次回が最終話となります。
最終話は1月25日(土)に更新予定です。





 上階から、重いものを床に叩きつけているような音が断続的に響いてくる。美樹と蓮斗の戦闘はまだ続いているのだろう。大部分がひび割れてしまった天井の石膏ボード。破片が断続的に降り落ちてくる。そのうち全体が崩落するのではないかと、シオンはわずかに不安になった。冷子を拘束してからオペレーターに回収の依頼をして、自分はできるだけ早く美樹の応援に行かねばならない。
 シオンは自分の太ももの間から顔を出している、虚な目をした冷子から視線を外し、ゆっくりと前を向いた。
 瞬間、息を飲んだ。
 状況が理解できなかった。
 冷子が右肩を押さえた姿勢のまま立っている。
 頭は?
 確かに私の下にあるのに……?
 冷子の首の部分が、灰色の細長いホースのように伸びて、シオンの肩越しに股の間の頭と繋がっている。視線を正面に戻した。冷子の身体が、早回ししたビデオ映像のようにブルルッと震えた。タイトスカートから覗く脚や、胸元の肌の色が徐々に灰色になる。ぞわりとした悪寒がシオンの背中に走った。咄嗟に視線を下げ、冷子の顔を見る。すでに顔全体がナメクジのようなマダラな灰色になっていた。瞬間、巣穴に逃げむ海蛇のように、一瞬でシオンの尻の下に引っ込んだ。冷子の頭は伸び切ったゴムが戻るように棒立ちの身体の方に吸い込まれていき、粘度の高い水面に投げ込まれた石のように「どぷん」と肩の間に沈んだ。
 まずい。
 シオンが危機を察知して立ち上がろうとした瞬間、冷子のシャツを突き破って触手の群れがぞるるっと湧き出た。
「ひっ!? きゃああッ!」
 蛇の大群のような触手が、無茶苦茶な動きでシオンに襲いかかった。冷子の身体は跡形もなく崩壊して、主人を失ったスーツだけがボロ切れのように床に残されている。触手の塊は粘液を撒き散らしながらシオンの腕や足に絡みつきながら、ものすごい力でシオンの背中を壁に叩きつけた。
「あぐッ?! な……なんですかこれ……?」
 両手足にまとわりついている触手を見ながらシオンが言った。右脚を締め付けている触手の一部がカタツムリの目のように伸びて、シオンの顔の前で先端が膨らんだ。先端は徐々に卵形の球体になると、次第に冷子の顔のような形になった。しかし形を保っているのが難しいらしく、目や鼻の形が泥のように流動的で定まらない。
「これだけは……使いたくなかったのよ……」と、冷子の顔のようなモノが言った。粘液の湖に湧き出る泡のような酷く不明瞭な声だった。「こうなると、元の姿に戻るのが大変なの。人体というのは不思議なものでね、自分の身体のことを自分以上にとてもよくわかっている。脳の記憶以上に、身体の記憶というのはとても強いのよ。だから腕や脚みたいな、身体の末端を触手化しただけだったら、その部分は脳が意識せずともすぐに元に戻る。身体の記憶を辿ってね。でも、元の身体が『コレ』だったらどうなると思う? 身体の記憶が書き換えられ、いくら脳が人間の姿を記憶していても、身体のほうが拒否してしまう。お前の元の身体は人間ではなく『コレ』だ、とね……」
 触手が寄り集まり、ボディビルダーの腕のような太さになった。シオンの瞳に怯えの色が浮かぶと同時に、撞木が鐘を突くようにシオンの腹部に突き刺さった。
「ゔっぶぅッ?! が……ごおぉぉぉぉッ!!」
 あまりの威力に胃液がこみ上げ、温かい液体がシオンの喉を逆流して床に落ちた。
 腕はさらに何本も増え、ガトリングガンの様にシオンの剥き出しの腹に埋まった。複数の極太な触手による一撃一撃が強烈なボディーブローを高速で喰らい、シオンの腹部が餅のように歪に潰れる。
「がぶッ!? ぐぇあッ!? おぼッ! ぶぐッ?! ごぇッ!」
 シオンの身体はガクガクと痙攣し、一瞬攻撃が止んだと思いきや鳩尾に強烈な一撃が突き刺さった。
「ゔっぶ!?」
 磔の状態になっているシオンは当然防御などできるはずもなく、電気ショックを受けたように身体が跳ねた。同時に触手の拘束が解かれ、シオンの身体は投げ捨てられたマリオネットのように床に崩れ落ちた。
「がっ……! ゔッ……ごぇっ……」
 シオンは亀のように身体を縮こませ、内臓からこみ上げてくる苦痛の波に耐えている。歯を食いしばってなんとか顔を上げると、霞んだ視線の先に、猫の死骸に集まった蛆虫のように蠢く触手が見えた。徐々に触手は境目を無くしてスライム状になると、床を滑るようにシオンに急接近した。スライムはそのままシオンの身体を飲み込む。温かい粘液のプールに溺れているような状態になり、シオンは一瞬天地がわからなくなった。息をすることもできず、顔から血の気がひいてくるのがわかる。
「このまま窒息させてもいいけれど……少し話をしましょうか?」と、不明瞭な冷子の声が聞こえた。直後、シオンは再び背中を壁に叩きつけられ、顔周辺の粘液が引くと同時にシオンは激しく咳き込んだ。シオンの両手足には太い触手が巻きつき、再び磔のような格好にされている。
「私がまだアナスタシアに保険医として勤めている頃、よく男子学生と話をしたわ。養分補給のための相手だったけれど、みんな良い子だった……。そして話を聞いてみると、全員が貴女のことが好きだった。酷いと思わない? 私を抱いた後にもかかわらず、貴女に対する好意や憧れを話すのよ? 貴女のことを高嶺の花だとか、別世界の存在だとか言われて……私達人妖は完璧な人間として造られたはずなのに、なんで不完全な人間の貴女の方が優れていると皆思うの? なんで私じゃなくて、貴女なの?」
