外を見ながら言った。「ねぇ、あの和傘、本当に彼の物なの? 見間違いじゃなくて?」
「見間違えるもんか。今時あんな和傘、仲見世のお土産くらいでしか見ないだろう? 間違いなく彼のものだよ。退院したらお礼に行くさ。なにせ君の命の恩人だ」
「ええ……」と彼女は胸のつかえを吐き出す様に言った。「その彼なんだけど……」
「なんだい? やっぱり親戚の誰かに心当たりが?」と僕は身を乗り出して訊いた。
「いえ……ちょっと気になることがあって昨日行ってみたのよ。ただ、あなたが言った場所には誰も住んでいない古い家しかなくて……」
「……誰も住んでいない?」
「ええ。一応家の中も覗いてみたんだけど、おそらく何年もあのままって感じよ。あなたが言っていた仏壇みたいなものもあったんだけど、遺影は無かったと思うわ」
足元の床が無くなった様な気がした。
何年も人が住んでいない家?
なら、あの男は一体何者なんだ。
「……だって僕は彼とお茶を」
「その彼なんだけど」と言うと彼女は振り返って窓の外から僕に視線を移した。彼女は僕の顔をじっと見て、ふと視線を逸らし、思いつめた様に再び真っ直ぐに僕を見つめた。「彼……あなたと同じ顔をしていた気がするのよ……」
「……なんだって?」と僕は言った。僕はおそらく顔中の筋肉が無くなった様な表情をしていただろう。
「咄嗟のことだったから確信は無いんだけど、彼……でいいのかしら? 彼に突き飛ばされて縁石の近くに倒れこんで、誰が助けてくれたんだろうと思ってすぐに私がいた場所を振り返ったの。同時に車が突っ込んで、その人は撥ねられてしまった……。一瞬だけ顔が見えて、あなたにとてもよく似ていたから私、最初はあなたが助けてくれたと思ったの。背筋が凍るってあのことを言うのね……。とんでもないことになってしまったと思って、私怖くてその場所を見られずに泣いていたの。そしたらあなたの声が聞こえて、あなたが這ってきて……」
「その彼は……和服を着て、マスクをしていなかった?」
「そこまではわからないわ。一瞬だったし……。ただ、あなたに似た顔だけがとても印象に残っていて……」
僕は何かを言おうとして口を開いたが、言葉は何も出てこなかった。
頭の中はひどく混乱している。
墓の階段に座る男。
上質な着物。
裸足。
紅色の和傘。
彼岸花。
泥で汚れた廊下。
仏壇。
伏せられた写真。
──入籍の直前に事故で……。
まだ信じられないので、遺影を見るのが辛いのです。
──あそこは端境だわ。
もしかしたら、あの伏せられた遺影には、目の前にいる僕の彼女が写っていたのではないか。
「はざかい……」と僕は確かめる様に言った。
「端境?」と彼女は訊いた。
もしかしたら彼は、運命の端境の向こう側に落ちてしまった僕自身だったのではないか。たとえばあの時彼女が死んでしまっていたら、僕は……。
──もし君がいなくなっていたら、僕はこの病院の屋上から飛び降りていたさ。
いや、確実になっていた……。
──そういう状態ってしかるべき理由があれば誰でもなるの。
「彼はなんで私を助けてくれたのかしら?」と彼女は言った。
「おそらくだけど……」と僕は彼女を見ながら言った。「今度こそ、恋人を助けたかったんじゃないかな」
好きな人がゐた
彼女との待ち合わせの二時間ほど前に、僕は三鷹駅に着いた。
大きな手土産を駅のロッカーに預けて、駅前に掲示されている地図で目的地の寺を確認する。駅から近くはないが歩けなくもないというくらいの距離だったので、僕は少し迷ったが歩いて行くことにした。夏の終わりにもかかわらず蒸し暑い日で、その上僕はかっちりとしたスーツを着ていたのでよほどタクシーを使おうか迷ったが、少しでもこの街の様子や雰囲気を知っておきたかったからだ。
もしかしたらこの街が、僕の第二の故郷になるのかもしれない。
