Яoom ИumbeR_55

Яoom ИumbeR_55は「男性→女性への腹パンチ」を主に扱う小説サークルです。未成年の方、現実とフィクションの区別のつかない方は閲覧しないでください。

カテゴリ: NOIZ

NOIZ最終決戦のコピー


 豚がホテルを出ると、玄関前に停まっていた黒塗りの高級車から男性の老人が降りてきた。年齢にしては豊かな髪を彫像のように撫で付けているので、男が小走りに向かってきても髪は少しも動かなかった。
「失礼ですが、豚様でよろしいですかな?」
 男は豚の前まで来ると、少し言いづらそうに聞いた。
「見ての通りでございます」と豚は顔に表向きの笑みを貼り付けたまま、自分の腹を数回叩いた。この男はノイズの関係者だ。邪険にしては後々面倒なことになるかもしれない。男は少しどぎまぎとしながらも「私は山岡と申します。ノイズ様の元へご案内いたします。こちらへ」と言って豚を車に導いた。世間話もしないとは随分と余裕のない男だなと豚は思ったが、山岡の用意した車は飛行機のファーストクラスを思わせるシートで、走行中も車内は恐ろしく静かだった。前方の座席とは完全に仕切られているので山岡の姿は見えないが、「二十分ほどで到着します」と車内のスピーカーを通じて伝えてきた。
 しばらく走ると、対向車線を数台のパトカーと救急車が通り過ぎて行った。マイクロバスのような護送車も後に続いている。豚はそれをめざとく見つけ、反射的に運転席との通話ボタンを押した。
「おい、今のはアンチレジストの護送車じゃないのか?」
「あ……失礼、運転に集中していたもので細部までは見ておりません」
「……いえ、こちらこそ失礼しました」
 豚は通話を切り、シートに深く腰を沈ませて長く息を吐いた。
 剃り上げた頭を手のひらで叩き、両手で顔をゴシゴシと擦る。
 なにをやっているのだ俺らしくもない。
 ノイズに呼ばれているというのに、それを無視して護送車を追えなどと言えるわけがない。そもそも山岡は俺の部下ではないのだ。命令などできるはずもない。
 スノウと朝比奈に出会ってからどうも調子が狂っている。
 腹の中を見せずに道化を演じるのだ。それが俺の渡世術のはずだ。
 顔も整形で醜く変えたし、本来必要のない食事を摂って肥満体型も維持している。あえて舐められ、豚と呼ばれてもヘラヘラし、油断した相手からしっかりと美味しいところをいただくのだ。
 対向車線をまた数台の緊急車両が通り過ぎて行った。豚は顔を覆っていた手を離すと、いつもの笑みを浮かべた表情に戻した。
「いやはやまた『人間卒業オフ』ですかな。物騒な世の中になったものだ」と豚は山岡に向かって言ったが、返事はなかった。まあいい、運転に集中させてやればいい。ネットで調べると、やはり数ブロック先のクラブで多数の負傷者が出ているようだ。護送車もアンチレジストのもので間違いない。「人間卒業オフ」で回し飲みされるレイズモルトは偽物ばかりだが、仮にも人妖が関わる可能性のある事件だ。警察は周囲の警護と負傷者の救護を担当し、現場に入るのは政府から秘密裏に依頼されたアンチレジストの仕事になっている。
 ネットを見ていると、イベント内部の様子をスマートフォンで録画した動画が早くもアップロードされていた。
 クラブの階段から逃げるように飛び出してきた参加者を、自警団のような集団が殴りつけている。半裸の女同士が髪の毛を引っ張り合いながら汚い言葉を言い合い、その奥ではクラブの客同士が殴り合いをしている。アスファルトの上に血を流した男女が浜辺に打ち上げられたイルカのように倒れていて、奥から下半身を露出した男が走ってきて撮影者に殴りかかった。この世の終わりのような映像に、豚はため息を吐いてスマートフォンの画面を消した。相変わらず世の中は馬鹿ばかりだ。
 車は首都高に乗り、都心にしては緑の多い場所で降りた。しばらく走ると赤茶色の煉瓦造りの建物が数棟見え、車はその敷地の門をくぐった。バロック様式の建物が立ち並ぶ間を縫って、車は周囲の建物とは浮いている近代的な建物の前で停まった。建物には「研究棟」と書かれたプレートが嵌め込まれている。
 豚が腕時計を確認すると、山岡の言った通りホテルを出てからちょうど二十分が経過していた。山岡が素早く後部座席のドアを開けた。長い間繰り返しているうちに無駄が削ぎ落とされた所作だ。
「お待たせいたしました。アナスタシア聖書学院です」と、山岡が豚の目を見て言った。
「おお、ここが。日本屈指の名門校らしいですな。私には一生縁が無い場所だと思っておりました」
 豚が両手を広げてわざとらしく感心した様子で言ったが、山岡は押し黙ったまま研究棟の入り口に向かって歩き出した。豚は肩をすくめてその後に続く。
 エントランスホールは大した装飾は無いが、大理石の床にナチュラルな木目の壁と、シンプルだが趣味の良い内装だった。やけに扉の大きいエレベーターが五台あり、そこから通路のようにステンレスの化粧板が嵌め込まれている。台車などを転がす際に床に傷がつかないようにするためだろう。「研究棟」という名前の通り、大型の装置や計器などを運び込むこともあるのかもしれないと豚は思った。
「これをお持ちください」と言って、山岡が無地の赤いカードと、車のスマートキーを豚に手渡した。
「申し訳ありませんが、ここからはお一人で行っていただきます」と山岡は言った。相変わらず思い詰めた顔をしている。「ここのエレベーターには押しボタンがひとつも付いておりません。かわりにそのカードを扉にかざせば、自動的にノイズ様のいらっしゃるフロアまでエレベーターが動きます。逆に言えばそれ以外のフロアには行くことができません。私がいなくても迷うことはありませんので、どうぞご安心ください」
「この車の鍵は?」と豚が首を傾げながら聞いた。
「先ほど我々が乗っていた車の鍵です。私にはもう必要はありませんので」と、山岡は表情を変えずに言った。「お手数ですが、帰りは豚様ご自身で車を運転していただきます。帰り道のナビもセットしてあります。ナビ通りに運転して、目的地で車を放置してください。私の身体はトランクにでも適当に詰めていただければ結構です」
「意味がわかりませんな」と、豚が低い声で言った。「私の勘違いでなければ、まるであなたがこれから死んでしまうように聞こえますが」
「ええ……その通りです」
「なぜ? ノイズ様がそうしろと?」
「違います。ノイズ様はいつも選択肢をくださるだけです」
「選択肢」と豚は目を細めて山岡の言葉を繰り返した。
 山岡は話を続けた。
「数日前にノイズ様と直接お会いして、最後の指示をいただきました。今日あなたをここにお連れすれば、あとは好きにしていいと……。そして小切手と薬を渡されました。小切手には余生を過ごすには十分すぎるほどの大金がサインされていて、薬は安楽死のものでした。生きるのも死ぬのも好きにしろということです」
「それならなにも死ぬことはない。いや、別に止めているわけではないんですよ。むしろ好きにすればいいと思っている。正直に言って、二、三十分前に知り合ったあなたが今からその薬を飲んで死のうが、帰り道に交通事故を起こして死のうが、私にとっては大差のないことです。ただ、単純に興味はある。大金と自殺。私にとっては選択肢でもなんでもない。本当は無理やり選ばされているのでしょう?」
「……いえ、これは正真正銘、私の意思です」
「ではなぜそんな不思議な選択をするんです? いや、繰り返しますが別に止めているわけではないんですよ。私もノイズ様に協力している端くれだ。あなたとは仲間と言えなくもないし、私にも今後ノイズ様から同じ選択肢が提示されてるとも限らない。私だったら迷わず大金を選びますがね」
 山岡はなにも答えず、ただ豚の顔を見つめるだけだった。豚は諦めたように首を振った。
「なら質問を変えましょう。どうせ死ぬのなら少し教えてはくれませんか? たとえばあなた達は──ノイズ様の部下という意味でですが、結構大きい組織なのですかな? 私は個人的に協力させていただいているだけなので、全体像が全く掴めんのですよ」
「私も同じです。十五年前から一人でお仕えしています。おそらくノイズ様は特定の組織というものはお持ちではないはずです」
「十五年も前から?」
 豚が驚いて眉を吊り上げた。
「ええ……十五年前、私はロシアで精神科医をしていました。その時にノイズ様と知り合ったのです。詳しい理由は言えませんが、ノイズ様に家族を人質に取られ、協力するように脅迫されたことがきっかけです。命じられるまま顔を整形手術で変え、日本に来ました」
「ちょっと待ってください。情報量が多すぎる。十五年前? ノイズ様はいったい今いくつなんです? 見た目からしてまだ二十歳前後でしょう。もしかしたらもっと若いのかもしれない。それに家族を人質に取られて日本に来た? あなたはいったい何者なんです?」
「……すみませんが、ノイズ様の出生に関することは私の口からは申し上げられません。ある方を守るためには、私は秘密を抱えたままこの世を去るしかないのです」
「ある方?」
「ノイズ様から与えられた任務は、ある方にお仕えすることでした。その任務は私の予想に反してとても幸せなものでした。人質に取られた家族はノイズ様とは無関係な理由で病死してしまい、私はノイズ様の命令を聞く理由がなくなったのですが、自主的に任務を続けました。その方に人生を賭けてお仕えしたいと思ったからです。しかし、その方はいなくなってしまった。ノイズ様の任務も解かれ、私には生きる理由が無くなったのです」
「よくわかりませんが、ノイズ様とその方の関係が世に出ると、その方に迷惑がかかるみたいですな」
 山岡はゆっくりとした動作で上着の内ポケットからオレンジ色のピルケースを取り出し、「失礼、喋りすぎました」と言いながらその中の小さな錠剤を飲んだ。山岡の唇が小さく動いたようが気がしたが、言葉が形になる前に山岡は眠るように床に崩れ落ちた。その死はまるで蛍光灯のスイッチを切るように、あまりにもシンプルで洗礼されていた。苦痛は全く無かったのだろう。豚は肩をすくめて首を振ると、山岡の身体を担いで車のトランクに押し込んだ。

 エレベーターは山岡の言った通り、カードキーをかざすと自動的に上昇を始めた。時折下降するような挙動をして、階数の推測すらさせないような徹底さだ。もちろん内部にも押しボタンはおろか階数表示すら無い。
 やがてエレベーターの扉が開くと、廃墟のようなフロアに出た。
 緑色の非常灯が頼りなく点灯していて、見たこともない計器や機械にわずかな光を落としている。
「なんだここは……?」と豚がつぶやいた。
 こんな所にノイズがいるのか?
 机の上や壁のあちこちが荒れていて、まるで強盗にでも入られたみたいだ。試しにデスクトップパソコンの電源を入れても反応がない。
 不意に、フロアの奥から微かな物音が聞こえた。
 配線につまづかないように注意しながら音のした方へ歩くと行き止まりで、黒いつるりとした壁があるだけだ。ゴムボールがコンクリートの壁に当たるようなくぐもった音はその壁の向こうから聞こえてくる。
 豚が壁に顔を近づけた。
 磨き上げられたような黒い壁は豚の顔を鈍く反射している。向こうから壁を叩く音がまた聞こえた。壁の向こうになにかいる。豚がさらに顔を近づけると、突然壁が透明になった。
 ガラスのようになった目の前の壁に、内臓のような物体がへばりついていた。
 一瞬、それが何なのか理解できなかった。
 やがて内臓のような物体が壁をずるりと伝って落ちると、向こう側が鮮明に見えた。
 強い照明に照らされた正方形の部屋に、二メートル近い肉塊が蠢いている。
 それは豚の姿に気が付いたらしく、全身から触手のような物を次々と生やして豚に放った。
 透明な壁に触手が当たる度に、ぼっ、ぼっ、と鈍い音が聞こえた。触手は壁に当たってグロテスクに広がる。目の前の光景に反して異様に音が小さいことがかえって不気味だった。
「うわああああぁッ!」
 あまりのおぞましさに、豚は腹の底から叫び声を上げて尻餅をついた。
 強い吐き気も込み上げてきて、豚は反射的に床に向かって胃の中身をぶちまけた。
「大丈夫ですか?」
 えずいている豚の頭にノイズの声がかかった。いつの間に現れたのだろう。豚は口周りを汚したまま反射的に顔を上げた。毒の花のような赤いジャケットを身に纏ったノイズが豚を見下ろしている。
「ノ、ノイズ様……!」
 豚は慌てて立ち上がろうとするが、膝が笑ってしまい再び尻餅をついた。
「そのままで構いませんよ。この特殊樹脂が破られることはありませんので安心してください」
「こ、この化け物はいったい……?」
「まぁ化け物だなんて。ご挨拶してはいかがですか? 二ヶ月ぶりの再会なんですから」
 豚が目を見開いて化け物に視線を移した。
 よく見ると、肉塊だと思っていたものはうずくまった人間のような形をしている。
「……三神?」と、豚の口から声が漏れた。
「ええ。脳の組成がかなり変質しているので、もはや自分が人間だったことも覚えていないでしょうけれど」
「……こ、この姿は? 三神になにがあったんです?」と、豚が絞り出すように言った。変わり果てた三神はまだ中で蠢いている。確かに意思があるとは思えないし、むしろ無い方が幸せなのだろう。
「拒絶反応です。レイズモルトに混ぜた薬剤の拒絶反応を意図的に起こしてみました」とノイズが折り曲げた人差し指を唇に当ててクスクスと笑いながら言った。「面白いでしょう? 人間を人妖に造り替える薬剤は効果が不安定で、一定数このような拒絶反応が発生していたようです。調整して完全に無くすことも出来たのですが、なかなか興味深いのでコントロール可能にした状態で残してみました。著しい変貌と筋力の異常増加、意思や思考の喪失、攻撃性の増幅……。役に立つこともあるかもしれませんよ。たとえば彼のように全国に指名手配されてしまっても、この姿では誰も彼だとは気が付きませんし」
 豚は不意に笑いが込み上げてきた。豚は顔を歪めて狂ったように笑い、なぜ自分が笑っているのかもわからないまま笑い続けた。自分の笑い声が壁に反響して豚の耳に届き、その笑い声で豚はさらに笑った。理解の範疇を超えた大きな脅威を前にした際には──たとえば地球が割れるほどの隕石が目の前に迫ってくる瞬間には、あるいはこのように笑うのかもしれない。
 ノイズが神なのか悪魔なのかはどうでもいい。
 想像以上だ。
 理解の範疇を超えた存在だ。
 絶対に離すまい。
 なにがあっても、とにかくこの恐ろしい存在に取り入っていれば、自分自身が脅かされることはないと豚は思った。意地でも取り入って、道化を演じながらこぼれてくる美味い汁を啜るのだ。
「す、素晴らしいッ!」
 豚は床に両手をついて唾を飛ばしながら叫んだ。
「先の電波ジャックで人妖になった人間どもが一斉にこのように変異すれば、社会は更に大混乱になるでしょう! ノイズ様が目的とされている混沌は早くも現実のものとなります。今後ともぜひ、私めにお手伝いさせてくださいませ!」
「まぁ心強い。では、そろそろ計画を最終段階に進めましょう」
 ノイズは豚に視線の高さを合わせるようにしゃがみ込み、豚の頬を両手で包んだ。「それと、あなたにご褒美を差し上げなければ」
「ご、ご褒美ですか?」
「ええ、今までよく働いていただいたので、二つのご褒美を差し上げます」と言いながら、ノイズは口の端を吊り上げた。「アンチレジストに随分とご執心の方がいらっしゃるようですので、次の段階で出会いのチャンスを作って差し上げましょう」
「そ、それは願ってもない!」と豚が声を張った。スノウと朝比奈の顔が浮かぶ。「それで、次の段階というのは……?」
「具体的な方法は後ほどお伝えしますが、準備はもう整えてあります。あなたはただ役割を演じていただければ結構です。決行は三日後。仲間を集めておいてください。アンチレジストにも情報を流しておくので、必ず邪魔をしに来るでしょう。ちゃんとあなたの目当ての子がそちらに行くように仕向けますので、楽しんでくださいね」
 豚は激しく頷いた。朝比奈とスノウを蹂躙している光景が脳裏に浮かぶ。豚の男性器が激しく勃起していることがスラックスの上からでもわかった。
「あともうひとつ──」と言いながらノイズが人差し指を立てた。そのままジャケットの内ポケットを探り、透明な液体の入った試験管を豚の目の前に取り出した。「レイズモルトに混ぜた、人間を人妖に造り替える薬。差し上げますので飲んでください」
「な……」
 豚は絶句した。
 背後ではまだ三神の成れの果てが蠢いている。ノイズはまるで耳まで裂けたかのように口の端を吊り上げた。
「安心してください。人妖のあなたが摂取してもあのような拒絶反応は起こりませんし、効果は肉体の強化のみです。アンチレジストの方とより楽しめると思ったのですが、不要であればこのまま捨ててしまいます。どうなさいますか?」
 ──ノイズ様はいつも選択肢をくださるだけです。
 不意に豚の脳裏に山岡の言葉が蘇った。
 拒否などできるはずがない。
 なにがあっても取り入ると、ついさっき決めたはずだ。
 豚は両手を上に向けてノイズの前に差し出し、恭しく試験管を受け取った。

「くそっ……一足遅かったか」
 美樹がバイクを駆ってアナスタシア聖書学院の門をくぐった時、研究棟の中腹から火の手が上がっているのが見えた。火元はおそらく冷子の研究室がある階だろう。スノウの話を聞いてから先遣隊としてすぐに出動したが、ノイズが感づいて火を放ったようだ。
 他の者は護送者で来ているため、渋滞に巻き込まれて到着まであと二十分はかかる。ひとまずバイクを停めて後続の綾たちに連絡しなければと美樹が思った瞬間、バイクの側面に強い衝撃が走った。バイクが横転し、美樹の体が車道脇の芝生に投げ出される。なにが起きた? 受け身をとったためダメージは少ない。視界を確保するために素早くフルフェスのヘルメットを取った。
「やっと二人きりになれましたねぇ。『悪い子』の美樹さん?」
 ぞくりとする声が聞こえた。
 倒れた姿勢のまま、声のする方に視線を向ける。
「……ノイズ」と美樹が静かに言った。だが次の瞬間、美樹はノイズの足元に釘付けになった。両手足を拘束された小柄な女の子が倒れている。目と口も布で塞がれているが、呼吸はしているようだ。その女の子はアナスタシア聖書学院の制服を着ていて、特徴的な桃色の髪の毛をしていた。
「久留美……?」と美樹は呟くように言った。目の前の状況が理解できない。
「ええ。シオンのふりをして連絡したら、すぐに来てくれました。健気にもシオンと美樹さんの役に立ちたいと言って、何の疑いもなく」
「貴様、久留美になにをするつもりだ!?」
「まぁ怖い。随分とこの子を気にかけているみたいですねぇ」
 美樹がノイズに飛びかかるが、ノイズは美樹の視界から消えていつの間にか背後に回っていた。
「もっと素直になってください。もう『良い子』のフリをするのはやめにしませんか? 本当のあなたを解放してあげます」
 ノイズが美樹の背中を蹴った。美樹の体が転がる。ノイズが久留美の頭を足で軽く踏み、赤色と金色の混ざったツインテールを手櫛ですいた。
「もしもこの子が死んでしまったら、さぞショックを受けるでしょうねぇ、美樹さん?」
「……なんだと?」と、美樹が低い声で言った。紫色の瞳が暗く光る。
「そう、その目です。この世の全てを憎んでいる目。あなたが養父と出会う以前は、きっとそんな素敵な目をしていたんでしょうねぇ」と言いながら、ノイズは折り曲げた人差し指を口に当ててクスクスと笑った。「すみません、少し美樹さんのことを調べさせていただきました。もう無理しなくていいんですよ? あなたはきっかけが欲しいだけ。あなたの奥に流れる暗い血が表に出たがっている」
「意味のわからないことを言うな!」
「これでも親近感を抱いているんです。美樹さん、過去は決して消えないんですよ。いくら油絵具を厚く塗り重ねても剥がせばちゃんと元絵が存在しているように、画家ですら忘れている元絵であっても決して消えるということはないんです。上からどんなに綺麗で優しい思い出を塗り重ねても、凄惨な過去は決して消えることはないんです。シオンにとっての私のように、幼少期の頃の美樹さんのように」
「あいにく私は今の状況に満足している。昔のことを今さら蒸し返して何をするつもりもない。それはシオンも同じはずだ。とっとと引っ込んでシオンにその身体を返せ。久留美の頭から足をどけろ!」
「もちろん全てが終わったらシオンに身体は返します。もうすぐ全ての計画が終わりますので」
「……計画? シオンの身体を乗っ取ることが目的じゃないのか?」
 とんでもない、とノイズは肩をすくめて言った。「でもその前に、本当の美樹さんを開放してあげます。たとえばこの子を殺した私を恨むなんてどうです? あなたはきっと私を殺しに来る。『良い子』の仮面を外して、怒りと復讐に塗りつぶされた『悪い子』の素顔のままでいられますよ?」
 美樹が恐るべき速さでノイズに向けて走った。レッグホルダーから折り畳み式のトンファーを抜いてノイズに迫る。ノイズは避ける素振りが無い。顔付きは全く違うが、やはりシオンと同じ顔だ。ノイズの顔面を目掛けて突くが、直前で狙いを胴体に変える。伸ばしかけた美樹の腕にノイズの脚が蛇のように絡み、美樹の完全に動きが止まる。こんなガードは今までされたことがない。ノイズは軸足を蹴って飛び、美樹の頭に巻きつくような跳び回し蹴りを放った。
 衝撃に美樹の脳が揺れる。視界が歪んだ瞬間、ノイズが太ももで美樹の頭をがっしりと挟み込んだ。
 美樹がしまったと思った瞬間には遅かった。
 ノイズが身体を捻り、美樹の頭頂部が地面に叩きつけられた。
 脚だけで、ものの数秒で制圧されたと美樹が思った瞬間、ふと視界が暗くなった。跳躍しているノイズが月を隠している。羽が生えたようにふわりと、ノイズの身体が空中で回転している。シオンと同じ、思わず見惚れてしまうような動きだと思った。直後に、ぞわりとした感覚が美樹の背骨を駆け上がった。あの跳躍はシオンの攻撃の前段階だ。濡れた闇のような真っ黒いドレスを翻したまま、口が耳まで裂けたように笑うノイズと目が合った。
 ノイズの膝が、仰向けに倒れている美樹の腹に落下した。
「うぐぇあッ?!」
 ノイズの膝と地面に挟まれ、美樹の身体が電気ショックを受けたように跳ねた。
 跳躍と回転の勢いで数倍の衝撃になったノイズの全体重が美樹の腹に落ちてきたのだ。
「ダメですよ手加減なんかしたら。本気になっていただくには、やはりあの子を使うしかなさそうですねぇ」
「ま、待て……」
 去ろうとするノイズに美樹が倒れたまま手を伸ばす。身体が彫像になってしまったように動かない。
 ノイズの前の車道にはいつの間にか大型の高級車が停まっていて、スーツを着たロシア人の男性が久留美を後部座席に押し込んでいる。
「──三日後、クラシックでも聴きに行きましょうか?」とノイズが美樹を振り返って言った。
「……クラシック?」
「それまで大人しくしていることです。あの子にも手は出しません」
 美樹を呼ぶ声が背後から聞こえた。綾が走りながら叫んでいる。その後にスノウや朝比奈の姿も見えた。そのまま美樹の意識は深く沈んでいった。

