NOIZ立ち絵反転のコピー

スノウ立ち絵 2

朝比奈のコピー



 スノウが短い悲鳴を上げた。
 ただならぬ気配を感じて、男性戦闘員がお互いの顔を見合わせ、若年の男性戦闘員が気が触れたように叫んだ。縦に裂けた瞳孔の赤い瞳が激しく動揺している。
「落ち着け!」と、年上の方の男性戦闘員が宥めたが、パニックは収まらなかった。頭を掻きむしり、訳のわからないことを言いながら地団駄を踏んでいる。綾が素早くパニックを起こした戦闘員に近づき、「ごめんなさい」と言いながら腹部に強烈な突きを放った。男性戦闘員の体が地面に崩れ落ちる。
「彼ら二人がここに来ると、ノイズ様は事前に私に申されました」と豚が両手を組み、まるで神に祈るような仕草で言った。「この状況で『最も役に立たない人員』だからだそうです。おそらくあなた達はノイズ様がアンチレジストの本部に姿を現し、我々人妖が直接出向いて宣戦布告したので、本部は放棄せざるを得なくなったのでしょう? 新設の本部へ人員やデータの移行も速やかかつ確実に行わなければならない。しかし朝比奈ちゃんは連れ去られた。幸い我々の車に発信機を取り付けることに成功し、居場所は掴んでいる。だが優先度は本部移転の方が高いため、我々の追跡に割ける人員は限られる。ならば一部の精鋭と、失礼ながら戦闘しか出来ることの無い人員を派遣する方法が一番効率が良い……と、ノイズ様はおっしゃられました。ノイズ様がアンチレジストの人員リストを見て、そちらのお二人に白羽の矢を立てたのです。私は事前に部下に命じて、そちらのお二人にウイスキーを一杯ご馳走して差し上げました。喜んで飲まれていましたよ、『蜜』入りのレイズモルトを。これで我々の行いがハッタリではないとご理解いただけたと思います」
「下がっていろ。大丈夫だ」と、美樹が振り返って男性戦闘員に言った。男性戦闘員は頷き、失神している仲間に肩を貸して後ずさる。
「ほら、それですよそれ。あなたがここに来た理由です」と、豚が男性戦闘員を指さした。「その立場で、あなたはなぜ満足しているのです? 十歳以上も歳が離れている娘に命令されて、なぜ何の疑問も抱いていないのです? あなたはノイズ様のお導きによって生まれ変わったのです。人妖の強靭さはよくご存知でしょう。あなたがその気になれば、そちらのセーラー服や巫女装束を着た上級戦闘員の方々を栄養源にすることも可能なのです。栄養源の意味はもちろんお分かりでしょう? いやはや、アンチレジストの上級戦闘員様は美人揃いでうらやましい……。あなた方は仲間です。後ほどこちらから連絡しましょう」
 綾が男性戦闘員の肩にそっと触れながら、「落ち着いて。大丈夫よ」と諭した。男性戦闘員は目を泳がせたまま頷いた。
 美樹が鋭く息を吐き、豚に向かって駆けた。
 駆けながら太腿のバンドに取り付けた樹脂製のトンファーを抜き取り、回転させながら豚のスキンヘッドに向かって打ち落とす。豚はためらうことなく腕でトンファーを受け止めた。人間であれば骨折してもおかしくない衝撃であったが、豚はまだ笑みを浮かべている。豚が美樹を蹴飛ばし、美樹の身体が後方に吹っ飛ぶ。美樹の背後からスノウが飛び上がった。スノウは空中で前転し、豚の頭に踵落としを放つ。豚はスノウの足首を掴むようにして受け止めた。
「なんだスノウちゃんも悪い子だったのかい? 朝比奈ちゃんと同じように教育してあげなきゃいけないねぇ……」
 豚はスノウの身体を引きつけ、腹部に鈍器のような拳をめり込ませた。スノウの身体がくの字に折れる。華奢な腹部は豚の脂肪で膨らんだ拳に全体を潰され、内臓の位置が変わるほどの衝撃がスノウの身体を駆け巡った。
「ゔぶぇぁッ?!」
 おそらく人生で初めて腹を殴られたのだろう。スノウのいつもの自信ありげな表情が崩れ、苦悶に歪む。
「ぐぷッ……!」
 豚の放った拳のダメージは凄まじく、スノウは白目を剥き、唾液が口から弧を描いて吹き出した。スノウは受け身も取れずに地面に落下し、腹を抱くように抑えながら亀のように丸まった。
「わかったかなスノウちゃん。大人に逆らうとどうなるか」
 涙目になり、口から唾液を垂らしながらもスノウは豚を睨んだ。
 綾も豚に向かって駆けた。
