蓮斗は年季の入ったバルセロナチェアに座り、ウォルナットのセンターテーブルにブーツを履いたまま両足を乗せていた。
 丸のままのリンゴに齧りつきながら、虚空を見つめている。
 部屋は薄暗かった。棚や床の上に多数置かれた蝋燭が弱々しい火を放ち、壁に飾られた水牛の頭骨や、棚の上に置かれたアンティークの置物の影を、白いペンキが塗られたコンクリートの壁に曖昧な形で映していた。
 バルセロナチェアは、一九二四年にドイツの建築家、ミース・ファン・デル・ローエがデザインした美しい椅子だ。その美しさはもうすぐ誕生から百年の時を迎えようとしていたが、全く色褪せることはなく、常に新鮮みを帯びている。蓮斗は物に執着する性格ではあったが、時の洗礼を受けていない物にはあまり興味が湧かなかった。蓮斗はなんとなく棚の上を見た。デンマークから取り寄せたミルクガラスの馬の置物と目が合った。蓮斗はその馬の目を見ながら、百年後はどのような世界になり、どのような物で溢れているのかを頭の片隅で想像した。
「蓮斗、ちょっといいかしら?」
 神経質そうな女性の声が、ノックの音と共にドアの外から聞こえた。蓮斗は小さく舌打ちをすると、半分ほどかじったリンゴをテーブルの上に置いた。部屋を横切り、姿見の前で作り笑いの確認をする。病的とまでは言えないが、まだかなり痩せている。しかし、以前に比べると幾分血色が良くなった。美樹や久留美と出会ったからだろうなと蓮斗は思った。人間は楽しみが増えると生命力が出るものなのだろう。
 ドアを開けると、無表情の冷子が立っていた。
「どうしました冷子さん? 何か問題でも?」と、蓮斗が作り笑いを浮かべながら言った。
「……相変わらず酷い部屋ね。好きに使っていいとは言ったけれど、なぜわざわざ貧乏臭い内装にするのか理解出来ないわ」
 蓮斗の質問には答えず、冷子は溜息混じりに嫌味を言った。蓮斗はまた小さく舌打ちした。
 冷子は蓮斗を押し除けるように部屋に入ると、バルセロナチェアに座った。蓮斗の食べ残しのリンゴを見て顔をしかめる。冷子はいつも通り、シワひとつ無いブランド物のスーツを着ていた。ディオールかそこらだろう。冷子はTPOの感覚が薄く、常にフォーマルな格好をしている。もっとも冷子が羽目を外して遊びに行ったり、スポーツで汗を流したりするとは思えない。もしかしたら寝る時もスーツなのかもしれないと蓮斗は思ったが、そういえば人妖に睡眠はほとんど必要ないことを思い出した。
 冷子は若干呼吸が早く、顔にはうっすらと赤味が差している。
 人妖にとっての栄養補──飼っている餌の男とセックスをしてきたばかりなのだろう。どういう仕組みか知らないが、人妖は人間の異性とセックスするだけで生命活動が維持され、睡眠や排泄の必要は無い。便利なものだと思うが、餌に選ばれた人間は最悪だ。冷子の相手を見ても、優秀な男でも保って二ヶ月程。それ以上は重度の薬物中毒者のような状態になり、言動がおかしくなってきた頃には飽きられて殺されてしまう。多くの人妖達は複数の異性を侍らせて、補給の感覚を開けることで中毒症状が出ることを遅らせているらしいが、冷子はほぼ毎日、同じ男から補給を行って使い捨てる。蓮斗もたまに相手をすることはあったが、最低でも一週間は開けてもらうように頼んでいる。
 蓮斗が玲子の正面に座った。
 冷子が部屋に来ることは珍しい。そして、冷子が内装について文句を言うのは機嫌がいい証拠だ。普段は他人に対しては徹底的に無関心な奴だからだ。
「貧乏臭いとはずいぶんだなぁ、退廃的と言って下さいよ。デカタンスは僕の趣味なんです。病的でけだるくて、虚飾とセックスにまみれた部屋ですよ」と言いながら蓮斗は両手を広げておどけて見せ、心の中で、あんた達みたいにな、と続けた。「ところで、『お食事』はもう済んだんですか?」
「まぁ、ね。ただ最近は若干使い物にならなくなってきたから、近いうちにまた狩らないといけないわ。それより、今日連れて来たあの娘はなんなの?」
「久留美ちゃんのことです? どうするも何も、僕の趣味に使うだけですよ。今更、僕の性癖を説明する必要はないですよね? お腹を殴った時の反応が好みだったので、思わず拉致っちゃいました──というのは冗談で、彼女は昨日僕が襲ったアンチレジストの上級戦闘員、鷹宮美樹が可愛がっている後輩です。色々と使い勝手があるので、彼女のメルアドを調べておいて、美樹ちゃんの病院に行かせるように仕向けました。移動中に拉致るつもりでしたが、少しばかり邪魔が入ったので結構苦労しましたけどね」
 冷子はふんと鼻を鳴らすと、蓮斗に続いて部屋に入った。
「あなたの特殊な性癖なんてどうだっていいのよ。それよりも、私の命令を忘れたわけじゃないでしょうね?」
 冷子の右腕が一瞬ビクリと痙攣すると、ナメクジの様にずるりと床まで伸びた。皮膚が気味の悪い灰色に変色し、湧き出た粘液でぬめぬめと光っている。蓮斗は両方の手のひらを冷子に向けて口を開いた。
「落ち着いて下さいよ。冷子さんの命令を忠実に遂行すれば僕の目的が達せられるのですから、僕は全力で当たっています。如月シオンを連れて来いという命令はちゃんと守ります。先程邪魔が入ったというのは、実は如月シオンが久留美ちゃんとほぼ同時刻に美樹ちゃんのお見舞いに行ったからなんです。久留美ちゃんとシオンが合流したら、僕は諦めるしかなかった。シオンは昨日本物を初めて見ました、彼女はかなり恐ろしいですよ。仕事柄、今まで色んな人間を見てきましたが、傍目にはあのフワフワした雰囲気を醸し出しながら隙がない。冷子さが執着するのもわかる気がします」
 蓮斗は冷蔵庫から炭酸水を出して飲んだ。冷子は話の続きを待っている。
「先程も言いましたが、今回拉致した久留美ちゃんは鷹宮美樹や如月シオンの後輩です。彼女を餌にすれば面倒見のいい美樹ちゃんは頭に血を上らせたまま、真っ先にここに飛んで来るでしょう。それに、あなたが涼さんの仇を討ちたがっているシオンも、おそらく美樹ちゃんの後を追って来る。動揺して頭に血が上った人間は力を出せないし、現に美樹ちゃんは一度それで僕に負けているのですから。こちらとしては、ターゲットが僕達のテリトリーに自ら来てくれるのですから、これほど有利な戦闘はありません。戦闘はいかに自分に有利な条件で進めるかで勝負が決まりますから、舞台やシチュエーションは実力以上に重要です。負ける勝負はしないに限りますからね。冷子さんは美樹ちゃんの後を追ってきたシオンを殺すなり、四肢切断するなりして再起不能にすればいい。僕は僕で久留美ちゃんと美樹ちゃんで楽しませていただければ、その後の処理はお任せします」
 冷子の瞼が少しだけ大きく開いた。涼の名前を出され、彼女の感情を僅かに揺らしたらしい。それは蓮斗の狙い通りだった。
「……もしシオンが来なかったら?」と、冷子が首を傾げながら言った。