NOIZ最終決戦のコピー


※こちらの文章はラフ書きになりますので、製本時には大きく内容が変わる可能性があります。

朝比奈 スノウ 2


 豚は都内の歴史と格式のあるホテルの一室にいた。
 照明が落とされた室内は薄暗く、強烈な精臭と葉巻の香り、そして重い湿気がべっとりと漂っている。
 クイーンサイズベッドに、豚は全裸で足を投げ出した状態で座っている。タイヤのように巻きついた腹肉の上には玉の汗が光り、細かい葉巻の灰が所々に貼り付いていた。
 豚の足の間で、同じく全裸になった年端も行かない少女が、土下座をするような格好で豚の汚れた男性器を一心不乱にしゃぶっている。少女の顔は涙と唾液と鼻水、そして豚の放出したであろう白濁した粘液でどろどろに汚れている。何回も絶頂させられ、失神しては起こされ、また犯された痕跡だった。少女は自分の無様に汚れた顔を豚に見てもらえるように上目遣いの視線を送るが、豚は一瞥もくれることなく葉巻をふかしながらタブレットを覗き込み、スノウと朝比奈の写真を交互に表示させていた。
「くそっ!」と豚は吐き捨ててタブレットをベッドの上に放り投げると、男根にしゃぶりついている少女の後頭部を掴んで思い切り自分に引きつけた。
「ぐぶぇっ?! んぶッ! んぐッ! んぶッ! んぶぇッ!」
 突然喉奥を突かれ、小さい身体が震える。豚は脳内で少女を朝比奈に変換しようと試みた。だが、意識すればするほど朝比奈を取り逃した事実が、煮えたぎる真っ黒いタールのように腹の底から湧き上がってくる。豚は少女の苦痛など意に介さず強引に頭を揺すって、今日何度目かの粘液を放出した。そして少女が粘液を飲み干すと同時に少女の頬を張った。小柄な少女の身体が人形のようにベッドに転がる。
 豚が壁掛け時計を見ると午後九時を回ったところだった。
 ため息を吐きながら、乱暴に葉巻を灰皿で揉み消す。
 この少女をはじめ、豚にはお気に入りの養分が何人もいたはずだった。今日は特にお気に入りのこの娘を昼過ぎからひっきりなしに犯したが、渇きは募る一方だ。
 原因はわかっている。
 女は嗜好品と同じだ。
 嗜好品は一度高級品を嗜むと、それ以下の品質のもでは満足できなくなる。以前は満足していたものが楽しめなくなり、無理に満足しようとすると自分がひどく惨めに思えてくるのだ。上昇するエスカレーターと同じで下降することはできないし、無理に降りようとすると怪我をする。
 スノウと朝比奈はまさにそれだ。
 そのうちの朝比奈が手に入りかけたのだ。
 あの時は本当に興奮した。
 あどけなさが残るが生真面目で凛とした雰囲気。友人が人妖に攫われたと言っていたが、おそらくそれが朝比奈を実年齢以上に精神的に成長させたのだろう。学校ではどういう生徒なのだろうか。真面目な生徒なのだろう。友人の数は多くはないが、気の許せる親友が何人かいるタイプなのかもしれない。その親友たちは朝比奈が競泳水着のような格好で闘っているとは知らないだろう。目の前で朝比奈をレイプしてやったら、親友たちはどんな顔をするのだろうか。朝比奈はどんな絶望顔を晒すのだろうか。
 豚の男性器がまた天井を向いて反り返ってきた。
 豚はベッドから立ち上がると、頬をおさえたまま床で放心している少女を強引に起こした。粘液で鼻や口がドロドロに汚れ、豚が大量に放出した粘液を飲まされたことで腹が膨らんでいる。豚は少女の腹をサンドバッグのように殴った。ぼぢゅん! という水袋を殴ったような音が室内に響き、少女の目が見開かれた。
「えぼぉッ?! ぐぷッ!? おぶえろろろろぉ……」
 突然腹を襲った衝撃に少女の身体は電気に撃たれたように跳ね、白濁した液体を滝のように吐き出した。
 こんな風にスノウや朝比奈の腹を殴ったらさぞ興奮するだろうなと豚は思った。
 できることならスノウと朝比奈を同時に縛り上げて自由を奪い、腹を交互にめった打ちにしたい。顔は殴ってはダメだ。その後レイプする時に楽しみが減ってしまう。二人とも最初は激しく抵抗するだろう。スノウは酷い言葉で罵るのかもしれない。いいことだ。抵抗が激しいほど屈服させた時に興奮する。
 二ヶ月前、無能な部下どもがヘマさえしなければ、あったかもしれない未来だ。
 もちろんその日のうちに全員殺した。
 ついでに用済みになった三神も殺してやろうかと思ったが、奴は事件直後に姿を消してしまった。
 ノイズからの連絡も途絶えた。
 三神は事件の日はノイズと一緒にいたはずなので、もしかしたらノイズが直々に手を下したのかもしれない。そうでなくとも、そもそもあの無能な男が全国的な指名手配から逃れられるはずがないのだ。いずれは死ぬしかない。
 事件直後、三神は連日のようにテレビやネットを賑わせた。もともと注目度の高かったベンチャー企業の社長が前代未聞の事件を起こしたということで、生い立ちから現在の派手な生活ぶりが広くメディアで紹介された。三神の旧友や元恋人を自称する何人かの人間がテレビや週刊誌のインタビューに応じ、昔から自己愛が強く誇大妄想をする癖があったと語った。耳目を集めるという意味では、三神は無能な男だがアイコンとしては優秀だったのだろう。わかりやすい成功者を演じ、中身が無いにもかかわらず、さも自分と自分に関わるものに価値があると群衆に錯覚させる能力に長けていた。
 電波ジャック事件は三神のそのような特性を生かした素晴らしい手法だった。
 当然のことながら社会は大きく混乱した。
 電波ジャック直後、過去にレイズモルトを口にした者の何割かがパニックになった。いきなり聞き覚えのない「人妖」などという怪物に変異させられる可能性があると聞かされたのだから無理もない。パニックによる発狂で暴れる者や、恋人や配偶者に襲いかかる者が少なからずいて、しばらくの間は昼夜問わず救急車や警察車両のサイレンが鳴り響き、外出を控えるように政府から通達が出された。数日が経つと、ネットを中心にデマが広がり始めた。夫の全身に熊のような体毛が生えてきた、狼のように犬歯が発達した人間に襲われたなどという突拍子もないものを中心に、さまざまな噂が飛び交った。しかし、結局誰が人妖に変化したのか、人妖に変化するとどのようになるのかは誰もわからず、専門家を名乗る何人かの人間の懐が温まっただけだった。
 二週間もすると、各地で強姦事件が相次いで発生するようになった。社会の混乱に乗じた卑劣な犯行と報道されたが、豚には養分が尽きそうになった人妖の犯行であることが直感的にわかった。人妖は食事でもある程度活動することが可能だが、根本的には異性の人間との粘膜接触なしには十分な養分補給ができず、やがて活動できなくなる。電波ジャックで人妖になった人間が本能に基づいて人間の異性を襲ったのだろう。
 そしてレイズモルトを飲んだと周囲に吹聴していた学生が殺害された事件を皮切りに、全国で「人妖狩り」と称する傷害事件、殺人事件が散発した。ある家の者がレイズモルトを飲んだと噂が広がれば、翌日には不審火で家が全焼した。社会全体が疑心暗鬼に包まれていき、この年の離婚率は記録的な数値を叩き出した。
 政府は人妖の存在について頑として認めなかったが、レイズモルトは違法薬物に指定されて所持と使用が禁止された。
 レイズモルトの価格はすぐさま暴騰し、ダークウェブでの複数人で購入して回し飲みする非合法なイベントが各地で開かれた。
 通称「人間卒業オフ」と言うらしい。
 豚が初めてそのイベントの話を聞いた時、もう少しまともなネーミングを誰も思いつかなかったのかと本気で思った。いや、そんな知能の連中だからこそ、こんな馬鹿なイベントを思いつくのだろう。何の努力もせずに手軽に自分以外の何者かになりたい欲求がある連中にとって、レイズモルトは金と多少のコネがあれば欲求を満たすことができる便利な道具になった。道具が便利になることに反比例して、群衆はどんどん馬鹿になっているのではないかと豚は思う。ある時テレビカメラが「人間卒業オフ」に潜入したこともあった。厚いモザイクの向こうで下品なスーツやドレスに着飾った男女がプラカップに入ったレイズモルトをひと舐めし、三神の電波ジャックの映像が流れると熱狂した。目が痛くなるような青いスーツを着た男がマイクに向かって「生まれ変わった気分だ」と興奮した様子で言い、直後に背後から別の男に殴られて昏倒した。それをきっかけに会場内は乱闘騒ぎになり、結局カメラが壊されて映像が終わった。酷い内容だった。「人間卒業オフ」はドラッグパーティーというよりは、新興宗教団体の集団トランスのように豚には見えた。
 やがて自衛隊が投入され、時間の経過と共に世の中の混乱は表面上は収まったように見えた。
 しかし電波ジャック事件の前と後では社会は大きく変わってしまった。
 人間と姿形が変わらない怪物がいるのかもしれない、もしかしたら自分も怪物になっているのかもしれないという不安の棘は、錆びた釘のように人々の心に突き刺さったまま抜けることはなかった。
 ノイズの思い通りになったな……と豚は思った。
 目的は「混沌」だとノイズは言っていた。人妖を利用し、人々に”ほどよく”疑心暗鬼を植え付ければ、簡単にそのような状態になると。「混沌」をもたらした後にノイズが何をしようとしているのか豚は知らないが、人妖の──自分達の存在を明るみにすることは豚の望みでもある。その頂点に自分が立つことができれば尚のこと良い。当面の間の利害関係は一致している。ノイズは何を考えているのかわからず正直に言って不気味だが、異様に頭が良く、財力や技術も十二分に持ち合わせていることは確かだ。三神のアイコンとしての才能を見いだし、レイズモルトもあっという間にブームにさせ、人妖への変異薬もいつの間にか開発してレイズモルトに混ぜ込んでいた。ノイズは豚の好みで言えばババアと呼んでいる年齢だが、取り入っていて損は無い。ノイズに気がつかれないように増えた人妖を配下に置けば、これからも甘い汁が啜れるはずだ。
 不意に豚の携帯電話が鳴った。
 知らない番号が表示されている。
 直感的にノイズからだと豚は察した。
「はい、豚でございます」
 豚は腹を殴られ続けてガクガクと痙攣が始まった少女を投げ捨て、目の前にノイズがいるかのように平身低頭して通話ボタンを押した。
「お久しぶりです。お食事は楽しめましたか?」
 通話口からノイズの柔らかい声が聞こえた。
 豚は頭を床と水平に下げたまま、反射的に周囲に視線を送った。
 ──どこから見ているんだ?
 四方からノイズの視線を感じるような気がして、豚は背中に虫が這うのを感じた。


次回は約2週間後に更新予定です。
※こちらの文章はラフ書きになりますので、製本時には大きく内容が変わる可能性があります。

名称未設定-5のコピー



 ノイズが冷子の後頭部の髪を鷲掴みにして、その顔面をコンクリートの壁に叩きつけた。何度も打ち付けられたのだろう、コンクリートの壁は血まみれだ。冷子はダメージによる神経系の混乱が起きているのか、手足の形状が触手になったり人型を取り戻したりと目まぐるしく変形し続けている。頭部はかろうじて人型を保ったままだが、それはあくまでも人間の頭部と同じシルエットを保っているとうだけで痛々しいほどに原型をとどめていない。
 壁から冷子の顔が引き剥がされる。歯は全て折れ、鼻を中心として顔面が陥没し、左目はシオンのヘッドドレスの金属芯が刺さったままだ。
 ノイズが笑みを浮かべたまま冷子のボロボロになった顔を覗き込むと、冷子もかろうじて開いている目でノイズを見た。
 目の前のこの女は誰だ……と冷子は思った。さっきまでシオンだったはずなのに。死にかけていたはずなのに……。
「──なるほど、とても興味深い。なぜ人体が軟体動物のように変異できるのか、骨格がどのように変化しているのか、とても気になります。なによりこのビジュアルが素晴らしい。まさに化け物と言って差し支えない醜悪さ。不安と恐怖と嫌悪感を与えるには最適な姿ですね」
 目の前で行われている暴力をまるで意に介さないように、ノイズが笑みを浮かべたまま穏やかな口調で言った。
「ねぇ、少し剥がして中身を見てもいいですか? この頑丈さなら皮膚や筋肉の半分くらい失っても問題ないですよね? どの程度のダメージが致命傷になるのかも気になります。色々ゆっくりと調べて──」
 ノイズが言い終わる前に、上階の孤児院からひときわ重い衝撃が響いた。天井の欠片がノイズと冷子のすぐそばに落ち、壁にも大きなひびが入た。
「残念ながら、時間はあまり無さそうですね……」と、ノイズが言った。
 階上の轟音は巨大な蛇が暴れている様子を思わせた。
 原因はわからないが、崩落は時間の問題だろう。
「ぁ……あ……」と、冷子が声にならない声を出した。
「ん? なんですか?」
 ノイズが笑みを浮かべながら、冷子の口元に耳を近づけた。
「……あなた……誰なの? 如月さんは……?」
 冷子の瞳にノイズの姿が映る。ボロボロになったシオンのメイド服を着ているが、赤い毛がまだらに混ざったツインテールは両方とも解け、綺麗な緑色の瞳は下半分に血のような赤色が迫り上がっている。こんな人間は知らない。少なくとも先程まで対峙していたシオンではない。
 ノイズはくふっと静かに笑った。「ダメですよ。私の大切な人を傷つけるような『悪い子』には、教えてあげません──」
 ノイズは再び冷子の顔面を壁に叩きつけた。そして冷子の後頭部を目掛けて思い切り膝をぶち当てた。壁とノイズの膝に挟まれ、ベキリという音を立てて冷子の頭頂部が割れた。一瞬置いて、風船の空気が抜けるような音が冷子の喉から漏れ、そのままズルズルと床に倒れて動かなくなった。
「あら? 死んでしまったんです? 脳の破壊には耐えられないみたいですね」
 ノイズは動かなくなった冷子の身体をゴミをどかすように部屋の中央に蹴飛ばした。受け身も取らず、反応も無い。完全に絶命している。かろうじて人型を保っていた冷子の身体は溶けるように崩れ、とうとう内臓の寄せ集めのような形になった。頭部だった場所も今ではどこが目鼻だったのかもわからない。
 まぁ気持ち悪いとノイズが言い、かたわらに落ちていた冷子のボロ切れのようになった衣服を拾い上げた。擦り切れたポケットから数枚のカードキーが落ちる。この地下研究所の、冷子の個人的な研究室のようだ。
 その研究室は小さいながらも、建物に比べれば近代的な設備を備えていた。ノイズは棚のファイルに目を通し、デスクトップパソコンのスイッチを入れてデータをどこかへ送信した。ノイズはまるで料理を作るように鼻歌を歌いながらファイルを数冊見繕い、保管庫の中の試験管を保冷バッグに入れた。そして部屋を出る時には数種類の薬品を選んで部屋の角に投げた。瓶が割れて薬液が反応すると一瞬強く発光し、瞬く間に部屋全体が炎に包まれていった。


「アスクレピオスから分析結果が届いたわ」
 会議室に入ってくるなり、スノウは険しい顔をしながら言った。
 三神の電波ジャック事件から二ヶ月。スノウは来日予定を無期限に延長して日本に留まっている。ホテルに滞在しながらリモートで本業の仕事をこなし、空いた時間はアンチレジストで戦闘訓練に参加したり、アスクレピオスに協力を仰いでサンプル分析の協力を行なったりしている。電波ジャック事件にノイズが関わっていることは間違いない。訓練を積んで来たるべき戦闘に備えながら、アンチレジストに全面的に協力することがノイズにたどり着く近道だとスノウは判断した。
 会議室にはスノウが気を許す面々──美樹と綾、鷺沢と朝比奈が座っている。特に朝比奈とは歳が近いためか気が合うらしく、しばしば言い合いになりながらも朝比奈がスノウの訓練に付き合ったり、スノウが朝比奈を食事に誘ったりしているようだ。
 スノウがタブレットを操作すると、大型ディスプレイに電子顕微鏡で撮影した映像が映し出された。
 四人がディスプレイに注目する。
 月面着陸船のような形状の物体が液体内をゆらゆらと漂っている。人工物のように見えるが、電子顕微鏡で見なければならないほどの人工物などあるわけがない。
「なんだこれは? バクテリオファージか? こんなものがレイズモルトの中に入っていたのか?」
 美樹の言葉にスノウが頷いた。
「ええ。ただ、見た目は近いけれど、こいつは全くの別物よ」
「あの……」と、綾が言いづらそうに小さく手を挙げていった。「ごめん、バクテリオファージってなに?」
「ああ、バクテリオファージというのは、細菌にのみ感染するウイルスみたいなものよ」と、スノウが言った。「見ての通り人工物のような不思議な形状をしているけれど、自然界にはごくありふれた存在で、食べ物や私たちの皮膚にもたくさん付着しているわ。細菌専門なだけあって人間には無害。食べたり飲んだりしても全く問題はないし、むしろ食品添加物として抗ウイルス効果も期待されているの」
「へぇ、初めて知ったわ」と、綾が自分の手のひらを見ながら感心したように言った。「じゃあ、ウイスキーの中にいても問題はないの?」
 スノウが首を振った。
「本来はアルコール濃度の高い蒸留酒の中では生存できないはずよ。アルコール耐性のある微生物もいないわけではないけれど、まだ発見数も少ないし。それにさっきも言ったけれど、これは形状は似ているけれどバクテリオファージとは全くの別物。これを見て」
 スノウが動画を再生した。
 それまではゆらゆらと漂っていただけの微生物が突然痙攣したように震えると、一瞬で全身に棘のようなものが無数に生えた。頭部もドリルのように変形し、先ほどとは打って変わって活発に動きはじめた。会議室の中にいる全員が息を飲んだ。
 スノウが話を続けた。「この微生物はバクテリオファージに酷似しているにも関わらず、細菌には全く関心を示さない。それに特定の条件を与えるとこのような攻撃的なフォルムに変形して活性化するわ。各所に手配して入手した数十本のレイズモルトを全部分析して、人工チャームが入ったものが約三分の一。そしてこのバクテリオファージみたいな微生物が入ったボトルは一本だけ。三神が電波ジャックで言っていた、人妖に変異できる、いわゆる『当たり』のボトルがこれでしょうね。そしてこの微生物は活性化した状態でも細菌には全く関心を示さず、試しに人間の細胞を投入したら恐ろしい速さで飛び付いて、細胞壁に穴を開けて何らかの遺伝子情報を投入したわ。投入した遺伝子情報は解析中だけれど、この微生物が人間を人妖に作り替える鍵だと思って間違いない。活性化の条件はもう気付いていると思うけれど、電波ジャック事件の時に流れたあのノイズ混じりのラフマニノフ、ピアノ協奏曲第二番。あのノイズの中の特殊な周波数が、おそらくは活性化のスイッチになっていると思うわ」
「まるでリモコン爆弾ですね」と鷺沢が淡々とした声で言った。「この微生物もノイズが造ったんですか……?」
「リモコン爆弾、まさにその通りね」とスノウが言った。「ただ、いくらお姉様の頭脳とはいえ、さすがにこんなものを数ヶ月でイチから造るのは不可能よ。ベースとなる微生物が既に存在していて、ノイズはそれをリモコン爆弾化したんだと思う。人体実験するわけにはいかないから、この微生物が一匹でも体内に入れば人妖に変異するのか、それともボトル一本分飲まないと効果がないのかはまだわからないけれど、もし私が同じものを造るとしたらウイスキーの常識的に考えて、約三十から六十ミリリットルの飲用で作用するように調整するでしょうね。私達の目の前で人妖に変異した男性隊員達も、おそらくそれくらいの摂取量だったはず。いずれにせよ、ノイズ自身は全く表に出ることなく人妖を増やすことに成功しているわ。チャーム入りのレイズモルトで多くの人を中毒に近い状態にさせて、この微生物入りのボトルも混ぜておく。そして電波ジャック事件を起こして一斉に発動させた。恐ろしいことよ……」
「ベースは冷子が造っていた薬かもしれないな。薬と称していたが、正体はこの微生物か」と、美樹が言った。「シオンと入れ替わったノイズが孤児院の地下研究所で冷子の研究を見つけていたとしたらタイミングが合う。地下研究所は孤児院と一緒に全焼しているが、その前にデータを持ち出して研究を続けたとしたら……」
「問題はどこで研究を続けたのかよ。それなりの設備が必要だし、こんな重要な研究は冷子も絶対にバックアップを取っているはず。ひとつあるでしょ? お姉様と冷子それぞれに縁があって、それなりの設備が揃っている場所が」と言いながら、スノウが真剣な顔をして身を乗り出した。
「──アナスタシア聖書学院の研究棟か」と、美樹が真剣な顔をして言った。
 突然警告音が鳴り、室内全員の腰が浮いた。人妖関連の事件が発生したときに鳴るブザーだ。綾がスマートフォンに表示された内容を見て、「また『人間卒業オフ』か……」と呆れたようなため息をついた。


次回は約2週間後に更新予定です。
※こちらの文章はラフ書きになりますので、製本時には大きく内容が変わる可能性があります。

NOIZ立ち絵反転のコピー


 机の下は暗く狭い。
 それに床は硬い。
 吹雪が窓を打つ音が微かに聞こえてくる。
 白衣を着た男が車輪の付いた皮張りの椅子に座っている。私は机の下で膝を抱えて座っているから、白衣の男の腰から下しか見えない。男の正面に座っている女の姿も見えない。
「問題はありませんよ」と、男が言った。
 声は籠っているが、よく聞こえる。
 女は男の言葉を聞き、すするように泣きだした。女の背後にいる数人の男達が、よかった、よかったと呟く声も聞こえる。
「お嬢様に多重人格の症状は残っておりません。確かにあのような非常に強いショックはお嬢様のような年齢の子供……つまり自我がまだ未発達の状態では受け止めきれるものではありません。ですが、お嬢様は立派でした」
 当たり前だ。
 シオンは立派なのだ。
 お前などに評価されなくても私はよく知っている。
 早く話を進めろ。
 こんな狭い場所から一秒でも早く出たいんだ。
 私は軽く男の椅子を蹴った。
 男の身体が小さく跳ねる。
「今後についての提案なのですが……お嬢様へは外国へ行かれることを強くお勧めします。それもなるべく遠い国の方がよろしいでしょう」
 男はやや早口で言った。
「外国?」と、女が困惑した様子で言った。「なぜです? シオンは治ったはずでは?」
「ええ、確かに治りました。奥様が言われているノイズという人格は完全に消滅しています」
 白衣の男は低い気温の室内で汗を拭いている。
「あくまでもフラッシュバックを防ぐ保健的な処置です。テレビでは連日、事件のニュースが流れています。それに御実家はまさに事件の現場です。ほとぼりが冷め、お嬢様の人格が完成するまではこの国から離れていた方がよろしいでしょう。もちろんご家族の方とも」
 女が連れていた小さな女の子が声を上げて泣き出した。お姉様お姉様と泣きじゃくっていて、背後の男達が慰めている。
「……いつ頃まででしょうか?」と、女が暗い声で言った。
「少なくとも十八歳程度までは離れた方が良いでしょう」
「そんな……」
 早くしろ。
 私はまた男の椅子を蹴った。
 交渉は難航したが、女はようやく「私の祖母の家が日本にあります……。なるべく寂しい思いはさせたくなのいので……」と絞り出すように言った。小さい女の子はまだ泣いていた。
 女達が帰ると、私は思い切り男の椅子を蹴飛ばした。
 派手な音を立てて椅子が倒れ、男が床に投げ出される。
 私は机の下からようやく抜け出すと、スカートの埃を払って身体を伸ばした。
 壁には額装された証書が数多く飾られ、この男が精神科医の権威であることを伝えている。私は床の上に投げ出された老眼鏡を踏み潰した。
「……ノイズ様」と男が怯えた声で、両手を床についたまま言った。「これで……私の孫は助けていただけるんですね……?」
「ええ、もちろん」と私は笑顔を作って、この哀れな男に言った。男の髪の毛を掴み、目を覗き込む。「これからも『良い子』にさえしていれば──」


 シオンは暗い部屋の中で目を覚ました。
 夢?
 なにか怖い夢を見たような気がするが、よく思い出せない。
 シオンは上半身を起こして、周囲を見回した。
 そこは部屋と言うよりは、大きな箱のような空間だった。
 床も壁も黒い樹脂でできていて、窓は無い。
 とても高い天井の隅から、蓋をずらしたように一筋の光が差し込んでいる。
 どこか遠くから空調のファンのような低音が微かに聞こえてくる。
 頭を振ると、長い金髪がさらさらと床に流れた。いつのまにかツインテールに結った髪が解けてしまったらしい。
 赤い色が視線の先をちらつく。
 なんだろう……。
 違和感を感じて自分の髪の毛を掬う。
 髪の毛の一部がマダラに赤く変色していた。
「……えっ?」
 思わず絶句し、金と赤の混ざった髪をじっと見つめる。
 鮮血のような赤い髪だ。ためしに赤い毛を引っ張ってみると、頭皮に痛みを感じた。紛れもなく自分の頭皮から生えている髪だ。こんな風に染めた覚えはもちろん無い。そもそもシオンは髪を染めたことすら一度も無い。
 身体を触ると、服装はメイド服を模した戦闘服のままのだった。露出した部分の肌に傷や痣は無く、服に破れや汚れも無い。頭はすっきりと冴え、空腹も、暑さや寒さも感じなかった。
「ここは……?」
 注意深く立ち上がる。
 天井から差し込む光で部屋全体がうっすらと見えた。
 広くはない。せいぜい十畳ほどの広さだ。
 装飾や家具らしきものも一切ない。
 シオンは注意深く壁に触れてみた。
 不思議な材質の壁だ。木でもなければコンクリートでもなく、少しだけざらついた樹脂だ。
 なぜ自分はこんな所にいるのだろう。
 冷子との戦闘はどうなったのだろう。
 劣勢になった冷子の全身が触手化し、自分に絡みついてきた。そして絞首刑のように首を絞められたところまでは微かに記憶がある。
 頸動脈が締まり、徐々に意識が遠のいていき、死が迫っていることを感じた。
 ……その後は?
 もしかしたら自分は死んでしまったのだろうか。
 シオンはため息を吐いた。
 ここは何かを待つ場所なのだろうか。例えば神の審判を受け、天国と地獄に振り分けられる前の魂の待機場のようなものなのかもしれない。神の前であらゆる罪が暴かれ、それに対する罰が与えられる。あるいは善行が認められ、永遠の命を与えられる。自分はどちらなのだろう、とシオンは思った。
 不意に、誰かがシオンを背後から抱きすくめた。
 驚いたが、恐怖はなかった。背後の気配は確かな温かさを持っていた。
 ──大丈夫。
 背後の気配が言った。言葉はシオンの脳内に直接届いた。
 ──あなたは何も心配する必要は無いわ。あなたは今でも『良い子』のままよ。ねぇ、シオン? 私が全部やってあげる。辛いことや悲しいこと、苦しいことや嫌なこと、全部私が受け止めてあげる。全てが終わったら、あなたはこの世界で唯一の『良い子』になっているわ。
「でも、私は……」と、言いかけた瞬間、シオンの頭に激しい痛みが走った。まるで太い釘を打ち付けられたような痛みに、シオンは頭を押さえてその場にしゃがみ込んだ。「この状況を作ったのは全部貴女のせいなのよ?」と、冷子が自分に放った言葉が蘇った。「貴女がお父様を殺してくれたおかげで──」「父親殺しとはまた、随分と重い荷物だこと──」「我々人妖に多大な貢献をしてくれた一族の長女様だもの。その立場で人妖退治なんて笑わせるわ──」「メイドだとか奉仕だとか博愛だとか、気持ち悪い愛想を振りまいているのは無意識な罪滅ぼしのため?」「貴女を好きだった人達が貴女の正体を知ったら、どんな顔をするかしらね──」
 ──シオン、大丈夫よ。私がやったの。お父様を殺したのはあなたではなく、私がやったこと。
 見えない手がうずくまるシオンの頭に乗せられた。気配の主もシオンの正面にしゃがみこんでいるようだ。頭痛が激しすぎて、シオンは目を開けることができない。
 ──あなたは何もしていない。ねぇ? だってそうでしょう? シオンみたいな『良い子』が、お父様を殺すわけがない。そんなことありえない。大丈夫。もうすぐ全部うまくいくわ。もうすぐ全ての人間が『悪い子』になるの。だからもう少し我慢していてね。
 シオンはなにかを言おうとしたが、頭痛はますます激しくなり言葉は呻き声にしかならなかった。やがて暗幕が垂れてくるように意識が遠のいていった。

