順番が前後してしまいましたが、[Plastic_Cell] 前編の推敲作業を進めています。
まだ甘いので、あと2回くらい推敲します。
雪が降っていた。
夕方からしんしんと降り続いた雪は二十二時を過ぎても止まず、本来なら、手入れの行き届いたきめの細かい芝生で覆われたアナスタシア聖書学院のグラウンドを、まるで最高級のグレイグースの羽毛を敷き詰めた様に真っ白に覆い隠していた。
その雪が全ての音を吸い尽くしてしまったかの様に、ほぼ完全な静寂がヨーロッパ調の敷地内を静かに漂っている。赤味の強い煉瓦造りの校舎の中は全ての灯りが消えており、等間隔に灯されたレトロなガス灯のあかりだけが、雪に霞みながら静かにゆらめいていた。
男は裏門にいた警備員を昏倒させると、鍵束から裏門の通用口の鍵を探し出し、足早に学院内へと侵入した。
男は二十代前半だろうか。顔の彫りが深く、目が落ち窪んで眼光がやけに鋭い。金色に染め上げたボリュームのある髪の毛を、爆発したようなきつめのパーマで逆立てている。男は黒いタイトなレザーライダースのファスナーを首元まで締め、大きなポケットの着いた厚手の黒いカーゴパンツのポケットに手を突っ込んで歩いていた。
十年に一度の異常気象と言われた夏の暑さとはうってかわって、年が明けた一月の夜は凍てつく様に冷えきっていた。男は時折白い息を吐きながら新雪を踏みしめた。さくさくと乾いた音がドクターマーチンの靴底から男の耳に届く。
学院の奥へと進むと、ようやく目当ての建物が見えてきた。煉瓦や自然石を基調とした敷地の中で、やや浮いた印象のコンクリートむき出しの五階建ての建物、通称S棟。
S等は一階がプール、二階と三階が多目的コート、四階が武道場、五階がトレーニングジムというスポーツ専用に建設された建物で、授業や部活動以外にも体力向上やダイエット目的の生徒に幅広く利用されている。
男はS棟の真下に到着すると、微かに明かりの漏れている一階部分を見上げた。高い天井付近の窓から漏れる明かりと、わずかに見える天井に写る水面の揺らめきが、ターゲットがまだ中に居ることを男に伝える。男は僅かに唇の端をつり上げるとS棟の中に侵入した。
内部は空調が効いているのか、外の寒さに反して適度な湿度と温度に保たれていた。
広い競泳用プールの左端のレーンを、一人の女性が綺麗なフォームのクロールで泳いでいる。
女性はあっという間に向こう側の壁にたどり着くと、鮮やかなクイックターンですぐにこちらに向かって泳いで来る。
女性ほとんどペースを落とさずに数回プールを往復すると、肩で息をしながらプールサイドに据え付けられたステンレス製の手すりにつかまり呼吸を整えた。わずかに見える横顔からは満足そうな色が伺えた。男が居ることには気付いていない。呼吸が落ち着き、プールサイドに登るためにステップに足をかける。
「手を貸そうか?」
女性の肩がビクリ跳ね、反射的に男が伸ばした手を弾くと、隙をついてプールサイドに上がった。女性が飛び上がった反動で舞い上がった水しぶきが、遅れて男のライダースジャケットの上に落ちた。
「へぇ……あれだけ泳いだ後なのに、なかなか良い動きするじゃないか? 鷹宮美樹?」
「……何だお前は? なぜ私の名前を知っている?」
男は質問には答えず、まだ水の滴る美樹の身体をゆっくりと見回した。
均整の取れた美しい身体だ。
腰まである長い黒髪は濡れた烏の羽の様に艶々と輝いており、凛とした印象の整った顔立ちを引き立たせている。身体にぴったりとした競泳用の水着は身体のラインを余す所無く浮かび上がらせていた。男は無意識に唇を舐めた。
「次の大会で君の連覇は確実だというのに、こんな時間まで居残り練習とは大したもんだ。優雅に泳ぐ白鳥は水面下で必死に足を動かしている……ってやつかな?」
「質問に答えろ。どうやって侵入したかは知らないが、どうせやましいことが目的だろう? 怪我をしないうちに帰った方がいいぞ……」
「噂通り口が悪いなぁ……。神社の巫女さんってのはそんなにぶっきらぼうでも勤まるものなのかい?」
美樹の目がわずかに大きく開く。この男は家のことまで知っているのか。
「君のことは結構知っているよ。鷹宮神社の一人娘……と言っても、住職とは血の繋がりは無くて養子縁組。アナスタシア聖書学院の水泳部のエースで、地区大会ではいつも優勝、全国大会でも上位。ぶっきらぼうだけど面倒見が良くて水泳部の後輩からは慕われている。男にも女にも人気はあるが、雰囲気や言動から近寄りがたく、あまり告白はされないし、されても一度もOKしたことは無い。成績はかなり良くて……」
「ストーカーかお前は?」
美樹が男の言葉を遮る。正面を向いたまま後ずさり、立てかけてあったデッキブラシを掴んで、男に先端を突きつけた。
「生憎、私はそこいらの女達のように簡単に組み伏せられたりはしないぞ。早々に失せろ。金輪際私の前に姿を現さず、アナスタシアの敷居も跨ぐな」
突きつけたデッキブラシを薙刀のように持ち替え、足を前後にやや大きめに開きながら構える。重心をしっかりと落とした理想的な構えだ。デッキブラシの先端は全く揺れず、射抜く様に男に向かって突き出されている。
「おお、怖い怖い。警備員呼ばずに自分でどうにかしちゃうんだ? 流石はアンチレジストの上級戦闘員。痴漢やストーカーの一人や二人懲らしめるくらい朝飯前だよね?」
表情の変化こそ乏しかったが、アンチレジストの名前を出され、美樹は心底驚いた。人間を餌にする人妖の存在は、世間にもほとんど知られていない情報だ。それを討伐する組織、美樹の所属するアンチレジストも同様に世間には伏せられている。
この男は知りすぎている。
美樹は意を決し、すぐさま男に向かってデッキブラシを振り下ろした。
デッキブラシが床を打つ硬い音が室内に反響する。男は美樹の攻撃をバックステップでかわすが、デッキブラシはまるで生きているかのように男を追跡した。
「うおっ!?」と、男が攻撃をかろうじて躱しながら、驚愕の声を上げる。
美樹は床の上を滑るように摺り足で移動する。男との距離を一気に縮めながら、地面すれすれの位置からデッキブラシの先端を男の顎を狙って振り上げた。
男は仰け反って回避する。顎の数センチ手前をブラシの先端がかすめた。美樹は攻撃が外れたと分かるとすぐさま脳天にターゲットを変える。男は咄嗟に腕を上げて、唸りを上げて振り下ろされたデッキブラシをガードする。先端が腕に当たった瞬間ミシリという嫌な音が響いた。
「痛ってぇ!」
男が痛みに歯を食いしばる。美樹は攻撃がガードされるや否や、すぐさまデッキブラシを手放して男に急接近し、正確に男の顎を肘で跳ね上げ、ガラ空きになった腹に槍のような蹴りを突き込んだ。
男は悲鳴を上げる間もなく後方へ吹っ飛び、プールのほぼ中央に派手な音を立てて着水した。一瞬置いて、デッキブラシがからんと音を立ててプールサイドに落下した。
「ふん……この程度か……」
美樹は足下に落ちていた虎縞のナイロンロープを掴むと、男を追ってプールに飛び込んだ。頭まで水に沈んだまま浮いてこない男の髪の毛を掴んで無理矢理水面から引き上げると、美樹は電柱の根元に放置された吐瀉物を見るような目つきで男の顔を覗き込んだ。
「弱いな。アンチレジストの名前を出したときは驚いたが……とんだ肩透かしだ。名前は?」
「うぅっ……は……蓮斗(はすと)だよ……。蓮の花の蓮に、北斗七星の斗……。もちろん、こんなふざけた名前は本名じゃないぜ……」
美樹の拳が正確に蓮斗の肝臓を射抜く。水中から肉を打つくぐもった音が響き、男が微かにうめき声を上げると、口から泡を吹いて全身の力が緩んだ。美樹が掴んでいた髪を離すと、ばしゃりと蓮斗の顔が水面に落ちる。
「ふぅ……せっかく集中して練習していたというのに、とんだ邪魔が入った。教員に見つかる前に回収班を呼んで、帰りにシオンの家に寄って報告しておくか。しかしこいつ、どこでアンチレジストの存在を知ったんだ……?」
美樹がロープで蓮斗を縛り上げようとした瞬間、蓮斗は水面に顔を付けたまま、掌底を美樹の顔面に放った。美樹は咄嗟にガードするが、蓮斗の手に掬われた水が美樹の顔にかかった。
「こいつ……まだ動けたのか……うっ!? あああっ!?」
美樹が攻撃のために拳を握りしめた瞬間、突然目に激痛が走った。目を開けていられないほどの尋常ではない痛みが目の中で次々と爆発し、止めどなく涙があふれた。
「げほっ……流石は上級戦闘員様だ……。たまたま落ちた所に消毒用の塩素剤があったんで、握りつぶして使わせてもらったよ。ラッキーだった……」
「ぐっ……ひ……卑怯者! くっ……目が……」
「ははっ……げほっ……どこ向いてんだよ?」
「くっ……こ……この!」
美樹が音を頼りに必死に居場所を探ろうとするが、水音が壁全体に反響してほとんど状況が把握できない。
「ははっ。どこ向いてるんだい?」
「ひ……卑怯者! 男なら、正々堂々と勝負しろ!」
当てずっぽうに拳を放つが、いずれも空しく空を切る。視界は何とかぼやけて見えるくらいには回復したが、それでも正確に男の位置を把握することは難しかった。不意に、美樹の背中にプールの壁が触れた。いつの間にかプールの端まで移動していたらしい。後頭部も壁に付くことから、おそらくここは飛び込み台の真下なのだろう。
「くそっ……そこか!」
水音がしたとこを目掛け渾身の一撃を放つが、拳には全く手応えが無く、代わりに手首の辺りをがっしりと掴まれた。
「なっ?」
「やっとつかまえた……さて……楽しませてもらうよ?」
蓮斗は正面に回り込むと、美樹にのど輪を食らわせ、力任せに背後の壁に美樹の背中を叩き付けた。美樹は後頭部をしたたかに打ち、小さなうめき声を上げながら、かすむ目で必死に蓮斗を睨みつける。
「恥を知れ……この下衆が!」
「いいねぇ……強気であればあるほど、屈服させたときの征服感がたまらないからね。特に君みたいな綺麗で強気な女の心をへし折った時なんて、本当に最高だよ」
「寝言は寝て言え! 誰がお前なんかに!」
「本当に寝言かな? 美樹ちゃんがいつまで保つか試してみようか? ほら?」
ぐずっ、という湿った音が、背骨を伝わって美樹の脳内に届く。
「──ぐぷっ!? あ……?」
美樹は強烈な圧迫感を腹部に感じ、その衝撃で言葉になるはずだった空気を全て吐き出してしまった。
ゆっくりと水中の自分の身体を見下ろす。無駄な贅肉の無い引き締まった腹部に、競泳用の薄い水着の生地を巻き込んで蓮斗の拳が深々と突き刺さった。
蓮斗は再び拳を引き絞ると、美樹の臍のあたりに拳を埋める。美樹の腹部が水着を巻き込んで陥没し、くぐもった悲鳴が美樹の口から漏れた。
「うぐぅッ!」
「ほら、まだいくよ?」
施設内にごつごつと重い音が反響する。蓮斗の拳が美樹の腹にめり込む度に美樹の身体がビクリと跳ね、大きな水しぶきがプールサイドを濡らした。
「うぶっ! ぐふっ! がぶぅっ! あ……あぐっ……」
まだ完全に視力の回復しない美樹は攻撃を全て正面から喰らい、鍛え上げられた腹筋を固める暇もなく、すべての拳が深々と体内に突き刺さった。
蓮斗の攻撃は容赦がなく、美樹に呼吸はおろか悲鳴を上げる暇すら与えずに、腹に拳を突き込み続けた。美樹の瞳孔は点の様に小さく収縮し、ガクリと頭を垂れた際に長い髪がはらはらと水中に落ちた。
「さっきまでの威勢はどうしたの? やっぱり女の子だから、お腹が弱点なのかな?」
蓮斗は美樹の髪を掴んで顔を正面から覗き込む。美樹は悔しそうに目に涙を溜めながら蓮斗を睨みつけたが、度重なる衝撃で頬は上気してほんのりと赤くなり、食いしばった歯は苦痛でガチガチと音を立てて震え、口の端からは一筋の唾液が垂れていた。
「へぇ……結構色っぽい表情するじゃん? 大好きだよ、そういう顔」
「お……お前みたいな変態に……喜ばれても……嬉しくな……ぐぶぅッ!」
蓮斗は渾身のボディブローを美樹の鳩尾に埋め、更に身体の奥へと拳を捻り込んで、美樹の心臓に直接ダメージを与える。