「必ず来ます。美樹ちゃんはクールに見えて、実は結構な激情家なんですよ。自分のことや、能力の高い人間に対しては冷静なのですが、危なっかしい子や後輩に対しては、いささか面倒見が良すぎる所がある。逆にシオンはおっとりしたように見えて、感情的な行動を全くと言っていいほど起こさない。何が最善かをまず考えてから行動する。もし僕が昨日あのままプールで美樹ちゃんを拉致したとしても、シオンは心配こそするでしょうが、美樹ちゃんの実力を信頼して助けには来ないかもしれない。もしかしたらシオンではなく、別の戦闘員が救出に来るかもしれない。しかし、美樹ちゃんの大切な後輩の久留美ちゃんが拉致されたとしたら、頭に血が上った美樹ちゃんは馬鹿正直に正面から殴り込んで来る。そこで、シオンの出番です。美樹ちゃんが冷静なら、別の戦闘員でも対処ができるかもしれない。しかし冷静さを欠いた美樹ちゃんなら、普段の力を出せないかもしれない。シオンは自分の実力を知っているし、仲が良い自分が説得した方が美樹も冷静さを取り戻すかもしれない。他の戦闘員に任せるよりも、自分が出向いた方が成功する確率が高いと考える」
 冷子が顎をさすりながら、数回小さく頷く。
「まぁいいわ。こんな辛気くさいアジトももう飽きてきたし、さっさと始末して別の場所へ移動しましょう。鷹宮美樹と水橋久留美はあなたが好きにしていいわ。私は別に興味が無いし」
「ありがとうございます。で、その手に持っている袋の中身は、例のアレですか……?」
 冷子がふんと鼻を鳴らしながらショートカットの髪を掻き揚げ、茶色の紙袋をテーブルの上に置いた。蓮斗が袋を開ける。薬剤の入った数本のアンプルが入っていた。
「人工チャーム入りの筋弛緩剤。貴方に魅入らせるように調合してあるし、リクエスト通りの『一味』も加えてある。吸入式だから効果は三十分ほどだけどね」
 蓮斗はアンプルを見ながら口元をつり上げた。今後の事を考えると興奮して自然に呼吸が荒くなる。
 冷子が呆れたように声をかけた。
「もう興奮してるの? 本当にあなた変態ね。興奮ついでにデザートになってくれないかしら? 今の餌は明日処分するわ」
 冷子がジャケットを脱いで錆び付いた簡素なフレームベッドに腰を下ろすと、その隣に蓮斗も座った。


 明るい部屋で久留美は目を覚ました。天井に埋め込まれた蛍光灯の光に目を細め、硬い床の上で無意識に寝返りを打つ。視界はまだぼやけていたが、腹部に残る疼痛だけははっきりと感じた。
 部屋に窓は無く、簡素なステンレスのドア以外に出入り口らしきものは見当たらなかった。部屋を横断するように排水溝が設けられていて、壁には所々剥げてはいたが、白いペンキが全面に塗られていた。壁際には大小さまざまな古めかしい器具が、まるで博物館のように整然と並べられている。無数の小さな刺の付いた鉄製の鞭。三角形に鋭く削られた木馬。人が直立した形そのままに作られた檻。鉄製の釣鐘型の女性の像。
「なに……これ……?」
 久留美はごくりと喉を鳴らした。この中のいくつかは本やテレビで見た事がある。
 拷問器具だ。
 大小様々で、用途の分からないものが大半だったが、それぞれが何らかの方法で人に苦痛を与えるために考案された物だろう。器具一つ一つが放つ不気味な雰囲気はなんとも言えない迫力がある。
「……ッ!」
 一瞬の間を置いて、久留美の背中が凍りついた。本能が身の危険を察知し、久留美は考えるより先に立ち上がり、ドアに向かって走った。固い金属の音がして、久留美は前のめりに派手に転んだ。足首が痛い。軽いパニックになりながら、久留美は痛みの走った箇所を見る。足首に革ベルトが嵌められており、壁に埋め込まれた把手と鎖で繋がっていた。揺すってみたが、革ベルトと鎖には無骨な錠が付いていて、無理矢理では外れそうもない。
「嘘……いや……いやぁ……!」
 久留美は半狂乱になりながら叫んだ。全ての拷問器具が自分を睨み付けているように感じる。
「やだ……やだ……先輩……美樹先輩……!」
 目に涙を浮かべながら、久留美は足首のベルトに爪を立てた。外れるどころか、緩む気配も無い。もがいていると、ドアノブが回転する音が部屋に響いた。久留美が絶望感を顔に浮かべながら、ドアを見る。全体にダメージの入ったブラックデニムに、黒いライダースジャケット着た男が部屋に入ってきた。久留美は「ひっ」と悲鳴を上げて首を振る。あの時の医者だと、久留美は確信した。
「もう起きたんだ? お腹は大丈夫?」
 久留美は歯をカチカチと鳴らしながら、身体を引きずるようにして壁際に後ずさった。
「病院では少ししか楽しめなかったけれど、今日は時間もたっぷりあるし……」
 蓮斗は久留美から視線を外さず、部屋の中を歩きながらい愛おしむように拷問器具を撫でた。緊張で久留美の呼吸が荒くなる。
「なかなかのコレクションだろう? 全部、拷問器具だ。しかもほとんどは本物の歴史的価値があるもので、実際に使われたものもある。すごいと思わないかい? 人を痛めつけるという目的のためだけに、昔の人々はアイデアと工夫と芸術性をもって、これら様々な器具を作り上げた。とても残酷なものも多い。昔は処刑や拷問はある種のエンターテイメントだったという側面もあるが、僕は正常性バイアスの産物だと思っている。正常性バイアスは知っているだろう?」
 久留美は震えながら頷いた。
「き、危機が迫った時に、当事者が自分にとって不利な情報を認知しづらくなることですよね……?」
「その通り。平たく言うと、自分だけは大丈夫という思考に陥ることだ。僕はこれらの器具を作った人達も、正常製バイアスに陥っていたと思うよ。もしこれらの器具が自分に使われる可能性があると少しでも思えば、ここまで残酷な発明はできなかったはずだ。それどころか、残酷性を競っていた節さえある。対岸の火事ほど、見ていて面白いものは無いからね……。たとえば、そこにある牛の像だ。残念ながらレプリカだけど、ファラリスの雄牛という有名な拷問器具──というか処刑器具だな。考案したのはペリロスという人物で、空洞になっている像の中に人間を閉じ込めて、下から火で炙る。閉じ込められた人間は堪らない。少しずつ全身を焼かれ、断末魔の悲鳴が像の中で反響して、本当に牛が鳴いているように聞こえたらしい。なんとも恐ろしいことを考えるものだ。しかも最初にこの器具を使われたのは、開発したペリロス自身だと言われている。自分自身がその中に入れられると思えば、もう少し楽に死ねる器具を作っただろうね」
 久留美が恐る恐る牛の像を見つめた。もの言わぬその牛の像は、まるで意志を持つかの様にじっと久留美を見つめていた。
「な、何をする気ですか……? まさか……これで……?」
「そんな悪趣味なことはしないさ」と、蓮斗は笑って言った。「俺は人を殺す趣味は無い」
