NOIZ立ち絵反転のコピー


 机の下は暗く狭い。
 それに床は硬い。
 吹雪が窓を打つ音が微かに聞こえてくる。
 白衣を着た男が車輪の付いた皮張りの椅子に座っている。私は机の下で膝を抱えて座っているから、白衣の男の腰から下しか見えない。男の正面に座っている女の姿も見えない。
「問題はありませんよ」と、男が言った。
 声は籠っているが、よく聞こえる。
 女は男の言葉を聞き、すするように泣きだした。女の背後にいる数人の男達が、よかった、よかったと呟く声も聞こえる。
「お嬢様に多重人格の症状は残っておりません。確かにあのような非常に強いショックはお嬢様のような年齢の子供……つまり自我がまだ未発達の状態では受け止めきれるものではありません。ですが、お嬢様は立派でした」
 当たり前だ。
 シオンは立派なのだ。
 お前などに評価されなくても私はよく知っている。
 早く話を進めろ。
 こんな狭い場所から一秒でも早く出たいんだ。
 私は軽く男の椅子を蹴った。
 男の身体が小さく跳ねる。
「今後についての提案なのですが……お嬢様へは外国へ行かれることを強くお勧めします。それもなるべく遠い国の方がよろしいでしょう」
 男はやや早口で言った。
「外国?」と、女が困惑した様子で言った。「なぜです? シオンは治ったはずでは?」
「ええ、確かに治りました。奥様が言われているノイズという人格は完全に消滅しています」
 白衣の男は低い気温の室内で汗を拭いている。
「あくまでもフラッシュバックを防ぐ保健的な処置です。テレビでは連日、事件のニュースが流れています。それに御実家はまさに事件の現場です。ほとぼりが冷め、お嬢様の人格が完成するまではこの国から離れていた方がよろしいでしょう。もちろんご家族の方とも」
 女が連れていた小さな女の子が声を上げて泣き出した。お姉様お姉様と泣きじゃくっていて、背後の男達が慰めている。
「……いつ頃まででしょうか?」と、女が暗い声で言った。
「少なくとも十八歳程度までは離れた方が良いでしょう」
「そんな……」
 早くしろ。
 私はまた男の椅子を蹴った。
 交渉は難航したが、女はようやく「私の祖母の家が日本にあります……。なるべく寂しい思いはさせたくなのいので……」と絞り出すように言った。小さい女の子はまだ泣いていた。
 女達が帰ると、私は思い切り男の椅子を蹴飛ばした。
 派手な音を立てて椅子が倒れ、男が床に投げ出される。
 私は机の下からようやく抜け出すと、スカートの埃を払って身体を伸ばした。
 壁には額装された証書が数多く飾られ、この男が精神科医の権威であることを伝えている。私は床の上に投げ出された老眼鏡を踏み潰した。
「……ノイズ様」と男が怯えた声で、両手を床についたまま言った。「これで……私の孫は助けていただけるんですね……?」
「ええ、もちろん」と私は笑顔を作って、この哀れな男に言った。男の髪の毛を掴み、目を覗き込む。「これからも『良い子』にさえしていれば──」