「がふぅっ……ぁ……うぐっ!?」
蓮斗が鳩尾から拳を引き抜くと、陥没が収まらないうちに二撃目を突き入れた。美樹の瞳がまぶたの裏に隠れ、力が抜けて水しぶきを上げながら水面に顔を付ける。蓮斗が美樹の髪を掴んで水面から顔を上げるが、両目を閉じたまま反応が無い。
「変態であることは認めるよ。さて、変態は変態らしく、こういう機会は楽しまないとね」
蓮斗は美樹が持って来たロープをつかむと、力無く弛緩した美樹をプールサイドへ上がる為のステップに座らせた。
蓮斗は慣れた手つきで美樹の両手首を手摺に縛り付ける。手首が終わると、水の中に潜って両足首も同じ様に手摺に固定した。
作業が終わると、蓮斗は美樹の身体を少し下がって眺めた。
「へぇ……スポーツやってるだけあって、流石にスタイルが良いな」
引き締まった身体に、適度な大きさの胸が半分水面から顔を出している。美樹はまるで大胸筋を鍛えるフィットネスマシンに座るような格好で、梯子に縛られたまま項垂れていた。長い睫毛や髪の毛からは時折水滴が音も無く水面に落ちている。
「そそるな……」
蓮斗は思わず生唾を飲み込む。
美樹ほどの美貌とスタイル持ち主が、目の前で全身を濡らしたまま無防備に身体を開いている。
水を吸ったネイビーの競泳用水着はまるで絹糸の様な光沢があり、美樹の身体のラインを魅力的に浮かび上がらせていた。
「これはヤバいな……一発抜いとくか」
蓮斗は自らステップに上がると、カーゴパンツのジッパーをおろして性器を露出させ、美樹の顔の目の前でしごき立てた。水着越しに美樹の胸に擦り付け、化学繊維特有のザラザラした感触と、その奥にあるマシュマロの様な柔肉の感触を楽しむ。
「おぉ……たまんねぇ……」
「んっ……うぅ……」
胸を硬いものが這い回る違和感と、顔の前で何かが蠢く感覚に美樹はうっすらと目を開けた。
「んっ……なっ、なにをしている?」
美樹は目覚めると、すぐさま蓮斗から離れようと身を捩った。ナイロン製のロープが手首に食い込み小さな悲鳴を上げる。露出した男性器に気が付き、鋭い視線で蓮斗を睨みつけた。
「貴様……どこまで下衆なんだ! 女一人動けなくして、どうするつもりだ!?」
「どうするって、見ての通りだよ。美樹ちゃんがあまりにもエッチだから、自分で楽しんでただけだよ? ほら、こんな風に……」
蓮斗はガチガチになった性器を美樹に見せつける様に目の前でしごき上げた。美樹に見られていると思うと蓮斗の興奮度は増々高まり、自然と手の動きが速くなる。
「男のオナニー見たことある? もっとよく見て?」
「ふざけるな! は、早くしまえ!」
美樹は大きくかぶりを振って拒絶の意を示す。目が泳ぎ、明らかに気が動転している。蓮斗はその様子をニヤ付きながら眺めていた。
「こんなになったものを、今更しまえるわけないだろ? そんなに嫌なら早く治まるように、美樹ちゃんも協力してくれよ」
そう言うと蓮斗は美樹の乳首の周辺を、あえて乳首を触らずに円を描くようになぞり始めた。水着の上から乳輪のふちをなぞる様に刺激され、美樹は思わず口から声が漏れそうになる。乳首はそのじれったい刺激で硬くなり、今では水着越しでもその位置がはっきり分かるくらいの硬度になっていた。
「あっ……くっ……や……やめろ……こんな……んぁっ!?」
「やめろって言う割には、気持ち良さそうじゃないか」
蓮斗は円を描く様になぞっていた亀頭の動きをやめ、乳首に性器を挿入するように先端を突き入れた。むっちりとした柔肉が亀頭をすっぽりと包み、硬くなった乳首が尿道を刺激する。美樹も待ちかねた刺激に思わず身体が跳ね、大きな声を上げた。
「んあッ! くっ……ぅ……」
「うっ……気持ち良い……。そろそろ出させてもらうよ」
「あっ……あぁ……こんな男に……や、やめろ……」
戸惑う美樹を見下しながら蓮斗は美樹の頭を掴んで固定すると、美樹の顔を目掛け勢い良くしごき上げた。
「あぁ……出る……出るよ……」
不穏な空気を察し発せられた美樹の抵抗の声も空しく、蓮斗の性器からは勢い良く粘液が飛び出し、美樹の顔や髪の毛を汚していった。美樹は、放出する瞬間に驚いて腰を浮かせる。
「あっ?! きゃあぁっ! うぶっ……うぁ……」
「おっ……おおぉ……すごい……出る……」
粘液は美樹の顔や髪を白く汚し、すらりと尖った顎を伝って水着の胸元へ染み込んで行った。
「う……うぇっ……何だこれは……? 酷い匂いだ……ドロドロして……」
美樹は気持ち悪さに顔をしかめた。顔中を精液まみれにされたショックで、表情は今までの強気なものとは代わり、弱々しく呆然としている。その姿に蓮斗の性器は放出したばかりだというのに、早くも硬度を取り戻しつつあった。
「そんなに驚いて、射精を見るもの初めてだったのかな? 俺にしても惜しいな。俺の精液に人妖みたいな人を魅了する力があれば、今頃美樹ちゃんは虜になっていたはずだけど」
「チャームのことまで……貴様、どこまで知っている?」
「まぁその話はまた今度ね。ところで美樹ちゃん、これ知ってる?」
蓮斗はカーゴパンツのポケットから、金色に光る連結された指輪のようなものを取り出した。かなり使い込まれているようで、形が微かにひしゃげ、塗装も剥げている。
「……ナ……ナックル……」
「正解。メリケンサックとも言うよね」
そう言うと、蓮斗は美樹に見せつけるように右の拳にメリケンサックをはめ込んだ。美樹に近づき、開かれた身体の中心線を値踏みするように眺める。
「ん~、見れば見るほどエロいね。顔中精液まみれの女の子がプールの梯子に縛り付けられてるなんてシチュエーション、一生かけても見られるか分からないよ」
美樹は黙って蓮斗を睨みつけた。戯けた様子だが、蓮斗の目は少しも笑っていない。
蓮斗はメリケンサックを嵌めていない左手で美樹の口を塞ぐと、先ほどとは重さと硬さが桁違いに上がった右手の拳で美樹の臍の辺りをえぐった。
ゴギッ……という固い音が周囲に響く。
美樹は自分の身体に入り込む金属の感触と、身体の中を反響する嫌な音を聞いた。同時に今まで味わった事の無い苦痛が全身に広がる。内臓全てを吐き出したいほどの衝動に駆られ、一瞬で瞳孔が点の様に収縮する。
「ぶぐぅっ?! ぐ……うぶぅぅぅぅぅ!!」
口を塞がれているため、まともに悲鳴を上げることすら出来ない。
メリケンサックを嵌めた攻撃は先ほどのものとは比べ物にならず、たったの一撃で目からは大粒の涙があふれ、意識が暗転した。しかし、意識が途切れる一瞬前に再び強烈な衝撃が鳩尾を襲った。
「ぐぶぅぅぅぅっ! ごっ……ごぶぅっ……」
「おぉ、良い反応。俺も興奮してきたよ」
たった二発の攻撃だが、身体を開かれた上に背中をプールの壁に密着した逃げ場の無い中、メリケンサックをはめた攻撃の威力全てを美樹の身体が受け止める。既に意識は飛びかけ、視野が普段の三分の一ほどに狭くなっていた。
「あれ? 白目向いちゃって、まさかもう限界?」
美樹は既に小刻みに震えており、美樹の口を押さえている蓮斗の左手には、ガクガクと顎が震えている感覚が伝わる。
「もう少し頑張ってよ。俺ももうすぐ……」
ゴリッ、ゴリッという嫌な音が、何回も何回も水の中で反響する。音が響く度に美樹の身体は大きく跳ね上がった。
「むぐぅぅぅぅぅ! ぐ……ぐぶっ……?!」
冷たい金属に守られた拳が美樹の下腹部にめり込み、美樹の子宮や胃は身体の中で痛々しくひしゃげている。攻撃の数は少ないものの、その重すぎる一撃の威力に慈悲は全く感じられず、既に美樹の内蔵はショックで痙攣を起こしていた。
蓮斗は鳩尾の少し下へ狙いを定める。ぐじゅっ、という水っぽい衝撃が蓮斗の拳に伝わる。胃を潰された衝撃で美樹の喉が大きく蠢き、内容物が何度も食道を通って逆流するが、口を押さえる蓮斗の左手が容赦の無い堤防となって押しとどめた。
美樹の苦しむ様子に蓮斗も限界まで昂り、最後に弓を引き絞るように限界まで右手を引き絞ると、下腹部から力任せに美樹を突き上げた。
「ぐうっ?! ごぷっ?! う……うげえぇぁぁぁぁ!」
「ああ……いいぞ。俺も……」
美樹の胃はメリケンサックとプールの壁に挟まれ、まるで石臼でゆっくりとすり潰されるようにひしゃげた。内容物が強制的に喉を駆け上がり、蓮斗が美樹の口を解放すると同時に勢いよく胃液が美樹の口から飛び出した。
「げぶぅっ! お、おごぉぉぉぉぉ!」
美樹は白目を剥きながら、勢い良く水面に黄色がかった胃液を吐き出した。ガクガクと痙攣する美樹を見て、蓮斗も勢いよくプールのステップに上がり、嘔吐を続けている美樹の髪を掴んで上を向かせると、胃液が逆流し続けている口に無理矢理性器を押し込んだ。
「むぐぅぅぅぅっ?! ぐっ……ぐえっ……」
「おおおおっ!? 胃液が潤滑油代わりになって……喉がすげぇ滑る……出る……出るよ……」
蓮斗は嘔吐を続ける美樹のことなど気にもかけず、自らの快楽に任せて腰を振った。嘔吐を塞き止められたこととイラマチオによる二重の苦痛で美樹の喉は大きく痙攣し、それが結果的に蓮斗の男根を締め付けた。
「おぉぉぉっ! すげぇ……ほら……死ねよ……」
蓮斗は背中を大きく仰け反らせて射精した。呼吸も出来ないほどの苦痛を受けながら喉の奥で熱い粘液を吐き出され、美樹の黒目がぐりんと裏返る。
「ぐ……ぐむぅぅぅっ?! ごぼっ!!? ごぶぅっ!!」
蓮斗は逆流して来る胃液を押し返す様に精液を美樹の喉に流し込んだ。食道内で精液と胃液がぶつかり合い、逃げ場を無くした液体は気管に逃げ込み、気道反射で押し返された液体は再び食道でぶつかった。
「うぶぅっ! ごぼろぉぉぉっ! う……うげぇぇぇぇっ……うぐっ……うあぁぁ……」
蓮斗がようやく放出を終えて美樹の口から性器を抜くと、美樹の頭が糸が切れたようにがくりと落ちる。同時に、精液と胃液が混ざった濁った液体が、美樹の口から滝の様に水面に落ちた。美樹の身体は完全に力が抜け、皮肉にも蓮斗が手足を縛ったロープが支えとなり、美樹が水中に落下するのを防いでいた。
「くあぁ……少しやり過ぎたか……。もしかして本当に死んじゃったかな?」
蓮斗は肩を大きく上下させて息をしながら、美樹の首元に手を当てる。若干弱くなっているが、美樹の心臓が脈打つ感触が伝わって来た。明日の朝程度までであれば放置しても大丈夫だと判断し、プールサイドに上がる。
「帰ったらライダースにオイル塗らないとな。じゃあ美樹ちゃん、また近いうちにね」
蓮斗はひらひらと手を振ってプールから出て行った。当然その声は美樹に届かず、美樹の髪の毛から水面に向かって滴り落ちる小さな水音だけが広い空間に反響していた。
翌日の早朝。練習に来た美樹の後輩、水橋久留美(みずはし くるみ)が変わり果てた美樹の姿を発見し、悲鳴がプールの壁を反響した。
「ファウスト?」
女性の柔らかい声が部屋に響くと、暖炉の中で燃えている薪がパチリと爆ぜた。
部屋の壁は清潔感のある漆喰が丁寧に塗られていた。ダークブラウンのフローリングに、磨き抜かれた紫檀の無垢材で出来たリビングテーブル。それを挟むようにスリーシーターのソファが向かい合わせて二脚置かれている。ここはアナスタシア聖書学院の生徒会長室だ。ソファに張られた光沢のあるモスグリーンのモケットファブリックが、暗色の床の色と調和して暖かみのある雰囲気を醸し出していた。趣味の良い喫茶店のような雰囲気の部屋だが、部屋の奥には執務机が置かれ、その上には二十七インチのマッキントッシュが鎮座している。
なぜ生徒会長に、このような個室が用意されているのか。
一般的な学校の生徒会長とは違い、自主性を重んじるアナスタシア聖書学院では、生徒会と生徒会長にそれなりの権限が付与されている。どちらかと言えば労働組合に近く、生徒会長には一般生徒から吸い上げた意見を元に学院の行事や運営に一定の発言権があり、生徒会として拒否を示せば一度差し戻して審議される。そして生徒会長には権限がある分、執務や生徒の意見を聞くことが多く、このような専用の部屋が用意されている。現在の部屋の主の如月シオンも、授業が終わってから夜八時頃までは生徒会長室にいることが多い。
