予告


 シオンのマンションを訪れた翌日、綾と美樹は指定された午後六時にスノウの宿泊しているホテルを訪れた。
 海外の要人が宿泊するホテルで、スノウの滞在しているスイートフロアには着物を着た専属のアテンダントがいて、綾と美樹をエレベーターから部屋まで案内してくれた。ドアをノックすると、会見に同席していたスノウの秘書がドアを開けて出迎え、お待ちしておりましたと流暢な日本語で言った。
 室内は家族向けのマンションのように広く、歴史を感じる英国調のインテリアでまとめられていた。秘書がリビングに案内すると、スノウは相変わらずゴシックロリータの服を着て、執務机で真剣な顔をしながらパソコンを操作していた。パソコンの隣には部屋の雰囲気にそぐわないカラフルなチュッパチャプスのホイールディスプレイが置かれていて、スノウが既に食べたのか、三分の一ほどが無くなっている。
「そこに座ってて」とスノウがパソコンのディスプレイを見たままぶっきらぼうに言い、ロシア語で秘書になにやら指示を出した。秘書が二人にソファを勧めると同時に、ルームサービスが三人分の紅茶を持って部屋に入ってきた。紅茶の他に小皿が二つあり、イチジクのジャムと小さなスプーンが添えられている。シオンが好きだった組み合わせだと綾は思い、胸が詰まるような感覚を覚えた。
 秘書が一礼して別室に移動すると、三人はしばらく無言になり、スノウがキーボードを叩くカタカタという音だけが広いリビングに響いた。スノウは真剣に仕事をしているらしく、時々何か呟きながら画面を見つめ、英語で二本、ロシア語で一本、電話をかけた。ディスプレイから覗くスノウの真剣な顔が青白い光に照らされている。まるで人形が座っているように見えた。シオンも人間離れした現実感が無い容姿をしていたが、スノウも同様に、どこか遠い世界の存在のように思えた。
「電話の内容を聞くに、海外支社の財務諸表を照合しているらしいな」と、スノウの英語を聞き取った美樹が綾に耳打ちした。「相手を雑に扱うポーズをすることは主導権を握るための常套手段だが、どうやら本当に急用らしい。急かさない方がいいだろう」
 しばらくして、スノウが椅子に座ったまま伸びをした。仕事が終わったらしい。スノウはまるでマニ車のようにチュッパチャプスのホイールディスプレイを回し、くじ引きをするように一本を引き出して、慣れた手つきで包み紙を解いて口に咥えた。一日の仕事を終える際に毎回行うルーティンなのか、あまりにも滑らかな動作だった。スノウはチュッパチャプスを口に咥えたままソファに歩み寄り、「悪かったわね。こっちから呼んだのに待たせちゃって」と二人に言った。
 スノウは二人に向かい合って座ると、背もたれに身体を預けてストレッチをするように背中をそらしながら、親指と人差し指で目頭を揉んだ。
「随分と疲れているみたいだな」と、美樹が言った。
 スノウは首を振った。「別にいつも通りよ。やることをやるだけ。まぁ、確かに少し立て込んではいるけどね……」
 強がってはいるが、スノウは明らかに疲労の色が見て取れた。綾と美樹も十分に若いが、スノウはそれよりもはるかに若く、身体も小さいのだ(本人に言うと怒るはずだが)。世界的企業の中枢に属し、海外で商談をまとめるなど、その小さな身体にかかっている重圧はいかほどのものかと二人は思った。もちろんそれに見合うはずの収入は得ているはずだが、スノウの年齢からすればそれは大して重要ではないのかもしれない。
「ウイスキーの業務提携の話は順調なのか?」
 美樹の言葉に、スノウは紅茶を飲みながら首を振った。
「順調もなにも、昨日決裂したわ」
 まるで一度も訪れたことがない店の閉店を告げるような、あっさりとした口調でスノウが言った。あまりの興味の無さに綾が驚いた。
「えっ? そのために日本に来たんでしょ?」
「別に。最初からウイスキー事業なんて興味が無いし。あの程度の利益が見込める商談なんていくらでも作れるわ」
 スノウはカップをソーサーに戻すと、小皿のジャムをスプーンで掬って口に運んだ。そして真剣な顔をして二人に向き合った。
「あの男はむしろ、あんた達の方が関係があるんじゃない? アンチレジストとして監視対象にした方がいいと思うわ」