今日は寺に行った後は彼女と合流して、結婚の許しをもらうために彼女の実家に挨拶に行く日だ。その場で意気投合して結婚の許しをもらえるかもしれないし、もしかしたら殴られるかもしれない(できれば前者の方になってもらいたい)。寺に行くのは彼女の実家に挨拶に行く前に、先に彼女の御先祖様に挨拶をするべきだろうと思ったからだ。それに少しだけ後押しをしてほしいという下心もあった。
「いいお寺なの。そんなに大きくはないけれど、有名な文豪のお墓もあるのよ」と、以前食事をした時に彼女は遠くを見るように言った。「そこだけ周りから切り取られたようにとても静かなの。まるで端境(はざかい)みたいな……」
「端境?」僕は飲んでいたビールを置いて聞き返した。「端境って、例えば秋口に商品の入れ替え時期で閑散としている……あの端境のこと?」
「端境は本来は結界や聖域に近い意味もあるのよ。あのお寺は……そうね、どこかあの世とこの世の境目みたいな雰囲気なの。墓地に入るととても静かで、柵の向こうはすぐに幹線道路なのに不思議と車の音が聞こえなくなるのよ。ただ、聖域というか……やっぱりあそこは端境だわ」
僕は彼女が言った言葉を頭の中で反芻した。その中の「端境」という言葉は他の単語が綺麗に僕の思考を流れ落ちた後でも、ずっと僕の頭の片隅に引っかかっているような気がした。
寺にたどり着く頃には僕はタクシーで来なかったことを心の底から後悔していた。スーツの上着を脱いで手に掛け、空いている手に持ったフェイスタオルでしきりに汗を拭う。その寺の敷地は長辺が極端に長い長方形で、入り口は駅から反対方向の一箇所のみ。もう随分前から寺の敷地の横を歩いているものの、入り口にはなかなかたどり着かなかった。背の高い生垣の内側は墓地らしいが、大きな木が等間隔に生えているということ以外は中の様子がわからない。地方の墓地と比べて閉鎖的で、彼女の言う通り確かに結界的な造りと言えなくもなかった。
ようやくたどり着いた山門を抜け、本堂にお参りを済ませてから事務所で彼女の家の墓の場所を聞く。どうやら墓地の一番奥にあるらしい。方丈の横の狭い通路を抜けて、無縁仏の慰霊碑の脇を通って墓地へと踏み入れると、温度も湿度も下がったような気がして濡れたシャツの背中がひんやりと冷たくなった。
打ち水がされた石畳の上を沈香の香りが柔らかく漂っている。
車の音がほとんど聞こえなくなり、葉擦れの音に混じってヒグラシがどこか遠くで鳴いていた。
いずれも古くからあるだろう墓石はまるで頭を下げて黙祷を捧げる老兵の様に、木漏れ日を浴びながら静かな時間の流れの中に佇んでいる。
僕は一言も発さずに、教えられた通り墓地の奥へと進んだ。自分の足音がやけに大きく響いて軽く目眩がする。沈香の香りが強くなった。誰かが上等な線香を炊いたのだろう。僕は線香を持って来なかったことを少し後悔した。
突き当たりの角を曲がると、紅い色が目に入った。
その紅色は、主に灰色と緑と茶色で構成された墓地において宙に浮かんだ真新しい傷の様にくっきりと浮かび上がって見えた。
それは暗い紅色をした和傘だった。その傘の持ち主はお参りするでもなく墓の階段に座り、香炉に背中を預ける様にして俯いている。花立てにはやや季節外れの萎れかけた向日葵が挿さっていた。僕は訝しげに眉をひそめたままゆっくりと近づいた。その人は男性で、今時珍しくしっかりと仕立てられた着物を着ていた。羽織や帯に至るまで乱れは全く無いが、なぜか草履を履いておらず素足は泥で汚れていた。傍には彼岸花の挿さった手桶と柄杓があったが、男は彼岸花を生けるでもなく、その存在を忘れてしまったかの様にただ俯いている。男の背後にある墓石を見ると、彼女の苗字が刻まれていた。
「すみません」と僕は男に声をかけた。「岩沢さんの、ご親族の方でしょうか?」
