この作品はウニコーンさんに有償依頼をいただき、二次創作として製作したものです。
ウニコーンさんのオリジナルキャラの瀬奈さんを主人公に、世界観や設定、ストーリーの大部分をお任せいただきました。
今後作品としてウニコーンさんが挿絵を付けて完全版として発売する予定ですが、今回私が書いた文章と制作中のイラストの掲載許可をいただきましたので、サンプルとしてお楽しみください。
第1話
第2話
第3話
瀬奈がドアを潜ると、雰囲気が一変した。
高価な伽羅香が焚かれているらしく、空気の重量が増したように感じた。天井の中心部分からは大型のシャンデリアが吊り下げられ、その周囲に埋め込まれたダウンライトが光の筋を床に落としている。壁には草食動物の頭骨が等間隔に飾られ、その下に埋め込まれた燭台がそれらを不気味に照らしていた。正面には簡素な祭壇のようなものが設えてあり、そこから出入り口に向かって木製の長机が伸びている。その長机の左右には向き合うように椅子が並んでいて、まるで広い会議室のようなレイアウトになっていた。
雰囲気はアスカが言った通り教会のようだが、おそらく幹部達がグールーを交えて打ち合わせをする場所なのだろう。西洋式で調度品は高価なものを使っているようだが、ちぐはぐな印象が拭えず、雰囲気づくり以上の意味を汲み取れなかった。そもそも西洋系の教会が主に使う香は伽羅ではなく乳香である。
瀬奈は祭壇に近づいてみた。
杢の出たマホガニーの一枚板の小さなテーブル。その上には十字架も仏像も無く、二本の燭台の間に、キログラム原器のようなドーム型のガラス容器が置かれているだけだ。中には一握りの土と、干からびたエノキタケのようなものが入っていた。
「それには触れないほうがいい」と、瀬奈の背後で低い声がした。
瀬奈が驚いて振り返ると、黒いローブを着た男が立っていた。元ボクサーの男と一緒にいた警備隊の男だ。入り口にはずっと注意を払っていたのに、どこから入ってきたのだろう。
「瀬奈さん……だったかな。私はサエグサという者だ。ここの警備隊長をしている。君が先ほど倒した男の上司みたいなものだ」と、男は落ち着いたよく通る声で言った。「それと、祭壇の上のそれはとても神聖なものでね。グールー以外、触れることを許されていないんだ」
「……これは何? それにグールーって……」と、瀬奈が言った。
「グールーは我々の指導者であり、この地上にWISHをもたらされた聖人だ。今でもその祭壇の奥の部屋で休まれている。ここはグールーのお言葉を聞き、その聖櫃の中に入っている『オリジン』を崇めるための聖域だ。オリジンは偉大なるグールーが発見されたWISHの原種でね、我々人類を未来永劫の救済に導く、奇跡の証なのだ」
「笑わせないで……この干からびた小さなキノコが救済だって言うの?」
「そうだ。WISHはその名の通り、人々の願いを具現化する効果があることは知っているだろう? 君が先ほど戦った元ボクサーの男……サジも、WISHに出会うまでは、それはそれは酷い状態だった。彼は確かに粗野な男だが、ボクシングにかける情熱に嘘は無かった。それまでは好きなように暴れて、人からは感謝されることよりも恨まれることの方が圧倒的に多かった人生が、ボクシングと出会ったことで目標が見つかったのだから。しかし、大切な試合前の厳しく辛い減量をこなす最中、彼に恨みを持っている人間にハメられた。試合前というタイミングを狙い、金で雇われた人間に理不尽な喧嘩を吹っ掛けられたんだ。まぁ、彼のそれまでの行いを鑑みれば、自業自得と言えなくもないが……。最初も彼は我慢していたようだが、もともと沸点が低い性格に減量中の鬱憤が重なり、絡んできた人間を返り討ちにしてしまった。もちろん試合は白紙になり、挙句プロ資格も剥奪され、彼は元の荒れた生活へと戻っていった。あちこちのヤクザや犯罪組織の用心棒をしながら、自らも犯罪まがいの行為を繰り返すようになってしまった。我々の組織に入るまではな」
「今と大して変わらないじゃない」と、瀬奈は身構えながら言った。
「断じて違う。我々『March Of The Pigs』は反社会的勢力ではなく、人々の救済を目的としている。サジも間接的とはいえ、MOTPを守ることで人類の救済の手助けをしているのだ。私も偉大なるグールーと出会い、このMOTPに入るまでは、彼と似たような生活をしていたから、よくわかる。もともと私は正規警察の機動隊だったが、その時の警察内部は腐敗しきっていた。今も大して変わらないだろうがな。当時から我々の部隊は、犯罪組織から金や女をあてがわれ、捜査の情報を外部に流す者が多かった……。そして、朱に染まれば赤くなると言う通り、私も似たようなことをして稼ぐようになった。世の中のためにと警察官になったはずなのに、常に心には矛盾を抱えていたよ。そのような中、MOTPに情報を横流しした際に、少しだけWISHを使わせてもらったんだ。WISHの奇跡は、それはそれは素晴らしい経験だったよ。そして、偉大なるグールーに謁見させていただき、人類救済というその崇高なお考えを知り、私はMOTPに協力するために、すぐに警察の職を辞した。私は警備隊を統べる幹部として迎えられ、そのすぐ後にサジが入ってきた。彼もWISHで、世界チャンピオンになる瞬間を何回でも味わっている。彼もまた、WISHに出会って救われたのだ。もちろん君の仲間のヤタベという男も、君が指切りをした工員の少年もな……」