 蓮斗が久留美に近づいた。久留美は背中が壁に当たり、これ以上下がれない。腰が抜けた久留美の脇に手を入れ、無理やり立たせる。蓮斗の顔が、額が触れ合うほど近付き、久留美は息を飲んだ。蓮斗の微かに興奮した吐息が頬にかかる。
「それに、こんなものを使ったら、久留美ちゃんの可愛い顔が苦しんでいる様子が見えないじゃないか?」
 ずぷんっ……という水っぽい音が響き、久留美の華奢な腹部に蓮斗の拳が埋まった。
「ふぐぅっ?!」
 怯えていた久留美の表情が一瞬で戸惑いと苦痛に塗り潰された。「う」の形で突き出された口から唾液の飛沫が飛ぶ。
「ッぁ……! かふっ……ッ!」
「殺すなんてもったいない。せっかくこんなに良い反応をしてくれるのに、じっくり楽しめなくなっちゃうじゃないか」
 蓮斗が久留美の耳元で囁くように言った。拳を脇の下まで引き絞り、久留美の臍の位置に拳を埋める。ずんっ……と重い衝撃が身体の奥から脳に伝わり、久留美の小さな身体が跳ねた。
「はぐぅッ!? ぶふっ……?! ッぁ……」
 久留美の身体がくの字に折れ、蓮斗に倒れ込んだ。
 ろくに鍛えられていない久留美の薄い腹筋は蓮斗の拳に容易く打ち破られ、蓮斗の骨張った拳を包み込む様に陥没している。ゆっくりと拳を抜くと、久留美の全身から力が抜ける。
 蓮斗が人差し指と親指で、久留美の顎を挟むように顔を持ち上げた。
 久留美は息がうまく吸えないのだろう。短い呼吸を繰り返しながらぼんやりと蓮斗を見ているが、視点は蓮斗の背後のどこか遠くを見ているようだった。
 蓮斗は久留美のブレザーのボタンを外すと、スカートの中に入っているシャツを捲り上げた。久留美の腹が露になる。色白で、縦長の臍からうっすらと腹筋の筋が見えた。水泳をしているので引き締まっているが、元々筋肉が付きにくい体質なのかもしれない。
 蓮斗は久留美の生腹に拳を当てがった。久留美の顔が青ざめる。蓮斗は久留美の腰に左手を回すと、久留美の身体を自分に引き寄せた。ずぶっ……と音が聞こえそうなほどの勢いで、久留美の腹に拳を埋めた。
「んぐぅぅぅッ?!」
 蓮斗の拳に柔らかい内臓を掻き分けられ、久留美の腹は背骨に触れるほど陥没した。肺の中の空気が一気に吐き出させられる。新たな空気を求めるが、蓮斗の拳に邪魔をされ、いくら口を開けても息が吸えなかった。
 蓮斗は突き込んだままの拳を、久留美が微かに息を吐くタイミングに合わせて更に奥へと押し込んだ。
「……おゔぅっ!?」
 久留美から、今まで聞いたことが無いような濁った悲鳴が漏れた。蓮斗はタイミングを掴むと、リズミカルに久留美の腹にピストン運動のように拳を埋め続けた。一度も拳を抜かれること無く内臓を嬲られる。悪夢の様な苦痛に襲われ、久留美は何度も苦痛の声をあげた。途切れかけた意識の中で、苦しむ自分の顔を蓮斗が満足げに見下ろしている。
 蓮斗は久留美を抱き上げると、拷問器具を掻き分けるように部屋の奥に進んだ。四本の枝の生えた、ポールハンガーのような器具があった。高さが一メートルと少しの金属製で、蛍光灯の光を反射して鈍く光っている。器具の先端はソフトボールほどの大きさの球体になっている。中程の高さから四本の枝が真上から見て十字になるように伸びていて、板状になった枝の先にコンクリートブロックが置かれていた。
「どうかな? 俺が考えた拷問器具。久留美ちゃんがあまりにも可愛いから、久しぶりに使ってみたくなったよ。それに、冷子さんの作ってくれた薬も試しておかないとね」
 蓮斗は朦朧としている久留美の身体を床に向けると、先端の球体に腹部を押し付けるように乗せた。
 久留美は身体に力が入らないのだろう。蓮斗は慣れた手つきで、久留美の手首と足首を器具の枝に乗っているコンクリートブロックに繋いだ。
 自分の体重が腹部にかかり、今までのダメージと重なって久留美は微かに呻き声を上げた。
「じゃあ……頑張ってね」
 蓮斗が器具のスイッチを押すと、四カ所の枝のストッパーが同時に外れた。コンクリートブロックが床に向かって落下し、久留美の手足を強引に引っ張る。
「ごぶっ!? うああああああぁぁぁ!?」
 久留美の手足と繋がったコンクリートブロックが宙吊りになったまま揺れている。久留美の体重とコンクリートブロックの重さが、久留美の腹に一気に襲い掛かった。先端の球体が久留美の腹にめり込み、痛々しく陥没する。
「ぐぷっ! おぅッ……ぐッ……うぐあぁぁぁ!!」
 猛烈な圧迫感と苦痛を感じ、久留美はあまりの溢れ出た唾液を撒き散らしながら悲鳴を上げた。
「やっぱり良い反応をするなぁ、久留美ちゃんは。どうだい? 俺の考えたこの器具は? 三角木馬をヒントに考えたんだ。すごい苦痛だろう?」
 久留美は蓮斗の言葉も耳に入らないほどの苦痛に喘いでいた。舌はだらしなく垂れ下がり、黒目は半分以上が瞼の裏に隠れている。蓮斗は明らかに興奮していた。蓮斗は冷子から渡されたアンプルを折ると、中身を久留美の顔にかけた。久留美は何をされたかわからないほどパニックになっており、ただ苦痛に悲鳴を上げ続けた。しかし薬液がかけられると、すぐに苦痛に変化が表れた。
 球体がめり込んでいる腹部から、地獄の拷問の様な苦痛と同時に、えも言われぬ快感が身体を駆け上がって来た。
「あ……あああっ……! ぐ……な、なに……ごれぇ……? おなか、が…………ゔぁ……ぎもち……いぃ……」
「おぉ! もしかして効いてる? どうだい? チャームの成分に、お腹が性感帯にする効果をプラスしてもらったんだ。気持ち良い?」
 蓮斗は久留美の顔を覗き込みながら興奮気味に訪ねるが、久留美は喘ぎ続けるだけだった。目は白目を剥き、興奮で粘度を増した唾液は糸を引きながら口から垂れ続けている。しかし、時折ガクガクと身体を痙攣させながら、苦痛と快楽の波に飲まれている様だ。
「んぐっ! ふあぁぁ……嘘……ぎもぢいいぃ……んあぁ!」
「……マジで感じてやがるな。クソっ!」
 蓮斗は性器を取り出すと、久留美の顔を目掛けて一心不乱にしごきはじめた。久留美は蓮斗の行為に気付く余裕も無く、ただただ崩れた表情を蓮斗に晒している。
「くるじ……気持ち……いい……あああっ……なんで……ぇ……」
 蓮斗は久留美の背中を押した。球体が久留美の腹に更に深くめり込む。より強くなった刺激に久留美の身体がビクンと大きく跳ねると、絶叫しながら絶頂を迎えた。久留美の身体が断続的に痙攣し、それを見た蓮斗も久留美の顔を目掛け発射した。
「ああああああっ! あぐっ……あがあぁぁぁぁ!」
「くおぉっ!」
 絶叫する久留美の顔に、蓮斗の精液が叩き付けるような勢いで降り掛かった。蓮斗も興奮しているただろう。精液の量や粘度はいつも以上に高まり、限界まで伸ばした久留美の舌に乗った精液は垂れず、ゼリーのように舌の上で震えた。久留美は粘液が顔にかかる嫌悪感をまるで感じていないらしく、自分の腹部を中心に広がる快感に身を任せ、童顔を限界まで歪ませている。
