後編の推敲が終わりました。
最終的な推敲を行い、今月中にDL販売の登録をします。


シオン尻餅ダウン修正フルのコピー



 冷子が床に手をついたまま激しく咳き込んだ。
「大丈夫ですか?」と、蓮斗が冷子を振り返って言った。声色にはやや馬鹿にしたような響きがあった。
「……うるさいっ。邪魔するんじゃないわよ」
「負けそうだったところを助けたのに随分だなぁ……。冷子さんがあそこまで追い詰められるなんて意外ですよ。多分僕が来なかったら一分も経たずに──」
 薄笑いを浮かべたまま話し続ける蓮斗の眼前に、冷子の軟体化した腕が鞭のような音を立てて伸びた。濡らしたタオルを弾いたような湿った破裂音に、蓮斗の体が一瞬固まる。蓮斗は、ひひ、と笑いながら両手を上げて後ろに下がった。
 シオンは今まで写真でしか見たことがなかった蓮斗を見定めようと努めた。写真で見た印象よりもさらに細く見える。肥満体型の頃の面影は皆無だ。顔は所々引きつったような不自然さがあった。おそらく数回にわたる整形手術の影響だろう。身振り手振りでよく話し、表情は落ち着かない。そして派手な髪型やこだわりの強すぎる服装は、根底にある強いコンプレックスと自身の無さ、自分の中の知られたくないものを隠そうとする人によく見られる傾向だ。中身が乏しい商品ほど、外箱は派手な場合が多い。過剰に目が潤んでいて呂律もわずかに怪しい。薬物依存症によく見られる症状だ。
 蓮斗が負った心の傷は、想像以上に深いものなのだろうとシオンは思った。
 自分はいじめられた経験は無いが、いじめとは存在の否定だとシオンは考えている。そして自分を見てほしいという欲求は、人間が本質的に持っている欲求だ。いじめはその欲求を否定させる。見ないでほしい、放っておいてほしいという本能とは矛盾する欲求が生まれ、結果的に心が歪み、傷ついてしまう。蓮斗は、ギリギリでここに立っているのかもしれない。繰り返す整形手術、極度の痩身、ブランドものの服、違法な薬物というプロテクターで自分を守りながら。
「悪かったわね、横槍が入って」と、冷子がシオンを見ずに言った。「落とし前は、これで許して頂戴」
 冷子はおもむろに左腕を掴むと、唸り声をあげながら右手に力を込めた。めりめりという音がして、指が二の腕の筋肉に食い込む。
「なっ……なにを……や、やめてください!」
 シオンが頭を振って駆け出そうとするが、その前に冷子が一層低い声で唸る。ブチブチという何本もの繊維がちぎれる音と共に、左腕が冷子の肩関節から脱臼する音が響いた。シオンは耳を塞いでしゃがみ込む。冷子の左腕が肩から完全に抜け、おびただしい量の血液がロビーの床にぶちまけられる。蓮斗がひゅうと口笛を吹いた。
「な、なんて……なんてことを……」
 あまりの光景にシオンは目に涙を浮かべ、両手を口に当てながら震えている。
「……そんなに大袈裟なもんじゃないわよ。腕一本再生するくらい訳ないわ」
 呼吸を乱しながら冷子が言った。左肩の傷口はナメクジの様な粘液質の表皮に覆われ、既に止血されている。
「随分と怯えちゃって。調べた通りだなぁ」と、蓮斗がシオンを見ながら言った。「人が傷つくことが極端に嫌いって本当なんだ。シオンちゃんの闘っている映像を何本か見たけどさ、おかしいと思ったんだよね。基本的に大振りで一撃必殺狙い。どう考えても理詰めや搦め手を使ってじわじわと追い詰める頭脳戦の方が得意なはずなのに、実際の戦闘スタイルは脳筋かよっていうほど大雑把だから、なんか変だなぁと思ったんだよ。なるほど、なるべく苦しめないように最短で勝負決めちゃおうって魂胆ね。僕とは正反対だなぁ。そうなったのもやっぱりアレかな? 君のことは色々調べさせてもらったけどさ、昔──」
 蓮斗が言い終わる前に、玄関の方で轟音が響いた。蝶番が壊れ、扉の一枚板がゆっくりとロビーの床に向かって倒れる。開けっ放しになった扉から、風に舞った雪が吹き込んできた。
 雪の光を背負い、巫女服の袖を揺らしながら鷹宮美樹がロビーに入ってきた。
 三人の視線が一斉に美樹に集中する。
「扉を壊してすまないな。驚かすつもりは無かったんだが──」と言いながら、美樹が蓮斗を睨みつけた。「貴様の声が聞こえたので、少しイラついてしまった」
「美樹さん……」と床に座り込んだままシオンが言った。美樹がシオンの側まで来て手を差し伸べ、シオンはその手をとって立ち上がった。シオンは頬を手で擦りながら「大丈夫です、大丈夫……」と視線を床に落としながら言った。美樹が勇気付けるようにシオンの肩を叩く。冷子が蓮斗を睨みつけた。
「ちょっと……なんでこいつが生きてるのよ? 始末したからこっちに来たんじゃないの?」
「いやぁ、その手違いというか……実は寸でのところで逃げられまして、あの双子もいつの間にか消えていて誰も捕まえることができず──」
 蓮斗が言い終わる前に、冷子が変形させない状態の右腕を蓮斗の顔面に向けて払った。首が折れるほどの勢いで蓮斗の頭が揺れるが、蓮斗は悲鳴をあげることもなくバランスを崩した程度で持ち直す。両方の鼻からは大量の血が垂れていた。
「あら?」と冷子が言った。蓮斗の顔を覗き込む。
 蓮斗の瞳孔は冷子のそれと同じ様に縦に裂けていた。
 瞳孔の内部が微かに赤みがかって見える。冷子はジャケットの内ポケットから鏡を取り出し、蓮斗に手渡した。蓮斗は自分の目を覗き込むと、何度も小さく頷きながら「やった……やったぞ」と言った。
「最終段階ってとこかしら……違和感は無い?」
「違和感どころかすこぶる順調です。痛みや疲労は日が経つにつれてほとんど感じなくなってきていますし、射精できる回数も増えました。久留美ちゃんと遊んでいる時は、お腹を殴りながら一晩で八回出したこともあります。睡眠欲もほとんど無くなりました」
 興奮気味に早口で捲したてる蓮斗を、冷子は手で制した。
「拒絶反応も無いみたいだし、ここまでくれば成功よ。あと数時間もすれば異性との粘膜接触で養分を吸収出来るし、老廃物もほとんど生成されなくなる。分泌する体液は異性を魅了する効果のある、いわゆるチャームに変化する。食事も排泄も必要無いし、疲労物質やわずかに生成される老廃物は体液と同時に体外へ排出されるから睡眠も必要無い。ようこそ、こちら側へ」
「ありがとうございます……ようやく人妖になれるんですね……。食事の必要がなくなるのは少し残念ですが」
「おい、なんの話だ……。人妖になれるだと? どういうことだ?」
 美樹が眉間に皺を寄せながら、蓮斗と冷子を交互に見た。シオンは地下で見た資料を思い出し、背筋が寒くなった。
「そのまんまの意味さ。俺はやっと人妖に進化できたんだよ。ずっと夢見ていたんだ……人間というクソッタレな存在から解放される日をな。なんでも順位付けして、余計なことばかり気にしながら、人の顔色をうかがってせこせこと生きるしかない卑屈なクズどもから──」と言いながら、蓮斗が興奮した様子でポケットからシガーケースのようなものを取り出した。開いて注射器を取り出し、鎖骨のあたりに針を打ち込む。雑に中の薬液を注入すると、ケースごと注射器を床に叩きつけた。「こいつは適正のある人間を人妖に進化させる薬だ。今は定期的に注射するしかないが、冷子さんのおかげで近いうちに、飛沫を吸い込んだだけで効果が発揮できるように改良される。俺はこいつを大量生産して、まずは日本中の人間を人妖にする。適正の無い奴はどうなるか知らねぇけどな」
 蓮斗の瞳は紅い光を放ちはじめた。冷子がその背後で興味無さげに頭を掻いている。
「日本は理想郷になるのさ。だってそうだろう? 飢えが無くなり、ただセックスしていれば生きられる存在に全員が進化するんだ。いまの世の中を見てみろ。容姿や収入、生まれや育ちで一生が決まっちまう世界だ。運悪くクソッタレな親の元に産まれちまったら、惨めな劣等感を抱えながら一生をジメジメとした日陰で泥水をすすりながら耐えなきゃならない。俺はそんな世界をぶち壊してやりたいのさ。考えてもみろ。セックスしてりゃあ飲み食いが必要なくなるんだぞ? 価値観が全部ひっくり返る。みんな同じだ。顔が良いとか悪いとか、金持ちとか貧乏とかで差別されなくなる世界だ。最高じゃないか」
「そ、そんな……」
「そんなことさせるか!」
 言葉に詰まったシオンの横で美樹が叫んだ。蓮斗を矢で射抜くように睨みつけた。
「日本中の人間を人妖にするだと……? 貴様、人間を何だと思っている?」
「自分勝手な最低の屑さ。街を歩いてると、色んな奴がいるよな? 俺はそいつら全員が何を考えてるのか想像するだけで、頭がおかしくなりそうだよ。でもさ、結局は全員何を食うか、誰とヤルかしか考えてないんだよ。それが満たされないから、自分より下の奴を作って、そいつを貶めて自尊心を保とうとするのさ。だったら、俺がその不安を取り除いていやる。お前らの仲間だったあの双子の生い立ちを聞いたことはあるか? 可哀想に、変態趣味の馬鹿親のせいでサイコになっちまった……。あいつらがいまだにソーセージと生卵を食べられない理由を考えてみろよ」