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NOIZ立ち絵反転のコピー

スノウ立ち絵 2

朝比奈のコピー



 スノウが短い悲鳴を上げた。
 ただならぬ気配を感じて、男性戦闘員がお互いの顔を見合わせ、若年の男性戦闘員が気が触れたように叫んだ。縦に裂けた瞳孔の赤い瞳が激しく動揺している。
「落ち着け!」と、年上の方の男性戦闘員が宥めたが、パニックは収まらなかった。頭を掻きむしり、訳のわからないことを言いながら地団駄を踏んでいる。綾が素早くパニックを起こした戦闘員に近づき、「ごめんなさい」と言いながら腹部に強烈な突きを放った。男性戦闘員の体が地面に崩れ落ちる。
「彼ら二人がここに来ると、ノイズ様は事前に私に申されました」と豚が両手を組み、まるで神に祈るような仕草で言った。「この状況で『最も役に立たない人員』だからだそうです。おそらくあなた達はノイズ様がアンチレジストの本部に姿を現し、我々人妖が直接出向いて宣戦布告したので、本部は放棄せざるを得なくなったのでしょう? 新設の本部へ人員やデータの移行も速やかかつ確実に行わなければならない。しかし朝比奈ちゃんは連れ去られた。幸い我々の車に発信機を取り付けることに成功し、居場所は掴んでいる。だが優先度は本部移転の方が高いため、我々の追跡に割ける人員は限られる。ならば一部の精鋭と、失礼ながら戦闘しか出来ることの無い人員を派遣する方法が一番効率が良い……と、ノイズ様はおっしゃられました。ノイズ様がアンチレジストの人員リストを見て、そちらのお二人に白羽の矢を立てたのです。私は事前に部下に命じて、そちらのお二人にウイスキーを一杯ご馳走して差し上げました。喜んで飲まれていましたよ、『蜜』入りのレイズモルトを。これで我々の行いがハッタリではないとご理解いただけたと思います」
「下がっていろ。大丈夫だ」と、美樹が振り返って男性戦闘員に言った。男性戦闘員は頷き、失神している仲間に肩を貸して後ずさる。
「ほら、それですよそれ。あなたがここに来た理由です」と、豚が男性戦闘員を指さした。「その立場で、あなたはなぜ満足しているのです? 十歳以上も歳が離れている娘に命令されて、なぜ何の疑問も抱いていないのです? あなたはノイズ様のお導きによって生まれ変わったのです。人妖の強靭さはよくご存知でしょう。あなたがその気になれば、そちらのセーラー服や巫女装束を着た上級戦闘員の方々を栄養源にすることも可能なのです。栄養源の意味はもちろんお分かりでしょう? いやはや、アンチレジストの上級戦闘員様は美人揃いでうらやましい……。あなた方は仲間です。後ほどこちらから連絡しましょう」
 綾が男性戦闘員の肩にそっと触れながら、「落ち着いて。大丈夫よ」と諭した。男性戦闘員は目を泳がせたまま頷いた。
 美樹が鋭く息を吐き、豚に向かって駆けた。
 駆けながら太腿のバンドに取り付けた樹脂製のトンファーを抜き取り、回転させながら豚のスキンヘッドに向かって打ち落とす。豚はためらうことなく腕でトンファーを受け止めた。人間であれば骨折してもおかしくない衝撃であったが、豚はまだ笑みを浮かべている。豚が美樹を蹴飛ばし、美樹の身体が後方に吹っ飛ぶ。美樹の背後からスノウが飛び上がった。スノウは空中で前転し、豚の頭に踵落としを放つ。豚はスノウの足首を掴むようにして受け止めた。
「なんだスノウちゃんも悪い子だったのかい? 朝比奈ちゃんと同じように教育してあげなきゃいけないねぇ……」
 豚はスノウの身体を引きつけ、腹部に鈍器のような拳をめり込ませた。スノウの身体がくの字に折れる。華奢な腹部は豚の脂肪で膨らんだ拳に全体を潰され、内臓の位置が変わるほどの衝撃がスノウの身体を駆け巡った。
「ゔぶぇぁッ?!」
 おそらく人生で初めて腹を殴られたのだろう。スノウのいつもの自信ありげな表情が崩れ、苦悶に歪む。
「ぐぷッ……!」
 豚の放った拳のダメージは凄まじく、スノウは白目を剥き、唾液が口から弧を描いて吹き出した。スノウは受け身も取れずに地面に落下し、腹を抱くように抑えながら亀のように丸まった。
「わかったかなスノウちゃん。大人に逆らうとどうなるか」
 涙目になり、口から唾液を垂らしながらもスノウは豚を睨んだ。
 綾も豚に向かって駆けた。
「……ババァどもめ」と、豚が誰にも聞こえないような声量でつぶやいた。邪魔をするババア共には興味は無い。腹でも殴って気絶させてから、スノウちゃんだけを連れてアジトに帰ればいい、と考えた。
 突然、豚の視界が激しく揺れた。まるで後頭部を木製バットで思い切り振り抜かれたような衝撃だった。
 視界の隅に、グレーと白の戦闘服が見えた。
「……朝比奈……ちゃん?」
 豚が驚愕の表情を覗かせた。視界の隅で朝比奈と目が合った。朝比奈は豚の後頭部を膝で打ち抜いた姿勢のまま険しい表情で豚を睨んでいる。戦闘服は所々破れ、身体のあちこちに殴られた痕が見えたが、表情には強い意志が見て取れる。はっとして豚が正面を向いた。綾が雄叫びをあげながら、レザーグローブに包まれている拳を繰り出した瞬間だった。
 首が折れるほどの衝撃が豚を襲った。
 スローモーションで見たら豚の顔面は激しく歪んでいただろう。それほどの衝撃で綾の拳は豚の頬を撃ち抜いた。弾き飛ばされた豚は転がるようにしてバルクコンテナに突っ込んで行き、破裂したコンテナから大量のウイスキーが漏れ出した。鼻を突くアルコールの臭いが倉庫内に充満する。
 綾が構えを解き、フッと鋭く息を吐くと、朝比奈の元に駆け寄った。
「朝比奈ちゃん?! 大丈夫なの?」と、綾が朝比奈の肩を抱きながら言った。
「大丈夫です。こう見えても一般戦闘員の中ではランクは上の方なんです……。あの太った男の部下はそこまで強くはなかったので、不意打ちで隙を作って脱出しました。本来であればあの男の部下を制圧しなければならなかったのですが、おそらく皆さんに対して罠を貼っているだろうと思い、ここに戻ってきました」
 朝比奈はダメージがかなり残っている様子だったが、綾に対して気丈にも笑顔を作って敬礼した。綾は小さな朝比奈の身体を抱きしめてやりたい衝動に駆られたが、今は豚に追撃することが優先だ。綾は豚が突っ込んだコンテナのあたりを調べた。豚の姿は見えなかった。どこかに隠れているのだろうか。それとも逃げ出したのか。
 美樹が綾を呼んだ。スノウを背負っている。意識はあるが、ダメージが重く動けないようだ。
「今は撤収しよう。街の様子も気になる」と、美樹が言った。そのまま朝比奈に身長を合わせて「あの状況でよく頑張ったな。偉いぞ」と真剣な顔で言った。朝比奈は歯を見せずに笑い、美樹にも敬礼を返した。
 ふと、男性戦闘員の姿が見えないことに気がついた。
 一人は失神していたはずだ。
 倉庫の外に出ると、男性戦闘員の乗ってきた車も消えていた。「愚かな……」と、美樹が小声でつぶやいた。おそらく戻っては来ないだろう、と残された美樹達は思った。「あなた達は仲間です」という豚の言葉を間に受け、連絡を待つつもりなのかもしれない。
 四人で輸送車に乗り込み、美樹が朝比奈にチャームの解毒薬と回復薬を注射した。スノウが簡易ベッドに横になりながら「あんた……すごいわね……」と朝比奈に言った。自動操縦をアンチレジストの本部に設定する。おそらく鷺沢はまだ残っているはずだ。雨のカーテンの中、車は静かに走り出した。


 三神の視界の先、赤い絨毯が敷かれた部屋の奥の暗がりから、笑みを浮かべたノイズがスポットライトの下に歩いていきた。ぬめるような黒いドレスに深紅のジャケット。所々に赤い毛がまだらに混ざった長い金髪。年齢は若そうだが、誰も逆らえないような雰囲気を纏っている。
「ご苦労様でした」と言って、ノイズは一秒間に一回というゆっくりとしたテンポで手を叩いた。黒いレースの手袋をしているので、音は響かない。
「光栄です」と言って、三神が軽く頭を下げた。そして見ないフリをしながら、ノイズの大きく開いたドレスの胸元を盗み見た。
 この人からの融資を受けて半年以上が経つが、実際に顔を合わせたのはつい先日のことだ。そして初対面の時、三神はその若さと美貌に驚いたものだ。
 半年前、レイズ社の口座に突然見たこともないような大金が振り込まれた。そして三神が融資に気がついて困惑したまさにその時、まるで見ているかのようにノイズから電話がかかってきた。
 電話口でノイズは、自分の指示に従うのであれば今後も融資を続ける、断れば融資はこの一回のみで今後連絡はしないと告げた。そして自分の指示に従えばレイズ社と三神自身をすぐにでも世界的なブランドにしてやるとも告げた。
 正直に言って気味が悪かった。
 しかし当時のレイズ社は背に腹は変えられない状況だった。
 レイズ社は粗悪な海外ウイスキーを日本的な名前を付けて主にアジア向けに販売している零細企業に過ぎず、ウイスキー愛好家からはレイズ社にも三神自身にも白い目を向けられている状況だった。ブランド価値など無いに等しく、銀行からの融資もいつ打ち切られてもおかしくない経営状態で、まさに綱渡りの状態だった。ノイズからの融資は喉から手が出るほどの魅力があり、それに加えて功名心の高い三神にとって「世界的なブランド」という言葉の響きは抗い難い効果があった。
 三神はノイズの申し出を了承すると、翌日には豚のような見た目の男(その男は自分のことを「豚」と呼べと言ってきた)が秘書として派遣された。そして豚が抱えてきたアタッシュケースの中身をウイスキーに混ぜろを言ってきたのだ。アタッシュケースの中身は試験管に入った得体の知れない薬液だった。白濁したものと透明なものの二種類があり、いずれも無臭で粘性があった。毒ではないと豚は言ったが、詳細を聞いてもはぐらかされるだけだった。ノイズの融資を受け入れた時点で三神に拒否権は無い。三神は郊外に構えたレイズ社の小さな瓶詰め工場で、自らの手で試験管の薬液をタンクの中に入れ、数千本のウイスキーをボトリングした。豚はプロモーションはお任せくださいと言い、ボトリングしたうちのかなりの数をバーや飲食店に無償で配った。あんな気持ち悪い男が持ってきた悪名高いレイズモルトなど誰も見向きもしまいと三神は心の中で思っていたが、しかし程なくしてサンプルを配った店から捌き切れないほどの注文が舞い込んできた。無償でサンプルを飲んだ客が翌日の開店直後に店に現れて、また飲みたいからすぐにボトルを入れろと言ってきたらしい。中身は従来と同じく粗悪な海外原酒のブレンドなので、明らかに異様な事態だった。アタッシュケースに入っていた薬液の効果であることは三神もすぐに察した。しかし一度勢いがついた人気は止まらず、レイズモルトは噂が噂を呼び、すぐさまボトルの奪い合いやプレミア価格での転売が起きるほどの爆発的人気銘柄となり、三神はたちまちクラフトウイスキーの寵児として祭り上げられた。
 多くの取材依頼が舞い込んだ。いずれも肯定的なものであり、中にはウイスキーとは関係ない三神自身の生活ぶりや人となり、ビジネス成功論やカリスマ性についての取材もあった。
 三神は高揚感に包まれていった。もともと容姿には自信がある方だし、話術にも長けている。メディアへの露出も増え、三神自身を特集するテレビ番組や雑誌も日に日に増えた。レイズモルトも薬液を混ぜなくても作った側から羽が生えたように売れるようになり、有名無名に関わらず苦労して飲んだ連中が「日本の繊細な風土が育んだ、これぞモノづくり大国日本を象徴するジャパニーズクラフトウイスキーである」などと滑稽で的外れな盲目的絶賛をする様子も楽しかった。成功者の社交会のようなものに呼ばれ、一般庶民との明確な違いを実感した。こちらから呼ばなくても、男でも女でも群がるように寄ってきた。まさに絶頂の只中に自分はいると三神は思っていた。そしてノイズからの指示に従っていれば、これからも自分は安泰なのだ。
 だから今日の中継も、三神は承諾した。
 人妖という生物については当日聞かされ、人妖になる薬というものも先ほど飲んだばかりだ(無味無臭のとろりとした液体だった)。
 この中継で自分の信用はおそらく無くなるかも知れないが、このノイズという女がいれば大丈夫だ。
「あなたのおかげです」と、三神は左胸に手を当てたまま絨毯に片膝をついた。求婚するような仕草だった。
 ノイズは三神の顔を両手で挟み、首を傾げるようにして三神の瞳を覗き込んだ。エメラルドのような瞳に吸い込まれそうだ。ノイズは三神の目を見ると、満足げに口角を吊り上げた。
「ちゃんと変化しています。痛くなかったでしょう?」と、ノイズが蠱惑的な響きのある声で言った。三神は窓際に移動し、ガラスに自分の顔を写した。茶色だった瞳が、鮮血のような色に変化していた。
「おお……これが人妖! 人間を超越した存在!」
 三神の高笑いが響いた。
「これでようやく、あなたに見合う存在になれましたな」と、三神がスーツの襟を直しながら言った。ノイズはわずかに口角を上げたまま、首を傾げた。「あなたのお力添えのおかげで、十分な地位が築けました。もはや私は時代の寵児であり、今や人間という存在すら超越した。これからも良きパートナーとして、二人で歩んで行きましょう」
「……何を言っているんです?」と、ノイズが嘲笑するような口調で言った。「あなたの役目はこれで終わりです。あとは好きにしていただいて構いません。今後二度と会うこともないでしょう」
 三神の顔から表情が消えた。
「な……ちょっと待ってください……。私は十分な地位に上り詰めました。あなたのお力添えで、レイズモルトも私自身も、今や世間の耳目を集めるブランドです。あなたに相応しいパートナーとして、これ以上の男はいませんよ」
「お気持ちは嬉しいのですが、私には心に決めた人がいるので」と、ノイズは笑いながら背を向けた。赤いジャケットが翻り、三神を馬鹿にするように裾がはためいた。そして顔だけをこちらに向けた。緑と赤の混ざった目がやけに光って見えた。「あなたは私の指示通りによく動いてくれました。私の狙い通り、あなたは一般人よりも少しだけ有名になり、あなたの作るウイスキーは人気になった。そして『ちょうど良い範囲に』薬剤をばら撒く良い道具になった。ありがとうございます。お礼として人妖にして差し上げましたので、あとは整形で顔を変えて好きに暮らしてください。すぐに世界中に指名手配されるでしょうから、顔は全く別物にしたほうがよろしいかと思います。そうですね……たとえばあなたの秘書の豚さんのような顔などよろしいかと思います」
 クスクスと笑うノイズに、三神が「……おい、ちょっと待てよ」と低い声で言った。眉間にシワが何本も走っている。
「ふざけんなよ! 利用するだけ利用して、後は好きにしろってどう言うことだよ!?」
 三神が椅子を蹴り、撮影用のカメラを蹴飛ばした。
「まぁ、利用したなんて人聞きの悪い。あなたの無為な人生に意味を与えて差し上げたのに。あなたも状況を楽しんでいたでしょう?」と、ノイズが首を傾げて小指を舐めながら、トロリとした口調で言った。「あのまま後ろ指を刺される人生の方が、もしかしてお好みでしたか? 余計なことをして申し訳ありません」
「……人妖ってのは身体能力も人間より数段上なんだよな?」と、三神が地鳴りのようなドスの効いた声で言った。「お高く止まってんじゃねぇぞクソアマ! 下品な身体見せびらかせやがって……ブチ込んで泣き喚かせてやるよ!」
 三神がノイズに飛びかかった。
 それは三神の人生において最も愚かな行為だった。
 ノイズは「くふっ」と笑うと、一瞬で三神の前から消えた。次の瞬間、三神の鼻は潰れていた。ノイズは丁寧にセットされている三神の髪の毛を掴み、一ミリの躊躇いも無く三神の顔面が陥没するほどの勢いで膝を打ち込んだ。「ぶぎゃ!」という間抜け悲鳴が響き、ぐちゃっという音と共に三神の高い鼻が埋没した。白いスーツは赤いペンキをぶちまけたように真っ赤になり、三神は絨毯の上でのたうち回った。ノイズは三神の身体を蹴飛ばして仰向けにさせると、口の端を吊り上げながら靴のヒールを三神の右の眼窩に突き刺した。卵が潰れるような音の後に、地獄のような悲鳴が室内を震わせた。
「まぁ、大丈夫ですか? 正当防衛とはいえ、ここまで大袈裟に痛がられると気の毒に感じてしまいます……」
 眼窩に押し込んだヒールをグリグリとねじりながら、ノイズは他人事のように心配そうな声を出した。
 悲鳴を上げ続ける三神の顔面を踏み続けながら、ノイズは好みの音楽を探すようにスマートフォンを弄った。やがてスピーカーから音楽が流れ始めた。先ほど三神が流した音楽とは違うが、やはり機械的なノイズが所々に混ざっている。
 三神の身体が大きく痙攣した。
 腹部や頭部が膨張し、スーツのボタンが弾け飛ぶ。
「整形手術の手間が省けましたねぇ……」と、ノイズがクスクスと笑いながら言った。悲鳴を上げ続ける三神に背を向け、まるで最初からそこにいなかったかのように、音もなく部屋から去った。



[ NOIZ ] 前編は以上になります。次章更新までは今しばらくお待ちください。
次週からは以前ウニコーンさんに依頼いただいて執筆した[ WISH ]の続きを投稿します。

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 雨が降っていた。
 強くはないが、霧のように体にまとわりつく、嫌な雨だった。
 綾と美樹、そしてスノウは戦闘員用の輸送車に乗り込んだ。先に出発した車には男性の一般戦闘員が二人が乗りこんだらしい。アンチレジストの人員の大部分は早急な本部機能の移転のために残らざるを得ず、朝比奈救出は必要最低限の五人で赴くことになった。鷺沢も朝比奈救出には多くの人員を投入したかったが、いつ本部が襲われるかわからないための苦肉の人員配置だ。
 豚の車に取り付けた発信器は、港湾倉庫の一角で止まったまま信号を送り続けていた。輸送車はその信号を追い、自動運転で目的地まで向かう。内部はスポーツ選手の控え室のようになっていて、ストレッチやウォーミングアップをするのに十分は広さがあった。精密機械用のサスペンションが組み込まれていて、車が発進してもほとんど振動を感じない。綾と美樹、そしてスノウは思い思いにウォーミングアップを済ませると、向かい合ってベンチに座った。三人とも無言のまま、綾は麻酔薬を吸引し、美樹は小さな嵌め込み式の窓を見ていた。窓についた水滴が音も無く後方に流れていった。
「お姉様を嫌いにならないで……」と、スノウが飲みかけのペットボトルを見つめながらポツリと言った。綾と美樹は黙って話の続きを待った。
 綾や美樹が知っているシオンこそが、本当のシオンなのだとスノウは言った。シオンにノイズのような存在への変身願望は無く、そもそも自分の中にノイズという人格が存在していることすらシオンは知らないのだ。ロシアを離れて日本に移住したのも、あえて高等教育に飛び級しなかったのも、違う世界で新しい友人を作って見聞を広めた方がいいという家族のアドバイスにシオン自身が納得してのことだった。決して騙していたわけではなかったのだとスノウは言った。
「そんなの今さら言われなくても大丈夫よ」と、綾が背もたれに身体を預けながら言った。「私はこのままシオンさんと二度と会えないなんて絶対に嫌。たとえ任務を受けなくても勝手に動くつもりだったんだから。私も美樹さんも、組織や任務に関係なくシオンさんは大切な友達なの。友達を助けに行くのは当たり前でしょ」
 美樹が頷いた。「全部収まったら、みんなでシオンの家に泊まるか。あいつが料理を作り始める前にケータリングを取ってな」
「それはマストですね」と言って綾が笑った。「もちろんスノウも来なきゃダメだからね。シオンさんが料理作りそうになったらちゃんと止めてよ」
 綾がウインクして、スノウが少しだけ笑って頷いだ。
「しかし、気になるのはノイズの目的だ」と言いながら、美樹が体を屈めて膝の上で手を組んだ。「あの豚野郎の言った言葉が全て本当だとして、それでノイズに何の得があるんだ? 人妖に肩入れする理由がまるでわからない」
「人間を人妖にする方法を確立した……って言ってましたよね」と、綾が言った。「まさか……ノイズ自身が人妖になるつもりなんじゃ」
「それならシオンまで人妖になってしまうな……」
「冗談じゃない」と、スノウが首を振りながら言った。「ただ、私にもノイズの目的がわからないの……。子供の頃にノイズは『私の生まれた理由はシオンの罪を被って、シオンを「良い子」にし続けることだ』って言っていたけれど、人妖とは何の関係も無いし」
「『良い子』と『悪い子』なんて、そう簡単に線引きできるものじゃないんだけどね……」と言って、綾が天井を向いてため息を吐いた。「目的が何にせよ、ノイズを止めるしかないか……」

 輸送車は港湾エリアの奥の小さな倉庫で停まった。
 先に到着した男性戦闘員の二人は入り口に放置された二台の車を調べていた。二十代半ばと、三十代前半の一般戦闘員だ。
「車内に人影はありません。やはり、倉庫の中かと」
 年上の男性戦闘員がスノウたちに駆け寄り、敬礼しながら報告した。
「何かあればすぐに逃げろ。先頭は私が行く」と言って、美樹はタバコに火を付けて鋭く煙を吐いた。綾もグローブを締め直している。
 五人はスノウを真ん中にして倉庫に入った。倉庫内は煌々と照明が点いていて、一メートル四方のポリタンクが山積みになっていた。ポリタンクはケージに入れられ、下部にはコックの付いたキャップがついている。中身は液体のようだ。
「液体輸送用のバルクコンテナだわ」と、スノウが周囲を見回しながら言った。「この匂い……中身は海外から輸入したウイスキーでしょうね。一箱だいたい千リットル。おそらくここは、レイズ社の原酒保管庫でしょうね」
 正解でございます、と言う声がコンテナの奥から聞こえた。
 全員が身構える。
 コンテナの影から、豚がのっそりと姿を表した。
 相変わらず媚びるような笑みを浮かべたまま、両手を胸の前で擦り合わせている。
「おやおや! これはこれは!」
 豚が素っ頓狂な声を上げて、わざとらしく仰け反った。
「いったいどうされたんですかスノウさん! そんな水着みたいな格好をされて。目のやり場に困ってしまいますよ」
「うるさい! この変態!」
 スノウが豚を睨みながら指を差した。「あんたと話すつもりはないのよ。痛い目に遭いたくなかったら、さっさと朝比奈を解放することね。その後にノイズのいる場所に案内してもらうわ」
「残念ながら、どちらも不可能でございます」と、豚が眉をハの字にして言った。「ここに残っているのは私一人だけでございます。朝比奈ちゃんはすでに私の部下が別の場所に移送しておりますし、ノイズ様の居場所は私にもわかりません。あのお方からは的確な時に的確な指示をいただけるのみで、どこにいらっしゃるのか全くわからないのです。我々の前に姿を現されるのはそれが必要な時のみで、ほとんどは電話で一方的に指示をいただくだけでございます。電話番号も毎回変わりますので、こちらから連絡を取ることも出来ません」
「それならなぜ貴様はここに残ったんだ? この人数差だ。抵抗しても勝ち目は無いぞ」
 美樹が冷たい目で豚を睨み、タバコを地面に捨ててブーツの底で踏んだ。
「それはもう本日が特別な日になるからでございます。我々がようやく日の目を見るのです。こうして特等席にアンチレジストの上級戦闘員様をご招待したのに、対応を部下に任せて万が一粗相があってはいけませんので、私が直接ホストを勤めさせていただく所存でございます」と、豚が言った。
 豚がスマートフォンを操作すると、バルクコンテナの間に設置されているプロジェクターが起動して倉庫の壁に映像が映った。NHKのニュースが映り、ライトグレーのスーツを着たキャスターが昼間に首都高で発生した交通事故の原稿を読んでいる。
「何をするつもり?」
 綾が一歩前に出て言ったが、豚は何も答えない。
 突然、NHKのニュース映像にノイズが走って画面が切り替わった。
 レイズ社の社長、三神が映っていた。
 三神は薄暗い部屋の中で一筋のスポットライトを浴びながら、白いスーツを着て椅子に座っている。右足を上にして足を組み、その上に両手を組んで乗せている。まるでシャワーを浴び終えた後にソファーでくつろいでいるようなリラックスした座り方だ。顔には余裕のある微笑が浮かんでいた。豚は何回かチャンネルを変えたが、どのテレビ局も同じ映像を流している。豚は満足げに頷いた。
 綾がスマートフォンのニュースサイトを見た。「速報、日本全国で大規模電波ジャック発生」という見出しが踊っている。三神はその姿勢からたっぷり五分は動かなかった。最初は静止画かと思ったが、三神がまばたきするのが確認できた。この電波ジャックが広がるのを待っているようだ。
 やがて三神は、わずかに顔を上げた。
「皆様、おくつろぎのところを失礼いたします」
 三神は聞き取りやすい低音の声でそう言った後、たっぷりと時間をかけて頭を下げた。
「わたくしは、レイズ社の代表取締役をつとめさせていただいております、三神冷而と申します。ご存知のない方もいらっしゃるかとは思いますが、主にレイズモルトというウイスキーを作り、皆様に提供させていただいております。このたびは高まる需要に供給が追いつかず、市場価格が高騰し、皆様にご迷惑をおかけしていることを深くお詫びいたします」
 三神ふたたび時間をかけて頭を下げた。
「さて、本日は皆様にご報告があり、勝手ながらお時間をお借りしております。皆様は『人妖』という言葉をご存知でしょうか?」
 アンチレジストの面々の背中を、氷の虫が這った。
 なぜ三神の口から人妖という言葉が出る? しかも公共の電波を乗っ取ってまで。 
「人妖の存在は、都市伝説として耳にされたことがある方もいらっしゃるかもしれません。人妖とは我々人間と全く同じ姿をしている別の生物であり、気付かぬうちに人間社会に溶け込んでいるバケモノである。容姿や頭脳や身体能力に優れ、食事や排泄を必要とせず、我々の性行為に似た捕食行動で活動し、なおかつその捕食行動は我々人間にとってこの上無い快楽をもたらす……というものです。結論から申し上げると、人妖の存在は事実です。各国の政府はひた隠しにしておりますが、未解決の行方不明事件の何割かが、人妖の手によるもなのです。事実、私は何名かの人妖と実際に接触を持っております。私は人妖との接触を通じて、人妖とは人間の完全な上位交換であるという結論に至りました。今後人間は、人妖の栄養源としての価値以外は無くなるであろうと考えています」
 綾はSNSのアプリを立ち上げた。話題のトレンドが三神の電波ジャック一色になっている。
「皆様はおそらく、私の頭がおかしくなったと思っているでしょう。ですが、私は事実を話しているだけです。怪しい宗教や陰謀論の話をしているのではありません」と、画面の中の三神が言った。その顔にはいまだに余裕のある微笑が浮かんでいる。「なぜこのような話を私がしているのか……。私のパートナーが、人間を人妖に進化させる薬剤の開発に成功いたしました。そして私はかねてから、私の作ったウイスキーを飲んでいただいた方に何らかのお礼がしたいと考えておりました。私のウイスキーは幸い市場に好意的に受け入れられています。いささか好意的過ぎると言ってもいいかもしれません。私のウイスキーを一杯飲むために、大変な経済的苦労をされた方も多いと聞いております。そのような苦労をされた方に、人妖に進化できるチャンスを進呈することにしました。私は数ヶ月前から発売したウイスキーの一部に、人妖に進化するための薬剤を混ぜております。本当は私のウイスキーを召し上がられた全ての方に人妖に進化していただきたいのですが、残念ながら薬剤には限りがあり、今回は抽選のような形を取らせていただきました。不幸にも今回漏れてしまった方は、次の機会をお待ちください。そして、今回選ばれた幸運な方は、どうぞ素晴らしい人生を──」
 スポットライトが徐々に減光し、三神の姿が闇に溶けるようにゆっくりと消えた。同時に、奇妙なノイズが混ざった音楽が流れ始めた。クラシック音楽のようで、教会の鐘のようなピアノの後に、重厚な旋律が追いかけてくる。決して耳障りの良いものではない。豚だけは目を閉じて、その奇妙なノイズ混じりの聞き苦しい音楽に身を任せていた。
「ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番……お姉様が好きだった曲……」と、スノウが呟いた。
 画面が暗転してから、約三分ほど音楽が流れた後、唐突に画面が元に戻った。インカムに手を添えて混乱した様子のキャスターが映される。
「えー、今、放送が回復しました。ただいま日本で大規模な電波ジャックが発生した模様で、えー、警察は事件に関与していると思われる株式会社レイズの三神冷而氏から事情をうかがうべく──」
 そんなことは今見たから知っている、と誰もが言いたくなるような内容をアナウンサーが喋った。しかし、現場が混乱していることだけは伝わってきた。アナウンサーは同じ内容を繰り返して発言し、その声に被せるようにスタッフと思しき複数の人間が怒号を発している。おそらく他局でも同じような状況なのだろう。
「あんた達いったい何したのよ!」と、綾が叫んだ。
「聞いての通りです。我々が発売したウイスキーのごく一部のボトルに、ノイズ様が造られた神の蜜を混ぜました。全ては滞りなく、ノイズ様のご指示の通りに進んでおられる……」と、豚が両手を広げて言った。まるで最上級のコース料理を堪能し終えたような、うっとりとした口調だった。「そして、そのウイスキーを飲んだ人間にノイズ様の紡がれた特殊な旋律を聞かせると、脳の一部に作用して人妖に進化できるのです。ボトルが誰の手に渡ったのかは我々にもわかりません」
「……なんてことだ」と、美樹が呟くように言った。背後を振り返り、男性戦闘員に指示を出す。「お前たちは本部に戻れ。人妖の存在が知られたとなると──」
 美樹の言葉が途中で止まった。
 男性戦闘員二人の瞳が赤く光っていた。
 人妖の目だった。

