DL発売に向けて、推敲を進めております。
イラストも完成しているため、今月末から来月上旬の登録を目指しますので、興味があればよろしくお願いいたします。



 強い北風が激しいノックのように窓を打っていた。
 窓には板が打ち付けているため、蓮斗の部屋は日光が入らず常に薄暗い。どこで買い集めてきたのか、状態の良いアンティークの調度品が所狭しと置かれている。
 天井からは様々な形の小さなランプが何個も吊り下がり、棚にはビンテージのマイセンや、真鍮でできた動物の置物がきちんとバランスを考えて飾られていた。
 暖炉にくべられた木がパチリと爆ぜる。蓮斗とテーブルを挟んで座る冷子が耳にかかった髪を直した。
 蓮斗は咳払いをすると、小さなビニールパックから微かにピンク色がかった細かい結晶を取り出して、スプーンの上に載せた。滅菌袋を破って注射器を取り出し、テーブルの上の生理食塩水を慎重に吸い上げる。スプーンの上の結晶に垂らすと、結晶は数秒で溶けた。
 蓮斗の喉がごくりと鳴る。
 一滴も残らないようにスプーンの中の液体を吸いあげ、左腕の静脈に慎重に突き刺した。部屋中に病的なまでに設置された多数のキャンドルに照らされ、蓮斗の顔には濃い陰影が浮かんでいる。血管を圧迫していないため、注射器内に血液が勢いよく逆流した。蓮斗は落ち着いて自分の血液と混ざり合い、どす黒く変色した液体を静脈へ押し込んだ。
 注射器を抜いた蓮斗が天井を向いて、止めていた息を一気に吐き出すと、冷子が呆れた様に声をかけた。
「何度見ても分からないわ。そんなモノのどこがいいのか」
「こんなモノでしか手に入らない快楽もあるんですよ……」と、言いながら蓮斗は椅子の背もたれに深く身体を預けた。
「快楽ねぇ……ねぇ、あなた達って何でそんなに快楽を求めるの? 快楽なんて、たかが脳内物質の一時的な増加に過ぎないのに。あなたみたいに薬に頼ってまで快楽を求める人間達を見ると、真性のマゾヒストなんじゃないかって本気で疑うわ」
「僕たち人間はコンプレックスの塊なんですよ。人間は生物学的に見れば、この地球上で最も弱い部類の生き物です。生身で本気でやり合ったとしたら、ペットの犬にすら勝てないんじゃないかな。薬や酒による快楽はそのコンプレックスを一時的に忘れさせてくれるし、現実的にそのコンプレックスを少しでも埋めるためには、必要以上に『所有』が必要なんです。服とか金とか、毛皮や牙の替わりにね」
「ふぅん」
 興味が無さそうに冷子が立ち上がる。事実全く興味が無いのだろう。蓮斗は薬が効いてきたのか、焦点の定まらない目を天井に向けて、ぶつぶつとなにかを呟いていた。
「ところで、 鷹宮美樹は本当に来るんでしょうね? あなたの面倒くさい作戦に乗ってやっているんだから、ヘマは許さないわよ。こっちは早急に事を運んで、邪魔なアンチレジストを潰したいんだから。鷹宮美樹を捕まえて、拷問でも何でもしてアジトの場所を吐かせて乗り込む。そしてトップの正体を突き止めて処分する。涼の仇を取る為にね。トップさえいなくなれば、後は烏合の衆よ。残った戦闘員や職員は一人ずつ殺せばいい」
 蓮斗は開いた口から垂れている涎を手の甲で拭うと、テーブルの上のコーラを一息に飲んだ。
「その点は抜かりなく……。今朝、鷹宮神社に手紙を置いておきました。美樹ちゃんが律義な人間であれば、あと数時間で、髪の毛を逆立てて乗り込んでくるはずですよ。そのためにこんなクソッタレな薬まで使って体力を絞り出しているんです。いつだって、例えば今日死んでも悔いが無いように生きたいですからね。酷い死に方は御免ですけど」
 冷子は鼻を鳴らすと、胸ポケットから栄養ドリンクのような茶色い瓶を取り出し、蓮斗に投げて寄越した。中にはとろりとした液体が入っている。
「今日死んでも悔いが無いのなら、これをあげるわ。あなたが欲しがっていた経口摂取タイプの薬剤。飲めば数秒で特定の神経のみを壊死させる事が出来る。簡単に言えば痛みだけを消すことができる薬よ」
 蓮斗は礼を言うと、瓶をカーゴパンツのポケットに仕舞った。
 冷子はクローゼットを開けて自分の着ているジャケットを丁寧に掛けた。スカートとシャツも脱いで別のハンガーに掛け、蓮斗の頭を正面から抱く様に跨がった。冷子の「食事」の相手をするために、蓮斗は静かに目を閉じた。


 美樹は養父の軽自動車に寄り添うように停めてあるバイクに跨がり、エンジンをスタートさせた。身体の中心を震えさせる振動が心地よかった。美樹は数回スロットルを回してエンジンを吹かすと、境内裏のスロープから国道に乗り、スピードを上げた。
 市街地から郊外へ進むに連れ、明かりの数が徐々に減っていく。美樹は軽快にスピードを上げて、あらかじめ調べておいた孤児院のある丘を登り始める。幸いなことに、雪はほとんど積もっていない。美樹は右へ左へとハンドルを切りながら、蛇行する山道をスピードを上げて登り続けた。
 十五分ほど登ったところで、外界を拒絶するようにそびえる大きな門が目に入った。美樹はスピードを緩め、門の側でバイクを降りる。
 三メートルを軽く超える赤錆びた門は、威圧する様に美樹を見下ろしていた。
 鉄の一枚板で出来た門には「セラ特別児童養護施設」と掘られた緑青の浮いた銅製のプレートがはめ込まれていた。門の左右には同じ高さのレンガ造りの壁が、森の中の遥か奥まで続いている。壁は施設をぐるりと取り囲んでいるようで、終わりは闇に溶けていて見えない。
「……まるで刑務所だな」と、美樹が白い息を吐きながらつぶやいた。
 美樹はバイクを停めようと、森の中へハンドルを切った。不意に、破裂音が響いた。美樹のバイクの前輪が何かに掴まれた様に動かなくなり、勢い余って後輪が持ち上がる。美樹は慌てて体勢を立て直して、倒れない様に持ちこたえた。バイクを降りて前輪を見ると、タイヤの空気が完全に抜けている。
 美樹はスタンドを立ててバイク降りると、目を疑った。レンガ造りの壁に沿って、鉄製の剣山が敷き詰められている。剣山は壁から三メートルほどの幅で、森の奥まで絨毯のように続いていた。
 美樹はその一本に触ってみた。
 錆び付いてはいるが、針の部分は禍々しいほど鋭利で、殺傷力は十分にある。先ほど勢い余って前方に放り出されていたら、背中から串刺しになっていただろう。万が一壁を乗り越えられた際の保険だろうか。
 美樹は気持ちを切り替えて門のそばにバイクを停めると、ヘルメットを脱ぎ、ライダースジャケットをハンドルに掛けた。巫女装束に似た戦闘服の乱れを直す。門からは、あらゆるものの侵入を拒絶する確かな意志が感じられた。門の上には、壁の下に敷かれた剣山と同様の、針状の突起物が見えた。美樹はシオンの言葉を思い出した。『家庭環境や様々な事情により、精神に深い傷を持つ子供達。その中でも反社会的行動をとる恐れのある子供と、既に反社会的行動をとってしまった子供達を収容した施設』。

「そんな所にいたら寒いよ。早く中に入った方が良い」
 不意に声がかかり、美樹は反射的に後方に飛び退いて身構えた。
 門が悲鳴のような音を立てて開き、中から真っ黒い服装をした蓮斗が現れた。
「バイクの音が聞こえたからさ……また会えて嬉しいよ」
 美樹は飛びかかりたい衝動を堪えながら、無言で蓮斗との距離を詰める。蓮斗は美樹から視線を離さずに後ずさりすると、門の中へ入る様に促した。
「早く建物の中へ入ろう。その服はアンチレジストの戦闘服かい? ミニスカートの巫女装束に、インナーは競泳用水着みたいだね。美樹ちゃんらしくて良いと思うけれど、とても寒そうだ。さあ、早く中へ……」
「貴様が先に行け。後ろから不意打ちでもされたら面倒だ」
 蓮斗はやれやれとジェスチャーすると、美樹に背中を向けて歩き始めた。数メートルの距離を置いて、美樹も続いて門をくぐる。
 門の中は、殺風景な庭だった。鎖だけが垂れ下がっているブランコや、立ち枯れになった楡の樹が風雪にじっと耐えている。
 雪が地面のほぼ全てを覆い、それを切り裂くように赤茶色の煉瓦道がかろうじて顔を出している。煉瓦道の脇には等間隔にガス灯が設置され、赤味を帯びた光を雪の上に落としていた。その明かりの先に、うっすらと二階建ての建物のシルエットが浮かび上がっている。