 蓮斗は長い放出を終えると、肩で息をしながら失神した久留美の手足からコンクリートブロックを外した。


 美樹の住んでいる鷹宮神社は、アナスタシア聖書学院から見える距離の、小高い丘の上に鎮座している。参拝客は多くも少なくもないという程度だが、清廉な佇まいと、時期が来ると境内を埋め尽すように咲く見事な梅の木で、近隣の住民から親しまれていた。
 時刻は午前六時。
 真冬の空がようやく黒から群青に移り変わりはじめた。
 濡れた氷柱のような透明で静謐な空気が包む神社の境内に、かすかに竹箒の乾いた音が聞こえる。美樹が薄紫色の簡素な着物に藍染めの上着を羽織り、黙々と境内を掃除していた。広い境内に和服を着た女性が一人、もの鬱気な表情で佇んでいる姿は、遠目から見ると神聖で美しい光景だった。
 しかし美樹本人は心ここにあらずの状態だった。
 俯いた視線は石畳のさらに下の土中を見ているようで、竹箒を動かす手も何処か機械的だ。
 久留美が失踪してから、既に三日が経過していた。
 手がかりは全く言っていいほど無く、美樹の所属している人妖討伐機関、アンチレジストからの報告も調査中のまま止まっていた。
 美樹は小さくため息をついた。
 吐いた息は一瞬だけ白くその存在を誇示し、すぐに霧散した。
 その白い息がまるで今の頼りない自分自身を表しているようで、美樹はやり場の無い怒りが込み上げ、竹箒を握る手に力が入った。
「……自分が情けない。もう五日も経つのに何の手がかりも……。あの男の事だ。久留美に何をしてるか……」
 歯を食いしばり、悔しさで込み上げてくる涙に耐えた。しかし、泣いた所で行動しなければ何も解決しない事は十分に理解している。昨日、学院へは一週間の休学届を提出した。しばらくは久留美の捜索に専念できる。
 参道の掃除が終わり、美樹は鳥居を潜って境内を出た。もうすぐ日の出だ。眼下には長い階段が伸びていて、神社と街をつないでいる。
 ふと、鳥居の根元に妙なものが置いてあることに気がついた。
「……手紙?」と、美樹は言った。
 何の変哲もない白い封筒の上に、風で飛ばされないように石が置かれている。封筒の表には綺麗な字で「鷹宮美樹様」と青インクの万年筆で書かれていた。
 嫌な予感がした。
 美樹はゆっくりと封筒を裏返し、差出人の欄を見る。小さな文字で蓮斗と書かれている。
「こいつ……ッ! いつの間にこんな物を!?」
 美樹が震える手で封を開け中身を取り出した。


 本日二十三時
 S区の「CELLA」に一人でお越し下さい。  
 久留美ちゃんと一緒にお待ちしております。


 美樹は無意識に手紙を握りつぶした。怒りのために拳がぶるぶると震えている。
 だが、ともかくこれで手がかりができた。「CELLA」というものが何なのかわからないが、向こうが指定してくるということは、調べればわかるものなのだろう。
 美樹は数回深呼吸して気持ちを落ち着かせると、社務所へ帰ろうと鳥居に背を向けた。その時、階段の下からパタパタと走る音と声が聞こえた。こんな早くに何事かと階段を覗き込む。階段の下からアナスタシア聖書学院の制服を来た女性が全速力で駆け上がって来ていた。登りはじめた朝日に照らされ、長い金髪がきらきらと輝いている。
「あっ! 美樹さーん! よ、よかった……。は、早起きなんですね……」
「シオン……?」
 シオンは息を弾ませながら美樹に手を振り、見る見るうちに階段を駆け上がってくる。美樹は無意識に蓮斗からの手紙を袖の下へ隠した。
 鷹宮神社の階段は途中に休憩用のベンチを用意してあるほど段数が多く、傾斜が急だ。そのため、多くの参拝客は参拝時間のみ解放している裏門の駐車場まで車で上がってくる。あと三十分したら駐車場を解放するまでが、美樹の朝の仕事だった。
 シオンは最後の数段をジャンプして飛び上がるように境内に着地すると、しばらく膝に手をついて呼吸を整えた。
「はぁ……はぁ……。お、おはよう……ございます……。あ……朝から……この……広い境内の……はぁ……お掃除なんて……た、大変ですね……」
「いや……朝からこの階段を一気に駆け上がるほど大変ではないと思うが……。と言うより一体どうした? こんなに急ぐなんて、ただ事じゃないんだろう?」
 シオンは肩で息をしながらようやく上体を起こし、顔にかかった長い金髪を掻き上げた。美樹がよく見ると、シオンの目の下にはうっすらと隈ができている。シオンもここ数日は殆ど学院に泊まり込みで防犯カメラの分析や、組織を通した警察との秘密裏の交渉をしながら、蓮斗の行方を追っていた。
「……はぁ……。んくっ……じ、実は、蓮斗の出生について、ある程度の情報が手に入りました。はぁ……も……もうすぐ迎えの車が来ますので、よかったら一緒に学院まで……」
「何!? 分かった、すぐに準備をする!」
 シオンが全て言い終わる前に、美樹は竹箒をシオンに押し付けると、着替える為に一目散に社務所へと駆けて行った。
 境内に一人ぽつんと残されたシオンはしばし呆然としていたが、とりあえず美樹が押し付けた竹箒で境内の掃除の続きを始めた。

 黒塗りのレクサスが、アナスタシア聖書学院の正門を、滑らかに障害物を避けながら泳ぐ魚の様にくぐった。
 運転手が慣れた手つきで後部座席のドアを開けて、制服に着替えた美樹とシオンを降ろす。
「朝早くからすみません、ありがとうございました」と、シオンが初老の運転手に礼を言った。
「とんでもございません。では、御用件が済みましたら、またお呼び下さい。鷹宮様も是非ご一緒に」
 運転手は二人に対して定規で測ったような一礼をすると、静かに車に戻った。
「組織のか?」
 美樹が走り去るレクサスを指差して言った。
「いいえ、自前です」と、シオンが言った。
「……乗せてもらって何だが、なぜ組織のハイヤーを使わなかったんだ? お前は組織に入っていることを家に秘密にしているんだろう? わざわざ自前のを用意するなんてリスクが高すぎる」
 シオンは曖昧な笑みを少し浮かべただけで、美樹の疑問には答えずに会長室に向かって歩き出した。
 夏のアナスタシアでの一件以来、シオンが意図的に組織と距離を置いていることは何となく感じていた。どのような事情があったのかはあえて聞かなかったが、シオンが考え無しに動く人間ではないことを美樹は理解している。彼女なりに何か事情や思う所があるのだろう。今回の蓮斗の情報にしても、シオンが何か手がかりを見つけたのであれば、まずはアンチレジストへ報告してから会議という形で美樹を招集することが正しい手順だ。直接美樹の家に出向き、自前のハイヤーで学院へ連れて来たあたり、組織を介さないシオンの単独行動であることは間違いない。