NOIZ6のコピー
 鷺沢が本部の放棄を決定した。
 人妖に場所が知られた以上、長く留まっているわけにはいかない。当面は郊外に設置している支部を臨時本部とし、データと人員の速やかな移行を指示した。一般戦闘員とオペレーターが慌ただしく走り回る。
 朝比奈の救出には綾と美樹の他、数名の一般戦闘員が指名された。支度が整い次第、エントランスに準備している戦闘員用の護送車で出発する手筈になっている。
 美樹が上級戦闘員用のロッカールームで装備を整えていると、スノウが入ってきて「お姉様のロッカーはどこ?」と聞いた。
「聞いてどうする気だ?」と美樹が言った。折りたたんだ樹脂製のトンファーを、ベルトで太腿に留めている。
「私も戦う。この格好じゃうまく動けないから、あんた達みたいな戦闘服に着替えたいの。お姉様のがあればそれを借りるわ」
「馬鹿を言うな。一般人を巻き込む訳にはいかない」
「さっきは止めなかったじゃない」
「今回は間違いなく戦闘になるんだぞ?」
「だから戦闘服に着替えるのよ」
「そういう問題じゃない」と言いながら、美樹は立ち上がってスノウを見下ろした。「相手は人妖だぞ。確かに会議室での身のこなしは見事だったが、人間相手の護身術が通じる相手ではないんだ。あの豚野郎の言っていた通り、単純な身体能力で言えば人妖の方が格段に上だ。生兵法で飛び込むと、あいつらの餌になりに行くようなものだぞ」
「ここまで来て引き返せるわけないでしょ? あいつはノイズが新しい指導者だって言った。人妖達の背後にはノイズがいて、お姉様だってそこにいる。私はお姉様を取り戻すためにここまで来たのよ。お姉様を取り戻すためには、ノイズを倒すか、お姉様に目を覚ましてもらうしかないわ」
「ノイズを倒すのなら、それこそ私達にまかせておけ」
「倒せると思っているの? あんた達、会議室では一歩も動けなかったじゃない。肉親の私が呼び掛ければ、お姉様は目を覚ますかもしれない。ノイズを倒すよりは確実な方法よ。だから戦闘服を……」
 美樹は黙って首を振った。「いずれにせよ、シオンのロッカーは開けられない。本人の指紋認証でしか開かない仕組みだ。開けたくても開けられないんだ」
 私なら開けられる、と言う声がして、美樹とスノウが入り口を振り返った。
 ドアが開いて、鷺沢がロッカールームに入ってきた。通路では何人もの職員が慌ただしく走っている。鷺沢はあらかた指示を出し終え、様子を見に来たようだ。
「スノウさん……。ノイズの対処について、本当に同行していただけるんですか?」と、鷺沢がスノウを見て聞いた。
 鷺沢さん、と抗議するような口調の美樹を手で制した。
 スノウが力強く頷いた。
「もちろんよ。お姉様に目を覚ましてもらうわ」
 鷺沢が暗い顔をして頷いた。「鷹宮上級戦闘員。やはり如月上級戦闘員との戦闘は極力避けるべきだと思う。今まで多くの戦闘員を見てきたが、如月上級戦闘員は規格外だ……。あの並外れた頭脳と、その頭脳の命令を遂行する身体能力を併せ持っている。今までは如月上級戦闘員の生まれ持った優しい性格で無意識にリミッターをかけていたが、もはやそれも外れている可能性が高い。制御できるうちは便利だが、暴走したら手がつけられなくなる原子炉みたいなものだ。戦闘にならずに抑え込むことができれば、それに越したことはない」
 美樹がため息を吐いて首を振った。
「……もしもの話だ」と言いながら、美樹が誰とも視線を合わせないように床に視線を落とした。「もしも、シオンが消えていたらどうする? ノイズの中に、シオンがもういなかったら……? そういう可能性だって無いとは言えないだろう。その時は、倒せるか倒せないかに関わらず、戦うしか選択肢が無くなるんだぞ」
 スノウが凍えるようにして深く息を吸った。「その時は私も戦う。ノイズに殺されたっていいわ……お姉様のいない世界なんて……」
 「……わかった」と言って美樹が頷き、スノウの肩を数回叩いた。「死ぬ必要は無い。私が守る。それに、私にとってもシオンは友人だ。穏便に済ませられるものなら済ませたい。シオンを叩き起こしてやってくれ」
 スノウが唇を噛んだまま頷いた。うっすらと目に涙が浮かんでいる。
 鷺沢はシオンのロッカーの前に移動して、タッチパネルに親指を当てた。
「私の指紋がマスターキーになっているんです。何か物がなくなったら、真っ先に私が疑われますが」
 短い電子音がして、ロックが外れる。鷺沢がシオンのロッカーを開けた。メイド服を模した新品の戦闘服が三着、ハンガーに掛かっていた。パッキングされた新品のストッキングや下着類、ガーターベルトの他、赤い宝石があしらわれたレースの付け襟も綺麗に並べられている。
「えっ……なにこのエッチな服……?」
 スノウが明らかに引いている。ロッカーの中身を指差しながら、油の切れた機械のようにぎこちなく美樹と鷺沢を見た。
「お姉様、まさかこんな格好で戦っていたの……? 嘘よね?」
「あ、いや、その……それは」と、美樹がどぎまぎしながら言った。
 スノウの眉が吊り上がった。「あんた達、まさかお姉様に無理やりこんなの着せてたの? いくらお姉様のスタイルが良いからって……!」
「上級戦闘員の戦闘服は着用者の身体特性と、なによりデザイン的な嗜好を考慮して特別に製作されています。好みの衣類を着用することによる戦闘員の士気向上も、成果に直結する重要な要素ですから。故にその戦闘服も、如月上級戦闘員の趣味が多分に反映されているデザインです」
 鷺沢が真顔で答え、スノウの視線は二人の顔とロッカーの中を何回も往復した。やがて恐々と戦闘服を手に取り、「うわ……」などと言いながら自分の身体に合わせている。
「そもそもサイズが合わないだろう」と、美樹が言った。特に胸の部分が致命的に合っていなかったが、美樹は黙っていた。スノウもさすがに察したらしく、何よりデザインがスノウにとっては奇抜過ぎたため、黙って戦闘服を元に戻した。代わりにシオンがツインテールにまとめる際に使用していた黒いリボンと、レースの付け襟を手に取った。
「これだけ借りるわ。お姉様、力を貸して……」
 スノウはリボンと付け襟を壊れ物のように胸に抱いて目を閉じた。鷺沢が別のロッカーを開け、白いレオタードのような戦闘服をスノウに渡した。
「こちらなら、サイズが合うと思います。一般戦闘員用ですが、動きやすさと防御性能のバランスが一番良い戦闘服です。また、先ほどのスノウさんの動きを見て、足技が得意と見受けましたので、レオタード型をお勧めします。手袋やソックスもこちらで用意します」
「……これも結構際どいわね」と言いながら、スノウが戦闘服を目の前に広げた。サイズはぴったり合うようだ。スノウは戦闘服を持ってシェードの中に入り、戦闘服に着替えて出てきた。ツーサイドアップの髪はシオンの黒いリボンで留め直し、元の赤いリボンのうちの一本は左の太腿に結んでいる。もうひとつは形見のようにシオンのロッカーにしまった。そういえば、あの赤いリボンはシオンからの初めてのプレゼントだったなと美樹は思った。スノウは首に巻いたシオンの付け襟を愛おしそうに撫でている。
「似合うじゃないか」と、美樹は言った。
「うん。ものすごく軽いし、確かに動きやすいわ」と、スノウはその場で軽くジャンプしながら言った。

 豚を乗せたセンチュリーと後続のクラウンは、市街地を抜けて、人気の無い港湾倉庫のひとつに入った。
 倉庫の中はドラム缶が山積みになっている。センチュリーの運転手が降り、豚が乗っている後部座席のドアを開けた。豚が難儀そうに車から降りる瞬間、朝比奈が豚の腕を振り解いて飛び出した。朝比奈は距離を取って、表情を強張らせたまま身構えた。
「おっと、まだそんなに動けたとは」と、豚が笑いながら言った。
 豚は顎に手を添え、朝比奈の身体を品定めするように見ている。
 朝比奈は豚の視線から隠すように、体の向きを変えた。どうやら豚は自分のような年齢の若い女性が好きなようだ。いわゆる、ロリコンというものだろう。身体の底から嫌悪感が湧き上がってくると同時に、どのようにこの場を切り抜けるか頭を回転させた。
「うんうん、スノウちゃんも可愛いが、君も負けじと劣らず可愛いねぇ」
 豚は手をすり合わせながら、満面の笑みを浮かべた。「やはり君くらいの年齢が一番だ。下手に歳を取ると身体のあちこちに老廃物が溜まってくる。さっきの女達も、スノウちゃん以外は見た目は綺麗でも中身はドロドロのはずだ。早く君の綺麗な養分を吸わせておくれ」
 朝比奈の背中にゾワッとした寒気が駆け上がった。賎妖は能力も容姿も人妖に劣るが、ここまで気持ちの悪い賎妖も珍しい。友人もこんな奴に手籠にとられたかもしれないと思うと、怒りと悲しみがふつふつと湧き上がってきた。
「近寄るな! 変態!」
 殴られた腹がまだ痛むのか、片手で腹を押さえながら朝比奈が叫んだ。豚の背後では車から降りた人妖達が遠巻きしている。
「変態とはまた手厳しい」と、豚が大袈裟に驚いたように両手をあげた。「可愛い子が好きなことが変態なものか。人の好きなものを否定してはいけないよ?」
 朝比奈は豚を無視し、素早く周囲を見回した。ドラム缶が山のように積まれ、窓は天井付近にしかなく、唯一の出入り口は車が塞いでいる。逃げられそうもない。だが、相手は賎妖だ。人妖に比べて戦闘能力は劣る。朝比奈はチームを組めば人妖ですら倒した実績があり、賎妖であれば一対一でも倒してきた。ここは戦うしかない。
 朝比奈が前後に足を開き、拳を上げて構えた。
「やめたほうがいい。悪いことは言わない」
 豚が両手を突き出し、わざとらしく心配そうな顔をして言った。
 朝比奈がふっと鋭く息を吐いて、豚との距離を詰めた。先ほどを頭に血が上って不覚をとったが、今回は自分の体格を生かして、相手の身体に潜り込むいつもの戦術を駆使すれば勝てるはずだ。なんといっても、相手は人妖に劣る賎妖なのだ。
 朝比奈は身体を左右に振りながら、豚の死角に入って拳を繰り出した。捕まえられずに攻撃を当て続ければ、いずれはダメージが蓄積する。豚の腹を何発も殴った。脂肪が厚い。豚は涼しい顔をしている。朝比奈は一旦距離を取り、再び殴った。豚の身体に潜り込み、膝や背中にも攻撃を加えるが、豚はダメージを感じるどころか怯む様子すらない。
「な……んで……?」
 朝比奈が戸惑いながら後ずさった。身体能力が段違いに高い人妖ならともかく、相手は賎妖だ。身体能力は人間とそう変わらないはずだ。いくら肥満体とは言え、ここまでダメージが通らないのはおかしい。
「まったく、朝比奈ちゃんは本当にしつけがなっていないみたいだねぇ……」
 豚が拳を鳴らしながら朝比奈に近づく。朝比奈の小さい身体が、豚の影にすっぽりと覆われた。
 ふん、と豚が気合を入れ、朝比奈の腹に拳を突き込んだ。拳が全く見えない速さの攻撃だった。朝比奈は棒立ちのまま動けず、ぼぢゅん、と音を立てて岩のような拳が朝比奈の細い腹部にめり込んだ。
「ゔぶぇッ?!」
 朝比奈の身体が浮いた。
 車に跳ね飛ばされたような衝撃で朝比奈は人形のように弾き飛ばされ、倉庫の壁に強かに背中を打ち付けた。そのまま膝から崩れ落ち、前のめりに倒れこむ。次の攻撃に備えるために必死に立ち上がろうとするが、足に全く力が入らず、尻を浮かせたままの無様な格好で苦しそうに喘いだ。遠巻きに見ていた人妖達が静かに笑う声が聞こえる。
「ぐ……が……ッ……?! ゔっ……ごぇッ……!」
 まともに呼吸ができずに悶絶している朝比奈に、豚がゆっくりと近づいた。
「また殴られちゃったねぇ。女の子の大事なトコロ。あまり聞き分けがないと、朝比奈ちゃんと私との赤ちゃんができなくなってしまうよ?」
 豚は朝比奈の戦闘服を掴み、強引に引っ張り上げた。朝比奈の足が地面から浮く。朝比奈は涙と唾液で顔をぐちゃぐちゃにしながら、短い呼吸を繰り返していた。
「私が賎妖だと思って油断したんだろう? 人を見かけで判断するなと、学校やご両親から習わなかったのかい? 朝比奈ちゃんは子供だからわからないだろうけれど、大人の世界では下手に格好をつけているよりも、相手にナメられているくらいの方が、なにかと便利なことが多いんだ。たとえば豚のように醜い身体にしわくちゃな服を着て、やけに慇懃な喋り方をする奴を見ると、たいていの相手は『こいつは大したことないな』と思って油断する。他の使役系の人妖みたいにお高く止まっていると、君たちに真っ先に狙われたり、仲間から足元を掬われたりすることが多い。この見た目は整形手術と定期的な脂肪注入の手間はかかるが、得るものの方が多いんだよ。たとえば朝比奈ちゃんみたいな何も知らない可愛い子が、こいつなら勝てそうだと勘違いして自らレイプされに飛び込んでくるとかね」
 ずぷん……と音を立てて、朝比奈の細い腹部が再び陥没した。
「ぎゅぶぇッ?!」と、朝比奈が目を見開いて悲鳴を上げる。豚はすぐさま拳を抜き、サンドバッグのように朝比奈の鳩尾や腹を何回も殴った。殴られるたびに、豚に片手で吊り下げられた朝比奈の身体はおもちゃのように揺れた。豚は執拗に朝比奈の腹だけを殴り、意識の大部分が途切れたところでようやく朝比奈を開放した。全身の力が抜けたように、朝比奈は地面に崩れ落ちる。
「おい、ここに着いてから何分経った?」
 豚が運転手に言った。二十二分ですと運転手は答えた。
「なら、まだ時間はあるな」
 豚はおもむろにスラックスのジッパーを下ろし、臨戦態勢になった男根をずるりと解放した。極太のそれは豚の出っ張った腹に先端が触れるほど反り返っている。豚は意識の途切れかけた朝比奈の髪の毛を掴んで引き起こすと、頭を掴んでその小さな口に男根をねじ込んだ。
「ごぼっ?! むぐぅッ!?」
 突然ねじ込まれた異物に、朝比奈は一気に覚醒して目を見開く。
「おほぉっ! 予想以上に小さい口だ。たまらんな」
 豚は朝比奈の頭を両手で掴み、乱暴に前後に揺すった。喉奥を無理やり抉られ、朝比奈は内臓を吐き出すような嗚咽をあげた。
「ごぇッ!? ゔ……うぐえぉぉぉ! ごえぇぇぇッ!!」
「ほぉっ! ほおぉッ! 喉がよく締まって……気持ちいいよ朝比奈ちゃん……」
 朝比奈の味わっている地獄など意に介さず、豚は虚空を見上げながら恍惚の声をあげた。朝比奈の鼻が豚の腹に何回も当たり、細い喉は豚の男根の形をくっきりと浮かび上がらた。朝比奈はもはや悲鳴すら上げることが出来ず、ただ白目を剥いて頭を揺すられるに任せた。
「ああぁ……出るよ……出るよ出るよ、出るよ朝比奈ちゃん!」
 豚は胃まで到達するほどの勢いで、一層深く男根を朝比奈の喉にねじ込んだ。同時に、とんでもない量の粘液が朝比奈の喉奥に放たれた。朝比奈の意識はすでに飛んでおり、白目を剥いたまま無抵抗に粘液を流し込まれるに任せた。
※こちらの文章はラフ書きになります。製本時には大きく内容が変わる可能性があります。

名称未設定-5のコピー


「いやぁこれはこれは、お騒がせして申し訳ございません」
 豚は満面の笑みを浮かべ、のっそりと歩み寄ってきた。見た目に反してよく通る聞き心地の良い声だった。「我々は、皆様に危害を加えるつもりはございません。少々手荒なノックをさせていただきましたが、本日は皆様にごお申し入れあり、こうして出向いた次第でございます。もちろん扉の修理代もお支払いさせていただきます」
 綾が眉根を寄せたまま、豚から視線を逸らさずにスノウの方に頭を傾けた。
「知ってるの? あいつのこと」
 スノウが頷いた。
「レイズ社の社長秘書の男。私も昨日一回会っただけ。なんであいつがここに……」
 豚がスノウを見つけると、ますます口元が綻んだ。向こうもスノウがここにいることに対して驚いているようだ。
「おやおやこれはこれは! スノウ・ラスプーチナ様ではありませんか。まさかこんな所でお会いできるとは何たる偶然。もうお会いできないかと思い、胸が締め付けられる思いでした。なんと言ってもスノウ様は、私の理想の女性でございますから」
 豚の言葉にスノウの全身に鳥肌が立ち、呻きながら自分の身体を抱きすくめた。綾が気の毒そうな視線をスノウに送った。
「おっと、これは大変失礼をいたしました。まだ皆様に自己紹介をしておりませんでした。と言っても名乗るほどの者ではございませんので、私のことはこの見た目通り『豚』と呼んでいただければ幸いでございます」
「申し入れとは何だ?」と、鷺沢が鋭い声で言った。
 豚は相変わらず笑みを浮かべながら、ポケットからハンカチを出して自分のスキンヘッドを拭いた。気温は低いが体感温度が高いのか、汗をかいているようだ。豚は鷺沢の質問など無かったかのように、ゆっくりとした動作で頭と首を拭き、ハンカチを丁寧に畳んでポケットに仕舞った。たっぷり三十秒は沈黙の時間が続いた。
「──和解の申し入れでございます」と、豚が上目遣いで言った。
「和解?」と、鷺沢が聞き返した。
「ええ、我々人妖と、あなた方人間との和解です」
 豚は胸の前で両手を揉みながら話を続けた。
「我々と人間は姿形が変わらないのに、我々が人間を栄養源にするというただ一点のみで、長い間争ってまいりました。しかしもともとは、過去の人間の『完璧な人間を造る』という身勝手な思いつきによって、我々が生み出されたことに端を発しております。まぁ完璧な人間と言いながらも、目的は兵器や労働力として使用するためでした。機械のように自由に使える便利な奴隷が欲しかったのです。過酷な環境にも耐えられるように身体能力を高められました。兵器や機械に食事や排泄は邪魔な機能なので削除されました。食料が無くても生きられるように人間との粘膜接触で養分を摂取可能にされました。人間と見た目が変わらないのなら夜の世話もさせたいと、容姿が優れるように遺伝子操作をされました──まぁ時々私のように容姿が醜い者も存在しますが、それはさておき、そのような過去の人間の思惑があって我々がここに存在しているのでございます。やがて、研究者の誰かが我々を恐れ始めました。身体能力が高く、知能も人間と変わらない。食事も必要ない。いわば我々は人間の上位交換です。奴隷にするどころか、反逆されたら勝ち目はない……と考えたのです。恐怖というものは、今も昔も素早く伝播します。研究者の中で人妖を残らず処分すべきという案が多数派になってきました。兵器や労働力として期待する研究者はもちろん反対しました。やがて世界中で内乱が起き、研究所が破壊され、混乱の中で多くの人妖が人間社会に逃げ込みました。それ以来、我々と皆様の泥沼の争いが続いているのです。我々は、なにも外宇宙から侵略しに来たエイリアンではございません。もちろんそちら側にも言い分はおありでしょうが、我々としましても勝手に生み出され、勝手に迫害や排除の対象にされるというのは、いささかそちら側に都合が良すぎるのではないかと思っております。しかしその議論は不毛です。我々は十分争った。そして疲弊した。それでいいじゃありませんか。過去のことは水に流し、和解して共存共栄の道を歩んだ方が建設的だとは思いませんか?」
「共存共栄の道だと?」と言いながら、鷺沢が怪訝そうな顔になった。鷺沢の隣では、朝比奈が今にも飛びかかりそうな勢いで豚を睨んでいる。
 ええ、と言いながら豚は両手を揉んだ。「そうです、共存共栄です。幸い、我々と皆様は姿形が同じです。言葉も通じます。姿形が違って言葉も通じない犬や猫と共存している皆様なら、我々と共存することなど容易いでしょう。ではどのように共存するのか? 皆様が犬猫と共存出来るのは、上下関係を明確にしているからです。犬猫に住処や餌の供給をすることによって生殺与奪を掌握しているからこそ、問題なく共存できているのです。では我々と皆様の上下関係はどうでしょうか? どちらが生物として優れているのかと言えば、失礼ながら我々と言わざるを得ません。これは我々から見た贔屓目ではなく、生物としての能力が明らかに我々の方が優れているからです。なぜなら先ほども申し上げた通り、皆様よりも優れた存在になるようにと、皆様がそう造られたからです。アンチレジストの皆様が必死に厳しい訓練を行い、最新技術を駆使した武器や戦闘服を身につけても、そこにおられる五人のように一部の才能のある方がようやく丸腰の我々に敵うかどうかという状況は、皆様もご理解いただける事実だと思います。しかし、では犬猫のように我々が皆様を扱えばいいのかといえば、そんな愚かで残酷なことはいたしません。あくまでも共存、そして共栄が目的です。簡単なことです。皆様も人妖になればよろしい」
 豚が満面の笑みで、胸の前で両手を叩いた。
「お互い立場が違うから憎しみ合うのです。ならば同じ立場になってしまえば、争う必要はありません。皆様はより優れた存在に進化できる。人間は一部を補給用として養殖すれば問題ありません。そのうち餌の人間は牛肉のように、容姿によってランク付けがされるかもしれませんな。はははは」
「ふざけるな!」
 全員が叫んだ主に顔を向けた。朝比奈が両方の拳をぐっと握りしめて、わなわなと震えている。
「黙って聞いていれば勝手なことを……。人妖と共存、ましてや私たちに人妖になれだと? ふざけるな! 私は友達を人妖に拐(さら)われたんだ! アンチレジストに入ったのも友人を見つけるためだ。人妖と共存なんかできるか!」
「おお、それはお気の毒に……」と、豚が眉をハの字にして言った。「ですが、そのご友人は果たして不幸だったのでしょうか? 我々人妖の補給は、人間にとってはこの上無い快楽のようです。我々の体液には、それこそ麻薬のような作用がある。人間達が自らの快楽を高めるために、我々をそのように造ったのです。あなたが厳しい訓練や戦闘をしている間に、ご友人はベッドの中で我々の男根でもしゃぶっているのかもしれませんよ?」
 朝比奈が飛び出した。
「待て朝比奈! 挑発だ!」
 鷺沢が止める一瞬早く朝比奈は駆けていた。綾と美樹、スノウも朝比奈を追う。
「ああああああああッ!」
 朝比奈が怒りに叫びながら跳んだ。朝比奈の身長は同世代よりも低いが、その跳躍は豚の頭の高さを軽く超えた。
 豚はまだニヤけた顔で朝比奈を見ている。
「まずい……」と美樹が言った。
 小柄な体を活かして豚の下半身を狙えば、勝機はあったのかもしれない。
 確実に勝てる状態でなければ、相手の正面に飛び込むなど絶対にしてはならない。
 ふん! という豚の気合と共に、ボグン……という重い音が響いた。
 殴りかかろうと振りかぶっていた朝比奈の小さい身体が、一瞬でくの字に折れる。
「ゔッ!?」
 普段のしゃんとした朝比奈からは想像できないほど濁った悲鳴。
 豚は飛び込んできた朝比奈の腹に、丸太のような拳を容赦無く打ち込んだ。その巨体からは想像できないほどの鋭く凶悪な攻撃だった。
「がぶッ……!?」
 豚の拳に腹部を陥没させられたまま、朝比奈は大口を開けて空気を求めるように天を仰いだ。身体にぴったりとしたスーツが痛々しくめり込み、ミシミシと音を立てている。
「ダメダメ。子供が大人に殴りかかるなんて」
 豚は笑みを浮かべながら、意識が途切れかけた朝比奈の腹から拳を抜き取ると、背後から抱き抱えるようにして朝比奈の首に腕を回した。
「大人に逆らったらどんな目に遭うのか、みんなに見てもらおうね?」
 朝比奈の背中にも腕を当て、首を絞めあげるようにして強引に朝比奈の身体を反らせる。
 グキッ……という嫌な音と共に、朝比奈の背が弓なりに反らされる。
 絞首刑と海老反りを合わせたような拷問のような責めに、朝比奈の窄めた口から「ぐぷっ」水っぽい音が漏れた。
「おっと、それ以上近づくと、この子の背骨がポッキリと折れてしまいますよ?」
 豚が走り込んでくる鷺沢達に言った。豚がわずかに力を強め、朝比奈の背骨から嫌な音が聞こえる。綾が「くっ」と悔しそうな声を出して静止した。
 豚は朝比奈を抱き抱えたまま後ずさる。
 手下の賎妖が後部座席のドアを開けて控えていた。豚が朝比奈を抱きすくめたまま、難儀そうに乗り込む。
「そうそう、肝心なことを言い忘れておりました」と、豚が言った。抱えられている朝比奈は、豚との体格差もあって人形のように見えた。「我々は夢物語をしているのではありません。我々は皆様人間を、簡単かつ安全に人妖に造り替える方法を確立いたしました。志半ばにこの世を去った同志、篠崎冷子が成し得なかった研究を、我々の新たな指導者ノイズ・ラスプーチナ様がその天才的頭脳を用いて、いとも簡単に成し遂げられたのです」
 スノウの顔色が、魂が抜けたように真っ青になった。
 豚はその表情の変化を楽しむようにスノウと視線を合わせ、喋り続けた。
「我々は返事を待つつもりはございません。あなた方が我々の提案を受け入れようが拒否しようが、プロセスは着実に実行いたします。そのための準備も進んでおります。皆様の意思とは関係なく、皆様は人妖になるのです。しかし、ここの皆さんはとても美しい。願わくば皆さんは人妖にならず、人間牧場で我々の栄養源になってほしいものですな。はははは」
 賎妖達の車は朝比奈を乗せたまま急発進し、見えなくなった。
 鷺沢が悔しそうに舌打ちをすると、踵をかえして本部に向かった。出迎えるようにシャッターが開いた。
「朝比奈戦闘員が連れ去れれた。すぐに追うぞ。輸送車の準備をしろ」
 鷺沢が素早く指示を飛ばした。背後を振り返り、綾たちを見回す。
「すぐに出動だ。朝比奈戦闘員を無事に連れ戻してほしい。すまないが、私はここに残って全体の指揮を執る」
「ええ、必ず探し出して保護します」
 綾の言葉に、鷺沢は首を振った。
「探し出す必要はない。シャッターを出る瞬間に車に向けて発信器を飛ばしておいた。反応を追えば奴らの居場所がわかるはずだ。あいつら……和解どころか宣戦布告してくるとはな」