「どういうことだ?」と、美樹が身を乗り出して聞いた。
 部屋がノックされ、スノウの秘書が顔を出して「お見えになりました」と言った。
「ちょうど良かった」とスノウが言った。
 綾と美樹が注目する中、聡明な雰囲気の女性がリビングに入ってきた。女性はスリットの入ったタイトスカートのスーツを着て、ショートカットの髪を軽く染めている。元上級戦闘員で、オペレーターのリーダーを務めている鷺沢(さぎさわ)だ。現在は行方不明になったファーザーの代わりに代理で総指揮を執っているアンチレジストの重要人物だ。
 鷺沢は驚いている綾と美樹に目で挨拶し、スノウの前に進み出た。
「はじめまして。アンチレジストでオペレーターのリーダーを務めている、鷺沢です。現在、指揮官であるファーザーに代わり、私が臨時で指揮をとっています。ご実家のラスプーチナ家、およびアスクレピオス社からは長年多額の寄付をいただき、感謝しております」
 鷺沢はスノウに対して丁寧に頭を下げた。
 スノウは気まずそうに髪を手櫛で梳いた。「そんなに畏(かしこ)まらなくても構わないわ。べつに私が偉いわけじゃないし」
 綾と美樹は顔を見合わせた。アスクレピオスから資金提供があることは昨日スノウの口から聞いていたが、鷺沢のここまでの平身低頭さから察するに、その額はかなり膨大なことは容易に想像がついた。
 さて、と言いながらスノウは三人に向き合った。「本当はこんな回りくどいことはしたくないんだけど、説明するよりも見てもらった方が早いわ」
 スノウが指を鳴らすと、秘書がキッチンワゴンを押してリビングに入ってきた。ワゴンの上にはウイスキーのボトルが二本とチューリップ形のテイスティンググラスが八脚、紙コップが四つ、小ぶりな三角フラスコが二つ乗っている。ウイスキーのラベルは青と赤の二種類があり、それぞれに凝った書体でレイズモルトのロゴが書かれている。
「これ二本で六十万円だって。青い方がスタンダードラインの『ブルーラベル』で、赤い方がリミテッドラインの『レッドラベル』。都内のバーで未開封のボトルを買ってきたの」
 ボトルの説明をするスノウを三人が無言で見つめた。一体なにをするつもりなのだろうと綾は思った。ほぼ未成年しかいない中、まさかこの出会いに乾杯というわけではあるまい。スノウはスタンダードラインのブルーラベルを手に取り、慣れた手つきでテイスティンググラスと三角フラスコに中身を注いだ。
「綾、飲んでみる?」と、スノウが意地悪そうな顔で言った。
 綾が首を振った。「飲まないわよ。というか飲めるわけないでしょ」
「じゃあ鷺沢。香りだけ試してみて」
 鷺沢がグラスを手に取り、香りを嗅いだ後に顔をしかめた。
「……これは本物ですか?」と鷺沢が言った。
 スノウが頷いた。「本物で間違いないわ。偽造防止のセキュリティラベルも確認できた」
「……ウイスキーは好きでよく飲むんですが、これは溶剤やゴムみたいな、どちらかと言えばネガティヴな香りが強い気がします。アルコールもかなり立っていて、私はあまり好みではないです」
 スノウに促されて美樹も香りを嗅ぎ、似たような感想を述べた。スノウが真剣な顔で何回か頷いた。
「じゃあ、ここからが本題」と言って、ポケットから小さなビニールパックを取り出して三人に見せた。ピンク色の粉薬のようなものが入っている。
「これが何だか、わかるわよね?」と、スノウがビニールパックを振りながら言った。
「チャームの検出薬だ」と、美樹が答えた。
「そう。あんた達もよく使っているでしょ? 人妖が異性の人間を魅了するために分泌する体液、チャームに反応して青く変色する検出薬」
「……なんでのスノウが持ってるのよ?」と、綾が腕組みをしながら聞いた。
「なんでも何も、これウチの機密部署が作っているんだもの。こういった特殊薬の開発と製造、そしてその効果を秘密裏に実地検証できる環境は、我々製薬会社にとって非常に重要なの」
「アスクレピオスにとってアンチレジストは実験場というわけか。多額の寄付もそのためか?」と、美樹が言った。
