NOIZ最終決戦のコピー


 豚がホテルを出ると、玄関前に停まっていた黒塗りの高級車から男性の老人が降りてきた。年齢にしては豊かな髪を彫像のように撫で付けているので、男が小走りに向かってきても髪は少しも動かなかった。
「失礼ですが、豚様でよろしいですかな?」
 男は豚の前まで来ると、少し言いづらそうに聞いた。
「見ての通りでございます」と豚は顔に表向きの笑みを貼り付けたまま、自分の腹を数回叩いた。この男はノイズの関係者だ。邪険にしては後々面倒なことになるかもしれない。男は少しどぎまぎとしながらも「私は山岡と申します。ノイズ様の元へご案内いたします。こちらへ」と言って豚を車に導いた。世間話もしないとは随分と余裕のない男だなと豚は思ったが、山岡の用意した車は飛行機のファーストクラスを思わせるシートで、走行中も車内は恐ろしく静かだった。前方の座席とは完全に仕切られているので山岡の姿は見えないが、「二十分ほどで到着します」と車内のスピーカーを通じて伝えてきた。
 しばらく走ると、対向車線を数台のパトカーと救急車が通り過ぎて行った。マイクロバスのような護送車も後に続いている。豚はそれをめざとく見つけ、反射的に運転席との通話ボタンを押した。
「おい、今のはアンチレジストの護送車じゃないのか?」
「あ……失礼、運転に集中していたもので細部までは見ておりません」
「……いえ、こちらこそ失礼しました」
 豚は通話を切り、シートに深く腰を沈ませて長く息を吐いた。
 剃り上げた頭を手のひらで叩き、両手で顔をゴシゴシと擦る。
 なにをやっているのだ俺らしくもない。
 ノイズに呼ばれているというのに、それを無視して護送車を追えなどと言えるわけがない。そもそも山岡は俺の部下ではないのだ。命令などできるはずもない。
 スノウと朝比奈に出会ってからどうも調子が狂っている。
 腹の中を見せずに道化を演じるのだ。それが俺の渡世術のはずだ。
 顔も整形で醜く変えたし、本来必要のない食事を摂って肥満体型も維持している。あえて舐められ、豚と呼ばれてもヘラヘラし、油断した相手からしっかりと美味しいところをいただくのだ。
 対向車線をまた数台の緊急車両が通り過ぎて行った。豚は顔を覆っていた手を離すと、いつもの笑みを浮かべた表情に戻した。
「いやはやまた『人間卒業オフ』ですかな。物騒な世の中になったものだ」と豚は山岡に向かって言ったが、返事はなかった。まあいい、運転に集中させてやればいい。ネットで調べると、やはり数ブロック先のクラブで多数の負傷者が出ているようだ。護送車もアンチレジストのもので間違いない。「人間卒業オフ」で回し飲みされるレイズモルトは偽物ばかりだが、仮にも人妖が関わる可能性のある事件だ。警察は周囲の警護と負傷者の救護を担当し、現場に入るのは政府から秘密裏に依頼されたアンチレジストの仕事になっている。
 ネットを見ていると、イベント内部の様子をスマートフォンで録画した動画が早くもアップロードされていた。
 クラブの階段から逃げるように飛び出してきた参加者を、自警団のような集団が殴りつけている。半裸の女同士が髪の毛を引っ張り合いながら汚い言葉を言い合い、その奥ではクラブの客同士が殴り合いをしている。アスファルトの上に血を流した男女が浜辺に打ち上げられたイルカのように倒れていて、奥から下半身を露出した男が走ってきて撮影者に殴りかかった。この世の終わりのような映像に、豚はため息を吐いてスマートフォンの画面を消した。相変わらず世の中は馬鹿ばかりだ。
 車は首都高に乗り、都心にしては緑の多い場所で降りた。しばらく走ると赤茶色の煉瓦造りの建物が数棟見え、車はその敷地の門をくぐった。バロック様式の建物が立ち並ぶ間を縫って、車は周囲の建物とは浮いている近代的な建物の前で停まった。建物には「研究棟」と書かれたプレートが嵌め込まれている。