「車に発信器が付けられているでしょうから、予定地点で車を放置してください」
 豚が耳に当てている携帯電話の向こうで、ノイズがまるでゲームを楽しむような声色で言った。
「発信器ですか? いつの間に」と、豚が眉を上げた。
「その程度はやってくれないと困ります」と、ノイズは静かに笑った。手短に用件を伝え、その都度豚が丁重に返事をしながら頭を下げた。
「なるほど……えぇ、仰せの通りにさせていただきます」
 豚が電話の向こうのノイズに対して、限界まで頭を下げる。背後から抱き竦められたままの朝比奈の身体が折れ、苦しそうな声を出した。豚は電話を終えると、さて、と言いながら破顔して朝比奈の顔を覗き込んだ。
「朝比奈ちゃんと言ったかな? まったく、とんだ土産をもらったものだ。スノウちゃんに再会できただけでも天恵なのに、まさか君みたいな天使がいるとはね。他の女供は全員十代後半のババァばかりで、目が腐るかと思ったよ」
 豚が朝比奈の頬を力づくで掴んで、強引に口を開かせた。そして自分の舌を朝比奈の小さい口にねじ込む。朝比奈の目が見開いた。豚はじゅるじゅると音を立てて朝比奈の舌と唾液を吸い、自分の唾液と混ぜ合わせて朝比奈の口に押し戻した。朝比奈の小さい口から溢れた唾液が喉を伝う。
「どうだい大人のキスは? これからたっぷり教えてあげるからね。朝比奈ちゃんみたいな小さくて可愛い子がこんなエッチな格好をしてたら、どんな風にレイプされちゃうのかを」
 豚は再び朝比奈の口を吸いながら、朝比奈の足の付け根に手を這わせた。運転手は見ないフリをしている。豚達を乗せた車は人気の無い港湾の倉庫に入っていった。


※こちらの文章はラフ書きになります。製本時には大きく内容が変わる可能性があります。

NOIZ7のコピー


 綾がベッドの上に身を起こそうとすると、ノイズに蹂躙された内臓が悲鳴を上げた。「うぶッ!?」とえずいて口元と腹を押さえ、ビデオの一時停止を押したように固まる。内臓がギュルギュルと音を立てて、捻れるように痛んだ。鷺沢がベッドに駆け寄り、綾の身体を支えた。
 医務室の中央では憔悴しきった男性戦闘員が丸椅子に座っている。美樹は壁に寄り掛かって腕を組み、スノウは部屋の隅の椅子に座ったまま、両手で頭を抱えていた。
「あの女は会議室に突然現れたんです……」と、男性戦闘員が何も無い床をじっと見つめたまま話し始めた。「現れたと言っても、ドアを開けて入ってきたのではありません。我々が着席して会議が始まるのを待っていると、まるで最初からずっとそこにいたかのように、いつの間にか部屋の隅の椅子に座っていたんです。もちろんざわつきましたが、如月シオン上級戦闘員が戻ってこられたと喜ぶ者もいました。その中の一人が駆け寄り、次の瞬間に崩れ落ちるように倒れたんです。なにが起きたのか、誰もわかりませんでした……」
「会議なんて予定されていなかっただろう」と鷺沢が険しい顔をして言った。
 戦闘員は首を振った。「ファーザーの声で放送がありました。本部に残っている戦闘員は、直ちに中央会議室に集合するようにと。半年振りのファーザーの指示に驚きましたが──」
 怪我人は男女合わせて十八名に及んでいて、そのほとんどは綾と同じように一撃で戦闘不能にされたそうだ。上級戦闘員ですら一撃で倒され、残った一般戦闘員やオペレーターは手も足も出ず、蜘蛛の子を散らすように逃げ隠れたらしい。男性戦闘員が医務室から出ていくと、不安そうに医務室を覗き込むオペレーターや一般戦闘員の姿が目に入った。鷺沢は廊下に出て、残った戦闘員は自分の持ち場で待機し、オペレーターはなるべく一箇所に固まるように指示した。
「──なにがどうなっているのか、話してもらうぞ」
 美樹がスノウに言った。問い詰めるのではなく、語りかけるような口調だった。「ノイズ・ラスプーチナと言ったな。あれはシオンなのか?」
 美樹の言葉に、スノウは黙って首を振った。
「あれは、お姉様じゃない……」
 暗い声でスノウが言った。
「じゃあ誰なんだ? お前のもう一人の姉か? それとも親戚か?」
 スノウはまた首を振った。なにかを言おうとして息を吸い込み、ため息を吐くのを繰り返した。やがて決意したように顔を上げた。
「もう全部話すわ……あれは以前お姉様の中にいた、もう一人の人格なのよ……」
 美樹と鷺沢は顔を見合わせた。綾も驚いた顔をしている。
「……なんだその安っぽい漫画みたいは話は」と、美樹が呆れたように言った。「あいつとの付き合いは二年になるが、そんな気配は全く無かったぞ」
「付き合って二年……? じゃあ美樹はお姉様の何を知っているの?」と言いながら、スノウは美樹を睨んだ。「おかしいと思わなかったの? お姉様ほど聡明で、自分で言うもの何だけど世界的企業の長女が、理由もなく遠く離れた日本で一人暮らししているわけないじゃない! それこそ安っぽい漫画みたいな設定だわ。お姉様に及ばない私ですら飛び級で大学を卒業しているのよ? お姉様ほどの人が今だに日本で高校に通っているなんて、アスクレピオスとラスプーチナ家にとってはとんでもない機会損失よ!」
 スノウは一気に捲し立てた後、下を向いて首を振った。
「──ごめんなさい。人が踏み込んでほしくない領域には踏み込まない……美樹は昨日言ってたわよね。知らなくて当然だわ……」
「その踏み込んでほしくない領域が、とんでもない機会損失を受け入れてまでシオンが日本にいる理由なんだな?」
 美樹の言葉に、スノウが頷いた。
「……お姉様はね……お父様を殺してしまったのよ」
 スノウが震えながら絞り出した言葉に、三人は絶句した。
 綾が呻きながらベッドから降りた。
 鷺沢と美樹が慌てて止めたが、綾は振り切って肩で息をしながらスノウを睨んだ。
「何よそれ……? シオンさんがそんなことするわけないでしょ!?」
「不幸な事故だったのよ!」
 スノウが叫んだ。目に涙を浮かべながら歯を食いしばっている。「お父様はとても忙しい方で、その日は半年ぶりに家に帰ってきたの。両手にプレゼントを抱えて、私達を驚かせようとこっそりと階段を上って来た。そして喜んだお姉様がお父様に抱きついたの……。お父様はバランスを崩して、階段からお姉様と一緒に落ちてしまった。お父様はお姉様を庇って、自分をクッションにして守ったんだけど、大理石の床に後頭部を強く打って……。不幸な事故よ……私はもちろん、家族は誰もお姉様を責めなかった……。対外発表では、お父様は一人で足を滑らせたことになっているわ……今でもね」
 医務室の中は水を打ったように静かになった。
 「綾の言う通りよ……私だってそう思ってる」とスノウがポツリと言った。「お姉様がそんなことするわけない……。あれは不幸な偶然が重なってしまった事故なのよ。私も家族ももちろん強いショックを受けたけれど、でもお姉様のせいにはしなかった……。何回も言うけれど、これは事故なのよ。でもお姉様だけはそう思わなかった……。自分がお父様を殺したんだと、お姉様は自分を許さなかった。お姉様はそれはもうひどく落ち込み、ベッドから起きられず、食事も摂れない状態になった。そして数日後に意識を失って倒れたの」
 冬の海のような沈黙はまだ部屋を支配している。
 スノウは涙を袖で拭うと、話を続けた。
「生まれた時から『良い子』『良い子』と周囲から言われ、期待され、自分自身もそうあろうと努力してきたお姉様が犯した最大のタブー。お姉様はそれを受け止めきれなかった……。そして、病院のベッドで目が覚めたお姉様は、事故のことはなにも覚えていなかった。何事もなかったかのように、いつもの明るいお姉様に戻っていて、なぜ自分が病院にいるのかすらわかっていなかった。私達家族はむしろ好都合だと思って、対外発表と同じ内容をお姉様に伝えた……。でも、なにも解決していなかったの……。お姉様はちゃんと覚えていた……お父様の死の記憶と真実を、別の人格に移しただけだった……」
「その移された人格というのが、さっき綾を襲った女か……」
 美樹の言葉に、スノウは苦い顔をして頷いた。
「……お姉様は自分の中に、自分ではない『悪い子』を造ってしまったの。それ以来、お姉様の様子が時々おかしくなった。『悪い子』のノイズが表に現れてくるようになった。私はお姉様じゃないってすぐにわかったわ。お母様はすぐに専門の医者を雇って、医者の提案でお姉様を、お父様の死を想起させるラスプーチナ家から遠ざけることに決めた。ラスプーチナ性ではなくお母様の如月性を名乗らせて、日本のお母様の実家に住まわせて、アナスタシア聖書学院の初等部に編入させたの。雇った医者が優秀だったみたいで、日本に行く前の段階でノイズはすっかり出てこなくなった。医者はノイズが消滅するのは時間の問題だけれど、念のために高校を卒業するまではお姉様は日本で暮らしたほうがいいと言ったわ。これがお姉様が日本にいる理由……」
 綾はやるせないような表情を浮かべままま壁を叩いた。「過去に何があったって、シオンさんはシオンさんじゃない……」
 そうだな、と美樹も暗い顔で言った。
「だが、少しわからないな」と、美樹は腕を組んで言った。「今の話だと、日本に来る前にノイズはほとんど消滅しかかっていたんだろう? シオンが高校卒業まで日本に滞在するのはあくまでも保険的な措置で、問題はほぼ解決していたはずだ。さっきも言ったが、私はこの二年間、シオンがそんな問題を抱えているなどとは微塵も思わなかった。お前だって来日するたびにシオンの家に泊まったんだろう? シオンにおかしいところがあればすぐに気が付いたはずだ。なぜ消えたはずのノイズが存在しているんだ?」
 スノウは、わからないと言って首を振った。「私にも、正直お姉様になにが起きているのかわからないの……。そもそもこんなに長い時間ノイズが出現し続けていることすらあり得なかった。子供の頃ですら、長くても一時間程度しか出現しなかった……。私は来日前からあらゆる可能性を考えたけれど、でもあれはノイズで間違いないわ。あの恐ろしい笑顔は子供の頃に見たままだったし、ノイズは『良い子』と『悪い子』という区別にとてもこだわっていたから……」
「なるほど。そういえば私にも『悪い子』だとか言ってきたな……」と言いながら、美樹は目を瞑って鼻筋を揉んだ。
「私がノイズの出現に気が付いたのは二週間くらい前。アスクレピオスの財務システムにハッキングがあったの。気がついたのは私だけ。大型の投資案件に紛れ込ませた不正融資で、融資先は日本のレイズ社だった。アスクレピオスの中では話題にすら上がっていなかった会社よ。詳しく調べたら、半年前お姉様が行方不明になった直後から不正融資は始まっていて、多くの国や衛星を経由していたけれど、どうやらお姉様の部屋のパソコンからアクセスされているみたいだった。私は誰にも言わず、社内でレイズ社との業務提携の稟議を通して日本に来た。業務提携するつもりなんて最初から無かったわ。私がレイズ社に接触すれば、お姉様といずれ会えるかもしれないと思って……。レイズ社が予想以上に提携に乗り気で、中身が乏しい会社だったのは計算外だったけどね」
「しかし、ノイズは一体なにをしようとしているんでしょうか? そんなウイスキーメーカーに資金提供しても、ノイズ自身にメリットは無い気がしますが」
 鷺沢の言葉に、スノウも首を振った。
「私にもわからない……。ただ、これだけははっきり言える」
 スノウが顔を上げて、全員を見回しながら震える声で言った。
「ノイズの頭脳と身体はお姉様と同じなの……ノイズが何の考えも無しに動いているとは思えない。絶対に何か意味と計算があって行動しているはず……。今日、私達の前に姿を現したのも、そもそも私に不正融資を発見させたのも、計算があっての行動だと思う」
「如月上級戦闘員と同じ……」と、鷺沢が顎に手を当てて言った。「会議室では私を含め、誰もノイズの動きを把握できませでした。あれは全員の死角を一瞬で把握し、共通する死角の中を移動しているんです。如月上級戦闘員の桁外れな頭脳と身体能力が合わさらないと出来ない芸当です。また、如月上級戦闘員は今まで相手を必要以上に傷つけることがないように、相手の急所をあえて外して一撃で倒す戦闘スタイルでした。でもそれは逆に言えば、相手の急所を一瞬で把握できる能力があるからこそ可能なんです。先ほど神崎上級戦闘員が倒された時のように、その気になれば相手に最大限の苦痛を与えることが出来るということに他なりません」
「仮にノイズと戦闘になったら、本気になったシオンが頭脳と能力とフル活用して、手加減無しに襲ってくるということか……」と、美樹がこめかみを揉みながらがら首を振った。「心強い味方ほど、敵に回ると恐ろしいものだな」
「まだ敵に回ったと決まった訳じゃないじゃないですか」と、綾が言った。
 その時、微かに地鳴りのような音が聞こえた。
 全員が無意識に天井を見上げた。
 一瞬置いて、緊急事態を告げる警報が鳴り響いた。
 鷺沢が通路に走った。
 ドアの向こうでは戦闘員達が慌ただしく走っている。
 鷺沢が一人を呼び止めて事情を聞いた。首都高側の入り口に、何者かが車で突っ込んだらしいと男性の戦闘員は言った。「緊急用のシャッターが下されているので、中に入っては来られないはずです。しかし警備担当の報告によると、ロータリーには体当たりした車がまだ残っているそうです」
 鷺沢はすぐにスマートフォンから館内放送を通じて指示を出した。綾はベッドから降りて、パジャマのまま戦闘用のグローブをはめている。「まだ無理だ」と制止する美樹に対して「寝ていられない!」と首を振り、吸入器を口に咥えて緊急用の噴霧式麻酔薬を吸った。
 スノウも医務室を出ようとして走った。
「お前はここにいろ!」と、美樹がスノウの肩を掴んだ。
 警報は相変わらずけたたましく鳴り響いている。
「来たのはノイズの関係者で間違いない! ノイズ本人だっているかもしれない! ノイズがいるということは、お姉様だってそこにいるのよ!」
 スノウが険しい顔をして美樹を振り返りながら言った。素直に言うことを聞くとは思えない勢いだった。仕方なく、スノウを含めた四人で首都高側の入り口に向かった。閉鎖されているシャッターの内側には、十人ほどの戦闘員が待機していた。
「報告します」と、紺色の競泳水着のような戦闘服に、太ももや二の腕までを覆う黒いサポーターを身につけた小柄な女の子が、敬礼しながら鷺沢の前に歩み出た。背中まである黒髪で、背はスノウと同じく150センチほどしかない。顔つきは身体のイメージ通り幼いが、表情は責任感に満ちている。
「朝比奈(あさひな)戦闘員」と、鷺沢は言った。
「はい。この中では私が最もランクが高いので、僭越ながらこの持ち場は私が取りまとめをしています。不審車両は二台。まだシャッターの外で待機しています」
 ハキハキとした口調で朝比奈が報告した。下手したら中学生に見える容姿からは想像できないほどの責任感のある口調だった。
 鷺沢が頷いて、その場の全員を見回した。「よし、これからシャッターを開ける。表に出るのは私と鷹宮上級戦闘員、そして朝比奈戦闘員だ。他の人間は内側で待機。神崎上級戦闘員、どうだ?」
「いけます」と、綾が答えて、拳と掌を合わせた。「麻酔が効いているだけだ、無理はするな」と鷺沢が言った。
「私も出る」と、スノウが進み出た。何かを言いかけた美樹を手をあげて制した。「わかってる。でも行かせて。私はお姉様が帰ってくるのなら、なんだってするわ」
 何かあったらすぐにシャッターを閉じろと鷺沢が言って、一人が通れるギリギリの幅で両開きのシャッターが開かれた。
 車から見て左から朝比奈、鷺沢、美樹、スノウ、綾の順番で横並びになる。
 黒塗りの車が二台停まっていて、車種は最新式のトヨタのセンチュリーとクラウンだった。クラウンにはプッシュバンパーが取り付けられている。こちらが体当たりした車体なのだろう。運転手はまだ乗っているらしいが、車内が暗くよくわからない。やがてセンチュリーの助手席が開き、黒いスーツを着た男が降りて後部座席を開けた。
 ドアの開いた後部座席から、ひときわシワだらけのスーツを着た男が難儀そうに降りてきた。
 かなりの肥満体で、清潔感がない容姿をしていた。
「まさか、賎妖か?」と、鷺沢が眉を潜めて言った。
 後部座席から降りた男が、両手を広げて歩み寄ってきた。
 鷺沢達が身構える。
「あっ」と、スノウが声を出した。
 車から降りてきたのは、三神の秘書を勤めている自らを「豚」と名乗った男だった。