「……ババァどもめ」と、豚が誰にも聞こえないような声量でつぶやいた。邪魔をするババア共には興味は無い。腹でも殴って気絶させてから、スノウちゃんだけを連れてアジトに帰ればいい、と考えた。
 突然、豚の視界が激しく揺れた。まるで後頭部を木製バットで思い切り振り抜かれたような衝撃だった。
 視界の隅に、グレーと白の戦闘服が見えた。
「……朝比奈……ちゃん?」
 豚が驚愕の表情を覗かせた。視界の隅で朝比奈と目が合った。朝比奈は豚の後頭部を膝で打ち抜いた姿勢のまま険しい表情で豚を睨んでいる。戦闘服は所々破れ、身体のあちこちに殴られた痕が見えたが、表情には強い意志が見て取れる。はっとして豚が正面を向いた。綾が雄叫びをあげながら、レザーグローブに包まれている拳を繰り出した瞬間だった。
 首が折れるほどの衝撃が豚を襲った。
 スローモーションで見たら豚の顔面は激しく歪んでいただろう。それほどの衝撃で綾の拳は豚の頬を撃ち抜いた。弾き飛ばされた豚は転がるようにしてバルクコンテナに突っ込んで行き、破裂したコンテナから大量のウイスキーが漏れ出した。鼻を突くアルコールの臭いが倉庫内に充満する。
 綾が構えを解き、フッと鋭く息を吐くと、朝比奈の元に駆け寄った。
「朝比奈ちゃん?! 大丈夫なの?」と、綾が朝比奈の肩を抱きながら言った。
「大丈夫です。こう見えても一般戦闘員の中ではランクは上の方なんです……。あの太った男の部下はそこまで強くはなかったので、不意打ちで隙を作って脱出しました。本来であればあの男の部下を制圧しなければならなかったのですが、おそらく皆さんに対して罠を貼っているだろうと思い、ここに戻ってきました」
 朝比奈はダメージがかなり残っている様子だったが、綾に対して気丈にも笑顔を作って敬礼した。綾は小さな朝比奈の身体を抱きしめてやりたい衝動に駆られたが、今は豚に追撃することが優先だ。綾は豚が突っ込んだコンテナのあたりを調べた。豚の姿は見えなかった。どこかに隠れているのだろうか。それとも逃げ出したのか。
 美樹が綾を呼んだ。スノウを背負っている。意識はあるが、ダメージが重く動けないようだ。
「今は撤収しよう。街の様子も気になる」と、美樹が言った。そのまま朝比奈に身長を合わせて「あの状況でよく頑張ったな。偉いぞ」と真剣な顔で言った。朝比奈は歯を見せずに笑い、美樹にも敬礼を返した。
 ふと、男性戦闘員の姿が見えないことに気がついた。
 一人は失神していたはずだ。
 倉庫の外に出ると、男性戦闘員の乗ってきた車も消えていた。「愚かな……」と、美樹が小声でつぶやいた。おそらく戻っては来ないだろう、と残された美樹達は思った。「あなた達は仲間です」という豚の言葉を間に受け、連絡を待つつもりなのかもしれない。
 四人で輸送車に乗り込み、美樹が朝比奈にチャームの解毒薬と回復薬を注射した。スノウが簡易ベッドに横になりながら「あんた……すごいわね……」と朝比奈に言った。自動操縦をアンチレジストの本部に設定する。おそらく鷺沢はまだ残っているはずだ。雨のカーテンの中、車は静かに走り出した。


 三神の視界の先、赤い絨毯が敷かれた部屋の奥の暗がりから、笑みを浮かべたノイズがスポットライトの下に歩いていきた。ぬめるような黒いドレスに深紅のジャケット。所々に赤い毛がまだらに混ざった長い金髪。年齢は若そうだが、誰も逆らえないような雰囲気を纏っている。
「ご苦労様でした」と言って、ノイズは一秒間に一回というゆっくりとしたテンポで手を叩いた。黒いレースの手袋をしているので、音は響かない。
「光栄です」と言って、三神が軽く頭を下げた。そして見ないフリをしながら、ノイズの大きく開いたドレスの胸元を盗み見た。
 この人からの融資を受けて半年以上が経つが、実際に顔を合わせたのはつい先日のことだ。そして初対面の時、三神はその若さと美貌に驚いたものだ。
 半年前、レイズ社の口座に突然見たこともないような大金が振り込まれた。そして三神が融資に気がついて困惑したまさにその時、まるで見ているかのようにノイズから電話がかかってきた。
 電話口でノイズは、自分の指示に従うのであれば今後も融資を続ける、断れば融資はこの一回のみで今後連絡はしないと告げた。そして自分の指示に従えばレイズ社と三神自身をすぐにでも世界的なブランドにしてやるとも告げた。
