スノウの所有するロシア製の高級車「アウルス」は静かに首都高を疾走した。
 前方を走る鷺沢の乗った車を追いながら、助手席の美樹が運転手に細かい指示を出している。
 後部座席には綾とスノウが座っている。空間は十分な広さがあり、座り心地は恐ろしく快適で、まるでリビングがそのまま移動しているようだ。しかしスノウはずっと親指の爪を噛みながら身をかがめ、険しい顔をしている。
「大丈夫?」と綾がスノウに聞いた。「車出してもらってなんだけど、私達を下ろしたらすぐにホテルに帰ったほうがいいわ。別にあんたが嫌いとか、意地悪とかで言っているんじゃないの。単純に危険なのよ。アンチレジストの本部に何者かが侵入したなんて前代未聞だし、鷺沢さんの話だと結構な被害も出ているみたい。もし強力な敵がいたら、私や美樹さんでも守れないかもしれない。悪いことは言わないから、本部に着いたらすぐに帰ること。わかった?」
 綾も美樹も、それぞれセーラー服と巫女服を模した戦闘服に着替えている。
 本部に侵入した敵がまだ居座っているとしたら戦闘は避けられない。それ以前に厳重にセキュリティがかけられているアンチレジスト本部に侵入できる敵とは、一体何者なのか。
 スノウは「わからない」と言って首を振った。顔色が悪い。「あまり見くびらないで。私やお姉様は一般人に比べて狙われる危険性が高いから、いざとなったら自分で自分の身を守れる術は子供の頃から身につけている。こう見えても結構強いのよ? 信じられないのなら一度手合わせしてみる?」
「強がってる場合じゃないでしょ? 相手は人妖かもしれないのよ? 誘拐犯なんかとは訳が違う、人間離れした怪物なのよ?」
 スノウは追い詰められたような表情のまま、何も言わずに窓の外に視線を移した。
 車は首都高の地下トンネルに入り、緊急車両用と書かれているシャッターの前で停まった。鷺沢が車から降りて、隣に埋め込まれたパネルに手をかざすと、自動でシャッターが開いた。内部はオレンジ色の照明が等間隔に配置されたトンネルが続いている。しばらく走るとロータリーのような場所に出て、その先はコンクリートの壁で行き止まりになっている。マイクロバスのような車と、数台の乗用車以外は何も無い。
 美樹が「着いたぞ。アンチレジストの本部だ」と言って助手席から降りた。どう見ても行き止まりだ。スノウも戸惑いながら車から降りる。
 鷺沢が壁の一部に掌を当てると、壁の中央が左右に開いて入り口が現れた。先ほどのシャッターと同じ仕組みだ。
 四人が中に入る。
 内部もこれといった装飾はなく、外壁と同じコンクリート剥き出しの壁が一直線に伸びている。左右にはグレーに塗装された鉄製の扉が多数あるだけだ。
 荒らされた様子はないが、静まり返っている。
 綾と美樹が視線を合わせて頷いた。綾が先頭に、美樹が最後尾に立って、鷺沢とスノウを挟むように一列になって進んだ。
「まるで一昔前の生物研究所みたい……」と、スノウがしんがりを歩く美樹を振り返って言った。
「一昔前どころか本当に古い」と、美樹が言った。「だが、今回のような場合には役に立つ。内部は一本道で、見ての通り極力遮蔽物を無くしている。敵が隠れられないようにな。出入口は今入ってきた所と、この通路の突き当たりの二箇所のみで、一本のチューブのような構造だ。だからこの隊列が襲われたときに最も対処しやすい」
「車が随分と少ないように思えたけど?」と、スノウが言った。
「隊員の多くは地上の隠し通路から入っている。地下鉄の駅やビルの中に直通している通路があって、ロータリーの手前に出られる。私も車で来たのは久しぶりだ」
