※過去作を読んでいなくても楽しめます。
※ラフの状態ですので、製本時には内容が変わっている可能性があります。
1話から順に読む
「じ、じゃあ……次のお悩み相談で最後にします。今日も来てくれて、ど、どうもありがとう」
夜ノ森メルル(よのもり めるる)がたどたどしくお礼を言うと、画面の左端を流れるコメントの速度がさらに加速した。
──こちらこそありがとう!
──メルルちゃんの声は本当に可愛くて癒されるよ。明日も仕事頑張れそう。
──始めて来たけどギャップがめちゃくちゃ可愛い! チャンネル登録しました!
メルルは自分の姿をアニメキャラクターに変換して動画配信サイトで配信する、いわゆるブイチューバーだ。
見た目は一言で言えば「地雷系チアリーダー」
ピンクのインナーカラーが入った黒髪に、目の下には赤黒い隈のようなメイク。白を差し色としたピンクのプリーツスカートにショートジャケット。両手にはピンク色のポンポンを持ち、左手首には包帯が巻かれているという、なんともチグハグな見た目のキャラクターだった。
本人の表情も固く、視線はずっと泳いでいて、瞳にも光が無い。
だがその突飛なキャラクターに反して配信の雰囲気は温かく、ゆっくりでいいよ、頑張れ、などと応援するようなコメントで溢れていた。
「メ、メルルさんはじめまして。『ねころん』と言います。ち、中学三年生の女子です。私は人に嫌われることがとても怖く、い、いつも相手に合わせた行動や返答をしてしまいます。そ、そのおかげで学校では、いわゆる人気者のグループに所属できているのですが、グループの子とは本音で会話したことが一度もありません。や、やりたくないことでも……たとえば休日に派手な場所に遊びに行ったり、遅くまで学校に残っておしゃべりをしたりすることは本当は嫌なんですけど、一度も断ったことがありません。正直、精神的にかなり無理をしているのですが、ひ、ひとりぼっちになる方がもっと怖いので、これからも無理してでも相手に合わせて、今の状態を続けた方がいいのでしょうか……? 『ねころん』さんからのご相談でした。あ、ありがとうございました」
メルルはメールの内容を読み終わると、お礼を言うように遠慮がちにポンポンを振った。
「ね、『ねころん』さんの不安はとても自然なことです。私たちは全員、数の大小や関係性の強弱はあっても、共同体……つまり他の誰かと繋がった社会の中で生活しています。『ねころん』さんの場合で言うと、家族やクラスメイト、学校の先生、近所の人、塾に通っていればそこの人間関係が、小さな共同体にあたります。き、共同体は人が生きていく上で不可欠なので、共同体から嫌われたり、追放されたりすることは、お、多くの人にとって、とても強いストレスになります。で、でも、同時に全員に好かれるということも不可能です。『ねころん』さんがいくら話を合わせる努力をしても、合わない人は必ずいます。ぎ、逆に相手からいくら好意を寄せられても、『ねころん』さんが好きになれない相手も必ずいます。そ、それを踏まえて今の『ねころん』さんの状態なのですが、まず共同体には選べる共同 体と選べない共同体があって……」
メルルは心理学や一般論を交え、真摯にアドバイスをした。話し方こそたどたどしいが、メルルの声質は柔らかく語り口もゆっくりなので聞こえやすい。そして難しい用語などは都度分かりやすい言葉に言い換え、例えを用いて解説した。
最後に同意するコメントや反論のコメントも適度に拾いながら回答を終えると、エンディングのBGMに切り替えた。
「あ、あの……最近寒くなってきたから、みんなも体調に気をつけてね……。それじゃあ……おつメルル……」
遠慮がちにポンポンを振り続けるメルルの前に黒いカーテンが引かれ、白いウサギが跳ねるアニメーションに変わった。メルルの姿が見えなくなっても、好意的なコメントがしばらく流れ続けた。
一ノ瀬葵(いちのせ あおい)は配信ツールが切れたことを確認すると、両手で丁寧にヘッドセットを外した。
耳当ての部分がぐっしょりと汗で濡れていて、喉もカラカラに乾いている。
葵はすっかり冷えてしまったコーヒーを一息で飲むと、力尽きたように机に突っ伏した。まるでフルマラソンを完走した直後のような疲労感だ。葵は頬を机につけたまま器用にアルコールティッシュで耳当てを拭くと、顔を上げて動画配信サイトのダッシュボードを見た。