 早朝のため学院内には誰もおらず、二人はまっすぐ会長室の中に入った。
 ソファには仮眠を取るためか、毛足の長い厚めの毛布が綺麗に畳んで置かれていた。シオンはもう何日も家に帰っていないのだろう。クリーニング店から配達されたままのシャツやタオルが、シオンの執務机の隅に置かれている。
「お茶を淹れますね。紅茶でいいですか?」
「ああ」と美樹は短く答えた。
 美樹は元々紅茶が苦手だった。
 コーヒーや緑茶は好んで飲むが、ティーバックで淹れた紅茶独特の甘ったるい香りや、香りに反して舌に絡み付く渋みが好きになれなかった。シオンに初めて紅茶を薦められた時、美樹は香りと味を誤摩化す為にレモンを入れて欲しいと頼んだことがあったが、すかさずシオンに「レモンはダメです!」と珍しく大きな声を出された。レモンを入れると紅茶の命である香りと風味が消えるらしい。それを消したかったのだが。
 美樹は素直に紅茶が苦手であることをシオンに話した。シオンは美樹がアレルギーではないことを確認すると、濃いめに紅茶を淹れ、ミルクと少しの砂糖を入れた後「一口でいいから」と美樹に薦めた。渋々味わうと、今まで味わったことがないほど豊かな香味が口の中に広がったことに驚いた。紅茶は相変わらず好きではないが、美樹はシオンの淹れる紅茶は好きになった。
 シオンが毛布を片付けながら、部屋の奥の給湯室へ入った。美樹は入口側のソファに腰を下ろす。
 執務机の上には、大量のコピー用紙の束が置かれている。所々に付箋が貼られた資料の山を見ながら、美樹は手紙の件をシオンに話すべきか考えていた。
 手紙の件を話せば、シオンは手を貸すと言うだろう。蓮斗からは一人で来いという指示だが、シオンの実力なら気付かれないように同行することも可能だと思う。しかし今回の件は、元はと言えば自分の不甲斐無さが招いたことだと美樹は思っていた。敵に不覚を取られ、久留美を誘拐され、ろくな情報も得られていない。出来れば誰にも迷惑をかけず、自分一人の力で解決したかった。美樹がブレザーの内ポケットから手紙を取り出して、小さく折り畳んでスカートのポケットに移した時、シオンがトレーを持って部屋に入ってきた。美樹はミルクと砂糖を入れて、シオンは小皿に取り分けたイチジクのジャムを少しずつスプーンで口に運びながらストレートで、お互いに紅茶をゆっくりと飲む。特に会話は無いが、張りつめていた神経が、少しずつ解れるような気がした。
 一息ついた後、シオンが執務机から資料を持って来た。
「防犯カメラの映像を元に蓮斗の顔の骨格を割り出し、警察の内部資料と再び照合しました。最近の犯罪歴はありませんでしたが、少年時代の記録と、ある孤児院の名前がヒットしました」
 美樹は、警察の内部資料をシオンがどのようにして手に入れたのか突っ込まないことにした。
「ヒットした情報を元にして、蓮斗の個人情報がある程度わかりました。これが、少年時代の蓮斗の写真です」
 美樹は目の前の資料に視線を落とした。「……ん?」と、美樹が困惑した声を漏らす。
 小学校の頃とおぼしき顔写真。数枚の写真の中には、先日対峙した蓮斗とは似ても似つかない面影の少年がいた。
「ずいぶん太っているな……」
 合唱祭、体育祭、修学旅行。イベントの際に撮ったであろうクラスの集合写真。その少年は、いつも同じ場所に立っていた。クラスメイトが押し合うようにフレームの中心で固まり、思い思いのポーズをとっているのに対し、その太った少年はいつもフレームの切れるギリギリの位置に無表情で立っていた。中途半端に伸びた癖毛は梳いた様子もなく、首元が伸びたTシャツは汗で色が変わっていた。どの写真も無表情で、固く両手の拳を握っている。
「確かなのか?」と、美樹がシオンを見ながら言った。
「確かです。いくら体型が変化しても元々の骨格が変わることはありません。蓮斗はおそらく、かなりの美容成形手術を施していますが、骨格照合をかいくぐるほど根本的な改変は不可能です。この写真に写っている少年は間違いなく、美樹さんを襲った蓮斗と名乗る人物です」
 美樹は頭を掻きながら無意識に溜息を吐いた。あらためて写真を眺める。顔の作り自体は悪くないが、脂肪が貼り付いた顎や頬のラインがそれを台無しにしている。なるほど目元辺りは言われてみれば面影がある気がするが、何かを諦めたような目つきは印象に残った。
「ご覧の通り、クラスにはあまり馴染めていない様子です。そして、卒業式の写真には写っていません」
「……引っ越したのか?」
 引っ越してはいないだろうという確信を持ちながら美樹は聞いた。写真の中の蓮斗は、暗い目で美樹を見つめ返していた。
「休学のまま卒業しています。正確には少年院に入ったまま、義務教育期間を終えています」
「何をした?」
「さ……殺人です」
 珍しくシオンが吃った。軽く咳払いをして言葉を続ける。
「蓮斗は当時、クラスメイトから日常的に暴力を受けていました。その内容は酷いもので、歩道橋から突き落とされて入院したこともあるとか……。蓮斗はある日の放課後に虐めの首謀者であるクラスメイトを凄惨な方法で……殺害しました。その夜、別のクラスメイトの母子家庭の家に押し入り、母親を含めて……。そのまま、警察に保護されました。捕まらなければ、両親が寝ている自宅に火を付けようと計画していたらしいです」
「おぞましいな……子供にそんなことが……」
「残念ですが、事実です。警察に保護された後、ある更生施設に強制入所させられています」
 シオンは一枚の名簿をテーブルの上に置いた。
 美樹は思わず声を上げそうになった。
 蛍光ペンでラインが引かれた蓮斗の本名の、ずっと下の方に二本、別の色の蛍光ペンでラインが引かれている。『木附由里』『木附由羅』の文字がマークされていた。
「……何だこれは? あの失踪した双子が蓮斗と同じ施設に?」
「……私も最初はただの偶然かと思いましたが、調べてみるとこの施設は、少し特殊な子供達を集めるための場所でした。家庭環境や様々な事情により、精神的に深い傷を持つ子供達。その中でも反社会的行動をとってしまった子供達……つまりは……」
「犯罪者だけを集めた施設か……」
 シオンはゆっくりと頷き、紅茶のカップに手をつける。
「『CELLA(セラ)』。この施設の名前です」
 美樹はカップを落としそうになった。ポケットの中の手紙が僅かに音を立てた気がした。
「S区の外れの丘の上に建っていましたが、数年前に閉鎖されて、現在は廃墟になっています。ここに何か手がかりがあることは間違いありませんが……美樹さん?」
 シオンが神妙な顔をして美樹の目を射抜くように見る。エメラルドの様なシオンの目は恐ろしいほど透き通っていた。