「ふざけないで! 妄想の世界に逃げ込んで、なにが救いなのよ! 目が覚めたら虚しさしか残らない行為が救いだなんて間違ってる……。WISHのせいで幻覚と現実の区別がつかなくなって、錯乱して現実でも犯罪を犯してしまう人が後を絶たないのを知っているでしょう?! あんな小さな子供まで使って……あなた達は救済どころか、不幸な人を増やしているだけじゃない!」
「WISHの救済を受けていない者は、最初は皆そう言うのだ。怪しい薬物だ、所詮は麻薬だ、とね。少しは考えてもみたまえ……全ての人間に効く薬は存在しないし、ごく一部の副作用のせいで多大な効能を手放すのは愚かなことだ。そして、ここで働く子供達は全員虐待やいじめを経験し、居場所の無かった子供達だ。不登校や引きこもり、自殺未遂をした子だってたくさんいる。むしろ我々は彼らに場所と存在価値を提供しているのだ。君もWISHを使えばわかるはずだ」
サエグサはローブのポケットから、透明なビニール袋に入った緑色の粉──WISHを取り出した。「特別に君にあげよう。一度WISHの救済を受けてみるといい。そして、我々に協力してほしい。君の戦闘力と耐久力は見せてもらった。まだ荒削りだが伸び代がある。警備隊の一員として、私の下で働く気はないかね?」
「全く無いわ」と、瀬奈はきっぱりと言った。
「……残念だな」とサエグサがゆっくりと身構えながら言った。
室内の空気が更にずっしりと重くなるのを瀬奈は感じた。背中の皮膚ににピリピリとした感覚が駆け上がり、緊張を沈めるために瀬奈は大きく息を吐いた。サエグサはゆったりとしたローブを羽織っているが、それでも肩や腕が大きく発達していることがわかる。ナイフのような視線は、確かに危険な任務にあたる軍人や機動隊のそれだった。
サエグサは長机の端を掴むと、まるで手についた汚れを振り払うように横に凪いだ。何十キロあるのかわからない長机はいとも簡単に横倒しになり、壁際まで滑っていく。瀬奈とサエグサの間にぽっかりと空間が広がった。瀬奈は素早く室内を見回す。机に巻き込まれなかった椅子が四脚。まだ障害物は多い。サエグサに力では敵うとは思わないし、正規警察が来るまでの時間稼ぎとして戦闘を長引かせることも必要になるから、遮蔽物が多いこの状況は瀬奈にとって有利だ。瀬奈は手近な椅子をサエグサに投げつけた。同時にポケットから取り出した試験管からアドレナリンを増やすガスを吸う。サエグサが椅子をガードすると同時に、瀬奈は側面に回り込んで脇腹を蹴った。ヒットアンドアウェイの戦法ですぐさま距離を取る。サエグサとの距離が……離れない。え? なんで、と瀬奈が思った瞬間。目の前が暗転した。柔らかい布の感触。サエグサの脱いだローブが、瀬奈の頭から被せられていた。
「動きは悪くないが、やはりまだまだ荒削りだ」
ぐずん……という衝撃と圧迫感が、瀬奈の腹部から全身に広がった。
「ぐっぷ?!」と、瀬奈の口から濁った音が漏れる。ローブがはらりと瀬奈の頭から落ちると、瞳の焦点が定まらず、ブロワを止められた水槽の中にいる金魚のように口を開けている瀬奈の顔が現れた。
「え……げぼっ……」
「ほう、耐衝撃繊維か。しかもかなり質が良いな。圧迫以外の感覚があまり無いだろう」
サエグサは瀬奈の背中に手を回すと、力任せに拳を瀬奈の腹に押し込んだ。ものすごい力で瀬奈の柔らかい腹部を掻き分け、拳の先が背骨に触れる。
「ぎゅぶぇッ?!」と、瀬奈が身体を跳ねさせた瞬間、サエグサは拳を上に捻じ上げた。鳩尾を内部から押しつぶさえれ、喉の奥に石を詰め込まれた様な感覚に陥る。「えぶッ?! ぐ……ごぇあぁぁぁぁ!」
べしゃりと瀬奈の身体が床に崩れる。汚い音を立てながら嘔吐き、身体が震えてコントロール不能に陥った。
「ふむ、ここまで力を入れてもこの程度しか押し込めないとは。本当に良いスーツだ」と、サエグサは無様な声を上げて苦しむ瀬奈を見下しながら、顎に手を当てて努めて冷静に分析している。「どうだろう、気は変わったかね? 不必要な暴力を振るうのは趣味ではないんだ。できれば降参してもらえれば、私としてもありがたいのだが」
うずくまりながら、レベルが違い過ぎると瀬奈は思った。今まで何回も突入任務をこなし、それなりの敵とも対峙してきた。危ない目には何回も遭ったが、厳しい鍛錬の成果や仲間のサポートでいずれもくぐり抜けてきたのに……。だが、今回は逃げるわけにはいかなかった。アスカが身を呈して自分を守ってくれた。今度は自分がアスカを守る番だ。
瀬奈は笑っている膝を抑えながら、よろよろと立ち上がった。肩で息をしながら、格闘の構えをとる。時間だけでも稼がなけ──。
どぶり……という衝撃が瀬奈の鳩尾に響いた。
瀬奈が思考している最中、サエグサが瞬間移動のように瀬奈の正面に移動し、瀬奈の鳩尾を奥深くまで正確に貫いたのだ。
「ひゅごッ?!」
突然襲って来た衝撃に、瀬奈の身体が糸が切れた人形のように崩れ落ちる。サエグサは土下座をしているような格好の瀬奈の奥襟を掴み、そのまま軽々と瀬奈の身体を持ち上げた。瀬奈の足が地面から浮く。
「うっ……ぐ……ああぁッ!」
「グールーに会わせよう。その前に、粗相をしないように教育をしなければいかんな……」
サエグサは瀬奈の首元のジッパーを掴むと、一気に下半身まで引き下ろした。スーツの前部分がはだけ、弾けるように瀬奈の大きな胸と、適度に筋肉がついた腹部が露わになる。サエグサは瀬奈のスーツを大きく広げ、上半身を自分に向かって無防備に開かせた。瀬奈の汗ばんだ滑らかな肌が現れ、サエグサは目を細める。
「う……嘘でしょ……?」