ホスト名 :夜ノ森メルル
チャンネル登録者数:四万三千人
収益化 :可能(銀行口座が登録されていません)
「……ま、また増えてる」
葵はポツリと呟くと、電池が切れたように再びデスクに突っ伏した。
頬に当たるデスクの冷たさが心地良く、ものの数秒で瞼が閉じる。だが眠りの沼に落ちる寸前、インターホンが葵の意識を掴んだ。
鉛のように重い身体を引き摺ってモニターを見ると、マンションのエントランスに料理宅配サービスのパックパックを背負った男が立っていた。そういえば配信前に夕食を注文していたことを忘れていた。
葵はオートロックを解除し、洗面台で軽く身支度を整えると、玄関の呼び鈴が押されるのを待ってドアを開けた。色黒の肌に、ベースボールキャップから長い茶髪を垂らした配達員が白い歯を見せた。
「お待たせしました、一ノ瀬様。『マルヴァローザ』のボロネーゼとチキンサラダで間違いないですか?」
葵は固まったように動かず、配達員の目を睨むように見つめた。
「あの、一ノ瀬葵さんですよね?」
葵は返事をせず、配達員を凝視しながら、こくりと頷いた。
「お代はキャッシュレスでいただいていますので、このままのお渡しになります」
商品を受け取っても無言で配達員を凝視する葵に、配達員の顔から徐々に笑顔が消える。
「あの……なにか俺、失礼しちゃいましたかね?」
配達員がやや苛立った声で聞いた。葵が無言で首を振ると、配達員はなにも言わず乱暴にドアを閉めた。葵は配達員が遠ざかるのを待ってから音を立てないように鍵を閉め、丁寧にパソコンの前に料理を置くと、両手で顔を覆ってベットに仰向けに倒れ込んだ。
またやってしまった……。
せっかく届けてくれたのに、なぜ自分は「ありがとうございました」の一言すら言えないのだろう。
メルルの配信では偉そうにアドバイスしておきながら、本来の自分はコミュニケーションどころか、配達員にお礼すら言えない極度の対人恐怖症だ。家族と、ごく数人の親しい友人を除いては、笑うどころか何かを言おうとしても言葉が出てこない。挙げ句の果てに相手の目をじっと見る癖があり、いつも怖がられる。たとえ人生で二度と会わないかもしれない配達員が相手でもだ。
原因はわからない。
生まれつきと言えばそれまでだが、人間関係において過去に決定的な出来事やトラウマがあったわけでもなく、かといって自分に自信が無さすぎて萎縮しているわけでもない。事実、葵は側から見ても別段コンプレックスに感じなければならない所は無い。同年代に比べて背が低く、発育に乏しいところはあるが、顔はむしろ整っている方だ。性格も根暗や卑屈というわけではなく、むしろ人見知りな性格を埋め合わせるように、積極的に一人でできる趣味やスポーツに取り組んでいる。
ブイチューバーとしての活動もそのひとつだ。
今までコミュニケーション講座や話し方講座に数多く応募したのだが、講師とは対面はもちろん画面越しですらまともに喋ることができなかった。前述のじっと目を見る癖で、怒り出す講師もいた。
そのように思い悩んでいた最中、ブイチューバーという存在を知った。お互いの顔が見えなければ、少しはまともに人と会話できるかもしれないと思った。
葵は思い立つと行動が早い。すぐに配信ツールと機材を購入し、アバターは出来合いで売られていた「夜ノ森メルル」をチアガールが好きだからという理由で購入した。
配信当初は多くても十人前後が見てくれる程度で、葵もぎこちないながらも対面よりはリラックスして話せることが楽しかった。自分も対人恐怖症なのだ、というリスナーの悩みに応えているうちに徐々に登録者数が増えていったが、このままのんびりと続けていければと思っていた。
しかし数ヶ月経ったある時、ネットニュースに「地雷系チアガールのカウンセラー?」という見出しで紹介され、一気に広まってしまったのだ。
再びチャイムが鳴ったので、葵は反射的にベッドから身体を起こした。
もう荷物もデリバリーも頼んでいないはずだ。訝しがりながらドアスコープを覗くと、先ほどの配達員が立っていて、「すみません。店からもらったサービスの品を渡し忘れまして」と言いながらバックパックを掲げた。サービスの品など渡さなくてもわからないのに、わざわざ戻ってきてくれたようだ。
ドアを開けると、葵は大きく息を吸い込んだ。
「……あ、あ」
声が震える。
がんばれ! 今度こそちゃんとお礼を言うんだ!