 蓮斗は煉瓦道を慣れた様子で進んだ。美樹は蓮斗と一定の距離を保って歩く。建物の輪郭がはっきりしてくる所まで来ると、蓮斗が歩きながら美樹を振り返った。
「今はもうボロボロだけど、遺棄される前は結構立派な施設だったんだ。庭は柔らかい芝生で覆われていて、庭木も、あの楡の木の他にもたくさん生えていた。建物の屋根を見てごらん。二つの尖塔に大小の十字架があるだろう? あの十字架は昔は真っ白でね、夕方になると西日を浴びてキラキラと輝いて見えたんだ。ステンドグラスもたくさんあって、時間が過ぎるごとに光の当たり方が変わって、色味が刻々と変わって見えるんだ。とても綺麗だったよ」
 美樹は蓮斗の言葉には応えず、黙って建物を見上げた。
 荒れはじめた庭と違い、建物の方はあまり痛んではいなかった。人が住むには全く困らないだろう。
 蓮斗の言う通り、なかなかに洒落た建物だ。入り口のドアや、大きく二つ突き出た尖塔は見事なシンメトリーに配置されている。規模は比べ物にならないが、建築様式がどことなくアナスタシア聖書学院に似ていた。ダークレッドを基調とした屋根や、外壁に使われているくすんだ漆喰の色。暗めな配色のステンドグラスに、建築家独特の癖の様な物が感じられた。
「ようこそ。汚い所だけど、遠慮なくくつろいで……」
 蓮斗がテラスに上がり、真鍮のドアノブを捻りながら振り返った瞬間、美樹が背後から強烈な掌底を見舞った。蓮斗は顎をしたたかに打ちぬかれ、観音開きの扉をたたき壊すほどの勢いで建物内に転がって行った。
 美樹が注意深く中に入る。
 玄関ホールは広い。
 手入れがされていないため所々痛んではいるが、壁は上質な漆喰で、特に床材の黒檀は目を見張るものがある。今では条約で取引が制限されている希少材が、ごく当たり前に使われていた時代のものだろう。見上げるようなホールの天井からは、大きいがシンプルな装飾のシャンデリアが暖色系の明かりを四方に振りまきながら、すきま風に晒されて微かに揺れている。玄関ホールのほぼ中央から伸びている階段は、中央の踊り場で二手に別れて二階へと続くクラシックなデザインだ。
「げほっ……はは……せっかちだなぁ。本番に入る前は、まず気の効いたトークで雰囲気を盛り上げるのが常識ってものだろう?」
 美樹は階段の側でうずくまっている蓮斗に無言で近づくと、脇腹を蹴り上げた。爪先に鉄板の仕込まれた堅牢なコンバットブーツは蓮斗の腹筋を破壊し、内蔵に強烈なダメージを与える。
「ぶごっ!? ひひ……み……巫女さんとは思えない暴力……げぼっ……。大好きだよ、そういうギャップは」
 胃をやられたのか、蓮斗は粘ついたどす黒い血の塊を床に吐いた。立ち上がろうとするが、足元がおぼつかずに尻餅をつく。美樹はよろける蓮斗に近づき、胸ぐらを掴むと額が付きそうな距離で蓮斗の目を覗き込んだ。
「この程度で終わりだと思うなよ。久留美にどのような仕打ちをしたか知らんが、それなりの報いを受けてからアンチレジストへ突き出させてもらう。私は弱いもの虐めをしている奴が一番嫌いなんだ。早めに久留美を開放した方が、病院の天井を眺める退屈な時間が短くて済むぞ」
 次の瞬間、蓮斗のにやついた表情が消えて無表情になった。凍りついた宇宙の果てのような、何も無い表情だった。急激な表情の変化に美樹は怪訝な顔をし、同時に思い出した。アナスタシア聖書学院の生徒会長室でシオンに見せられた写真。子供の頃の、太っていた頃の蓮斗のそれだった。
「久留美はどこにいる?」と、美樹は聞いた。
 蓮斗の表情はすぐ元に戻り、再び笑い出した。
 美樹は蓮斗の金色に逆立った髪の毛を掴んで無理やり立ち上がらせると、腹に膝を打ち込んだ。ぐちゅりという嫌な音がして、蓮斗が呻き声を上げながら前屈みになり、その際に下がった顎を掌底で跳ね上げた。衝撃で蓮斗の身体が浮き、背中から床に落ちる。美樹は再び蓮斗の金髪を掴むと、額を真鍮で出来た階段の手すりに打ち付けた。額が割れて、蓮斗の金髪が赤く染まる。
「いぎっ! ひ、ひひ……容赦ないなぁ……」
「口がきけるうちに喋れ。久留美はどこにいる?」と、美樹が蓮斗の髪を掴んだまま、耳元で凄んだ。淡々としているが、震え上がるような低く静かな声だった。「必要以上に痛ぶるのは好きではないんだが、貴様がこのまま久留美の居場所を吐かないのなら、指から折らせてもらうぞ? その後は手首、前腕、肘、二の腕、そして肩を外す。鎖骨を折ったら、次は肋骨だ。居場所を話したら、すぐに失神させてやる」
「ははは……やさしいなぁ美樹ちゃんは。案内するよ。居場所を話したって、この施設の構造は美樹ちゃんにはわからないだろう? それに鍵のかかった場所もある。僕を失神させるのは久留美ちゃんと再開してからでも遅くはないだろう?」
 美樹は少しの間思案した後、蓮斗の身体を投げ捨てる様に解放した。蓮斗はよろけながら立ち上がると、美樹の前で両腕を広げる様なポーズをする。抵抗する気はないという意味に取れた。
「……行け」と、美樹は蓮斗を睨みながら言った。
 蓮斗はわざとらしくお辞儀をした後、背中を向けて歩き出した。
 中央階段の裏手にまわると、観音開きの扉があった。蓮斗が鍵を開けると地下へ下りる階段が現れた。壁や床はコンクリート打ちっぱなしで、天井には古ぼけた蛍光灯が埋め込まれている。美樹は一定の距離を保ったまま、蓮斗の後に続いて階段を下りた。中腹まで降りたあたりで、背後で自動的に扉が閉まった。
 階段を降りきると再び扉があり、開けると地下特有の湿気が美樹の身体を包んだ。真冬の外気で乾燥した美樹の長い髪がわずかに重くなる。水はけが悪いのか、廊下の隅に黒いカビが生えていた。
 地下にはふたつの部屋があり、蓮斗は奥のドアの鍵を開けて中に入った。注意深く美樹も室内に入る。蓮斗は美樹から離れるように、入り口とは反対方向の壁に背中を付けて腕を組んだ。部屋には用途不明の様々な器具が置かれ、それらに取り囲まれる様に久留美が制服のまま仰向けに寝ていた。美樹が駆け寄り、抱え上げて呼びかけと、久留美はうっすらと目を開けた。
「久留美? 久留美! 大丈夫か?」
「あ……せ、先輩……?」と、眠そうに久留美が言った。
「迎えに来た。もう大丈夫だぞ」
 美樹は静かに言うと、久留美の髪をそっと撫でた。
 久留美はまだ朦朧としているようだが、幸い外傷は無さそうだった。髪を撫でる心地いい感触に久留美の顔がふっと緩む。
 メキリと音を立てて、美樹の右腕に衝撃が走った。蓮斗が鉄パイプを美樹の二の腕に振り下ろしていた。
「ぐうっ!?」
 美樹は痛みに耐えながらも無事な左手で久留美を寝かせると、片膝を着いたまま蓮斗に向き合う。右肘から先が痺れて感覚が鈍い。再び鉄パイプが振るわれ、直角に曲がった継手部分が美樹の腹ににずぶりと食い込んだ。
「ごぶぅっ!? んぐっ……お……っ」
 レオタードむき出しの部分が痛々しく陥没すると、固く冷たい金属の感触が美樹の腹部を中心に全身を駆け巡った。
「久留美ちゃんはいいよな……助けてくれる人がいてさ」
 蓮斗は何の感情も読み取れないほど無表情になっていた。
「先輩!?」
「大丈夫だ……」
 立ち上がろうとする久留美を手で制しながら、美樹は痛む腹を押さえて立ち上がる。強打を受けた右腕は折れてはいないようだが、いまだに感覚が戻らない。蓮斗はカーゴパンツのポケットから栄養ドリンクのような瓶を取り出すと、キャップを開けて中身を一気に飲み干した。
「おえっ……まっず。ったく、少しは味にも気を使ってほしいな」
 蓮斗は顔をしかめて口元を拭いながら、空になった瓶を背後に放り投げた。瓶は固い音を立ててバウンドした後、壁に跳ね返って止まった。
「それも人妖が作った薬か? なぜ人間の貴様が人妖に取り入っている?」
 蓮斗は答えず、ゆっくりと美樹に近づくと、大振りなモーションで鉄パイプを振り下ろした。美樹は素早くそれを避け、間髪入れずにバックナックルを放つ。蓮斗はしゃがんで躱すが、美樹がバックナックルの勢いを殺さずに回し蹴りを放と、避けきれずに頬にヒットした。蓮斗は一瞬ぐらつきながらも、美樹の脚を掴み、鉄パイプを捨てて美樹の腹部に拳を埋めた。ぐじゅりと音がして、美樹の腹に拳が陥没する。
