「美樹さん! しっかりしてください! 美樹さん!」
綾が美樹の肩を揺り動かしながら叫ぶと、かすかにうめき声を上げた。スノウが一瞬心配そうな視線を送るが、振り切ってノイズの方に走った。綾が叫ぶが、スノウは止まらない。ノイズと単独で対峙させるわけにはいかないので、綾は朝比奈に美樹を託してスノウを追いかけた。
「お姉様!」
スノウが息を切らしながらロシア語で叫ぶと、ノイズは振り返って口元だけで笑った。
「あらスノウ、やっと私のことも姉だと認めてくれたの?」
ノイズもロシア語で答えた。スノウが首を振りながらなおも叫ぶ。
「お姉様……! お願い、目を覚まして! そんな奴に負けないで!」
スノウの悲痛な叫びに呼応するかのように一瞬強い風が吹いた。震える手を必死に押さえながらノイズを睨みつける。
「……いい加減にしてよ。お姉様の身体を乗っ取って人妖の味方をして……いったい何が目的なの?!」
「人妖の味方だなんてとんでもない」と言いながらノイズが首を傾げた。「私はただシオンを『良い子』にしたいだけ。人妖を利用しているのは単に都合が良かっただけよ。シオンが『良い子』になったら、ちゃんと起こしてあげる」
「お姉様はもともと『良い子』でしょ。あんたの手助けなんか必要ない!」
「でも完全ではないわ。可哀想なシオン……私がお父様を殺してしまったばかりに、シオンの完全さは失われてしまった」
スノウが激しく首を振る。
「だからそれは事故として解決済みなのよ! とても悲しい出来事だったけれど、私も家族も全員納得しているわ」
「納得していない子が一人だけいるでしょう?」と言って、ノイズは自分の頭を人差し指でトントンと叩いた。「この私が存在していることが何よりの証拠……。私がいるからこそシオンは自分を保つことができている」
ノイズの姿が消え、一瞬でスノウの眼前に現れた。
瞬間移動をしたかのような動きにスノウは肩を震わすことしかできず、蛇に睨まれた蛙のように体が硬直する。
ノイズがスノウの震える顎を人差し指と親指で挟んだ。
「シオンの意味は古代ヘブライ語で聖域……。それは賛美歌で満ちる一切の汚れの無い空間でなければならない。聖域の内部や外部のノイズは、全て私が持っていく」と言いながら、ノイズはスノウの目を上から覗き込むように顔を近づけた。「あなたたち家族は罪の意識に苛まれているシオンになにをしてあげたの? ラスプーチ家を名乗らせず、家を追い出して遠い日本に追いやっただけでしょう? だから私が救ってあげることにしたの。大好きなシオンを、父親殺しという罪を背負ったシオンを救うのは簡単。救世主にすればいいのよ。世界中の人間がシオンを崇拝するようになれば、父親殺しなんて取るに足らない些細なことになる」
「救世主……? あんたまさか……そのために人妖を使ったテロを……?」
「さすがスノウ。シオンに似て聡明だわ」と言いながら、ノイズは笑って首をかしげた。「救世主を作る材料はふたつ。恐怖による混沌と、それに対する救済。人間と見た目で区別がつかない怪物なんて、混乱と恐怖をもたらすには最適な材料。あの孤児院の地下で人妖たちが中途半端に研究を続けていたおかげで、人間を人妖に作り替えるレシピは簡単にできた。もちろんその逆の薬もね──」
風を切る音が聞こえ、綾が弾丸のように飛び込んできた。一瞬早くノイズの姿が消え、綾の拳は空を切った。
「落ち着いて。何を言われたの?」と、綾が囁くように聞いた。肩に手を置くとスノウの身体がビクッと跳ねる。蒼白の顔色だ。綾の手にはスノウの震えが伝わってくる。
「……ノイズはお姉様を救世主にするために、無差別に人妖を増やしていたの」
「救世主? どういうこと?」
「ノイズは人妖を増やすことが目的じゃない……誰が人妖かわからない状況を作り出して、世の中の混乱が頂点になったところで、人妖を人間に戻す薬をお姉様に発表させるつもりよ……。お父様の事故を覆すために……。ノイズは無関係な人間をたくさん……私たち家族のせいで……!」
うっとスノウがえずき、口を押さえてうずくまった。
「まぁ綾さん。お腹の怪我はもういいんですか?」少し離れた場所でノイズの声がした。顎をさすりながらクスクスと笑っている。「内臓が破裂しないように手加減して差し上げたのですが、もう少し強くしてもよかったみたいですね」
綾がノイズを睨んだ。
「あんた、そんなことのために無差別なテロを起こしたの? 人妖だと疑われた人間が殺される事件だって起きているのよ!?」