葵は自分を鼓舞しながら、両手をぎゅっと握りしめた。
「あ、あり……が……」
「これ、サービスの品です」と言いながら、配達員がバックパックから手を引き抜いた。
そして葵の胸を力任せに突き飛ばした。
葵は完全に不意を突かれ、勢いよく廊下に倒れ込んだ。咄嗟に受け身をとり頭こそ打たなかったものの、目の前に星が飛ぶ。配達員が素早くドアの中に入り、鍵を閉めるのが視界の隅に映った。
「……いきなりガンつけられてムカついたけどさ、お前よく見ると結構可愛い顔してんじゃん?」
配達員は土足のまま廊下に上がると、葵の腹に杭を打つように拳を突き込んだ。
「ゔぐッ?!」
「一人暮らしだろ? こんな広いマンション住んで、良いとこのお嬢ちゃんか?」
配達員は続けざまに葵の腹を殴った。軽い脳震盪を起こしていたため防御することができず、先ほど飲んだコーヒーの味が喉までせり上がってきた。配達員は葵の両手首を掴んで強引に身体を開かせると、葵の身体に覆い被さった。
「終わってから通報しても無駄だぜ。バイト先に伝えてある住所も名前もデタラメだからな。ベッド行くか? 俺はここでもいいけどな」
配達員の興奮した息が葵の顔にかかる。葵も肩で息をしながら、配達員の目をじっと見つめた。配達員は気がついていないが、葵は呼吸のタイミングを配達員に合わせている。
「だからガンつけてんじゃねぇよ。ムカつく女だな。ま、突っ込んでやれば大人しくなるだろうがよ」
「……じ」
「あ?」
「じ……人……妖……?」
葵は配達員の目をじっと見つめたまま聞いた。
配達員は言葉の意味が理解できない様子だったが、ようやく思い当たったように目を開いた。
「ジンヨウ……? ああ、あの都市伝説のことか。人間と同じ姿で、セックスで人間から養分を吸い取って廃人にするバケモンだろ? お前そんなもん信じてんのかよ」
配達員が徐々に顔を近づける。
葵は唇が触れ合う直前、配達員が息を吐いたタイミングで素早くベルトを掴み、思い切りブリッジした。配達員は葵の身体を飛び越えて顔面から床に落下する。葵は素早く身体を起こして悶絶している配達員の背後にまわり込み、襟を掴んで頸動脈を絞め上げた。
配達員は短い悲鳴を上げ、十秒も経たないうちに意識を手放した。
葵は呼吸が整うと、配達員の手足をガムテープで拘束した。その間も配達員は起きる気配がない。
弱すぎる。
今まで戦ってきた人妖は身体能力の差こそあれ、ここまで弱い個体はいなかった。能力を底上げするバトルスーツも身につけずに、こんなに簡単に倒せるはずがない。
葵は複雑な気分で所属する人妖討伐組織「アンチレジスト」から支給されたカード型の端末を配達員の首に押し当てた。
青いランプが点灯する。
やはり人妖ではなく、ただの人間だ。
「……困ったな」と、葵は溜息まじりに呟いた。
人妖なら倒せば終わりだ。
あとはアンチレジストの回収班に連絡して処理をお願いすればいい。
だが暴漢となると警察に連絡して事情を説明する必要がある。警察に対して自分がまともに経緯を説明できるとは思えない。しどろもどろになり、むしろ怪しまれて警察署に連行される未来が見える。違う。私はなにもやってない。首は絞めたが。
筆談? 過去にもう試した。相手が目の前にいると手が震えて読める字が書けない。
アンチレジストに助けを求める? いや、個人のトラブルに組織を使うわけにはいかない。
葵が頭を抱えて悶々としていると、配達員がモゾモゾと起き出したのでまた首を絞めた。
やはり瑠奈(るな)にお願いするしかないか……。
葵は強烈な自己嫌悪に陥りながら、スマホを手に取った。
※ラフの状態ですので、製本時には内容が変わっている可能性があります。
1話から順に読む
「じ、じゃあ……次のお悩み相談で最後にします。今日も来てくれて、ど、どうもありがとう」
夜ノ森メルル(よのもり めるる)がたどたどしくお礼を言うと、画面の左端を流れるコメントの速度がさらに加速した。
──こちらこそありがとう!