「屑はお前だろ?」と、美樹が冷たく蓮斗に言い放った。「人妖になれば人間全員が平等になれるだと? ふざけるな。人間という存在自体をかなぐり捨てて、何が平等だ。そんなもの、化け物になれと言っているようなものだ」
「俺から言わせれば人間の方がよっぽど化け物だ。少しでも他人と違うってだけで平気で傷付ける。俺はお前とは違うってだけで、平気で嫌悪の対象にして攻撃する」
「それは違います。自分らしく精一杯生きていれば──」
「お前らみたいに! お前らみたいに……最初から生まれや顔や学力に恵まれた奴らが、綺麗ごと言ってんじゃねぇぞ!」
 シオンの言葉を蓮斗が遮る。蓮斗は美樹とシオンを交互に睨みながら声を荒げた。
「余裕ぶっこいて上からほざいてんじゃねぇぞ! あ? 自分らしく精一杯生きるだと? なんだお前? お前、世界的製薬会社の創業家の令嬢だろうが? こっちは知ってんだぞ! 生まれや顔や脳味噌に恵まれて、周りからちやほやされてるから、くだらねぇ奉仕精神とか博愛主義とかでいられるんだろうが? あ? 何がメイドだよ。わざわざロシアから来て愛想振りまきやがって。お前が家柄に恵まれず、金に困っていて、顔や頭が今みたいに良くなくても、今と同じことをしていたのかよ!?」
「ただの僻みにしか聞こえんな」と、美樹が静かに言った。「確かにシオンの出生は、世間的に見れば恵まれたものだったのかもしれない。だが、知った風な口で、自分だけが不幸だと喚くな。私もシオンも、道楽や人を見下すためにこんなことをしていると思うか? そんなくだらない自己満足で命を張れるものか。いいか、命を張るってことはな、それなりの理由と覚悟が必要なんだ。お前は生まれつき生まれつきというが、黙って寝ているだけで頭や身体が鍛えられるか? ろくな努力もせずに、薬物や人妖の力に頼っているお前には、何も言う権利は無いぞ」
 水を打ったような沈黙が流れる。
 雪は相変わらず壊れたドアから吹き込み、シャンデリアの灯りは風に揺らめきながら黒檀の床を照らした。
 誰も何も発しない。
 凍りついた空気は永久凍土の様に重苦しく、ロビーにその身を横たえていた。
「……もういいわ」
 しばらくして、蓮斗の背後から声が響いた。凍りついた空気がようやく溶け出した。
 冷子がつまらなそうな顔をして全員を一瞥した。
「蓮斗……あなた、もういいわ……」
 冷子が冷たく言い放ちながら指を鳴らすと、蓮斗の身体が震えるほど大きく「どくん」と脈打った。次の瞬間、腹の中で爆弾が破裂したような勢いで、蓮斗の腹が物凄い勢いで膨張した。ライダースのジッパーが音を立てて壊れ、中に着ていた薄手の赤いカットソーが限界まで伸びる。
「……え?」
 蓮斗は自分の膨張する腹を呆然と見下ろす。ベルトが音を立てて千切れ、カーゴパンツのボタンが弾け飛んだ。身体は脈打つ度に膨張する箇所が広がり、膨張は胴体から手足、指先へと面積を広げた。
「ああああああああああああああああ!」
 カブトムシの幼虫の様に変形した自分の指を見ながら、蓮斗は喉が裂けるほど絶叫した。そのまま頭を抱えてうずくまる。
 シオンが青ざめた顔で手を口元に当て、首を横に振りながら無意識に後ずさった。
「な……なに……なんですかこれは……?」
「わからん……あの女が何かしたらしいが……」
 美樹も震える声を隠せずに、ただ呆然と蓮斗の変形を見守った。
「いやだぁぁ……戻っちまう……もう太りたくない……太りたくない……また皆から……虐められ……」
 膨張は既に全身に広がっていた。蓮斗の顔は二倍ほどの大きさに膨らみ、声は風船を押し当てて喋っているように不明瞭になっていた。綺麗に染められた金髪は頭皮が膨張したせいで密度が下がり、所々地肌が見えている。
「人妖の適正を無くすことくらい簡単に出来るのよ。なんで私があなたのくだらない理想のために力を貸さなきゃならないの? 自分は特別な存在だとでも勘違いしていたのかしら?」
 冷子の声に蓮斗は顔を上げる。元の面影が皆無なほど変形していた。目は恐ろしい量の脂肪で塞がり、口や鼻も膨らんだ頬に押しやられ、数カ所小さな穴が開いている肉団子のように見えた。
「ぼおぉ……」
 蓮斗は何か言葉を発したらしいが、口腔が脂肪で塞がれて呻き声にしかならなかった。
 冷子は気にせずに薄笑いを浮かべている。
 蓮斗の狭まった視界の隅に、緋色の布が映り込んだ。蓮斗は顔の角度を変えて見上げようと試みるが、まともに動くことが出来ない。
「こいつを元に戻せ」
 美樹の声だ。
 蓮斗の歪んだ視界のピントが、一瞬だけ合った。
 自分に背を向けて、冷子に立ち塞っている美樹の姿が目に入った。緋色のスカートや襦袢に走る緋色のラインが、やけに鮮やかに見えた。
「あなたなら出来るはずです」
 蓮斗の視界に別の影が映る。
 白いガーターベルトの付いたストッキングに、フリルの付いた黒いスカート。二つに纏めた長い金髪。
「人間をここまで作り替えることが出来るのなら、逆に戻すことも出来るはずです。お願いします」
 シオンの声にはすがるような雰囲気があった。冷子がふんと短く息を吐く。
 蓮斗の思考はまだはっきりとしていたが、身体は四つん這いの体勢のまま動かすことが出来ない。その蓮斗をまるで庇う様に二人が背を向けて立っている。
 美樹の長い綺麗な黒髪が揺れて綺麗だった。
 印象に残っている、綺麗な長い黒髪。
 そして強気で凛とした性格。
 小学校の頃、いじめらていた自分を唯一助けてくれた女の子も、長い黒髪だった。
 まさか……な。
 そんな都合のいい話がある訳が無い。
 でも、もしそうだとしたら……。
 蓮斗の身体が脈打ち、瞼が更に膨張する。蓮斗の視界は完全に塞がり、何も見えなくなった。
 耳も塞がれているのか、彼女達の会話の声も、まるで轟轟と吹き荒ぶ激しい風の音のように不明確になった。
 そして、思考や意識までもが徐々に混濁していった。


 ──寒い──寒い──。
 俺は一体どうなっちまったんだ……?
 人妖に進化したら、全てが上手くいくはずじゃなかったのか?
 このクソッタレな人生に復讐ができるはずじゃなかったのか?
 冷子が裏切った……。
 人妖に取り入ったのが間違いだったのか……。
 いや、それしか方法が無かったじゃないか。
 突然この施設を放り出されてから、身寄りのない俺はヤクザの下働きになった。
 クソみたいな仕事をして小金をもらうだけのヤク中だった俺は、人妖に取り入らなければ野垂れ死ぬだけだった。
 人妖……ジンヨウ……。
 ガキの頃、施設の大人達が話していた聞きなれない言葉だ。意味を知ったのはずっと先のことだ。
 大人達は、俺達を人妖にするための実験をしていると言っていた。もちろん当時は意味がわからなかったが……。
 ヤクザの下で薬の売人をしている時、偶然客の女から人妖の噂を聞いた。
 もう薬は必要なくなった。それよりも良いものが見つかったと女は言った。
 なんのことか聞くと、ある男とのセックスにハマっていると、女は言った。
 どこぞのホストにでも入れ込んでいるのかと思ったら、その男は人間ではなく、人妖だと女は言った。
 俺は久しぶりに聞いた人妖という単語に心底驚いた。
 女は興奮した様子で、早口で捲し立てた。
 ハマってくると、キスだけでトぶ……。唾液や精液といった分泌液に妙な効果があるらしい。
 だから口やナカで出されでもしたら、脳が震えているのがわかるほど快楽の電撃が走る。
 しかも見た目は人間と変わらないが、超イケメンで、いつも最低五回は失神するまでイかされる。
 もう薬なんてどうでもいい。思い出しただけで濡れてきた。早く人妖に会いたい。もう薬はいらないから連絡しないでほしい。
 女が去った後、俺は放心していた。
 俺は生きた麻薬にされるためのモルモットだった訳だ。
 だったら、利用してやると思った。
 俺は人妖のことを調べ、苦労して冷子と接触して、殺されるのを覚悟で取り入ったのに……。
 こんなはずじゃなかった……。
 寒い……。
 くそ……寒いな……。
 何も見えないし、何も聞こえない。
 身体が上を向いているのか、下を向いているのかすらもわからない。
 酷い寒さだ……。
 あの時よりも寒い。
 俺がデブだった頃。
 集団で虐められ、ボロボロになって、泣きながら家に帰った。
 親は庇ってくれるのかと思ったら、「やり返すまで帰ってくるな」と、俺を家から締め出した。
 雨の降る中、真っ暗な公園の遊具の中で丸まり、寒さと絶望感と怒りに震えながら、独りで泣いた。
 あの時は世界の全てから裏切られたように感じた。
 寒い。
 寒い。
 寒い。
 やり返すまで帰ってくるなだと……?