 シオンは暗い部屋の中で目を覚ました。
 夢?
 なにか怖い夢を見たような気がするが、よく思い出せない。
 シオンは上半身を起こして、周囲を見回した。
 そこは部屋と言うよりは、大きな箱のような空間だった。
 床も壁も黒い樹脂でできていて、窓は無い。
 とても高い天井の隅から、蓋をずらしたように一筋の光が差し込んでいる。
 どこか遠くから空調のファンのような低音が微かに聞こえてくる。
 頭を振ると、長い金髪がさらさらと床に流れた。いつのまにかツインテールに結った髪が解けてしまったらしい。
 赤い色が視線の先をちらつく。
 なんだろう……。
 違和感を感じて自分の髪の毛を掬う。
 髪の毛の一部がマダラに赤く変色していた。
「……えっ?」
 思わず絶句し、金と赤の混ざった髪をじっと見つめる。
 鮮血のような赤い髪だ。ためしに赤い毛を引っ張ってみると、頭皮に痛みを感じた。紛れもなく自分の頭皮から生えている髪だ。こんな風に染めた覚えはもちろん無い。そもそもシオンは髪を染めたことすら一度も無い。
 身体を触ると、服装はメイド服を模した戦闘服のままのだった。露出した部分の肌に傷や痣は無く、服に破れや汚れも無い。頭はすっきりと冴え、空腹も、暑さや寒さも感じなかった。
「ここは……?」
 注意深く立ち上がる。
 天井から差し込む光で部屋全体がうっすらと見えた。
 広くはない。せいぜい十畳ほどの広さだ。
 装飾や家具らしきものも一切ない。
 シオンは注意深く壁に触れてみた。
 不思議な材質の壁だ。木でもなければコンクリートでもなく、少しだけざらついた樹脂だ。
 なぜ自分はこんな所にいるのだろう。
 冷子との戦闘はどうなったのだろう。
 劣勢になった冷子の全身が触手化し、自分に絡みついてきた。そして絞首刑のように首を絞められたところまでは微かに記憶がある。
 頸動脈が締まり、徐々に意識が遠のいていき、死が迫っていることを感じた。
 ……その後は?
 もしかしたら自分は死んでしまったのだろうか。
 シオンはため息を吐いた。
 ここは何かを待つ場所なのだろうか。例えば神の審判を受け、天国と地獄に振り分けられる前の魂の待機場のようなものなのかもしれない。神の前であらゆる罪が暴かれ、それに対する罰が与えられる。あるいは善行が認められ、永遠の命を与えられる。自分はどちらなのだろう、とシオンは思った。
 不意に、誰かがシオンを背後から抱きすくめた。
 驚いたが、恐怖はなかった。背後の気配は確かな温かさを持っていた。
 ──大丈夫。
 背後の気配が言った。言葉はシオンの脳内に直接届いた。
 ──あなたは何も心配する必要は無いわ。あなたは今でも『良い子』のままよ。ねぇ、シオン? 私が全部やってあげる。辛いことや悲しいこと、苦しいことや嫌なこと、全部私が受け止めてあげる。全てが終わったら、あなたはこの世界で唯一の『良い子』になっているわ。
「でも、私は……」と、言いかけた瞬間、シオンの頭に激しい痛みが走った。まるで太い釘を打ち付けられたような痛みに、シオンは頭を押さえてその場にしゃがみ込んだ。「この状況を作ったのは全部貴女のせいなのよ?」と、冷子が自分に放った言葉が蘇った。「貴女がお父様を殺してくれたおかげで──」「父親殺しとはまた、随分と重い荷物だこと──」「我々人妖に多大な貢献をしてくれた一族の長女様だもの。その立場で人妖退治なんて笑わせるわ──」「メイドだとか奉仕だとか博愛だとか、気持ち悪い愛想を振りまいているのは無意識な罪滅ぼしのため?」「貴女を好きだった人達が貴女の正体を知ったら、どんな顔をするかしらね──」
 ──シオン、大丈夫よ。私がやったの。お父様を殺したのはあなたではなく、私がやったこと。
 見えない手がうずくまるシオンの頭に乗せられた。気配の主もシオンの正面にしゃがみこんでいるようだ。頭痛が激しすぎて、シオンは目を開けることができない。
 ──あなたは何もしていない。ねぇ? だってそうでしょう? シオンみたいな『良い子』が、お父様を殺すわけがない。そんなことありえない。大丈夫。もうすぐ全部うまくいくわ。もうすぐ全ての人間が『悪い子』になるの。だからもう少し我慢していてね。
 シオンはなにかを言おうとしたが、頭痛はますます激しくなり言葉は呻き声にしかならなかった。やがて暗幕が垂れてくるように意識が遠のいていった。

※こちらの文章はラフ書きになります。製本時には大きく内容が変わる可能性があります。