入り口側のソファにはアナスタシア聖書学院の制服を着た男性と、同じく制服を着た腰まである長い金髪の女性が真ん中を一人分空けて座っている。金髪の女性が生徒会長の如月シオンだ。上座のソファにも制服を着た桃色の髪の女性が一人座っている。シオンが緑色の瞳を輝かせながら 手のひらを胸の前でぱんと合わせた。
「ファウストと言えばあれですよね、ゲーテの書いた戯曲のファウスト。実家に原本がありましたので、子供の頃から何回か読んでいます。素晴らしい言葉もたくさん出てきますし……」
ストーリーを思い出すように、アーモンド型の目が細くなる。シオンはファウストの中の一文を口に出したが、ドイツ語の原文のため、向かいに座る女性の頭には「?」マークが浮かんでいた。
「あの……もしかして如月会長ってファウストを原文で読んだんですか?」
水橋久留美が右手を上げながらおずおずと声をかける。幼い印象の顔立ちで、身体も同年代のそれよりは一回りほど小さい。ショートカットに切り揃えた髪に、白いリボンカチューシャを留めている。
「ええ、ファウストは全て韻文なので、原文で読んだほうが本来の言葉の響きや意味を理解しやすいんですよ。あ、それと久留美ちゃん、私の事は改まらずに下の名前で読んで下さっていいですよ?」
「はぁ……。いえ、当然のように仰ってますけど、ただでさえ難解なファウストを原文ですらすら読める方が……。ちなみに、きさ……シオン会長って何カ国語喋れるんですか……?」
「ええと……母国語はロシア語ですけど、母が日本人なので、物心ついた頃から日本語は話していましたね。あとは子供の頃に習った英語、ドイツ語、フランス語と中国語は特に不自由していません。イタリア語は勉強を始めたばかりですので、まだ日常会話程度ですけど」
シオンは人差し指を口に当てて思い出すように呟いた。久留美はしばらくぽかんと口を開けていたが、はっと我に帰りテーブルに身を乗り出しながら早口でまくしたてた。
「十分というか凄過ぎますよ! 確かにここ、アナスタシア聖書学院では入学条件に『母国語の高いレベルでの習熟と、その他に一つ以上の言語を不自由のないレベルで習得していること』とありますけど、ほとんど皆、日本語と英語だけで精一杯で、六カ国語もマスターしてる人なんて会長だけですよ!」
「そ、そうですか? 習っていたのが子供の頃だったので、勉強するというよりは自然と身に付いてしまって……」
久留美が感心を通り越して呆れたようにため息をつくと、違う方向からも大きく溜息をつく音が聞こえた。シオンの横に座っている副生徒会長、鑑が眼鏡を直しながら口を開く。
「確かに母国語を完全に認識する前の幼少期に専門のトレーニングを施せば、あらゆる言語を抵抗無く素直に受け入れられるという研究結果はありますが、それでも一般的には二、三カ国語の習得が限界だそうです。それに、習得したとしても日常会話程度がほとんどで、会長のように専門用語に溢れた論文翻訳のアルバイトが出来るレベルまでには、とてもなりません」
「え……シオン会長ってそんなこまでしているんですか?」
久留美がさらに呆れたような声を出した。
「会長のケースはおそらく、元々会長自身の能力が高い上に、かなりレベルの高い英才教育を受けたのでしょう。というか、いつ突っ込もうか迷っていましたけど、鷹宮さんを襲った容疑者の名前はファウストではなく蓮斗ですよ。会長も呑気に雑談している場合ではなく、水橋さんに鷹宮さんを発見したときの状況を聞いて、容疑者を見つけなければ次の事件がいつ起こるとも限りませんよ?」
「あ、ああ……そうでしたね。久留美ちゃんも今回は大変だったけれど、もう大丈夫かしら? 大好きな先輩があんな事になって、とてもショックだったと思うけれど……?」
「あ……ええ。なんかシオン会長を見てたら、なんだか元気が出てきちゃって……」
そういうと久留美は右手でポリポリと頭を掻いて、「あの噂って本当だったんですね」と小声で呟いた。久留美のシオンに対するイメージは、いつも腰まである金髪を颯爽となびかせて廊下を早足で歩き、大きな行事の際には良く通る声で壇上から堂々と演説する姿だった。冷淡な雰囲気は無いが、あまりに完璧な仕事ぶりと人間離れしたその美貌は時に現実感を失わせ、久留美をはじめ生徒達は少なからず近寄りがたい印象をシオンに抱いていた。一部生徒の中には「如月会長は実際に話すと、呆れるほど『ゆるふわ』である」と噂する者もいるが、ほどんど都市伝説のように扱われていた。
シオンの顔がふと真剣になる。
「それはよかったです……。では、申し訳ないですが、そろそろ本題に移ってもよろしいですか?」
シオンの顔がさっきまでののんびりした顔から、凛としたものに変わる。アナスタシアの生徒にとっては、いつものシオンの雰囲気だった。一瞬で部屋の空気が、真冬の禅寺のように張りつめた。久留美はその雰囲気に押され、無意識に浮かせていた腰をぽすんと音を立ててソファに降ろした。
「久留美ちゃんが美樹さんをとても慕っていることは知っています。ショックな場面をもう一度思い出す事はとても辛いかもしれませんが、美樹さんを見つけた時のことをなるべく詳しく話してもらえませんか? こんな事をお願いするのは申し訳ないですけど、学院の安全のために協力して欲しいんです」
シオンが久留美に訴えかける。その真摯な目線に久留美はこくりと頷くと、テーブルの下でぎゅっと組んだ自分の小さな手を見ながら話し始めた。
「えと……うまく話せるかわからないですけど……今朝は自主練のため、七時にS棟に入りました。更衣室で水着に着替えて、準備体操をしようとプールサイドに向かった時、梯子に縛られている美樹先輩を見つけて……美樹先輩の身体には……あの……」
久留美が言い澱みながら鑑をちらりと見る。鑑は真剣にメモを取っていたためその視線には気付かなかったが、シオンがすぐに財布からカードを取り出して鑑に渡した。
「鑑君。悪いけど紅茶が切れているの。買ってきてくれる?」
「え? 今ですか?」
シオンが頷くと、鑑が書きかけのメモをシオンに渡し、生徒会長室から出て行った。久留美はいささかほっとした様子で話し始めた。
「すみません。男の人の前だと、少し話し難くて……」
「大丈夫ですよ。話せる所までで、無理しなくて大丈夫ですから」
「はい……美樹先輩の顔や身体には……その……男の人の体液だと思うんですけど……ドロドロしたものがたくさん付いていました……。今まで実際に見たことがなかったので、確証はないんですけど……」
「体液? 久留美ちゃん、変な質問だけど、その時ドキドキしたり、頭がぼうっとしたりしなかった? もしかしたら、体液じゃない可能性もあるの」
「ドキドキ……? いえ、特になにも……。先輩の顔についたものはタオルで拭ったんですけど、変な匂いだなって思っただけで……。タオルは証拠として、警察の方に渡しました」
シオンがわずかに眉を顰めた。犯人の体液はチャームではない。まさか本当に人間の犯行なのだろうか。
ぽつりぽつりと話す久留美に、シオンは真剣に耳を傾けた。
変わり果てた美樹の姿を発見した久留美は、あまりの事態に悲鳴を上げたものの、すぐ我に帰り美樹の元に駆け寄った。美樹は梯子に両手足を縛り付けられたまま失神していたが、呼吸や脈拍に問題はなかった。震える手で両手足のロープを解き、自分が持ってきたタオルを敷いてプールサイドに寝かせた。濡れた美しい黒髪が艶々と光りながら顔に貼り付いていた。唇は紫色に変色し、普段から色白の肌は透き通るような青白さになっていて、まるで美しい幽霊のように見えた。
「先輩を寝かせた後、夢中で警備員室まで走りました。救急車が来て……先輩が運ばれて……。運ばれる時に先輩目を開けたんです。そして、小さな声で『大丈夫だから、お前は心配するな』って笑ってくれて……。なんで……なんで先輩があんな酷い目に合わなければならないんですか!? 先輩が何をしたんですか!? こんな……酷い……」
久留美の力一杯握りしめられた小さな手に涙がぽたぽたと落ちた。水泳部に入部した時から、久留美は美樹に色々と面倒を見てもらっていた。美樹を知る人間は、美樹の言動はぶっきらぼうで表情は厳しいが、その奥には他人への優しさと気遣いで溢れている事を知っていた。何故美樹のような素晴らしい人が惨い目に遭わなければならないのかと思うと、久留美の瞳にはやるせなさと悔しさで自然と涙があふれた。
シオンが静かにソファから立ち上がると久留美の横に座り、久留美の頭を自分の胸に抱え込むように抱きしめた。ほんのりと甘く優しい香りがする。久留美はシオンに美樹と同じ優しさを感じ取り、いつの間にかシオンに抱きついて大声で泣いていた。シオンは細く長い指でそっと久留美の髪を撫で続けた。
扉をノックし、鑑が紅茶葉の入った缶を持って会長室に入ってきた。二人の様子に驚いた顔をしたが、シオンが無言で人差し指を立てて唇に当てると、足音を立てないように奥の給湯室に入って、ティーポットと三つのカップを用意してヤカンを火にかけた。
「……今回は、我々は出番無しというところですかね」と、鑑がソファの背もたれに身体を預けながら口を開いた。「鷹宮さんが倒されたと聞いて人妖の犯行を疑いましたが、体液に水橋さんが反応しなかったのであれば、犯人は人妖ではなく人間の線が濃厚です。人間であった以上、この件の管轄は我々アンチレジストではなく警察ですよ。犯人の体液も採取されているのなら、前科があれば比較的早く逮捕されます」
「それが、どうもそう簡単にはいかないみたいです……」
シオンがソファから立ち上がり、執務机のパソコンを操作する。不鮮明だが、争う美樹と男の声が流れてきた。
「なんですかこれは?」と、鑑が立ち上がってシオンに聞いた。
「学院の防犯カメラには、実は音声録音機能も付いています。プライバシー保護のために一般には公開されておらず、何か問題が発生した場合に限り、専用のIDとパスワードで聞くことができるようになっています。私はたまたまIDとパスワードを見つけたのですが……。すみません、襲われている美樹さんの声も入っているので、鑑君には音声データがあることは黙っていました」
たまたま見つけたと言いながら、意図的に学院のシステムにハッキングしたのだろう。この人に出来ないことは無いのだろうか、と鑑は思った。味方でいるうちはとても心強いが、最も敵に回したくないタイプの典型だ。
美樹と蓮斗と思われる会話が聞こえてきた。蓮斗は自分は人間で、人妖とつながりがあるとはっきり言った。人妖に接触している人間がいる。最も恐れていた事態が現実になってしまった。
美樹のために何か手伝わせてくれとすがりつく久留美をなだめ、これ以上は警察の仕事だから深追いしないようにと釘を刺したのは正解だった。
授業が終わるとシオンはすぐさまタクシーに乗り、美樹が入院している総合病院に向かった。この病院の最上階には財界人や政治家など、事情を抱える人達専用のVIPエリアが用意されている。アンチレジストの戦闘員も、負傷した場合はこの病院に入院することが通例になっている。
タクシーが病院の入口に横付けされると、シオンは礼を言いながら支払いを済ませて後部座席から降り、軽くブレザーの襟を直して髪を手櫛で梳いた。シオンは戦闘時には長い髪が邪魔にならないようにツインテールに纏めているが、普段は櫛で梳いただけのナチュラルストレートにしている。プラチナブロンドの髪が冬の日差しに反射し、柔らかく光っていた。
シオンは振り返って運転手に軽く手を振り、病院の総合受付に向かった。運転手は後部座席のドアを閉めるのも忘れ、ぽかんと口を開けたままシオンの後ろ姿を見送り、天使みたいな人だなと溜息混じりに呟いた。派手な容姿のシオンは歩いているだけで目立つ。そのため、シオンの後に入ってきたタクシーから久留美が降り、隠れるようにシオンの後を追ってロビーに入った姿は、誰の目にも留らなかった。