男は本当にゆっくりとした動作で顔を上げた。それは一日のエネルギーを使い切る大仕事の様な動作だった。虚ろな目が、僕かもしくは僕の背後の空間を見つめている。格好に似合わない大きめのマスクで口を覆ってはいたが、顔つきも整っているように見えた。年齢も自分とそう変わらないだろう。しかし、ようやく男の全体像が把握できたと同時に僕はぎょっとした。和傘を持っている男の左手首には痛々しい切傷の痕が何本も走っていた。ろくに手当てをしなかったのだろう。傷はミミズ腫れや青黒い色素となってくっきりと残っている。右手首にも真新しい包帯が巻かれていた。おそらくあの下にも自傷の痕があるのだろう。
僕の動揺を男が悟ったのかはわからないが、男は僕から目を逸らしながらマスクの中で微かに口を動かした。
「……すみません」溜息と聞き間違えるような声で男は言った。「すぐに退きますので……本当に申し訳ありません」
「いえ、その……」
「……怪しい者ではありません」
怪しむなという方が無理だが、豹変して襲ってくる感じではない。僕が面食らっていると男は難儀そうに腰を上げて、傘を引き摺るようにして墓地の入り口へ向かって歩き出した。男が彼岸花と手桶を残していったことに気がついたのは、男の姿が見えなくなった後だった。
※
「それで、その後どうなったの?」と彼女は僕の横の布団でうつ伏せになり、興味深そうに頬杖を付きながら言った。
僕は結婚の許しをもらえた安心感から、脱力したように仰向けに寝ながら天井を見上げていた。おそらく彼女の御先祖様が味方をしてくれたのだろう。彼女の父親とは思いの外話が弾み、酒が深くなった頃合いで彼女の父親が泣き笑いの状態でよろしく頼むと言われ、僕はつられて泣き、その様子を見て彼女は爆笑した。飲み過ぎて泊まっていくことになり、明日の朝一で職場に休暇申請の電話をしなければならなくなったのは予想外ではあったが、結果を考えれば些細なことだ。
「どうもこうもないさ。追いかけるわけにもいかないから、気を取り直して予定通りお参りを済ませたよ。残された彼岸花は捨てるには忍びないし、かといってお墓に生けるのも気持ちが悪いから、結局お寺の事務所に事情を話して預けちゃったよ」
「まぁ」
「仕方ないさ。それに、君も心当たりがないんだろう?」
「私達くらいの歳で和服を着て、両手にリストカットの痕がある親戚はいないわね」
「何だったんだろうな。まぁ、少なくともまともな精神状態の人じゃないさ。明日にはまた別の墓地で同じことをやっているかもよ?」
「そうかしらね……」
「そうとも。ああいう類の人間には関わらない方が身のためさ。特に自傷行為のある人間は他人を傷つけることを厭わないかもしれないだろ」
「でも、何か事情あると思うわ。精神の病気や強いショックで一時的に突飛な行動を取っているのかもしれないし、もしかしらら苦しんでいるのかもしれないじゃない」
「だからと言って、僕達にできることはなにも無いよ」
「……ねぇ、私も一時期本当に酷かった時があるのよ。家族に手を握ってもらわないと眠れないし、トイレに行くのだって本当に辛い時期があったの。心の病というのは本当に辛いのよ。自分でも気がつかないけれど、その時は自分が世界で一番ダメで、出来損ないで、いない方が世の中にとって有意義に違いないと心の底から信じてしまうの。この世の不幸は全て自分の責任だと思って悲観に暮れる状況が想像できる? あなたには冗談の様に聞こえるかもしれないけれど、世の中から戦争や飢餓が無くならないのは自分のせいなんだって本気で思うのよ。少なくとも飢餓は自分が食べなければ別の誰かが食べられるようになるって思うの」
「わかる気がするよ」と、僕は彼女を見ずに言った。