 お前の言う通りやり返してやったぞ!
 言われた通り、俺はそいつらの腹をそいつの親の目の前で掻っ捌いて、中身を掻き回しながらマス掻いてやった!
 今まで俺が受けた苦痛をまとめて一括返済してやったのさ!
 テメェがやれって言ったくせに、たかが腹捌いて臭ぇ内臓ミンチにしてぶっ殺してやった程度でぐちゃぐちゃ喚きやがって!
 俺は殺される以上の仕打ちを受けてるんだよ!
 どうすりゃいいんだよ!?
 勝手なことばかり言いやがって!
 テメェがアイツらを殺してこいって言ったから殺したんだろうが!
 クソが!
 死ね!
 まだ三人しか「やり返して」ねぇんだよ! ふざけやがって! 俺はまだまだ殺さなきゃならねぇんだよ!
 死ね! 全員死ね! 苦しんでもがいて死ね!
 クラスの奴ら全員と担任を殺す──いや、唯一庇ってくれたあの女の子だけは見逃すつもりだったが……。
 その前に取っ捕まって、少年院ではなくこの施設に入れられた。
 思えば施設に入る前も出た後も最悪だった……。
 施設では訳の分からない薬打たれたり、検査や実験をされたりして、ゲロとクソを垂れ流しながら一晩中のたうち回ったことも何回もある。
 ……畜生。
 俺はいつも、誰かの食い物だった……。
 親からも、学校の奴らからも、教師からも、施設の大人等からも、人妖からも……俺は食われてばかりだ。
 やっと俺が食おうとすると、必ず誰かが邪魔をしてきやがる……。
 俺より少し後に施設に入ってきた双子の姉妹と、なんとなく話すようになった。
 あいつらだけは、俺を食おうとはしなかった。たぶんあいつらも、散々誰かに食われてきたんだろう。
 何年か経って、突然施設の中が慌ただしくなって、大人達がバタバタと荷物や資料をまとめて出て行きやがった。
 スポンサーだか経営者だか、とにかく施設の運営に関わる海外の偉い奴が急死して、権利者の間で揉めはじめたとか言っていたが……。
 パニックを起こした大人達の一部が、子供達を処分し始めた。
 連れて逃げる余裕は無いし、仮に保護された子供が施設のことを喋れば、立場が危うくなる奴なんて何人もいる。
 それまでも見せしめみたいに、適性の無い奴や問題を起こした子供を外の絞首台で処刑することはあったが、今回はニワトリをシメるみたいに片っ端から。
 止めようとした大人が銃を打って、子供を殺していた大人の何人かが倒れた。
 俺を含め、ガキの大半はどさくさに紛れて逃げ出すことに成功した。
 真冬の山の中を、手術着みたいな薄い服一枚と裸足で必死に逃げた。
 別に生き延びたくはなかったが、もうこれ以上誰かの食い物にされることにウンザリしていたんだ。
 あの時も、こんな風に寒かった……。
 寒い。
 寒い……。
 誰か、俺の部屋の暖炉に火を入れてくれよ……。
 薪は暖炉の横に置いてあるから……。
 誰か火を……。
 誰か……。
 ハイブランドの服も、豪華なメシも、肝心な時に役に立たないじゃないか……。
 誰か、俺の味方でいてくれよ……。
 俺に大丈夫だって言ってくれよ……。
 誰か。
 誰か……。


「まだ大丈夫だろう? こいつを元に戻せ」と、美樹が背後を親指で指しながら言った。眉間に皺を寄せてた美樹の顔は、シオンも見たことが無いような恐ろしい表情だった。美樹の親指の先には、見る影もないほど肥満体になった蓮斗が頭を抱えるようにしてうずくまっている。肌の色は青白く変色し、所々に血管が透けて見えた。塞がれた口腔の奥からモゴモゴとくぐもった不明瞭な声が聞こえる。何か言葉を発しているのか、ただ単に呻いているだけなのかはわからない。
 このような姿になって、蓮斗は今なにを思っているのだろうかとシオンは思った。いや、なにも思っていない方が良いのかもしれない。肥満を理由に酷い虐めを受けた蓮斗にとって、脂肪に覆われた今の姿は発狂するほど堪え難いものだろう。それならば、いっそ発狂し、なにも考えられなくなっていた方が幸せなのかもしれない。
「しつこいわね。まぁ、今なら戻すことも出来なくはないけれど……」
 冷子が呆れた様子で言った。美樹とシオンが溜めていた息を吐く。
「でも、こうなったらもう私でも無理よ」
 冷子が指を鳴らした。直後、蓮斗が硝子を引っ掻く様な悲鳴を上げた。
 美樹とシオンが同時に耳を塞ぐ。
 蓮斗は苦しみながら、芋虫の様な指で頭を強く抱えた。脂肪でぶよぶよになった頭皮に指が埋まり、一部が破れて血が滲む。
 美樹とシオンはなす術も無く、呆然とその様子を見守るしかなかった。
 蓮斗はもがき苦しむ様にしばらく身体を捩ると、やがてぴたりと動かなくなる。
 少しの沈黙。
 突如、蓮斗の背中に無数の瘤(こぶ)のようなものがボコボコと発生した。瘤は盛り上がり、分裂を繰り返して数を増やしながら、独立した生き物のように蠢いている。布の破れる音。蓮斗の伸び切った赤いカットソーが破れ、カタツムリの目の様なグロテスクな触手がわらわらと溢れた。シオンが「ひっ」と小さな悲鳴をあげる。
「うまくいったわね。皮膚の下にあるうちは脂肪に見えるかもしれないけれど、実際に増殖していたのは脂肪ではなく、私の触手の細胞に手を加えたもの……。人間を人妖に変態させる薬とカクテルにして、拒絶反応が起こらないように少量ずつこいつの体内に蓄積させておいたの。今、私の合図でこいつの脳に完全に浸透したわ。思考はもはや、見た目通りナメクジやカタツムリと変わらない。あとは本能の赴くまま、食欲に従って暴れるだけ暴れる醜い肉塊として、自滅するまで動き続ける。今は時間をかけて複数回細胞を注入することでしか変異させることはできないけれど、いずれ粘膜から吸収可能な噴霧式で即効性を持たせることができれば、一度に大量の人間を作り変えることができる。理想は感染性を持たせたウイルスタイプね……完成すれば最後の一匹になるまで人間同士で勝手に共食いを始めてくれるわ」
 顎に指を当てて満足そうに状況を分析する冷子に向かって、美樹が飛び出した。今の冷子には左腕が無い。防御の薄い左側へ、手甲の金属部分を冷子にぶち当てるように拳を突き出す。手応え。蒟蒻を殴った様な異様な手応え。冷子の左肩からズルリと灰色の太い触手が生え、美樹の攻撃を受け止めていた。
「な……に……」
 美樹が歯を食いしばる。
「急ごしらえさせるんじゃないわよ……」
 冷子は触手を美樹の上着に絡ませ、強引に身体を引きつけて右拳を美樹の腹に埋めた。ずぷんと鈍い音がして、美樹の背中が僅かに盛り上がる。
「ゔぶぅッ?!」
 美樹の両足が地面から浮き、身体がくの字に折れた。
「無駄よ。人間が私達に勝てるわけないでしょう?」
 冷子が美樹の腹に埋まった拳を捻る。ただ苦痛を与えるだけの行為に、美樹の身体は悲鳴を上げた。
「ぐぶぁッ……! ぎぃッ……」
 苦痛に耐えるように美樹が歯を食いしばる。次の一瞬、その顔が少しだけ笑った。両手で冷子の腕を掴む。怪訝な顔をした冷子の視界が一瞬暗くなった。シオンが美樹の背後から跳躍し、シャンデリアの灯りを遮っていた。シオンはフィギュアスケートのジャンプの様に錐揉みに状に回転し、冷子の首に巻き付く様な回し蹴りを放った。頚椎をしたたかに打ち抜かれ、冷子の身体がぐらりと傾く。美樹が手甲で冷子の顎を跳ね上げた。
「シオン!」
 美樹がシオンに向かってバレーボールのレシーブの様に手を伸ばした。シオンが軽く跳んで美樹の手のひらに足を乗せると、そのまま美樹の押し上げる力を利用して飛び上がる。羽の生えたような跳躍だった。シオンは膝を抱えたまま前方に宙返りし、勢いをつけたまま落下点を確かめる。宙返りで勢いをつけた踵落としはシオンの得意技だ。人妖とはいえ、脳天に食らえばほとんどの相手は失神してきた。
 今回も宙返りの勢いを殺さず、脚を伸ばして踵を冷子に振り下ろした……つもりだった。
 シオンの靴底は天井を向いたまま、逆さ吊りの体勢で固定された。まるで万力で足首を空中に固定されたようだ。一瞬事態が飲み込めず、無意識にスカートを手で押さえる。にやりと笑っている冷子と目が合った。逆さ吊りのまま自分の足首を見る。自分の足首に巻きついている触手がぬらぬらと光っていた。
 これは、蓮斗の背中から湧き出たものだ。
「シオン! 危ない!」
 美樹が叫び、視線を移す。風を切る音。蓮斗の触手が猛烈な勢いでシオンに伸びていた。
「え……おぶぅッ?!」
 不意打ちで、ドッヂボールほどの大きさの黒ずんだ先端が腹に減り込んだ。身体が折れ曲がり、痛々しいほど陥没した自分の腹部が目に入る。
「かはっ……! ぁ……」
 触手が引き抜かれ、シオンがなんとか呼吸をしようと口を開けた瞬間、再び不気味な風切り音が耳に届いた。背中にぞくりと悪寒が走る。次の瞬間、数本の触手がシオンの腹に連続して埋まった。
「ゔぶッ?! ごッ?! ゔぁッ!?」