「ぐぷっ?!」
 美樹の目が見開き、小さく開いた口から唾液が飛び出る。
 普段の美樹であれば難なく防御したであろうが、片腕が言うことを聞かず、片足立ちでバランスを崩した今の状況では蓮斗の攻撃をガードすることは難しかった。美樹は左手で蓮斗の奥襟を掴むと、腹の底からこみ上げて来る吐き気を押さえながら、蓮斗の鳩尾に膝を打ち込んだ。
 蓮斗の口から空気が漏れる男が聞こえる。人体急所を突かれ、その身体には恐ろしい苦痛が駆け巡っているはずだが、蓮斗は表情を崩さない。美樹は一瞬顔をしかめると、続けざまに攻撃を放った。蓮斗は顎や鼻を撃ち抜かれ、鼻から血を流しながらもニヤニヤとした笑みを崩さなかった。
「貴様……なにをした……?」
「ああ、いいね。その混乱した表情、そそるよ」
 ずん……という重い衝撃が美樹の全身を駆け抜けた。この感覚には覚えがある。美樹はおそるおそる視線を下に移すと、自分の鳩尾に蓮斗の拳が半分ほど埋まっていた。
「うぐっ!? ぐあっ!」
 一瞬置いて美樹の身体を苦痛が駆け巡る。
 たまらずに両膝を着き、口内に大量に溢れた唾液を吐き出した。唾液は口から糸を引いて床に垂れ、コンクリートの床に染みを作った。
「さっき飲んだ薬だよ。コールドトミーって知ってる? 冷子さんに頼んで、痛覚を遮断する薬を作ってもらったんだ。身体から脳へ痛覚を伝達する神経を壊死させるらしい」
「けほっ……い、痛みは身体の危険を伝えるための大切な信号だ。それに、たとえ痛みを消してもダメージは消えんぞ……」
「だから? 俺は今を楽しめればそれで良いんだ。昔から我慢して我慢して……痛い思いもたくさんしてきた。そろそろ好き勝手させてもらってもいいだろ?」
 蓮斗は美樹の奥襟を掴んで立ち上がらせると、抉る様に美樹の腹部を突き上げた。薄い生地を巻き込む様に美樹の腹部が陥没し、温かく水っぽい感触が蓮斗の拳を包んだ。心地よさに蓮斗の顔には笑みが浮かび、変わりに美樹の顔は苦痛に歪んだ。
「ゔあっ!? ぐ……あぁ……ぐぷっ!?」
 腹部に拳を突き込んだまま、更に美樹の奥へと押し込む。美樹が歯を食いしばって蓮斗の突き飛ばし、ようやく感覚が戻った右手で顎を突き上げた。蓮斗の顔が仰け反り、天井を向いたまま身体が宙に浮く。一瞬の滞空の後、背中から地面に落下した。ダメージを感じている様子は無い。顎を跳ね上げられる直前まで、蓮斗の視線は一瞬も美樹から離れなかった。
 蓮斗の攻撃自体は大振りで単調だ。決して苦戦する相手ではない。しかし、ダメージが通らずに長期戦になれば、こちらも消耗してくる。ダメージによる戦意喪失が望めない以上、確実に失神させるほか無い。顎や頭への衝撃も鈍いようだ。頸動脈を締めて確実に落とす方がいい。
 蓮斗がネックスプリングの要領で跳ね起きると、凝りをほぐす様に首を鳴らしながら血の塊を吐き出す。血塊はかつんと固い音がをたてて床に跳ね返った。赤黒く染まった奥歯だ。
「厄介なものだな……とんだ相手に好かれたものだ」
 美樹が軽口を言うと、蓮斗も血に染まった前歯を剥き出しにして笑う。
「俺は一途なんだ。惚れた女の為なら死んでも尽くすさ……」


「到着しましたが……本当に行かれるのですか?」
 シオンはドアを開けてくれた運転手に「ええ」と短く返事をすると、後部座席から降りて分厚い鉄の門を見上げた。運転手は何か言いたげに口を開いたが、諦めたようにシオンの背中を見つめたまま黙って後部座席のドアを閉めた。
 雪はほとんど止んでいた。
 孤児院の門や塀の上には錆の浮いた剣山が、氷のように冷えたまま微動だにせずに立ち尽くしている。
 シオンがぬめるような光沢のある黒いカシミヤのロングコートを脱いで運転手に手渡すと、さっと風が吹いてシオンのツインテールに纏めた金髪がなびいた。見てるこちらが寒くなりそうなデザインの、メイド服を基調としたセパレートタイプの戦闘服が露になり、初老の運転手は目のやり場に困り視線を逸らした。
「では山岡さん、終わりましたら連絡しますので」
「あの、本当によろしいのですか? 年配の勘と言いますか、何やら厭な予感がするのです。出来ることならこの場で待たせていただいても……ッ!?」
 シオンが白い手袋に包まれた人差し指を山岡の唇に当てて言葉を遮る。シオンは片目を閉じて、穏やかな笑みを浮かべている。現実感の欠如した美しい顔が間近に迫り、山岡はどぎまぎと視線を泳がせた。
「本当に大丈夫です。それに今日は任務ではなく、ただの私の暴走……。勝手に戦闘服を持ち出して、勝手に美樹さんに加勢するんですから、組織にバレる前になるべく早く解決して無事に戻ることを最優先にします。必ず帰りますので、ご心配なさらずに」
 シオンは走り去る車を見送ると、あらためて門を見上げた。それは門というよりは、壁に近かった。あらゆるものの侵入を拒み、あらゆるものの脱出を許さない鉄の一枚板を見ていると、自由という言葉が遠い異国の少数民族の言語の様に思えた。上空では灰のような重い雲が立ち込めている。またすぐ雪になるのだろう。
「セラ……CELLA……ラテン語ですね。小部屋、神像安置室、広い意味で聖域。子供達にとっての聖域という意味で付けられたのでしょうか?」
 シオンが門に嵌め込まれているプレートを読んでつぶやいた。自分のシオンという名前にも、聖域という意味がある。この施設を作った人間は、どのような思いを込めてセラという名前を付けたのだろうか。
「美樹さん……久留美ちゃん……」
 シオンは自分にしか聞こえない声量で呟くと、扉を押し開けて施設の中へと入って行った。


 美樹の放った回し蹴りが綺麗な弧を描いて蓮斗の顔面をしたたかに打った。どろりとした鼻血がミミズのように蓮斗の鼻から這い出る。蓮斗は怯むことなく大振りの前蹴りを放った。重そうなブーツが空を切る。美樹は難無く蓮斗の蹴りを躱すと、背後から蓮斗の首に蛇のような素早さで自分の腕を巻き付けた。頸動脈のみを締め上げられ、蓮斗の視界に銀色のオーロラが降りてくる。顔が徐々に膨張する様な錯覚。耳の奥できいんと耳鳴りが鳴り響いている。
 あと数秒で失神すると蓮斗は思った。
 蓮斗は痙攣の始まった手でカーゴパンツのポケットに手を突っ込んだ。硬い感触が指先に触れる。栄養ドリンクに似た瓶のキャップを片手で器用に開けると、中身を背後にぶちまけた。美樹が驚いて手を離す。残りの薬剤を口に含み、霧状にして美樹の顔に吹きかけた。薬剤を吸い込み、美樹は軽く咽せた。南国の花の様な重く甘い香り。瞬間、チリッとした刺激が脳の表面を駆け巡った。
「先輩……」
 背後から久留美の声が聞こえた。振り返る。美樹の上着の袖を掴みながら久留美が立っている。
「先輩……蓮斗さんを傷つけちゃ……嫌です……」
 久留美は甘えるような声を出すと、背後から美樹の胴体に腕を回して抱き着いた。突然の事に美樹が狼狽する。
「く、久留美? なにを言っている? 手を放せ!」
「大丈夫ですよ先輩……。蓮斗さん、とても良い人ですから。それに、蓮斗さんがお腹を殴ってくれると、すごく気持ち良くなれるんです……」と、久留美は熱に浮かされた様に呟いた。「こんな感情……私、初めてなんです。先輩も早く、蓮斗さんに気持ち良くしてもらってください。大丈夫です、痛いのは最初だけですから」
「馬鹿なことを言うな! 目を醒ませ!」
 美樹が身じろぎしている最中、蓮斗が音も無く近づいた。
「……ッ、貴様! 久留美に何を……」
 美樹が言い終わる前に、ぐじゅっ、と水っぽい音が美樹の身体を通って鼓膜に届いた。蓮斗の拳が、美樹の薄い生地に包まれた腹部に埋まっている。
「ぐぼっ!」と、美樹が悲鳴を上げた。不意打ちを受けた腹は蓮斗の拳を柔らかく包み、温かい粘液の様に絡み付いた。美樹の視界がぐらつき、猛烈な吐気がこみ上げる。同時に、拳を打ち込まれた場所からどくんと脈打つ様な感覚がこみ上げて来た。