「ドアの中の設備は新しいんですよ」と、鷺沢が言った。「ここまで閉塞感があると職員のメンタルにも影響しますから、会議室やトレーニングルームの内装には気を使っています」
 静かに、と先頭を歩く綾が言った。
 微かに呻き声のようなものが聞こえてくる。
「中央会議室だな」と、美樹が言った。視線の先に木製のドアがある。
 綾が慎重にドアを開けた。
 三十人ほどが入れそうな会議室だが、コンピューターが床の上に落ち、椅子や机が散乱している。倒れている戦闘員やオペレーターの姿が目に入った。四人がそれぞれ駆け寄って介抱すると、いずれも致命傷ではないようだ。
 突然、天井に埋め込まれたスピーカーが起動した。
 ──遅かったな。
 機械加工された男性の声。
 聞き慣れた声だ。
「ファーザー?」と鷺沢がつぶやいた。
 四人は無言で天井を見上げた。
 ──アンチレジストがここまで不甲斐無いとは思わなかった。人妖相手に、よく今まで持ち堪えられたものだ。
 鷺沢が天井に向かって叫んだ。「ファーザー、どこにいるんです?! みんなあなたを待っていたのに、そんな他人事みたいに……」
 ファーザーは低い声で笑った。
 スノウはガタガタと震えている。
 異様な怖がり方だ。
 歯がガチガチと鳴り、その音は近くにいた綾にまで聞こえた。綾が気がついて、スノウの手を握った。
「どうしたの? 大丈夫?」
 綾が問いかけても、スノウは戦慄したままだ。こんなスノウの姿を見たのは初めてだった。美樹と鷺沢もスノウのただならぬ様子に気が付き、近くに駆け寄った。美樹が屈んでスノウに目の高さを合わせて「どうした?」と聞いた。
「な……なんで」と、スノウが震える声で言った。
 スノウは両手で頭を抱える。「なんでファーザーシステムが起動しているの……? こっちから操作できなくなったはずなのに……」
「……なんだと?」と美樹が言った。
 スノウは小刻みに首を振った。歯が鳴らないように、必死に歯を食いしばっている。
 ──あら? スノウもいるの?
 スノウの顔から、ふっと表情が消えた。
 突然地面が消えて、自分が奈落に落ちていくのを理解した瞬間のような顔をしていた。
 突然ファーザーが女性のような口調になったので、スノウ以外の三人は目を見合わせた。
 スピーカーに一瞬ノイズが走り、プツンと音を立てて通話が途切れた。
 会議室は水を打ったように静かになった。
 事態が把握できない。
 今のは一体何なんだ。
 やがて、コツコツという足音が廊下に響いてきた。
 こちらに向かってくる。
 誰も口を開かず、押し黙ったまま会議室の入り口を凝視した。
 人影が現れた。
「……シオンさん?」
 綾が呟くように言った。
 その人は、胸元の大きく開いた黒いドレスを着ていた。ぬめるような光沢の、最高級のシルクが使用されていることがひと目でわかる。赤いエナメルのヒールから黒いガーターベルトの付いたストッキングが伸び、ドレスの中に続いている。深紅のジャケットを半脱ぎにして腕に掛け、両手には黒いレースの手袋をはめていた。そして、所々に血のような赤い毛がマダラに混ざった長い金髪を、ツインテールにまとめている。
「お前……なにをしている?」
 美樹が幽霊を見たような口調で言った。
「や……やっぱりあんたの仕業だったのね!」
 突然スノウが叫んだ。三人が驚いてスノウを振り返る。スノウは両手を血が出るほど握り込み、歯をむき出しにしてドレスの女性を睨んでいた。
「あら? どうしたのスノウ? そんなに怖い顔をして?」
 女性は歌を歌うような柔らかい口調で言った。スノウの取り乱した様子など意に介さず、人差し指で自分の唇を撫でながら首を傾げている。「久しぶりの姉妹の再会なんだから、もう少し喜んでもいいんじゃないかしら?」