「わかっていないわ。あなたはそれがどこか遠くの世界の出来事のように思っているでしょう? ねぇ、そういう状態ってしかるべき理由があれば誰でもなるの。事故に遭って足に障害を負った人となんら変わらないのよ。だからそういう時に障害を持った人達が頑張る番組を観ると本当に辛いの。この人たちが頑張っているのになぜお前はダメなんだ、頑張っていないんだって言われているみたいに」
「わかった、悪かったよ」と僕は天井から落ちてくるボールを受け止めるように手を出しながら言った。「君がそういう状態だったというのは意外だったから、少し驚いたんだ。それに、彼に対してももう少し考えるべきだった。もしまた彼に会うことがあったら事情を聞いてみるよ。ただ、今日は多分僕の人生の中で最高の日なんだ。君と結婚できることになって本当に嬉しいから、できればその気持ちにもう少し浸っていたいんだ。正直言って彼の話題で余韻に水をされるのが嫌だったから、冷たい言い方になってしまったのは謝るよ」
「……そうね。私も今日が人生で一番最高の日よ。今のところはね」
「今のところは?」
「子供が出来たら、今日が人生で二番目に良い日になるじゃない」
「それもそうだな」と言って僕は笑った。彼女も「変な話をしてごめんなさい」と言って笑っていた。
三鷹駅までは彼女と彼女の父親が車で送ってくれた。二人と別れる前に彼女の父親は土産としてぼた餅を手渡しながら、「娘をよろしく頼むよ」と言って僕の手を強く手を握った。僕も同じ強さで握り返した。絶対に離さないぞと僕は思った。彼女の父親の運転する車が見えなくなるまで見送ると、僕は鞄の中に忍ばせていた香水をスラックスを捲って足首に振りかけた。全国展開しているドラッグストアで買ったもので、それが夏向きの香りかどうかはわからないし、そもそも僕は香水に関して造詣が深くない。ただなんとなく人気があるのなら不快な香りではないのだろうということと、もうすぐ中年の域に達しているのに香水のひとつも持っていないことに若干の後ろめたさを感じたから買ったものだ。お守りがわりに持ち歩き、仕事や個人的な用事で大きな出来事が起こった時に気持ちの切り替えにつけるようにしている。今日は人生における一大イベントが大成功ののちに幕を閉じたのだから、香水をつけるには絶好の機会だ。微かな茶と樹木を思わせる香りは僕に昨日の出来事を思い起こさせた。
あの男は今頃何をしているのだろうか。
彼女は今日も実家で過ごすらしいので、特に予定の無い僕はタクシーに乗り、昨日行った寺の名前を告げた。
その男は昨日と同じ姿勢で彼女の家族の墓の階段に座っていた。相変わらず大きめのマスクをして、薄灰色の着物を上品に羽織り、左手に紅色の和傘を持ち、手桶に指した彼岸花を傍に置いている。花立の向日葵は昨日よりも更に萎れかけていた。男は僕に気がつくと、昨日と同じように僕か、あるいは僕の背後の空間を見た。
「悪い意味と受け取ってほしくはないのですが」と僕は男に向かって言った。「少なくとも墓に座ることは決して行儀がいいとは言えないですし、僕はこの墓の関係者です。できればどいていただけるとありがたいのですが」
「……夏の日は」と男は言った。声は小さいが、綺麗な発声法だった。「いえ、すみません。ご迷惑をおかけしました」
男はゆっくりと立ち上がり、昨日と同じように傘の先を引き摺って墓地の入口向けて歩き出した。
「ちょっと待って下さい」
僕は男の手首を握りながら言った。男はかくんと力が抜けたように歩を止めた。「一体なんなんですか? この家の家族も、あなたなんて知らないって言っていますよ。関係無いならできればもうここに来ないでくれませんか。百歩譲っても、他の墓に座っていて下さい。そうすれば僕は一切声をかけないし、見て見ぬ振りをしますから」
男はゆっくりと僕を振り返った。相変わらずその目は僕を見て、同時に僕を見ていなかった。