 逆さ吊りの体勢のため、シオンの顔に自分の吐き出した唾液が降り掛かった。一瞬気を失い、スカートを押さえていた手がだらりと地面に向けて伸びる。
 触手はシオンの身体をハンマー投げの様に振り回し、壁に向かって叩きつけた。
 したたかに背中を打ち付けられた衝撃で、肺の中の空気が一気に押し出される。足に力が入らず、背中で壁をこするようにズルズルと尻餅を着いた。
 ふっ……と視界が暗くなる。シオンが顔を上げると、蓮斗の触手がわらわらと蠢きながら、シオンに向かってハンマーの様に振り下ろされようとしていた。
 シオンは無理な姿勢から転がるように逃れる。蓮斗の触手はそのまま振り下ろされロビーの床に大穴を開けた。
 あっ……と、シオンが短く叫んだ。
 触手の直撃は免れたものの、古い床には大穴が開き、シオンは今にも落下しそうな状態で穴の淵にかろうじて片手で掴まっている。
「シオン!」と、美樹が叫んだ。シオンの元に駆け寄ろうとするが、蓮斗の触手に阻まれる。
 風切り音。
 冷子の左肩から生えた触手が鞭のように伸びてシオンの手に当たり、シオンはそのまま地下に落ちていった。
 再び美樹がシオンの名を叫んだ。
 蓮斗はターゲットを美樹に変えたらしく、数本の触手を束にして美樹に放った。
 美樹は舌打ちしながらサッカーボールを蹴るようにして触手を弾く。
「そんな姿になってまでも、お前は私に執着するのか……」
 美樹が呆れるように言った。
 シオンは無事だろうか。一瞬だが、空いた穴からは病院か研究所のような空間が見えた。なぜ地下がそのような造りになっているのかは不明だが、深くはなさそうだ。落ちた程度で致命傷を負うほどシオンはヤワではない。視界の隅で、穴に飛び込む冷子の姿が見えた。
 蓮斗は触手を腕のように使って、膨れ上がった上半身を起こした。
 上着は完全に裂けて失われ、胴体の肉がスカートのように垂れ下がって足元を覆っている。脚部が完全に肉で隠れ、座っているのか立っているのかもわからない。両手は頭を抱えた状態のまま肉に取り込まれ、耳を塞いでいるように見えた。顔は二倍以上の大きさに膨れ上がり、額や頬の肉が垂れ下がって目と口がへの字型の裂け目のようになっている。裂け目の中に赤く光る瞳が見えた。
「蓮斗……」と、美樹がポツリと言った。「お前のことは大嫌いだ。久留美を誘拐し、暴行したことは許せん。だが、そんな目に逢う運命は少しむご過ぎるな……」
 蓮斗からは汚水が泡立つような音が聞こえた。肉に阻まれた呼吸音なのか、唸り声なのかはわからない。
「辛いだろう。太っていたことが嫌だったらしいな? それをもう一度同じ目に……。だが」
 美樹が上着の中に手を入れ、樹脂製の短いスティックを二本取り出した。美樹が強く振ると収納されていた中身が飛び出し、取っ手を起こすとトンファーの形になった。美樹は慣れた手つきでトンファーを回転させながら構えた。
「お前がまだ人間であったなら、アンチレジストはどんなクズだろうと救うために最大限の努力をした。だが、人妖か、それに準ずるモノになってしまったのなら、私達アンチレジストの討伐対象だ。観念しろ」

 蓮斗の背中から伸びた触手が蛇の群れように縦横無尽にうねり、美樹に向かって振り下ろされた。速くはない。美樹はジグザグに動いて躱しながら、徐々に距離を詰める。横に薙ぐような触手の攻撃を跳躍で回避し、蓮斗の顔面にトンファーを叩き込んだ。トンファーはぐにゃりと肉に埋まったが、ダメージは無いようだ。ならばと美樹はトンファーを握り直し、本体の短い部分で蓮斗の目を突いた。金属を切るような悲鳴が上がる。すかさずもう一方の目も突き、さらに眉間だった場所に一撃を打ち込んだ。ぶよぶよとした軟体動物のような肉の奥に、硬い骨の感触があった。
「肉の増殖に対して、骨が追いついていないようだな」と、美樹は距離を取りながら言った。トンファーを勢いよく振り、まとわりついた粘液を振り切る。「頭蓋骨の大きさや厚さは元のままのようだ。無茶なことを。その重量では脚の骨は今頃粉々だろうな
 蓮斗は触手を槍のようにして美樹に放った。美樹は最小限の動きで躱し、蓮斗の様子をうかがう。蓮斗のへの字に垂れた口から、苦しそうな喘ぎにも似た声が漏れている。蓮斗は何度か美樹に触手を飛ばしたが、いずれも力が無く、躱すのに苦労はしなかった。攻撃というよりかは、何かを探るような動きだ。美樹が不思議に思っていると、触手は奇妙な動きを見せた。美樹の後方の壁を探るように動き、火の消えた蝋燭を取ると、ビニールシャッターの様になった唇を押し上げて蝋燭を口に運んだ。
「なるほど……」
 美樹は蓮斗に向かって突進した。巫女装束の袖を翻しながら、高速でトンファーの柄を蓮斗の喉元に抉りこむ。まるで美樹自身が一本の槍になったような一撃に、蓮斗は悲鳴をあげて飲み込んだ蝋燭を吐き出した。
「こんな身体で動き回るには膨大なカロリーが必要だ。腹が減って仕方がないんだろう? 貴様ら人妖は異性との粘膜接触で養分を得るらしいが、もはや動けないその身体では難しい。放っておけば勝手に餓死する運命だ」
 触手が力の無い動きで美樹の足に絡まろうとしたので、美樹がブーツの底で踏みつけた。
「そして生憎、私は貴様に養分をやるつもりはない」
 美樹はトンファーを持ち替え、柄の長い部分で蓮斗の目を突くと、渾身の力で押し込んだ。耳を塞ぎたくなるような甲高い悲鳴が蓮斗の口から放たれる。
「最期に教えてやる……もう聞こえていないかも知れんがな」と、美樹は歯を食いしばってトンファーを押し込みながら言った。トンファーが蓮斗の脳に達するまでは、まだ距離がある。「蓮斗……お前はさっき私やシオンのことを、生まれや育ちが恵まれていたから博愛主義でいられて、アンチレジストのような人助けが出来ると言ったな? 違うぞ。私もシオンも家が少し複雑でな。私もお前のように小さい頃から施設に入っていて、実の親の顔もよく覚えていない。同じ頃にシオンも事情があって故郷のロシアに居られなくなり、独りで日本に来た。貴様も色々と気の毒だったとは思うがな……全てを人や環境のせいにして、中身を磨かずに外見だけを整えたり、薬物に頼ったりしていても何も解決はしないぞ。もっとも私も、シオンのようにいつもニコニコしていられるには、まだ時間がかかりそうだがな……!」
 蓮斗の腹のあたりが音も無く膨らみ、太い触手が生えた。美樹が気がつくと同時に、鞭のような速さで美樹の腹に埋まる。ぼぐんッ……という音とともに、美樹の黒いインナー部分が陥没した。
「ゔッ?! ぶぐぇッ……?!」
 美樹は後方に吹っ飛んで仰向けに倒れた。不意打ちを喰らい、視界が明滅する。天井のシャンデリアがぼやけて視界に映り、それを隠すように極太の触手が伸びてきて、美樹の腹を潰した。
「ごぶうッ!? ゔぁッ……! げろぉぉっ……」
 美樹は身体をよじり、背中を丸めて胃液を吐き出した。今までの弱り切った様子とは明らかに動きが違う。再び振り下ろされた触手を転がりながら避け、肩で息をしながら立ち上がった。蓮斗は目に刺さったままのトンファーを触手で引き抜き、フローリングの床に捨てた。
「なんだ……? 養分を補給したのか?」と、美樹が肩で息をしながら言った。すぐさま猛烈なスピードで触手が飛んでくる。美樹は屈んで避けるが、別の触手が美樹の足首に絡まり、蓮斗本体に向かって引きずられた。美樹は歯を食いしばり、触手を解こうとするが、粘液で滑って指を立てることすらできない。やがて美樹の身体に何本もの触手が巻きついた。
 この匂い……ガソリンか、と美樹は思った。バイクが趣味の美樹にとっては、親しみのある好きな匂いだ。
 見ると、蓮斗の背中から伸びたミミズの様な細い触手が、板張りの床の隙間に入り込んでいた。地下に保管されている燃料を吸い取っているのだろう。ガソリンや石油を分解し、養分にする微生物がいると美樹は過去に聞いたことはあったが、いくら飢餓状態とはいえ蓮斗がガソリンを吸収するとは。
 触手が美樹の顔の前に伸びた。先端が男性器の様な形をしている。次の瞬間、触手が伸びて美樹の半開きになった口から侵入し、喉奥まで押し込まれた。
「んぐぅッ?!」
 触手は素早く前後運動を繰り返し、美樹の口内と喉を嬲った。触手からは生臭い匂いとガソリンの匂いが染み出し、猛烈な吐き気に襲われる。美樹は失神しないように全身を硬直させて耐えた。やがて触手の先端が膨らみ、重油の様な粘液が美樹の口内に大量に放出された。蓮斗の口から溜息に似た音が聞こえた。一瞬拘束が緩み、美樹はスカートの中に忍ばせている小ぶりなナイフを取り出して触手を切りつけた。拘束が解け、美樹は転がるようにして距離を取ると、口内の粘液を憎々しげに吐き出す。
「もっと長い得物を持ってくるべきだったな……さて、どうしたものか」


 割れた床の細かい破片が、仰向けに倒れたシオンの顔にパラパラと降ってきた。