「……美樹さんが私に何かを隠していることは、何となく分かります。でもそれが美樹さんが隠したいことなのであれば、私が知ってはいけないことなのでしょう。ただ、一人で悩んでも、事態が好転することはあまり無いことは分かって下さい。美樹さん、何か私に出来ることがあれば言って下さい。理由は聞きませんが、全力でサポートします」
 美樹はカップをゆっくりとソーサーに戻した。今すぐに手紙の件を打ち明けたい衝動に駆られるが、寸での所で言葉をごくりと飲み込む。
「いや……大丈夫だ」
 そう、大丈夫だ。と、美樹は自分に言い聞かせた。シオンの少し悲しそうな顔を見たくなかったので、美樹は紅茶の中に映る自分の顔を見つめた。
 紅茶の水面で揺らめく自分は、泣きそうな顔をしていた。


 肉に指したフォークの櫛に添ってナイフを這わせる。すっ、と音が聞こえてきそうなほど簡単に肉の繊維が剥がれた。
 暖炉の火がぱりちと弾ける。
 六人が一度に食事ができる長方形のテーブル。短辺には久留美と、向かい合う様に蓮斗が座り、片側の長辺には双子の女の子(久留美に由里と由羅と名乗った)が仲良く並んで座っていた。冷子と名乗った女性は食事を摂らないらしい。
 久留美が蓮斗に誘拐されて三日目。ここの住人達と夕食を共にするのも三回目だ。
 食事は誘拐されたその日から誘われた。
 最初は警戒して口を付けなかったが、時間と共に薄れる警戒心や、強くなる空腹感で口を付けると、想像以上に美味しかった。
 食事は蓮斗と由里が担当しており、ダイニングには決まった時間に久留美の分も含め人数分が用意された。「変なモノは何も入っていないから、安心して食べてほしい。不安なら、誰かの皿と交換してもいいよ」という蓮斗の言葉も、久留美の警戒心を解した。
 正面に座る蓮斗と目が合った。蓮斗はそれに気が付くと「美味い?」と聞いた。
「良い赤身肉が手に入って、やっとドライエイジングが終わったんだ。肉の旨味が素晴らしいだろう? 良い肉は霜降りよりも、赤身が美味いんだ」
「焼き方もいけてるじゃない?」
 蓮斗の言葉を遮る様に、由羅が口を開いた。
「片面焼きのブルー。由里の作ったポトフには負けるけどね。なんたってあんたの奢りだし」
「私はあまり高級食材ばかりを使うのは……」
 由里がおずおずと口を開く。文句を言いながらも、皿の上の肉は既に無くなっている。
「俺は酒も煙草もダメだからさ、食べ物くらい拘ったって罰は当たらないさ。で、久留美ちゃんはどう?」
 三人の視線が久留美に集中する。
 久留美は一瞬下を向いて目を逸らした後、「美味しい……です」と呟いた。
 なぜこの人達は、まるで友人のように自分に普通に接するのだろうか……と久留美は思った。
 誘拐されてから、久留美は毎日のように蓮斗に腹を嬲られた。固い拳を鳩尾に突き込まれ、膝で胃を突き上げられ、手のひらで腹部全体を潰す様に圧迫され、蓮斗の作った様々な拷問器具で責め立てられた。
 何度も泣き、嘔吐し、失神した。
 何故自分がこんな目に……と、絶望の深い穴の縁を独りで歩いているような気分になった。
 しかし、久留美は腹を責められる以外は、歓迎とも思える扱いを受けた。
 初日の責め苦から目を覚ますと、蓮斗は氷と水の入ったビニール袋で失神した久留美の腹部を冷やしていた。精液の付いた顔は清拭され、痛みが落ち着くとシャワー室へ案内された。蓮斗はタオルを置くとすぐに脱衣所から出て行った。入れ替わるように入ってきた双子の姉妹から一週間分の新品の下着とシャツを手渡され、使い捨てにするように言われた。
 軟禁されている建物は古かったが清潔で、あてがわれた寝室も掃除が行き届いていた。食事も最初は警戒したが、温かくて美味しいものだった。
 意外なことに蓮斗は腹を責める意外は紳士的で、それ以外の久留美の身体には関心を示さなかった。唇や胸や性器は、まだ一度も触れられていない。双子の姉妹も明るくよく喋る性格で、なぜ蓮斗と一緒に生活しているのか久留美は理解に苦しんだ。
 誘拐されたその日、食事の後に久留美は双子と三人きりになり、流れで双子の生い立ちを聞くことになった。凄惨な話だった。双子は両親から酷い虐待を受け、ふとしたきっかけで両親を殺害し、かつてこの場所で運営されていた施設に入居していたらしい。双子にとって両親との思い出は暴力しかなかったが、そのため、双子は暴力でしか愛情を感じられなくなってしまったらしい。いまでも毎晩、姉妹で身体を傷つけ合いながら、お互いを認識し合っているとのことだ。
 久留美はその話を聞いて、涙が止まらなくなった。
「久留美ちゃん?」
「えっ……? あ……?」
 切り分けた肉をフォークに突き刺した状態で惚けていたようだ。心配するように目を細めた蓮斗と目が合った。
「大丈夫? まだお腹が痛むかい? 食事は後で部屋に持っていってもいいけど……」と、蓮斗が言った。
「いえ……大丈夫です」
 目を逸らし、切り分けた肉を口に入れる。少し冷めてしまったが、奥歯で噛むとほろほろと崩れ、軽い塩胡椒の風味と旨味が溢れた。
 不意に、久留美の目から涙が溢れた。
「え? ちょっと、どうしたの?」
 ジーンズにパーカーというラフな格好の由羅が席を立って久留美に駆け寄ると、ポケットからハンカチを取り出して差し出した。
 なぜ、この人達は優しくしてくれるのだろう。
 なぜ、美樹先輩は助けに来てくれないのだろう。
 美樹先輩やシオン会長が何らかの組織に属しており、自分が知る由もない何かと戦っていることは、病院で盗み聞きした会話で察しが付いた。もしかしたら、自分は一般人が知ってはならない大いなる秘密に巻き込まれてしまったのではないか。もしかしたら、自分は口封じの為に美樹先輩やシオン会長に見捨てられたのではないか。
 そんな訳はないと何度も思ったが、蓮斗達に向けられていた恐怖や猜疑心は既に無くなっていた。
「あの……蓮斗……さん?」と、久留美が上目遣いで蓮斗を見た。「この後も……殴ってくれませんか……?」

 ズブリと蓮斗の拳が久留美の腹部を抉る。細く華奢な久留美の腹は痛々しく陥没した。
「ごぷっ?!」
 両手足を固定された久留美は瞼を限界まで見開き、目尻に涙を溜めながら苦痛に耐えた。口内には二時間ほど前に飲み込んだ肉の味がこみ上げてくる。拘束されると同時に茶色いアンプルの中身を顔に浴びせられていたため、久留美のショーツはぐっしょりと濡れていた。別にいい。替えは何枚もあるのだ。
 はっ、はっ、と短い呼吸をしながら蓮斗の表情を見る。蓮斗も興奮しているようだ。久留美はなぜか、蓮斗の顔がとても愛おしく感じた。
 ぐぼんっ……と膝が鳩尾に突き込まれ、久留美は嘔吐いた。
「ぐえっ……ッ! あ……うぶぅッ!」
 耐えきれず、久留美の喉が膨らみ、ほとんど消化された茶色い液体が口から溢れた。嘔吐の途中でも蓮斗は間髪入れず、久留美の胃を突き上げた。痙攣している真っ只中の胃をひしゃげられ、久留美はこの世のものとは思えない苦痛を感じた。
