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 建物の三階分はあろうかという吹き抜けの天蓋から、ステンドグラスを通した月明かりが虹色の影を落としている。
 等間隔に並んだ長椅子のうちのひとつで美樹は目を覚ました。
 正面にキリストの磔像がある。
 場所はすぐに把握できた。
 アナスタシア聖書学院の礼拝堂。美樹にとって馴染み深い場所だ。日曜礼拝にはよくシオンと一緒に参加して、帰りにショッピングやカフェに寄ることが常だった。他宗教の礼拝に関して養父に相談したこともあったが、神道はそもそもが八百万の神を相手にしているので今さらキリストひとり増えたところで大した影響はあるまいと養父は笑って許してくれた。
 昼間とは違い、灯のない礼拝堂のなんと寒々しいことか。
 そして久留美はどこに行ったのだろう。
 綾たちも駆けつけたはずだが、姿が見えない。
 まるで生物が全て死に絶えたように、物音は全く聞こえない。
 長椅子から起き上がると、美樹は白く息を吐いた。
 冷え切った空気が、まるで巨大な生物が静かに眠りについているように礼拝堂の中に横たわっている。
 お目覚めのようで、と磔像のあたりから声が聞こえた。キリストの左腕にノイズが座っている。咄嗟に美樹が身構えた。腹部にはまだ鈍い痛みがあるが、それ以外に身体に異常は無い。やろうと思えば失神している間に腱や骨を断つことができたはずだ。
「……意外だな。てっきり手錠でも嵌められているのかと思ったぞ」
「必要ありません。手錠など嵌めなくても、美樹さんは既に多くの枷に拘束されているのですから」
 ノイズがドレスの裾を翻して、ふわりと床に降りた。羽が地面に落ちるが如く無音だった。
「なんの話だ?」
「自覚はあるのでしょう?」
「私は枷など嵌められていない」
「嘘です。現に私に対して本気を出せていない。私がシオンと身体を共有しているからでしょう? そんな状態で誰かを守るなど、寝言にもなりません」
 ノイズは手を後ろに組み、前屈みになって値踏みするようにクスクスと笑っている。
「美樹さんが気を失っている間に、私は何回久留美さんを殺せたと思っているんです? お姫様がピンチの時にすやすやと寝ているナイトなど……」
 美樹の身体から剣呑な雰囲気が湧き上がってきた。
「返す言葉もない。だがお前が久留美に手を掛けるメリットは無い。相手なら私がする。すぐに久留美を解放しろ」
「メリットならあるじゃないですか。美樹さんの枷を壊すために、久留美さんはとても役に立ちます」
 正面からノイズの姿が消え、背後からすっと伸びてきたノイズの爪が美樹の首をなぞる。
「ほら、こうして簡単に後ろが取れる。今の美樹さんを相手にしてもなにも面白くありません。私を止めたいのなら、私を殺すつもりで来ていただかないと」
 ノイズが人差し指で美樹の顎を持ち上げ、磔像の方に視線を向けさせる。美樹の喉が鳴った。キリストの裏で久留美が磔になっている。顔や身体はよく見えないが、特徴的な薄桃色の髪が見える。
「……なぜ私に固執する?」
「人の価値は等しくはないからです。人の価値は経験の蓄積。良い経験にしろ悪い経験にしろ、振れ幅が大きいほど人間として深みが生まれます。その点、美樹さんは素晴らしい。幼少の頃に実の親に捨てられ、孤児院を出た後はそれは酷い生活をしていました。綾さんやシオンが昔の荒れていた頃の美樹さんを知ったら、怖くて泣いてしまうかもしれません。ですが養父に迎え入れられてからはたくさんの愛情を受け、今の『良い子』の美樹さんになりました」
「何が言いたい?」
「『良い子』はシオンだけでいいんです」と、ノイズが底冷えするような低い声でささやいた。「美樹さんも今のままでは窮屈でしょう? 私は本当の美樹さんが見てみたい。私が目の前で久留美さんを殺せば、本気で私を殺しにきてくれますよね?」
「きさ……!」
 美樹が振り返る寸前にノイズが手に力を込める。長い爪が喉笛に食い込み血が滲んだ。だが美樹は気にせず手甲をはめた拳を繰り出した。ノイズがしゃがみ、美樹の裏拳は空を切る。美樹は攻撃をやめない。素早く太もものホルダーからトンファーを抜き取り、ノイズのこめかみに向けて振り下ろした。その腕にノイズが飛びつく。プロペラのように美樹の腕を支点に回転し、逆に美樹のこめかみに踵を叩き込んだ。
 美樹の視界がぐらりと揺れるが、強引にノイズを抱き抱えるようにして掴むと、そのまま裏投げの要領で肩越しに投げた。
 くふっ、とノイズが笑う。
 投げられる瞬間に床を蹴ってバク宙の要領で投げを躱して着地すると、バランスを崩した美樹の喉に噛み付いた。
「がぁッ?!」
 予想不可能のノイズの動きに美樹が悲鳴を上げる。ノイズはそのまま美樹の上着を掴むと、自分に引き寄せるようにしながら膝で腹を突き上げた。