 豚が腕時計を確認すると、山岡の言った通りホテルを出てからちょうど二十分が経過していた。山岡が素早く後部座席のドアを開けた。長い間繰り返しているうちに無駄が削ぎ落とされた所作だ。
「お待たせいたしました。アナスタシア聖書学院です」と、山岡が豚の目を見て言った。
「おお、ここが。日本屈指の名門校らしいですな。私には一生縁が無い場所だと思っておりました」
 豚が両手を広げてわざとらしく感心した様子で言ったが、山岡は押し黙ったまま研究棟の入り口に向かって歩き出した。豚は肩をすくめてその後に続く。
 エントランスホールは大した装飾は無いが、大理石の床にナチュラルな木目の壁と、シンプルだが趣味の良い内装だった。やけに扉の大きいエレベーターが五台あり、そこから通路のようにステンレスの化粧板が嵌め込まれている。台車などを転がす際に床に傷がつかないようにするためだろう。「研究棟」という名前の通り、大型の装置や計器などを運び込むこともあるのかもしれないと豚は思った。
「これをお持ちください」と言って、山岡が無地の赤いカードと、車のスマートキーを豚に手渡した。
「申し訳ありませんが、ここからはお一人で行っていただきます」と山岡は言った。相変わらず思い詰めた顔をしている。「ここのエレベーターには押しボタンがひとつも付いておりません。かわりにそのカードを扉にかざせば、自動的にノイズ様のいらっしゃるフロアまでエレベーターが動きます。逆に言えばそれ以外のフロアには行くことができません。私がいなくても迷うことはありませんので、どうぞご安心ください」
「この車の鍵は?」と豚が首を傾げながら聞いた。
「先ほど我々が乗っていた車の鍵です。私にはもう必要はありませんので」と、山岡は表情を変えずに言った。「お手数ですが、帰りは豚様ご自身で車を運転していただきます。帰り道のナビもセットしてあります。ナビ通りに運転して、目的地で車を放置してください。私の身体はトランクにでも適当に詰めていただければ結構です」
「意味がわかりませんな」と、豚が低い声で言った。「私の勘違いでなければ、まるであなたがこれから死んでしまうように聞こえますが」
「ええ……その通りです」
「なぜ? ノイズ様がそうしろと?」
「違います。ノイズ様はいつも選択肢をくださるだけです」
「選択肢」と豚は目を細めて山岡の言葉を繰り返した。
 山岡は話を続けた。
「数日前にノイズ様と直接お会いして、最後の指示をいただきました。今日あなたをここにお連れすれば、あとは好きにしていいと……。そして小切手と薬を渡されました。小切手には余生を過ごすには十分すぎるほどの大金がサインされていて、薬は安楽死のものでした。生きるのも死ぬのも好きにしろということです」
「それならなにも死ぬことはない。いや、別に止めているわけではないんですよ。むしろ好きにすればいいと思っている。正直に言って、二、三十分前に知り合ったあなたが今からその薬を飲んで死のうが、帰り道に交通事故を起こして死のうが、私にとっては大差のないことです。ただ、単純に興味はある。大金と自殺。私にとっては選択肢でもなんでもない。本当は無理やり選ばされているのでしょう?」
「……いえ、これは正真正銘、私の意思です」
「ではなぜそんな不思議な選択をするんです? いや、繰り返しますが別に止めているわけではないんですよ。私もノイズ様に協力している端くれだ。あなたとは仲間と言えなくもないし、私にも今後ノイズ様から同じ選択肢が提示されてるとも限らない。私だったら迷わず大金を選びますがね」
 山岡はなにも答えず、ただ豚の顔を見つめるだけだった。豚は諦めたように首を振った。
「なら質問を変えましょう。どうせ死ぬのなら少し教えてはくれませんか? たとえばあなた達は──ノイズ様の部下という意味でですが、結構大きい組織なのですかな? 私は個人的に協力させていただいているだけなので、全体像が全く掴めんのですよ」