「ぐっ……ぐえぇぇっ……はッ……はぁ……」
 頭が支えられず、ガクリと頭部が落ちる。そのまま上目遣いで蓮斗を見上げた。
「は……蓮斗……さ……ん……」
 蓮斗は目で「何だ?」と聞いた。
「う……く……口で……して……あげます……」
 言い終わった後、久留美ははっとした。なぜこのようなことを口走ったのかわからない。久留美はキスすらしたことが無く、性的な知識も本で読んだ程度だった。ただ、なぜか、そうしたかった。
 蓮斗は久留美の手足の拘束を解くと、久留美を膝立ちにして黒いカーゴパンツのファスナーを下ろした。男性器が限界までそそり立っている。久留美の鼻に、微かに汗と男性の匂いが刺さった。
 久留美はうっとりと蓮斗の性器を見つめた。
 徐々に近づき、口を開けてくわえ込む。
「んっ……んむっ……んぅ……」
 どうしていいのかわからず、反応をうかがうように蓮斗の顔を見上げながら、舌先を這わす。気持ち悪さは無く、不思議な満足感が久留美を満たしていた。腹部からこみ上げて来る苦痛は子宮の辺りからこみ上げる熱と混ざり合って、下半身全体が溶けるような感覚を覚えた。
 久留美は哺乳瓶を咥えた赤ん坊のように蓮斗の性器を吸った。中身を吸い出すように、そのまま何回か頭を前後に動かすと、蓮斗の性器が震えて熱い液体が久留美の口内に注がれた。
 突然の射精に驚いて、慌てて性器を口から離す。
 そらした顔を目掛けて、まだ粘液の飛沫が降り掛かった。
 大量の精液を顔に浴びながら、久留美の脳裏にふと美樹の顔が浮かび、すぐに消えた。
 もう、このまま助けられなくてもいいのかもしれないと、久留美は思った。


 水を打つ音と祝詞の声が境内に微かに響いている。音は鷹宮神社の奥、竹薮のそばの井戸から聞こえた。髪を結い上げた美樹が白襦袢一枚の姿で黙々と祝詞を唱えながら、井戸の底につるべを落としては引き上げ、桶いっぱいに溜まった氷の様な水をかぶっている。
「高天原に神留座す神魯伎神魯美の詔以て……」
 見ているだけで皮膚に痛みを覚えるような光景だったが、美樹は顔色一つ変えることなく黙々と水行をこなした。祝詞を唱えながら冷水を浴びること十数回。終えると美樹は丁寧に井戸に蓋をし、桶を直すと両手を合わせた。
「行くか……」
 身体は芯まで冷えきっている。声は震え、消え入るように小さい。しかし、頭は未踏の地の水源のように澄み切っていた。美樹は井戸に背を向けると、本殿横の離れにある自室に向かった。あらかじめ踏み石に置いておいたバスタオルで襦袢の上から身体を拭き、草履を揃えて部屋に入る。行水の一時間ほど前に火鉢に炭を入れていたため、柔らかい温かさにほっとする。行灯から橙色の灯りが弱々しく広がる十畳ほどの和室。多くの文庫本が入った本棚と、大きめの箪笥と姿見以外は、生活感があまり無い。食事は別室で摂ることが多かったし、好きなバイクや整備道具はまとめて車庫に置いてある。勉強も箪笥に立てかけてある書生机を必要に応じて出した。
 美樹は付書院の戸を開け、天板にテープで張り付けて隠してある鍵を取り出すと、施錠された箪笥の引き出しを開けた。
 丁寧に畳まれた服を取り出す。
 美樹専用の、アンチレジストの戦闘服だ。
 アンチレジストの戦闘服は、季節を通して同じ服で戦うために特殊な繊維が用いられている。伸縮性や対衝撃性は一般的な高機能繊維と同じだが、特筆すべきは温度と湿度の調節効果だ。
 その生地は周囲の温度を感知し、身体から発散される水蒸気をエネルギーとして、生地の無い場所も含め身体全体をヴェールで包むように適正温度に保つ。そのため一見露出の多い戦闘服でも、真冬でもコートを着ているように温かく、真夏は裸でいるよりも涼しい。この繊維を用いてアンチレジストは戦闘員各々の戦闘スタイルや衣服の好みに合わせてカスタムメイドされたものを支給している。
 好みにもよるが、基本的に一般戦闘員のものは防御に特化した戦闘服が多い。関節部分などの急所の保護を目的としたサポーター類をはじめ、素材自体も厚手で露出の少ないものが好まれる。中にはフルフェイスのヘルメットを選択する者もいる。逆に上級戦闘員は極力自分の戦闘能力を高める為に、関節部分は露出、もしくはサポーターの無い薄手の素材を選択する場合が多い。当然、美樹は後者である。
 美樹は襦袢を脱いで全裸になり、あらためて丁寧に身体を拭くと、結っていた髪を解いて姿見の前で丁寧に梳いた。均整の取れた身体だ。女性らしい体つきだが、無駄な脂肪は一切付いていない。適切な運動により腕や脚、腹にはしなやかな筋肉が付いている。
 ふふ……と美樹は笑った。鷹宮の養子になってもう七年が経つ。あらためて見ると、あの頃に比べ自分の身体も変わったものだ。人の為に使おうと決めたこの身体は、美樹の意志に応えるように成長してくれている。
 美樹は児童養護施設で過ごした後に鷹宮家の養子に入った。
 今の家族は宮司を務める養父だけだ。
 実の母親は他界し、実の父親にはもう会う事も無いだろう。母親が存命の頃は、美樹の家は裕福とは言えないが、ごく普通の家だった。父親は工場で決まった時間に働き、母親も美樹が学校へ行っている間にパートに出た。よほどの事が無ければ、夕食は家族三人揃って食べた。しかし美樹が八歳の頃に両親が離婚し、美樹の親権と監護権は母親に定められた。離婚の理由は美樹には知る由もないが、幼い美樹でもおそらく父親に原因があることはなんとなく理解した。簡単な裁判が終わり、美樹と母親は少し離れた土地へと引っ越し、美樹も転校を余儀なくされた。
 美樹の母親が体調を崩して入院したのは引っ越してから半年後の事だ。病状は重く、美樹は急遽父親の元に戻された。元の家から距離のある転校先の学校に通い続ける事は大変だったが、それ以上に美樹を苦しめたのは父親の変化だった。家には既に美樹の知らない女性が居た。異分子である美樹に女性は辛く当たり、父親も女性の肩を持った。時には美樹に何も持たせずに一晩外に放り出す事もあった。美樹の存在は、父親の第二の人生にとって邪魔者でしかなかったのだ。しかし父親と女性との関係は長続きしないらしく、短期間で何人もの女性を部屋に連れ込み、その度に美樹は疎まれた。
 母親が他界したのは入院してから半年後、離婚してから一年後のことだ。電話の受話器を戻すと父親は無表情で、美樹に向かって「死んだぞ」と言った。「誰が?」と震える声で美樹が聞くと、母親の名前を言った。
 父親は母親の死により、何かの「たが」が外れたのだろう。父親は美樹に対して性的な暴力を振るうようになった。一線は越えなかったが、母親が他界してから養護院に入れられるまで父と過ごした記憶を美樹はほとんど持っていない。幸いなことにフラッシュバックする事も無いが、自分が男性に対して興味を抱けなくなったのは父親が原因だろうと思っている。