「……ッ?! くあぁっ?!」
 美樹がびくりと痙攣しながら、身体を折り曲げるようにして悶えた。叫んだ瞬間に粘度の増した唾液の飛沫が舞う。
 殴られた下腹部が脈打つような感覚があった。下腹部にもうひとつ心臓が発生し、脈打つような信号を脳に送っている。それは温かく、柔らかくて甘い信号だった。泥の中を裸でのたうつような、極めて官能的な感覚を美樹ははっきりと感じた。
 美樹は焦点のズレた目で下腹部を見下ろした。
 アンダーウェアの生地を巻き込んで、蓮斗の骨張った拳が深くめり込んでいた。それを認識した瞬間、どくん……と拳のめり込んでいる腹部のあたりが脈打った。雷のような快感が美樹の背骨を駆け上がり、頭蓋骨の中で破裂する様子がはっきりとイメージ出来た。
「んぅッ?! くはぁぁぁッ!」
 美樹は訳もわからずに沸き上がって来た快感に身体を捩らせた。腹部を殴られた苦痛と同時に発生した快感。頭の中を沸騰した嵐が吹き荒れている中、二発目の鉄槌が鳩尾に撃ち込まれた。
「んぶぅッ?! んぶ……ッ……んあぁぁぁぁ!」
「あははは、気持ちいいでしょ? 頬染めちゃって、可愛いなぁ」
「ぎ……ぐぅッ……ぎざま……」美樹がびくびくと痙攣しながら、涙の溢れる目で蓮斗を睨みつける。食いしばった歯の隙間から荒い息が漏れていた。「何を……んくッ……私に……何をした……?」
「あはぁ……先輩……すごく気持ち良さそう……。気持ち良いですよね? 蓮斗さんにお腹殴られると……」久留美がとろんとした笑みを浮かべながら美樹の首筋に舌を這わせると、美樹の身体がビクリと跳ねた。堪えていた息を美樹が吐き出すタイミングで、蓮斗の膝が撃ち込まれる。
「ぐぼぉっ?!」
 膝を腹に打ち込まれた衝撃で美樹の目が見開かれ、舌が口から飛び出す。
 美樹は戸惑っていた。
 臍や鳩尾、胃の辺りを責められる度に、じんわりと熱を持った葛湯の様な甘くとろみのある液体が子宮のあたりに沸き上がるのを感じていた。あくまでもイメージではるが、その液体は腹部周辺を責められる度に子宮の中に溜まってゆく。ぐじゅり……ぐじゅり……と蓮斗は容赦なく美樹の腹を責めた。久留美は美樹の背後から抱き着きながら、苦痛と快感に耐える美樹の顔をうっとりと眺めている。
 美樹の中で、今まで感じたことの無い感情が芽生えていた。
 子宮を殴られたい。
 この子宮に溜まった液体を、どうにかして欲しい。
「くぅッ……! 蓮……斗……」美樹が泣きそうな顔になりながら蓮斗を睨んだ。「うッ……はぁ……ぐぅッ……!」
 子宮を殴って欲しい。その骨張った拳で潰して欲しい。
 自分の意志に反した逆らいようの無い欲求。美樹は必死に頭を振ってその甘い欲望の濁流に飲まれないように耐えた。
「へぇ……頑張るんだな。早く久留美ちゃんみたいに堕ちちゃえばいいのに」
「そうですよ先輩……一緒に気持ち良くなりましょう? 我慢する必要なんて無いんです。先輩は今までずっと頑張ってきたんですから、もう素直になってもいいんですよ?」
「くっ……もう一度聞くぞ……私になにをした……?」
「オーダーメイドしたチャームを使わせてもらったのさ。人妖の分泌するチャームを培養して、腹部が性感帯になるようにカスタムした特製のね。俺に殴られてすごく気持ち良いでしょ? チャームには誰も逆らえない。もうすぐ美樹ちゃんも、久留美ちゃんみたいに自分からお腹を殴って下さいってお願いするようになるんだよ」
「ふざけるなッ! そんなものに……私が屈するものか!」
 美樹は自分に言い聞かせるように叫んだ。
 蓮斗はその様子を鼻で笑うと、軽い動作で拳を引き絞った。
 ぐぽんッ……と蓮斗の拳が、美樹の子宮を抉った。
 それは待ちかねた刺激だった。美樹は次の瞬間、子宮に溜まった温かく甘い液体が、まるで水風船が破裂したように体内にまき散らされるのを感じた。それは細胞の隙間を強烈な快感の爪で引っ掻きながら体中に広まった。爪先から脳天まで快感が広がり、美樹の視界は星が散った様に明滅した。
「ふぐあぁぁぁぁッ! はぐッ……くふッ……あああッ!」
 美樹は身体を仰け反らせ、絶叫しながら快感に耐えた。絶頂の波が絶えず身体を駆け巡り、痙攣する身体を歯を食いしばって必死に抑えた。蓮斗が美樹に近づき、再び拳を引き絞った。拳が腹部に当たる瞬間、美樹は自分が無意識に腹筋を緩めたことに気がついた。自分は、快感に負けてしまったのかと、美樹は底の無い暗い穴に落ちる様な気持ちになった。


 シオンが錆び付いた門をくぐると、高い壁に阻まれて風の音が聞こえなくなった。建物に通じる煉瓦道には二人分の足跡がかすかに残っていて、建物の窓からはかすかに明かりが漏れていた。
「おかしいですね……」と、シオンは二つに結った長い金髪を手櫛で梳きながら首をかしげた。
 シオンは透き通るような緑色の瞳で建物を見据えた。特殊繊維で出来た戦闘服のおかげで見た目に反し寒さはほとんど感じないものの、背中に甲虫が何匹も這い上がっているようなちくちくとした違和感を感じていた。
 特別養護孤児院「CELLA」は写真で見た通り、シンメトリーの美しい外観だった。建物自体の痛みもほとんど無い。
 殺人か、それに準ずる罪を犯した子供のみを保護していたこの施設は、数年前まで世間から隠されるようにこの森の中で確かに運営されていたのだ。誰の目にも触れることなく。幼くして殺人という罪を犯した蓮斗や木附姉妹、その他の子供達と一緒に。
 シオンは美樹と別れた後も、様々な手法や、時にはそれなりの金を使って蓮斗の犯行やCELLAについて調査を継続していた。
 CELLAの運営は専門に設立された国営組織が管理していた。表向きは孤児院としていたが、内部は非公開で、近隣住民との接触は皆無だったという。もっとも施設以外は特に何も無い山の上という立地もあり、近隣住民はさして施設の存在を気にもしていなかったようだ。電話番号もホームページも公開されず、子供達を乗せたバスや生活必需品を積んだトラックが時折出入りする以外は外界からは遮断されている。そしていつの間にか閉鎖した後、職員や住人の子供達はまるで夜逃げをするように静かにいなくなっていた。
 すべての物事には理由がある、という言葉をシオンは信じていた。どのような些細な現象も、すべてその結末に至るまでの原因と理由があり、偶然というものは突き詰めていけば存在しないことなのだとシオンは考えていた。いくら凶悪犯罪を犯した子供が入所しているとはいえ、オープンな更生保護施設や自立支援施設はたくさんある。なぜCELLAだけが隠すようにひっそりと運営され、ひっそりと閉鎖されたのか。そこに至るまでには何らかの理由があり、何らかの目的のがあったはずだ。
 シオンは周囲を見回しながら、建物に向かって歩いた。
 庭の隅ではブランコの鎖が風に吹かれ、その奥では葉の落ちた楡の木が無言で立っていた。
 ぴたりとシオンの足が止まる。門をくぐってからずっと感じていた違和感の正体を探るように建物を見上げた。小さめの教会のような外観。シオンは白い手袋に包まれた人差し指と親指で細い顎を挟みながら考えた。
「やはり、小さ過ぎますね……」と、シオンがつぶやいた。
 シオンは「CELLA」に収容されていた孤児のリストを思い出し、そこから同時期に住んでいたであろう人数をざっと計算した。ビルのような建物に比べ、洋館は装飾性は高いが居住面積はずっと少なくなる。建物の大きさからして、部屋数は決して多くないはずだ。それに保護している子供の性質から考えて、子供一人当たりの占有面積は通常の施設よりも広くとる必要がある。対応に当たる職員も一般の孤児院に比べ多いはずだ。この大きさでは狭過ぎて収容できなかったはずだ。
 きぃ……と背後でブランコが鳴いた。
 シオンが振り返り、さくさくと雪を踏みながらブランコのそばまで移動した。
 変わった形のブランコだ。
 公園でよく見る三角形の支柱ではなく、巨大な鉄棒のような形をしている。まるで大きなホッチキスの針が地面に刺さっているように見えた。
 支柱から渡された横木からは五本の鎖が垂れ下がり、風に揺れていた。
 ……五本?