瀬奈は歯をカチカチと鳴らしながら、力無く首を振った。これから自分が何をされるのか想像し、顔から血の気が引く。身体はまだまともに動かない。
次の瞬間、ぐずり……という音とともに瀬奈の土手っ腹は潰された。耐衝撃性スーツに守られていない滑らかな肌を巻き込んで、サエグサの鈍器の様な拳は瀬奈のはらわたを掻き分け、奥深くまでめり込んだ。
「ごびゅぅッ?! ぐぷッ……ぐ……ぐぶえぇぇえぁぁ!!」
まるで大型トラックがぶつかった様な衝撃だった。今まで格闘訓練で腹を殴られたことは何回もあったが、ここまでの衝撃は受けたことがない。たった一撃で瀬奈の胃は無残に潰れ、意識は脳外にはじき出された。
「げぉッ?! げッ……ぐげぁっ……」と、瀬奈は限界まで舌を出し、白目を剥いたまま唾液を撒き散らかして喘いだ。普段の明るく綺麗な顔は無残に崩れ、瀬奈と親しい者が見たら失神しそうなほどの醜態をサエグサに晒している。
「おっと……少し強かったか?」と、サエグサは何ともなしに瀬奈に聞いたが、それに答える余裕はもちろん瀬奈には無い。「これくらいなら耐えられるか?」
ぱん、ぱん、ぱん、ぱん……と、乾いた音が室内に響く。瀬奈の何にも守られていない下腹部、胃、みぞおちに、まるで一定のリズムを刻むように連続で拳が突き込まれ、その場所が深く痛々しく陥没した。
「ゔッ?! ゔぶッ! げゔッ! ごッ!? ぶふッ! がッ?! ごぶッ?! ぐッ! あぐッ! あッ! あぁッ! ゔああぁぁぁぁぁッ!」

呼吸をする暇もないほどの連打に、瀬奈は身体を反らせて悶えた。サエグサは的確に殴る場所を変え、最もダメージがあるように瀬奈の腹を嬲る。瀬奈は胃液と涎と涙を撒き散らしながら、吊るされたサンドバッグのように力なく揺れた。
死ぬ。
殺される。
明確な死の恐怖が瀬奈の脳内を駆け巡る。
どぶぅッ! という音と共に、瀬奈の身体が海老の様にくの字に折れた。
サエグサのは瀬奈の奥襟を放して、正確に瀬奈のヘソのあたりを貫いた。意識が朦朧としていた瀬奈は腹筋を固めることも出来ず、その衝撃の全てを受け入れるしかなかった。瀬奈の身体は後方にロケットの様に吹っ飛び、背中を壁に激突させて、派手な音を立てて床に倒れた。壁にかかっている頭骨が衝撃で瀬奈の近くに砕け落ち、瀬奈の身体に降り注ぐ。
「がッ……?! おッ……?! がぶッ……!」
瀬奈は両手で潰れた腹を押さえて、白目を剥きながら芋虫の様に身体を捩った。意識はすでに途切れかけていて、暗幕が降りる様に視界が狭くなる。音が遠くなり、失神する瞬間、微かにキノコの様な匂いを感じた。
「ちょっとお姉ちゃん! いつまで寝てるの?!」
突然身体の上に重石を乗せられたような感覚があり、瀬奈は「ぐぇっ」と呻きがなら目を覚ました。羽布団をはねのけて体を起こすと、漬物石がゴトンと床に落ちる。どうやら本当に重石を身体の上に乗せられたらしい。寝ぼけた目で正面を見ると、黒髪をセミロングに伸ばした女の子が腰に手を当てて瀬奈を睨んでいる。
「佳奈?!」と、瀬奈が驚いて声をかけた。
「なに言ってんの? お姉ちゃんまだ寝ぼけてるでしょ? もう、片付かないから早く顔洗って朝ごはん食べちゃってよ」
それだけ言うと、佳奈はパタパタとスリッパの音を立ててダイニングに引っ込んでいった。太陽はすっかり登っていて、ベッドサイドの時計は九時三十分を指している。少し開いた窓からは爽やかな風が部屋の中に流れ込み、瀬奈の頬を優しく撫でていた。
瀬奈は洗面所に移動して、うがいと洗顔を済ませてから鏡で自分の顔を見た。血色もよく、肌も荒れていない。なぜ佳奈がここにいるのだろう。佳奈は瀬奈のたった一人の妹で、二年ほど前に行方不明になってから、手がかりが全く無かったはずだ。ここは自分が一人暮らしをしているマンションだが、なぜ行方不明になった佳奈がエプロンを着けて自分を起こしに来たのだろう。確かMOTPのアジトに潜入して、サエグサと交戦して……どうなったんだっけ……?
瀬奈がダイニングに入ると、佳奈がペーパードリップでコーヒーを淹れながら、背中越しに「なんで私がここにいるのか……って思ってるんでしょ?」と言った。瀬奈はそれには答えず、ダイニングの椅子に腰を下ろした。佳奈はテーブルに自分と瀬奈の分のコーヒーカップを置くと、瀬奈の前にだけトーストとサラダ、焼いたベーコンとオムレツが乗った皿を置いた。よく磨かれたナイフとフォークも用意されている。理想的な朝食だ。瀬奈の胃が、早くよこせと脳に指令を出している。
佳奈は瀬奈の正面に座ると、コーヒーを飲みながら瀬奈の胸元を指差した。瀬奈の着ているライトブルーのパジャマが、首から胸にかけて水に濡れて色が変わっている。
「お姉ちゃん、相変わらず顔洗うの下手だよね。子供の頃から全然変わってない」と、佳奈が言った。
「あの……」
「早く食べちゃって」
「……はい」
完全に主導権を握られている、と瀬奈はサラダを口に入れながら思った。佳奈は申し訳なさそうに食べている瀬奈をジト目で見ながら、椅子に横向きに座り、足を組んでコーヒーを飲んでいる。
「さっきの話だけど」と、佳奈が言った。「お姉ちゃん、なにも気にしなくていいからね。ちょっと混乱してるだけで、もう全部解決してるから」
「……解決?」と、瀬奈がトーストを齧る手を止めて言った。
「そう。一時的なショック状態なんだって。この前の任務が結構大変だったみたいで、ちょっとだけ記憶が混乱しているみたいなの。なんで私がここにいるのかってもう十回くらい聞かれてるから。たぶん今日も聞く気でしょ?」
瀬奈は黙って頷いた。記憶が混乱?