「すみません。鷹宮美樹さんのお見舞いに来たのですが」
「鷹宮様ですね。かしこまりました。許可制となっておりますので、こちらにサインと身分証をお願いします」
受付の女性が端末で照合を始めた。照合している間も、女性は笑顔を全く崩さなかった。もしかしたら寝る時もこの笑顔のままなのではないだろうかと、シオンは心の片隅で思った。
「如月シオン様。ただいま鷹宮様から入室許可を頂きました。鷹宮様のお部屋までご案内致しますので……」
「大丈夫です。私も以前同じエリアに入院していて、大体の場所は分かりますので、部屋番号だけ教えて頂けますか?」
シオンは受付に礼を言うと、最上階までエレベーターで登り、教えられた部屋番号をノックした。中から「どうぞ」と返事が返って来た。美樹の声だ。扉を開けると、中はホテルの一室のような内装になっていた。応接セットの奥に備え付けられた落下防止の柵がついたベッドだけが、ここが病室である事を主張していた。
「大丈夫ですか美樹さん。すみません、来るのが遅くなってしまって。今回は大変でしたね……」
「いや、こちらこそ悪かったな。迷惑をかけてすまない……くっ……」
ライトブルーのパジャマを着た美樹は読んでいた本を閉じて起き上がろうとしたが、腹部を押さえて小さなうめき声を上げた。シオンが慌てて駆け寄り、寝ているように促す。
「大丈夫だ……医者によると、内臓へのダメージはほとんど残っていないらしい。それより、今回の件について話がしたい。お前の事だから、もう犯人の写真くらいは手に入れているんだろう?」
「ええ、監視カメラには犯人の顔がある程度鮮明に映っていました。先走って申し訳ありませんが、このデータを元に、鑑君にはアンチレジストの本部で照合をお願いしています」
シオンがプリントアウトした数枚の写真を美樹に手渡すと、それを見た美樹の顔がわずかに強張った。
「こいつで間違いない……鑑にはそのまま調査を続けてもらってくれ。情けない話だが、隙をつかれてこのザマだ。なによりこいつは……」
「人妖ではなく人間……ですよね」
美樹が言い終わる前に、シオンが言葉を継いだ。美樹の深く黒い瞳が、シオンの緑色の瞳を見上げる。
シオンは胸の下で自分の身体を抱くように腕を組むと、視線を足下に落とした。
「どうしてわかった?」と、美樹が言った。
「体液が、チャームではありませんでした。犯人の体液に接近した久留美ちゃんに、精神的な変化はありません。我々ならともかく、久留美ちゃんのような一般人にとって、人妖の分泌するチャームは効果覿面なはずです。そして厄介なことに、この犯人は人間でありながら、人妖との繋がりを仄かしている。これは内々の話ですが、学院の防犯カメラには録音機能も備わっています。すみませんが、犯人と美樹さんの会話を聞かせていただきました。蓮斗と名乗っているこの犯人は、何らかのメリットがあって人妖と接触しているか、少なくとも人妖の存在を知っていることになります」
「……お前の言う通りだ。確かにこいつは、自分を人間だと名乗った。行動目的は分からないが、どうやら我々アンチレジストの出番らしい。ところで、久留美は大丈夫だったか? ショックを受けていないといいんだが……」
シオンが大丈夫だと頷くと、美樹はようやくほっとしたようなため息をついた。
「ジンヨウ? アンチレジスト? 先輩、何を話しているの……?」
個室のドアに耳を付けて中の話を聞いていた久留美は目を丸くした。美樹やシオンの口から発せられた聞き慣れない単語は所々意味が分からなかったが、何か大きなモノに美樹やシオンが対峙している事は理解出来た。
「何をしてるんだい? そんな所で」
「ひゃ! ひゃいっ!? す、すみません! わわわ私、先輩のお見舞いに……」
急に背後から声をかけられ、久留美が床から三十センチほど飛び上がった。油が切れた蝶番の様に、ギギギという擬音が聞こえそうなほどぎこちなく後ろを振り返ると、そこには長身で細身の医師が立っていた。白衣にマスクをしており表情は分からないが、髪の毛が全て金色に染められていたのが異様に見えた。
「お見舞い? 怪しいなぁ……知り合いだったら盗み聞きなんてしないんじゃないのか?」
医師が壁に片手をつき、久留美に覆い被さるように質問する。
有無を言わさぬ雰囲気に久留美が気圧されそうになるが、小さな身体が震えそうになるのを必死に堪える。
「あ、あの、違うんです。今先輩達が大事な話をしてるから、少し外で待ってるように言われて……」
「ふぅん、大事な話か。もしかして、美樹ちゃんの容態のことかな? 結構ヤバい状態なんだけど、本人から聞いたかい?」
「えっ……?」
「知らないのか? まぁ美樹ちゃんは人に心配をかけたがらないからなぁ。あんな事になるなんて可哀想に……」
「な、何があったんですか!? 先輩は大丈夫なんですか!? お願いします。先輩を助けて下さい!」
久留美が必死な形相で医師の白衣を掴む。医師はマスクの下で満面の笑みを浮かべていたが、久留美は全く気付かなかった。
「まぁ廊下では何だから、向こうで話そうか?」
ただならぬ雰囲気を感じ、久留美が無言で頷く。
美樹の病室に背を向け、久留美は強張った顔で医師の後に付いて歩いた。途中、自分と同い年くらいのセーラー服を来た少女がエレベーターを降りて、早足で歩いて来た。その少女はすれ違う際に自分と医師に対し軽く頭を下げた。久留美は反射的に頭を下げたが、医師は気に留めた様子も無く正面を見つめて歩き続けた。その少女が美樹やシオンと同じ組織に所属する上級戦闘員、神崎綾だとは、久留美は知る由もなかった。
「ごめんなさい遅れちゃって! 美樹さん、大丈夫ですか?」と、ドアを開けるなり綾が言った。
「ああ、綾か。遠くからすまないな。私はこの通り平気だ」
「綾ちゃん久しぶりー。元気だった?」と、シオンが綾に手を振る。
「あ、シオンさんもいる。今日は鑑さんは一緒じゃないんですか?」
綾が悪戯っぽくシオンをからかう。軽い雑談の後、美樹が綾に今回の経緯を説明した。
「あの、先輩の容態って……?」
久留美が連れて来られたのは、予備のベッドやシーツが置かれているリネン室だった。ベッド数の多い総合病院らしく、リネン室はかなりの広さだ。業者に受け渡す前の使用済みのシーツがうずたかく積み上げられ、その横には糊の利いた真っ白なシーツが寸分の狂いも無く畳まれた状態で置かれている。
「化学繊維の混紡か……。それに糊も効かせすぎだ。俺は病気になっても、こんなものの上に寝たくはないな」
金髪の医師が真新しいシーツを触りながら言った。美樹の様子が気になる久留美は思わず声を荒げた。
「先生、先輩は大丈夫なんですか? ここに来たら教えてくれるって言ったじゃないですか!? 先輩は助かるんですか?」
ゆっくりと医師が振り返ると、久留美の身体を爪先から頭まで舐め回すように見つめた。
黒いローファーから健康的な脚が白いニーソックスに包まれて伸び、僅かな素肌が覗いた後、黒と緑を基調としたブラックウォッチのプリーツスカートに隠れた。凹凸の薄い身体を深紅のブレザーが包み、幼い顔立ちが不安げな表情を浮かべている。
医師の舐め回すような視線に、久留美は背中に薄ら寒い物を感じて、思わず後ずさった。
「へ、変な事をしたら、人を呼びますよ……?」
「今教えるから。まず美樹ちゃんがあんな風になった原因はね……」
ずぐん……と重い振動が久留美の体内に響いた。
「えぅ……?」と、久留美の半開きになった口から無意識に息が漏れる。
医師が久留美に近づくと同時に、右の拳を久留美の腹部に埋めた。ブレザーの金ボタンがメキリと音を立ててひしゃげ、久留美の華奢な腹部にめり込んでいた。
「俺がこうやって美樹ちゃんをイジメちゃったからなんだよね」
「な……ぐぷっ!? うぐあぁぁぁぁぁ!!」
同年代より一回り小さな久留美の身体は、蓮斗の拳を支点に軽々と持ち上げられ、両足が完全に地面から離れた。人に腹を殴られるという初めての経験に、久留美の脳は一瞬でパニックに陥った。
「あ……あぐああっ! げぼっ!? う……うあぁ……」
「へぇ、凄くいい反応するね。水橋久留美ちゃん?」
「な……何で……私の名前……? んむぅッ!?」
蓮斗は強引に久留美の唇を奪った。朦朧とする意識の中、初めてを奪われたという思いが頭の片隅に浮かんだ。
蓮斗は久留美の舌を吸いながら、再び拳を久留美の腹に埋めた。重い音を立てて、骨張った拳が腹と鳩尾に突き刺さる。
「んぶぉっ?! ぐぷッ!? ごぶッ!?」
塞がれていた口が解放されると、久留美は限界まで舌を伸ばして喘ぎ、唾液が糸を引いて地面に落ちた。
「やべぇ……予想以上だな……。完全にスイッチ入ったわ」
「あ……いや……いやぁ……」
蓮斗は久留美の身体を、重量挙げをする様に軽々と抱え上げた。手を離すと、重力に従い、久留美の身体がうつ伏せの姿勢のまま落下する。そのスピードを利用し、久留美の柔らかい腹を膝で突き上げた。
落下のスピードと自分の体重が合わさった状態で、久留美の腹部は酷く潰れた。内臓がひしゃげ、パニックになった久留美の脳がデタラメな危険信号を全身に送る。
「えごぉぉっ!?」
普段の久留美からは想像がつかない濁った悲鳴が響いた。限界まで見開いた目は黒目が半分隠れ、口からは大量の唾液が強制的に吐き出された。溺れる人間が空気を求めるように何度か口を開閉した後、電池が切れたように体全体が弛緩した。蓮斗は興奮した息を整えながら新品のシーツを広げると、気絶している小柄な久留美の身体を包みはじめた。
「人妖とつながりのある人間……?」
綾が美樹の話に目を丸くする。人妖とつながりのある人間がいることに加え、加害者の口からアンチレジストの名前が発せられたことも気がかりだ。蓮斗と人妖はどのようなつながりがあるのか、相互に何らかの利益が無ければ、人妖は一方的に人間を餌にするだけだ。事態は急を要するが、現時点でわかっていることは少ない。想像で話をしていても解決することはなく、なにより美樹には休息が必要だ。シオンと綾は警戒を強化しつつ情報を集め、美樹の退院を待ってアンチレジスト本部で具体的な作戦を決めようということになった。
「そいれにしても、久留美には心配をかけたな。すまないが、久留美に会ったら私は問題なく元気だったと伝えてくれ」と、美樹がシオンを見て言った。「シオンのフォローのお陰で、久留美が大丈夫そうで安心した。あいつは身体は小さいが正義感と芯が強いからな……。こんな事にあいつを巻き込みたくはない」
「そうですね。久留美ちゃんに限らず、一般生徒に心配をかける前に、早急に解決できればいいのですが……」
「……あの、久留美ちゃんて、あの先に帰った背の小ちゃい子ですか? 私と同い年くらいで、ピンク色の髪に白いカチューシャを付けてる……。さっきお医者さんの後について歩いて行きましたけど……」
綾が人差し指と親指で、自分の頭にカチューシャの形を描いた。
美樹が怪訝そうな顔でシオンを見ると、シオンが小さく首を振った。二人の表情が緊張したものに変わって行く。
「嘘……久留美ちゃん……来てたの……?」
「医者の後について行っただと……? 綾、この階は一般病棟とは違って、医師や看護師はこちらから呼ばなければ絶対に来ない。この階に重病人は一人も居ないんだ。うろついてる医者なんていない。どんな奴だった?」
「えと……顔はマスクで隠れていて分からなかったんですけど、髪の毛を金髪にした背の高い男の人で……」
三人の視線がベッドの上に置かれた写真に集中する。
一瞬の間。綾は鞄からオープンフィンガーグローブを取り出して両手に嵌め、まだ近くに居るかもしれない蓮斗と久留美を探して病室を飛び出した。シオンは鑑の携帯に電話をかけ、美樹はナースコールを押した。数秒の間を置いて、落ち着いた女性の声が天井のスピーカーから響く。
「鷹宮様、どうなされましたか?」
「退院する。今すぐにだ」