「ゔぶぉッ!?」
 完全な形で膝蹴りを決められ、美樹の視界が歪む。だがノイズの攻撃は止まらなかった。美樹に喉輪を食らわせると壁まで滑るように移動して美樹の背中を叩きつけた。礼拝堂全体が揺れるような衝撃が響く。ノイズは美樹の体を壁から引き剥がすと、同じように反対方向の壁まで移動する。再び礼拝堂全体が震えた。
 ノイズが甲高く笑ながら美樹の腹に連続して膝を埋めた。
 壁に磔にされた状態で、何発も何発も腹を抉られる。
 しかもその一撃一撃が的確に美樹の急所を貫いた。
 たまらず美樹の口から胃液が飛び出した。ふと、美樹の頭上に細長い影が伸びる。ノイズが長い脚を頭上に掲げていた。しまったと美樹が思った瞬間に、ノイズの踵が杭を打つ槌のように美樹の脳天に振り下ろされた。
 床に崩れ落ちながら美樹は必死に身体を起こそうとするが、脳震盪を起こしているのだろう、自分の身体が銅像になったかのように動かない。
 美樹の脳裏に、走馬灯のようにシオンとの思い出が浮かんだ。
 美樹が入学したての頃、まだ他人を信用しきれていない時に声をかけてくれたこと。
 徐々に打ち解けてシオンの家に招かれた時、実は自分も人付き合いが苦手で同じような雰囲気を感じた美樹に声をかけたと打ち明けてくれたこと。
 アンチレジストの訓練でばったり会ってお互い驚いたこと。
 カフェやテーマパークで遊んだこと。
 数えきれないほどの思い出があり、今の美樹を形作っているものとして養父の次に影響があった人物は間違いなくシオンだった。
 そのシオンと同じ顔をしたノイズが、床に崩れ落ちた美樹を邪悪な笑みを浮かべたまま見下している。
「久留美さんもさぞ喜ぶことでしょう。美樹さんが解放される礎になれるのですから」
 ノイズが指を鳴らした。
 乾いた音が響くと、それが合図だったかのように磔像の台座付近に何かが蠢いた。
 ぶよぶよとした肉塊のようなそれは、這うようにして磔像をずるりするりと登っている。その動きは巨大なナメクジを思わせると同時に、美樹の脳裏に変わり果てた蓮斗の姿を想起させた。それは変わり果てた三神の姿だったが、美樹には知る由もない。
「……やめろ」と美樹が小さく言った。脳は必死に動けと命令するが、身体との伝達回路が切れてしまったかのように動かない。
「受け入れてください。これは美樹さんが解放されるための洗礼です」と、ノイズが笑みを崩さずに言った。ノイズの声は遠くで鳴り響く鐘塔のように、ひどく現実感が欠落して聞こえる。「神は乗り越えられる試練しか与えません。美樹さんにとっては二度目の絶望でも、必ず乗り越えられますよ」
 肉塊はゆっくりと、しかし着実に十字架を上り、キリストのつま先に迫った。その先には桃色の髪の少女が磔にされている。
「やめてくれ……もう失いたくないんだ……かわりに私を……」
 肉塊の先端が割れ、大きな口吻があらわれた。その先端が久留美のつま先から膝まで達すると、ぢゅるんと音を立てて久留美の全身が一気に肉塊の中に吸い込まれた。
「やめろおぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
 美樹が絶叫すると同時に、ノイズが美樹の鳩尾に爪先を打ち込んだ。そのまま美樹の意識は暗転した。

 パチパチと爆ぜる音が聞こえる。
 遠くからサイレンの音も聞こえてくる。
 ゆっくりと目を開けた美樹の視界の先に、オレンジ色の光がすりガラスを通したように映った。
 キリストの磔像が燃えている。
 炎の勢いが強い。
 台座のあたりで、肉塊がじゅうじゅうと音を立てながら黒焦げになっている。
 火勢が強いのは肉塊の脂が燃えているためか。
 蓮斗の時と同じ光景だ。
 あの時は久留美を救えたが、今、久留美は肉塊の腹の中で一緒に燃えているのだろう。
 上体を起こした美樹の顔からは全ての表情が消えていた。
 膝立ちの姿勢のまま、放心状態でしばらく燃える磔像を見つめていた。
 表情のない美樹の顔をオレンジ色の光が焼く。
 すっと美樹の両目から涙が流れたが、美樹は自分が泣いていることにも気がついていない。
 やがて立ち上がり、ふらふらと磔像に歩み寄った。
「……なぜ救わなかった?」
 誰にも聞こえないような声で言った。
 磔像は燃えながらも表情を変えない。
 その顔は悲しんでいるようにも見えたし、諦めているようにも見えた。
「そうか……」と美樹が言った。「私が間違っていたんだな。もっと早くノイズを殺していれば……」
 美樹は相変わらず表情が消えたまま、淡々とした様子で自分に語りかけた。
「そんなに死にたいのなら殺してやる……あいつはもうシオンではない……」
 美樹の口角が耳まで裂けたかのように吊り上がった。