「お前は私のお姉様じゃない!」
 スノウは喉が裂けそうなほどの勢いで叫んだ後、憎々しげに食いしばった歯の隙間から「……ノイズ・ラスプーチナ」と絞り出すように言った。
「ノイズ・ラスプーチナ? シオンじゃないのか?」
 美樹がスノウからノイズに視線を移した。服装や髪の色以外はシオンそっくりだが、表情や雰囲気がまるで違う。ノイズはゆっくりと室内に入ってきた。
「シオンさん何やってるの?! みんな心配してたのよ!」と言いながら、綾がノイズに近づいた。
「綾!? ダメ!」とスノウが叫ぶ。
 ノイズの姿が一瞬で消えた。
 四人が呆気に取られる暇もなく、ゴリュッ……という嫌な音が室内に響いた。
 再び姿を現したノイズは綾のセーラー服のリボンを掴み、前屈みになった綾の腹に膝を打ち込んでいた。
「──ぐぷっ!?」と、綾の口から水っぽい音が漏れた。
 ノイズは「くふっ」と小さく笑うと、綾の腹に打ち込んだ膝を別の生き物のようにねじり、胃と肝臓をすり潰すように掻き回した。ぐぢゅり……という厭な音と共に、綾の身体が電気に打たれたようにビクンと痙攣した。
「ぎゅぶえッ?! げぅッ?! ゔぶっ……う……うぶえろおぉぉぉぉ……!!」
 綾は膝から崩れ落ち、額を床にしたたかに打ち付けた。そのまま床にエビのように丸まり、白目を剥いたまま嘔吐した。一瞬で急所という急所を同時に潰されたことによる凄まじい苦痛が身体中を駆け巡り、両手で腹を抱えたまま痙攣している。
「まぁ汚い。人前で嘔吐するなんて、私だったら恥ずかしくて生きていけません」
 ノイズは笑みを浮かべたまま口元に手を当て、蔑みの混ざった視線で綾を見下ろした。
 再びノイズの姿が消え、スノウの前に表れた。横切られたはずの美樹と鷺沢にはノイズの姿は見えず、風だけが美樹と鷺沢の髪を揺らした。
 ノイズは中腰になって、真っ青になったスノウの顔に鼻が触れ合うほど自分の顔を近づけた。
「そんなに怖い顔しないで? 大丈夫、スノウの大好きなシオンは、ちゃんと『良い子』にしているわ」
 ノイズが至近距離でスノウの目を覗き込んで首を傾げた。顔は満面の笑みだが、目は全く笑っていない。綺麗なエメラルドグリーンの瞳の下半分は、内出血したように赤色がせり上がっている。シオンと同じく顔の造形が異様に整っているだけに、背筋が凍るような不気味さがあった。
 スノウは恐怖を振り切り、ノイズに向けて蹴りを放った。体幹と重心を固めた、美樹や鷺沢が見ても唸るような見事な蹴りだった。攻撃が当たる前にノイズの姿が消え、スノウの蹴りは空を切った。
 ノイズは机の上に姿を現した。 
 下着が見えるのも構わずしゃがみこんで、「危ないじゃない?」と言いなら自分の小指を蠱惑的に舐めている。
「あら? あなた……」とノイズが嬉しそうな顔をして、スノウから美樹に視線を移した。「良い目をしているわね? 目の奥底が暗いわ。『悪い子』の目……過去になにがあったの?」
 何が嬉しいのか、ノイズは限界まで口元を釣り上げた。
「許さない……絶対に許さない!」と、スノウが叫んだ。
 スノウが美樹の横をすり抜け、ノイズに飛びかかった。跳躍して前転し、ゴシックロリータのスカートを翻してノイズ目掛けて踵落としを仕掛ける。シオンの得意技だ。派手な音を立てて机が割れたが、ノイズの姿は既に消えていた。ノイズはそのまま姿を表さず、床に転がった綾が苦しげに呻く声だけが残った。


※こちらの文章はラフ書きになります。製本時には大きく内容が変わる可能性があります。

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