「はい?」
「すぐにタクシーを呼んでくれ」
まだ甘いので、あと2回くらい推敲します。
雪が降っていた。
夕方からしんしんと降り続いた雪は二十二時を過ぎても止まず、本来なら、手入れの行き届いたきめの細かい芝生で覆われたアナスタシア聖書学院のグラウンドを、まるで最高級のグレイグースの羽毛を敷き詰めた様に真っ白に覆い隠していた。
その雪が全ての音を吸い尽くしてしまったかの様に、ほぼ完全な静寂がヨーロッパ調の敷地内を静かに漂っている。赤味の強い煉瓦造りの校舎の中は全ての灯りが消えており、等間隔に灯されたレトロなガス灯のあかりだけが、雪に霞みながら静かにゆらめいていた。
男は裏門にいた警備員を昏倒させると、鍵束から裏門の通用口の鍵を探し出し、足早に学院内へと侵入した。
男は二十代前半だろうか。顔の彫りが深く、目が落ち窪んで眼光がやけに鋭い。金色に染め上げたボリュームのある髪の毛を、爆発したようなきつめのパーマで逆立てている。男は黒いタイトなレザーライダースのファスナーを首元まで締め、大きなポケットの着いた厚手の黒いカーゴパンツのポケットに手を突っ込んで歩いていた。
十年に一度の異常気象と言われた夏の暑さとはうってかわって、年が明けた一月の夜は凍てつく様に冷えきっていた。男は時折白い息を吐きながら新雪を踏みしめた。さくさくと乾いた音がドクターマーチンの靴底から男の耳に届く。
学院の奥へと進むと、ようやく目当ての建物が見えてきた。煉瓦や自然石を基調とした敷地の中で、やや浮いた印象のコンクリートむき出しの五階建ての建物、通称S棟。
S等は一階がプール、二階と三階が多目的コート、四階が武道場、五階がトレーニングジムというスポーツ専用に建設された建物で、授業や部活動以外にも体力向上やダイエット目的の生徒に幅広く利用されている。
男はS棟の真下に到着すると、微かに明かりの漏れている一階部分を見上げた。高い天井付近の窓から漏れる明かりと、わずかに見える天井に写る水面の揺らめきが、ターゲットがまだ中に居ることを男に伝える。男は僅かに唇の端をつり上げるとS棟の中に侵入した。
内部は空調が効いているのか、外の寒さに反して適度な湿度と温度に保たれていた。
広い競泳用プールの左端のレーンを、一人の女性が綺麗なフォームのクロールで泳いでいる。
女性はあっという間に向こう側の壁にたどり着くと、鮮やかなクイックターンですぐにこちらに向かって泳いで来る。
女性ほとんどペースを落とさずに数回プールを往復すると、肩で息をしながらプールサイドに据え付けられたステンレス製の手すりにつかまり呼吸を整えた。わずかに見える横顔からは満足そうな色が伺えた。男が居ることには気付いていない。呼吸が落ち着き、プールサイドに登るためにステップに足をかける。
「手を貸そうか?」
女性の肩がビクリ跳ね、反射的に男が伸ばした手を弾くと、隙をついてプールサイドに上がった。女性が飛び上がった反動で舞い上がった水しぶきが、遅れて男のライダースジャケットの上に落ちた。
「へぇ……あれだけ泳いだ後なのに、なかなか良い動きするじゃないか? 鷹宮美樹?」
「……何だお前は? なぜ私の名前を知っている?」
男は質問には答えず、まだ水の滴る美樹の身体をゆっくりと見回した。
均整の取れた美しい身体だ。
腰まである長い黒髪は濡れた烏の羽の様に艶々と輝いており、凛とした印象の整った顔立ちを引き立たせている。身体にぴったりとした競泳用の水着は身体のラインを余す所無く浮かび上がらせていた。男は無意識に唇を舐めた。
「次の大会で君の連覇は確実だというのに、こんな時間まで居残り練習とは大したもんだ。優雅に泳ぐ白鳥は水面下で必死に足を動かしている……ってやつかな?」
「質問に答えろ。どうやって侵入したかは知らないが、どうせやましいことが目的だろう? 怪我をしないうちに帰った方がいいぞ……」
「噂通り口が悪いなぁ……。神社の巫女さんってのはそんなにぶっきらぼうでも勤まるものなのかい?」
美樹の目がわずかに大きく開く。この男は家のことまで知っているのか。
「君のことは結構知っているよ。鷹宮神社の一人娘……と言っても、住職とは血の繋がりは無くて養子縁組。アナスタシア聖書学院の水泳部のエースで、地区大会ではいつも優勝、全国大会でも上位。ぶっきらぼうだけど面倒見が良くて水泳部の後輩からは慕われている。男にも女にも人気はあるが、雰囲気や言動から近寄りがたく、あまり告白はされないし、されても一度もOKしたことは無い。成績はかなり良くて……」
「ストーカーかお前は?」
美樹が男の言葉を遮る。正面を向いたまま後ずさり、立てかけてあったデッキブラシを掴んで、男に先端を突きつけた。
「生憎、私はそこいらの女達のように簡単に組み伏せられたりはしないぞ。早々に失せろ。金輪際私の前に姿を現さず、アナスタシアの敷居も跨ぐな」
突きつけたデッキブラシを薙刀のように持ち替え、足を前後にやや大きめに開きながら構える。重心をしっかりと落とした理想的な構えだ。デッキブラシの先端は全く揺れず、射抜く様に男に向かって突き出されている。
「おお、怖い怖い。警備員呼ばずに自分でどうにかしちゃうんだ? 流石はアンチレジストの上級戦闘員。痴漢やストーカーの一人や二人懲らしめるくらい朝飯前だよね?」
表情の変化こそ乏しかったが、アンチレジストの名前を出され、美樹は心底驚いた。人間を餌にする人妖の存在は、世間にもほとんど知られていない情報だ。それを討伐する組織、美樹の所属するアンチレジストも同様に世間には伏せられている。
この男は知りすぎている。
美樹は意を決し、すぐさま男に向かってデッキブラシを振り下ろした。
デッキブラシが床を打つ硬い音が室内に反響する。男は美樹の攻撃をバックステップでかわすが、デッキブラシはまるで生きているかのように男を追跡した。
「うおっ!?」と、男が攻撃をかろうじて躱しながら、驚愕の声を上げる。
美樹は床の上を滑るように摺り足で移動する。男との距離を一気に縮めながら、地面すれすれの位置からデッキブラシの先端を男の顎を狙って振り上げた。
男は仰け反って回避する。顎の数センチ手前をブラシの先端がかすめた。美樹は攻撃が外れたと分かるとすぐさま脳天にターゲットを変える。男は咄嗟に腕を上げて、唸りを上げて振り下ろされたデッキブラシをガードする。先端が腕に当たった瞬間ミシリという嫌な音が響いた。
「痛ってぇ!」
男が痛みに歯を食いしばる。美樹は攻撃がガードされるや否や、すぐさまデッキブラシを手放して男に急接近し、正確に男の顎を肘で跳ね上げ、ガラ空きになった腹に槍のような蹴りを突き込んだ。
男は悲鳴を上げる間もなく後方へ吹っ飛び、プールのほぼ中央に派手な音を立てて着水した。一瞬置いて、デッキブラシがからんと音を立ててプールサイドに落下した。
「ふん……この程度か……」
美樹は足下に落ちていた虎縞のナイロンロープを掴むと、男を追ってプールに飛び込んだ。頭まで水に沈んだまま浮いてこない男の髪の毛を掴んで無理矢理水面から引き上げると、美樹は電柱の根元に放置された吐瀉物を見るような目つきで男の顔を覗き込んだ。
「弱いな。アンチレジストの名前を出したときは驚いたが……とんだ肩透かしだ。名前は?」
「うぅっ……は……蓮斗(はすと)だよ……。蓮の花の蓮に、北斗七星の斗……。もちろん、こんなふざけた名前は本名じゃないぜ……」
美樹の拳が正確に蓮斗の肝臓を射抜く。水中から肉を打つくぐもった音が響き、男が微かにうめき声を上げると、口から泡を吹いて全身の力が緩んだ。美樹が掴んでいた髪を離すと、ばしゃりと蓮斗の顔が水面に落ちる。
「ふぅ……せっかく集中して練習していたというのに、とんだ邪魔が入った。教員に見つかる前に回収班を呼んで、帰りにシオンの家に寄って報告しておくか。しかしこいつ、どこでアンチレジストの存在を知ったんだ……?」
美樹がロープで蓮斗を縛り上げようとした瞬間、蓮斗は水面に顔を付けたまま、掌底を美樹の顔面に放った。美樹は咄嗟にガードするが、蓮斗の手に掬われた水が美樹の顔にかかった。
「こいつ……まだ動けたのか……うっ!? あああっ!?」
美樹が攻撃のために拳を握りしめた瞬間、突然目に激痛が走った。目を開けていられないほどの尋常ではない痛みが目の中で次々と爆発し、止めどなく涙があふれた。
「げほっ……流石は上級戦闘員様だ……。たまたま落ちた所に消毒用の塩素剤があったんで、握りつぶして使わせてもらったよ。ラッキーだった……」
「ぐっ……ひ……卑怯者! くっ……目が……」
「ははっ……げほっ……どこ向いてんだよ?」
「くっ……こ……この!」
美樹が音を頼りに必死に居場所を探ろうとするが、水音が壁全体に反響してほとんど状況が把握できない。
「ははっ。どこ向いてるんだい?」
「ひ……卑怯者! 男なら、正々堂々と勝負しろ!」
当てずっぽうに拳を放つが、いずれも空しく空を切る。視界は何とかぼやけて見えるくらいには回復したが、それでも正確に男の位置を把握することは難しかった。不意に、美樹の背中にプールの壁が触れた。いつの間にかプールの端まで移動していたらしい。後頭部も壁に付くことから、おそらくここは飛び込み台の真下なのだろう。
「くそっ……そこか!」
水音がしたとこを目掛け渾身の一撃を放つが、拳には全く手応えが無く、代わりに手首の辺りをがっしりと掴まれた。
「なっ?」
「やっとつかまえた……さて……楽しませてもらうよ?」
蓮斗は正面に回り込むと、美樹にのど輪を食らわせ、力任せに背後の壁に美樹の背中を叩き付けた。美樹は後頭部をしたたかに打ち、小さなうめき声を上げながら、かすむ目で必死に蓮斗を睨みつける。
「恥を知れ……この下衆が!」
「いいねぇ……強気であればあるほど、屈服させたときの征服感がたまらないからね。特に君みたいな綺麗で強気な女の心をへし折った時なんて、本当に最高だよ」
「寝言は寝て言え! 誰がお前なんかに!」
「本当に寝言かな? 美樹ちゃんがいつまで保つか試してみようか? ほら?」
ぐずっ、という湿った音が、背骨を伝わって美樹の脳内に届く。
「──ぐぷっ!? あ……?」
美樹は強烈な圧迫感を腹部に感じ、その衝撃で言葉になるはずだった空気を全て吐き出してしまった。
ゆっくりと水中の自分の身体を見下ろす。無駄な贅肉の無い引き締まった腹部に、競泳用の薄い水着の生地を巻き込んで蓮斗の拳が深々と突き刺さった。
蓮斗は再び拳を引き絞ると、美樹の臍のあたりに拳を埋める。美樹の腹部が水着を巻き込んで陥没し、くぐもった悲鳴が美樹の口から漏れた。
「うぐぅッ!」
「ほら、まだいくよ?」
施設内にごつごつと重い音が反響する。蓮斗の拳が美樹の腹にめり込む度に美樹の身体がビクリと跳ね、大きな水しぶきがプールサイドを濡らした。
「うぶっ! ぐふっ! がぶぅっ! あ……あぐっ……」
まだ完全に視力の回復しない美樹は攻撃を全て正面から喰らい、鍛え上げられた腹筋を固める暇もなく、すべての拳が深々と体内に突き刺さった。
蓮斗の攻撃は容赦がなく、美樹に呼吸はおろか悲鳴を上げる暇すら与えずに、腹に拳を突き込み続けた。美樹の瞳孔は点の様に小さく収縮し、ガクリと頭を垂れた際に長い髪がはらはらと水中に落ちた。
「さっきまでの威勢はどうしたの? やっぱり女の子だから、お腹が弱点なのかな?」
蓮斗は美樹の髪を掴んで顔を正面から覗き込む。美樹は悔しそうに目に涙を溜めながら蓮斗を睨みつけたが、度重なる衝撃で頬は上気してほんのりと赤くなり、食いしばった歯は苦痛でガチガチと音を立てて震え、口の端からは一筋の唾液が垂れていた。
「へぇ……結構色っぽい表情するじゃん? 大好きだよ、そういう顔」
「お……お前みたいな変態に……喜ばれても……嬉しくな……ぐぶぅッ!」
蓮斗は渾身のボディブローを美樹の鳩尾に埋め、更に身体の奥へと拳を捻り込んで、美樹の心臓に直接ダメージを与える。
「がふぅっ……ぁ……うぐっ!?」
