2018年10月21日追記

ウニコーン様からイラストをいただきました!
該当シーンに貼っておりますので、お楽しみください。
ありがとうございました!




 ──寒い──寒い──。
 俺は一体どうなっちまったんだ……?
 人妖になれたら、全てが上手くいくはずじゃなかったのか?
 冷子が裏切ったのか?
 やはり、人妖に取り入ったのが間違いだったのか?
 いや、それしか方法が無かったじゃないか。
 施設を放り出されてから、ヤクザの下働きでクソみたいな仕事をしているただのヤク中だった俺は、あのまま生きていても野垂れ死ぬだけだった。
 人妖……ジンヨウ……施設で大人達が話していた聞きなれない言葉だ。
 施設にいた頃は何のことか分からなかったが、薬の売人をしている時、偶然客から人妖の噂を聞いた。
 人妖は見た目は人間で、そいつとセックスするとクスリ以上の快楽が得られるが、依存性がハンパない……と。
 俺たちは生きた麻薬にされるための実験をされていたって訳だ。
 苦労して冷子と接触して、殺されるのを覚悟で取り入ったのに……。
 寒い……。
 くそ……寒いな……。
 何も見えないし、何も聞こえない。
 身体が上を向いているのか、下を向いているのかすらもわからない。
 酷い寒さだ……。
 あの時よりも寒い。
 俺がデブだった頃。
 集団で虐められ、泣きながら家に帰ったら「やり返すまで帰ってくるな」と家を追い出された。
 雨の降る中、屋根の無い公園のベンチで途方に暮れた。
 あの時は世界の全てから裏切られたように感じた。
 寒い。
 寒い。
 寒い。
 やり返すまで帰ってくるなだと……?
 やってやったさ!
 親に「やり返せ」って言われたから、俺はそいつらの腹を、そいつの親の目の前で掻っ捌いて中身を掻き回しながらマス掻いてやった……。
 今まで俺が受けた苦痛をまとめて一括返済してやったのさ!
 テメェらがやれって言ったくせに、たかが腹ん中ミンチにしてぶっ殺してやった程度でぐちゃぐちゃ喚きやがって!
 クソが! 死ね! みんな死ね! 死なねぇなら俺が殺してやる!
 まだ三人しか「やり返して」ねぇんだ! ふざけやがって! 死ね! 全員死ね! 苦しんでもがいて死ね!
 クラスの奴ら全員と担任を殺す──いや、唯一庇ってくれたあの女の子だけは見逃すつもりだったが……その前に取っ捕まって、少年院ではなくこの施設に入れられた。
 思えば施設に入る前も出た後も最悪だった……。
 施設では訳の分からない薬打たれたり検査や実験をされたりして、ゲロとクソを垂れ流しながら一晩中のたうち回ったことも何回もある。
 少し後に入ってきた双子の姉妹となんとなく話すようになって……。
 ……畜生。
 俺はいつも食い物にされてきた……。
 何年か経って、突然施設の中が慌ただしくなって、大人たち全員がバタバタと荷物や資料をまとめて出て行きやがった。
 スポンサーだか経営者だか、とにかく一番偉い奴が急死して、権利者の間で揉めはじめたとか言っていたが……。
 ──双子とははぐれちまったが、俺はヤバい雰囲気を感じてどさくさに紛れて逃げ出した。
 大人達のあの慌てよう……俺たちをそのまま生かしておく筈が無い。
 まぁ、双子も上手く逃げ延びたってわかって少しホッとしたがな……。
 真冬の山の中を、手術着みたいな薄い服一枚と裸足で必死に逃げた。
 なんでそこまでして生き延びようとしたんだろうな……。
 その時も寒かった……。
 今も……。
 寒い。
 寒い。
 なんだ、今も寒いじゃないか……。
 誰か暖炉に火を入れてくれよ……。
 俺の部屋の暖炉だ。薪は暖炉の横に置いてあるから……。
 誰か火を……。
 誰か……。
 高価な服も、豪華なメシも、肝心な時に役に立たないじゃないか……。
 誰か、俺の味方をしてくれ……。
 俺に大丈夫だと言ってくれ……。
 誰か……。