 シオンは嫌なものが腹の底から湧き上がるのを感じ、頭を振った。楡の木のそばへと移動する。木の根元には風雨に曝された大きな木箱が三つ、楡の木に寄りかかる様に置かれていた。その一つを開けてみる。底板は無く、直接地面が見える。中身は空だったが、木屑のような匂いに混じってかすかに腐敗臭がした。
 堆肥を作るコンポストだろうか。
 三つある箱のひとつには小さな鍵が付いていた。シオンはペンライトを取り出して鍵を観察する。見た目は簡素だが、どうやらカード式らしい。
 シオンは周囲を確認し、脇を締め、右足を一歩分後ろに引いて構えた。両足を捻るように動かし、つま先に鉄板の入ったエナメルのストラップシューズで地面を踏みしめる。右肩を勢い良く後方に引き、捻ったゴムが元に戻るように反動をつけて身体全体を回す。防御を考えないため、右足を蹴り上げるのと同時に右手を後方へ一気に引いた。
「ふッ!」と、シオンがすぼめた唇から力強く息を吐き出す。
 木の砕ける重い音が凍てついた空気を震わせ、重い蓋は紙のように宙を舞った。
 シオンは構えを解いて箱の中を覗き込む。
 取っ手の付いた鉄板が見えた。蓋は意外なほど簡単に開き、人一人がやっと通れるほどの階段があった。
「やはり」と、シオンが言った。階段から建物までの距離は約百メートル。おそらく敷地全体に地下空間が広がっているのだろう。地表の建物はあくまでも飾りで、この地下空間こそが「CELLA」の本体だ。
 扉を開けたことに反応して、自動的に蛍光灯が階段を照らした。
 シオンは前髪を掻き上げると、慎重に階段を下り始めた。こつこつと自分の足音が冷たい壁に反響する。この先に何が待ち受けているのかわからないが、すべて受け入れようと思った。どのような形であれ、それが真実なのだから。

 階段を降りた先には金属製のドアがあった。中に入ると、かすかなカビと湿気の匂いが鼻を突く。ジリジリと音を立てる古い蛍光灯に照らされて、漂白されたような白い壁や薄い緑色の床が浮かび上がった。病院のような作りで、遺棄される直前まで衛生的に保たれていたらしい。廊下を歩きながら、美樹や久留美は無事だろうかとシオンは思った。この奇妙な施設の調査も進めたいが、まずは二人と合流しなければならない。そして人妖と行動を共にしている蓮斗の目的や経緯を、できれば本人から直接聞かねばならない。どのような理由から人妖に協力しているのか。他にも協力者はいるのか。そしておそらく、冷子もこの施設にいるはずだ。やらねばならないことは多い。
 蓮斗か……。自分や美樹とほとんど歳は変わらないが、十歳の子供があんな恐ろしい犯行を行えるものだろうか。
 独自に入手した凄惨な現場写真や事件の調書を調べている間、シオンは何度も吐きそうになり、酷い目眩を感じてソファに倒れ込んだ。シオンは物心がついた頃──ちょうど父と死別した頃から、死を連想させる事象に対して強い恐怖を感じるようになった。父親の死はシオンの記憶からすっぽりと抜け落ちてしまっているが、おそらくその際に何らかのショックを受けたことが原因だろうとシオン自身は思っている。いつかカウンセリングを受けるべきかと思うのだが、なかなか踏み出せずに今になってしまった。だから、凄惨な殺人事件を起こした蓮斗の犯行記録は、シオンにとっては耐え難いものだった。
 しかし、必死な思いでシオンは資料を読み込んだ。資料によると、事件は蓮斗が六歳の頃、肥満体型を理由にイジメられ始めたことに端を発している。イジメは最初は遊びの延長のような軽いものだったらしいが、次第に内容はエスカレートしていった。蓮斗は何度か担任教師に相談をしたが、教師は首謀者の肩を持ち取り合わなかった。首謀者の家が生活保護を受けていることに同情したらしい。両親と蓮斗の仲も良好とは言えず、蓮斗が八歳になる頃には、イジメはクラス全体を巻き込んだ大きなものになっていた。味方のいない蓮斗はあるとき、学校で飼育していたウサギを生きたまま焼却炉に放り込み、教師から厳しく叱責される。また、学校に呼び出された蓮斗の両親はその日、雪が降る夜に蓮斗を家から放り出した。
 蓮人は自分をイジメていたクラスメイト達が全く咎を受けず、ウサギを殺した自分だけが糾弾されたことに猛烈な理不尽を感じた。また、ウサギを殺したことを弱いものイジメの最低な行為と教師や両親から罵られたが、それでは今自分がクラスメイトから受けているイジメは何故許されているのだろうか。
 蓮斗は身体の底から黒いものが湧き上がってくるのを感じながら、寒さと空腹に耐えかねてショッピングセンターで途方に暮れていた。その時、目の前をイジメの首謀者が母親と共に通った。家族と楽しそうに笑う首謀者を見た瞬間、蓮斗は「口から内臓が飛び出すほどの憎悪」を感じたと調書に書いてあった。
 蓮斗は公衆トイレの個室で凍えながら一夜を明かすと、自宅に忍び込んで包丁と金属バッドを持ち出して学校へと向かった。授業には出席せず、放課後に首謀者が一人になったところを見計らって、背後からバットで殴り昏倒させると、グラウンドの隅にある体育倉庫の中に主謀者を拘束して監禁した。夜、学校から完全に人がいなくなったことを確認すると、蓮斗は首謀者を裸にし、腹部を内臓が破裂するほどバットでめった打ちにした後、まるで解剖するように喉から性器までを一文字に包丁で裂き、内臓を引きづり出した後にバットで頭を割って殺害した。腹を裂かれた時か、頭を割られた時か、どのタイミングで首謀者が絶命したのかはわからなかった。その後の警察の調査で、首謀者の露出した内臓から蓮斗の精液が検出された。
 蓮斗は首謀者の身体を焼却炉に押し込むと、血まみれのまま学校の近くに住むクラスメイトの家に侵入した。そこは母子家庭で、布団を並べて寝ている親子をバットで殴り昏倒させると、二人の手足をロープで縛り、母親の目の前でクラスメイトの腹部を滅多刺しにして殺害した。母親の狂ったような悲鳴を聞いて近所の住人が警察に通報。警官が駆けつけた時、蓮斗は四方に内臓を飛び散らせた無残な姿のクラスメイトの横で、同じように腹の裂かれた母親の内臓を一心不乱に掻き回していた。母親とクラスメイトの内臓からも、蓮斗の精液が検出された。
「ゔっ……げほっ……」
 シオンは眩暈を覚えて、口元を押さえて片膝を着いた。このタイミングで思い出さなければよかった。フラッシュの様に明滅する凄惨なイメージを頭を振って払拭する。なぜ幼い子供がここまで歪み、凶行に及んだのか。こうなってしまう前に、周囲は誰も助けなかったのか。蓮斗の味方はひとりもいなかったのか。
 シオンはふらふらと立ち上がり、目を閉じて大きく息を吐いた。しっかりしなければ。まずは目の前の状況に集中するべきだ。
 シオンは慎重に薄暗い廊下を進んだ。
 やはり地下施設はかなり広く、部屋数もかなりある。廊下から部屋の中を覗けるように大きな窓が嵌まっている。ほとんどの部屋には数台のパイプベッドが置かれているだけで、装飾などは無かった。しばらく歩くと、コンピューターが置かれたナースステーションのような部屋があった。中に入る。強盗にでも入られたかのように、ファイルや紙の資料が散乱していた。シオンは足元に落ちているファイルを手に取って中を見る。顔写真付きの履歴書のような紙が多くファイリングされていた。
 シオンは手早くファイルをめくる。
 いた。
 蓮斗だ。
 この施設で保護された後に撮影されたのだろう。脂肪で膨れた頬と二重顎の蓮斗が、写真の中からどんよりとした視線をシオンに送っていた。書類には神経質そうな細かい文字がびっしりと書き込まれていた。
「な……え……?」シオンは思わずファイルを顔に近づけた。「人妖適性……?」
 書類には蓮斗の細かい身体情報や経歴、蓮斗の起こした事件の調書の他に「人妖適性」なる見慣れない所見が書かれていた。

 ──施術に対する身体的適性は中からやや低い。しかし、いわゆるサイコパスであり精神的適性は高い。親や周囲から拒絶されたことによる極端な自信の喪失からか、自分に興味を抱かせるために作り話をしたり、高価な物品や装飾品へ執着したりする傾向が見られる。また、自身や他者の生命や身体に対して、尊厳や執着は感じていない。これらの精神的傾向は人体実験や薬物投与への抵抗感の少なさに加え、人妖化後に異性を餌として補給する際、有利に働くものと思われる。

 なに……これ?