──メルルちゃんの声は本当に可愛くて癒されるよ。明日も仕事頑張れそう。
──始めて来たけどギャップがめちゃくちゃ可愛い! チャンネル登録しました!
メルルは自分の姿をアニメキャラクターに変換して動画配信サイトで配信する、いわゆるブイチューバーだ。
見た目は一言で言えば「地雷系チアリーダー」
ピンクのインナーカラーが入った黒髪に、目の下には赤黒い隈のようなメイク。白を差し色としたピンクのプリーツスカートにショートジャケット。両手にはピンク色のポンポンを持ち、左手首には包帯が巻かれているという、なんともチグハグな見た目のキャラクターだった。
本人の表情も固く、視線はずっと泳いでいて、瞳にも光が無い。
だがその突飛なキャラクターに反して配信の雰囲気は温かく、ゆっくりでいいよ、頑張れ、などと応援するようなコメントで溢れていた。
「メ、メルルさんはじめまして。『ねころん』と言います。ち、中学三年生の女子です。私は人に嫌われることがとても怖く、い、いつも相手に合わせた行動や返答をしてしまいます。そ、そのおかげで学校では、いわゆる人気者のグループに所属できているのですが、グループの子とは本音で会話したことが一度もありません。や、やりたくないことでも……たとえば休日に派手な場所に遊びに行ったり、遅くまで学校に残っておしゃべりをしたりすることは本当は嫌なんですけど、一度も断ったことがありません。正直、精神的にかなり無理をしているのですが、ひ、ひとりぼっちになる方がもっと怖いので、これからも無理してでも相手に合わせて、今の状態を続けた方がいいのでしょうか……? 『ねころん』さんからのご相談でした。あ、ありがとうございました」
メルルはメールの内容を読み終わると、お礼を言うように遠慮がちにポンポンを振った。
「ね、『ねころん』さんの不安はとても自然なことです。私たちは全員、数の大小や関係性の強弱はあっても、共同体……つまり他の誰かと繋がった社会の中で生活しています。『ねころん』さんの場合で言うと、家族やクラスメイト、学校の先生、近所の人、塾に通っていればそこの人間関係が、小さな共同体にあたります。き、共同体は人が生きていく上で不可欠なので、共同体から嫌われたり、追放されたりすることは、お、多くの人にとって、とても強いストレスになります。で、でも、同時に全員に好かれるということも不可能です。『ねころん』さんがいくら話を合わせる努力をしても、合わない人は必ずいます。ぎ、逆に相手からいくら好意を寄せられても、『ねころん』さんが好きになれない相手も必ずいます。そ、それを踏まえて今の『ねころん』さんの状態なのですが、まず共同体には選べる共同 体と選べない共同体があって……」
メルルは心理学や一般論を交え、真摯にアドバイスをした。話し方こそたどたどしいが、メルルの声質は柔らかく語り口もゆっくりなので聞こえやすい。そして難しい用語などは都度分かりやすい言葉に言い換え、例えを用いて解説した。
最後に同意するコメントや反論のコメントも適度に拾いながら回答を終えると、エンディングのBGMに切り替えた。
「あ、あの……最近寒くなってきたから、みんなも体調に気をつけてね……。それじゃあ……おつメルル……」
遠慮がちにポンポンを振り続けるメルルの前に黒いカーテンが引かれ、白いウサギが跳ねるアニメーションに変わった。メルルの姿が見えなくなっても、好意的なコメントがしばらく流れ続けた。
一ノ瀬葵(いちのせ あおい)は配信ツールが切れたことを確認すると、両手で丁寧にヘッドセットを外した。
耳当ての部分がぐっしょりと汗で濡れていて、喉もカラカラに乾いている。
葵はすっかり冷えてしまったコーヒーを一息で飲むと、力尽きたように机に突っ伏した。まるでフルマラソンを完走した直後のような疲労感だ。葵は頬を机につけたまま器用にアルコールティッシュで耳当てを拭くと、顔を上げて動画配信サイトのダッシュボードを見た。
ホスト名 :夜ノ森メルル
チャンネル登録者数:四万三千人
収益化 :可能(銀行口座が登録されていません)
「……ま、また増えてる」
葵はポツリと呟くと、電池が切れたように再びデスクに突っ伏した。
