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 雨が降っていた。
 強くはないが、霧のように体にまとわりつく、嫌な雨だった。
 綾と美樹、そしてスノウは戦闘員用の輸送車に乗り込んだ。先に出発した車には男性の一般戦闘員が二人が乗りこんだらしい。アンチレジストの人員の大部分は早急な本部機能の移転のために残らざるを得ず、朝比奈救出は必要最低限の五人で赴くことになった。鷺沢も朝比奈救出には多くの人員を投入したかったが、いつ本部が襲われるかわからないための苦肉の人員配置だ。
 豚の車に取り付けた発信器は、港湾倉庫の一角で止まったまま信号を送り続けていた。輸送車はその信号を追い、自動運転で目的地まで向かう。内部はスポーツ選手の控え室のようになっていて、ストレッチやウォーミングアップをするのに十分は広さがあった。精密機械用のサスペンションが組み込まれていて、車が発進してもほとんど振動を感じない。綾と美樹、そしてスノウは思い思いにウォーミングアップを済ませると、向かい合ってベンチに座った。三人とも無言のまま、綾は麻酔薬を吸引し、美樹は小さな嵌め込み式の窓を見ていた。窓についた水滴が音も無く後方に流れていった。
「お姉様を嫌いにならないで……」と、スノウが飲みかけのペットボトルを見つめながらポツリと言った。綾と美樹は黙って話の続きを待った。
 綾や美樹が知っているシオンこそが、本当のシオンなのだとスノウは言った。シオンにノイズのような存在への変身願望は無く、そもそも自分の中にノイズという人格が存在していることすらシオンは知らないのだ。ロシアを離れて日本に移住したのも、あえて高等教育に飛び級しなかったのも、違う世界で新しい友人を作って見聞を広めた方がいいという家族のアドバイスにシオン自身が納得してのことだった。決して騙していたわけではなかったのだとスノウは言った。
「そんなの今さら言われなくても大丈夫よ」と、綾が背もたれに身体を預けながら言った。「私はこのままシオンさんと二度と会えないなんて絶対に嫌。たとえ任務を受けなくても勝手に動くつもりだったんだから。私も美樹さんも、組織や任務に関係なくシオンさんは大切な友達なの。友達を助けに行くのは当たり前でしょ」
 美樹が頷いた。「全部収まったら、みんなでシオンの家に泊まるか。あいつが料理を作り始める前にケータリングを取ってな」
「それはマストですね」と言って綾が笑った。「もちろんスノウも来なきゃダメだからね。シオンさんが料理作りそうになったらちゃんと止めてよ」
 綾がウインクして、スノウが少しだけ笑って頷いだ。
「しかし、気になるのはノイズの目的だ」と言いながら、美樹が体を屈めて膝の上で手を組んだ。「あの豚野郎の言った言葉が全て本当だとして、それでノイズに何の得があるんだ? 人妖に肩入れする理由がまるでわからない」
「人間を人妖にする方法を確立した……って言ってましたよね」と、綾が言った。「まさか……ノイズ自身が人妖になるつもりなんじゃ」
「それならシオンまで人妖になってしまうな……」
「冗談じゃない」と、スノウが首を振りながら言った。「ただ、私にもノイズの目的がわからないの……。子供の頃にノイズは『私の生まれた理由はシオンの罪を被って、シオンを「良い子」にし続けることだ』って言っていたけれど、人妖とは何の関係も無いし」
「『良い子』と『悪い子』なんて、そう簡単に線引きできるものじゃないんだけどね……」と言って、綾が天井を向いてため息を吐いた。「目的が何にせよ、ノイズを止めるしかないか……」

 輸送車は港湾エリアの奥の小さな倉庫で停まった。
 先に到着した男性戦闘員の二人は入り口に放置された二台の車を調べていた。二十代半ばと、三十代前半の一般戦闘員だ。
「車内に人影はありません。やはり、倉庫の中かと」
 年上の男性戦闘員がスノウたちに駆け寄り、敬礼しながら報告した。
「何かあればすぐに逃げろ。先頭は私が行く」と言って、美樹はタバコに火を付けて鋭く煙を吐いた。綾もグローブを締め直している。
 五人はスノウを真ん中にして倉庫に入った。倉庫内は煌々と照明が点いていて、一メートル四方のポリタンクが山積みになっていた。ポリタンクはケージに入れられ、下部にはコックの付いたキャップがついている。中身は液体のようだ。