「今は無理に思い出さないほうがいいよ……」と佳奈が言った。
「でも私は任務で、ある組織に潜入していて……。佳奈だって、ずっと行方不明だったはず……」
「だーかーら、それもお姉ちゃんの記憶がごちゃまぜになってるだけなの。私は見ての通り無事で、この通り元気だから」
「そう……なんだ。でも、任務はどうなったの?」
「それも全部終わったの。お姉ちゃんが気にすることなんてなにも無いんだから。全部元どおりで、誰も不幸になんてなっていないの。ねぇ、そんなことよりも、朝ごはんを食べ終わったら散歩にでも行かない?」
「……うん。行く」と言いながら、瀬奈はベーコンを口に運んだ。良い感じの生焼け具合だ。
「じゃあ決まりね」と言いながら、佳奈は瀬奈の背後に回って両肩に手を置いた。ふわりと柔らかく、懐かしい香りがした。「ねぇ、ゆっくりでいいからね。お姉ちゃんは昔から頑張りすぎちゃうから、たまには息抜きしたって誰もなにも言わないから……。これからは自由に生きていいんだよ? 今までよく頑張ったよね。お姉ちゃん本当はすごく優しいのに、無理して頑張って、危険な任務をしてさ……。私がいなくて寂しい思いもさせちゃったし、本当にごめんね。今はゆっくり休んで、一緒に楽しいことをいっぱいしよ?」
じわりと、瀬奈の目に涙がせり上がってきた。胸が締め付けられ、喉の奥が締まり、瀬奈は無言で椅子から立ち上がって佳奈をきつく抱きしめた。
ずっと、瀬奈が望んでいたこと。
佳奈……と瀬奈が言うと、佳奈は瀬奈の背中に手を回した。
「お姉ちゃん……この流れも五回目くらいだからね」と、笑う佳奈の目にも涙が浮かんでいる。
「ごめんね……佳奈……ごめん……」と言いながら、瀬奈がきつく目を瞑る。閉じた瞼の間から涙が頬を伝った。
「いいんだよ……これからはずっと一緒にいようね。お姉ちゃ……」
瀬奈がハッと気がつくと、赤黒い絨毯が目に入った。戸惑いながら周囲を見回すと、そこは高級ホテルのスイートルームのような部屋だった。漆喰で塗り固められた高い天井からはバカラのシャンデリアが下がり、壁は上質なマホガニーが贅沢に使われている。部屋には礼拝堂と同じく伽羅が焚かれ、中央には四人が寝てもまだ余るような大きさの豪奢なベッドが置かれていた。枕やシーツは全て光沢のある黒いシーツで、シワひとつ無く完璧にベッドメイクされている。当然だが自分のマンションでもなく、佳奈の姿も無い。
「えっ……え……?」と、瀬奈が周囲を見回しながら戸惑う。身体に違和感があり、ほとんど自由に動かない。見ると、瀬奈は壁にはめ殺しになったX型の拘束具に両手両足を固定されていた。ボディスーツは脱がされ、下着のみを身につけた状態で磔になっていた。
「なに……これ……?」
「お試し期間は終了だ」
サエグサが瀬名の近くに置かれたソファに座ったまま、無機質な声で言った。サエグサは瀬奈を見ず、膝の上で組んだ自分の手を珍しい部品を点検するように角度を変えて見ている。
サエグサは言った。「どうかな? 君のWISH(願い)は叶ったかな? 叶ったのだろう? 何を見て、何を体験したのかは私にはわからない。だが、おそらく君が望み、真実であってほしいと常日頃願っているものが具現化したはずだ。そうだろう?」
「……佳奈? 佳奈は……どこ?」と、瀬奈は首を振りながら、呆けたようにサエグサに言った。手にはまだ佳奈の髪の感触が残っている。
「佳奈? ああ、失踪している君の妹の名前だったな。残念ながら、我々はなにも知らん。WISHが君の願いを叶えただけだ」
「なに……それ……? 幻だったの……?」
「幻ではない。現実だ。君にとってのな……。使ったWISHの量は通常の三分の一程度。正規の量を使えば、最後まで幸せな『現実』に浸ることが出来るぞ」
部屋の奥から低い笑い声が聞こえた。瀬奈が視線を向ける。部屋の奥に蝋燭の灯がともり、玉座の様な椅子に座った男の姿が浮かび上がった。サエグサが訓練された軍人のようにソファから立ち上がり、定規で測ったように玉座に向かって頭を下げる。玉座の男はでっぷりとした肥満体で背が低く、髪を剃り上げていて顔色も悪い。年齢は五十歳を過ぎているだろうか。男の着ている光沢のある白いローブが、血色の悪い顔と突き出た腹を悪い意味で目立たせていた。玉座は床から一段高い位置にあり、足元には踏み台の代わりに、がっしりとした男が四つん這いになっていた。屈辱的な姿の男はビキニのような黒い下着を履き、首輪から伸びるリードの先を玉座の男が握っている。瀬奈がよく見ると、その四つん這いの男はサジだった。玉座の男が難儀そうに立ち上がって、サジの背中を踏みつけて床に降りる。踏まれた時、サジは「ぐっ」と苦しげな声を漏らした。
瀬奈は理解が追いつかず、黙って首を横に振った。男が床に降りて瀬奈に近づくと、リードを引かれたサジが悪さをした犬の様に四つん這のまま着いてくる。
「説明も無しにすまなかったね。見ての通り、ここは私の寝室だ。自分の部屋だと思ってくつろいでもらって構わないよ。ま、その格好じゃ難しいとは思うがね」
男は下着姿で拘束されている瀬奈を見ながら低い声で笑った。「初めてのWISHはどうだったかな? WISHの正しい効果を知ってもらうためには体験してもらうことが一番早いと思って、サエグサに命じて使ってもらった。WISHは刺激が強すぎるから、初めて体験した時は、最初はみんな君のように戸惑う。あとは素晴らしい現実として受け入れるか、くだらない幻だと否定するかの二択しかない」
男は鷹揚に両手を広げて見せた。口元は笑みを浮かべているが、目は全く笑っていなかった。