頬に当たるデスクの冷たさが心地良く、ものの数秒で瞼が閉じる。だが眠りの沼に落ちる寸前、インターホンが葵の意識を掴んだ。
鉛のように重い身体を引き摺ってモニターを見ると、マンションのエントランスに料理宅配サービスのパックパックを背負った男が立っていた。そういえば配信前に夕食を注文していたことを忘れていた。
葵はオートロックを解除し、洗面台で軽く身支度を整えると、玄関の呼び鈴が押されるのを待ってドアを開けた。色黒の肌に、ベースボールキャップから長い茶髪を垂らした配達員が白い歯を見せた。
「お待たせしました、一ノ瀬様。『マルヴァローザ』のボロネーゼとチキンサラダで間違いないですか?」
葵は固まったように動かず、配達員の目を睨むように見つめた。
「あの、一ノ瀬葵さんですよね?」
葵は返事をせず、配達員を凝視しながら、こくりと頷いた。
「お代はキャッシュレスでいただいていますので、このままのお渡しになります」
商品を受け取っても無言で配達員を凝視する葵に、配達員の顔から徐々に笑顔が消える。
「あの……なにか俺、失礼しちゃいましたかね?」
配達員がやや苛立った声で聞いた。葵が無言で首を振ると、配達員はなにも言わず乱暴にドアを閉めた。葵は配達員が遠ざかるのを待ってから音を立てないように鍵を閉め、丁寧にパソコンの前に料理を置くと、両手で顔を覆ってベットに仰向けに倒れ込んだ。
またやってしまった……。
せっかく届けてくれたのに、なぜ自分は「ありがとうございました」の一言すら言えないのだろう。
メルルの配信では偉そうにアドバイスしておきながら、本来の自分はコミュニケーションどころか、配達員にお礼すら言えない極度の対人恐怖症だ。家族と、ごく数人の親しい友人を除いては、笑うどころか何かを言おうとしても言葉が出てこない。挙げ句の果てに相手の目をじっと見る癖があり、いつも怖がられる。たとえ人生で二度と会わないかもしれない配達員が相手でもだ。
原因はわからない。
生まれつきと言えばそれまでだが、人間関係において過去に決定的な出来事やトラウマがあったわけでもなく、かといって自分に自信が無さすぎて萎縮しているわけでもない。事実、葵は側から見ても別段コンプレックスに感じなければならない所は無い。同年代に比べて背が低く、発育に乏しいところはあるが、顔はむしろ整っている方だ。性格も根暗や卑屈というわけではなく、むしろ人見知りな性格を埋め合わせるように、積極的に一人でできる趣味やスポーツに取り組んでいる。
ブイチューバーとしての活動もそのひとつだ。
今までコミュニケーション講座や話し方講座に数多く応募したのだが、講師とは対面はもちろん画面越しですらまともに喋ることができなかった。前述のじっと目を見る癖で、怒り出す講師もいた。
そのように思い悩んでいた最中、ブイチューバーという存在を知った。お互いの顔が見えなければ、少しはまともに人と会話できるかもしれないと思った。
葵は思い立つと行動が早い。すぐに配信ツールと機材を購入し、アバターは出来合いで売られていた「夜ノ森メルル」をチアガールが好きだからという理由で購入した。
配信当初は多くても十人前後が見てくれる程度で、葵もぎこちないながらも対面よりはリラックスして話せることが楽しかった。自分も対人恐怖症なのだ、というリスナーの悩みに応えているうちに徐々に登録者数が増えていったが、このままのんびりと続けていければと思っていた。
しかし数ヶ月経ったある時、ネットニュースに「地雷系チアガールのカウンセラー?」という見出しで紹介され、一気に広まってしまったのだ。
再びチャイムが鳴ったので、葵は反射的にベッドから身体を起こした。
もう荷物もデリバリーも頼んでいないはずだ。訝しがりながらドアスコープを覗くと、先ほどの配達員が立っていて、「すみません。店からもらったサービスの品を渡し忘れまして」と言いながらバックパックを掲げた。サービスの品など渡さなくてもわからないのに、わざわざ戻ってきてくれたようだ。
ドアを開けると、葵は大きく息を吸い込んだ。
「……あ、あ」
声が震える。
がんばれ! 今度こそちゃんとお礼を言うんだ!