蓮斗が鳩尾から拳を引き抜くと、陥没が収まらないうちに二撃目を突き入れた。美樹の瞳がまぶたの裏に隠れ、力が抜けて水しぶきを上げながら水面に顔を付ける。蓮斗が美樹の髪を掴んで水面から顔を上げるが、両目を閉じたまま反応が無い。
「変態であることは認めるよ。さて、変態は変態らしく、こういう機会は楽しまないとね」
蓮斗は美樹が持って来たロープをつかむと、力無く弛緩した美樹をプールサイドへ上がる為のステップに座らせた。
蓮斗は慣れた手つきで美樹の両手首を手摺に縛り付ける。手首が終わると、水の中に潜って両足首も同じ様に手摺に固定した。
作業が終わると、蓮斗は美樹の身体を少し下がって眺めた。
「へぇ……スポーツやってるだけあって、流石にスタイルが良いな」
引き締まった身体に、適度な大きさの胸が半分水面から顔を出している。美樹はまるで大胸筋を鍛えるフィットネスマシンに座るような格好で、梯子に縛られたまま項垂れていた。長い睫毛や髪の毛からは時折水滴が音も無く水面に落ちている。
「そそるな……」
蓮斗は思わず生唾を飲み込む。
美樹ほどの美貌とスタイル持ち主が、目の前で全身を濡らしたまま無防備に身体を開いている。
水を吸ったネイビーの競泳用水着はまるで絹糸の様な光沢があり、美樹の身体のラインを魅力的に浮かび上がらせていた。
「これはヤバいな……一発抜いとくか」
蓮斗は自らステップに上がると、カーゴパンツのジッパーをおろして性器を露出させ、美樹の顔の目の前でしごき立てた。水着越しに美樹の胸に擦り付け、化学繊維特有のザラザラした感触と、その奥にあるマシュマロの様な柔肉の感触を楽しむ。
「おぉ……たまんねぇ……」
「んっ……うぅ……」
胸を硬いものが這い回る違和感と、顔の前で何かが蠢く感覚に美樹はうっすらと目を開けた。
「んっ……なっ、なにをしている?」
美樹は目覚めると、すぐさま蓮斗から離れようと身を捩った。ナイロン製のロープが手首に食い込み小さな悲鳴を上げる。露出した男性器に気が付き、鋭い視線で蓮斗を睨みつけた。
「貴様……どこまで下衆なんだ! 女一人動けなくして、どうするつもりだ!?」
「どうするって、見ての通りだよ。美樹ちゃんがあまりにもエッチだから、自分で楽しんでただけだよ? ほら、こんな風に……」
蓮斗はガチガチになった性器を美樹に見せつける様に目の前でしごき上げた。美樹に見られていると思うと蓮斗の興奮度は増々高まり、自然と手の動きが速くなる。
「男のオナニー見たことある? もっとよく見て?」
「ふざけるな! は、早くしまえ!」
美樹は大きくかぶりを振って拒絶の意を示す。目が泳ぎ、明らかに気が動転している。蓮斗はその様子をニヤ付きながら眺めていた。
「こんなになったものを、今更しまえるわけないだろ? そんなに嫌なら早く治まるように、美樹ちゃんも協力してくれよ」
そう言うと蓮斗は美樹の乳首の周辺を、あえて乳首を触らずに円を描くようになぞり始めた。水着の上から乳輪のふちをなぞる様に刺激され、美樹は思わず口から声が漏れそうになる。乳首はそのじれったい刺激で硬くなり、今では水着越しでもその位置がはっきり分かるくらいの硬度になっていた。
「あっ……くっ……や……やめろ……こんな……んぁっ!?」
「やめろって言う割には、気持ち良さそうじゃないか」
蓮斗は円を描く様になぞっていた亀頭の動きをやめ、乳首に性器を挿入するように先端を突き入れた。むっちりとした柔肉が亀頭をすっぽりと包み、硬くなった乳首が尿道を刺激する。美樹も待ちかねた刺激に思わず身体が跳ね、大きな声を上げた。
「んあッ! くっ……ぅ……」
「うっ……気持ち良い……。そろそろ出させてもらうよ」
「あっ……あぁ……こんな男に……や、やめろ……」
戸惑う美樹を見下しながら蓮斗は美樹の頭を掴んで固定すると、美樹の顔を目掛け勢い良くしごき上げた。
「あぁ……出る……出るよ……」
不穏な空気を察し発せられた美樹の抵抗の声も空しく、蓮斗の性器からは勢い良く粘液が飛び出し、美樹の顔や髪の毛を汚していった。美樹は、放出する瞬間に驚いて腰を浮かせる。
「あっ?! きゃあぁっ! うぶっ……うぁ……」
「おっ……おおぉ……すごい……出る……」
粘液は美樹の顔や髪を白く汚し、すらりと尖った顎を伝って水着の胸元へ染み込んで行った。
「う……うぇっ……何だこれは……? 酷い匂いだ……ドロドロして……」
美樹は気持ち悪さに顔をしかめた。顔中を精液まみれにされたショックで、表情は今までの強気なものとは代わり、弱々しく呆然としている。その姿に蓮斗の性器は放出したばかりだというのに、早くも硬度を取り戻しつつあった。
「そんなに驚いて、射精を見るもの初めてだったのかな? 俺にしても惜しいな。俺の精液に人妖みたいな人を魅了する力があれば、今頃美樹ちゃんは虜になっていたはずだけど」
「チャームのことまで……貴様、どこまで知っている?」
「まぁその話はまた今度ね。ところで美樹ちゃん、これ知ってる?」
蓮斗はカーゴパンツのポケットから、金色に光る連結された指輪のようなものを取り出した。かなり使い込まれているようで、形が微かにひしゃげ、塗装も剥げている。
「……ナ……ナックル……」
「正解。メリケンサックとも言うよね」
そう言うと、蓮斗は美樹に見せつけるように右の拳にメリケンサックをはめ込んだ。美樹に近づき、開かれた身体の中心線を値踏みするように眺める。
「ん~、見れば見るほどエロいね。顔中精液まみれの女の子がプールの梯子に縛り付けられてるなんてシチュエーション、一生かけても見られるか分からないよ」
美樹は黙って蓮斗を睨みつけた。戯けた様子だが、蓮斗の目は少しも笑っていない。
蓮斗はメリケンサックを嵌めていない左手で美樹の口を塞ぐと、先ほどとは重さと硬さが桁違いに上がった右手の拳で美樹の臍の辺りをえぐった。
ゴギッ……という固い音が周囲に響く。
美樹は自分の身体に入り込む金属の感触と、身体の中を反響する嫌な音を聞いた。同時に今まで味わった事の無い苦痛が全身に広がる。内臓全てを吐き出したいほどの衝動に駆られ、一瞬で瞳孔が点の様に収縮する。
「ぶぐぅっ?! ぐ……うぶぅぅぅぅぅ!!」
口を塞がれているため、まともに悲鳴を上げることすら出来ない。
メリケンサックを嵌めた攻撃は先ほどのものとは比べ物にならず、たったの一撃で目からは大粒の涙があふれ、意識が暗転した。しかし、意識が途切れる一瞬前に再び強烈な衝撃が鳩尾を襲った。
「ぐぶぅぅぅぅっ! ごっ……ごぶぅっ……」
「おぉ、良い反応。俺も興奮してきたよ」
たった二発の攻撃だが、身体を開かれた上に背中をプールの壁に密着した逃げ場の無い中、メリケンサックをはめた攻撃の威力全てを美樹の身体が受け止める。既に意識は飛びかけ、視野が普段の三分の一ほどに狭くなっていた。
「あれ? 白目向いちゃって、まさかもう限界?」
美樹は既に小刻みに震えており、美樹の口を押さえている蓮斗の左手には、ガクガクと顎が震えている感覚が伝わる。
「もう少し頑張ってよ。俺ももうすぐ……」
ゴリッ、ゴリッという嫌な音が、何回も何回も水の中で反響する。音が響く度に美樹の身体は大きく跳ね上がった。
「むぐぅぅぅぅぅ! ぐ……ぐぶっ……?!」
冷たい金属に守られた拳が美樹の下腹部にめり込み、美樹の子宮や胃は身体の中で痛々しくひしゃげている。攻撃の数は少ないものの、その重すぎる一撃の威力に慈悲は全く感じられず、既に美樹の内蔵はショックで痙攣を起こしていた。
蓮斗は鳩尾の少し下へ狙いを定める。ぐじゅっ、という水っぽい衝撃が蓮斗の拳に伝わる。胃を潰された衝撃で美樹の喉が大きく蠢き、内容物が何度も食道を通って逆流するが、口を押さえる蓮斗の左手が容赦の無い堤防となって押しとどめた。
美樹の苦しむ様子に蓮斗も限界まで昂り、最後に弓を引き絞るように限界まで右手を引き絞ると、下腹部から力任せに美樹を突き上げた。
「ぐうっ?! ごぷっ?! う……うげえぇぁぁぁぁ!」
「ああ……いいぞ。俺も……」
美樹の胃はメリケンサックとプールの壁に挟まれ、まるで石臼でゆっくりとすり潰されるようにひしゃげた。内容物が強制的に喉を駆け上がり、蓮斗が美樹の口を解放すると同時に勢いよく胃液が美樹の口から飛び出した。
「げぶぅっ! お、おごぉぉぉぉぉ!」
美樹は白目を剥きながら、勢い良く水面に黄色がかった胃液を吐き出した。ガクガクと痙攣する美樹を見て、蓮斗も勢いよくプールのステップに上がり、嘔吐を続けている美樹の髪を掴んで上を向かせると、胃液が逆流し続けている口に無理矢理性器を押し込んだ。
「むぐぅぅぅぅっ?! ぐっ……ぐえっ……」
「おおおおっ!? 胃液が潤滑油代わりになって……喉がすげぇ滑る……出る……出るよ……」
蓮斗は嘔吐を続ける美樹のことなど気にもかけず、自らの快楽に任せて腰を振った。嘔吐を塞き止められたこととイラマチオによる二重の苦痛で美樹の喉は大きく痙攣し、それが結果的に蓮斗の男根を締め付けた。
「おぉぉぉっ! すげぇ……ほら……死ねよ……」
蓮斗は背中を大きく仰け反らせて射精した。呼吸も出来ないほどの苦痛を受けながら喉の奥で熱い粘液を吐き出され、美樹の黒目がぐりんと裏返る。
「ぐ……ぐむぅぅぅっ?! ごぼっ!!? ごぶぅっ!!」
蓮斗は逆流して来る胃液を押し返す様に精液を美樹の喉に流し込んだ。食道内で精液と胃液がぶつかり合い、逃げ場を無くした液体は気管に逃げ込み、気道反射で押し返された液体は再び食道でぶつかった。
「うぶぅっ! ごぼろぉぉぉっ! う……うげぇぇぇぇっ……うぐっ……うあぁぁ……」
蓮斗がようやく放出を終えて美樹の口から性器を抜くと、美樹の頭が糸が切れたようにがくりと落ちる。同時に、精液と胃液が混ざった濁った液体が、美樹の口から滝の様に水面に落ちた。美樹の身体は完全に力が抜け、皮肉にも蓮斗が手足を縛ったロープが支えとなり、美樹が水中に落下するのを防いでいた。
「くあぁ……少しやり過ぎたか……。もしかして本当に死んじゃったかな?」
蓮斗は肩を大きく上下させて息をしながら、美樹の首元に手を当てる。若干弱くなっているが、美樹の心臓が脈打つ感触が伝わって来た。明日の朝程度までであれば放置しても大丈夫だと判断し、プールサイドに上がる。
「帰ったらライダースにオイル塗らないとな。じゃあ美樹ちゃん、また近いうちにね」
蓮斗はひらひらと手を振ってプールから出て行った。当然その声は美樹に届かず、美樹の髪の毛から水面に向かって滴り落ちる小さな水音だけが広い空間に反響していた。
翌日の早朝。練習に来た美樹の後輩、水橋久留美(みずはし くるみ)が変わり果てた美樹の姿を発見し、悲鳴がプールの壁を反響した。
「ファウスト?」
女性の柔らかい声が部屋に響くと、暖炉の中で燃えている薪がパチリと爆ぜた。
部屋の壁は清潔感のある漆喰が丁寧に塗られていた。ダークブラウンのフローリングに、磨き抜かれた紫檀の無垢材で出来たリビングテーブル。それを挟むようにスリーシーターのソファが向かい合わせて二脚置かれている。ここはアナスタシア聖書学院の生徒会長室だ。ソファに張られた光沢のあるモスグリーンのモケットファブリックが、暗色の床の色と調和して暖かみのある雰囲気を醸し出していた。趣味の良い喫茶店のような雰囲気の部屋だが、部屋の奥には執務机が置かれ、その上には二十七インチのマッキントッシュが鎮座している。
なぜ生徒会長に、このような個室が用意されているのか。
一般的な学校の生徒会長とは違い、自主性を重んじるアナスタシア聖書学院では、生徒会と生徒会長にそれなりの権限が付与されている。どちらかと言えば労働組合に近く、生徒会長には一般生徒から吸い上げた意見を元に学院の行事や運営に一定の発言権があり、生徒会として拒否を示せば一度差し戻して審議される。そして生徒会長には権限がある分、執務や生徒の意見を聞くことが多く、このような専用の部屋が用意されている。現在の部屋の主の如月シオンも、授業が終わってから夜八時頃までは生徒会長室にいることが多い。