「そんなことだなんてとんでもない。人間の価値は等しくはありません。価値の低い大衆が多少犠牲になることでシオンの価値が回復できるのであれば安いものです。亡くなった方も喜んでいることでしょう。ほんの僅かでもシオンの役に立ったのですから」
「お姉様はそんなこと望んでない!」
スノウがうずくまったまま叫んだ。
「お姉様が人の死を望むわけない! たとえお姉様が私たち家族を恨んでいたとしても、あんたのふざけたやり方でお姉様が喜ぶわけない!」
スノウの絶叫に、その場の全員が押し黙った。
ノイズの背後のスーツを着た男性は久留美をトランクに押し込んだ後は彫像のように動かない。ノイズから命じられるまでは微動だにしないロボットのような男なのだろうか。しばらくしてようやくノイズがふふ……と笑うと、それなら本人に直接聞いてみたらと言って顔を手で覆った。
スノウが目を丸くした。
ノイズの身体がびくんと大きく震え、糸が切れたように首から上の力が抜けた。そのままの姿勢で五、六秒静止した後、ゆっくりと顔を上げる。ノイズの雰囲気や表情がまるっきり変わっていた。長い麻酔から目が覚めたように、ここがどこかわからないといった様子で周囲を確認する。瞳は下半分の赤い部分は無くなっていた。
「えっ……? ここ……は?」
シオンの声だった。黒いレースの手袋に包まれた自分の手を、まるで新しく手渡された未知の道具のように見つめている。状況が飲み込めない様子で、手のひらを口に当てたままキョロキョロと周囲を見回している。
スノウが震えながら息を吐くと、大粒の涙が溢れた。
「お……お姉……様……? お姉様なの?」
スノウが震える声で言った。よろよろとシオンへ足を進める。
シオンもこちらを見て「……スノウ?」と言った。
スノウが声を上げながらシオンに駆け寄った。まるで母親を見つけた迷子の子供のように、普段の強気なスノウからは想像もできないほど感情を露わにした姿だった。背後で綾が止まるように叫ぶ。シオンが状況を飲み込めないまま、駆け寄ってきたスノウを抱きとめた。
「ど、どうしたのスノウ? なんでここに……?」
「お姉様! お願い……! このまま目を覚まして!」
「なに言ってるの? ちゃんと起きてるから──」
困り笑いのような表情を浮かべるシオンに対して、スノウは激しく首を振った。
「違う! お姉様、私たちを許して!」
スノウが叫ぶようにしながらシオンの胸に顔を埋めた。
「私たち家族は誰もお姉様を責めていない! 私たちが悪かったの! だからあんな奴に頼らないで──!」
「スノ──」
カチッと音がしてスイッチが切れたように、シオンの表情が消えた。能面のような無表情になり、瞳だけが人形のようにぐりんと裏返える。瞼の裏から瞳が戻ると、綺麗なエメラルドグリーンの下部から血のような赤色がぶくぶくとせり上がってきた。能面が外れて残虐な笑みが貼り付く。まるでホラー映画の演出だ。ノイズに抱きしめられたままのスノウの喉からひいっという悲鳴が漏れる。
時間切れです──とノイズが言った。
ぐぢゅり……という嫌な音が響く。
ノイズの膝が密着していたスノウの腹部を容赦なく潰していた。
「おね……さ……うぶおえぇッ?!」
発作が起きたようにスノウの身体が跳ね、額を地面に打ちつけた。
「安心していいのよ」と、土下座をするような姿勢で呻いているスノウの後頭部に向かってノイズが言った。「シオンは優しいから、誰かを嫌いになることはないわ」
綾が高速でノイズに突進し、脇腹を目掛けて拳を放つ。
ノイズは膝で綾の拳を受け止めた。そのまま脚が蛇のように綾の腕に絡みつこうとするが、綾はギリギリで振り解く。ノイズの姿が綾の視界から消えた。どこだ? また死角の中を移動しているのか? 綾の足元から噴き上がるようにノイズの腕が伸びてきた。綾の喉ががっしりと掴まれる。ノイズの長い爪が頸動脈に食い込み、グッと綾の喉が鳴った。気温の低さに反して綾の頬を一筋の汗が伝う。おそらく数センチでも動けば爪が皮膚を破り、血管を切り裂くだろう。
「これでも感謝しているんですよ? シオンと仲良くしてくれて」
鋭い緊張が走る中、鼻が触れるほどの距離で綾の目を覗き込みながらノイズが言った。
「シオンは友人が少ない子でした。周囲と能力が違い過ぎて自然と距離を置かれてしまう宿命だったんです。でもあなたや美樹さんは他の人と変わらず友人として接してくれた」
「だからこそよ……。暴走を止めるのも友達の役目なんだから、絶対にシオンさんを人妖を使ったテロリストなんかにさせない」