葵は自分を鼓舞しながら、両手をぎゅっと握りしめた。
「あ、あり……が……」
「これ、サービスの品です」と言いながら、配達員がバックパックから手を引き抜いた。
そして葵の胸を力任せに突き飛ばした。
葵は完全に不意を突かれ、勢いよく廊下に倒れ込んだ。咄嗟に受け身をとり頭こそ打たなかったものの、目の前に星が飛ぶ。配達員が素早くドアの中に入り、鍵を閉めるのが視界の隅に映った。
「……いきなりガンつけられてムカついたけどさ、お前よく見ると結構可愛い顔してんじゃん?」
配達員は土足のまま廊下に上がると、葵の腹に杭を打つように拳を突き込んだ。
「ゔぐッ?!」
「一人暮らしだろ? こんな広いマンション住んで、良いとこのお嬢ちゃんか?」
配達員は続けざまに葵の腹を殴った。軽い脳震盪を起こしていたため防御することができず、先ほど飲んだコーヒーの味が喉までせり上がってきた。配達員は葵の両手首を掴んで強引に身体を開かせると、葵の身体に覆い被さった。
「終わってから通報しても無駄だぜ。バイト先に伝えてある住所も名前もデタラメだからな。ベッド行くか? 俺はここでもいいけどな」
配達員の興奮した息が葵の顔にかかる。葵も肩で息をしながら、配達員の目をじっと見つめた。配達員は気がついていないが、葵は呼吸のタイミングを配達員に合わせている。
「だからガンつけてんじゃねぇよ。ムカつく女だな。ま、突っ込んでやれば大人しくなるだろうがよ」
「……じ」
「あ?」
「じ……人……妖……?」
葵は配達員の目をじっと見つめたまま聞いた。
配達員は言葉の意味が理解できない様子だったが、ようやく思い当たったように目を開いた。
「ジンヨウ……? ああ、あの都市伝説のことか。人間と同じ姿で、セックスで人間から養分を吸い取って廃人にするバケモンだろ? お前そんなもん信じてんのかよ」
配達員が徐々に顔を近づける。
葵は唇が触れ合う直前、配達員が息を吐いたタイミングで素早くベルトを掴み、思い切りブリッジした。配達員は葵の身体を飛び越えて顔面から床に落下する。葵は素早く身体を起こして悶絶している配達員の背後にまわり込み、襟を掴んで頸動脈を絞め上げた。
配達員は短い悲鳴を上げ、十秒も経たないうちに意識を手放した。
葵は呼吸が整うと、配達員の手足をガムテープで拘束した。その間も配達員は起きる気配がない。
弱すぎる。
今まで戦ってきた人妖は身体能力の差こそあれ、ここまで弱い個体はいなかった。能力を底上げするバトルスーツも身につけずに、こんなに簡単に倒せるはずがない。
葵は複雑な気分で所属する人妖討伐組織「アンチレジスト」から支給されたカード型の端末を配達員の首に押し当てた。
青いランプが点灯する。
やはり人妖ではなく、ただの人間だ。
「……困ったな」と、葵は溜息まじりに呟いた。
人妖なら倒せば終わりだ。
あとはアンチレジストの回収班に連絡して処理をお願いすればいい。
だが暴漢となると警察に連絡して事情を説明する必要がある。警察に対して自分がまともに経緯を説明できるとは思えない。しどろもどろになり、むしろ怪しまれて警察署に連行される未来が見える。違う。私はなにもやってない。首は絞めたが。
筆談? 過去にもう試した。相手が目の前にいると手が震えて読める字が書けない。
アンチレジストに助けを求める? いや、個人のトラブルに組織を使うわけにはいかない。
葵が頭を抱えて悶々としていると、配達員がモゾモゾと起き出したのでまた首を絞めた。
やはり瑠奈(るな)にお願いするしかないか……。
葵は強烈な自己嫌悪に陥りながら、スマホを手に取った。