 スノウの所有するロシア製の高級車「アウルス」は静かに首都高を疾走した。
 前方を走る鷺沢の乗った車を追いながら、助手席の美樹が運転手に細かい指示を出している。
 後部座席には綾とスノウが座っている。空間は十分な広さがあり、座り心地は恐ろしく快適で、まるでリビングがそのまま移動しているようだ。しかしスノウはずっと親指の爪を噛みながら身をかがめ、険しい顔をしている。
「大丈夫?」と綾がスノウに聞いた。「車出してもらってなんだけど、私達を下ろしたらすぐにホテルに帰ったほうがいいわ。別にあんたが嫌いとか、意地悪とかで言っているんじゃないの。単純に危険なのよ。アンチレジストの本部に何者かが侵入したなんて前代未聞だし、鷺沢さんの話だと結構な被害も出ているみたい。もし強力な敵がいたら、私や美樹さんでも守れないかもしれない。悪いことは言わないから、本部に着いたらすぐに帰ること。わかった?」
 綾も美樹も、それぞれセーラー服と巫女服を模した戦闘服に着替えている。
 本部に侵入した敵がまだ居座っているとしたら戦闘は避けられない。それ以前に厳重にセキュリティがかけられているアンチレジスト本部に侵入できる敵とは、一体何者なのか。
 スノウは「わからない」と言って首を振った。顔色が悪い。「あまり見くびらないで。私やお姉様は一般人に比べて狙われる危険性が高いから、いざとなったら自分で自分の身を守れる術は子供の頃から身につけている。こう見えても結構強いのよ? 信じられないのなら一度手合わせしてみる?」
「強がってる場合じゃないでしょ? 相手は人妖かもしれないのよ? 誘拐犯なんかとは訳が違う、人間離れした怪物なのよ?」
 スノウは追い詰められたような表情のまま、何も言わずに窓の外に視線を移した。
 車は首都高の地下トンネルに入り、緊急車両用と書かれているシャッターの前で停まった。鷺沢が車から降りて、隣に埋め込まれたパネルに手をかざすと、自動でシャッターが開いた。内部はオレンジ色の照明が等間隔に配置されたトンネルが続いている。しばらく走るとロータリーのような場所に出て、その先はコンクリートの壁で行き止まりになっている。マイクロバスのような車と、数台の乗用車以外は何も無い。
 美樹が「着いたぞ。アンチレジストの本部だ」と言って助手席から降りた。どう見ても行き止まりだ。スノウも戸惑いながら車から降りる。
 鷺沢が壁の一部に掌を当てると、壁の中央が左右に開いて入り口が現れた。先ほどのシャッターと同じ仕組みだ。
 四人が中に入る。
 内部もこれといった装飾はなく、外壁と同じコンクリート剥き出しの壁が一直線に伸びている。左右にはグレーに塗装された鉄製の扉が多数あるだけだ。
 荒らされた様子はないが、静まり返っている。
 綾と美樹が視線を合わせて頷いた。綾が先頭に、美樹が最後尾に立って、鷺沢とスノウを挟むように一列になって進んだ。
「まるで一昔前の生物研究所みたい……」と、スノウがしんがりを歩く美樹を振り返って言った。
「一昔前どころか本当に古い」と、美樹が言った。「だが、今回のような場合には役に立つ。内部は一本道で、見ての通り極力遮蔽物を無くしている。敵が隠れられないようにな。出入口は今入ってきた所と、この通路の突き当たりの二箇所のみで、一本のチューブのような構造だ。だからこの隊列が襲われたときに最も対処しやすい」
「車が随分と少ないように思えたけど?」と、スノウが言った。
「隊員の多くは地上の隠し通路から入っている。地下鉄の駅やビルの中に直通している通路があって、ロータリーの手前に出られる。私も車で来たのは久しぶりだ」
「ドアの中の設備は新しいんですよ」と、鷺沢が言った。「ここまで閉塞感があると職員のメンタルにも影響しますから、会議室やトレーニングルームの内装には気を使っています」
 静かに、と先頭を歩く綾が言った。
 微かに呻き声のようなものが聞こえてくる。
「中央会議室だな」と、美樹が言った。視線の先に木製のドアがある。
 綾が慎重にドアを開けた。
 三十人ほどが入れそうな会議室だが、コンピューターが床の上に落ち、椅子や机が散乱している。倒れている戦闘員やオペレーターの姿が目に入った。四人がそれぞれ駆け寄って介抱すると、いずれも致命傷ではないようだ。
 突然、天井に埋め込まれたスピーカーが起動した。
 ──遅かったな。
 機械加工された男性の声。
 聞き慣れた声だ。
「ファーザー?」と鷺沢がつぶやいた。
 四人は無言で天井を見上げた。
 ──アンチレジストがここまで不甲斐無いとは思わなかった。人妖相手に、よく今まで持ち堪えられたものだ。
 鷺沢が天井に向かって叫んだ。「ファーザー、どこにいるんです?! みんなあなたを待っていたのに、そんな他人事みたいに……」
 ファーザーは低い声で笑った。
 スノウはガタガタと震えている。
 異様な怖がり方だ。
 歯がガチガチと鳴り、その音は近くにいた綾にまで聞こえた。綾が気がついて、スノウの手を握った。
「どうしたの? 大丈夫?」
 綾が問いかけても、スノウは戦慄したままだ。こんなスノウの姿を見たのは初めてだった。美樹と鷺沢もスノウのただならぬ様子に気が付き、近くに駆け寄った。美樹が屈んでスノウに目の高さを合わせて「どうした?」と聞いた。
「な……なんで」と、スノウが震える声で言った。
 スノウは両手で頭を抱える。「なんでファーザーシステムが起動しているの……? こっちから操作できなくなったはずなのに……」
「……なんだと?」と美樹が言った。
 スノウは小刻みに首を振った。歯が鳴らないように、必死に歯を食いしばっている。
 ──あら? スノウもいるの?
 スノウの顔から、ふっと表情が消えた。
 突然地面が消えて、自分が奈落に落ちていくのを理解した瞬間のような顔をしていた。
 突然ファーザーが女性のような口調になったので、スノウ以外の三人は目を見合わせた。
 スピーカーに一瞬ノイズが走り、プツンと音を立てて通話が途切れた。
 会議室は水を打ったように静かになった。
 事態が把握できない。
 今のは一体何なんだ。
 やがて、コツコツという足音が廊下に響いてきた。
 こちらに向かってくる。
 誰も口を開かず、押し黙ったまま会議室の入り口を凝視した。
 人影が現れた。
「……シオンさん?」
 綾が呟くように言った。
 その人は、胸元の大きく開いた黒いドレスを着ていた。ぬめるような光沢の、最高級のシルクが使用されていることがひと目でわかる。赤いエナメルのヒールから黒いガーターベルトの付いたストッキングが伸び、ドレスの中に続いている。深紅のジャケットを半脱ぎにして腕に掛け、両手には黒いレースの手袋をはめていた。そして、所々に血のような赤い毛がマダラに混ざった長い金髪を、ツインテールにまとめている。
「お前……なにをしている?」
 美樹が幽霊を見たような口調で言った。
「や……やっぱりあんたの仕業だったのね!」
 突然スノウが叫んだ。三人が驚いてスノウを振り返る。スノウは両手を血が出るほど握り込み、歯をむき出しにしてドレスの女性を睨んでいた。
「あら? どうしたのスノウ? そんなに怖い顔をして?」
 女性は歌を歌うような柔らかい口調で言った。スノウの取り乱した様子など意に介さず、人差し指で自分の唇を撫でながら首を傾げている。「久しぶりの姉妹の再会なんだから、もう少し喜んでもいいんじゃないかしら?」
「お前は私のお姉様じゃない!」
 スノウは喉が裂けそうなほどの勢いで叫んだ後、憎々しげに食いしばった歯の隙間から「……ノイズ・ラスプーチナ」と絞り出すように言った。
「ノイズ・ラスプーチナ? シオンじゃないのか?」
 美樹がスノウからノイズに視線を移した。服装や髪の色以外はシオンそっくりだが、表情や雰囲気がまるで違う。ノイズはゆっくりと室内に入ってきた。
「シオンさん何やってるの?! みんな心配してたのよ!」と言いながら、綾がノイズに近づいた。
「綾!? ダメ!」とスノウが叫ぶ。
 ノイズの姿が一瞬で消えた。
 四人が呆気に取られる暇もなく、ゴリュッ……という嫌な音が室内に響いた。
 再び姿を現したノイズは綾のセーラー服のリボンを掴み、前屈みになった綾の腹に膝を打ち込んでいた。
「──ぐぷっ!?」と、綾の口から水っぽい音が漏れた。
 ノイズは「くふっ」と小さく笑うと、綾の腹に打ち込んだ膝を別の生き物のようにねじり、胃と肝臓をすり潰すように掻き回した。ぐぢゅり……という厭な音と共に、綾の身体が電気に打たれたようにビクンと痙攣した。
「ぎゅぶえッ?! げぅッ?! ゔぶっ……う……うぶえろおぉぉぉぉ……!!」
 綾は膝から崩れ落ち、額を床にしたたかに打ち付けた。そのまま床にエビのように丸まり、白目を剥いたまま嘔吐した。一瞬で急所という急所を同時に潰されたことによる凄まじい苦痛が身体中を駆け巡り、両手で腹を抱えたまま痙攣している。
「まぁ汚い。人前で嘔吐するなんて、私だったら恥ずかしくて生きていけません」
 ノイズは笑みを浮かべたまま口元に手を当て、蔑みの混ざった視線で綾を見下ろした。
 再びノイズの姿が消え、スノウの前に表れた。横切られたはずの美樹と鷺沢にはノイズの姿は見えず、風だけが美樹と鷺沢の髪を揺らした。
 ノイズは中腰になって、真っ青になったスノウの顔に鼻が触れ合うほど自分の顔を近づけた。
「そんなに怖い顔しないで? 大丈夫、スノウの大好きなシオンは、ちゃんと『良い子』にしているわ」
 ノイズが至近距離でスノウの目を覗き込んで首を傾げた。顔は満面の笑みだが、目は全く笑っていない。綺麗なエメラルドグリーンの瞳の下半分は、内出血したように赤色がせり上がっている。シオンと同じく顔の造形が異様に整っているだけに、背筋が凍るような不気味さがあった。
 スノウは恐怖を振り切り、ノイズに向けて蹴りを放った。体幹と重心を固めた、美樹や鷺沢が見ても唸るような見事な蹴りだった。攻撃が当たる前にノイズの姿が消え、スノウの蹴りは空を切った。
 ノイズは机の上に姿を現した。 
 下着が見えるのも構わずしゃがみこんで、「危ないじゃない?」と言いなら自分の小指を蠱惑的に舐めている。
「あら? あなた……」とノイズが嬉しそうな顔をして、スノウから美樹に視線を移した。「良い目をしているわね? 目の奥底が暗いわ。『悪い子』の目……過去になにがあったの?」
 何が嬉しいのか、ノイズは限界まで口元を釣り上げた。
「許さない……絶対に許さない!」と、スノウが叫んだ。
 スノウが美樹の横をすり抜け、ノイズに飛びかかった。跳躍して前転し、ゴシックロリータのスカートを翻してノイズ目掛けて踵落としを仕掛ける。シオンの得意技だ。派手な音を立てて机が割れたが、ノイズの姿は既に消えていた。ノイズはそのまま姿を表さず、床に転がった綾が苦しげに呻く声だけが残った。


※こちらの文章はラフ書きになります。製本時には大きく内容が変わる可能性があります。

NOIZ7

予告


 シオンのマンションを訪れた翌日、綾と美樹は指定された午後六時にスノウの宿泊しているホテルを訪れた。
 海外の要人が宿泊するホテルで、スノウの滞在しているスイートフロアには着物を着た専属のアテンダントがいて、綾と美樹をエレベーターから部屋まで案内してくれた。ドアをノックすると、会見に同席していたスノウの秘書がドアを開けて出迎え、お待ちしておりましたと流暢な日本語で言った。
 室内は家族向けのマンションのように広く、歴史を感じる英国調のインテリアでまとめられていた。秘書がリビングに案内すると、スノウは相変わらずゴシックロリータの服を着て、執務机で真剣な顔をしながらパソコンを操作していた。パソコンの隣には部屋の雰囲気にそぐわないカラフルなチュッパチャプスのホイールディスプレイが置かれていて、スノウが既に食べたのか、三分の一ほどが無くなっている。
「そこに座ってて」とスノウがパソコンのディスプレイを見たままぶっきらぼうに言い、ロシア語で秘書になにやら指示を出した。秘書が二人にソファを勧めると同時に、ルームサービスが三人分の紅茶を持って部屋に入ってきた。紅茶の他に小皿が二つあり、イチジクのジャムと小さなスプーンが添えられている。シオンが好きだった組み合わせだと綾は思い、胸が詰まるような感覚を覚えた。
 秘書が一礼して別室に移動すると、三人はしばらく無言になり、スノウがキーボードを叩くカタカタという音だけが広いリビングに響いた。スノウは真剣に仕事をしているらしく、時々何か呟きながら画面を見つめ、英語で二本、ロシア語で一本、電話をかけた。ディスプレイから覗くスノウの真剣な顔が青白い光に照らされている。まるで人形が座っているように見えた。シオンも人間離れした現実感が無い容姿をしていたが、スノウも同様に、どこか遠い世界の存在のように思えた。
「電話の内容を聞くに、海外支社の財務諸表を照合しているらしいな」と、スノウの英語を聞き取った美樹が綾に耳打ちした。「相手を雑に扱うポーズをすることは主導権を握るための常套手段だが、どうやら本当に急用らしい。急かさない方がいいだろう」
 しばらくして、スノウが椅子に座ったまま伸びをした。仕事が終わったらしい。スノウはまるでマニ車のようにチュッパチャプスのホイールディスプレイを回し、くじ引きをするように一本を引き出して、慣れた手つきで包み紙を解いて口に咥えた。一日の仕事を終える際に毎回行うルーティンなのか、あまりにも滑らかな動作だった。スノウはチュッパチャプスを口に咥えたままソファに歩み寄り、「悪かったわね。こっちから呼んだのに待たせちゃって」と二人に言った。
 スノウは二人に向かい合って座ると、背もたれに身体を預けてストレッチをするように背中をそらしながら、親指と人差し指で目頭を揉んだ。
「随分と疲れているみたいだな」と、美樹が言った。
 スノウは首を振った。「別にいつも通りよ。やることをやるだけ。まぁ、確かに少し立て込んではいるけどね……」
 強がってはいるが、スノウは明らかに疲労の色が見て取れた。綾と美樹も十分に若いが、スノウはそれよりもはるかに若く、身体も小さいのだ(本人に言うと怒るはずだが)。世界的企業の中枢に属し、海外で商談をまとめるなど、その小さな身体にかかっている重圧はいかほどのものかと二人は思った。もちろんそれに見合うはずの収入は得ているはずだが、スノウの年齢からすればそれは大して重要ではないのかもしれない。
「ウイスキーの業務提携の話は順調なのか?」
 美樹の言葉に、スノウは紅茶を飲みながら首を振った。
「順調もなにも、昨日決裂したわ」
 まるで一度も訪れたことがない店の閉店を告げるような、あっさりとした口調でスノウが言った。あまりの興味の無さに綾が驚いた。
「えっ? そのために日本に来たんでしょ?」
「別に。最初からウイスキー事業なんて興味が無いし。あの程度の利益が見込める商談なんていくらでも作れるわ」
 スノウはカップをソーサーに戻すと、小皿のジャムをスプーンで掬って口に運んだ。そして真剣な顔をして二人に向き合った。
「あの男はむしろ、あんた達の方が関係があるんじゃない? アンチレジストとして監視対象にした方がいいと思うわ」
「どういうことだ?」と、美樹が身を乗り出して聞いた。
 部屋がノックされ、スノウの秘書が顔を出して「お見えになりました」と言った。
「ちょうど良かった」とスノウが言った。
 綾と美樹が注目する中、聡明な雰囲気の女性がリビングに入ってきた。女性はスリットの入ったタイトスカートのスーツを着て、ショートカットの髪を軽く染めている。元上級戦闘員で、オペレーターのリーダーを務めている鷺沢(さぎさわ)だ。現在は行方不明になったファーザーの代わりに代理で総指揮を執っているアンチレジストの重要人物だ。
 鷺沢は驚いている綾と美樹に目で挨拶し、スノウの前に進み出た。
「はじめまして。アンチレジストでオペレーターのリーダーを務めている、鷺沢です。現在、指揮官であるファーザーに代わり、私が臨時で指揮をとっています。ご実家のラスプーチナ家、およびアスクレピオス社からは長年多額の寄付をいただき、感謝しております」
 鷺沢はスノウに対して丁寧に頭を下げた。
 スノウは気まずそうに髪を手櫛で梳いた。「そんなに畏(かしこ)まらなくても構わないわ。べつに私が偉いわけじゃないし」
 綾と美樹は顔を見合わせた。アスクレピオスから資金提供があることは昨日スノウの口から聞いていたが、鷺沢のここまでの平身低頭さから察するに、その額はかなり膨大なことは容易に想像がついた。
 さて、と言いながらスノウは三人に向き合った。「本当はこんな回りくどいことはしたくないんだけど、説明するよりも見てもらった方が早いわ」
 スノウが指を鳴らすと、秘書がキッチンワゴンを押してリビングに入ってきた。ワゴンの上にはウイスキーのボトルが二本とチューリップ形のテイスティンググラスが八脚、紙コップが四つ、小ぶりな三角フラスコが二つ乗っている。ウイスキーのラベルは青と赤の二種類があり、それぞれに凝った書体でレイズモルトのロゴが書かれている。
「これ二本で六十万円だって。青い方がスタンダードラインの『ブルーラベル』で、赤い方がリミテッドラインの『レッドラベル』。都内のバーで未開封のボトルを買ってきたの」
 ボトルの説明をするスノウを三人が無言で見つめた。一体なにをするつもりなのだろうと綾は思った。ほぼ未成年しかいない中、まさかこの出会いに乾杯というわけではあるまい。スノウはスタンダードラインのブルーラベルを手に取り、慣れた手つきでテイスティンググラスと三角フラスコに中身を注いだ。
「綾、飲んでみる?」と、スノウが意地悪そうな顔で言った。
 綾が首を振った。「飲まないわよ。というか飲めるわけないでしょ」
「じゃあ鷺沢。香りだけ試してみて」
 鷺沢がグラスを手に取り、香りを嗅いだ後に顔をしかめた。
「……これは本物ですか?」と鷺沢が言った。
 スノウが頷いた。「本物で間違いないわ。偽造防止のセキュリティラベルも確認できた」
「……ウイスキーは好きでよく飲むんですが、これは溶剤やゴムみたいな、どちらかと言えばネガティヴな香りが強い気がします。アルコールもかなり立っていて、私はあまり好みではないです」
 スノウに促されて美樹も香りを嗅ぎ、似たような感想を述べた。スノウが真剣な顔で何回か頷いた。
「じゃあ、ここからが本題」と言って、ポケットから小さなビニールパックを取り出して三人に見せた。ピンク色の粉薬のようなものが入っている。
「これが何だか、わかるわよね?」と、スノウがビニールパックを振りながら言った。
「チャームの検出薬だ」と、美樹が答えた。
「そう。あんた達もよく使っているでしょ? 人妖が異性の人間を魅了するために分泌する体液、チャームに反応して青く変色する検出薬」
「……なんでのスノウが持ってるのよ?」と、綾が腕組みをしながら聞いた。
「なんでも何も、これウチの機密部署が作っているんだもの。こういった特殊薬の開発と製造、そしてその効果を秘密裏に実地検証できる環境は、我々製薬会社にとって非常に重要なの」
「アスクレピオスにとってアンチレジストは実験場というわけか。多額の寄付もそのためか?」と、美樹が言った。
「もちろん」と、スノウが言った。「でも悪く取らないでほしいわ。あんた達もこのチャーム検出薬を便利に使っているでしょ? 持ちつ持たれつってやつよ。残念だけど、純粋な意味での寄付は世の中にそう多くはないわ。多額の寄付をする代わりに、それなりのリターンは求めている。優先的な情報提供、プロモーションにブランディング、イメージアップや節税。なんらかの見返りや費用対効果があるからこそ、多くの企業や成功者は寄付という名目の広告宣伝費を支払うのよ。ウチとアンチレジストの関係は、プロモーションというよりはビジネスパートナーに近いわ。人妖やチャームのデータは新薬開発に随分と役に立っている。アンチレジストとの提携は、どこかのウイスキーメーカーとの提携とは比べるものバカらしくなるほど我々にとって有益なのよ」
 スノウがブルーラベルの入った三角フラスコに検出薬を入れた。円を描くように振って攪拌し、白いテーブルクロスを背後にかざす。ウイスキーの色に変化は見られない。
 スノウは「セーフね」と言うと、何の迷いもなくテイスティンググラスの中身を一気に口に流し込んだ。鷺沢以下三人がぎょっとした表情になる。綾は「ちょっ!」と言ってスノウに手を伸ばした。たっぷりダブルの量はあったはずだ。スノウは目を瞑ったまま、しばらく口の中でウイスキーを転がしている。徐々に眉間にシワが寄り、そのまま紙コップを引っ掴むと口の中のウイスキーを勢いよく吐き出した。
「ブリャーチ……変なものは入っていないけれど、香りも味も最悪ね」
 スノウが険しい顔をしながら、袖で口元を拭った。「あちこちから粗悪な原酒を仕入れて、なにも考えずに混ぜただけという感じ。アルコールの刺激と、新聞紙を燃やしたような嫌な煙たさが目立つ。苦味と雑味の主張が強いのに変な甘さもあって気持ち悪いわ。こんなものを作るあいつも信じられないし、有り難がって買う奴はもっと信じられない」
「飲んで大丈夫なの……?」と、綾が呆れたように聞いた。
「飲んでないわ。ちゃんと吐き出したじゃない」
「でも……」
「テイスティングくらいするわよ。仮にも業務提携を提案したのは私なんだし。未成年だから味見はできないけれど良いものです──なんて無責任な仕事は私はしないわ。たとえ決裂した交渉であってもね」
 スノウは話しながらレッドラベルの封を開け、ブルーラベルと同様にテイスティンググラスと三角フラスコに注いだ。スノウが香りを嗅ぎ、顔をしかめる。
「さっきのに比べたら多少はマシだけど、こっちも大したことないわね」
 スノウはレッドラベルの入った三角フラスコにチャーム検出薬を入れた。一見変化が無いように見えたが、白いテーブルクロスに透かすと液体の縁が薄く青みがかっている。
「そんな……」と、鷺沢が呟くように言った。
「これは飲まない方がいいわ」と、スノウが言った。「ごく微量だけどチャームの反応が出ている。この濃度なら依存レベルまで相手を魅了することはないでしょうけれど、製造過程でチャームが混入するなんてあり得ない。あの男が意図的に添加していることは間違いないわ。レイズモルトの味は飲むに値しないけれど、なぜか異様な人気を得ている理由はこれよ」
 スノウは三角フラスコを親指と人差し指で摘んで、顔の横で振った。「レイズモルトは珍しく、一般的にウイスキーとは縁遠いと言われている女性から爆発的な人気になった。やがて、男性が女性の気を引くためにレイズモルトを買い漁り始めた。雑誌でも特集が組まれ、『個性的な味』なんて言われながら一気に知名度が広がった。ものは言い様ね。実際はチャームの依存性で中毒症状が起きているだけなのに」
「あのレイズ社の社長が人妖だったのか……」と、美樹が言った。
「すぐに動かないと。こんなに広範囲にチャームが広がっているなんて前代未聞ですよ」
 綾の視線に鷺沢が頷いた。同時に鷺沢の携帯が震えた。緊急用の回線だ。鷺沢は「失礼」と言って通話ボタンを押した。電話に出た鷺沢の表情がみるみる変わっていく。まるで親しい者の死を突然知らされたような顔になった。
「どうしたんですか……?」と、綾が不安そうな表情で言った。
 鷺沢は通話の切れた携帯を見つめていた。「アンチレジストの本部が……何者かに襲われたみたい」

※こちらの文章はラフ書きになります。製本時には大きく内容が変わる可能性があります。

予告

 綾と美樹が帰った後、スノウは一人でシオンの部屋に残り、ソファに座ったまま頭を抱えていた。
 爪先から血液が逆流するような寒気が駆け上がってきて、心臓が掴まれているような感覚を覚えた。
 もしかしたら、最悪の事態になっているのかもしれない──。
 シオンの生死は不明。生存していたとしても、親友の美樹や綾には一度も連絡を取っていない。新しい情報は何も無かった。
 スノウの脳内であらゆる可能性が試算されている。
 やがてスノウは、普段は決して人には見せない憔悴しきった顔を上げた。「……アンチレジストを、本格的に巻き込むしかないわね」
 スノウの頭脳は、最悪のケースを想定して動くように結論を出した。
 スノウはふらふらとソファから立ち上がると、シオンの書斎への向かった。
 リビングとはテイストの違ったビクトリア様式の内装で、ダークブラウンのフローリングの上に絨毯が敷かれ、大きな執務机の上にマッキントッシュが二台置かれている。一台は電源が切られ、もう一台はスリープ状態のままだ。パスワードは先日突破している。起動させると、ハッキングソフトが静かに稼働し続けていた。画面にはセキュリティを突破されたアスクレピオスの社内システムが表示されていて、いつ、どこにでも送金が可能な状態になっている。
「……なにをするつもりなの?」
 スノウが机に両手をついたまま項垂れて、「お姉様……」と絞り出すように言った。

 午後七時過ぎに、スノウは単独で「レイズ・バー」を訪れた。
 虎ノ門のとある高層ビルの最上階にある、三神の経営する会員制の高級バーだ。
 常にレイズモルトが飲める店だとメディアに多数取り上げられているが、現在は新規の会員は募集されていない。
 重厚なドアの入口にはやけに太った男が待機していて、スノウを見ると「これはこれはスノウ・ラスプーチナ様、お待ちしておりました」と言いながら深く頭を下げた。容姿に反して耳障りの良い声と、完璧な最敬礼だった。
「わたくしは三神の秘書を努めさせていただいておる者でございます。名乗るほどの者ではございませんので、どうぞ見た目通り『豚』とお呼びください」
 豚は顔を上げると、満面の笑みでスノウを見た。
 スノウはかなり引いている。「豚? いや、そういうわけには……」
「いえいえ構いません。三神からもそう呼ばれておりますし、むしろ豚と呼んでいただかなければ私が呼ばれていると気が付きませんので」
 豚は丁寧にドアを開け、スノウを中に招き入れた。バーの照明は薄暗いダウンライトと間接照明のみの落ち着いた雰囲気だ。壁面は全てガラス張りで、眼下に東京の夜景が見えた。客はおらず、バーテンダーすらいない。店内の椅子やソファの背もたれには全て「RAY`S BAR」と筆記体で刺繍がされていた。中央のソファには三神が座っていて、スノウを見ると立ち上がり、自分の向かいのソファを勧めた。
「カッシーナですか」と、ソファに座りながらスノウが言った。
 三神がうなずいた。「ええ、別注したんですよ。イタリアにスーツを作りに行ったついでにね。ここは最高の店にするつもりでしたので、家具も全て最高のものを揃えました。あなたのような特別なゲストをお招きするときの来賓室としても使えるようにするためです。一見客は入れませんし、会員は財界人や芸能関係者ばかりです。この店の価値がわかる人間しか入ってほしくないんですよ」
 三神は両手を広げて語った。スノウは「悪くない」と言った以外は、特に感想を言わなかった。豚がスノウの近くに歩み寄り、失礼いたしますと言って頭を下げた。
「お飲み物はいかがなさいましょう? ここはバーですので、ソフトドリンクも様々なものがございます。ノンアルコールのカクテルもお作りできますし、ご希望であればレイズモルトを含めたアルコールも提供させていただきます」
「遠慮させていただきます。これの前の商談でも飲み物をいただいたので」
 スノウは強気そうな笑みを浮かべたまま、三神から視線を外さずに言った。
「ビールを」と、三神もスノウを見たまま言った。豚は会釈すると、バーカウンターに入っていった。
「失礼。気を悪くしないでいただきたい。大切な商談の時はいつも少し飲むようにしているんですよ。決断の最後の一押しになる」
「構いませんよ。私は仕事の話ができれば、たとえ相手が酔っ払っていようが薬をきめていようが気にしません。後になって、あの話は酔っ払っていたので無かったことに、というのは困りますが」
 ははは、と三神は乾いた声で笑った。豚は脚付きのグラスにミネラルウォーターを入れてスノウ の前に置いた。三神の前にも繊細なカットが施されたビアグラスを二脚置き、三神はそのうちの一杯をほぼ一口で飲み干すと、二杯目にも口を付けた。最後に自分の分のコーヒーを淹れて三神の隣に座った。
「昨日渡したサンプルですが、もう試されましたか?」
 スノウは背もたれに深く身体をあずけながら言った。
 三神は視線をそらし、何回か小さく頷いた。「ええ、まぁ」
「まぁ、というのは? 気に入らなかったということでしょうか?」
「いえ……大変素晴らしかった」
 三神は素直にそう言った。二十種類のサンプルは、いずれも基本的なウイスキーとしての味と香りを押さえつつ、どこかの箇所を鋭く尖らせたような個性と魅力があった。会見でのスノウの高圧的な態度から、サンプルがそこそこの出来であればこきおろしてやろうと考えていた三神だが、まさに打ちのめされた。本当にあのガキが作ったのか? と認めたくない三神は何回も思ったが、同時に、これは売れると確信せざるを得なかった。しかもスノウは必要であればいくつでも作ると言い捨てて去っていったのだ。このクオリティのものを何種類でも量産できるとなれば、まさに革命ではないか。
「それは良かった」と言いながら、スノウは相変わらず小馬鹿にしたような笑みを浮かべると、ミント味のチュッパチャプスを取り出して咥えた。「私も失礼。子供の頃からこの飴が大好きで、咥えていると落ち着くんですよ」
 まだじゅうぶん子供だろうと三神は思ったが、もちろん口には出さなかった。隣ではロリコン趣味の豚がスノウを凝視している。確か昨日は好みのど真ん中と言っていたが……。三神は視線に気がつかれないかとひやひやした。
「……弊社としては、ぜひアスクレピオスさんと提携していただきたいと思っています」
 三神が身を乗り出して言った。スノウは相変わらず背もたれに身体を預けている。悪くないカッシーナの背もたれに。
「私の指示通りにウイスキーを作ると?」
「そうです。今までのラインナップは継続しつつ、新たなシリーズとして、スノウさんのレシピ通りに作ったものを発売したい。シリーズ名は『スノウ』にしようかと思っています」
 はっ、とスノウが呆れたように短く笑った。「私の名前ですか?」
「ええ。スノウさんは昨日の会見以来、日本でかなり知名度が上がっています。話題性もあるし、肝心のウイスキーも素晴らしい。今までにないほど売れますよ、このシリーズは」
「でしょうね。売れるように意識して調合しましたから」
「では、契約条件について話を進めても?」
「いえ、その前にひとつ確認しておきたいことがあります」
 今度はスノウが身を乗り出した。両手を組み、その上に顎を載せている。今までの小馬鹿にしたような笑みが消え、すっと真剣な表情になった。
「そもそもなぜ、レイズモルトはこんなに人気になったんです?」
 三神はやれやれという様子で首を振った。
「それはもちろん、私どもの努力や品質が世間に評価され──」
「違う。あなた達はもともと輸入ウイスキーを日本で瓶詰めして『大和—YAMATO—』という日本的な名前を付け、外国人観光客をターゲットに売り出している小さなメーカーに過ぎなかった。愛好家からは姑息な商売だと反感を買い、ブランド価値は決して高くはなかった。しかし、半年前から突然ラインナップをレイズモルトに一新し、直後に異常なほどのブームになった。いったい、なにをしたんです?」
「確かに最初は投資回収のために輸入ウイスキーをメインにしていましたが、その影で自社蒸留もしていたんですよ。その原酒が育ってきたんです」
「それにしては販売量が多すぎる。私の予想では、現在のレイズモルトの中身はほとんどが輸入ウイスキーで、中身も『大和—YAMATO—』とほぼ変わっていない。しかし人気だけは爆発している。なぜです?」
「ですからそれは先ほども言った通り──」
「なら質問を変えましょう」
 スノウはチュッパチャプスの棒を灰皿に捨てた。カチンと軽い音が響いた。
「ノイズ──という言葉に聞き覚えは?」
 スノウはまるで未知の文字が刻まれた石板の謎を解こうとする考古学者のような表情で三神の顔を見た。
「ノイズ? なんですかそれは?」と三神が言い、炭酸ガスが抜けたビールを飲んだ。
「聞き覚えがあるかどうか、それだけです」
「……英和辞典に載っている、騒音という意味以外では、聞き覚えはありませんね」
「本当に?」
「本当です」
「なるほど──」
 スノウは再び背もたれに背中を預けて、しばらく窓の外の夜景を眺めた。やがて「ではこうしましょう」と言って、スノウは三神に視線を向けた。
「私のレシピから作るウイスキーの名前は、全て『ノイズ』という名前にしていただきたい」
「なんだと」
 三神が立ち上がった。
 スノウが小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。「簡単でしょう? あなた達には聞き覚えも関係もない名前です。ネーミングもシンプルでありながら、なおかつ良い感じに引っかかりもある。あなたのように思わせぶりにするのなら、『歴史あるクラシック音楽のような数多のウイスキーの中の、ノイズでありたい』とでも言っておけば客も喜ぶでしょう。できない場合は、この提携は決裂ということで」
 三神が身体を揺すりながらスノウに近づいた。スノウもソファから立ち上がる。
「……最初から提携する気なんて無かったのか?」と、三神が低い声で言った。
「なにを怒っているんです? ネーミングの提案をしただけなのに」
「うるせぇ。散々コケにしやがってクソガキが。秘書を連れてくるべきだったな」
 三神がスノウを掴もうと手を伸ばす。
 スノウはその手を振り払い、近くにあったテーブルを蹴飛ばした。
 その小さな身体から放った蹴りとは思えないほど、テーブルは簡単に舞い上がった。
 三神が虚を突かれている間、スノウはまるで肩車をされるように三神の後頭部にまたがり、三神の喉を太腿で締め上げた。
 ごえっ……と三神が悲鳴を上げる。
「秘書を連れてこなくてよかった」と、スノウが三神の頭を愛おしむように両手で撫でながら言った。満面の笑みだった。「私の秘書はこういう風に手加減ができない人間なので……。まぁ、私も色々と挑発が過ぎましたから、今回の件は不問にしてあげますよ」
 床に手をついて咳き込む三神に一瞥をくれて、スノウはレイズ・バーを出た。ドアが閉まると三神は「クソッ」と吐き捨てるように言い、豚はスノウが灰皿に捨てたチュッパチャプスの棒を拾って口に咥えた。

