
「いやぁこれはこれは、お騒がせして申し訳ございません」
豚は満面の笑みを浮かべ、のっそりと歩み寄ってきた。見た目に反してよく通る聞き心地の良い声だった。「我々は、皆様に危害を加えるつもりはございません。少々手荒なノックをさせていただきましたが、本日は皆様にごお申し入れあり、こうして出向いた次第でございます。もちろん扉の修理代もお支払いさせていただきます」
綾が眉根を寄せたまま、豚から視線を逸らさずにスノウの方に頭を傾けた。
「知ってるの? あいつのこと」
スノウが頷いた。
「レイズ社の社長秘書の男。私も昨日一回会っただけ。なんであいつがここに……」
豚がスノウを見つけると、ますます口元が綻んだ。向こうもスノウがここにいることに対して驚いているようだ。
「おやおやこれはこれは! スノウ・ラスプーチナ様ではありませんか。まさかこんな所でお会いできるとは何たる偶然。もうお会いできないかと思い、胸が締め付けられる思いでした。なんと言ってもスノウ様は、私の理想の女性でございますから」
豚の言葉にスノウの全身に鳥肌が立ち、呻きながら自分の身体を抱きすくめた。綾が気の毒そうな視線をスノウに送った。
「おっと、これは大変失礼をいたしました。まだ皆様に自己紹介をしておりませんでした。と言っても名乗るほどの者ではございませんので、私のことはこの見た目通り『豚』と呼んでいただければ幸いでございます」
「申し入れとは何だ?」と、鷺沢が鋭い声で言った。
豚は相変わらず笑みを浮かべながら、ポケットからハンカチを出して自分のスキンヘッドを拭いた。気温は低いが体感温度が高いのか、汗をかいているようだ。豚は鷺沢の質問など無かったかのように、ゆっくりとした動作で頭と首を拭き、ハンカチを丁寧に畳んでポケットに仕舞った。たっぷり三十秒は沈黙の時間が続いた。
「──和解の申し入れでございます」と、豚が上目遣いで言った。
「和解?」と、鷺沢が聞き返した。
「ええ、我々人妖と、あなた方人間との和解です」
豚は胸の前で両手を揉みながら話を続けた。
「我々と人間は姿形が変わらないのに、我々が人間を栄養源にするというただ一点のみで、長い間争ってまいりました。しかしもともとは、過去の人間の『完璧な人間を造る』という身勝手な思いつきによって、我々が生み出されたことに端を発しております。まぁ完璧な人間と言いながらも、目的は兵器や労働力として使用するためでした。機械のように自由に使える便利な奴隷が欲しかったのです。過酷な環境にも耐えられるように身体能力を高められました。兵器や機械に食事や排泄は邪魔な機能なので削除されました。食料が無くても生きられるように人間との粘膜接触で養分を摂取可能にされました。人間と見た目が変わらないのなら夜の世話もさせたいと、容姿が優れるように遺伝子操作をされました──まぁ時々私のように容姿が醜い者も存在しますが、それはさておき、そのような過去の人間の思惑があって我々がここに存在しているのでございます。やがて、研究者の誰かが我々を恐れ始めました。身体能力が高く、知能も人間と変わらない。食事も必要ない。いわば我々は人間の上位交換です。奴隷にするどころか、反逆されたら勝ち目はない……と考えたのです。恐怖というものは、今も昔も素早く伝播します。研究者の中で人妖を残らず処分すべきという案が多数派になってきました。兵器や労働力として期待する研究者はもちろん反対しました。やがて世界中で内乱が起き、研究所が破壊され、混乱の中で多くの人妖が人間社会に逃げ込みました。それ以来、我々と皆様の泥沼の争いが続いているのです。我々は、なにも外宇宙から侵略しに来たエイリアンではございません。もちろんそちら側にも言い分はおありでしょうが、我々としましても勝手に生み出され、勝手に迫害や排除の対象にされるというのは、いささかそちら側に都合が良すぎるのではないかと思っております。しかしその議論は不毛です。我々は十分争った。そして疲弊した。それでいいじゃありませんか。過去のことは水に流し、和解して共存共栄の道を歩んだ方が建設的だとは思いませんか?」