入り口側のソファにはアナスタシア聖書学院の制服を着た男性と、同じく制服を着た腰まである長い金髪の女性が真ん中を一人分空けて座っている。金髪の女性が生徒会長の如月シオンだ。上座のソファにも制服を着た桃色の髪の女性が一人座っている。シオンが緑色の瞳を輝かせながら 手のひらを胸の前でぱんと合わせた。
「ファウストと言えばあれですよね、ゲーテの書いた戯曲のファウスト。実家に原本がありましたので、子供の頃から何回か読んでいます。素晴らしい言葉もたくさん出てきますし……」
ストーリーを思い出すように、アーモンド型の目が細くなる。シオンはファウストの中の一文を口に出したが、ドイツ語の原文のため、向かいに座る女性の頭には「?」マークが浮かんでいた。
「あの……もしかして如月会長ってファウストを原文で読んだんですか?」
水橋久留美が右手を上げながらおずおずと声をかける。幼い印象の顔立ちで、身体も同年代のそれよりは一回りほど小さい。ショートカットに切り揃えた髪に、白いリボンカチューシャを留めている。
「ええ、ファウストは全て韻文なので、原文で読んだほうが本来の言葉の響きや意味を理解しやすいんですよ。あ、それと久留美ちゃん、私の事は改まらずに下の名前で読んで下さっていいですよ?」
「はぁ……。いえ、当然のように仰ってますけど、ただでさえ難解なファウストを原文ですらすら読める方が……。ちなみに、きさ……シオン会長って何カ国語喋れるんですか……?」
「ええと……母国語はロシア語ですけど、母が日本人なので、物心ついた頃から日本語は話していましたね。あとは子供の頃に習った英語、ドイツ語、フランス語と中国語は特に不自由していません。イタリア語は勉強を始めたばかりですので、まだ日常会話程度ですけど」
シオンは人差し指を口に当てて思い出すように呟いた。久留美はしばらくぽかんと口を開けていたが、はっと我に帰りテーブルに身を乗り出しながら早口でまくしたてた。
「十分というか凄過ぎますよ! 確かにここ、アナスタシア聖書学院では入学条件に『母国語の高いレベルでの習熟と、その他に一つ以上の言語を不自由のないレベルで習得していること』とありますけど、ほとんど皆、日本語と英語だけで精一杯で、六カ国語もマスターしてる人なんて会長だけですよ!」
「そ、そうですか? 習っていたのが子供の頃だったので、勉強するというよりは自然と身に付いてしまって……」
久留美が感心を通り越して呆れたようにため息をつくと、違う方向からも大きく溜息をつく音が聞こえた。シオンの横に座っている副生徒会長、鑑が眼鏡を直しながら口を開く。
「確かに母国語を完全に認識する前の幼少期に専門のトレーニングを施せば、あらゆる言語を抵抗無く素直に受け入れられるという研究結果はありますが、それでも一般的には二、三カ国語の習得が限界だそうです。それに、習得したとしても日常会話程度がほとんどで、会長のように専門用語に溢れた論文翻訳のアルバイトが出来るレベルまでには、とてもなりません」
「え……シオン会長ってそんなこまでしているんですか?」
久留美がさらに呆れたような声を出した。
「会長のケースはおそらく、元々会長自身の能力が高い上に、かなりレベルの高い英才教育を受けたのでしょう。というか、いつ突っ込もうか迷っていましたけど、鷹宮さんを襲った容疑者の名前はファウストではなく蓮斗ですよ。会長も呑気に雑談している場合ではなく、水橋さんに鷹宮さんを発見したときの状況を聞いて、容疑者を見つけなければ次の事件がいつ起こるとも限りませんよ?」
「あ、ああ……そうでしたね。久留美ちゃんも今回は大変だったけれど、もう大丈夫かしら? 大好きな先輩があんな事になって、とてもショックだったと思うけれど……?」
「あ……ええ。なんかシオン会長を見てたら、なんだか元気が出てきちゃって……」
そういうと久留美は右手でポリポリと頭を掻いて、「あの噂って本当だったんですね」と小声で呟いた。久留美のシオンに対するイメージは、いつも腰まである金髪を颯爽となびかせて廊下を早足で歩き、大きな行事の際には良く通る声で壇上から堂々と演説する姿だった。冷淡な雰囲気は無いが、あまりに完璧な仕事ぶりと人間離れしたその美貌は時に現実感を失わせ、久留美をはじめ生徒達は少なからず近寄りがたい印象をシオンに抱いていた。一部生徒の中には「如月会長は実際に話すと、呆れるほど『ゆるふわ』である」と噂する者もいるが、ほどんど都市伝説のように扱われていた。
シオンの顔がふと真剣になる。
「それはよかったです……。では、申し訳ないですが、そろそろ本題に移ってもよろしいですか?」
シオンの顔がさっきまでののんびりした顔から、凛としたものに変わる。アナスタシアの生徒にとっては、いつものシオンの雰囲気だった。一瞬で部屋の空気が、真冬の禅寺のように張りつめた。久留美はその雰囲気に押され、無意識に浮かせていた腰をぽすんと音を立ててソファに降ろした。
「久留美ちゃんが美樹さんをとても慕っていることは知っています。ショックな場面をもう一度思い出す事はとても辛いかもしれませんが、美樹さんを見つけた時のことをなるべく詳しく話してもらえませんか? こんな事をお願いするのは申し訳ないですけど、学院の安全のために協力して欲しいんです」
シオンが久留美に訴えかける。その真摯な目線に久留美はこくりと頷くと、テーブルの下でぎゅっと組んだ自分の小さな手を見ながら話し始めた。
「えと……うまく話せるかわからないですけど……今朝は自主練のため、七時にS棟に入りました。更衣室で水着に着替えて、準備体操をしようとプールサイドに向かった時、梯子に縛られている美樹先輩を見つけて……美樹先輩の身体には……あの……」
久留美が言い澱みながら鑑をちらりと見る。鑑は真剣にメモを取っていたためその視線には気付かなかったが、シオンがすぐに財布からカードを取り出して鑑に渡した。
「鑑君。悪いけど紅茶が切れているの。買ってきてくれる?」
「え? 今ですか?」
シオンが頷くと、鑑が書きかけのメモをシオンに渡し、生徒会長室から出て行った。久留美はいささかほっとした様子で話し始めた。
「すみません。男の人の前だと、少し話し難くて……」
「大丈夫ですよ。話せる所までで、無理しなくて大丈夫ですから」
「はい……美樹先輩の顔や身体には……その……男の人の体液だと思うんですけど……ドロドロしたものがたくさん付いていました……。今まで実際に見たことがなかったので、確証はないんですけど……」
「体液? 久留美ちゃん、変な質問だけど、その時ドキドキしたり、頭がぼうっとしたりしなかった? もしかしたら、体液じゃない可能性もあるの」
「ドキドキ……? いえ、特になにも……。先輩の顔についたものはタオルで拭ったんですけど、変な匂いだなって思っただけで……。タオルは証拠として、警察の方に渡しました」
シオンがわずかに眉を顰めた。犯人の体液はチャームではない。まさか本当に人間の犯行なのだろうか。
ぽつりぽつりと話す久留美に、シオンは真剣に耳を傾けた。
変わり果てた美樹の姿を発見した久留美は、あまりの事態に悲鳴を上げたものの、すぐ我に帰り美樹の元に駆け寄った。美樹は梯子に両手足を縛り付けられたまま失神していたが、呼吸や脈拍に問題はなかった。震える手で両手足のロープを解き、自分が持ってきたタオルを敷いてプールサイドに寝かせた。濡れた美しい黒髪が艶々と光りながら顔に貼り付いていた。唇は紫色に変色し、普段から色白の肌は透き通るような青白さになっていて、まるで美しい幽霊のように見えた。
「先輩を寝かせた後、夢中で警備員室まで走りました。救急車が来て……先輩が運ばれて……。運ばれる時に先輩目を開けたんです。そして、小さな声で『大丈夫だから、お前は心配するな』って笑ってくれて……。なんで……なんで先輩があんな酷い目に合わなければならないんですか!? 先輩が何をしたんですか!? こんな……酷い……」
久留美の力一杯握りしめられた小さな手に涙がぽたぽたと落ちた。水泳部に入部した時から、久留美は美樹に色々と面倒を見てもらっていた。美樹を知る人間は、美樹の言動はぶっきらぼうで表情は厳しいが、その奥には他人への優しさと気遣いで溢れている事を知っていた。何故美樹のような素晴らしい人が惨い目に遭わなければならないのかと思うと、久留美の瞳にはやるせなさと悔しさで自然と涙があふれた。
シオンが静かにソファから立ち上がると久留美の横に座り、久留美の頭を自分の胸に抱え込むように抱きしめた。ほんのりと甘く優しい香りがする。久留美はシオンに美樹と同じ優しさを感じ取り、いつの間にかシオンに抱きついて大声で泣いていた。シオンは細く長い指でそっと久留美の髪を撫で続けた。
扉をノックし、鑑が紅茶葉の入った缶を持って会長室に入ってきた。二人の様子に驚いた顔をしたが、シオンが無言で人差し指を立てて唇に当てると、足音を立てないように奥の給湯室に入って、ティーポットと三つのカップを用意してヤカンを火にかけた。
「……今回は、我々は出番無しというところですかね」と、鑑がソファの背もたれに身体を預けながら口を開いた。「鷹宮さんが倒されたと聞いて人妖の犯行を疑いましたが、体液に水橋さんが反応しなかったのであれば、犯人は人妖ではなく人間の線が濃厚です。人間であった以上、この件の管轄は我々アンチレジストではなく警察ですよ。犯人の体液も採取されているのなら、前科があれば比較的早く逮捕されます」
「それが、どうもそう簡単にはいかないみたいです……」
シオンがソファから立ち上がり、執務机のパソコンを操作する。不鮮明だが、争う美樹と男の声が流れてきた。
「なんですかこれは?」と、鑑が立ち上がってシオンに聞いた。
「学院の防犯カメラには、実は音声録音機能も付いています。プライバシー保護のために一般には公開されておらず、何か問題が発生した場合に限り、専用のIDとパスワードで聞くことができるようになっています。私はたまたまIDとパスワードを見つけたのですが……。すみません、襲われている美樹さんの声も入っているので、鑑君には音声データがあることは黙っていました」
たまたま見つけたと言いながら、意図的に学院のシステムにハッキングしたのだろう。この人に出来ないことは無いのだろうか、と鑑は思った。味方でいるうちはとても心強いが、最も敵に回したくないタイプの典型だ。
美樹と蓮斗と思われる会話が聞こえてきた。蓮斗は自分は人間で、人妖とつながりがあるとはっきり言った。人妖に接触している人間がいる。最も恐れていた事態が現実になってしまった。
美樹のために何か手伝わせてくれとすがりつく久留美をなだめ、これ以上は警察の仕事だから深追いしないようにと釘を刺したのは正解だった。
授業が終わるとシオンはすぐさまタクシーに乗り、美樹が入院している総合病院に向かった。この病院の最上階には財界人や政治家など、事情を抱える人達専用のVIPエリアが用意されている。アンチレジストの戦闘員も、負傷した場合はこの病院に入院することが通例になっている。
タクシーが病院の入口に横付けされると、シオンは礼を言いながら支払いを済ませて後部座席から降り、軽くブレザーの襟を直して髪を手櫛で梳いた。シオンは戦闘時には長い髪が邪魔にならないようにツインテールに纏めているが、普段は櫛で梳いただけのナチュラルストレートにしている。プラチナブロンドの髪が冬の日差しに反射し、柔らかく光っていた。
シオンは振り返って運転手に軽く手を振り、病院の総合受付に向かった。運転手は後部座席のドアを閉めるのも忘れ、ぽかんと口を開けたままシオンの後ろ姿を見送り、天使みたいな人だなと溜息混じりに呟いた。派手な容姿のシオンは歩いているだけで目立つ。そのため、シオンの後に入ってきたタクシーから久留美が降り、隠れるようにシオンの後を追ってロビーに入った姿は、誰の目にも留らなかった。