 人妖化?
 施術?
 人妖は人為的に造り出せるということなのだろうか。
 ならば、人妖とは未知の怪物などではなく、何者かが何らかの理由と意図の元に生み出したミュータントではないか。アンチレジストはこのことを知っているのだろうか?
 不意に、虫の羽音のような音とともにブラウン管のモニターが点いた。粗いノイズ混じりの画面に、見慣れた顔が映る。
「なにをぐずぐずしているの? 早こっちに来なさいな」
 うねるような画面の中に、スーツを着た女性が映っている。女性は退屈そうに椅子に座り、アームレストに片肘をついたまま呆れたような視線を送っていた。
「冷子……さん……」
「私の庭を荒らさないでくれるかしら? この施設は古いけれど、まだまだ利用価値があるの。学園の研究棟以上にね」
「……この施設は何なんですか?」
「直接会って教えてあげるわ。廊下を進んだ先にあるドアを開ければロビーに出られる。決着が着いてから好きに調べればいいわ。貴女が生きていられたらだけど……」
 ブツンと言う音と共にモニターが切れた。モニターは戸惑ったシオンの顔を嘲るように反射した。

 遠くの方で話し声が聞こえて、美樹はゆっくりと目を覚ました。
 地下室の空気は淀んでいた。
 窓は無く、汗や体液の臭いが混じった湿気が重く立ち込めている。天井には大型の換気扇が埋め込まれていたが、今は稼働していないようだ。
 ぼんやりした意識でも、後ろ手に南京錠の付いた腕輪がはめられていることがわかった。霞む視界の隅に、久留美の薄桃色の髪の色が映った。
「ゔぁッ……あ……はずと……さん……ッ……」久留美の声が聞こえ、美樹は顔を上げた。次第に明瞭になってきた視界の隅で、久留美は釣り針にかかった魚の様に顎を上げ、天井を見ながら呻いた。「も……無理……でず……ッ」
 ひび割れた白いタイルと薄汚れたコンクリートで造られた地下室はそれなりの広さで、所狭しと拷問器具が置かれている。久留美は壁に背中を付けて立ち、自分からシャツを捲り上げて、白魚の様に滑らかな身体を蓮斗に晒していた。そして久留美の華奢な腹部を、蓮斗は拳で嬲る様にグズグズとこね回していた。
 久留美の苦しそうな息遣いには、少なからず女としての悦びの色が混じっていた。おそらく、自分に浴びせたものと同じ人口チャームを使っているのだろうと、美樹は思った。チャームの効果とはいえ、美樹は初めて苦痛が快感に変わる感覚を味わった。一時はその感覚に流されそうになったが、時間の経過と、普段からの精神鍛錬により、今ではかなり効果が薄れてきた。だが、久留美は自分とは違い、ごく一般的な少女だ。数日間の監禁による恐怖は耐え難い精神的苦痛を感じただろう。監禁や誘拐などの被害者は、閉鎖空間で長時間に強いストレスに曝されると、しばしば加害者に対して好意を抱いたり、加害者に気に入られたりするような行動をとることがある。少しでも犯人に気に入られて、自分に危害を加えられる可能性を少なくするための生存戦略的な行動だ。それに加え、違法な薬物のような人口チャームの効果で久留美が正気を失ってしまうのも無理はない。蓮斗のサディスティックな欲望を満足させるための人形として、いつ終わるとも知れない恐怖と苦痛に耐え続けるよりは、たとえ正気を失ってでも偽りの快楽に押し流されてしまった方が楽だ。人間とはそういうものだと美樹は思った。そしてその行動は悪ではない。
 美樹は顔を上げた。
 蓮斗も久留美も、まだ美樹が目覚めたことに気がついていない。
「久留美ちゃん……まだ頑張れる?」
 優しそうな声で蓮斗が久留美の耳元で囁いた。久留美は立っているのもやっとな様子で膝をガクガクと震わせながら頷く。まるで二回目の性交に挑む恋人同士の様だ。
 蓮斗は久留美を優しく床に座らせると、久留美を背後から抱きしめるように自分も腰を下ろした。乱雑に散らかった器具の中から、黒い十字架のような器具を取り出して久留美に見せる。
「ひ、ひッ?!」
 その禍々しい器具を見た瞬間、久留美は思わず悲鳴を上げた。それはエナメルを巻きつけた馬の男根に、取っ手を付けたような形をしていた。先端は子供の頭ほどのリアルな亀頭が施され、久留美を睨みつけるように反り返っている。
「は……蓮斗さん……ま、まさか……」
 恐怖のあまり久留美の歯がガチガチと鳴る。久留美は男性経験は無いが、一般的な男性器の大きさは把握しているつもりだった。しかし、蓮斗の持つ凶暴すぎる器具は明らかに規格を超えていた。こんなもので貫かれたら命に関わるのではないか。
「大丈だよ。心配しているようなことはしないから」と、蓮斗が久留美の耳を舐める様にして囁く。「でも、こっちには挿れちゃうけどね」
 蓮斗が久留美のヘソにディルドの亀頭をあてがう。久留美の肩が恐怖からびくりと跳ねた。蓮斗は取っ手を両手で握ると、力を込めて自分の身体に向けて引き付けた。ぐぽりと音がして、蓮斗の身体とディルドに挟まれた久留美の腹部に凶悪な鬼頭が埋まった。
「ぐぷッ?! がッ?! あああッ!」
 蓮斗がディルドを引く力を強めると、華奢な久留美の腹部に黒光りしている暴力が更にめり込む。胃を潰され、久留美の喉の奥から濁った悲鳴が漏れた。
「げぅッ?! げあぁッ! ばずど……ざんっ……おなが……ぐる……じ……」
「いいよ……もっと気持ちよくなって……」
 久留美が限界だと訴えるように必死に首を振るが、蓮斗は興奮をますます昂らせている。蓮斗は押し込んでいたディルドを一瞬引き抜くと、リズミカルに久留美の腹部にディルドを押し込み始めた。ピストン運動のように久留美の腹部にぐぽぐぽと黒い先端が埋まる。M字型に足を開いてめくり上がったスカートから覗く久留美のショーツが、分泌液で徐々に透けていった。
「ゔあッ!? ごッ! がぁッ! やらッ! はずッ……はずど……! ざんッ! はすと……さんッ!」
 久留美が背後を振り返り、蓮斗に向かって舌を突き出した。蓮斗はその唇を吸う。久留美は目を閉じ、貪る様に舌を絡ませている。
 その隙を、美樹は見逃さなかった。
 美樹は束ねた髪の毛の中から、黒い針金を一本取り出した。全身に隠した武器のうちのひとつで、緋色のリボンで留めて髪の毛の中に隠している。美樹はそれを器用に南京錠の鍵穴に差し込んだ。無骨に見える鍵ほど中の仕組みは単純だ。美樹は一分もかからずに両手を自由にした。二人はまだ唇を吸いあっている。美樹は素早く跳ね起き、蓮斗に向かって突進した。

 美樹の突進に蓮斗は素早く反応し、久留美と一緒に真横に跳んだ。蓮斗の異様な反応の速さに、普段は表情変化に乏しい美樹でも目を見開いた。美樹の手甲をはめた拳が鋭い音を立てて空を切る。視界の隅で蓮斗と目が合った。蓮斗は軽く口角を上げると、久留美の背中を突き飛ばした。自分の胸に飛び込んできた久留美を美樹はとっさに受け止める。
「久留美!」と、美樹が久留美の顔を覗き込みながら叫んだ。
「えっ? あ……? は、蓮斗さん、なんで……?」
 久留美は熱病にでも冒されているように蓮斗に手を伸ばした。
「時間だ……」と、蓮斗が貼り付けたような笑顔で美樹に言った。「ようやく、夢が叶うんだ……」
 蓮斗は身体を美樹の方向に向けたまま扉の方へ後ずさると、ポケットから茶色い小瓶を取り出して静かに床に置いた。
「チャームの解毒剤だ。久留美ちゃんに飲ませてあげてくれ」
「なっ……そんなもの誰が信じるか!」と、美樹が吠える。
「嘘じゃない。俺は自分を好きになってくれるものが好きなんだ。ま、久留美ちゃんをそのままにしておきたいのなら、使わなくてもいいけどね」
 蓮斗は薬瓶を蹴って美樹の方に転がすと、扉から素早く出ていった。部屋には美樹と久留美だけが忘れ物のように残された。
「久留美! しっかりしろ!」
 美樹はハッと気がつき、久留美に再度声をかける。
「あ……先輩?」と、久留美がゆっくりと美樹の顔を見る。定まらなかった瞳の焦点がようやく美樹の顔で定まる。「先輩……蓮斗さんは……? もっとお腹……苦しくしてほしいんです。先輩でもいいです……私のお腹……虐めてください……」