「共存共栄の道だと?」と言いながら、鷺沢が怪訝そうな顔になった。鷺沢の隣では、朝比奈が今にも飛びかかりそうな勢いで豚を睨んでいる。
ええ、と言いながら豚は両手を揉んだ。「そうです、共存共栄です。幸い、我々と皆様は姿形が同じです。言葉も通じます。姿形が違って言葉も通じない犬や猫と共存している皆様なら、我々と共存することなど容易いでしょう。ではどのように共存するのか? 皆様が犬猫と共存出来るのは、上下関係を明確にしているからです。犬猫に住処や餌の供給をすることによって生殺与奪を掌握しているからこそ、問題なく共存できているのです。では我々と皆様の上下関係はどうでしょうか? どちらが生物として優れているのかと言えば、失礼ながら我々と言わざるを得ません。これは我々から見た贔屓目ではなく、生物としての能力が明らかに我々の方が優れているからです。なぜなら先ほども申し上げた通り、皆様よりも優れた存在になるようにと、皆様がそう造られたからです。アンチレジストの皆様が必死に厳しい訓練を行い、最新技術を駆使した武器や戦闘服を身につけても、そこにおられる五人のように一部の才能のある方がようやく丸腰の我々に敵うかどうかという状況は、皆様もご理解いただける事実だと思います。しかし、では犬猫のように我々が皆様を扱えばいいのかといえば、そんな愚かで残酷なことはいたしません。あくまでも共存、そして共栄が目的です。簡単なことです。皆様も人妖になればよろしい」
豚が満面の笑みで、胸の前で両手を叩いた。
「お互い立場が違うから憎しみ合うのです。ならば同じ立場になってしまえば、争う必要はありません。皆様はより優れた存在に進化できる。人間は一部を補給用として養殖すれば問題ありません。そのうち餌の人間は牛肉のように、容姿によってランク付けがされるかもしれませんな。はははは」
「ふざけるな!」
全員が叫んだ主に顔を向けた。朝比奈が両方の拳をぐっと握りしめて、わなわなと震えている。
「黙って聞いていれば勝手なことを……。人妖と共存、ましてや私たちに人妖になれだと? ふざけるな! 私は友達を人妖に拐(さら)われたんだ! アンチレジストに入ったのも友人を見つけるためだ。人妖と共存なんかできるか!」
「おお、それはお気の毒に……」と、豚が眉をハの字にして言った。「ですが、そのご友人は果たして不幸だったのでしょうか? 我々人妖の補給は、人間にとってはこの上無い快楽のようです。我々の体液には、それこそ麻薬のような作用がある。人間達が自らの快楽を高めるために、我々をそのように造ったのです。あなたが厳しい訓練や戦闘をしている間に、ご友人はベッドの中で我々の男根でもしゃぶっているのかもしれませんよ?」
朝比奈が飛び出した。
「待て朝比奈! 挑発だ!」
鷺沢が止める一瞬早く朝比奈は駆けていた。綾と美樹、スノウも朝比奈を追う。
「ああああああああッ!」
朝比奈が怒りに叫びながら跳んだ。朝比奈の身長は同世代よりも低いが、その跳躍は豚の頭の高さを軽く超えた。
豚はまだニヤけた顔で朝比奈を見ている。
「まずい……」と美樹が言った。
小柄な体を活かして豚の下半身を狙えば、勝機はあったのかもしれない。
確実に勝てる状態でなければ、相手の正面に飛び込むなど絶対にしてはならない。
ふん! という豚の気合と共に、ボグン……という重い音が響いた。
殴りかかろうと振りかぶっていた朝比奈の小さい身体が、一瞬でくの字に折れる。
「ゔッ!?」
普段のしゃんとした朝比奈からは想像できないほど濁った悲鳴。
豚は飛び込んできた朝比奈の腹に、丸太のような拳を容赦無く打ち込んだ。その巨体からは想像できないほどの鋭く凶悪な攻撃だった。
「がぶッ……!?」
豚の拳に腹部を陥没させられたまま、朝比奈は大口を開けて空気を求めるように天を仰いだ。身体にぴったりとしたスーツが痛々しくめり込み、ミシミシと音を立てている。
「ダメダメ。子供が大人に殴りかかるなんて」
豚は笑みを浮かべながら、意識が途切れかけた朝比奈の腹から拳を抜き取ると、背後から抱き抱えるようにして朝比奈の首に腕を回した。
「大人に逆らったらどんな目に遭うのか、みんなに見てもらおうね?」