※こちらの文章はラフ書きになります。製本時には大きく内容が変わる可能性があります。

予告


スクリーンショット 2021-01-22 21.27.53


 そのソファは恐ろしく座り心地が良かった。
 一見何の変哲も無いソファだが、クッションはまるで自分の身体に合わせてオーダーメイドされたように下半身を包み込み、張られたレザーもしなやかで良く伸びた。
 スノウは足が床に着いていないが、別段気にする様子もない。何回かこのソファに座ったことがあるのだろう。そして隣にはシオンもいたのだろう。
 スノウはソファに座るや否や、慣れた様子でペリエをペットボトルのまま飲んだ。美樹と綾もそれに倣い、ペリエを開けた。スノウから話しかけられるのを待ちながら、二人はなんとなくフィーリーという名のタマネギに似た陶器を見た。
「言っておくけれど」と、スノウが言った。「お姉様がアンチレジストのことを私に喋ったわけじゃないわ。守秘義務のことは私も知っているし、お姉様もそれを破るような人じゃない」
「じゃあなんで知ってるのよ?」と、綾が言った。
「資金提供」と、スノウが正面を見ながら呟くように言った。「アスクレピオスからアンチレジストへ、定期的に資金提供をしているのよ。もちろん極秘融資で、社内でも知る人間は経営に関わる一部の親族だけ。お姉様は家業とは一切関わっていないから、アンチレジストに資金提供していることすら知らなかったでしょうね。まさかお姉様本人が戦闘員として活動するなんて想像もしなかったけれど」
「我々の活動資金がどこから出ているのかずっと疑問だったが、その一部がアスクレピオスだったとはな。シオンがアスクレピオス創業家の長女だということも驚いたが」と、美樹が呟いた。
 知らなかったの? と、スノウが聞いた。
「ああ。向こうから話してくれればもちろん聞いたがな。シオンはあまり出生や家のことは話したがらなかったし、私達もあえて聞かなかった。誰にだって自分の中に踏み込まれたくない部分はある。私にだってあるし、お前にもあるだろう。そして、それは無理に踏み込むべき領域ではない。相手の全てを知ることと、相手を理解することは、似ているようで全く違う」
 美樹の言葉に、綾も頷いた。スノウは美樹と綾の顔を観察するように見た。そしてペリエを一口飲み、天井から下がっているランプを見上げてぽつりと言った。
「二人とも……やっぱり仲良かったんだ。お姉様と」
 強気な表情は変わらないが、その横顔は少し悲しそうに見えた。エメラルドのような瞳は、確かにシオンのそれを思い出させた。
 スノウは話を続けた。「お姉様はこの家に人を呼んだら嫌われてしまうかもしれないと悩んでいたけれど、あんた達二人なら大丈夫かもしれないと言っていたわ。よほど気を許していたのね。二人の話をしている時のお姉様は、本当に楽しそうだった」
 スノウは照れ隠しのように髪を縛っている赤いリボンをいじった。
「今更だけど、随分と日本語が上手なのね」と綾が言った。
「お姉様が日本に移住した後に勉強したの。日本にはいつか行きたかったし、それにビジネスにおいても日本の市場は大きいから、通訳を介すよりも直接交渉が出来た方がスムーズなのよ。仕事やプライベートで日本に来るたびに、ここに泊まったわ。お姉様は私が泊まりに来ると毎回はりきって料理を作ってくれようとするんだけど、お姉様は料理だけはあまり得意じゃないから、いつも私が無理やり退かして代わりに作ったの。お互い忙しいから年に何回も会えなかったけれど、泊まった時はこのソファに座って、夜遅くまで色んな話をしたわ。それでも足りなくて、客間があるのに一緒のベッドに入って、明け方まで話をした。お姉様は普段はしっかりしているけれど、私と話をする時は本当によく笑うのよ。私はお姉様の妹として生まれてきたことが誇りなの。あんなに素晴らしい人は他にはいないわ」
 スノウは少し寂しそうに笑った。「そう言えば、こういうデザインの服を着るようになったのもお姉様の影響ね。お姉様はなぜかメイドに傾倒していて、クローゼットひとつが全部メイド服で埋まっているの。私が来るたびにあれこれと着せてくれて、結局いつも二人でファッションショーになるんだけど、お姉様と私じゃサイズが合わないのよね……。服の系統としては私も嫌いじゃなかったし、なによりお姉様が可愛いって言ってくれたから、似たような服を探して着るようになったの」
 どうやらスノウはメイド服とゴシックロリータを一緒くたにしているようだが、二人は黙っていることにした。それにしても、スノウは最初の印象とはずいぶんと変わって見えた。ぶっきらぼうな口調は変わらないが、記者会見で見たような、あからさまな棘のある言動はしてこない。シオンのことも本当に慕っているらしい。しかしシオンとの思い出を饒舌に語るスノウは、本題を言うのを迷っているようにも見えた。美樹と綾もそれがわかっていた。だから無理に急かすことはしなかった。
 しばらく取り留めのない話が続いた後、スノウが「お姉様が失踪してから半年も経つわね」と切り出した。
「お姉様が失踪した孤児院での事件。最後にお姉様と一緒にいたのは美樹、あんたなんでしょ? お姉様になにがあったの? 美樹とお姉様が人妖と戦うために孤児院に行ったところまでは知っている。でも中で何があったのかは知らない。そこで美樹は生き残り、お姉様は行方不明になった。孤児院は全焼している。最初は正直、美樹がお姉様になにかしたのかと思ったわ。でもお姉様の今までの話ぶりと、実際に会って話をしてみても、美樹がそんなことをする人とは思えない」
 人妖のことまで知っているのかと美樹は少し驚いたが、いよいよ隠し事をする必要はなくなったなとも思った。なによりスノウは、シオンの家族なのだ。友人の家族に協力するのは当然のことだろう。
「終始一緒にいたわけではない。私とシオンは別の場所で、別の相手と戦闘していた。もちろん互いの姿は見えなかった。敵は冷子という女と、蓮斗という男だ。冷子は使役系と呼ばれる強力な人妖で、蓮斗は人妖になるために冷子に取り入っていた人間だ。蓮斗は冷子によって身体を作り替えられ、なんと言うか……化物のようになった。身体が何倍にも大きくなって、倒すのに苦労した」
「何倍にも……? 人妖にそんなことができるの?」と、スノウが顔をしかめた。
「ああ。詳細を話してもあまり気持ちの良いものではないから省くが、見ているのが辛かった……。巨体の蓮斗が暴れ、孤児院の床に大穴が開き、シオンはそこに落ちてしまった。地下は病院か研究所のような作りになっていて、冷子もシオンを追って穴から飛び降りた。地下で戦闘があったはずだが、私がシオンを見たのはそこまでだ」
 スノウは美樹の顔をじっと見ていた。そこには小さな変化やあらゆる情報を見逃すまいという強い意志が見て取れた。
 美樹は話を続けた。「私は蓮斗を倒した後、シオンが気になって床に空いた穴から地下に降りた。冷子と思われる遺体はあったが、シオンの姿は無かった。現場にあったのは、このヘッドドレスだけだ」
 美樹はテーブルの上に、ビニールパックに入ったシオンのヘッドドレスを置いた。上質なシルクに、白と黒の細かいレースが編み込まれている。手がかりになればと美樹が預かっているものだ。スノウはそれを手に取り、生き別れになった家族の写真を見るような表情でじっと見つめていた。
「お姉様が……その冷子って人妖を殺したの?」
 スノウがヘッドドレスを見つめながら言った。
 美樹は静かに首を振った。
「わからない」
「冷子の遺体は見たんでしょ?」
「見た」
「どういう状態だったの?」
「損傷はかなり激しかった」
「瓦礫や火災に巻き込まれたことによる損傷? それとも、人の手によるもの?」
「……後者だ」
 スノウは親指の爪を噛みながら、ロシア語でなにかを呟いた。スノウの頭の中が高速で回転していることが美樹と綾にもわかった。
 やがて錆びたゼンマイ人形のように、ぎこちなく美樹の方に顔を向けた。
「本当に……」と、スノウが絞り出すように言った。顔色は青ざめて、エメラルドの瞳の焦点が合っていなかった。吐き気を堪えているようにも見えた。「本当に……それ以来お姉様と会っていないの? 何か連絡とか、似た人を見たとか、そういう噂も聞いたことはない?」
「ない。あったらとっくに動いている」と、美樹は言った。
 それもそうよね……と言いながら、スノウは暗い表情で下を向いた。シオンのわずかな手がかりを探っているのだろうが、力になれない歯痒さを美樹は感じていた。
 美樹は天井を見て記憶を探った。最後にシオンと会った時のことを思い出す。雪の降りしきる孤児院のレンガ道を歩いている。入り口のドアの前に立つと、ホールの中から蓮斗の戯けたような声が聞こえた。瞬間的に感情が昂り、ドアを蹴破って中に入った。シオンが床に座り込んでいたので立たせた。わずかに動揺はしていたが、落ち着いていた。その後、蓮斗と言い合いになり……。
「……そういえば」
 ポツリと美樹が言った。スノウが縋るような表情で美樹を見た。こんな表情のスノウを見るのは初めてだった。
「蓮斗は、シオンの出生をずいぶんと詳しく調べていたみたいだった。シオンのことを世界的製薬会社の令嬢だと言って、酷く罵っていた。まさかアスクレピオスのことだとその時は思わなかったが。蓮斗は……まぁ私も似たようなものだが、出自は決して恵まれたものではなかったからな。その辺りが気に食わなかったのかもしれん」
「お姉様が言われていたのは、令嬢だってことだけ? 他になにか言われてなかった? 例えば子供の頃の話とか……」
「子供の頃? いや、その時点ではそれだけだ。子供の頃に何かあったのか?」
 いや、と言ったきりスノウは質問に答えず、視線をテーブルの上に戻して再び考え事を巡らせ始めた。手持ち無沙汰に美樹は無意識にポケットのタバコを探り、シオンの家であることを思い出して諦めた。
「……悪いけど、明日私の泊まっているホテルに来てくれない? 詳しい時間と、ホテルの部屋番号は後で連絡するから」と、スノウはテーブルの上を凝視したまま言った。まるでテーブルの上に世界を揺るがす重要な装置が置かれているような視線を送っているが、もちろんテーブルには飲みかけのペリエが三本置いてあるだけだった。
 わかったと言って、美樹はあっさりとソファから立ち上がった。美樹が目配せし、綾も従って立ち上がった。色々と聞きたいことはあったが、信用を得られているのなら深追いするよりも、最初は要求通りにしていた方が後々利することが多い。
「こちらからもひとつ質問だが」と、美樹は言った。スノウがソファに座ったまま顔を上げる。立ち位置的にスノウが美樹を見上げる姿勢になり、心理的に優位に立てるタイミングを選んだ。従っているだけでは主従関係になってしまう。「その髪を留めているリボンなんだが、なぜ右のリボンだけ古ぼけているんだ? 別に貶しているわけじゃない。むしろ服装には拘っているみたいだから、意図的なものかと気になってな」
「……ああ、これ?」と、スノウは右のリボンに手を当てた。左右とも赤いシルクのリボンだが、確かに右側のリボンは光沢が落ち着き、生地も痩せてきている。「これは子供の頃、お姉様から頂いた物なの。クリスマスの初めてのプレゼント交換で、私はお母様に手伝ってもらって自分で焼いたクッキーを、お姉様からはリボンのセットをいただいたの。大切に使っていたんだけど、傷んだり汚れたりして、これが最後の一本……」

 綾と美樹はシオンのマンションから出て、道路を挟んだ向かいのカフェに入った。一階がロースターとキッチンを兼ねていて、狭い階段を上がった二階に、五人も入ったら窮屈に感じるほど狭い喫茶スペースがあった。持ち帰りが多いのか、綾と美樹以外に客はいない。小さいテーブルや椅子は長い間海面を漂っていていたような板と、錆が浮いた鉄パイプのようなもので作られている。もしかしたら本当に砂浜に打ち上げられた材料で作ったものかもしれないが、洒落っ気はあるが決して使い勝手の良いものではなかった。
 小さく硬い椅子に美樹と綾は座り、酸味の強いコーヒーを飲んだ。果物のような芳香もあり、これはこれで悪くない。空はくっきりと晴れていて、綺麗に磨かれた窓からはシオンのマンションが見えた。
「なんだか色んなことが一気にわかった日でしたね」と、綾がカップを両手で持ったまま言った。「シオンさん自身についても色々と驚きましたけど、まさかあんな妹がいたなんて。性格が全然違うから最初は本当に妹なのか疑いましたけど、シオンさんのことは大好きみたいですし」
「そうだな。二人でどんな話をしていたのか想像もつかないが、嘘をついている感じはなかった」
「美樹さん……冷子の遺体の損傷については、詳細を言わなかったですよね?」
「……ああ。聞いても気分の良いものじゃないだろう」
 冷子は自分の身体の一部を触手のように変形させる能力があったが、シオンに対しては全身を触手に変態して戦ったようだ。頭部だけはかろうじて形を残していたが、その頭部の損傷が最も激しかった。特に顔面は硬いもので何回も攻撃され、骨という骨が砕けて完全に陥没していた。人間の膝の跡のように見えたが、シオンは決してそんなえげつない攻撃をしない。シオンはむしろ人妖相手でもなるべく苦痛のない方法で一撃で倒すことを第一に考えている。そのため攻撃が大振りになり、思わぬ苦戦を強いられることもあるのだが。
 では冷子を倒したのはいったい誰なのだろう。それも不必要なほど強大で残虐な力で。
 美樹のスマートフォンが震えた。
 マンションのコンシェルジュからのメールだ。
 スノウの宿泊先として、都内の歴史あるホテルの名前が記されていた。


前振りが長くなっておりますが、すみませんがお付き合いください
次週にまた更新予定です。
※こちらの文章はラフ書きになります。製本時には大きく内容が変わる可能性があります。

予告


 スマートフォンのアラームが鳴った。
 神崎綾はベッドの中で少し呻いた後、スムーズに上体を起こしてアラームを切った。
 外はまだ薄暗く、時計は五時半を表示してる。
 綾はベッドから降りると、うーんと声を出しながら身体を伸ばした。洗面所に行って入念に歯を磨き、ライトブルーのパジャマを着たままルームランナーに乗って二十分ほど走った。走っている最中、綾と同じ上級戦闘員の鷹宮美樹から、十一時頃にそちらに行ってもいいかと連絡が来たので了承した。向こうもとっくに起床していて、鷹宮神社の境内をほうきで掃いている頃だろう。
 綾はシャワーを浴び終えると、タオルとパジャマを洗濯機に放り込んでから赤いチェックのスカートと黒いタートルネックのセーターに着替えた。作り置きしたサラダに両面焼きした目玉焼き、トーストで朝食を採り、再び入念に歯を磨いた。
 今日は土曜日で学校は休みだ。
 リビングと寝室にロボット掃除機をかけている間に、風呂場とトイレを掃除する。掃除が終わると先日三体の賎妖を倒した時のレポートを書き、後はのんびりと過ごした。
 BGMのように流していたテレビには、タレントが司会をするワイドショーが映っていた。
 半年前に発生した火災の特集だ。
 半年前、S区の丘の上にある廃墟になった孤児院が真夜中に出火し、全焼した。それだけであれば不審火として処理され、特に世間の耳目を集めることもないのだが、建物の中から人骨が発見されたことで当時はかなり大きなニュースになった。また、その人骨の一部が不可解に変形していたとの噂が流れたことから、オカルトマニアや個人配信業を営む者が建物に忍び込もうとして、多少の混乱が発生した。
 番組では半年ぶりに孤児院の跡地を訪れたが、いまだに立ち入り禁止のバリケードが張られており、結局のところよくわからなかったという内容の映像が流れ、その後はカルト教団のアジトや、旧日本軍の人体実験施設などといった説を支持する人間のインタビューが紹介された。スタジオにカメラが戻ると、司会と複数のコメンテーターが唾を飛ばしながら、事件を誰のせいにするかという議論が始まった。当時の管理者が悪い、いや政治家が悪いと言い合い、公式見解をいまだに出さない警察が一番悪いという結論に議論が進んでいった。
 綾はその真相を現場に居合わせた美樹から聞かされている。
 公式見解が出なくて当たり前だと綾は思った。事件が風化するを待って、しれっとありきたりな見解を出して、新聞の隅にでも載って終わりだ。孤児院を装って子供を集めて、地下で人間を人妖にする人体実験をしていましたなどと発表ができるわけがない。人間そっくりの怪物が知らないうちに社会に巣食っているなんて知れ渡ったら、疑心暗鬼で世の中が魔女狩りの時代に戻ってしまうかもしれない。
 半年前、孤児院では美樹と如月シオンが人妖討伐任務にあたっていた。篠崎冷子という強力な使役系の人妖と、それに与する蓮斗という人間が廃墟の孤児院をアジトにしており、壮絶な戦闘が繰り広げられた。蓮斗は冷子によって無理やり身体を怪物に変異させられたが、身体を維持するためには膨大なカロリーが必要になり、生命維持のために止むを得ずガソリンを吸収していた。美樹は戦闘の際に蓮斗の身体に火を放ち、孤児院は全焼。蓮斗も焼死した。冷子の死体らしきものも、美樹が地下で発見した。そして、その任務以来シオンとは連絡が取れなくなった。
 もちろん綾や美樹は必死にシオンを捜索したが、いまだに行方はわかっていない。守秘義務のため、アンチレジストは警察に失踪届を出すことも出来なかった。遺体は見つかっていないが、組織内ではおそらく建物の火災に巻き込まれており、生存は絶望的という見方が強まっている。シオンはアンチレジスト内でも慕う者が多く、深い悲しみに暮れて組織を去る者もいた。そしてシオンの失踪から時間を置かず、総指揮官のファーザーも音信不通になった。
 シオンに続き、突然の指揮官の失踪という事態に組織は混乱したが、そこを上手くまとめたのが現在臨時で指揮をとっている鷺沢だ。鷺沢は口数が少ないキャリアウーマン然とした女性だ。年齢は三十代だが上級戦闘員からの叩き上げで、それまでも副指揮官兼オペレーター達のリーダーとして組織をまとめた実績がある。戦闘訓練も担当し、戦闘員達にも顔が利く人物だ。鷺沢の指揮により、組織の結束が一層強まったと評価する者もいる。
 テレビは次のニュースに移っていた。
 日本の新興ウイスキーメーカーと、海外の大手製薬会社が提携するらしい。白いスーツに身を包んだ身なりの派手な男と、黒いゴシックロリータの服を着た金髪の女の子が並び立っている。女の子はどう見ても場違いなように綾は感じた。
「いや、すごいですね!」と、テレビの中の司会が興奮した様子でコメンテーターに言った。「もはや飛ぶ鳥を落とす勢いの我々日本が誇るクラフトウイスキーメーカー、レイズ社を率いる三神冷而氏! いやぁ、かっこいい! 私と年齢は近いのですが、同じオジサンにカテゴライズしてはいけませんね!」
 綾はチャンネルを変えようかと思ったが、金髪の女の子が気になってそのままにした。話を振られた初老のコメンテーターの男が、苦笑しながら話をした。
「いや私も先日レイズモルトを飲む機会があったんですが、これがまた個性的で素晴らしかったですよ。プレミアが付いて価格は上がる一方ですので、なかなか口にする機会がないのが残念ですけどね。しかし、なにかと噂に事欠かない三神さんも、今回ばかりは注目を奪われちゃいましたねぇ……」
「そうそうそう! 会見の内容は我々も当日まで知らされていなかったのですが、なんと世界的製薬会社アスクレピオスと業務提携に向けて協議中という電撃発表でありました! それだけでも驚きなのに、アスクレピオス側の責任者が、なんと三神氏の隣に立っているこの可愛い女の子なのです!」
 スタジオから切り替わり、会見の映像が流れた。スノウの顔がアップで映る。
『失礼ですが、なぜ財務担当の方が来られたのでしょうか? 業務提携は、本来はマーケティングや経営企画の担当では?』
『日本企業の財務は違うのかもしれませんが、組織内の資産の動きだけではなく、将来に向けた資産配分や投資案件を検討するのも財務の重要な役割です。そしてレイズ社との提携を企画したのも、この提携の責任者も私です。先ほどから皆さんは私の服装や年齢を気にされているみたいですが、我々アスクレピオスは完全な実力主義を敷いています。性別や容姿や年齢など、我々にとっては取るに足らないものです。私が代表としてこの場に立ち、提携について話をしていても、アスクレピオスとしては何ら不思議なことではありません』
 カメラがスタジオに切り替わり、司会の男が目を見開きながら「どうですかこれ!」と、まるで自分の手柄のように言った。「すごくないですかこの子!? プロフィール出ますかね?」
 女の子の写真と経歴が書かれたボードが映された。会見が終わって会場を出たところを撮影されたのだろうか。女の子はスカートのポケットに片手を突っ込み、チュッパチャプスのような棒付き飴を咥えたまま、不機嫌そうにカメラを睨んでいる。
「名前はスノウ・ラスプーチナちゃん! おっと、つい『ちゃん付け』で呼んでしまいました。はははは。なんとスノウちゃんは大学を飛び級で卒業した後、この若さでアスクレピオス本社の財務に就いている超エリートなのです! お聞きの通り日本語も堪能。しかも生い立ちはなんと創業家の次女で──」
 司会の声を遮るように、マンションのインターホンが鳴った。美樹がモニターに映っている。綾はオートロックを解除して、テレビを消した。

 突然来てすまなかったなと言いながら、美樹はルイスレザーのライダースジャケットを脱ぎ、綾に借りたハンガーにかけた。下は細身のジーンズで、長身の美樹によく似合っていた。
「構いませんよ。特に予定は無かったですから」と言いながら、綾がキッチンに入った。
 ダイニングテーブルに向かい合い、チョコレートを茶請けにしながら二人は時々他愛のない会話をしながらコーヒーを飲んだ。美樹は時々視線を横に逸らして、白いクロスが貼られている壁を見た。まるで見えない暗号がそこに浮かび上がっているような視線だった。なにか重要なことを言うタイミングを測っていることが綾にもわかった。
 やがて美樹は決心したように、「シオンのマンションに入試許可が下りた」と言った。
「……本当ですか?」と、綾が身を乗り出した。
「本当だ。昨日の深夜、マンションのコンシェルジュからメールが入っていた」
「やったじゃないですか。この半年間、全然許可が下りなかったのに」
 綾が明るい声を出したが、美樹の表情は冴えない。美樹はコーヒーカップを持ち上げ、中身を飲まずにソーサーに戻して話を続けた。
「失踪の手がかりが掴めるかもしれないと思って、失踪直後から私が友人として個人的に入室を申し込んでいたんだ。家族の許可がなければ入室は不可能だと言って今まで許可されなかったが、妙なんだ……」
「妙、と言うと?」
「お前にも入室許可が下りている」
 えっ? と綾は言って、怪訝な顔をした。美樹は話を続けた。
「そうだ。私しか申し込んでいないんだ。なぜお前の名前が出てくるのか……」
「シオンさんが、私のことも家族に喋っていたんでしょうか?」
「そうだとしても、そもそも許可を申し込んでいないお前にも許可を出すのはおかしいだろう。お前の名前は一切出していないんだぞ」
 うーんと言いながら綾は指を顎に添えた。「誰かが私も呼んでいる……ってことでいいんですよね?」
 美樹はしばらく黙ってから、「まぁ、そうなるな」と言ってカップに口を付けた。
 綾まで呼ばれた理由は不明だが、行かない理由は無いので、美樹はシオンのマンションに電話をかけた。今日は午後であればいつでも構わないらしく、短い会話をして美樹は電話を切った。
「やはり半年間、シオンのマンションには家族を含めて誰も入っていない。入室許可も、昨日向こうから一方的に来たらしい。私のバイクで一緒に行こう」と、言いながら美樹はショートホープと携帯灰皿を持って立ち上がった。「それにしても半年か……あっという間だった気がするな。シオンとファーザーがいなくなってから」
 美樹がベランダでタバコを吸っている間、綾はコーヒーのおかわりを淹れた。部屋に戻ってきた後の、美樹の身体から微かに香るタバコの匂いが、綾は好きだった。