 美樹の顔にさっと寒気が走ったと同時に、かつん、と美樹のブーツに薬瓶が当たった。美樹は迷ったが、意を決して瓶を手に取った。
「久留美……これを飲め……」と、美樹は瓶のキャップを開けて久留美に差し出した。もう迷ってはいられなかった。今まで人妖に敗北した戦闘員やオペレーターが後遺症に苦しむ様子を何人も見てきた。後遺症は薬物である程度は抑えられるとはいえ、対症療法でしかなく、身体への負担も少なくはない。久留美にあのような辛い思いはさせられないし、仮にもしこの解毒剤が本物であれば、分析すれば後遺症に苦しんでいる人々も助かるかもしれない。
 美樹はキャップに少しだけ中身を移し、瓶を久留美に差し出した。久留美は素直にこくこくと瓶の中身を少しずつ飲み込んでゆく。飲み終えたところで美樹は瓶の口を拭き、キャップに注いだ薬液をビンに戻して蓋を閉めた。無事に戻れたら解析班に渡そう。
 久留美の瞳に、徐々に光が戻ってきた。寝ぼけた子供が完全に覚醒したように、不思議そうに美樹の姿を見た。
「久留美?」と美樹が聞いた。
「先輩? 私……何を……? 私……病院で……それから……私……先輩……先輩!」
 久留美が美樹の首に腕を回す。胸に顔を付けて泣いている久留美の頭を、美樹がゆっくりと撫でた。
「大丈夫だ……落ち着け……」
「私……どうしていたんですか……? 私……先輩を……」
「説明は後だ……とにかく今は安全な場所に行くぞ」と、美樹が言いながら久留美の手を引いて立ち上がる。久留美が戦闘服姿の美樹に気がついて、ぎょっとした表情になった。
「……先輩……あの……その格好は?」
「……その説明も後だ」
「いえ、かっこいいです……なんだか、すごく強そうで……」
 久留美がうっとりと溜息をつきながら言った。どうやら本心から言っているらしい。どうやって説明するか悩みのタネは増えたが、少なくとも戦闘服姿のシオンがここにいなくて良かったと美樹は思った。自分以上にしっかりしたイメージのシオンが露出度の高いメイド姿で現れたら、久留美への説明が更にややこしくなるだろう。
 美樹は久留美の手を引いて玄関ホールに戻った。
 蓮斗の姿は見えない。
 雪が強くなり、開け放した玄関から吹き込んでいた。
 美樹と久留美は身をかくするようにして、壁伝いに玄関へと向かった。久留美を連れて戦闘になるのはまずい。無事に玄関を出て、石畳を走る。門の扉は開いていた。ふと、門の外に小さな灯りが見えた。ハザードを出した車だ。警戒しながら近づくと、黒塗りのレクサスから初老の男性が降りてきた。
「鷹宮様?」
 初老の男性は驚いたように声をかけた。美樹も知った顔で、シオンの運転手をしている男性、山岡だ。美樹も何回か学院に送ってもらったことがある。
「……山岡さん? なぜここに?」と、美樹が聞いた。
「シオン様をここまでお送りしました……。お止めしたのですが、どうしてもと言われ……。私はシオン様から帰るように言われたのですが、心配で居ても立っても居られず、ここで待たせていただいております」
 シオンには待機命令が出ていたはずだ。命令を無視して独断で乗り込んで来たのかと、美樹は背後の建物を振り返りながら思った。自分がここに来ることは伝えていないが、シオンの鋭い勘はごまかせなかったらしい。
「山岡さん……すみませんが、久留美を預かっていただけませんか? あと、これを……」と、美樹は久留美に飲ませた薬瓶を山岡に手渡した。「もし私が戻らなかったら、組織の人間に渡してください。その際にチャームの解毒剤と伝えていただければ」
「……承知しました。さ、こちらに」
 山岡が後部座席のドアを開けて久留美を促す。久留美は戸惑いながらも「先輩」と振り返って声をかけた。「あの……私、事情はなにもわからないですけど……先輩たちのこと、本当に好きですから! シオン会長も、美樹先輩も!」
 久留美は泣いていた。
 強いな……と美樹は思った。訳のわからない事件に巻き込まれ、本来であれば全てを恨んでもいいはずなのに。いつの間にか後輩は大きく成長していたらしい。美樹はポケットからショートホープとジッポーライターを取り出して、タバコに火をつけた。
「久留美、預かっておいてくれ」と、言いながら美樹はタバコとライターを渡し、二人に煙がかからないように雪の降る空に向けて煙を吐き出した。戻ったら吸うと言い残し、美樹は建物に向かって走った。


「あれはやはり……ブランコなどではなく」
 通路を歩きながら、シオンが暗い目をしたままロシア語で呟いた。脳裏には、楡の木のそばの、五本の鎖が垂れ下がったブランコが浮かんでいる。
 ──絞首台なのだろうか。
 最後の言葉は恐ろしくて声にならずに、シオンの腹の底に落ちていった。
 絞首台がある児童養護施設がどこにある。
 ここが人妖に関わる何らかの研究が行われていたのは間違いない。人間を人妖化する実験も行われていたのだろう。だが、いったい誰が主導していたのか。冷子はこの施設を「私の庭」と呼んでいた。人妖は能力の高さのため、社会のアッパークラスに入り込むことも多い。大きな権力と財力を持った人妖がこの施設を作り、仲間を増やす目的で研究していたとも考えられるが……。
 考えがまとまらないうちに、シオンの目の前に細工の施された木製のドアが現れた。周囲の病院のような内装に反し、そのドアだけ周囲からひどく浮いている。
 扉を開け、階段を昇る。
 想像を巡らせるよりも、冷子から直接聞き出した方が確実だ。もちろん素直に話してくれるはずもないため、戦闘は避けられないだろう。階段を登り切ったところには再びドアがあり、開けると玄関ホールに出た。背後でドアが閉まる。今しがたシオンが出てきたドアは隠し扉になっているらしく、閉まると同時に壁と一体化して、開ける方法がわからなくなった。
 黒光りする黒檀の床に、高い天井から吊り下げられたシャンデリアの淡い光が反射しいている。
 簡素な外観に反して、内装は豪奢な造りだとシオンは思った。左右対象のネオバロック調の内装で、三階までが吹き抜けになっている。漆喰の壁には小さめのステンドグラスが嵌っていて、中央の大階段が二階部分で壁に沿うように枝分かれしている。子供の頃に暮らしていたサンクトペテルブルクの実家にも、同じような大階段があったなとシオンは思った。
 二階の扉が開き、床を踏む音が頭上から聞こえてきた。
 スパンコールがあしらわれた上質な黒いスーツを着た篠崎冷子が、大階段を足元を確かめるようにゆっくりと降りてくる。
「久しぶりねぇ如月会長? 相変わらず、はしたない痴女みたいな格好が似合っているわよ」と玲子が口元だけでうっすらと笑った。
「こちらこそ、ご無沙汰しております」と、シオンも笑みを浮かべながら答えた。
「あれから学院はどうかしら? 夏からずっと休暇を取っているから、あなたの活躍がわからなくて残念だわ」
「お陰様で、冷子さんが居なくなってから失踪事件は起きなくなりました。今回の久留美ちゃんの件を除いて……ですが」
 シオンが皮肉を込めて冷子に言い放つと、冷子は、ふふ、と笑った。
 冷子もシオンも互いに微笑みを浮かべたまま微動だにしない。シャンデリアの光が映し出す二人の影だけが揺らめいている。冷子が人差し指で耳の後ろを掻いた。シオンが細めていた目を開くと、緑玉の様な瞳が暗く光り、顔から笑みが消える。
「久留美ちゃんを返してください」
 普段よりもトーンの低いシオンの声は、黒光りする床を広がって冷子の足に絡まった。
「いきなり核心を突くわね。交渉のセオリーを知らないの?」と、冷子が呆れた声を出した。
「これは交渉ではなく、警告ですので」
「警告? ふふ……いつから生徒会長は教師に警告できるほど偉くなったのかしら?」
「生徒に不利益を与える者を教師と認めることは出来ません。あなたに復職する気があればの話ですが。少なくとも、久留美ちゃんの無事を確認するまでは交渉の余地はありません」
「本人が帰りたがらないとしたら?」
「それは本人から直接聞きます」
「もう返したって言ったら?」