 美樹が十歳の頃、父親は交際を断られた女性への強姦罪で逮捕され、美樹は養護施設に預けれた。その頃の美樹は全てにおいて無感動になり、特に男性に対しての敵意は凄まじかった。施設に入所してから一年後、美樹が十一歳の時に鷹宮神社の宮司に引き取られても敵意は変わらず、たびたび神社から脱走を試みた。
 美樹の養父になった宮司は六十代の独り身だった。父親から鷹宮神社を受け継ぎ、数人の通いの職員を遣う以外は境内の裏の離れで一人で暮らしていた。養父は美樹を養子にすると、まずは名前を「美樹」に改名した。鷹宮神社の力強く美しい神木の様に育つように、そして、過去を忘れ、一から人生を歩めるようにと願ってつけられた。そして離れの一室を美樹の部屋として与えた。美樹も最初こそ抵抗したものの、養父の「楽に生きればいい。私に心なんて開かなくてもいい。好きな事は出来るだけさせてやる。だから、出来るだけ楽に生きるんだ。そして、出来るだけ人の為に生きるんだ。人間どうしたって生きていかなきゃならないんだ。人に優しくしていれば、それだけ優しさが帰って来る。そうすりゃ楽に生きられる。楽に生きられるってことは、楽しく生きられるってことだ。本当だよ」と言う言葉は美樹の乾き切った心にゆっくりと、そしてじんわりと染み込んで行った。
 あれから七年。豊かな表情を作るのはまだ苦手だが、養父のお陰で人の道から外れずに送れている。アンチレジストに入ったのも養父の教えからだ。まだ恩を返し切れていない。久留美の救出を諦める事は、養父の教えを裏切る事だ。ここで立ち止まるわけにはいかない。
 美樹は綺麗に畳まれた巫女装束を基調とした戦闘服に手を合わせた。
 まずは身体にフィットした光沢のある黒いノースリーブレオタードを身に付ける。水泳部で着用している水着に似たそれも、組織の開発した特殊繊維で作られている。肩紐に指を入れてレオタードのたるみを直すと、太腿の途中まである長いソックスを穿いた。ゴム口には緋色のリボンがスティッチ状に縫われている。
 緋色の短いプリーツスカートを履き、緋色の裏地の付いた白い襦袢を羽織る。襦袢は胸の下あたりまでのショート丈。美樹は作務衣を着る要領で内側と外側に付いた紐で裾を留めた。帯は用いない。激しい戦闘においては締め付けは邪魔になる。袖口は巫女装束や振袖の様に袋状になっており、袖口にはソックスと同じように緋色のリボンが縫われている。
 美樹は姿見の前に立つと、両手で襦袢の中に入った髪の毛をふわりとかき出した。自然と身体が昂揚してくる。髪をポニーテールに結い上げると、全身の着衣の乱れを直した。
 姿見の中の自分はまるで巫女とクノイチを足して割ったような姿だ。昼間にこの格好のまま出歩くわけにはいかないが、美樹はなかなか気に入っていた。上級戦闘員の戦闘服にしては身体を覆う部分が多かったが、美樹は衣服のあらゆる場所に武器を隠している。
 着替えが終わると、美樹は軽くその場でジャンプしてみた。
 衣服を身に付けていることを忘れるほど軽い。そして生地に使われた特殊繊維の効果で、先ほどまで感じていた寒さが嘘のように消えていた。
 目を瞑り、足の裏から空気を吸う様にゆっくりを息を吸い込む。そして吸い込んだ空気の塊を丹田に押し込むように意識を集中し、吸った時の倍近い時間をかけてゆっくりと息を吐き出す。数回繰り返した後、静かに目を開く。
「行くか……久留美、待っていろ。すぐに助ける」
 美樹は箪笥からライダースジャケットを取り出して羽織ると、編み上げのコンバットブーツを履いて外に出た。
 雪は止んでいた。境内の石畳には足跡ひとつ無い雪が一面降り積もっている。
 暗くて静かで、美しい光景だった。
 美樹はライダースのポケットからショートホープを取り出して火をつけた。養父のいるもうひとつの離れを見る。早寝の養父らしく部屋の灯りは消えていた。美樹はゆっくりと煙を吸い込み、蜂蜜に似た甘さを楽しむように長い時間をかけて吐いた。空気が冷えきっているため、自分の吐く息の白さと合わせて普段よりも煙量が多く感じる。時間をかけて短い煙草を吸い終わると、美樹は少し迷った後に養父の寝ている離れの踏み石に火の消えた煙草を置き、自分にしか聞こえない声で「行ってきます」と呟いた。


 固い音を立てて、カップが漆喰の塗られた壁に叩き付けられた。ブルーの絵が入った薄造りのカップはドライフラワーが崩れるように簡単に四散し、漆喰の壁には蜂蜜を塗ったように紅茶の垂れる跡が残った。
「……か……б……бо……か、神様……」
 シオンは両手で頭を抱え、会長室の執務机に両肘を着いた。白に近い金髪にディスプレイの青みがかった光が反射している。悪い夢から覚めようとすよう首を振る。一瞬でカラカラに乾いた喉の粘膜が貼り付き、思わず咳き込んだ。
「はっ……はぁ……は……」
 呼吸を乱しながらディスプレイを見ないように立ち上がる。ふらつきながら深紅のブレザーと自分で墨染めしたブラックウォッチ柄のスカートを脱ぎ捨てた。給湯スペースの奥のシャワー室に向かいながら下着を取り、シャワーコックを全開にした。冷たい水がレインシャワーから飛び出し、思わず身体が跳ねた。
 吐水が徐々に水から湯に変わる。混乱していた精神が溶かされるように、徐々に平静を取り戻していくのがわかった。
 あまりにもショックが大きすぎた。
 シオンは久留美の捜索と蓮斗の調査をする傍ら、アンチレジストについての調査も進めていた。自分も所属しているとはいえ、あの組織はあまりにも謎が多すぎる。豊潤な資金源や構成員の正確な人数、そしてトップであるファーザーの素性。アンチレジストに対する調査は、警察の内部資料を盗み出す以上に大変だった。しかし今日、ハッキングソフトがひとつの答えを出した。そしてそれはシオンを大きく混乱させた。
 頭からシャワーを浴びながら、こめかみを揉んで乱れた心を落ち着かせる。まだ調査が必要だ。自分はまだ氷山の一角を見ただけだ。今は久留美ちゃんの救出を第一に考えなければ。
 シオンはシャワーから出ると、髪と身体にタオルを巻いたまま割れたカップを片付けた。汚れた壁を拭きながら、カップを叩き付けるなんてどうかしていると思った。ここまで心が乱れた事は今までの人生であっただろうか。
 まだ、そうと決まった訳ではないのに。
 偶然の可能性の方が高いはずだ。改姓した人が多いとはいえ、元々はありふれた姓であり、まだその姓のを名乗る人は多く残っている。アンチレジストの送金者リストのトップに記載された姓。ラスプーチナ。まだあの国にはその姓の人は大勢いるはずだ。そうだ、自分の生家と同じ姓を持つ人は、母国には何人もいる。だが、自分の生家と同じ姓で、アンチレジストの資金提供リストのトップに記載されるほどの財力を持つ家系を、シオンは思いつく事が出来なかった。