「……貴方は、このお墓に縁のある方でしょうか?」と男は言った。
「ごく近い将来そうなります。この墓は僕の婚約者の家族のもので、昨日結婚の許しを貰えました。昨日も今日も彼女の御先祖に挨拶をしに来たのに、あなたがいるお陰でそれができない。はっきり言って迷惑なんですよ」
さっと風が吹いて、沈香の香りがふわりと漂ってきた。男は相変わらず僕かあるいは僕の背後の空間を見ながらマスクの中で口を動かした。
「……夏は残酷です。春以上に草花は育って、虫たちはけたたましく鳴く。こんなにも生命が溢れている季節は、私にあの人がもういないことを容赦なく思い起こさせます」
「……なんの話ですか?」と僕はいらだちを隠さずに言った。男は目を伏せる。男の視線を追うと、男の汚れた素足があった。僕はいたたまれない気持ちになり、握っていた男の手首を離した。おそらくその手首には、昨日見たときと同じ様な切り傷が何本も走っているのだろう。「……お茶でも飲みましょう。奢りますよ」と自分でも意外な言葉が勝手に口から溢れた。この男に興味が湧いたのか、あるいはあまりにも哀れに思えたのかもしれないし、昨日彼女から言われた言葉が原因かもしれない。
男は相変わらず自分の足を見ながら「……すみません。帰らなければいけないので」と言った。
「なら家に行ってもいいですか? ちょうどぼた餅を持っています。勝手なことを言っているのはわかっていますが、他人の墓に座り込むなんてなんて普通じゃない。このお墓に座っていたのも何かの縁だ。話くらいは聞かせてもらってもいいでしょう?」
自分でも驚くほどの強引さだった。
男は僕と目を合わさずにゆっくりとした動作で背中を向けると、墓地の入口に向かって歩き出した。拒否をされている様子ではないので、僕は勝手に男の後について歩いた。山門をくぐり、駅とは反対方向に向かって歩く。男はゆっくりとした足取りで進み、僕は一定の距離を置いて男の後に続いた。会話は全く無い。しばらくすると男は住宅地の中に入り、小さな神社の裏側にある古民家の門をくぐった。板張りの壁に、黒く分厚い瓦屋根の平屋で、そこだけ過去から切り取ってきた様な家だ。男は玄関の引き戸を開け(男は鍵をかけていなかった)、上がり框から続く廊下のすぐ左にある部屋に入った。そこが茶の間らしい。上がり框には男の足に付いていた泥がそのまま足跡になっていたので、僕はそれを避けて靴を脱いで男の後に続いた。
茶の間は八畳ほどの広さで、赤茶色の天然木のちゃぶ台が中央に置かれていた。部屋の奥には床の間と、その横に仏壇。男は仏壇を見るように下座に座っていたので、僕は失礼と言いながら上座に座った。男はまるで今朝からずっとその姿勢でいたみたいに、ちゃぶ台の一点をじっと見つめている。追い返す風でもないが、歓迎している風でもない。おそらくその様子は僕がいてもいなくてもほとんど変わらないのだろう。しばらく無言が続いた後、男は思い出したように立ち上がって部屋を出て行った。もやもやした気持ちで待っていると、盆を持って戻って来た。盆の上には湯呑みと、干菓子を載せた木の皿がひとつずつ乗っていた。
「粗茶ですが」と、男は湯呑みと干菓子を僕の前に置きながらマスクの中で静かに言った。
「今更ですが、強引に上がり込んですみません」僕はぼた餅の箱をちゃぶ台に乗せながら言った。男は恭しく両手で箱を持ち、少し自分の方に寄せた。僕は「あなたのお茶は?」と訊いた。
「……あまり飲食をしないので」
「そうですか……」
会話が途切れた。僕は手持ち無沙汰になり、拝むような動作をしてから茶を飲んだ。茶葉の甘みがしっかりと出ている。高級品ではないが、正しい手順で淹れられた煎茶だ。干菓子も上品な甘さで質の良いものだった。