「あなたが……グールー?」と、瀬奈が言った。目の前の男は、お世辞にも高尚な人物だとは思えなかった。怠惰な生活が体型に出ていて、顔つきにも精悍さが無く、駄々っ子がそのまま大きくなったような、どことなく子供っぽい印象があった。
ウニコーンさんのオリジナルキャラの瀬奈さんを主人公に、世界観や設定、ストーリーの大部分をお任せいただきました。
今後作品としてウニコーンさんが挿絵を付けて完全版として発売する予定ですが、今回私が書いた文章と制作中のイラストの掲載許可をいただきましたので、サンプルとしてお楽しみください。
第1話
第2話
第3話
瀬奈がドアを潜ると、雰囲気が一変した。
高価な伽羅香が焚かれているらしく、空気の重量が増したように感じた。天井の中心部分からは大型のシャンデリアが吊り下げられ、その周囲に埋め込まれたダウンライトが光の筋を床に落としている。壁には草食動物の頭骨が等間隔に飾られ、その下に埋め込まれた燭台がそれらを不気味に照らしていた。正面には簡素な祭壇のようなものが設えてあり、そこから出入り口に向かって木製の長机が伸びている。その長机の左右には向き合うように椅子が並んでいて、まるで広い会議室のようなレイアウトになっていた。
雰囲気はアスカが言った通り教会のようだが、おそらく幹部達がグールーを交えて打ち合わせをする場所なのだろう。西洋式で調度品は高価なものを使っているようだが、ちぐはぐな印象が拭えず、雰囲気づくり以上の意味を汲み取れなかった。そもそも西洋系の教会が主に使う香は伽羅ではなく乳香である。
瀬奈は祭壇に近づいてみた。
杢の出たマホガニーの一枚板の小さなテーブル。その上には十字架も仏像も無く、二本の燭台の間に、キログラム原器のようなドーム型のガラス容器が置かれているだけだ。中には一握りの土と、干からびたエノキタケのようなものが入っていた。
「それには触れないほうがいい」と、瀬奈の背後で低い声がした。
瀬奈が驚いて振り返ると、黒いローブを着た男が立っていた。元ボクサーの男と一緒にいた警備隊の男だ。入り口にはずっと注意を払っていたのに、どこから入ってきたのだろう。
「瀬奈さん……だったかな。私はサエグサという者だ。ここの警備隊長をしている。君が先ほど倒した男の上司みたいなものだ」と、男は落ち着いたよく通る声で言った。「それと、祭壇の上のそれはとても神聖なものでね。グールー以外、触れることを許されていないんだ」
「……これは何? それにグールーって……」と、瀬奈が言った。
「グールーは我々の指導者であり、この地上にWISHをもたらされた聖人だ。今でもその祭壇の奥の部屋で休まれている。ここはグールーのお言葉を聞き、その聖櫃の中に入っている『オリジン』を崇めるための聖域だ。オリジンは偉大なるグールーが発見されたWISHの原種でね、我々人類を未来永劫の救済に導く、奇跡の証なのだ」
「笑わせないで……この干からびた小さなキノコが救済だって言うの?」
「そうだ。WISHはその名の通り、人々の願いを具現化する効果があることは知っているだろう? 君が先ほど戦った元ボクサーの男……サジも、WISHに出会うまでは、それはそれは酷い状態だった。彼は確かに粗野な男だが、ボクシングにかける情熱に嘘は無かった。それまでは好きなように暴れて、人からは感謝されることよりも恨まれることの方が圧倒的に多かった人生が、ボクシングと出会ったことで目標が見つかったのだから。しかし、大切な試合前の厳しく辛い減量をこなす最中、彼に恨みを持っている人間にハメられた。試合前というタイミングを狙い、金で雇われた人間に理不尽な喧嘩を吹っ掛けられたんだ。まぁ、彼のそれまでの行いを鑑みれば、自業自得と言えなくもないが……。最初も彼は我慢していたようだが、もともと沸点が低い性格に減量中の鬱憤が重なり、絡んできた人間を返り討ちにしてしまった。もちろん試合は白紙になり、挙句プロ資格も剥奪され、彼は元の荒れた生活へと戻っていった。あちこちのヤクザや犯罪組織の用心棒をしながら、自らも犯罪まがいの行為を繰り返すようになってしまった。我々の組織に入るまではな」
「今と大して変わらないじゃない」と、瀬奈は身構えながら言った。
「断じて違う。我々『March Of The Pigs』は反社会的勢力ではなく、人々の救済を目的としている。サジも間接的とはいえ、MOTPを守ることで人類の救済の手助けをしているのだ。私も偉大なるグールーと出会い、このMOTPに入るまでは、彼と似たような生活をしていたから、よくわかる。もともと私は正規警察の機動隊だったが、その時の警察内部は腐敗しきっていた。今も大して変わらないだろうがな。当時から我々の部隊は、犯罪組織から金や女をあてがわれ、捜査の情報を外部に流す者が多かった……。そして、朱に染まれば赤くなると言う通り、私も似たようなことをして稼ぐようになった。世の中のためにと警察官になったはずなのに、常に心には矛盾を抱えていたよ。そのような中、MOTPに情報を横流しした際に、少しだけWISHを使わせてもらったんだ。WISHの奇跡は、それはそれは素晴らしい経験だったよ。そして、偉大なるグールーに謁見させていただき、人類救済というその崇高なお考えを知り、私はMOTPに協力するために、すぐに警察の職を辞した。私は警備隊を統べる幹部として迎えられ、そのすぐ後にサジが入ってきた。彼もWISHで、世界チャンピオンになる瞬間を何回でも味わっている。彼もまた、WISHに出会って救われたのだ。もちろん君の仲間のヤタベという男も、君が指切りをした工員の少年もな……」