 バイクの後ろに跨り、綾は美樹のウエストにしっかりと腕を回した。途中ファミリーレストランに寄って簡単な昼食を摂った。綾はサンドイッチのセット、美樹はアボカドとエビのサラダを注文した。代官山駅を通り過ぎたあたりで、美樹はバイクを停めた。閑静だが豪奢なマンションが立ち並ぶエリアの中で、そのマンションは一際目を引くものだった。沿道からは入り口が見えず、大きく湾曲した手入れの行き届いた並木道を通って二人はエントランスに入った。内部は間接照明がふんだんに使われた落ち着いた空間で、高級ホテルのようなカウンターに男性と女性のコンシェルジュが座っていた。
「すご……家賃いくらなんだろう」と、綾がため息混じりに言った。
「分譲だが、借りるとしたら三桁はかかるだろうな。高校進学の際にシオンは自分で別の部屋を借りようとしていたんだが、親族が無理やり買い与えたらしい。我々はアンチレジストから十分な手当てが出ているし、あいつは他に論文翻訳の仕事もしていたから、セキュリティがしっかりしている部屋を借りるくらい訳なかったんだがな。見せびらかしているみたいで気がひけると言って、シオンはあまり気に入っていなかったし、事実ほとんど誰も家に呼ばなかった。私も入るのは初めてだ」
 美樹が男性のコンシェルジュに話しかけ、身分証を提示した。コンシェルジュに話は通っており、部屋まで案内してくれるらしい。
 ダークスーツを着た男性のコンシェルジュは定規で測ったような歩き方で、シオンの部屋まで案内した。マンションには入居者用のジムやプールもあり、ガラス張りになった通路からは中庭が見えた。中庭は散歩するには十分な広さがあり、小さな川まで流れていた。並木の下に置かれたベンチでは高齢の上品そうな女性が本を読んでいた。車の音や、話し声も聞こえない。もしかしたらこのマンションの中だけ時間がゆっくりと流れているのかもしれないと、綾は思った。
 こちらでございますとコンシェルジュは言って、白い手袋をはめた手でノックをし、恭(うやうや)しくドアを開けた。
 ドアが開くと同時に、玄関ホールのダウンライトとリビングへ続く廊下の間接照明が自動で点灯した。玄関ホールだけでワンルームマンション程度の広さがあり、正面には針葉樹林を描いた油絵が掛けられていた。絵画の下にはキャビネットが置かれ、瑠璃色の玉ねぎのような形をした小さな陶器が飾られている。廊下の壁は大理石で、白とライトグレーのマーブル模様に間接照明の灯りが柔らかく反射していた。
 お邪魔します、と綾が小声で言った。美樹も靴を揃えて脱ぎ、リビングへ向かった。
 リビングはとても広く整然としており、家具がひとつ多くても少なくてもバランスが崩れてしまうほど、的確な場所に的確に家具が配置されていた。中央にはホワイトとブラウンのレザーが張られた大きなコーナーソファと黒檀のテーブルが置かれている。部屋の隅には同じシリーズのラウンジチェアがあり、サイドテーブルには洋書が数冊重ねられていた。おそらくシオンの読みかけだろうと美樹は思った。正面の壁一面が巨大なオープンシェルフになっていて、多数の本の間に、玄関ホールに飾られていたものと同じ玉ねぎのような形の陶器がいくつも飾られている。分類としては壺になるのだろうが、口径がとても小さく、水を入れるのに苦労しそうだ。瑠璃色や紫、緑色のものが多いが、中には本当に玉ねぎのような飴色をしたものや、乳白色のものもあった。
「すっご……まるでモデルルームみたい」と、綾が感心して溜息をついた。
 ──モデルルームなんかと一緒にしないで。
 不意に声が聞こえたので、綾はびくりと身体を硬直させ、美樹は咄嗟に身構えた。
 二人は声の聞こえたキッチンの方を素早く振り返ると、声の主が暗がりからリビングの灯りの下にゆっくりと姿を現した。
 あっ、と言いながら綾が口元を手で押さえた。
「なんだ? 知っているのか?」と、美樹が綾を見た。
「いや、今日のワイドショーで……。スノウ・ラスプーチナでしょ?」と、綾が言った。
「へぇ、あのくだらない記者会見も、自己紹介の手間を省くくらいの効果はあったみたいね」と言いながら、スノウが首を傾げた。顔には小馬鹿にしたような笑みを浮かべている。綾がテレビで見た服とは違うが、やはり真っ黒いゴシックロリータの服に、赤いリボンで金髪をツーサイドアップに結っている。スノウはペリエのペットボトルを三本持っており、黒檀のテーブルに置くと綾と美樹に向き直った。
「ま、あらためて……」と、スノウは言った。「私はスノウ・ラスプーチナ。製薬会社のアスクレピオスで財務を担当しているわ。あんた達には、シオンの妹って言った方が馴染みがあるでしょうね」
「シオンさんの妹!?」と、綾が驚いた。スノウがあからさまに不機嫌な顔になった。
「ちょっと、なに驚いてるの? まさか似てないって言うんじゃないでしょうね?」と言いながら、スノウがずかずかと綾の元に歩いてきた。
 えぇ……と言いながら綾は助けを求めるように美樹を見つめ、美樹は私に振るなと言わんばかりに首を振った。スノウは怒った顔で腰に手を当てながら、綾を見上げている。
「あと、あんたさっきこの部屋をモデルルームみたいだとか失礼なこと言ったわよね?」と言いながら、スノウは綾を指差した。「言っておくけれど、家具やインテリアは全てお姉様の趣味よ。あんた達が不思議そうに見ていたその陶器はローズ・キャバットの『フィーリー』。お姉様が好きで集めていて、用途はまさに鑑賞。花瓶としては使えなくもないでしょうけれど、やめた方がいいでしょうね。あと、そっちのソファとチェアはポルトローナ・フラウ。良い会社だわ。過度な装飾が無くシンプルだけど、上質とは何かを理解している。お姉様の審美眼を、見た目だけのモデルルームなんかと一緒にしないでくれる?」
 綾と美樹は顔を見合わせた。容姿はともかく、性格はシオンとは似ても似つかない。スノウはまだ怒った顔で綾を睨んでいる。ひとまず美樹が前に出てスノウに軽く頭を下げた。
「まず、入室の許可を出してくれた礼を言おう」と、美樹がスノウに言った。「私は鷹宮美樹だ。こっちは神崎綾。私とシオンは学校が一緒で、綾は学校は違うが共通の友人だ」
「へぇ、あんたが神崎綾なんだ。強いって聞いていたけれど、結構ちんちくりんなのね」
「なっ? えっ? あ、あんたの方がちんちくりんじゃない!」
 待て待て待て、と言いながら美樹が綾を押さえた。綾は背の低さを気にしている。スノウはふふんと笑いながら平らな胸を張っている。
「私はいいのよ。いずれお姉様みたいに完璧なプロポーションになるんだから」
「はっ、本気で言ってるの? 無理に決まってるでしょ。私ですらあんたくらいの頃はもっと胸あったんだから」
 綾の反撃に、今度はスノウが怒り始めた。美樹は言い争う二人の間に割って入る。なぜ初対面でここまで喧嘩ができるのだろうか。ある意味気が会うのかもしれないが、このままでは話が進まない。そして先程のスノウの言葉の中には引っかかる箇所がある。スノウが怒って退室したり、そもそも入室許可を取り消されたりしたらたまらない。
「わかったから二人とも落ち着いてくれ。綾も子供相手にムキになるな」
「子供扱いしないでよ! 言っておくけれど、間違っても私を『ちゃん付け』でなんか呼ぶんじゃないわよ」
 わかった、すまなかったと美樹が言った。「スノウ、喧嘩する前にひとつ教えてくれ」
「なに?」と言いながら、スノウは美樹を睨んだ。
「さっき綾のことを強いはずだと言ったな? なぜ綾が強いと知っている?」
「知ってるもなにも、あんた達アンチレジストの上級戦闘員で、その中でも上位なんでしょ? 強いに決まってるじゃない」
 当たり前のことを聞くなという感じでスノウが言い、美樹と綾の動きがピタリと止まった。リビングは三人の呼吸音以外は、水を打ったように静かになった。
「……なんでそれを? アンチレジストを知ってるの?」と、美樹の肩越しに綾が言った。
 スノウも落ち着いたのか、親指でソファを差しながら「とりあえず座るわよ」と言った。

※こちらの文章はラフ書きになります。製本時には大きく内容が変わる可能性があります。
次回更新は2週間後になる予定です。

予告



嘆くことはない。悲しむことはない。
アーナンダよ、私はずっと説いてきたではないか。
愛するもの、大切なものは全て、
やがては別れ、離れ離れになり、関連性すら消滅するということを。
ー釈迦ー




「──つまり私の作るウイスキーは、常に新しい味や香りを追求し、皆様に驚きと、ある意味ではショックを与えたいと考えております。ただ美味い、香りが良い、飲みやすいといった一般的な価値観に興味はありません。手間暇をかけた自社蒸留はもちろんのこと、一部のラインナップでは日本では未発売か、とてもマイナーな蒸留所の原酒を買い付け、自社貯蔵庫で更に熟成させてからブレンドしております。一部は自前の樽に移し替えますし、時にはウイスキーにとってある種の冒涜的な行為を行うこともあります。ウイスキーが入った樽をクレーンで吊り上げ、破壊しないギリギリの高さから落下させたり、様々な木材の破片を漬け込んだり、貯蔵庫で香を炊いたり、ヘヴィメタルの音楽を大音量で鳴らしたり……。全ては、皆様にウイスキーを通した未知の体験をしていただきたいからです。当然、生産コストは大手メーカーのウイスキーとは桁違いです。また大量生産もできませんので、現在の需要にお応えできる量を生産できていない状況には、心からお詫びを申し上げます」
 午後六時から始まった会見には、多くの記者とカメラマンが集まった。
 三神冷而(みかみ れいじ)はカメラのフラッシュを浴びながら、自分の作るウイスキーを魅力的に、そしてミステリアスに語った。ウイスキーなど、所詮は誰も中身を知ることのないブラックボックスだ。多くの人々がウイスキーに求めるものは味や香りではない。ドラマ性と、それがいかに希少で良い物かどうかという情報なのだと、三神は考えていた。
 自分自身の見た目も重要な情報のひとつだ。サイドを短く刈り上げ、トップをオールバックにしたスリックバックの髪型。彫りの深いくっきりとした顔立ち。ネクタイの完璧なディンプル。そしてイタリアまで出向いてオーダーした高級スーツ。男にも女にも好印象を与える見た目を意識した。「こんな格好良い男が、なにやら革新的なことをして作った酒は良いものに違いない」と、大衆に思わせることができれば成功だ。そして彼を取り囲む多くの記者やテレビカメラが、彼の目論見が成功したことを表していた。あのテレビカメラの先には、数多の一般大衆が自分の一言一言を注意深く聞き、次に発売するウイスキーに想いを馳せているはずだ。
 今や自身の名を冠した「レイズモルト」は、発売から半年しか経っていないにもかかわらず、飛ぶ鳥を落とす勢いで知名度が加速している。まだ国内流通しか行っていないが、ワインの五大シャトーよりも投機的価値があるとメディアがこぞって煽り、人気はアジアにも及び始めている。新作を発売すれば即完売。すぐに転売され、末端価格は売価の十倍以上になることも珍しくない。
 そして今日の発表は、世間をさらに沸き立たせることになるだろうと三神は思っていた。
「では、会見の本題に入らせていただきます」と、司会の男がよく通る声で言った。「このたび、三神が代表を務める弊社『レイズ』は、世界的製薬会社大手の『アスクレピオス』様と、業務提携に向けた協議に入っております」
 記者達がどよめいた。
 司会の言う通り、アスクレピオスと言えば百年以上の歴史を持つ、ロシアに本社を置く世界的製薬会社だ。規模こそファイザーやノバルティスには及ばないが、バイオ医薬品の部類ではかなりの存在感を放っている。規模に反して株式は公開されておらず、製薬会社としては珍しい家族経営を今でも貫いている。しかし、なぜ世界的製薬会社と、人気とはいえ日本のウイスキーメーカーが提携するのかと記者達は思った。人気や知名度はさておき、酒造メーカーの企業規模は大手を除いて、いずれも中小どころか零細の域である。レイズ社ですら例外ではなく、資本力も雲泥どころの差ではない。その空気を察したのか、司会の男は軽く咳払いをしてから次の言葉に繋いだ。
「本日は、アスクレピオス様から代表として一名、この場にお越しいただいております。本日のためにロシアの本社から来日いただいた、スノウ・ラスプーチナ様です。一言、ご挨拶をいただきます」
 紹介された人物が袖から入ってくると、記者達はさらに度肝を抜かれた。
 フリルの付いた真っ黒いゴシックアンドロリータの服に身を包んだ十代前半と思しき女の子が、胸を張って会場に入ってきて、三神の横に並んだ。「子供?」と、カメラマンの誰かが言った。女の子は背も小さく、身体の凹凸も乏しい。綺麗な金髪を赤いリボンでツーサイドアップに結んだ髪型も、幼さをより強調している。ロシア人の秘書らしき男が入ってきて、スノウの身長に合わせたマイクスタンドをセットした。その間、スノウは自信ありげな笑みを浮かべながら、というより少し小馬鹿にしたような表情で、記者とカメラマンをゆっくりと見回した。
「スノウ・ラスプーチナです。アスクレピオスの本社でCFO(最高財務責任者)の元、財務を担当しています。なにか質問はありますか?」
 スノウはマイクがセットされるや否や、流暢な日本語で言った。わずかに首を横に傾げ、口元だけで笑っている表情はやはり小馬鹿にしているように見える。記者達は呆気に取られていた。業務提携の説明のために日本法人の男性が入ってくるのかと思いきや、生意気そうな外国人の女の子が入ってきたのだ。無理もないだろう。
「なにも無いですか?」と、スノウは言った。顔からは笑みが消え、不機嫌そうな表情になっている。
「あの……」と、前列の男性記者がおずおずと手を挙げた。スノウがどうぞと言って手を向けた。
「その格好は、ゴスロリですか?」と、指名された男性記者が言った。
 スノウは「このバカはいったい何を言っているんだ?」と言いたげな表情になった。これ? と言いながら服の胸元を摘んで首を傾げ、不機嫌そうな顔のまま質問した記者を睨む。
「そうですけど、これがなにか? 仕事と関係のある質問ですか?」
「随分とお若く見えますが、年齢はおいくつですか? 学校は?」と、すかさず別の記者が言った。子供に問いかけるような声色だ。あからさまにスノウの眉間にシワが寄ったので、司会者が質問を遮り、業務提携に関する質問をするように促した。後方の女性記者が手を挙げた。
「失礼ですが、なぜ財務担当の方が来られたのでしょうか? 業務提携は、本来はマーケティングや経営企画の担当では?」
 スノウは質問を聞いて、ふんと鼻を鳴らした。やっと少しはマシな奴が出てきたかという様子で、マイクに向かって喋り始めた。
「日本企業の財務は違うのかもしれませんが、組織内の資産の動きだけではなく、将来に向けた資産配分や投資案件を検討するのも財務の重要な役割です。そしてレイズ社との提携を企画したのも、この提携の責任者も私です。先ほどから皆さんは私の服装や年齢を気にされているみたいですが、我々アスクレピオスは完全な実力主義を敷いています。性別や容姿や年齢など、我々にとっては取るに足らないものです。私が代表としてこの場に立ち、提携について話をしていても、アスクレピオスとしては何ら不思議なことではありません」
 記者達はスノウの回答に顔を見合わせた。どこか小馬鹿にしたような表情は変わらないものの、堂々とした口調で経営について滑らかに話をするスノウは見た目とのギャップもあり、ある種特別なオーラを放っているように見えた。記者達は興味を引かれ、数人が同時に手を上げた。
「なぜ、ウイスキーメーカーと提携されるのでしょうか? 製薬とウイスキーは畑違いでは?」
「まずマーケットの話をさせていただくと、ウイスキーは皆さんもご存知の通り、今後も需要の拡大が期待できる有益な市場です。有益な市場がそこにあるのに、畑違いだからと指をくわえて見ているだけでは、なにも得られません。また畑違いと思われるかもしれませんが、私はそうは思いません。我々は創業から百年を超える知見の積み重ねにより、人間の受ける官能を数値化することが可能です。そして、ウイスキーの持つ香りや味わいが人間の感覚器官への刺激、つまり官能である以上、我々の知見は製薬だろうが酒造だろうが、あらゆる分野で生かせると考えています。ウイスキーは今までは良くも悪くもブレが大きく、完成するまで品質がわからない、ある種偶然の産物でした。自然任せと言えば聞こえはいいのですが、愚かなほど非効率です。しかし我々アスクレピオスの技術を用いれば、レイズ社の作るウイスキーを完全にコントロールし、狙い通りの香味の実現が可能です。先ほど彼が語った新しい味や香りと言うものも、我々であればいとも簡単に、何種類でも作り出せます──」
 そのような可能性もあります、と三神がスノウの話を遮るように割って入った。スノウが視線の端で三神を睨む。
「お聞きの通り、アスクレピオスさんは弊社が逆立ちしても敵わない技術をお持ちです。冒頭申し上げた通り、今までに無い新しい香りや味のウイスキーを作り皆様にショックを与えたいという考えでは、我々とアスクレピオスさんは意見が一致しています。しかし、まだ提携について打ち合わせは始まったばかりです。今後、良い進展を皆様にご報告できると信じております」
 三神が会見を切ろうとした時、先ほど質問した女性記者が声をあげた。
「最後にすみません。スノウさんのファミリーネームについてですが、失礼ですが創業家とのご関係は?」
「……ええ、前社長は私の実の父です」と、スノウは興味なさげに言った。「十年ほど前に亡くなりましたけどね」

「困りますな……勝手に話を進められては」
 記者達が引き上げた会見場で、三神が顔を歪めながらスノウに言った。苛立っているのだろう。刈り上げた側頭部をしきりに掻いている。
「話が早くていいじゃないですか。そもそも私がさっき言ったことが目的で、そちらは提携の話に乗ったのでは?」
「それはそうですが、発表には然るべきタイミングと方法というものがある。あれではまるで、そちらの指示通りにウチがウイスキーを作ると言っているようなものだ」
「事実そうじゃないですか」
「違う! 下請けになったように聞こえたら、それこそ変な誤解を生んでしまう。ウイスキーはブランドイメージが大事なんだ。確かに会社規模は比ぶべくもないが、話はあくまでも対等な提携で、吸収や買収ではないはずだ。今日は提携について協議を開始するという内容発表にとどめるべきだった。自己紹介して握手でもすれば、それで十分だったんだ」
「もったいつけて何の利があるんです? ウイスキーなんて、所詮は多少の香味成分の入ったエタノールと水の混合物に過ぎないじゃないですか。そんな物に、なにをそんなに必死になっているんです?」
 なんだと、と三神が声を荒げた。スノウは涼しい顔をして、不敵に微笑んでいる。
「今のは聞き捨てなりませんな……。私の仕事に価値が無いと言っているんですか?」
「そうは言っていません。たとえ無価値なものでも利益を生み出している以上、それには価値があります。例えばあなたの言っているブランドイメージとやらがそれです」と、スノウは三神を指差しながら言った。「繰り返しますが、大切なのは利益です。この提携はお互いの利益を最大限にすることが第一の目的であり、私にはそれが出来る。美味しいウイスキーとやらを世間に届ける目的は二の次です。それに、私は見ての通り未成年なので、提携後のウイスキーが完成しても飲む機会はとうぶん先です。成果物にありつけない以上、利益重視で動かざるを得ないことを、どうかご理解いただければ」
 スノウは嘲笑するような表情で、そんなこともわからないのかという口調で一気に捲し立てた。そして指を鳴らし、背後に控えていたロシア人の秘書からアタッシュケースを受け取ると、三神の足元に放り投げた。
「あなたが欲しがっている『今までに無い新しい香りや味のウイスキー』とやらのレシピとサンプルです。とりあえず二十種類ほど作ってみました。足りなければ追加で送ります。では、今日はこれ以上話すことはありませんので……」

 スノウが秘書を従えて去った後、三神はしばらくブルブルと身体を震わせ、演台を蹴飛ばした。派手な音を立ててマイクや水差しが床に散乱する。
「なめやがって……あのクソガキが!」
 三神が倒れている演台をさらに蹴った。派手な音が会場内に繰り返し響き渡る。司会の男は狼狽しながら、なす術なく遠くから見守るしかなかった。
「おい、豚!」
 三神が怒鳴ると、袖から肥満体の男が現れた。スキンヘッドに無精髭を生やし、着ているスーツはシワだらけで今にもはち切れそうだ。そもそもサイズが合っていない。ジャケットは肩幅が長過ぎて「ひさし」のように迫り出しているのに、袖が短過ぎて白いシャツのカフスが全て見えている。
「お呼びでしょうか?」と、豚と呼ばれた男が呑気な口調で言った。風体に似合わず、よく通った聞き心地のいい声だ。
「あのクソガキのことを調べろ!」
「クソガキですか?」
「スノウ・ラスプーチナだ!」と言いながら、三神はもう一発演壇を蹴った。「お前も見ていただろうが! さっきここで俺をコケにして、恥をかかせたメスガキだ!」
「なんだスノウちゃんのことですか。クソガキだなんて言うから、そんな子いたかなと考えてしまいましたよ。もちろん見ていましたよ。なんたって私の好みど真ん中の女の子ですから。女性記者はみんな二十歳以上のババァばかりで、目が腐るかと思っていたところです。それにしても、本物は写真よりも何倍も可愛くて──」
「黙れロリコンが! さっさとあのガキを調べろ!」と叫びながら、三神が演題を蹴飛ばした。
「そんなこと言われなくても、とっくに調べていますよ。スノウちゃんは子供の頃──と言っても今でも子供ですが、スイスのボーディングスクールに短期留学した後に大学を飛び級で卒業しています。かなり優秀で、大学では化学と経営学を同時に学んでいたそうです。そして卒業と同時にアスクレピオスに入社しています」
「そんなことは知っている! いくらでもネットに書いてあるだろう。何か弱みを握れ!」
「いえ、大切なのは、なぜそこまで急いでアスクレピオスに入ったのかということです」と、豚は言った。「アスクレピオスは確かに世界的な企業ですが、スノウちゃんがそこまで優秀なら、家業を手伝う前に色々と出来たはずです。たとえば他の大手企業やシンクタンクで実績や経験を積む機会はたくさんあったでしょうし、むしろその方がアスクレピオスに戻ってからより大きな貢献が出来たはです。事実、大学在学中からスノウちゃんは様々な分野から引く手数多だったらしいですが、全て断って一分一秒を争うように実家に戻っている。おかしいと思いませんか? そこまで優秀な子が、なぜそのようなもったいない選択をしたのか。帰らなければならない理由があったということです。それも急いで……。その理由が何なのかまではもちろんネットには書いていませんが、もしかしたら弱みになるのかもしれません」
 三神は苦虫を噛み潰したような顔で唸りながら顎に手を当てた。豚は容姿は酷いものだが、仕事は出来る男だ。やがて三神は豚の顔を指差しながら言った。
「あのクソガキのことはそのまま調べておけ。あと、『レイズ・バー』は今日は機材トラブルで閉店にしろ。俺の借り切りにする。壊してもいい適当な女をレイズ・バーに呼んでおけ」
 豚は相変わらず呑気な口調でわかりましたと言い、小走りに会見場を出て行った。

 スノウがチュッパチャップスを咥えながらビルの階段を降りると、待ち構えていたカメラマンとインタビュアーに囲まれた。
 会見の時しか撮影を許可していないはずだ。日本で雇ったボディガードが記者達を押し除け、なんとかスノウと秘書が通れるスペースを作る。スノウはカメラを睨みつけ、口に入れたばかりのチュッパチャップスをガリッと噛み砕いた。
 日本の印象は?
 なぜゴスロリ服を着ているんですか?
 服はどこのブランドですか?
 スノウ本人に関する質問が騒音に紛れて聞こえてきた。
 囲みの外でガードマンがカメラマンの一人を強く押したらしく、機材が壊れる音と怒号が響いた。
 スノウは難儀しながら階段下に待たせてあった車に乗り込んだ。外見は黒いロールス・ロイスに似ているが、ひと回り大きい。スノウがロシアから持ち込んだアウルスというブランドの車で、純ロシア製の高級車だ。車を撮影しているカメラマンも複数いる。
 運転手が後部座席を閉めると、車内はほぼ無音になった。サイドガラス越しに車内は見えない。フロントに回り込んだカメラマンを押し除けるように、車は静かに走り出した。
「はぁ……うっざ。ハリウッドスターの出待ちじゃあるまいし」
 スノウはセンターテーブル下の収納からチュッパチャプスの箱を取り出し、ストロベリークリーム味を探し出して口に放り込んだ。後部座席に身体を投げ出すように座ると、最高級のレザーとクッションがスノウの小さな身体を優しく抱きとめた。
「いかがでしたか。三神冷而は」
 助手席に座っている秘書が、スノウにロシア語で聞いた。スノウはうーんと言いながら斜め上を見るようにして口の中でチュッパチャプスをコロコロと転がし、しばらく考えた後に答えた。
「自信は無いのに虚栄心だけはある人間の典型って感じ。見た目や話し方で繕ってはいるけれど、少し挑発したらすぐ逆上したし。会見の冒頭であいつが喋っていた妙なウイスキーの作り方も、どこまで本当かわからないわね。レイズモルトも、おそらく大したものではないでしょう。あいつと同じように」
 スノウは秘書に、金額はいくらかかってもいいからレイズモルトを二本手配するように依頼した。都内のバーを探せば未開封のものがあるだろう。秘書がホテルのコンシェルジュに電話をかけている間、スノウは静かに目を閉じた。車の微かな揺れの中、その頭脳は素早く回転していた。


※こちらの文章はラフ書きになります。製本時には大きく内容が変わる可能性があります。

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