綾が言い終わる前に、ノイズの膝が綾の腹に埋まった。内臓が迫り上がるような苦痛が綾を襲い、回し蹴りで脇腹を横に薙がれる。綾は樹木に強かに背中を打ちつけた。
「おぐッ!? がッ!」
悲鳴を上げ、ずるずると尻餅をついた。
ノイズが綾に近付き、セーラー服のリボンを掴んで強引に身体を引き起こす。そのまま剥き出しの腹部に再度膝を埋めた。
「うっぶぇッ?!」
「勘違いしないように。世の中を混乱させるのは私。シオンは関係ありません」
笑みの奥に確かな怒りを感じる。ノイズは狂っているわけではない、歪んでいるだけだと綾は確信した。ノイズから社会に対する敵意や悪意は感じない。ただ純粋に──それがどんなに歪んでいようとシオンのことのみを考えて行動している。だからこそ他者や社会に対して容赦がないのだ。そしておそらく自分自身にすら興味がないのだろう。狂っているのであれば多少なりとも自分の欲が出てくるはずだが、ノイズからはそれが感じられない。だからこそ厄介だ。悪意だと気がついていない悪意ほど恐ろしいものはない。
「へぇ……あんたにも感情あるんだ。シオンさんを悪者にすることが目的の悪党だと思ったわ」
鳩尾にノイズの膝が飛んできた。
重い鈍器のような衝撃に綾の意識が一瞬飛ぶ。
「勘違いしないようにと言ったはずです。シオンは関係ないと」
「げほっ……! 関係ない訳ないでしょ? あんたがシオンさんの身体を利用している以上、結果的にはシオンさんがやったことには変わりないのよ。世の中の混乱も、人間同士の殺し合いも、全部シオンさんが──うぐぇッ?!」
背骨に達するほどの衝撃で膝を埋められ、綾は濁った悲鳴を上げた。そのまま二発目、三発目が綾の腹を抉る。容赦の無い一撃に綾はたまらず胃液を吐き出した。内臓が痙攣し、太ももから下が無くなったような感覚に陥る。ノイズがセーラー服のリボンをつかんでいなければ顔面から崩れ落ちていただろう。ノイズが長く息を吐きながら、舌を伸ばして綾の頬を舐め上げた。蠱惑的でありながら肉食獣を思わせる動作で、綾の背中を電流が駆け上がる。
「──好きな花を教えていただけますか? 墓前に供えてあげます」
ノイズが綾の耳元で囁く。だが次の瞬間、朦朧とした表情でされるがままになっていた綾の口角が上がった。
ノイズが訝しむが、ハッと気がついて背後を振り返る。
スノウが跳躍して前方に宙返りしていた。
綾が渾身の力でノイズの身体に抱きついた。スノウが叫びながらノイズの脳天に踵を落とす。「ぐぅっ」という低い声でノイズが呻いた。頭を押さえたまま距離を取るが、綾が追いかけて気合と共に渾身の力でノイズの腹部に拳を突き込んだ。
「おッご!?」
初めてノイズの悲鳴を聞いた。ぬめりを帯びた闇のようなドレスの裾が翻り、白色のレオタードがそれを切り裂くようにスノウが突進した。ノイズの姿が消え、スノウの蹴りが空を切る。上空で葉擦れの音。いつの間に移動したのか、ノイズが大型の鳥のように樹木の枝に留まっている。
「……ノイズ」とスノウが辛そうな表情をしたまま静かに言った。ノイズの攻撃によるダメージと無理に動いた反動が小さな身体に負担をかけているが、懸命に留まっている。「お願い、こんなことはもうやめて。あんただってお姉様が好きなんでしょ? お姉様に喜んでもらうために行動してるんでしょ? でもこんなやり方は間違ってるし、お姉様は絶対に喜ばない。一番近くでお姉様を見ていたあんただったらわかるでしょ?」
ノイズは微かに眉間に皺を寄せた後、耳まで裂けるように口角を吊り上げた。
「──いいでしょう。どちらにせよシオンと私の関係を知っている人間は全員始末するつもりでしたし、美樹さんには予定を変更して少し早く壊れてもらいます」
「美樹さんを……? どういうことよ」
綾が歩み出た。風が枝葉を揺らしている。「ノイズ!」とスノウが悲痛な声で叫んだ。
「マーラーの交響曲第九番。ゆっくりと死に向かうような、とても美しい楽曲があります。三日後のサントリーホールで演奏されますので、美樹さんと会いたければ来ることです。もっともその頃には美樹さんは元の『悪い子』に戻っているでしょうけれど」
はっとしてスノウが背後を振り返った。表情がみるみるうちに絶望に塗りつぶされる。美樹と朝比奈の姿が無い。アンチレジストの護送者ごと消えている。スノウが綾の上着の裾を引っ張ると、綾も事態を把握した。
では三日後……という声が聞こえ、スノウと綾が頭上を見るとノイズの姿は消えていた。
※こちらの文章はラフ書きになりますので、製本時には大きく内容が変わる可能性があります。