「もちろん」と、スノウが言った。「でも悪く取らないでほしいわ。あんた達もこのチャーム検出薬を便利に使っているでしょ? 持ちつ持たれつってやつよ。残念だけど、純粋な意味での寄付は世の中にそう多くはないわ。多額の寄付をする代わりに、それなりのリターンは求めている。優先的な情報提供、プロモーションにブランディング、イメージアップや節税。なんらかの見返りや費用対効果があるからこそ、多くの企業や成功者は寄付という名目の広告宣伝費を支払うのよ。ウチとアンチレジストの関係は、プロモーションというよりはビジネスパートナーに近いわ。人妖やチャームのデータは新薬開発に随分と役に立っている。アンチレジストとの提携は、どこかのウイスキーメーカーとの提携とは比べるものバカらしくなるほど我々にとって有益なのよ」
 スノウがブルーラベルの入った三角フラスコに検出薬を入れた。円を描くように振って攪拌し、白いテーブルクロスを背後にかざす。ウイスキーの色に変化は見られない。
 スノウは「セーフね」と言うと、何の迷いもなくテイスティンググラスの中身を一気に口に流し込んだ。鷺沢以下三人がぎょっとした表情になる。綾は「ちょっ!」と言ってスノウに手を伸ばした。たっぷりダブルの量はあったはずだ。スノウは目を瞑ったまま、しばらく口の中でウイスキーを転がしている。徐々に眉間にシワが寄り、そのまま紙コップを引っ掴むと口の中のウイスキーを勢いよく吐き出した。
「ブリャーチ……変なものは入っていないけれど、香りも味も最悪ね」
 スノウが険しい顔をしながら、袖で口元を拭った。「あちこちから粗悪な原酒を仕入れて、なにも考えずに混ぜただけという感じ。アルコールの刺激と、新聞紙を燃やしたような嫌な煙たさが目立つ。苦味と雑味の主張が強いのに変な甘さもあって気持ち悪いわ。こんなものを作るあいつも信じられないし、有り難がって買う奴はもっと信じられない」
「飲んで大丈夫なの……?」と、綾が呆れたように聞いた。
「飲んでないわ。ちゃんと吐き出したじゃない」
「でも……」
「テイスティングくらいするわよ。仮にも業務提携を提案したのは私なんだし。未成年だから味見はできないけれど良いものです──なんて無責任な仕事は私はしないわ。たとえ決裂した交渉であってもね」
 スノウは話しながらレッドラベルの封を開け、ブルーラベルと同様にテイスティンググラスと三角フラスコに注いだ。スノウが香りを嗅ぎ、顔をしかめる。
「さっきのに比べたら多少はマシだけど、こっちも大したことないわね」
 スノウはレッドラベルの入った三角フラスコにチャーム検出薬を入れた。一見変化が無いように見えたが、白いテーブルクロスに透かすと液体の縁が薄く青みがかっている。
「そんな……」と、鷺沢が呟くように言った。
「これは飲まない方がいいわ」と、スノウが言った。「ごく微量だけどチャームの反応が出ている。この濃度なら依存レベルまで相手を魅了することはないでしょうけれど、製造過程でチャームが混入するなんてあり得ない。あの男が意図的に添加していることは間違いないわ。レイズモルトの味は飲むに値しないけれど、なぜか異様な人気を得ている理由はこれよ」
 スノウは三角フラスコを親指と人差し指で摘んで、顔の横で振った。「レイズモルトは珍しく、一般的にウイスキーとは縁遠いと言われている女性から爆発的な人気になった。やがて、男性が女性の気を引くためにレイズモルトを買い漁り始めた。雑誌でも特集が組まれ、『個性的な味』なんて言われながら一気に知名度が広がった。ものは言い様ね。実際はチャームの依存性で中毒症状が起きているだけなのに」
「あのレイズ社の社長が人妖だったのか……」と、美樹が言った。
「すぐに動かないと。こんなに広範囲にチャームが広がっているなんて前代未聞ですよ」
 綾の視線に鷺沢が頷いた。同時に鷺沢の携帯が震えた。緊急用の回線だ。鷺沢は「失礼」と言って通話ボタンを押した。電話に出た鷺沢の表情がみるみる変わっていく。まるで親しい者の死を突然知らされたような顔になった。
「どうしたんですか……?」と、綾が不安そうな表情で言った。
 鷺沢は通話の切れた携帯を見つめていた。「アンチレジストの本部が……何者かに襲われたみたい」

※こちらの文章はラフ書きになります。製本時には大きく内容が変わる可能性があります。