「液体輸送用のバルクコンテナだわ」と、スノウが周囲を見回しながら言った。「この匂い……中身は海外から輸入したウイスキーでしょうね。一箱だいたい千リットル。おそらくここは、レイズ社の原酒保管庫でしょうね」
 正解でございます、と言う声がコンテナの奥から聞こえた。
 全員が身構える。
 コンテナの影から、豚がのっそりと姿を表した。
 相変わらず媚びるような笑みを浮かべたまま、両手を胸の前で擦り合わせている。
「おやおや! これはこれは!」
 豚が素っ頓狂な声を上げて、わざとらしく仰け反った。
「いったいどうされたんですかスノウさん! そんな水着みたいな格好をされて。目のやり場に困ってしまいますよ」
「うるさい! この変態!」
 スノウが豚を睨みながら指を差した。「あんたと話すつもりはないのよ。痛い目に遭いたくなかったら、さっさと朝比奈を解放することね。その後にノイズのいる場所に案内してもらうわ」
「残念ながら、どちらも不可能でございます」と、豚が眉をハの字にして言った。「ここに残っているのは私一人だけでございます。朝比奈ちゃんはすでに私の部下が別の場所に移送しておりますし、ノイズ様の居場所は私にもわかりません。あのお方からは的確な時に的確な指示をいただけるのみで、どこにいらっしゃるのか全くわからないのです。我々の前に姿を現されるのはそれが必要な時のみで、ほとんどは電話で一方的に指示をいただくだけでございます。電話番号も毎回変わりますので、こちらから連絡を取ることも出来ません」
「それならなぜ貴様はここに残ったんだ? この人数差だ。抵抗しても勝ち目は無いぞ」
 美樹が冷たい目で豚を睨み、タバコを地面に捨ててブーツの底で踏んだ。
「それはもう本日が特別な日になるからでございます。我々がようやく日の目を見るのです。こうして特等席にアンチレジストの上級戦闘員様をご招待したのに、対応を部下に任せて万が一粗相があってはいけませんので、私が直接ホストを勤めさせていただく所存でございます」と、豚が言った。
 豚がスマートフォンを操作すると、バルクコンテナの間に設置されているプロジェクターが起動して倉庫の壁に映像が映った。NHKのニュースが映り、ライトグレーのスーツを着たキャスターが昼間に首都高で発生した交通事故の原稿を読んでいる。
「何をするつもり?」
 綾が一歩前に出て言ったが、豚は何も答えない。
 突然、NHKのニュース映像にノイズが走って画面が切り替わった。
 レイズ社の社長、三神が映っていた。
 三神は薄暗い部屋の中で一筋のスポットライトを浴びながら、白いスーツを着て椅子に座っている。右足を上にして足を組み、その上に両手を組んで乗せている。まるでシャワーを浴び終えた後にソファーでくつろいでいるようなリラックスした座り方だ。顔には余裕のある微笑が浮かんでいた。豚は何回かチャンネルを変えたが、どのテレビ局も同じ映像を流している。豚は満足げに頷いた。
 綾がスマートフォンのニュースサイトを見た。「速報、日本全国で大規模電波ジャック発生」という見出しが踊っている。三神はその姿勢からたっぷり五分は動かなかった。最初は静止画かと思ったが、三神がまばたきするのが確認できた。この電波ジャックが広がるのを待っているようだ。
 やがて三神は、わずかに顔を上げた。
「皆様、おくつろぎのところを失礼いたします」
 三神は聞き取りやすい低音の声でそう言った後、たっぷりと時間をかけて頭を下げた。
「わたくしは、レイズ社の代表取締役をつとめさせていただいております、三神冷而と申します。ご存知のない方もいらっしゃるかとは思いますが、主にレイズモルトというウイスキーを作り、皆様に提供させていただいております。このたびは高まる需要に供給が追いつかず、市場価格が高騰し、皆様にご迷惑をおかけしていることを深くお詫びいたします」
 三神ふたたび時間をかけて頭を下げた。
「さて、本日は皆様にご報告があり、勝手ながらお時間をお借りしております。皆様は『人妖』という言葉をご存知でしょうか?」
 アンチレジストの面々の背中を、氷の虫が這った。
 なぜ三神の口から人妖という言葉が出る? しかも公共の電波を乗っ取ってまで。 