 階上から落ちた衝撃でショートした脳を回復させるために、シオンは目を瞑ったままこめかみを揉む。服や手袋は所々が破れて素肌が見えていたが、大きな怪我や傷は負っていないようだ。天井の破片が目に入らないように注意しながら、ゆっくりと目を開ける。自分が落ちてきた穴の横に、旧式の無影灯が太いアームで固定されていた。自分の上に落下しなかったのは幸いだったと、シオンは思った。
 廊下の奥からカツカツとパンプスの音が聞こえてきた。誰が来るのかはもうわかっている。シオンは身構え、その人物が現れるのを待った。
「懐かしいわね……ここは実験室よ」と、言いながら冷子が部屋に入ってきた。ジャケットは脱ぎ捨てたようで、袖が破れてノースリーブになったワイシャツ一枚を羽織っている。冷子自らが捥(も)いだ左腕は触手によって再生させており、灰褐色の色でなければ普通の腕と見分けがつかなかった。「ここで被験者の子供たちに様々な薬物を与えて、人妖へ変化する過程を見ていたの。拒絶反応で暴れたり、蓮斗みたいに身体が変化してしまう子もいたから、実験室とは言えちょっと物々しい内装になっているけれど……」
 冷子が壁に設置されている拘束具を指差した。暴れてもいいように、両手足を固定してから実験をしたのだろう。シオンは拘束具を一瞥すると、冷子に視線を戻した。
「ホールに行く途中にここを通り、いろいろな資料を見ました……。孤児を集めていたのは、人妖化する実験のためだったんですね」
「そうよ。貴女には想像もつかないでしょうけれど、世の中には存在を望まれていない子供達が結構いるの。そういう子達は実験の失敗で死んでも誰も気がつかない、便利な存在だったわ」
「なぜそこまでして……」と、シオンが言った。
「簡単よ。前も言ったけれど、食物を必要としない人間を作りたかった、ただそれだけよ。人間は進化したけれど、生きるためには食事が必要であり、活動の大部分も食糧を得るために割かなければならない現状は、まだ動物としての枷が外れていない。では、もし人間が食物を摂取しなくても活動ができるようになったらどうなるか。動物が最も恐れる飢えが無くなり、食物を得るための活動を別のことに振り分けることができる。動物の枷から解放された人間は、知識のみを追求するより高次の存在になれる……と、研究をスタートさせた人間達は考えた。貴女が生まれるずっと前から、この実験は続いているの。各国が表の関係とは無関係に、人妖に関しては秘密裏に手を組んだり裏切ったりしながら、様々な実験を繰り返していた。やがて、異性の人間からであれば、粘膜接触で養分を吸収できる人妖の開発に成功した。私や、涼がそうね。彼はもういないけれど……」
「あなたも、元は人間だったんですか……?」
「馬鹿言わないでよ」と言いながら、冷子は苛立ったようにサイドの髪を後ろに梳いた。「私や涼は、試験管の中で人口受精させたばかりの卵細胞を遺伝子操作して、代理母に戻して造られたオリジナルの人妖……。人妖としての能力の他に、容姿や頭脳も遺伝子操作の際にイジられる。当時の最終目標のひとつである、人間から人妖に改造する手段を確立させたのも、研究を乗っ取った私たち人妖達よ。上の階で暴れている蓮斗みたいに、意図的に失敗させることもできるけれど」
「乗っ取った……?」と、シオンは息を飲みながら聞いた。
 冷子が言った。「人妖を生み出すことに成功した少し後、人間同士で内紛が起きたのよ。人妖には人間と同じく自我があるし、遺伝子操作で身体能力や知能指数が高く、おまけに異性の人間さえいれば食事の必要は無い。もし人妖達が自分達に牙を剥いたら勝ち目は無い。そうなる前に、人妖達は全員廃棄して研究を止めるべきだという意見が出始めた。自分達はとんでもない怪物を生み出してしまったのかもしれないと恐れたのね……。もちろん、人妖を兵器や労働力として研究していた組織は人妖の破棄に猛反発し、研究方針をめぐる争いは各地に飛び火して収集がつかなくなった。それと同時に、人妖研究に多大な援助をしていた最大手のパトロンからの資金が突然ストップしたことも、混乱に拍車をかけた。そして、多くの研究機関が自滅したり解散したりしているうちに、多くの人妖が研究所から逃げ出した……。私もその時に逃げたわ。勝手に造られて、研究所の人間から養分提供だとか言いながら犯されて、都合が悪くなったら殺されそうになるなんて……我ながら随分と酷い人生だったと思うわ」
 突然冷子の左腕が伸びてシオンの身体に巻き付いた。シオンを自分の身体に引きつけると、額が触れ合うほど顔を近づけながら言った。
「言っておくけれど、同情なんかするんじゃないわよ? 同情というのは関係の無い人間が自己満足のためにするもの……貴女、まだ自分が全く関係無いとでも思っているんでしょう? なんで私達が研究を乗っ取ることが出来たのか、まだ言っていなかったわよね?」
 冷子が聞いたことがないような低い声で言った。シオンは、初めて冷子の本当の声を聞いた気がした。
「人妖の研究には莫大な資金が必要なの……。ねぇ? わかるでしょう? 世界的製薬会社『アスクレピオス』の創業家、ラスプーチナ家のお嬢さん? 成果の出ていない段階の研究には、優秀なパトロンが必要不可欠なの。貴女の家は代々、人妖研究に莫大な資金を投じてきた。もちろん、研究が結実すればその何倍もの利益が返ってくることを見越してね。十数年ほど前、『アスクレピオス』総帥の貴女のお父様が突然死して、一時的に融資が途絶えた。でも数年前に突然、貴女の家は融資を再開した。私達はその混乱したタイミングで、頭の悪い人間に取って代わって過去の研究を引き継ぎ、研究途中だった人間を人妖化する方法を確立した。人間達の研究を紐解くだけで、方法の確立に大して時間がかからなかったわ。そして我々に敵対するアンチレジストにも、ラスプーチナ家はかなり融資をしている。まるで死の商人みたいね? 一方では人妖研究を進めさせ、もう一方では人妖討伐機関を運営しているんだから。どちらに転んでも、貴女の家は更なる富と名声を手に入れられる」
 シオンの頭にジリッとした痛みが走った。脳裏に、ハッキングして手に入れたアンチレジストの受取金リストが浮かぶ。確かに自分の生家の名前がトップに記載されていた。冷子はシオンの身体を物のように投げ捨て、シオンはしたたかに背中を壁に打ち付けた。
「……私の家が人妖研究に絡んでいることは知っています」と、シオンが痛みに耐えながら言った。「夏以来、アンチレジストに不信感を抱いた私は色々と調べました。その際に、ラスプーチナ家の投資案件リストも偶然手に入りました。人妖研究と、アチレジストにかなりの額を投資していることも……」
「なら話が早いわ……。責任を取って、貴女もこちら側に来なさい。嬲り倒して瀕死にしてから、人妖に改造してあげる。貴女はとびきり綺麗な人妖になるわよ?」
「それは私の責任の取り方ではありません」と、シオンが静かに首を振った。「他の人を犠牲にしなければ成り立たない存在には、私はなりたくはありません。廃人のようになってしまった人妖事件の被害者の姿を何人も見てきました。私の生家が人妖研究に関わっているのなら、私の手でそれを終わらせます。人妖を捕獲し、人間に戻す方法を探すのが私の責任の取り方です。人助けになればと始めたアンチレジストの活動ですが、思えば最初から神様が導いてくださったのかもしれません。贖罪なのか、試練なのか……」
「……いつまでも自分だけは、正義の味方でいられるなんて思わないことね」
 冷子の左腕が別の生き物のように伸びた。先端がソフトボールほどの大きさに膨らんだ触手が、シオンを目掛けて矢のように飛んだ。シオンは直前で回避し、背後の壁が大きく陥没する。冷子のもう一本の腕も触手化し、シオンを追うように伸びる。シオンは壁に向かって走り、触手が背中に触れる直前、壁を蹴って後方に宙返りして自分を追い越した触手に真上から膝を落とした。床とシオンの膝に挟まれた触手は、灰褐色から一瞬冷子の肌の色に戻る。冷子が舌打ちする音が聞こえた。その間にシオンは冷子との一気に距離を詰めた。体勢を低くしたまま走り、振り下ろされる鞭のような触手を躱しながら十分に近づくと、そのまま独楽のように回転して冷子に足払いをかける。冷子がバランスを崩すと同時に、シオンは冷子の頭と腰を抱えて右膝を冷子の腹に突き込んだ。
「ゔぶぇッ?!」
 冷子は濁った悲鳴をあげながら前屈みの体勢になる。シオンは冷子の身体から手を離さず、反動を利用して冷子の身体を持ち上げた。冷子の身体がフッと宙に浮く。シオンはそのまま裏投げの要領で後方に投げ、冷子の背中を地面に叩きつけた。
「ぐえぁッ?! ぐ……ぎ……ぎいぃぃぃぃぃッ!」
 冷子は歯を食いしばったまま、両腕の触手をロープの様にしてシオンの身体を抱きすくめた。シオンが冷子に覆いかぶさったまま抱き抱えられるような格好になり、お互いの鼻が触れそうな距離で身体が密着する。