「私も同じです。十五年前から一人でお仕えしています。おそらくノイズ様は特定の組織というものはお持ちではないはずです」
「十五年も前から?」
 豚が驚いて眉を吊り上げた。
「ええ……十五年前、私はロシアで精神科医をしていました。その時にノイズ様と知り合ったのです。詳しい理由は言えませんが、ノイズ様に家族を人質に取られ、協力するように脅迫されたことがきっかけです。命じられるまま顔を整形手術で変え、日本に来ました」
「ちょっと待ってください。情報量が多すぎる。十五年前? ノイズ様はいったい今いくつなんです? 見た目からしてまだ二十歳前後でしょう。もしかしたらもっと若いのかもしれない。それに家族を人質に取られて日本に来た? あなたはいったい何者なんです?」
「……すみませんが、ノイズ様の出生に関することは私の口からは申し上げられません。ある方を守るためには、私は秘密を抱えたままこの世を去るしかないのです」
「ある方?」
「ノイズ様から与えられた任務は、ある方にお仕えすることでした。その任務は私の予想に反してとても幸せなものでした。人質に取られた家族はノイズ様とは無関係な理由で病死してしまい、私はノイズ様の命令を聞く理由がなくなったのですが、自主的に任務を続けました。その方に人生を賭けてお仕えしたいと思ったからです。しかし、その方はいなくなってしまった。ノイズ様の任務も解かれ、私には生きる理由が無くなったのです」
「よくわかりませんが、ノイズ様とその方の関係が世に出ると、その方に迷惑がかかるみたいですな」
 山岡はゆっくりとした動作で上着の内ポケットからオレンジ色のピルケースを取り出し、「失礼、喋りすぎました」と言いながらその中の小さな錠剤を飲んだ。山岡の唇が小さく動いたようが気がしたが、言葉が形になる前に山岡は眠るように床に崩れ落ちた。その死はまるで蛍光灯のスイッチを切るように、あまりにもシンプルで洗礼されていた。苦痛は全く無かったのだろう。豚は肩をすくめて首を振ると、山岡の身体を担いで車のトランクに押し込んだ。

 エレベーターは山岡の言った通り、カードキーをかざすと自動的に上昇を始めた。時折下降するような挙動をして、階数の推測すらさせないような徹底さだ。もちろん内部にも押しボタンはおろか階数表示すら無い。
 やがてエレベーターの扉が開くと、廃墟のようなフロアに出た。
 緑色の非常灯が頼りなく点灯していて、見たこともない計器や機械にわずかな光を落としている。
「なんだここは……?」と豚がつぶやいた。
 こんな所にノイズがいるのか?
 机の上や壁のあちこちが荒れていて、まるで強盗にでも入られたみたいだ。試しにデスクトップパソコンの電源を入れても反応がない。
 不意に、フロアの奥から微かな物音が聞こえた。
 配線につまづかないように注意しながら音のした方へ歩くと行き止まりで、黒いつるりとした壁があるだけだ。ゴムボールがコンクリートの壁に当たるようなくぐもった音はその壁の向こうから聞こえてくる。
 豚が壁に顔を近づけた。
 磨き上げられたような黒い壁は豚の顔を鈍く反射している。向こうから壁を叩く音がまた聞こえた。壁の向こうになにかいる。豚がさらに顔を近づけると、突然壁が透明になった。
 ガラスのようになった目の前の壁に、内臓のような物体がへばりついていた。
 一瞬、それが何なのか理解できなかった。
 やがて内臓のような物体が壁をずるりと伝って落ちると、向こう側が鮮明に見えた。
 強い照明に照らされた正方形の部屋に、二メートル近い肉塊が蠢いている。
 それは豚の姿に気が付いたらしく、全身から触手のような物を次々と生やして豚に放った。