「もう一度言うぞ」と、美樹が眉間に皺を寄せながら冷子に言った。シオンも見たことが無いような恐ろしい表情だった。「こいつを治す方法を教えろ」
 美樹が指を指した先には、異常に脂肪が増殖した蓮斗が四つん這いで頭を抱える様にしてうずくまっている。肌の色は青白く変色し、所々に青や紫の欠陥が透けて見えた。塞がれた口腔の奥からモゴモゴとくぐもった不明瞭な声が聞こえる。何か言葉を発しているのか、ただ単に呻いているだけなのかはわからない。
 この様な姿になって、蓮斗は今何を思っているのだろうかとシオンは思った。いや、何も思っていなければいいのに。そうであってほしい……。肥満を理由に酷い虐めを受けた蓮斗にとって、脂肪に覆われた今の姿は発狂するほど堪え難いものだろう。それならば、いっそ何も考えられなくなっていた方が幸せなのかもしれない。
「そうねぇ、私なら出来なくもないわね」
 冷子が静かに言った。美樹とシオンが固唾を呑む。背後では蓮斗が微かに身じろぎした。
「でも、こうなったらもう私でも無理よ」
 冷子が再び指を鳴らす。
 背後の蓮斗が硝子を引っ掻く様な悲鳴を上げ、美樹とシオンが同時に耳を塞いだ。蓮斗は芋虫の様な指で頭を強く抱える。脂肪でぶよぶよになった頭皮に指が埋まり、一部が破れて血が滲む。
 美樹とシオンはなす術も無く呆然とその様子を見守るしかなかった。
 蓮斗はもがき苦しむ様にしばらく頭を振っていると、やがてぴたりと動かなくなる。
 少しの沈黙。
 突如、蓮斗の背中に無数の瘤のようなものがぼこりぼこりと発生した。瘤は盛り上がり、数を増やしながら独立した生き物のように蠢いている。布の破れる音。蓮斗の伸び切った赤いカットソーが破れ、中から角材のように太いカタツムリの目の様なグロテスクな触手がわらわらと溢れた。シオンが「ひっ」と小さな悲鳴をあげる。
「治験は成功ねぇ。皮膚の下にあるうちは脂肪に見えるかもしれないけれど、こいつに注入したのは私の触手の細胞に手を加えたもの。人妖になれる薬と称して、拒絶反応が起こらないように少量ずつこいつの体内に蓄積させておいたの。今、私の合図でこいつの脳に完全に浸透したわ。思考はもはや見た目通りナメクジやカタツムリと変わらない。あとは本能の赴くまま、食欲や性欲に従って暴れるだけ暴れる醜い肉塊として、自滅するまで動き続ける。今は時間をかけて複数回細胞を注入することでしか変異させることはできないけれど、いずれ粘膜から吸収可能な噴霧式で即効性を持たせることができれば、一度に大量の人間を変異させることができる。理想は感染性を持たせたウイルスタイプね……完成すれば最後の一匹になるまで人間同士で勝手に共食いを始めてくれるわ」
「そんなことさせるか!」
 顎に指を当てて満足そうに状況を分析する冷子に対して、美樹が吠えると同時に突進した。今の冷子には左腕が無い。右手に嵌めた手甲の金属部分が当たるように拳を突き出す。左手を失った冷子の、防御の薄い左側へ。手応え。蒟蒻を殴った様な異様な手応え。冷子の左肩からズルリと灰色の太い触手が生え、美樹の攻撃を受け止めていた。
「な……に……」
 美樹が歯を食いしばる。
「急ごしらえさせるんじゃないわよ……」
 冷子は右手で美樹の上着の裾を掴むと、強引に身体を引きつけて触手の砲丸の様な先端を美樹の腹に埋めた。ずぷんと鈍い音がして、美樹の背中が僅かに盛り上がる。
「ゔぶぅッ?!」
 美樹の両足が地面から浮き、腹を支点に体重が支えられる。
「無駄よ。人間が私達に勝てるわけないでしょう?」
 冷子が美樹の腹に埋まった左手の先端を捻る。ただ苦痛を与えるだけの行為に、美樹の身体は悲鳴を上げた。
「ぐぶぁッ……! ぎぃッ……」
 苦痛に耐える様に美樹が歯を食いしばる。次の一瞬、その顔が笑った。両手で冷子の腕を掴む。怪訝な顔をした冷子の視界が一瞬暗くなった。シオンが美樹の背後から飛び上がり、シャンデリアの灯りを遮る。シオンは羽のようなふわりとした優雅な動作から、フィギュアスケートのジャンプの様に勢いよく錐揉みに状に回転して冷子の首に巻き付く様な回し蹴りを放った。頚椎をしたたかに打ち抜かれ、冷子の身体が大きく傾く。人間であれば吹き飛ばされてもおかしくない威力だったが、人妖の冷子にはどれほどのダメージがあったのかは分からない。冷子の左手から解放された美樹が、無呼吸のまま右手で冷子の顎を跳ね上げる。冷子の顔が完全に上を向く。
「シオン!」
 美樹が叫ぶ。シオンが頷く。美樹がシオンに向かってバレーボールのレシーブの様に手を伸ばした。シオンが軽く跳んで美樹の手のひらに足を乗せると、そのまま美樹の押し上げる力を利用して飛び上がる。羽の生えた様な跳躍だった。シオンは膝を抱えたまま前方に宙返りを繰り返して勢いをつけると、天地が逆転した姿勢のまま落下点を確かめる。一瞬、無表情の冷子と目が合った。
 宙返りの勢いを殺さず、そのまま脚を伸ばして踵を冷子の顔面に振り下ろした……つもりだった。
 シオンの靴底は天井を向いたまま、逆さ吊りの体勢で固定された。一瞬事態が飲み込めず、無意識にスカートを手で押さえる。下を見た。にやりと笑っている冷子と目が合う。逆さ吊りのまま天井を見下ろす。視界の隅に巨大なシャンデリアが目に入った。自分の足首にカタツムリの目の様な触手が巻き付いている。
 これは……蓮斗の……。
「シオン! 危ない!」
 美樹が叫び、視線を移す。風を切る音。蓮斗の触手が猛烈な勢いでシオンの腹に埋まった。
「え……おぶぅッ?!」
 ドッヂボールほどの黒ずんだ先端がぐじゅりと腹に埋まった。体がくの字に折れ、思わず自分の腹を見る。天井の灯りを反射した触手はぬらぬらと不気味に光っていた。
「かはっ……! ぁ……」
 シオンがなんとか呼吸をしようと口を開けた瞬間、再び不気味な風切り音が耳に届いた。背中にぞくりと悪寒が走る。次の瞬間、数本の触手がシオンの腹に連続して埋まった。
「ゔッ?! ゔぁッ!? あああぁぁぁぁ!!!」
 シオンの顔に自分の吐き出した唾液が降り掛かった。一瞬失神し、スカートを押さえていた手がだらりと地面に向けて伸びる。