「まともに戦えば強いじゃないの……顔を狙わないところにまだ甘さがあるけれど」と、冷子が苦痛に顔を歪めたまま言った。そのまま触手を解こうと踠(もが)ているシオンに自分の顔をぐいと近づけ、強引にシオンの唇を吸う。
「んぅッ?!」
 突然の感触にシオンは目を見開いた。冷子は触手でシオンの後頭部を押さえつけると、シオンの舌を強引に吸い、混ざり合った唾液と自分の舌をシオンの口内に押し込んだ。
「ぐぷっ……?! んむぅッ!」
 シオンと冷子の唇の間から、混ざり合った唾液が溢れる。不意に、シオンの背中をぞくりと寒気が駆け上がった。自分の口が徐々に大きく開いている。冷子の舌だ。自分の口内に侵入している冷子の舌が肥大化している。突然、ずりゅ……と冷子の舌が伸び、シオンの喉奥まで冷子の舌が突き込まれた。
「んぐぅッ?!」
 シオンは強引に触手を振り解き、冷子から離れた。激しくむせるシオンを眺めながら、冷子は人形のようにゆっくりと上体を起こす。灰色に触手化した五十センチほど舌が、冷子の口からブラブラと垂れ下がっている。あのまま突き込まれていたら窒息していたかもしれない。
「ひふははひれへらっはろ?(キスは初めてだったの?)」と、バケモノのような形相になった冷子が首を傾げながら言った。ぢゅるりと音を立てて、ゴムが収縮するように舌が冷子の口内に収まる。「残念だわ。もう少し味わっていたかったのに……」
「舌まで触手化できるなんて……」と言いながら、シオンが汗で貼りついた前髪を直した。「でも……無敵という訳ではないみたいですね」
「……どういう意味?」
 冷子は触手を飛ばした。シオンは屈んで回避し、次の攻撃に備える。もう一本の触手が自分目掛けて伸びてきた。これを待っていた。シオンはサイドステップで回避しながら、小脇ににかかえるようにして触手を掴む。シオンは抱えた触手目掛けて、「ふッ!」と気合を入れながら渾身の力で膝を蹴り上げた。ぐにゃりと変形した触手の色が、一瞬だけ灰褐色から肌色に戻る。シオンはその肌色の部分を目掛けて肘を落とした。
「がぁッ!」と、冷子が悲鳴をあげた。
「さっき気がつきました……。強い衝撃を受けると、その部分だけ触手化が一瞬解除されるみたいですね」
 シオンが蹴り上げた肌色の部分は確かに骨の感触があり、シオンの膝にはそれが折れる感触が伝わった。触手は逃げ帰るように冷子の右腕の形に戻る。折れた部分が真っ赤に腫れていていた。すかさず冷子は左手で右肩を掴む。
「また新しい腕を生やしますか?」と、シオンは冷子に向かって走りながら言った。「生えるまでの時間は、あなたにはありません」
 シオンは高く跳躍し、前方に宙返りした。何が来る? 得意の踵落としか? 冷子が身構える。腕を捥ぐのが先か? 攻撃を受けるのが先か? 攻撃を受けるのが先だ。避ける時間は無い。冷子は無事な左手を頭上に上げた。振り下ろされる踵を受けて、シオンがバランスを崩したところで反撃する。おそらく左腕も折れるだろうが、頭に食らったら確実に失神する。シオンの背中。エプロンを止めている腰のリボン。黒く短いスカートから伸びる太もも。エナメルの靴が振り下ろされる直前に、シオンと一瞬目が合った。
 衝撃。
「がぁッ!?」と、冷子が叫んだ。
 右肩?
 頭を狙うシオンの右足はフェイントで、シオンの左足が冷子の右肩に振り下ろされた。防ぐことができず、無防備な右肩の骨が砕ける音が聞こえた。冷子の頭上で、シオンが長く息を吸った。何だ? 次は何をする気だ? いつの間にか、シオンの右足が冷子の左肩に乗っている。逆向きの肩車のような体勢だ。シオンが冷子の頭を両手で押さえる。シルクの手袋の感触。シオンはそのままの体勢で、冷子の頭を太腿で強く挟んだ。まずい! 冷子がもがく。シオンはふっと息を鋭く吐くと、冷子の頭を挟んだままバク転するように後方に回転した。冷子の視界が回転し、頭が引っこ抜かれるように地面に吸い込まれ、激しい衝撃が冷子の脳天を叩いた。
「……終わりです」
 シオンが正座のような体勢で、肩で息をしながら言った。太腿の間の冷子の顔は、目を見開いたままだった。


 上階からは、重いものを床に叩きつけるような音が断続的に響いてくる。美樹と蓮斗の戦闘はまだ続いているのだろう。ひび割れた天井からは破片が断続的に降り落ちてくる。そのうち全体が崩落するのではないかと、シオンはわずかに不安になった。冷子を拘束してからオペレーターに回収の依頼をして、自分はできるだけ早く美樹の応援に行かねばならない。
 シオンは太腿の間にある、虚な目をした冷子から視線を外し、ゆっくりと前を向いた。
 瞬間、息を飲んだ。
 状況が理解できなかった。
 冷子が変わらない姿勢のまま立っている。
 頭は?
 確かに私の下にあるのに……?
 冷子の首の部分が灰色の細長いホースのように伸びて、シオンの肩越しに股の間の頭と繋がっている。冷子の身体が、早回しのビデオ映像のようにブルルッと震えた。途端に、タイトスカートから覗く脚や胸元の肌が灰色に変色する。ぞわりとした悪寒がシオンの背中に走った。咄嗟に視線を落とし、股の間の冷子の顔を見る。すでに顔全体がナメクジのようなマダラな灰色に変色していた。次の瞬間、巣穴に逃げむ海蛇のように、冷子の顔は一瞬でシオンの尻の下に引っ込んだ。冷子の頭は伸び切ったゴムが戻るように身体の方に吸い込まれていき、粘度の高い水面に投げ込まれた石のように「どぷん」と肩の間に沈んで見えなくなった。
 まずい。
 シオンが危機を察知して立ち上がろうとした瞬間、冷子のシャツを突き破って触手の群れがぞるるっと湧き出た。
「ひっ!? きゃああッ!」
 蛇の大群のような触手が、無茶苦茶な動きでシオンに襲いかかった。冷子の身体は跡形もなく崩壊して、主人を失ったスーツだけがボロ切れのように床に残されている。触手の塊は粘液を撒き散らしながらシオンの腕や足に絡みつきながら、ものすごい力でシオンを壁に叩きつけた。
「あぐッ?! な……なんですかこれ……?」
 両手足に絡みついている触手を見ながらシオンが言った。右脚を締め付けている触手の一部がカタツムリの目のように伸びて、シオンの顔の前で先端が膨らんだ。先端は徐々に卵形の球体になると、次第に冷子の顔の形になった。しかし形を保っているのが難しいらしく、目や鼻の形が泥のように流動的で定まらない。
「これだけは……使いたくなかったのよ……」と、冷子の顔のようなモノが言った。粘液の湖に湧き出る泡のような酷く不明瞭な声だった。「こうなると、元の姿に戻るのが大変なの。人体というのは不思議なものでね、自分の身体のことを自分以上にとてもよくわかっている。脳の記憶以上に、身体の記憶というのはとても強いのよ。だから、腕や脚みたいな身体の末端を触手化しただけだったら、その部分は脳が意識せずともすぐに元に戻る。身体の記憶を辿ってね。でも、元の身体が『コレ』だったらどうなると思う? 身体の記憶が書き換えられ、いくら脳が人間の姿を記憶していても、身体のほうが拒否してしまう。お前の元の身体は人間ではなく『コレ』だ、とね……」
 触手が寄り集まり、ボディビルダーの腕のような太さになった。シオンの瞳に怯えの色が浮かぶと同時に、撞木が鐘を突くようにシオンの腹部に突き刺さった。
「ゔっぶぅッ?! が……ごおぉぉぉぉッ!!」
 あまりの威力に胃液がこみ上げ、温かい液体がシオンの喉を逆流して床に落ちた。
 腕はさらに何本も増え、ガトリングガンの様にシオンの剥き出しの腹に埋まった。複数の極太な触手による一撃一撃が強烈なボディーブローを高速で喰らい、シオンの腹部が餅のように歪に潰れる。
「がぶッ!? ぐぇあッ!? おぼッ! ぶぐッ?! ごぇッ!」
 シオンの身体はガクガクと痙攣し、一瞬攻撃が止んだと思いきや鳩尾に強烈な一撃が突き刺さった。
「ゔっぶ!?」
 磔の状態になっているシオンは当然防御などできるはずもなく、電気ショックを受けたように身体が跳ねた。同時に触手の拘束が解かれ、シオンの身体は投げ捨てられたマリオネットのように床に崩れ落ちた。
「がっ……! ゔッ……ごぇっ……」
 シオンは海老のように身体を縮こませ、内臓からこみ上げてくる苦痛の波に耐えた。歯を食いしばってなんとか顔を上げると、霞んだ視線の先に、猫の死骸に集まった蛆虫のように蠢く触手が見えた。徐々に触手は境目を無くしてスライム状になると、床を這うようにシオンに接近した。スライムはそのままシオンの身体を飲み込む。温かい粘液のプールに溺れているような状態になり、シオンは一瞬天地がわからなくなった。息をすることもできず、顔から血の気がひいてくるのがわかる。
「このまま窒息させてもいいけれど……少し話をしましょうか?」と、不明瞭な冷子の声が聞こえた。直後、スライムはシオンを取り込んだまま移動し、シオンの背中を再び壁に叩きつけた。顔周辺の粘液が引くと同時にシオンは激しく咳き込む。