 透明な壁に触手が当たる度に、ぼっ、ぼっ、と鈍い音が聞こえた。触手は壁に当たってグロテスクに広がる。目の前の光景に反して異様に音が小さいことがかえって不気味だった。
「うわああああぁッ!」
 あまりのおぞましさに、豚は腹の底から叫び声を上げて尻餅をついた。
 強い吐き気も込み上げてきて、豚は反射的に床に向かって胃の中身をぶちまけた。
「大丈夫ですか?」
 えずいている豚の頭にノイズの声がかかった。いつの間に現れたのだろう。豚は口周りを汚したまま反射的に顔を上げた。毒の花のような赤いジャケットを身に纏ったノイズが豚を見下ろしている。
「ノ、ノイズ様……!」
 豚は慌てて立ち上がろうとするが、膝が笑ってしまい再び尻餅をついた。
「そのままで構いませんよ。この特殊樹脂が破られることはありませんので安心してください」
「こ、この化け物はいったい……?」
「まぁ化け物だなんて。ご挨拶してはいかがですか? 二ヶ月ぶりの再会なんですから」
 豚が目を見開いて化け物に視線を移した。
 よく見ると、肉塊だと思っていたものはうずくまった人間のような形をしている。
「……三神?」と、豚の口から声が漏れた。
「ええ。脳の組成がかなり変質しているので、もはや自分が人間だったことも覚えていないでしょうけれど」
「……こ、この姿は? 三神になにがあったんです?」と、豚が絞り出すように言った。変わり果てた三神はまだ中で蠢いている。確かに意思があるとは思えないし、むしろ無い方が幸せなのだろう。
「拒絶反応です。レイズモルトに混ぜた薬剤の拒絶反応を意図的に起こしてみました」とノイズが折り曲げた人差し指を唇に当ててクスクスと笑いながら言った。「面白いでしょう? 人間を人妖に造り替える薬剤は効果が不安定で、一定数このような拒絶反応が発生していたようです。調整して完全に無くすことも出来たのですが、なかなか興味深いのでコントロール可能にした状態で残してみました。著しい変貌と筋力の異常増加、意思や思考の喪失、攻撃性の増幅……。役に立つこともあるかもしれませんよ。たとえば彼のように全国に指名手配されてしまっても、この姿では誰も彼だとは気が付きませんし」
 豚は不意に笑いが込み上げてきた。豚は顔を歪めて狂ったように笑い、なぜ自分が笑っているのかもわからないまま笑い続けた。自分の笑い声が壁に反響して豚の耳に届き、その笑い声で豚はさらに笑った。理解の範疇を超えた大きな脅威を前にした際には──たとえば地球が割れるほどの隕石が目の前に迫ってくる瞬間には、あるいはこのように笑うのかもしれない。
 ノイズが神なのか悪魔なのかはどうでもいい。
 想像以上だ。
 理解の範疇を超えた存在だ。
 絶対に離すまい。
 なにがあっても、とにかくこの恐ろしい存在に取り入っていれば、自分自身が脅かされることはないと豚は思った。意地でも取り入って、道化を演じながらこぼれてくる美味い汁を啜るのだ。
「す、素晴らしいッ!」
 豚は床に両手をついて唾を飛ばしながら叫んだ。
「先の電波ジャックで人妖になった人間どもが一斉にこのように変異すれば、社会は更に大混乱になるでしょう! ノイズ様が目的とされている混沌は早くも現実のものとなります。今後ともぜひ、私めにお手伝いさせてくださいませ!」
「まぁ心強い。では、そろそろ計画を最終段階に進めましょう」
 ノイズは豚に視線の高さを合わせるようにしゃがみ込み、豚の頬を両手で包んだ。「それと、あなたにご褒美を差し上げなければ」
「ご、ご褒美ですか?」
「ええ、今までよく働いていただいたので、二つのご褒美を差し上げます」と言いながら、ノイズは口の端を吊り上げた。「アンチレジストに随分とご執心の方がいらっしゃるようですので、次の段階で出会いのチャンスを作って差し上げましょう」
「そ、それは願ってもない!」と豚が声を張った。スノウと朝比奈の顔が浮かぶ。「それで、次の段階というのは……?」