「その手首の傷ですが」と、僕は迷ったが思い切って訊くことにした。「自分で……したものですか?」
男は何も言わず、三秒ほど目を閉じた。頷いた様に僕は感じた。しばらくしてから「悲しくなると、つい……」と男は小さな声で言った。
「大切な人を亡くされた?」と僕は訊いた。
男は小さく頷き、包帯の巻かれた右手で僕の背後を指差した。振り返って仏壇を見ると、位牌と伏せられた遺影があった。
「まだ信じられないので、遺影を見るのが辛いのです。未だにどうしていいのかわかりません……」男はため息の様な声で言った。「婚約者でした……一緒に幸せになれると信じていました。ですが入籍の直前に事故で……。私のせいなんです。私と出会わなければ、彼女は今でも生きていたはずなんです。彼女には本当に悪いことをしました。神様は、僕がどうすればより悲しむのかを知っています。僕を殺さずに、彼女を殺せば僕が更に悲しむと思って、彼女を殺したのです。僕にとって悲しみや不幸というものは、いつも傍にありました。それは真夜中の切り立った崖の様に、巧妙に姿を隠しながらも常に口を開けています。そして僕はその崖に落ちてしまい、あまつさえ彼女の手も引っ張ってしまったのです……」
男は僕の後ろの伏せられた遺影を見た。「彼女と一緒なら幸せになれると思っていました。彼女ももしかしたら、そう思っていたのかもしれません。でも、世の中にはどんなに頑張っても幸せになれない人間が一定数いるのです。私がそうです。私は幸せだなんて思ってはいけなかった。夏の終わりに蝉が一斉に死んで、替わりに鈴虫が鳴き始める様に、私の幸せはある一定のラインを超えると全て悲しみに変わってしまうのです。それも大切な人を巻き込んで……」
「……考えすぎだと思いますよ。確かに不幸な話です。とてもお気の毒だとは思います。ただ、そんな風になっているあなたを見て、彼女は喜ぶでしょうか? 僕の彼女も昔、酷い状態になったらしいです。世の中の全ての不幸を自分のせいだと本気で信じていたらしい。あなたも同じ状態ではないでしょうか」と、僕はつっかえながら言った。僕はなんとか励ますつもりで言葉をつないだが、それらはコーヒーに入れられたプラスチックの粉の様にいつまでも溶けずに空間を漂った。
「……すみませんが、お引き取りいただけるでしょうか」と男は申し訳なさそうに言った。「誰かと話をしたのは久し振りです。話を聞いていただけてありがとうございます。ですが、このままでは貴方まで私の不幸に巻き込んでしまうかもしれない。私は今後死ぬまで誰とも関わらない方が良いのです。あなたを私の不幸に巻き込みたくはありません。どうか気を悪くしないでください……」
それが男と交わした最後の言葉だった。
僕は茶と菓子の礼を言い、男を残して家を出た。時刻は午後五時を回っており、日はやや傾きはじめている。季節は着実に秋へと進んでいるようだ。石を飲み込んだような気持ちのまま大通りへ出る。なんでもいいから酒を飲みたくなった。できれば度数の強いやつがいい。どうせこの後は何も予定が無いし、駅前に行けば飲む場所には困らないだろう。歩きながら男のことを考えた。あの虚ろな目。あれは誰の助けも求めていない目だ。男は全てを自分のせいにして、同時に他人に対して一切の期待をしていない。ただ時が過ぎて、全てが終わるのを静かに待っているだけだ。男の言っていた不幸話は実際に起こったことなのか、それともただの妄想なのかはわからないが、彼が酷い状態にあることは確かだ。彼女の言葉が蘇る。もしかしたら僕もしかるべき理由があれば、あの男のような状態になるのだろうか。