「ふざけないで! 妄想の世界に逃げ込んで、なにが救いなのよ! 目が覚めたら虚しさしか残らない行為が救いだなんて間違ってる……。WISHのせいで幻覚と現実の区別がつかなくなって、錯乱して現実でも犯罪を犯してしまう人が後を絶たないのを知っているでしょう?! あんな小さな子供まで使って……あなた達は救済どころか、不幸な人を増やしているだけじゃない!」
「WISHの救済を受けていない者は、最初は皆そう言うのだ。怪しい薬物だ、所詮は麻薬だ、とね。少しは考えてもみたまえ……全ての人間に効く薬は存在しないし、ごく一部の副作用のせいで多大な効能を手放すのは愚かなことだ。そして、ここで働く子供達は全員虐待やいじめを経験し、居場所の無かった子供達だ。不登校や引きこもり、自殺未遂をした子だってたくさんいる。むしろ我々は彼らに場所と存在価値を提供しているのだ。君もWISHを使えばわかるはずだ」
サエグサはローブのポケットから、透明なビニール袋に入った緑色の粉──WISHを取り出した。「特別に君にあげよう。一度WISHの救済を受けてみるといい。そして、我々に協力してほしい。君の戦闘力と耐久力は見せてもらった。まだ荒削りだが伸び代がある。警備隊の一員として、私の下で働く気はないかね?」
「全く無いわ」と、瀬奈はきっぱりと言った。
「……残念だな」とサエグサがゆっくりと身構えながら言った。
室内の空気が更にずっしりと重くなるのを瀬奈は感じた。背中の皮膚ににピリピリとした感覚が駆け上がり、緊張を沈めるために瀬奈は大きく息を吐いた。サエグサはゆったりとしたローブを羽織っているが、それでも肩や腕が大きく発達していることがわかる。ナイフのような視線は、確かに危険な任務にあたる軍人や機動隊のそれだった。
サエグサは長机の端を掴むと、まるで手についた汚れを振り払うように横に凪いだ。何十キロあるのかわからない長机はいとも簡単に横倒しになり、壁際まで滑っていく。瀬奈とサエグサの間にぽっかりと空間が広がった。瀬奈は素早く室内を見回す。机に巻き込まれなかった椅子が四脚。まだ障害物は多い。サエグサに力では敵うとは思わないし、正規警察が来るまでの時間稼ぎとして戦闘を長引かせることも必要になるから、遮蔽物が多いこの状況は瀬奈にとって有利だ。瀬奈は手近な椅子をサエグサに投げつけた。同時にポケットから取り出した試験管からアドレナリンを増やすガスを吸う。サエグサが椅子をガードすると同時に、瀬奈は側面に回り込んで脇腹を蹴った。ヒットアンドアウェイの戦法ですぐさま距離を取る。サエグサとの距離が……離れない。え? なんで、と瀬奈が思った瞬間。目の前が暗転した。柔らかい布の感触。サエグサの脱いだローブが、瀬奈の頭から被せられていた。
「動きは悪くないが、やはりまだまだ荒削りだ」
ぐずん……という衝撃と圧迫感が、瀬奈の腹部から全身に広がった。
「ぐっぷ?!」と、瀬奈の口から濁った音が漏れる。ローブがはらりと瀬奈の頭から落ちると、瞳の焦点が定まらず、ブロワを止められた水槽の中にいる金魚のように口を開けている瀬奈の顔が現れた。
「え……げぼっ……」
「ほう、耐衝撃繊維か。しかもかなり質が良いな。圧迫以外の感覚があまり無いだろう」
サエグサは瀬奈の背中に手を回すと、力任せに拳を瀬奈の腹に押し込んだ。ものすごい力で瀬奈の柔らかい腹部を掻き分け、拳の先が背骨に触れる。
「ぎゅぶぇッ?!」と、瀬奈が身体を跳ねさせた瞬間、サエグサは拳を上に捻じ上げた。鳩尾を内部から押しつぶさえれ、喉の奥に石を詰め込まれた様な感覚に陥る。「えぶッ?! ぐ……ごぇあぁぁぁぁ!」
べしゃりと瀬奈の身体が床に崩れる。汚い音を立てながら嘔吐き、身体が震えてコントロール不能に陥った。
「ふむ、ここまで力を入れてもこの程度しか押し込めないとは。本当に良いスーツだ」と、サエグサは無様な声を上げて苦しむ瀬奈を見下しながら、顎に手を当てて努めて冷静に分析している。「どうだろう、気は変わったかね? 不必要な暴力を振るうのは趣味ではないんだ。できれば降参してもらえれば、私としてもありがたいのだが」
うずくまりながら、レベルが違い過ぎると瀬奈は思った。今まで何回も突入任務をこなし、それなりの敵とも対峙してきた。危ない目には何回も遭ったが、厳しい鍛錬の成果や仲間のサポートでいずれもくぐり抜けてきたのに……。だが、今回は逃げるわけにはいかなかった。アスカが身を呈して自分を守ってくれた。今度は自分がアスカを守る番だ。
瀬奈は笑っている膝を抑えながら、よろよろと立ち上がった。肩で息をしながら、格闘の構えをとる。時間だけでも稼がなけ──。
どぶり……という衝撃が瀬奈の鳩尾に響いた。
瀬奈が思考している最中、サエグサが瞬間移動のように瀬奈の正面に移動し、瀬奈の鳩尾を奥深くまで正確に貫いたのだ。
「ひゅごッ?!」
突然襲って来た衝撃に、瀬奈の身体が糸が切れた人形のように崩れ落ちる。サエグサは土下座をしているような格好の瀬奈の奥襟を掴み、そのまま軽々と瀬奈の身体を持ち上げた。瀬奈の足が地面から浮く。
「うっ……ぐ……ああぁッ!」
「グールーに会わせよう。その前に、粗相をしないように教育をしなければいかんな……」
サエグサは瀬奈の首元のジッパーを掴むと、一気に下半身まで引き下ろした。スーツの前部分がはだけ、弾けるように瀬奈の大きな胸と、適度に筋肉がついた腹部が露わになる。サエグサは瀬奈のスーツを大きく広げ、上半身を自分に向かって無防備に開かせた。瀬奈の汗ばんだ滑らかな肌が現れ、サエグサは目を細める。
「う……嘘でしょ……?」