「具体的な方法は後ほどお伝えしますが、準備はもう整えてあります。あなたはただ役割を演じていただければ結構です。決行は三日後。仲間を集めておいてください。アンチレジストにも情報を流しておくので、必ず邪魔をしに来るでしょう。ちゃんとあなたの目当ての子がそちらに行くように仕向けますので、楽しんでくださいね」
 豚は激しく頷いた。朝比奈とスノウを蹂躙している光景が脳裏に浮かぶ。豚の男性器が激しく勃起していることがスラックスの上からでもわかった。
「あともうひとつ──」と言いながらノイズが人差し指を立てた。そのままジャケットの内ポケットを探り、透明な液体の入った試験管を豚の目の前に取り出した。「レイズモルトに混ぜた、人間を人妖に造り替える薬。差し上げますので飲んでください」
「な……」
 豚は絶句した。
 背後ではまだ三神の成れの果てが蠢いている。ノイズはまるで耳まで裂けたかのように口の端を吊り上げた。
「安心してください。人妖のあなたが摂取してもあのような拒絶反応は起こりませんし、効果は肉体の強化のみです。アンチレジストの方とより楽しめると思ったのですが、不要であればこのまま捨ててしまいます。どうなさいますか?」
 ──ノイズ様はいつも選択肢をくださるだけです。
 不意に豚の脳裏に山岡の言葉が蘇った。
 拒否などできるはずがない。
 なにがあっても取り入ると、ついさっき決めたはずだ。
 豚は両手を上に向けてノイズの前に差し出し、恭しく試験管を受け取った。

「くそっ……一足遅かったか」
 美樹がバイクを駆ってアナスタシア聖書学院の門をくぐった時、研究棟の中腹から火の手が上がっているのが見えた。火元はおそらく冷子の研究室がある階だろう。スノウの話を聞いてから先遣隊としてすぐに出動したが、ノイズが感づいて火を放ったようだ。
 他の者は護送者で来ているため、渋滞に巻き込まれて到着まであと二十分はかかる。ひとまずバイクを停めて後続の綾たちに連絡しなければと美樹が思った瞬間、バイクの側面に強い衝撃が走った。バイクが横転し、美樹の体が車道脇の芝生に投げ出される。なにが起きた? 受け身をとったためダメージは少ない。視界を確保するために素早くフルフェスのヘルメットを取った。
「やっと二人きりになれましたねぇ。『悪い子』の美樹さん?」
 ぞくりとする声が聞こえた。
 倒れた姿勢のまま、声のする方に視線を向ける。
「……ノイズ」と美樹が静かに言った。だが次の瞬間、美樹はノイズの足元に釘付けになった。両手足を拘束された小柄な女の子が倒れている。目と口も布で塞がれているが、呼吸はしているようだ。その女の子はアナスタシア聖書学院の制服を着ていて、特徴的な桃色の髪の毛をしていた。
「久留美……?」と美樹は呟くように言った。目の前の状況が理解できない。
「ええ。シオンのふりをして連絡したら、すぐに来てくれました。健気にもシオンと美樹さんの役に立ちたいと言って、何の疑いもなく」
「貴様、久留美になにをするつもりだ!?」
「まぁ怖い。随分とこの子を気にかけているみたいですねぇ」
 美樹がノイズに飛びかかるが、ノイズは美樹の視界から消えていつの間にか背後に回っていた。
「もっと素直になってください。もう『良い子』のフリをするのはやめにしませんか? 本当のあなたを解放してあげます」
 ノイズが美樹の背中を蹴った。美樹の体が転がる。ノイズが久留美の頭を足で軽く踏み、赤色と金色の混ざったツインテールを手櫛ですいた。
「もしもこの子が死んでしまったら、さぞショックを受けるでしょうねぇ、美樹さん?」
「……なんだと?」と、美樹が低い声で言った。紫色の瞳が暗く光る。