シオンさん腹責め


 蓮斗の触手はシオンの身体をハンマー投げの様に振り、壁に向かって叩きつけた。
「あぐッ! かはっ……ぐっ……」
 したたかに背中を打ち付けられた衝撃でシオンは覚醒こそしたものの、肺の中の空気が一気に押し出されて呼吸がままならない。足に力が入らず、背中で壁をこするようにズルズルと尻餅を着いた。
 ふっ……と視界が暗くなる。シオンが顔を上げると、蓮斗の太い触手がハンマーの様に振り下ろされようとしていた。
 シオンは無理な姿勢から転がるように横に逃れる。蓮斗の触手はそのまま振り下ろされロビーの床に大穴を開けた。
「あっ……!」
 シオンが短く叫んだ。
 触手の直撃すら免れたものの、穴に下半身が落ちかけている。
「シオン!」と、美樹が叫んだ。シオンの元に駆け寄ろうとするが、蓮斗の触手に阻まれた。
 風切り音。
 冷子の左肩から生えた触手が鞭のように伸びてシオンの手に当たり、シオンはそのまま地下に落ちていった。
 再び美樹がシオンの名を叫んだ。
 蓮斗はターゲットを美樹に変えたらしく、数本の触手を束にして美樹の腹部を狙って放った。
 美樹は舌打ちしながらサッカーボールを蹴るようにしてその触手を弾く。
「そんな姿になってまでも、お前は腹を狙うんだな……」
 美樹が呆れるように言った。
 シオンは無事だろうか。いや、無事だろう。一瞬だが、空いた穴からは病院か研究所のような空間が見えた。なぜ地下にそんなものがあるのかはわからないが、危険そうなエリアには見えなかった。落ちた程度で致命傷を負うほどシオンはヤワではない。
 冷子の姿も見えない。おそらくシオンを追ったのだろう。
「二対一の最悪の状況にならなくて良かったと言いたいところだが……」
 美樹が蓮斗に視線を移す。蓮斗は触手を使って大きな上半身を起こした。
 上着は完全に裂けて失われ、胴体の肉がスカートの様に垂れ下がって足元を覆っている。脚部が完全に肉で隠れ、座っているのか立っているのかもわからない。両手は先ほど頭を抱えた状態で肉に取り込まれ、まるで耳を塞いでいるような格好のまま固定されている。顔は二倍以上の大きさに膨れ上がり、額や頬の肉が垂れ下がって目と口がへの字型の裂け目のように見える。裂け目の中に赤い瞳が見えた。思考は読み取れない。仮にあったとしても、もはや自分自身の変化に発狂しているのかもしれない。
「蓮斗……」と、美樹がポツリと言った。「お前のことは大嫌いだし、お前の考えには全く同意できない。それに久留美を誘拐し、暴行したことは許せん。だが、そんな目に逢う運命は少しむご過ぎるな……」
 蓮斗からは汚水が泡立つような音が聞こえた。肉に阻まれた呼吸音なのか、唸り声なのかはわからない。
「辛いだろうな。太っていたことが嫌だったんだろう? それをもう一度同じ目にな……だが」
 美樹が上着の中に手を入れ、油性マジックほどの大きさの棒状のものを二本取り出す。美樹が強く振ると収納されていた中身が飛び出し、長さが三倍ほどに伸びた。折り畳まれていた取っ手も飛び出し、トンファーの形になる。美樹は慣れた手つきでトンファーを回転させながら構えた。
「人間であったら救うために最大限の努力をしたが、人妖か、それに準ずるモノになってしまったのなら私達アンチレジストの討伐対象だ。観念しろ」