瀬奈は歯をカチカチと鳴らしながら、力無く首を振った。これから自分が何をされるのか想像し、顔から血の気が引く。身体はまだまともに動かない。
次の瞬間、ぐずり……という音とともに瀬奈の土手っ腹は潰された。耐衝撃性スーツに守られていない滑らかな肌を巻き込んで、サエグサの鈍器の様な拳は瀬奈のはらわたを掻き分け、奥深くまでめり込んだ。
「ごびゅぅッ?! ぐぷッ……ぐ……ぐぶえぇぇえぁぁ!!」
まるで大型トラックがぶつかった様な衝撃だった。今まで格闘訓練で腹を殴られたことは何回もあったが、ここまでの衝撃は受けたことがない。たった一撃で瀬奈の胃は無残に潰れ、意識は脳外にはじき出された。
「げぉッ?! げッ……ぐげぁっ……」と、瀬奈は限界まで舌を出し、白目を剥いたまま唾液を撒き散らかして喘いだ。普段の明るく綺麗な顔は無残に崩れ、瀬奈と親しい者が見たら失神しそうなほどの醜態をサエグサに晒している。
「おっと……少し強かったか?」と、サエグサは何ともなしに瀬奈に聞いたが、それに答える余裕はもちろん瀬奈には無い。「これくらいなら耐えられるか?」
ぱん、ぱん、ぱん、ぱん……と、乾いた音が室内に響く。瀬奈の何にも守られていない下腹部、胃、みぞおちに、まるで一定のリズムを刻むように連続で拳が突き込まれ、その場所が深く痛々しく陥没した。
「ゔッ?! ゔぶッ! げゔッ! ごッ!? ぶふッ! がッ?! ごぶッ?! ぐッ! あぐッ! あッ! あぁッ! ゔああぁぁぁぁぁッ!」

呼吸をする暇もないほどの連打に、瀬奈は身体を反らせて悶えた。サエグサは的確に殴る場所を変え、最もダメージがあるように瀬奈の腹を嬲る。瀬奈は胃液と涎と涙を撒き散らしながら、吊るされたサンドバッグのように力なく揺れた。
死ぬ。
殺される。
明確な死の恐怖が瀬奈の脳内を駆け巡る。
どぶぅッ! という音と共に、瀬奈の身体が海老の様にくの字に折れた。
サエグサのは瀬奈の奥襟を放して、正確に瀬奈のヘソのあたりを貫いた。意識が朦朧としていた瀬奈は腹筋を固めることも出来ず、その衝撃の全てを受け入れるしかなかった。瀬奈の身体は後方にロケットの様に吹っ飛び、背中を壁に激突させて、派手な音を立てて床に倒れた。壁にかかっている頭骨が衝撃で瀬奈の近くに砕け落ち、瀬奈の身体に降り注ぐ。
「がッ……?! おッ……?! がぶッ……!」
瀬奈は両手で潰れた腹を押さえて、白目を剥きながら芋虫の様に身体を捩った。意識はすでに途切れかけていて、暗幕が降りる様に視界が狭くなる。音が遠くなり、失神する瞬間、微かにキノコの様な匂いを感じた。
「ちょっとお姉ちゃん! いつまで寝てるの?!」
突然身体の上に重石を乗せられたような感覚があり、瀬奈は「ぐぇっ」と呻きがなら目を覚ました。羽布団をはねのけて体を起こすと、漬物石がゴトンと床に落ちる。どうやら本当に重石を身体の上に乗せられたらしい。寝ぼけた目で正面を見ると、黒髪をセミロングに伸ばした女の子が腰に手を当てて瀬奈を睨んでいる。
「佳奈?!」と、瀬奈が驚いて声をかけた。
「なに言ってんの? お姉ちゃんまだ寝ぼけてるでしょ? もう、片付かないから早く顔洗って朝ごはん食べちゃってよ」
それだけ言うと、佳奈はパタパタとスリッパの音を立ててダイニングに引っ込んでいった。太陽はすっかり登っていて、ベッドサイドの時計は九時三十分を指している。少し開いた窓からは爽やかな風が部屋の中に流れ込み、瀬奈の頬を優しく撫でていた。
瀬奈は洗面所に移動して、うがいと洗顔を済ませてから鏡で自分の顔を見た。血色もよく、肌も荒れていない。なぜ佳奈がここにいるのだろう。佳奈は瀬奈のたった一人の妹で、二年ほど前に行方不明になってから、手がかりが全く無かったはずだ。ここは自分が一人暮らしをしているマンションだが、なぜ行方不明になった佳奈がエプロンを着けて自分を起こしに来たのだろう。確かMOTPのアジトに潜入して、サエグサと交戦して……どうなったんだっけ……?
瀬奈がダイニングに入ると、佳奈がペーパードリップでコーヒーを淹れながら、背中越しに「なんで私がここにいるのか……って思ってるんでしょ?」と言った。瀬奈はそれには答えず、ダイニングの椅子に腰を下ろした。佳奈はテーブルに自分と瀬奈の分のコーヒーカップを置くと、瀬奈の前にだけトーストとサラダ、焼いたベーコンとオムレツが乗った皿を置いた。よく磨かれたナイフとフォークも用意されている。理想的な朝食だ。瀬奈の胃が、早くよこせと脳に指令を出している。
佳奈は瀬奈の正面に座ると、コーヒーを飲みながら瀬奈の胸元を指差した。瀬奈の着ているライトブルーのパジャマが、首から胸にかけて水に濡れて色が変わっている。
「お姉ちゃん、相変わらず顔洗うの下手だよね。子供の頃から全然変わってない」と、佳奈が言った。
「あの……」
「早く食べちゃって」
「……はい」
完全に主導権を握られている、と瀬奈はサラダを口に入れながら思った。佳奈は申し訳なさそうに食べている瀬奈をジト目で見ながら、椅子に横向きに座り、足を組んでコーヒーを飲んでいる。
「さっきの話だけど」と、佳奈が言った。「お姉ちゃん、なにも気にしなくていいからね。ちょっと混乱してるだけで、もう全部解決してるから」
「……解決?」と、瀬奈がトーストを齧る手を止めて言った。
「そう。一時的なショック状態なんだって。この前の任務が結構大変だったみたいで、ちょっとだけ記憶が混乱しているみたいなの。なんで私がここにいるのかってもう十回くらい聞かれてるから。たぶん今日も聞く気でしょ?」
瀬奈は黙って頷いた。記憶が混乱?