「すみません。鷹宮美樹さんのお見舞いに来たのですが」
「鷹宮様ですね。かしこまりました。許可制となっておりますので、こちらにサインと身分証をお願いします」
受付の女性が端末で照合を始めた。照合している間も、女性は笑顔を全く崩さなかった。もしかしたら寝る時もこの笑顔のままなのではないだろうかと、シオンは心の片隅で思った。
「如月シオン様。ただいま鷹宮様から入室許可を頂きました。鷹宮様のお部屋までご案内致しますので……」
「大丈夫です。私も以前同じエリアに入院していて、大体の場所は分かりますので、部屋番号だけ教えて頂けますか?」
シオンは受付に礼を言うと、最上階までエレベーターで登り、教えられた部屋番号をノックした。中から「どうぞ」と返事が返って来た。美樹の声だ。扉を開けると、中はホテルの一室のような内装になっていた。応接セットの奥に備え付けられた落下防止の柵がついたベッドだけが、ここが病室である事を主張していた。
「大丈夫ですか美樹さん。すみません、来るのが遅くなってしまって。今回は大変でしたね……」
「いや、こちらこそ悪かったな。迷惑をかけてすまない……くっ……」
ライトブルーのパジャマを着た美樹は読んでいた本を閉じて起き上がろうとしたが、腹部を押さえて小さなうめき声を上げた。シオンが慌てて駆け寄り、寝ているように促す。
「大丈夫だ……医者によると、内臓へのダメージはほとんど残っていないらしい。それより、今回の件について話がしたい。お前の事だから、もう犯人の写真くらいは手に入れているんだろう?」
「ええ、監視カメラには犯人の顔がある程度鮮明に映っていました。先走って申し訳ありませんが、このデータを元に、鑑君にはアンチレジストの本部で照合をお願いしています」
シオンがプリントアウトした数枚の写真を美樹に手渡すと、それを見た美樹の顔がわずかに強張った。
「こいつで間違いない……鑑にはそのまま調査を続けてもらってくれ。情けない話だが、隙をつかれてこのザマだ。なによりこいつは……」
「人妖ではなく人間……ですよね」
美樹が言い終わる前に、シオンが言葉を継いだ。美樹の深く黒い瞳が、シオンの緑色の瞳を見上げる。
シオンは胸の下で自分の身体を抱くように腕を組むと、視線を足下に落とした。
「どうしてわかった?」と、美樹が言った。
「体液が、チャームではありませんでした。犯人の体液に接近した久留美ちゃんに、精神的な変化はありません。我々ならともかく、久留美ちゃんのような一般人にとって、人妖の分泌するチャームは効果覿面なはずです。そして厄介なことに、この犯人は人間でありながら、人妖との繋がりを仄かしている。これは内々の話ですが、学院の防犯カメラには録音機能も備わっています。すみませんが、犯人と美樹さんの会話を聞かせていただきました。蓮斗と名乗っているこの犯人は、何らかのメリットがあって人妖と接触しているか、少なくとも人妖の存在を知っていることになります」
「……お前の言う通りだ。確かにこいつは、自分を人間だと名乗った。行動目的は分からないが、どうやら我々アンチレジストの出番らしい。ところで、久留美は大丈夫だったか? ショックを受けていないといいんだが……」
シオンが大丈夫だと頷くと、美樹はようやくほっとしたようなため息をついた。
「ジンヨウ? アンチレジスト? 先輩、何を話しているの……?」
個室のドアに耳を付けて中の話を聞いていた久留美は目を丸くした。美樹やシオンの口から発せられた聞き慣れない単語は所々意味が分からなかったが、何か大きなモノに美樹やシオンが対峙している事は理解出来た。
「何をしてるんだい? そんな所で」
「ひゃ! ひゃいっ!? す、すみません! わわわ私、先輩のお見舞いに……」
急に背後から声をかけられ、久留美が床から三十センチほど飛び上がった。油が切れた蝶番の様に、ギギギという擬音が聞こえそうなほどぎこちなく後ろを振り返ると、そこには長身で細身の医師が立っていた。白衣にマスクをしており表情は分からないが、髪の毛が全て金色に染められていたのが異様に見えた。
「お見舞い? 怪しいなぁ……知り合いだったら盗み聞きなんてしないんじゃないのか?」
医師が壁に片手をつき、久留美に覆い被さるように質問する。
有無を言わさぬ雰囲気に久留美が気圧されそうになるが、小さな身体が震えそうになるのを必死に堪える。
「あ、あの、違うんです。今先輩達が大事な話をしてるから、少し外で待ってるように言われて……」
「ふぅん、大事な話か。もしかして、美樹ちゃんの容態のことかな? 結構ヤバい状態なんだけど、本人から聞いたかい?」
「えっ……?」
「知らないのか? まぁ美樹ちゃんは人に心配をかけたがらないからなぁ。あんな事になるなんて可哀想に……」
「な、何があったんですか!? 先輩は大丈夫なんですか!? お願いします。先輩を助けて下さい!」
久留美が必死な形相で医師の白衣を掴む。医師はマスクの下で満面の笑みを浮かべていたが、久留美は全く気付かなかった。
「まぁ廊下では何だから、向こうで話そうか?」
ただならぬ雰囲気を感じ、久留美が無言で頷く。
美樹の病室に背を向け、久留美は強張った顔で医師の後に付いて歩いた。途中、自分と同い年くらいのセーラー服を来た少女がエレベーターを降りて、早足で歩いて来た。その少女はすれ違う際に自分と医師に対し軽く頭を下げた。久留美は反射的に頭を下げたが、医師は気に留めた様子も無く正面を見つめて歩き続けた。その少女が美樹やシオンと同じ組織に所属する上級戦闘員、神崎綾だとは、久留美は知る由もなかった。
「ごめんなさい遅れちゃって! 美樹さん、大丈夫ですか?」と、ドアを開けるなり綾が言った。
「ああ、綾か。遠くからすまないな。私はこの通り平気だ」
「綾ちゃん久しぶりー。元気だった?」と、シオンが綾に手を振る。
「あ、シオンさんもいる。今日は鑑さんは一緒じゃないんですか?」
綾が悪戯っぽくシオンをからかう。軽い雑談の後、美樹が綾に今回の経緯を説明した。
「あの、先輩の容態って……?」
久留美が連れて来られたのは、予備のベッドやシーツが置かれているリネン室だった。ベッド数の多い総合病院らしく、リネン室はかなりの広さだ。業者に受け渡す前の使用済みのシーツがうずたかく積み上げられ、その横には糊の利いた真っ白なシーツが寸分の狂いも無く畳まれた状態で置かれている。
「化学繊維の混紡か……。それに糊も効かせすぎだ。俺は病気になっても、こんなものの上に寝たくはないな」
金髪の医師が真新しいシーツを触りながら言った。美樹の様子が気になる久留美は思わず声を荒げた。
「先生、先輩は大丈夫なんですか? ここに来たら教えてくれるって言ったじゃないですか!? 先輩は助かるんですか?」
ゆっくりと医師が振り返ると、久留美の身体を爪先から頭まで舐め回すように見つめた。
黒いローファーから健康的な脚が白いニーソックスに包まれて伸び、僅かな素肌が覗いた後、黒と緑を基調としたブラックウォッチのプリーツスカートに隠れた。凹凸の薄い身体を深紅のブレザーが包み、幼い顔立ちが不安げな表情を浮かべている。
医師の舐め回すような視線に、久留美は背中に薄ら寒い物を感じて、思わず後ずさった。
「へ、変な事をしたら、人を呼びますよ……?」
「今教えるから。まず美樹ちゃんがあんな風になった原因はね……」
ずぐん……と重い振動が久留美の体内に響いた。
「えぅ……?」と、久留美の半開きになった口から無意識に息が漏れる。
医師が久留美に近づくと同時に、右の拳を久留美の腹部に埋めた。ブレザーの金ボタンがメキリと音を立ててひしゃげ、久留美の華奢な腹部にめり込んでいた。
「俺がこうやって美樹ちゃんをイジメちゃったからなんだよね」
「な……ぐぷっ!? うぐあぁぁぁぁぁ!!」
同年代より一回り小さな久留美の身体は、蓮斗の拳を支点に軽々と持ち上げられ、両足が完全に地面から離れた。人に腹を殴られるという初めての経験に、久留美の脳は一瞬でパニックに陥った。
「あ……あぐああっ! げぼっ!? う……うあぁ……」
「へぇ、凄くいい反応するね。水橋久留美ちゃん?」
「な……何で……私の名前……? んむぅッ!?」
蓮斗は強引に久留美の唇を奪った。朦朧とする意識の中、初めてを奪われたという思いが頭の片隅に浮かんだ。
蓮斗は久留美の舌を吸いながら、再び拳を久留美の腹に埋めた。重い音を立てて、骨張った拳が腹と鳩尾に突き刺さる。
「んぶぉっ?! ぐぷッ!? ごぶッ!?」
塞がれていた口が解放されると、久留美は限界まで舌を伸ばして喘ぎ、唾液が糸を引いて地面に落ちた。
「やべぇ……予想以上だな……。完全にスイッチ入ったわ」
「あ……いや……いやぁ……」
蓮斗は久留美の身体を、重量挙げをする様に軽々と抱え上げた。手を離すと、重力に従い、久留美の身体がうつ伏せの姿勢のまま落下する。そのスピードを利用し、久留美の柔らかい腹を膝で突き上げた。
落下のスピードと自分の体重が合わさった状態で、久留美の腹部は酷く潰れた。内臓がひしゃげ、パニックになった久留美の脳がデタラメな危険信号を全身に送る。
「えごぉぉっ!?」
普段の久留美からは想像がつかない濁った悲鳴が響いた。限界まで見開いた目は黒目が半分隠れ、口からは大量の唾液が強制的に吐き出された。溺れる人間が空気を求めるように何度か口を開閉した後、電池が切れたように体全体が弛緩した。蓮斗は興奮した息を整えながら新品のシーツを広げると、気絶している小柄な久留美の身体を包みはじめた。
「人妖とつながりのある人間……?」
綾が美樹の話に目を丸くする。人妖とつながりのある人間がいることに加え、加害者の口からアンチレジストの名前が発せられたことも気がかりだ。蓮斗と人妖はどのようなつながりがあるのか、相互に何らかの利益が無ければ、人妖は一方的に人間を餌にするだけだ。事態は急を要するが、現時点でわかっていることは少ない。想像で話をしていても解決することはなく、なにより美樹には休息が必要だ。シオンと綾は警戒を強化しつつ情報を集め、美樹の退院を待ってアンチレジスト本部で具体的な作戦を決めようということになった。
「そいれにしても、久留美には心配をかけたな。すまないが、久留美に会ったら私は問題なく元気だったと伝えてくれ」と、美樹がシオンを見て言った。「シオンのフォローのお陰で、久留美が大丈夫そうで安心した。あいつは身体は小さいが正義感と芯が強いからな……。こんな事にあいつを巻き込みたくはない」
「そうですね。久留美ちゃんに限らず、一般生徒に心配をかける前に、早急に解決できればいいのですが……」
「……あの、久留美ちゃんて、あの先に帰った背の小ちゃい子ですか? 私と同い年くらいで、ピンク色の髪に白いカチューシャを付けてる……。さっきお医者さんの後について歩いて行きましたけど……」
綾が人差し指と親指で、自分の頭にカチューシャの形を描いた。
美樹が怪訝そうな顔でシオンを見ると、シオンが小さく首を振った。二人の表情が緊張したものに変わって行く。
「嘘……久留美ちゃん……来てたの……?」
「医者の後について行っただと……? 綾、この階は一般病棟とは違って、医師や看護師はこちらから呼ばなければ絶対に来ない。この階に重病人は一人も居ないんだ。うろついてる医者なんていない。どんな奴だった?」
「えと……顔はマスクで隠れていて分からなかったんですけど、髪の毛を金髪にした背の高い男の人で……」
三人の視線がベッドの上に置かれた写真に集中する。
一瞬の間。綾は鞄からオープンフィンガーグローブを取り出して両手に嵌め、まだ近くに居るかもしれない蓮斗と久留美を探して病室を飛び出した。シオンは鑑の携帯に電話をかけ、美樹はナースコールを押した。数秒の間を置いて、落ち着いた女性の声が天井のスピーカーから響く。
「鷹宮様、どうなされましたか?」
「退院する。今すぐにだ」
「はい?」
「すぐにタクシーを呼んでくれ」