墓地の横を通った時、駐車場に見覚えのある車が停まっていることに気がついた。彼女の家の車だ。僕が駐車場に入と同時に、彼女が墓地の入口から出てきた。閉門時間が迫っているのだろう、他にも老夫婦や家族連れが何組か出てきた。彼女は僕に気が付くと驚いたような顔をして手を振りながら、もう一方の手を口の端に当てて「なんでここにいるの?」と聞いた。狭い駐車場だが、僕と彼女の位置はそれなりに距離がある。
「ああ、ちょっとね」と、僕は彼女に向かって早足で歩きながら言った。自然と顔がほころぶ。なんという幸運の偶然だろう。途中すれ違った老夫婦と会釈をし合うと、僕の足はさらに早くなった。「近くに仕事関係の知人が住んでいるから寄っていたんだ。せっかくだから君の家族のお墓にお参りしてから帰ろうと思ってね」
男と茶を飲んだことは伏せることにした。もう彼との関わりは終わりだ。僕にはこの幸せを噛みしめる権利があるし、これ以上男のことを考えなければならない義務もない。
「お参りするなら言ってくれればよかったのに」と、彼女は笑顔を見せながら言った。「せっかくだから一緒に行きましょうよ。揃って挨拶した方がご先祖様も喜ぶわ」
僕は「それは良いね」と言った。
なんて穏やかな気分なのだろう。まるで新しい人生が始まったようだ。そしてその人生は素晴らしいものになるに違いない。
背後から甲高い摩擦音がした。
振り返った。
車。
音を立てて僕に向かってくる。
一瞬フロントガラスの中が見えた。先ほどすれ違った老夫婦。悲鳴をあげるように口を開けた男性がハンドルにしがみついている。
一瞬時間が止まった様に動けなくなった。
自分の身体を引っ張る様に咄嗟に横に飛ぶ。
ごとんという重い音と共に左の足首に衝撃が走った。躱せたものの、踏み切った左足の先をタイヤが乗り上げたらしい。おそらく折れているのだろうが、あまりのことに感覚が追いつかず痛みはなかった。
そうだ、彼女は?
上体だけを動かして彼女のいたあたりを見る。
車はそこに向かって突っ込んで行った。
悲鳴。
彼女のものだ。
神様。
紅……。
彼女に向かって突進して行った車は大きな音を立てて植え込みに突っ込んで止まった。
事務所の中にいた職員が飛び出して車に向かって走り、運転席から老夫婦を引き摺り出した。駐車場にいた人達も水を打たれた様に呆気にとられていたが、はっと気がつくと駆け足で車や彼女のいた場所に走った。おい大丈夫か、しっかりしろという声が聞こえた。彼女の姿は人集りに遮られて見えない。僕はでたらめに彼女の名前を呼びながら、文字通り這って行った。頬が熱い。自分が泣いているのがわかった。人垣の前まで来て声をあげた。おい、どいてくれ。その人の家族だ。這いつくばる僕の姿を見て、人垣が分かれた。
彼女がいた。
縁石に寄りかかる様に座り込み、頭を抱えて号泣していた。僕が彼女の名前を呼ぶと、彼女は僕の方を向いて一瞬表情を無くした。
無事だったとわかり、僕は呻きながら彼女の側まで這った。途中、何か硬いものに触れた。
ぼろぼろに壊れた、紅色の和傘だった。
※
「アクセルとブレーキを踏み間違えらたしいです」と病室に来た中年の警察官は言った。「残念ながらよくあることです。本人はブレーキを踏んでいるつもりでも、実際に踏んでいるのはアクセルだから車はどんどん加速する。パニックになってさらにアクセルを踏み込む……。あの夫婦は免許を返上すると言っています」
「賢明な判断ですね」と僕はギプスで固められた左足を見ながら言った。「ニュースではよく聞くけれど、まさか自分の身に起こるとは……」
「そういうものですよ。通り魔に刺される、車に轢かれる、ひったくりに遭う……。ほとんどの人が、急な話だが明日の正午にロケットで月に行ってくれと言われるくらい自分には起こり得ない出来事だと思っていますが、決してそんなことはありません。宝くじで一等が当たる確率よりも、宝くじを買いに行く途中で交通事故に遭う確率の方が高い。ほとんどの人は事が起きてから後悔するんです」