 正直に言って気味が悪かった。
 しかし当時のレイズ社は背に腹は変えられない状況だった。
 レイズ社は粗悪な海外ウイスキーを日本的な名前を付けて主にアジア向けに販売している零細企業に過ぎず、ウイスキー愛好家からはレイズ社にも三神自身にも白い目を向けられている状況だった。ブランド価値など無いに等しく、銀行からの融資もいつ打ち切られてもおかしくない経営状態で、まさに綱渡りの状態だった。ノイズからの融資は喉から手が出るほどの魅力があり、それに加えて功名心の高い三神にとって「世界的なブランド」という言葉の響きは抗い難い効果があった。
 三神はノイズの申し出を了承すると、翌日には豚のような見た目の男(その男は自分のことを「豚」と呼べと言ってきた)が秘書として派遣された。そして豚が抱えてきたアタッシュケースの中身をウイスキーに混ぜろを言ってきたのだ。アタッシュケースの中身は試験管に入った得体の知れない薬液だった。白濁したものと透明なものの二種類があり、いずれも無臭で粘性があった。毒ではないと豚は言ったが、詳細を聞いてもはぐらかされるだけだった。ノイズの融資を受け入れた時点で三神に拒否権は無い。三神は郊外に構えたレイズ社の小さな瓶詰め工場で、自らの手で試験管の薬液をタンクの中に入れ、数千本のウイスキーをボトリングした。豚はプロモーションはお任せくださいと言い、ボトリングしたうちのかなりの数をバーや飲食店に無償で配った。あんな気持ち悪い男が持ってきた悪名高いレイズモルトなど誰も見向きもしまいと三神は心の中で思っていたが、しかし程なくしてサンプルを配った店から捌き切れないほどの注文が舞い込んできた。無償でサンプルを飲んだ客が翌日の開店直後に店に現れて、また飲みたいからすぐにボトルを入れろと言ってきたらしい。中身は従来と同じく粗悪な海外原酒のブレンドなので、明らかに異様な事態だった。アタッシュケースに入っていた薬液の効果であることは三神もすぐに察した。しかし一度勢いがついた人気は止まらず、レイズモルトは噂が噂を呼び、すぐさまボトルの奪い合いやプレミア価格での転売が起きるほどの爆発的人気銘柄となり、三神はたちまちクラフトウイスキーの寵児として祭り上げられた。
 多くの取材依頼が舞い込んだ。いずれも肯定的なものであり、中にはウイスキーとは関係ない三神自身の生活ぶりや人となり、ビジネス成功論やカリスマ性についての取材もあった。
 三神は高揚感に包まれていった。もともと容姿には自信がある方だし、話術にも長けている。メディアへの露出も増え、三神自身を特集するテレビ番組や雑誌も日に日に増えた。レイズモルトも薬液を混ぜなくても作った側から羽が生えたように売れるようになり、有名無名に関わらず苦労して飲んだ連中が「日本の繊細な風土が育んだ、これぞモノづくり大国日本を象徴するジャパニーズクラフトウイスキーである」などと滑稽で的外れな盲目的絶賛をする様子も楽しかった。成功者の社交会のようなものに呼ばれ、一般庶民との明確な違いを実感した。こちらから呼ばなくても、男でも女でも群がるように寄ってきた。まさに絶頂の只中に自分はいると三神は思っていた。そしてノイズからの指示に従っていれば、これからも自分は安泰なのだ。
 だから今日の中継も、三神は承諾した。
 人妖という生物については当日聞かされ、人妖になる薬というものも先ほど飲んだばかりだ(無味無臭のとろりとした液体だった)。
 この中継で自分の信用はおそらく無くなるかも知れないが、このノイズという女がいれば大丈夫だ。
「あなたのおかげです」と、三神は左胸に手を当てたまま絨毯に片膝をついた。求婚するような仕草だった。
 ノイズは三神の顔を両手で挟み、首を傾げるようにして三神の瞳を覗き込んだ。エメラルドのような瞳に吸い込まれそうだ。ノイズは三神の目を見ると、満足げに口角を吊り上げた。
「ちゃんと変化しています。痛くなかったでしょう?」と、ノイズが蠱惑的な響きのある声で言った。三神は窓際に移動し、ガラスに自分の顔を写した。茶色だった瞳が、鮮血のような色に変化していた。
「おお……これが人妖! 人間を超越した存在!」
 三神の高笑いが響いた。