「人妖の存在は、都市伝説として耳にされたことがある方もいらっしゃるかもしれません。人妖とは我々人間と全く同じ姿をしている別の生物であり、気付かぬうちに人間社会に溶け込んでいるバケモノである。容姿や頭脳や身体能力に優れ、食事や排泄を必要とせず、我々の性行為に似た捕食行動で活動し、なおかつその捕食行動は我々人間にとってこの上無い快楽をもたらす……というものです。結論から申し上げると、人妖の存在は事実です。各国の政府はひた隠しにしておりますが、未解決の行方不明事件の何割かが、人妖の手によるもなのです。事実、私は何名かの人妖と実際に接触を持っております。私は人妖との接触を通じて、人妖とは人間の完全な上位交換であるという結論に至りました。今後人間は、人妖の栄養源としての価値以外は無くなるであろうと考えています」
 綾はSNSのアプリを立ち上げた。話題のトレンドが三神の電波ジャック一色になっている。
「皆様はおそらく、私の頭がおかしくなったと思っているでしょう。ですが、私は事実を話しているだけです。怪しい宗教や陰謀論の話をしているのではありません」と、画面の中の三神が言った。その顔にはいまだに余裕のある微笑が浮かんでいる。「なぜこのような話を私がしているのか……。私のパートナーが、人間を人妖に進化させる薬剤の開発に成功いたしました。そして私はかねてから、私の作ったウイスキーを飲んでいただいた方に何らかのお礼がしたいと考えておりました。私のウイスキーは幸い市場に好意的に受け入れられています。いささか好意的過ぎると言ってもいいかもしれません。私のウイスキーを一杯飲むために、大変な経済的苦労をされた方も多いと聞いております。そのような苦労をされた方に、人妖に進化できるチャンスを進呈することにしました。私は数ヶ月前から発売したウイスキーの一部に、人妖に進化するための薬剤を混ぜております。本当は私のウイスキーを召し上がられた全ての方に人妖に進化していただきたいのですが、残念ながら薬剤には限りがあり、今回は抽選のような形を取らせていただきました。不幸にも今回漏れてしまった方は、次の機会をお待ちください。そして、今回選ばれた幸運な方は、どうぞ素晴らしい人生を──」
 スポットライトが徐々に減光し、三神の姿が闇に溶けるようにゆっくりと消えた。同時に、奇妙なノイズが混ざった音楽が流れ始めた。クラシック音楽のようで、教会の鐘のようなピアノの後に、重厚な旋律が追いかけてくる。決して耳障りの良いものではない。豚だけは目を閉じて、その奇妙なノイズ混じりの聞き苦しい音楽に身を任せていた。
「ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番……お姉様が好きだった曲……」と、スノウが呟いた。
 画面が暗転してから、約三分ほど音楽が流れた後、唐突に画面が元に戻った。インカムに手を添えて混乱した様子のキャスターが映される。
「えー、今、放送が回復しました。ただいま日本で大規模な電波ジャックが発生した模様で、えー、警察は事件に関与していると思われる株式会社レイズの三神冷而氏から事情をうかがうべく──」
 そんなことは今見たから知っている、と誰もが言いたくなるような内容をアナウンサーが喋った。しかし、現場が混乱していることだけは伝わってきた。アナウンサーは同じ内容を繰り返して発言し、その声に被せるようにスタッフと思しき複数の人間が怒号を発している。おそらく他局でも同じような状況なのだろう。
「あんた達いったい何したのよ!」と、綾が叫んだ。
「聞いての通りです。我々が発売したウイスキーのごく一部のボトルに、ノイズ様が造られた神の蜜を混ぜました。全ては滞りなく、ノイズ様のご指示の通りに進んでおられる……」と、豚が両手を広げて言った。まるで最上級のコース料理を堪能し終えたような、うっとりとした口調だった。「そして、そのウイスキーを飲んだ人間にノイズ様の紡がれた特殊な旋律を聞かせると、脳の一部に作用して人妖に進化できるのです。ボトルが誰の手に渡ったのかは我々にもわかりません」
「……なんてことだ」と、美樹が呟くように言った。背後を振り返り、男性戦闘員に指示を出す。「お前たちは本部に戻れ。人妖の存在が知られたとなると──」
 美樹の言葉が途中で止まった。
 男性戦闘員二人の瞳が赤く光っていた。
 人妖の目だった。