「私がまだアナスタシアに保健医として勤めている頃、よく男子学生と話をしたわ。養分補給のための相手だったけれど、みんな良い子だった……。でも、話を聞いてみると、全員が貴女のことが好きだった。酷いと思わない? 私を抱いた後にもかかわらず、貴女に対する好意や憧れを私に話すのよ? 如月会長は高嶺の花だとか別世界の存在だとか……私達人妖は完璧な存在として造られたはずなのに、なんで不完全な人間の貴女の方が私よりも優れていると皆思うの? 悔しくて悔しくて仕方がなかったわ」
 溶けたような灰色の顔がシオンに言った。表情は読み取れない。シオンは灰色の顔から目を逸らさず、黙って話の続きを待った。
「……それに私達試験管で造られた人妖の性器は、養分補給とチャームや老廃物を排出することのみを目的とした器官に作り替えられているから、生殖能力を持っていないの……。ねぇ、わかる? 私は涼が好きだったし、彼の子供が欲しかった。でも、彼が生きていようと死んでいようと、その願いが叶うことはない……。彼にも私にも生殖能力は無いのだから。貴女はいいわね、子供が産める身体で……」
 細い触手が、シオンの鳩尾から下腹部までをなぞった。冷子の背後で、天井の大きな石膏ボードが落下した。
「なぜ……なぜ私達が、人間が勝手に掲げた完璧な人間を作るなどという身勝手な目標のためにこんな出来損ないの身体で造られて、貴女みたいなただの人間が……私達以上に完璧だって思われるのよ!」
「完璧な人間なんて存在しません」と、シオンは言った。緑色の瞳で、灰色の泥のような冷子の眼窩らしい二つのくぼみを真っ直ぐに見つめている。「人は全員、なにかを抱えながら生きているんです。とても重い、その人にしか見えない荷物を背負って、歯を食いしばって坂を登っているんです。生まれながら完璧な存在なんて──」
 シオンの身体に巻き付いていた触手が一瞬で解け、そのままシオンの首に巻き付いた。
「がッ?! あがッ?!」
 シオンの両足が完全に浮き、絞首刑のように首に全体重がかかる。シオンは両手で首に巻き付いている触手を掴むが、密着した触手は全く解ける様子がない。
「自分への言い訳のつもり? ねぇ……知っているのよ? 貴女のお父様……ラスプーチナ家の当主を殺したのは、貴女なんでしょう?」
 ジリッ、とシオンの頭に痛みが走った。
「な……? な……にを……?」
 シオンは微かに首を振る。
「忘れたの? 全部調べたのよ。不幸な事故だったらしいわね? 国際的製薬グループの総帥として、世界中を飛び回っていた貴女のお父様が久し振りに家に帰ってきた。家族と使用人へのお土産をたくさん抱えてね。子供の貴女は喜んで、勢いよく階段の踊り場にいたお父様に抱きついた。そして、お父様は階段から落ちてしまった……。お父様は自分の身体をクッションにして貴女を守ったけれど、打ち所が悪くて命を落とした。そして、貴女は無傷で生き残った。表向きは一人で階段を踏み外したことによる事故ということになっているけれど、ロシアにいる私達の仲間が当時の関係者から聞き出したのよ。父親殺しとはまた、随分と重い荷物だこと」
「ち……がっ……」
 気道を塞がれているため、シオンは声を出すことができない。
「その様子だと、本当に覚えていないのかしら? 目の動きで嘘をついていないとわかるわ。優秀な割には、随分と都合のいい頭をしているわね?」と言いながら、冷子はシオンの首を締める力を強めた。「でもね、この状況を作ったのは全部貴女のせいなのよ? さっきも話したけれど、貴女がお父様を殺してくれたおかげで、人妖研究最大のパトロン、ラスプーチナ家からの融資が一時的にストップした。内紛が起こっていた各国の人妖研究機関は混乱を極め、融資再開と同時に私達人妖が研究の主導権を握ることができた。貴女には感謝するべきでしょうね? 我々人妖に多大な貢献をしてくれた一族の長女様だもの。その立場で人妖退治なんて笑わせるわ。メイドだとか奉仕だとか博愛だとか、気持ち悪い愛想を振りまいているのは無意識な罪滅ぼしのため? 貴女を好きだった人達が貴女の正体を知ったら、どんな顔をするかしらね?」
「く……あ……ぁ……」
 シオンは涙を流しながら、歯を食いしばって小さく首を振る。シオンの思考はすでにマッチ箱のように小さくなり、視界には明るいモヤがかかりはじめた。冷子の声は聞こえているが、頭の中で言葉と意味が結びつかない。言葉はシュレッダーにかけられたようにバラバラの断片になり、ノイズの洪水となってシオンの頭の中を満たした。
 かくん……とシオンの身体から力が抜けた。
 両手はだらりと床に伸び、目は半開きになったまま光が消えている。口はだらしなく開けたまま、唾液と涙が頬を伝って喉から胸へと垂れた。
「あ……く……くふぅっ……」
 シオンが肺の中の残りの空気を全て吐き出した。
「くふっ……くふ……くふふふふふふふふ……」
 突然、シオンの右手が別の生き物の様に自分の頭に伸びた。ヘッドドレスを毟るように掴み取ると、獲物に襲い掛かる蛇のような速さで冷子の顔に突き刺した。油断していた冷子が悲鳴をあげる。ヘッドドレスの中に仕込まれていた細長い棒状の金属が、冷子の左の眼窩だった部分に突き刺さっている。冷子の顔全体が、左目を中心に肌色に変色した。シオンの両手が冷子の顔を掴む。直後、ぐしゃり……と音がして、冷子の顔面にシオンの膝がめり込んだ。


「キリがないな……」と、美樹がポツリと言った。額や口の端が切れ、白衣(びゃくえ)には赤い花弁の様に血の赤が点々と落ちている。
 美樹は片手で調度品の燭台を三叉槍のように持ちながら、空いた方の手でポケットを探った。そして、ジッポーとタバコを久留美に預けたことを思い出して溜息をついた。
 体力の消耗は激しかった。
 美樹が切断しても切断しても蓮斗の触手は何回も生え変わった。燭台の先端は赤黒い血で濡れ、周囲には蓮斗の肉片が散らばっている。
 玄関ホール中には、蓮斗が階下から吸い上げたガソリンの匂いが充満していた。ガソリンを養分にすることはかなりの負担らしく、蓮斗は定期的に身悶えするように苦しみ、油の匂いのする吐瀉物を吐き続けた。蓮斗の身体は膨張を続け、もはや触手が不規則に生えた卵形の肉塊になっていた。目や口は完全に埋没し、血管が透けて見える灰色のぶよぶよとした肉の塊は、悪い夢に出てくる異世界の怪物を思わせた。
「……死ねないのか?」と、美樹は言った。おそらく再生能力が暴走し、無秩序に新陳代謝を繰り返しているのだろう。
 美樹が燭台を握り直し、再び蓮斗に襲い掛かった。蓮斗は悲鳴をあげ、削げて床に落ちた肉が嫌な匂いを放った。衣服に仕込んでいる釵(さい)や小刀も突き刺すが、ダメージはあるもののすぐさま回復して死ぬ様子はない。疲労から美樹の気が緩んだ瞬間、触手が美樹の胴体に巻きついた。そのまま野球ボールのように投げられ、壁に叩きつけられる。背骨が軋み、身体中の空気が強制的に吐き出された。
「かは……ッ!」
 壁からずり落ち、床にうつ伏せに倒れた。視界の隅に映り込んだドアからは、相変わらず雪が吹き込んでいる。音や痛みといった感覚は、自分の身体ではないように遠く感じた。
 ふと、シオンは大丈夫だろうかと思った。実力でいえば、シオンは間違いなくアンチレジストのトップだ。仮想敵とのトレーニングでは、難易度が最高レベルの相手でも難なく倒してしまう。しかもその明晰な頭脳で、敵の弱点把握と、どこをどう攻めれば効果的にダメージを与えられるかを瞬時に把握する才能も備えている。しかし持ち前の優しい性格から、敵に対しても無意識に手加減してしまう癖があった。弱点や、効果的にダメージを与える方法を瞬時に把握できるからこそ、その才能を逆に使い、あえてそこを攻めずに相手にとって最も苦痛の無い方法で攻撃するスタイルになっている。顔面を攻撃することもほとんど無い。そのため、時として攻撃は決め手を欠き、思わぬ苦戦を強いられることも多かった。冷子が階下に降りてから、どれくらいの時間が経ったのだろう。いつもの癖で手加減をして、窮地に立っていなければいいのだが。
 触手が伸びて、美樹の首と胴体に巻き付いた。そのまま足が床から離れるほどの高さに持ち上げられると、今度は床に叩きつけられた。もう痛みは感じない。再び持ち上げられると、蓮斗の顔が、縦に割れたザクロの様に大きく開いた。褐色の粘膜の中に、人間の歯が無数に生えている。無理やり口を開けているせいで、蓮斗のどこかの骨がパキパキと音を立てた。食べる気か……と美樹は思った。身体はまともに動きそうもない。
「……まぁいい。食え」
 美樹は微かに笑いながら、燭台を床に捨てた。