 溶けたような灰色の顔がシオンに言った。表情は読み取れない。シオンは灰色の顔から目を逸らさず、黙って話の続きを待った。
「……それにね、私達試験管で造られた人妖の性器は、養分補給と、チャームや老廃物を排出することのみを目的とした器官に作り替えられているから、生殖能力を持っていないの……。ねぇ、わかる? 私は涼が好きだったし、彼の子供が欲しかった。でも、彼が生きていようと死んでいようと、その願いが叶うことはない……完璧な人間として造られた代償としてね。貴女はいいわね、子供が産める身体で……」
 細い触手が、シオンの鳩尾から下腹部までをなぞった。冷子の背後で、天井の大きな石膏ボードが落下した。
「なぜ……なぜ私達が、人間が勝手に掲げた完璧な人間などという身勝手な目標のためにこんな身体で造られて、貴女みたいなただの人間が……私達以上に……!」
「完璧な人間なんて、存在しません……」と、シオンは言った。緑色の瞳で、灰色の泥のような冷子の顔の中央にある、眼窩らしい二つのくぼみを真っ直ぐに見つめている。「生きる人は全員、なにかを抱えながら生きているんです。とても重い、その人にしか見えない荷物を背負って、みんな必死に坂を登っているんです。生きていて苦しくない人間なんていません。生まれながら完璧な存在なんて──」
 シオンの身体に巻き付いていた触手が一瞬で解け、そのままシオンの首に巻き付いた。
「がッ?! あがッ?!」
 シオンの両足が完全に浮き、絞首刑のように首に全体重がかかる。シオンは両手で首に巻き付いている触手を掴むが、密着した触手は全く解ける様子がない。
「自分への言い訳のつもり? ねぇ……知っているのよ? 貴女のお父様……ラスプーチナ家の当主を殺したのは、貴女なんでしょう?」
 ジリッ、とシオンの頭に痛みが走った。
「な……? な……にを……?」
 シオンは微かに首を振る。
「忘れたの? 全部調べたのよ。不幸な事故だったらしいわね? 国際的製薬グループの総帥として、世界中を飛び回っていた貴女のお父様が久し振りに帰ってきた。家族と使用人へのお土産をたくさん抱えてね。喜んだ貴女は勢いよく、玄関ホールの階段の踊り場で抱きついた。そして、お父様は階段から落ちてしまった……。お父様は自分の身体をクッションにして貴女を守ったけれど、打ち所が悪くて命を落とした。そして、貴女は無傷で生き残った。表向きは一人で階段を踏み外したことによる事故ということになっているけれど、ロシアにいる私達の仲間が当時の関係者から聞き出したのよ。父親殺しとはまた、随分と重い荷物だこと」
「な……? ち……がっ……」
 気道を塞がれているため、シオンは声を出すことができない。
「その様子だと、本当に覚えていないのかしら? 目の動きで嘘をついていないとわかるわ。随分と都合のいい頭をしているわね?」と言いながら、冷子はシオンの首を締める力を強めた。「でもね、この状況を作ったのは全部貴女のせいなのよ? さっきも話したけれど、貴女がお父様を殺してくれたおかげで、人妖研究最大のパトロン、ラスプーチナ家からの融資が一時的にストップした。内紛が起こっていた各国の人妖研究機関は混乱を極め、融資再開と同時に私達人妖が研究の主導権を握ることができた。本来なら貴女には感謝しなきゃいけないでしょうね? 我々人妖に多大な貢献をしてくれた一族の長女様だもの。その立場でよく人妖退治なんてやってられるわね? メイドだとか奉仕だとか博愛だとか、気持ち悪い愛想を振りまいているのは罪滅ぼしのため? 貴女を好きだった人達が貴女の正体を知ったら、なんて思うかしら?」
「く……あ……ぁ……」
 シオンは涙を流しながら、歯を食いしばって小さく首を振る。シオンの思考はすでにマッチ箱のように小さくなり、視界はやけに明るく狭くモヤがかかっている。冷子の声は聞こえているが、頭の中で言葉と意味が結びつかない。言葉はシュレッダーにかけられたようにバラバラの断片になり、ノイズの洪水となってシオンの頭の中を満たした。
 かくん……とシオンの身体から力が抜けた。
 両手はだらりと床に伸び、目は半開きになったまま光が消えている。口はだらしなく開けたまま、唾液が頬を伝って喉から胸へと垂れた。
「あ……う……くふぅっ……」
 シオンが肺の中の残りの空気を吐き出すような咳をした。
「……さようなら」と、冷子が言った。その声はもはや聞き取れないほど不鮮明だった。
「くふっ……くふ……くふふふふふふふふ……」
 突然、シオンの右手が別の生き物の様に自分の頭に伸びた。ヘッドドレスを毟るように掴み取ると、それを獲物に襲い掛かる蛇のような速さで冷子の顔に突き刺した。油断していた冷子が金属を擦り合わせたような悲鳴をあげる。ヘッドドレスの中に仕込まれていた細長い棒状の金属が、冷子の左の眼窩だった部分に突き刺さっている。冷子の顔全体が、左目を中心に肌色に変色した。シオンの両手が冷子の顔を掴む。直後、ぐしゃり……と音がして、冷子の鼻のあった部分にシオンの膝がめり込んだ。