警察官はバインダーに挟んだ書類にいくつか書き込みをすると、お大事にと言いながら出て行った。
「あなたが一番重症だったらしいわね」と彼女は軽く笑いながら言った。
「そうらしい。他の人は大体打撲で、車を運転していた夫婦も退院したみたいだし」と僕も釣られて笑った。「この程度で済んで良かった。あの時は本当にもしかしたら……って思ったよ。もし君がいなくなっていたら、僕はこの病院の屋上から飛び降りていたさ」
彼女はふっと下を向きながら「そんなこと言わないで」と呟いた。それから迷う様に外を見ながら言った。「ねぇ、あの和傘、本当に彼の物なの? 見間違いじゃなくて?」
「見間違えるもんか。今時あんな和傘、仲見世のお土産くらいでしか見ないだろう? 間違いなく彼のものだよ。退院したらお礼に行くさ。なにせ君の命の恩人だ」
「ええ……」と彼女は胸のつかえを吐き出す様に言った。「その彼なんだけど……」
「なんだい? やっぱり親戚の誰かに心当たりが?」と僕は身を乗り出して訊いた。
「いえ……ちょっと気になることがあって昨日行ってみたのよ。ただ、あなたが言った場所には誰も住んでいない古い家しかなくて……」
「……誰も住んでいない?」
「ええ。一応家の中も覗いてみたんだけど、おそらく何年もあのままって感じよ。あなたが言っていた仏壇みたいなものもあったんだけど、遺影は無かったと思うわ」
足元の床が無くなった様な気がした。
何年も人が住んでいない家?
なら、あの男は一体何者なんだ。
「……だって僕は彼とお茶を」
「その彼なんだけど」と言うと彼女は振り返って窓の外から僕に視線を移した。彼女は僕の顔をじっと見て、ふと視線を逸らし、思いつめた様に再び真っ直ぐに僕を見つめた。「彼……あなたと同じ顔をしていた気がするのよ……」
「……なんだって?」と僕は言った。僕はおそらく顔中の筋肉が無くなった様な表情をしていただろう。
「咄嗟のことだったから確信は無いんだけど、彼……でいいのかしら? 彼に突き飛ばされて縁石の近くに倒れこんで、誰が助けてくれたんだろうと思ってすぐに私がいた場所を振り返ったの。同時に車が突っ込んで、その人は撥ねられてしまった……。一瞬だけ顔が見えて、あなたにとてもよく似ていたから私、最初はあなたが助けてくれたと思ったの。背筋が凍るってあのことを言うのね……。とんでもないことになってしまったと思って、私怖くてその場所を見られずに泣いていたの。そしたらあなたの声が聞こえて、あなたが這ってきて……」
「その彼は……和服を着て、マスクをしていなかった?」
「そこまではわからないわ。一瞬だったし……。ただ、あなたに似た顔だけがとても印象に残っていて……」
僕は何かを言おうとして口を開いたが、言葉は何も出てこなかった。
頭の中はひどく混乱している。
墓の階段に座る男。
上質な着物。
裸足。
紅色の和傘。
彼岸花。
泥で汚れた廊下。
仏壇。
伏せられた写真。
──入籍の直前に事故で……。
まだ信じられないので、遺影を見るのが辛いのです。
──あそこは端境だわ。
もしかしたら、あの伏せられた遺影には、目の前にいる僕の彼女が写っていたのではないか。
「はざかい……」と僕は確かめる様に言った。
「端境?」と彼女は訊いた。
もしかしたら彼は、運命の端境の向こう側に落ちてしまった僕自身だったのではないか。たとえばあの時彼女が死んでしまっていたら、僕は……。
──もし君がいなくなっていたら、僕はこの病院の屋上から飛び降りていたさ。
いや、確実になっていた……。
──そういう状態ってしかるべき理由があれば誰でもなるの。
「彼はなんで私を助けてくれたのかしら?」と彼女は言った。
「おそらくだけど……」と僕は彼女を見ながら言った。「今度こそ、恋人を助けたかったんじゃないかな」