朝比奈の背中にも腕を当て、首を絞めあげるようにして強引に朝比奈の身体を反らせる。
グキッ……という嫌な音と共に、朝比奈の背が弓なりに反らされる。
絞首刑と海老反りを合わせたような拷問のような責めに、朝比奈の窄めた口から「ぐぷっ」水っぽい音が漏れた。
「おっと、それ以上近づくと、この子の背骨がポッキリと折れてしまいますよ?」
豚が走り込んでくる鷺沢達に言った。豚がわずかに力を強め、朝比奈の背骨から嫌な音が聞こえる。綾が「くっ」と悔しそうな声を出して静止した。
豚は朝比奈を抱き抱えたまま後ずさる。
手下の賎妖が後部座席のドアを開けて控えていた。豚が朝比奈を抱きすくめたまま、難儀そうに乗り込む。
「そうそう、肝心なことを言い忘れておりました」と、豚が言った。抱えられている朝比奈は、豚との体格差もあって人形のように見えた。「我々は夢物語をしているのではありません。我々は皆様人間を、簡単かつ安全に人妖に造り替える方法を確立いたしました。志半ばにこの世を去った同志、篠崎冷子が成し得なかった研究を、我々の新たな指導者ノイズ・ラスプーチナ様がその天才的頭脳を用いて、いとも簡単に成し遂げられたのです」
スノウの顔色が、魂が抜けたように真っ青になった。
豚はその表情の変化を楽しむようにスノウと視線を合わせ、喋り続けた。
「我々は返事を待つつもりはございません。あなた方が我々の提案を受け入れようが拒否しようが、プロセスは着実に実行いたします。そのための準備も進んでおります。皆様の意思とは関係なく、皆様は人妖になるのです。しかし、ここの皆さんはとても美しい。願わくば皆さんは人妖にならず、人間牧場で我々の栄養源になってほしいものですな。はははは」
賎妖達の車は朝比奈を乗せたまま急発進し、見えなくなった。
鷺沢が悔しそうに舌打ちをすると、踵をかえして本部に向かった。出迎えるようにシャッターが開いた。
「朝比奈戦闘員が連れ去れれた。すぐに追うぞ。輸送車の準備をしろ」
鷺沢が素早く指示を飛ばした。背後を振り返り、綾たちを見回す。
「すぐに出動だ。朝比奈戦闘員を無事に連れ戻してほしい。すまないが、私はここに残って全体の指揮を執る」
「ええ、必ず探し出して保護します」
綾の言葉に、鷺沢は首を振った。
「探し出す必要はない。シャッターを出る瞬間に車に向けて発信器を飛ばしておいた。反応を追えば奴らの居場所がわかるはずだ。あいつら……和解どころか宣戦布告してくるとはな」
「車に発信器が付けられているでしょうから、予定地点で車を放置してください」
豚が耳に当てている携帯電話の向こうで、ノイズがまるでゲームを楽しむような声色で言った。
「発信器ですか? いつの間に」と、豚が眉を上げた。
「その程度はやってくれないと困ります」と、ノイズは静かに笑った。手短に用件を伝え、その都度豚が丁重に返事をしながら頭を下げた。
「なるほど……えぇ、仰せの通りにさせていただきます」
豚が電話の向こうのノイズに対して、限界まで頭を下げる。背後から抱き竦められたままの朝比奈の身体が折れ、苦しそうな声を出した。豚は電話を終えると、さて、と言いながら破顔して朝比奈の顔を覗き込んだ。
「朝比奈ちゃんと言ったかな? まったく、とんだ土産をもらったものだ。スノウちゃんに再会できただけでも天恵なのに、まさか君みたいな天使がいるとはね。他の女供は全員十代後半のババァばかりで、目が腐るかと思ったよ」
豚が朝比奈の頬を力づくで掴んで、強引に口を開かせた。そして自分の舌を朝比奈の小さい口にねじ込む。朝比奈の目が見開いた。豚はじゅるじゅると音を立てて朝比奈の舌と唾液を吸い、自分の唾液と混ぜ合わせて朝比奈の口に押し戻した。朝比奈の小さい口から溢れた唾液が喉を伝う。
「どうだい大人のキスは? これからたっぷり教えてあげるからね。朝比奈ちゃんみたいな小さくて可愛い子がこんなエッチな格好をしてたら、どんな風にレイプされちゃうのかを」
豚は再び朝比奈の口を吸いながら、朝比奈の足の付け根に手を這わせた。運転手は見ないフリをしている。豚達を乗せた車は人気の無い港湾の倉庫に入っていった。
※こちらの文章はラフ書きになります。製本時には大きく内容が変わる可能性があります。