「これでようやく、あなたに見合う存在になれましたな」と、三神がスーツの襟を直しながら言った。ノイズはわずかに口角を上げたまま、首を傾げた。「あなたのお力添えのおかげで、十分な地位が築けました。もはや私は時代の寵児であり、今や人間という存在すら超越した。これからも良きパートナーとして、二人で歩んで行きましょう」
「……何を言っているんです?」と、ノイズが嘲笑するような口調で言った。「あなたの役目はこれで終わりです。あとは好きにしていただいて構いません。今後二度と会うこともないでしょう」
 三神の顔から表情が消えた。
「な……ちょっと待ってください……。私は十分な地位に上り詰めました。あなたのお力添えで、レイズモルトも私自身も、今や世間の耳目を集めるブランドです。あなたに相応しいパートナーとして、これ以上の男はいませんよ」
「お気持ちは嬉しいのですが、私には心に決めた人がいるので」と、ノイズは笑いながら背を向けた。赤いジャケットが翻り、三神を馬鹿にするように裾がはためいた。そして顔だけをこちらに向けた。緑と赤の混ざった目がやけに光って見えた。「あなたは私の指示通りによく動いてくれました。私の狙い通り、あなたは一般人よりも少しだけ有名になり、あなたの作るウイスキーは人気になった。そして『ちょうど良い範囲に』薬剤をばら撒く良い道具になった。ありがとうございます。お礼として人妖にして差し上げましたので、あとは整形で顔を変えて好きに暮らしてください。すぐに世界中に指名手配されるでしょうから、顔は全く別物にしたほうがよろしいかと思います。そうですね……たとえばあなたの秘書の豚さんのような顔などよろしいかと思います」
 クスクスと笑うノイズに、三神が「……おい、ちょっと待てよ」と低い声で言った。眉間にシワが何本も走っている。
「ふざけんなよ! 利用するだけ利用して、後は好きにしろってどう言うことだよ!?」
 三神が椅子を蹴り、撮影用のカメラを蹴飛ばした。
「まぁ、利用したなんて人聞きの悪い。あなたの無為な人生に意味を与えて差し上げたのに。あなたも状況を楽しんでいたでしょう?」と、ノイズが首を傾げて小指を舐めながら、トロリとした口調で言った。「あのまま後ろ指を刺される人生の方が、もしかしてお好みでしたか? 余計なことをして申し訳ありません」
「……人妖ってのは身体能力も人間より数段上なんだよな?」と、三神が地鳴りのようなドスの効いた声で言った。「お高く止まってんじゃねぇぞクソアマ! 下品な身体見せびらかせやがって……ブチ込んで泣き喚かせてやるよ!」
 三神がノイズに飛びかかった。
 それは三神の人生において最も愚かな行為だった。
 ノイズは「くふっ」と笑うと、一瞬で三神の前から消えた。次の瞬間、三神の鼻は潰れていた。ノイズは丁寧にセットされている三神の髪の毛を掴み、一ミリの躊躇いも無く三神の顔面が陥没するほどの勢いで膝を打ち込んだ。「ぶぎゃ!」という間抜け悲鳴が響き、ぐちゃっという音と共に三神の高い鼻が埋没した。白いスーツは赤いペンキをぶちまけたように真っ赤になり、三神は絨毯の上でのたうち回った。ノイズは三神の身体を蹴飛ばして仰向けにさせると、口の端を吊り上げながら靴のヒールを三神の右の眼窩に突き刺した。卵が潰れるような音の後に、地獄のような悲鳴が室内を震わせた。
「まぁ、大丈夫ですか? 正当防衛とはいえ、ここまで大袈裟に痛がられると気の毒に感じてしまいます……」
 眼窩に押し込んだヒールをグリグリとねじりながら、ノイズは他人事のように心配そうな声を出した。
 悲鳴を上げ続ける三神の顔面を踏み続けながら、ノイズは好みの音楽を探すようにスマートフォンを弄った。やがてスピーカーから音楽が流れ始めた。先ほど三神が流した音楽とは違うが、やはり機械的なノイズが所々に混ざっている。
 三神の身体が大きく痙攣した。
 腹部や頭部が膨張し、スーツのボタンが弾け飛ぶ。
「整形手術の手間が省けましたねぇ……」と、ノイズがクスクスと笑いながら言った。悲鳴を上げ続ける三神に背を向け、まるで最初からそこにいなかったかのように、音もなく部屋から去った。



[ NOIZ ] 前編は以上になります。次章更新までは今しばらくお待ちください。
次週からは以前ウニコーンさんに依頼いただいて執筆した[ WISH ]の続きを投稿します。