「そう、その目です。この世の全てを憎んでいる目。あなたが養父と出会う以前は、きっとそんな素敵な目をしていたんでしょうねぇ」と言いながら、ノイズは折り曲げた人差し指を口に当ててクスクスと笑った。「すみません、少し美樹さんのことを調べさせていただきました。もう無理しなくていいんですよ? あなたはきっかけが欲しいだけ。あなたの奥に流れる暗い血が表に出たがっている」
「意味のわからないことを言うな!」
「これでも親近感を抱いているんです。美樹さん、過去は決して消えないんですよ。いくら油絵具を厚く塗り重ねても剥がせばちゃんと元絵が存在しているように、画家ですら忘れている元絵であっても決して消えるということはないんです。上からどんなに綺麗で優しい思い出を塗り重ねても、凄惨な過去は決して消えることはないんです。シオンにとっての私のように、幼少期の頃の美樹さんのように」
「あいにく私は今の状況に満足している。昔のことを今さら蒸し返して何をするつもりもない。それはシオンも同じはずだ。とっとと引っ込んでシオンにその身体を返せ。久留美の頭から足をどけろ!」
「もちろん全てが終わったらシオンに身体は返します。もうすぐ全ての計画が終わりますので」
「……計画? シオンの身体を乗っ取ることが目的じゃないのか?」
 とんでもない、とノイズは肩をすくめて言った。「でもその前に、本当の美樹さんを開放してあげます。たとえばこの子を殺した私を恨むなんてどうです? あなたはきっと私を殺しに来る。『良い子』の仮面を外して、怒りと復讐に塗りつぶされた『悪い子』の素顔のままでいられますよ?」
 美樹が恐るべき速さでノイズに向けて走った。レッグホルダーから折り畳み式のトンファーを抜いてノイズに迫る。ノイズは避ける素振りが無い。顔付きは全く違うが、やはりシオンと同じ顔だ。ノイズの顔面を目掛けて突くが、直前で狙いを胴体に変える。伸ばしかけた美樹の腕にノイズの脚が蛇のように絡み、美樹の完全に動きが止まる。こんなガードは今までされたことがない。ノイズは軸足を蹴って飛び、美樹の頭に巻きつくような跳び回し蹴りを放った。
 衝撃に美樹の脳が揺れる。視界が歪んだ瞬間、ノイズが太ももで美樹の頭をがっしりと挟み込んだ。
 美樹がしまったと思った瞬間には遅かった。
 ノイズが身体を捻り、美樹の頭頂部が地面に叩きつけられた。
 脚だけで、ものの数秒で制圧されたと美樹が思った瞬間、ふと視界が暗くなった。跳躍しているノイズが月を隠している。羽が生えたようにふわりと、ノイズの身体が空中で回転している。シオンと同じ、思わず見惚れてしまうような動きだと思った。直後に、ぞわりとした感覚が美樹の背骨を駆け上がった。あの跳躍はシオンの攻撃の前段階だ。濡れた闇のような真っ黒いドレスを翻したまま、口が耳まで裂けたように笑うノイズと目が合った。
 ノイズの膝が、仰向けに倒れている美樹の腹に落下した。
「うぐぇあッ?!」
 ノイズの膝と地面に挟まれ、美樹の身体が電気ショックを受けたように跳ねた。
 跳躍と回転の勢いで数倍の衝撃になったノイズの全体重が美樹の腹に落ちてきたのだ。
「ダメですよ手加減なんかしたら。本気になっていただくには、やはりあの子を使うしかなさそうですねぇ」
「ま、待て……」
 去ろうとするノイズに美樹が倒れたまま手を伸ばす。身体が彫像になってしまったように動かない。
 ノイズの前の車道にはいつの間にか大型の高級車が停まっていて、スーツを着たロシア人の男性が久留美を後部座席に押し込んでいる。
「──三日後、クラシックでも聴きに行きましょうか?」とノイズが美樹を振り返って言った。
「……クラシック?」
「それまで大人しくしていることです。あの子にも手は出しません」
 美樹を呼ぶ声が背後から聞こえた。綾が走りながら叫んでいる。その後にスノウや朝比奈の姿も見えた。そのまま美樹の意識は深く沈んでいった。

NOIZ最終決戦のコピー


※こちらの文章はラフ書きになりますので、製本時には大きく内容が変わる可能性があります。