「信用することはできません。仮に久留美ちゃんを解放したことが事実であったとしても、あなたが危険因子であることに変わりはありません。いずれににせよ……」と、言いながらシオンは左手の中指を口に咥えた。そのまま音を立てずにシルクの長手袋を抜き取ると、冷子の足元に放った。「アンチレジストの戦闘員として、あなたを拘束します」
 冷子の射抜く様な視線が、シオンの笑みの消えた顔を真っ直ぐに捉える。冷子は踏み出してシオンの手袋を踏みつけると、自分のジャケットの肩口を掴んでシャツごと袖を引き千切った。裏地のキュプラが、鼠が絞め殺された様な耳障りな悲鳴を上げる。両袖とも引き千切り、ジャケットがノースリーブの形になる。シオンは左手に予備の手袋を嵌め直した。
「貴女と会うたびにスーツが台無しになるわ。あなた、そのふざけた格好で来たって事は、夏みたいに無様に負ける覚悟はできているんでしょうね? 破廉恥なメイドさん?」
「ええ、もちろん。しかし負ける覚悟はできていても、負けるつもりはありません」
 冷子は口を三日月のように歪めると右腕をぶらぶらと振った。右腕の振れ幅が大きくなり、骨が無い軟体動物の触手のようにぐにゃぐにゃと伸びる。肌の色が徐々に、ぬめぬめと粘液に濡れたなめくじの様なまだらな灰色へと変色した。手のひらが肥大化して指の股が消え、丸みを帯びてボウリングの玉のような塊になる。
「どうかしら? 少し改良したのよ。見た目は少しグロテスクになってしまったけれど、威力やスピードはかなり向上しているわ。試してみる?」
 シオンが無言で構える。風を切る音。シオンの鼻先に冷子の右手が迫る。シオンは中国拳法のように前後に開脚して身体をかがめて攻撃を避けると、そのまま起き上がる勢いを利用して冷子に向かって距離を詰めた。伸びたゴムが戻る要領で帰って来た冷子の腕を避け、シオンは膝を冷子の腹部に埋める。
「ふぐッ!?」
 冷子の整った顔が歪む。
 そのまま流れる様に背後に回り込み、膝裏を蹴って跪かせる。いまだに暴れている冷子の右手がシオンの顔面に迫る。とっさに避けて直撃は回避したが、頬をかすった時に触手の粘液が僅かに頬に付いた。本能的に手の甲で拭う。
 冷子が背後のシオンをタックルの要領で突き飛ばしてバランスを崩させると、左手をシオンの脇腹に埋めた。
「んぐぅッ?!」
 触手化していない状態での攻撃は凄まじい威力だった。
 砲丸が腹に落ちた様な感覚を憶え、身体から力が抜け落ちる。直後に冷子の触手がシオンの首に巻き付いた。
「ぐっ……!」
 シオンはとっさに腕を触手と首の間に挟み込み、頸動脈が締め上げられるのを防いだ。ぬめぬめとした粘液が白い手袋を汚す。冷子は左腕を鞭のようにしならせてシオンの顔面に放った。シオンは不自然な体勢でもサッカーボールを蹴る要領で防ぎ、触手から頭を抜いた。
 お互いに間合いを取り、二人の呼吸音が静まり返ったホールに響く。
「ふふふ……楽しわねぇ。貴女のことは大嫌いだけど、簡単に死なない相手というのは面白いわ」と言いながら冷子が腕を軽く振ると、空気が抜けるようにして腕が元の形に戻った。汗で貼り付いた前髪を整えながら、赤く光る瞳孔でシオンを見る。「人間なのが惜しいわね。学院にいる時から見ていたけれど、人間のくせにヘタな人妖より優秀だわ。人妖の中にもたまに愚鈍な奴がいて……私そういうの許せないからすぐに殺ちゃうのよ。せめて実験材料にでも使おうとするんだけど、そういう奴らって基礎データすら陳腐なのよね。せめて運動がわりに遊んで殺そうと思ってもあっさり死んでしまうし、本当に何のために生まれてきたのか理解に苦しむわ。ねぇ、貴女を優秀な存在だと見込んで聞くんだけど、自分よりも劣っている存在なんて殺してもいいと思わない? 貴女、それでよく我慢が出来ていると思うわ。学院の経営にも協力しているし、研究棟の企業へのリース交渉だって今では貴女がまとめているのよね? 教師も生徒も、アンチレジストとやらの仲間も、貴女からすれば歯痒くて使えない奴らばかりでしょう? いっそ居ない方がいいっていつも思っているんじゃないの?」
「存在価値の無い人なんていません」と、シオンがツインテールの片方を手櫛で梳きながら、きっぱりと言った。「仮にそう見えたとしても、それはまだ、その人の価値に本人も周囲も気がついていないだけです」
「失望させないでくれる? 貴女のことは買っているのよ。その胸糞悪い性格以外はね。ねぇ、あなた人妖になってみない? その顔と身体なら遺伝子操作は必要ないでしょうし、食事の必要も無くなり、人間では絶対に得られない身体能力や特殊能力を得ることができる。デメリットは全く無いと思うけれど?」
「……私を人妖に?」と、シオンは動揺を抑えながらいった。やはり人間の人妖化は可能なのだろうか。
「簡単よ。身体と頭の仕組みをちょっとイジるだけで、ベースは一緒だもの。ここに来るまでにちらっと見てきたでしょう? もともとここはそのための実験施設で、過去からの研究を引き継ぐと同時に、適正のある人間の保護と人妖化の施術も行われてきたの」
「適正? 凄惨な事件を起こした子供に、人妖としての適性があるということですか?」
 蓮斗の犯行調書が脳裏に蘇り、シオンの頭にチリッとした痛みが走った。微かな吐き気も込み上げる。
「そうよ。自分のためなら平気で人の命を奪える──言い換えれば自分のためなら他人を躊躇いなく利用できる、自分と他人との境界をはっきりと線引きできる人間。あなたみたいに下らない博愛主義なんて持っていると、人間を餌だと割り切れずに面倒なことになるのよ。人妖の中にも餌に情が移ってしまう出来損ないがいて、餌と一緒に駆け落ちみたいなことを試みた奴もいたわ。あなたを人妖化する時はそのあたりの処置も必要だから、洗脳は必要ね」
「……そんな利己主義の塊になってまで、特殊な能力を得たくはありません」
 シオンは片足を引いて両手で短いスカートの裾を掴み、深々とお辞儀をした。綺麗なカーテシーだが、シオンを包む雰囲気が変わり、周囲の気温が下がる。
「──失礼いたします」と、シオンが床を見たまま言った。
 冷子の背中がぞくっと粟立つ。
 けたたましい音を立ててシオンの立っていた場所の床が割れた、シオンの姿が消えた。シオンはカーテシーの姿勢から強く床を踏み込んで跳躍し、前方に宙返りしながら冷子の脳天を目掛けて踵を落とした。冷子は背後に跳躍して避ける。シオンの踵がぶつかった床が割れた。シオンは踵を叩きつけた勢いを利用してそのまま前方に突進して冷子を追う。速い。冷子は右腕を軟体化させ、鞭のように弾いた。シオンは低空の姿勢になって躱し、そのまま独楽のように回転して冷子の足を横に薙いだ。
「ぐぅっ?!」
 くるぶしの部分にシオンの踵が当たり、冷子が呻く。体勢を崩した冷子の懐にシオンが飛び込み、後方に押し倒した。後頭部を打ち、冷子が短い悲鳴を上げる。シオンは冷子の喉を自分の脛と床の間に挟み、右膝を冷子の胸に乗せて重心を極めた。冷子は起き上がれず、シオンは肩で息をしたまま冷子を見下す。顎から垂れたシオンの汗が冷子のシャツに落ちて染みを作った。
「貴女、本当に強いのね──」と冷子が微かに笑いながら言った。「でも、まだ本気じゃないんでしょう? 性格の甘さでいつも力を出しきれない。今回もそうよね? リミッターが無くなったら恐ろしいわ」
 シオンは喉を押さえている足で冷子の頚動脈を締めた。冷子は平静を装いながらも、徐々に視線が泳ぎはじめ、顔が紅潮してく。あと三十秒もしないうちに、冷子の意識は途切れるだろう。シオンは左足に更に体重をかけた。
 瞬間、世界が回転した。
 まるでドッジボールがぶつかったように、顔の右部分に強い衝撃が走った。
「ぐあッ?!」
 一瞬体が宙に浮き、左肩から床に着地した。不意打で受け身が取れず、体全体に痛みが走る。
「へぇ……写真やビデオでは何回も見たけれど、実物は本当に人形みたいだな」
 白に近い金髪をオールバックに撫で付けた、真っ黒い格好をした痩身の男が、蹴りの姿勢から直りながら言った。
「……あなたが、蓮斗さんですか?」とシオンが上体を起こしながら言った。
「初めまして──と言ってもお互いもう知ってるから、初対面って感じがしないね」と言いながら、蓮斗は口角を吊り上げた。