「今は無理に思い出さないほうがいいよ……」と佳奈が言った。
「でも私は任務で、ある組織に潜入していて……。佳奈だって、ずっと行方不明だったはず……」
「だーかーら、それもお姉ちゃんの記憶がごちゃまぜになってるだけなの。私は見ての通り無事で、この通り元気だから」
「そう……なんだ。でも、任務はどうなったの?」
「それも全部終わったの。お姉ちゃんが気にすることなんてなにも無いんだから。全部元どおりで、誰も不幸になんてなっていないの。ねぇ、そんなことよりも、朝ごはんを食べ終わったら散歩にでも行かない?」
「……うん。行く」と言いながら、瀬奈はベーコンを口に運んだ。良い感じの生焼け具合だ。
「じゃあ決まりね」と言いながら、佳奈は瀬奈の背後に回って両肩に手を置いた。ふわりと柔らかく、懐かしい香りがした。「ねぇ、ゆっくりでいいからね。お姉ちゃんは昔から頑張りすぎちゃうから、たまには息抜きしたって誰もなにも言わないから……。これからは自由に生きていいんだよ? 今までよく頑張ったよね。お姉ちゃん本当はすごく優しいのに、無理して頑張って、危険な任務をしてさ……。私がいなくて寂しい思いもさせちゃったし、本当にごめんね。今はゆっくり休んで、一緒に楽しいことをいっぱいしよ?」
じわりと、瀬奈の目に涙がせり上がってきた。胸が締め付けられ、喉の奥が締まり、瀬奈は無言で椅子から立ち上がって佳奈をきつく抱きしめた。
ずっと、瀬奈が望んでいたこと。
佳奈……と瀬奈が言うと、佳奈は瀬奈の背中に手を回した。
「お姉ちゃん……この流れも五回目くらいだからね」と、笑う佳奈の目にも涙が浮かんでいる。
「ごめんね……佳奈……ごめん……」と言いながら、瀬奈がきつく目を瞑る。閉じた瞼の間から涙が頬を伝った。
「いいんだよ……これからはずっと一緒にいようね。お姉ちゃ……」
瀬奈がハッと気がつくと、赤黒い絨毯が目に入った。戸惑いながら周囲を見回すと、そこは高級ホテルのスイートルームのような部屋だった。漆喰で塗り固められた高い天井からはバカラのシャンデリアが下がり、壁は上質なマホガニーが贅沢に使われている。部屋には礼拝堂と同じく伽羅が焚かれ、中央には四人が寝てもまだ余るような大きさの豪奢なベッドが置かれていた。枕やシーツは全て光沢のある黒いシーツで、シワひとつ無く完璧にベッドメイクされている。当然だが自分のマンションでもなく、佳奈の姿も無い。
「えっ……え……?」と、瀬奈が周囲を見回しながら戸惑う。身体に違和感があり、ほとんど自由に動かない。見ると、瀬奈は壁にはめ殺しになったX型の拘束具に両手両足を固定されていた。ボディスーツは脱がされ、下着のみを身につけた状態で磔になっていた。
「なに……これ……?」
「お試し期間は終了だ」
サエグサが瀬名の近くに置かれたソファに座ったまま、無機質な声で言った。サエグサは瀬奈を見ず、膝の上で組んだ自分の手を珍しい部品を点検するように角度を変えて見ている。
サエグサは言った。「どうかな? 君のWISH(願い)は叶ったかな? 叶ったのだろう? 何を見て、何を体験したのかは私にはわからない。だが、おそらく君が望み、真実であってほしいと常日頃願っているものが具現化したはずだ。そうだろう?」
「……佳奈? 佳奈は……どこ?」と、瀬奈は首を振りながら、呆けたようにサエグサに言った。手にはまだ佳奈の髪の感触が残っている。
「佳奈? ああ、失踪している君の妹の名前だったな。残念ながら、我々はなにも知らん。WISHが君の願いを叶えただけだ」
「なに……それ……? 幻だったの……?」
「幻ではない。現実だ。君にとってのな……。使ったWISHの量は通常の三分の一程度。正規の量を使えば、最後まで幸せな『現実』に浸ることが出来るぞ」
部屋の奥から低い笑い声が聞こえた。瀬奈が視線を向ける。部屋の奥に蝋燭の灯がともり、玉座の様な椅子に座った男の姿が浮かび上がった。サエグサが訓練された軍人のようにソファから立ち上がり、定規で測ったように玉座に向かって頭を下げる。玉座の男はでっぷりとした肥満体で背が低く、髪を剃り上げていて顔色も悪い。年齢は五十歳を過ぎているだろうか。男の着ている光沢のある白いローブが、血色の悪い顔と突き出た腹を悪い意味で目立たせていた。玉座は床から一段高い位置にあり、足元には踏み台の代わりに、がっしりとした男が四つん這いになっていた。屈辱的な姿の男はビキニのような黒い下着を履き、首輪から伸びるリードの先を玉座の男が握っている。瀬奈がよく見ると、その四つん這いの男はサジだった。玉座の男が難儀そうに立ち上がって、サジの背中を踏みつけて床に降りる。踏まれた時、サジは「ぐっ」と苦しげな声を漏らした。
瀬奈は理解が追いつかず、黙って首を横に振った。男が床に降りて瀬奈に近づくと、リードを引かれたサジが悪さをした犬の様に四つん這のまま着いてくる。
「説明も無しにすまなかったね。見ての通り、ここは私の寝室だ。自分の部屋だと思ってくつろいでもらって構わないよ。ま、その格好じゃ難しいとは思うがね」
男は下着姿で拘束されている瀬奈を見ながら低い声で笑った。「初めてのWISHはどうだったかな? WISHの正しい効果を知ってもらうためには体験してもらうことが一番早いと思って、サエグサに命じて使ってもらった。WISHは刺激が強すぎるから、初めて体験した時は、最初はみんな君のように戸惑う。あとは素晴らしい現実として受け入れるか、くだらない幻だと否定するかの二択しかない」
男は鷹揚に両手を広げて見せた。口元は笑みを浮かべているが、目は全く笑っていなかった。
「あなたが……グールー?」と、瀬奈が言った。目の前の男は、お世辞にも高尚な人物だとは思えなかった。怠惰な生活が体型に出ていて、顔つきにも精悍さが無く、駄々っ子がそのまま大きくなったような、どことなく子供っぽい印象があった。