「お前は私だ、蓮斗。私も少し道を間違えていたら、お前みたいになっていたのかもしれない。私が全てを恨んで、お前みたいな化物にならなかったのは、無数にある未来の可能性のひとつに過ぎない。施設に入って今の親に拾われていなければ、どうせ子供の頃に死んでいたか、お前みたいになっていただろう。誰にも望まれずに生まれた私には、最初から何も無いのだから……」
「そんなことありません!」
 不意に大声が聞こえ、美樹は雪が吹き込んでいるドアに視線を移した。桃色の髪の毛に、白いリボンが見える。
「……久留美?」
「なんでそんな悲しいこと言うんですか! 私や、水泳部や学院のみんなが、どれほど先輩に憧れているのか、なんでわからないんですか! 見た目は少し怖いですけれど、悩みにも親身に相談に乗ってくれて、いつも助けてくれて、すごく格好良くて……そんな先輩が好きだって、私さっき言ったのに、もう忘れちゃったんですか!?」
 久留美は目を瞑って叫ぶと、美樹の元に走った。ドアの外には、思い詰めたような顔をしたシオンの運転手、山岡の姿が見えた。蓮斗が久留美の方を向く。触手の何本かが、久留美に向かって伸びた。
「やめろ!」
 美樹が叫んだ。胴体に巻き付いた触手は緩む気配はない。美樹は本能的に右腕に嵌っている金属製の手甲を外した。
「うおぉぉぉぉ!!」
 美樹は絶叫し、渾身の力で手甲を蓮斗の口内に投げつけた。
 突如体内に侵入した異物に蓮斗が怯む。拘束が緩んだ隙に美樹は触手から抜け出し、久留美の元に走った。
「馬鹿! なぜ戻ってきたんだ!?」
「ごめんなさい……これを見ていたら、もう先輩と会えない気がして……山岡さんに無理を言って……」
 久留美が震える手で、美樹のショートホープとジッポーライターを差し出した。美樹は何回かタバコと久留美の顔を見た後に、そうか、と言って久留美の頭をくしゃっと撫で、タバコとライターを受け取った。美樹の背後から、蓮斗がゆっくりと近づいてくる。
「……走れるか?」と、美樹は蓮斗に背中を向けたまま言った。
「大丈夫です。見た目よりも体力があること、先輩も知ってますよね?」
 久留美が小さくガッツポーズを作った。美樹が微かに笑いながら頷く。
「よし、行くぞ」
 美樹は久留美の手を引きながら、アーチ状の階段を駆け上がった。蓮斗の触手を躱しながら、吹き抜けの二階部分へと移動する。美樹と久留美はバルコニーから階下の蓮斗を見下ろした。
「先輩……いったい何と戦っているんですか……?」
 久留美の身体が小刻みに震えている。落ち着いてようやく事態を把握したのか、異形の怪物に少なからずショックを受けてるようだ。
「蓮斗だ。信じられんと思うが……」
「……えっ? あれが……蓮斗さん?」
 久留美が両手で口を覆った。
「詳細は省くが、奴はもう元には戻れない……。気の毒だとは思うが、楽にしてやろう」
 久留美が美樹を見上げながら、不安げな表情で頷いた。キィンという鋭い金属音を立てて、美樹は片手で器用にジッポーに火をつけた。ショートホープを口に咥え、火を灯す。長い時間をかけて吸い込み、天井に向けて煙を吐いた。久留美はそれを、いつまでも見つめていたいと思った。
「合図をしたら、すぐに私に掴まれ」と、美樹が言った。
 蓮斗がバルコニーの二人に向かって、ゆっくりと触手を伸ばしはじめた。
 美樹が紫煙を長く吐きながら、火のついたタバコを人差し指と中指で弾いた。タバコはまるで意志の強い蛍のように、赤い残像を残して蓮斗に向かってまっすぐ降りていった。
「掴まれ!」
 美樹が言うと同時に、低い着火音が響いた。
 蓮斗から滲み出たガソリンにタバコの火が引火し、火柱が天井に向かって伸びる。
 久留美は夢中で美樹の胸に飛び込んだ。美樹はそのまま久留美を抱き抱え、背後の窓を破って屋外に飛んだ。
 池の底から響くような蓮斗の悲鳴がホールに反響する。
 美樹が久留美を庇ったまま、屋外の地面に背中から落下した。分厚く積もった雪がクッションになり、思ったほど衝撃は強くなかった。
 建物内部は真っ赤に燃え上がり、ステンドグラスが割れて蓮斗の悲鳴が外まで響いてきた。美樹と久留美は炎に照らされたまま、しばし茫然とその光景を眺めていた。蓮斗の悲鳴は徐々に小さくなり、やがて炎が建物を舐める音だけが残った。
「……あれ? 山岡さんは?」と、言いながら久留美が周囲を見回した。どこかに避難したのか、姿が見えない。火はホールの天井に燃え移り、太い梁が燃える音が聞こえてきた。
 美樹はハッと気がついた。シオンがまだ中にいる。建物が崩れる前に連れ出さないと危ない。美樹は久留美にすぐに戻ると言いながら、燃え盛る建物の中に入った。

 シオンの落ちた穴周辺の炎は薄く、美樹は迷うことなく飛び込んだ。階下まで炎が回っていないのは幸いだった。レトロな作りの上物に比べて、穴の真下の部屋は遺棄された広い手術室のような作りで、不気味に静まり返っていた。
「……なんだ、これは?」
 着地した瞬間、美樹は目の前の光景に戸惑い、そのままの姿勢で静止した。
 リノリウムの床に、灰色の内臓のようなものがぶちまけられている。それはぬらぬらと光って、今まさに動物から引きづり出したかのように新しかった。
 美樹は注意しながら近づくと、それは内臓ではなく、触手の塊だった。死んでいるのだろうか、ぴくりとも動かない。所々が肌色に変色していて、その部分だけ人間の皮膚のような質感になっていた。
 肌色の部分は、例外なく硬いものがぶつかったような跡があり、折れたり曲がったりしていた。中から骨が飛び出している箇所もあった。先端が人の頭ほどの大きさに膨らんでいる部分は特に損傷が酷かった。それは、なにか硬いものを何回もぶつけられたように全体がボコボコと窪んで、元の形がわからなくなるほど酷く歪な形をしていた。人の顔のようにも見えたが、崩れ過ぎていて確証が持てない。
 肉塊のそばにハンカチほどの大きさの白い布が落ちていたので、美樹はそれを拾い上げた。上質なシルクで、細かいフリルと織り模様が施されている。
 シオンのヘッドドレスだった。
「まさか、これは……冷子か?」
 美樹が触手の塊を見ながら、呟くように言った。いや、おかしい。損傷が激しすぎる。シオンと闘っていたはずだが、シオンがこれほどえげつない攻撃をするはずが無い。
 直後、天井が崩れる音が聞こえた。
 美樹はヘッドドレスをスカートのポケットにしまい、落ちてきた穴を通って地上に急いだ。ホールには動かなくなった蓮斗がいた。炎は勢いが止まらず、中心の蓮斗は焦げた泥団子のように見えた。火が回った床の一部が崩れ、先ほどまで美樹がいた部屋の真上の床が崩落した。地下の触手の塊も炎に包まれたことだろう。炎は天井にも延焼し、建物全体がいつ崩れてもおかしくない状況だ。
 建物を出ると、美樹は久留美の手を引いて、自分のバイクが止めてある門まで急いだ。
「寒いと思うが、少し我慢してくれ」と、言いながら美樹はバイクに掛けてあった自分のライダースジャケットを久留美に着せた。
 久留美はバイクに跨った美樹の後ろに座り、しっかりと美樹の腰に腕を回した。バイクのエンジンが低音の唸りを上げる。美樹は久留美にヘルメットを被せると、雪煙を巻き上げながらバイクを走らせた。


 長い金髪が吹雪に踊っている。
 レクサスの後部座席のドアに手をかけながら、山岡が腰を九十度に曲げて待機している。
「……お待ちしておりました」
 山岡が言った。その声は寒さと緊張で微かに震えている。
「ノイズ・ラスプーチナ様……」
 山岡がタイミングを見計らって後部座席を開け、客人が乗り込むのと確認すると、細心の注意を払いながら静かにドアを閉めた。自分も素早く運転席に乗り込む。
「……実際にお会いするのは、初めてかしら?」
 運転席の座席を足先でなぞられている感触があり、山岡の背中がぞくりと粟立った。震える手でギアを入れ、アクセルを吹かす。
「行き先は……そうね──」
 氷の上を流れる冷気のような声だった。
 かしこまりました、と山岡は絞り出すように言った。背後で孤児院の建物が崩れ落ちる音が聞こえた。


 モスクワからの飛行機は、定刻を少し遅れて成田空港に到着した。
 ビジネスクラスの優先対応を受けながら、ゴシックアンドロリータのワンピースを着た少女がゲートを通過した。つまらなそうにチュッパチャプスをコロコロと咥えながら、黒いスカートのポケットに両手を突っ込み、ジト目で周囲を見回しながら歩いている。厚底の靴を履いているが背は低く、まだ子供と言っても差し支えない雰囲気だ。
「……国は狭いのに、空港は大きいのね」と、少女はロシア語で呟いた。
 赤いリボンでツーサイドアップに結ったプラチナブロンドの髪が歩くたびに揺れ、エメラルドグリーンの瞳は強気な印象を放っている。その目立つ姿に、すれ違う乗客の多くが振り返っている。上から下まで西洋人形のような完璧な格好だが、なぜか片方のリボンだけがやけに古ぼけていた。
「待っててね……お姉様」
 少女は自分にしか聞こえない声で囁くと、タクシー乗り場に向かって足を速めた。